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集音路渉 花守り日誌【毎金更新中】  作者: つきや
第三章 沈黙のクスノキ

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第一話 沈黙する山

新章スタート!

渉たちに近づく影……味方なのか敵なのか?

 夏の終わりの登山道の土は乾いていた。


 長く踏みならされた山の小道には、朝露がわずかに滲んでいた形跡だけを残し、陽射しに吸われて消えていた。足元では、枯れ葉の欠片がさらりと転がり、乾いた土埃が細く舞い上がる。


 それにしても、静かすぎる。


 鳥のさえずりも、虫の羽音も聞こえない。

 初秋の風が(こずえ)をくすぐっているはずなのに、葉擦れの音さえどこからも届かない。


 集音路渉(しゅうおんじわたる)は足を止め、調査用ジャケットの襟を指で押さえ、じっとりと滲む汗をぬぐう。


 いまは九月半ば。


 標高のあるこの山では、昼間でも空気が少しひんやりと感じられるのが常だ。

 だが今、渉の周囲には風の気配すらない。


 耳に届くのは、自分の吐息と、靴の底が土を踏む音だけ。


 いつもなら、植物たちのささやきが聞こえてくるはずなのに。


 ……みんな、黙ってるのか?


 その事実に気づいたとたん、首筋にひやりとした感覚が走った。

 山全体が、何かを怖れているような――いや、何かを「隠している」ような、沈黙に思えたからだ。


「……まるで、呼吸してないみたいだ……」


 ぽつりとこぼした独り言が、周囲の空気に溶けていく。

 返事は――ない。


 居心地の悪さを抑え込みながら歩を進めた。聞こえてくるのは、ふたたび自分の足音だけ。

 

 ふと目を凝らして前を見た。

 山道の先、木々の隙間から覗くようにして、神社の鳥居が見えている。


 そこが、今回の調査の目的地――御神木がある神社。


 空は高く、薄く澄んでいる。けれど、胸のどこかがずっと軋んでいる。

 それに草や土の匂いが重く感じられる。

 まるで言葉にできない奇妙な不協和音が山からじわじわと滲み出してくるようだった。


 石段を登り、鳥居をくぐった瞬間、空気が変わった。


 それは風が吹いたからでも、気温が下がったからでもない。

 皮膚の裏側、神経の奥のほうをぞわりと撫でるような――本能に訴えかける種類の違和感。


 ……誰かいる?


 拝殿の前に張られたしめ縄。その奥の(やしろ)の陰に、微かに揺れる光が立ちのぼっていた。

 それは水面に反射する陽光のような、幻のような光。

 輪郭の曖昧な人影のようでもあり、まるで木漏れ日の中に浮かぶ幻の像だった。


 ……参拝者? 違う?

 

 その気配は、明らかにこちら――渉を見ていた。

 けれど姿ははっきりせず、見る者の視線を避けるように、ふっと揺らいだ。


「……誰?」


 渉が問いかけたその瞬間、境内に風が吹いた。

 その風に紛れるように、誰かの声が耳元にささやいた。


『……みえない……ばしょ……』


 しっとりと湿ったような重苦しい声。

 水の(あぶく)のように響いてくその声は、言葉を残して風に紛れ、消えていった。


「誰だ! 待ってくれ……!」


 渉が(やしろ)の前に踏み出す。だが、そこに人影はもうなかった。

 音も、光も、すべてが跡形もなく消えている。

 それでも境内の植物たちは、みな沈黙し、静けさだけが、空間にぴたりと張りついていた。


 今のは……誰だったんだ?


 しかし尋ねるべき相手は、ここにはいない。

 渉の思考の底から、ひとりの名前が浮かび上がる――颯汰(そうた)

 

 大学の研究室で交わした言葉――今、もし彼が傍にいてくれたなら、今の存在、何かわかったかもしれない。


 ――そもそも、どうして一人で、颯汰を伴わずにこの地へ来ることになったのか。

 

 苔むした石畳を見下ろしながら、渉は自問するように目を細めた。

 山肌を撫でる風が一瞬止み、代わりに記憶の中のざわめきが、胸元で蘇る。


 *


 遡ること二日前、大学の研究室。


 蛍光灯の白い光が、午後の静けさを余計に際立たせていた。

 雑然とした机の上に、一枚の封筒が置かれている。


 茶封筒の上には「植物庁/調査課」の赤いスタンプ。差出人の名前はないが、渉には心当たりがあった。

 封を切り、中から取り出したのは、簡潔な依頼文と数枚の調査資料。

 

植物庁 現地調査依頼書(写)

件名:霧楠(きりくす)神社御神木クスノキの樹勢異常に関する現地調査のお願い

一 対象木:クスノキ(楠)

二 推定樹齢:千二百年以上

三 所在地:北関東・山間温泉地「霧楠谷きりくすだに」周辺、霧楠神社

四 現状:進行性の葉枯れ及び根腐れの兆候あり

五 事前調査結果:土壌分析・水脈調査において顕著な異常は確認できず

六 依頼内容:上記御神木の樹勢悪化原因の現地調査及び報告

備考:本件は地元役場より植物庁に報告の上、貴研究室に協力要請。原因不明の事象であるため、現地での詳細確認を希望する。

 

 読み終えた渉は、小さくため息をついた。

 

 御神木絡みの調査案件は、決して珍しいものではない。ただの老木や気候の変化が原因のことも多い。

 けれど、今回の内容は違っていた。

 

 葉枯れの進行が異様に早く、根腐れの兆しまで併発している。

 事前の土壌分析や水脈調査では、顕著な異常は確認されていない。なのに、この木は確実に衰えている。

 まるで、目には見えない何かが静かに命を蝕んでいるかのようだった。

 

 しかも対象はクスノキ。本来は病害に強く、長寿を誇る常緑樹。千二百年の時を越えてなお衰え知らずだった御神木が、いま急速に命を削られている。

 

 資料の中から、木の根元を写した一枚の写真を引き抜く。

 黒ずんだ根、艶を失った葉。もしこれが本当に御神木のものだとすれば、軽視できる話ではなかった。


 ただ渉には密かな自信があった。クスノキの声さえ聞ければ、原因が分かるだろうと、「……直接、確かめるしかないな」ぽつりとつぶやいたその瞬間、背後から勢いよく声が飛んできた。


「先輩! また調査案件っすか? 俺も行きます! 荷物持ちくらいならできますよ!」


 渉の背後からひょっこり顔を出したのは、大学三年の後輩、桃木颯汰。

 ノートPCを抱えたまま机に近づき、渉の手元の書類を覗き込む。


「……お前、今期、単位どうだった?」


 渉が穏やかに尋ねると、颯汰の表情が一瞬で固まった。


「あ……えっと……それが……」


 肩が落ち、口をパクパクさせる。まるで魚のようだ。


「……まさかとは思うけど、足りてないのか?」


「マジですみません……あのゼミの実習レポート、2回分出し忘れてて……再提出期間も逃して……」


 椅子にずるずると座り込む様子に、渉は苦笑した。


「それで荷物持ちねぇ……お前、再履修で時間割みっちりじゃないのか?」


「……先輩と行きたかったっすよ、本当は……せっかく御神木案件なのに」


 悔しさを隠すように笑う颯汰の声が、どこか寂しげだった。

 渉はふと、机の隅に視線を移す。


 そこには、深い緑の葉を広げる鉢植え――フウの姿があった。

 フウは数ヶ月前の空き地調査で、古井戸から見つかった古種。精霊界の記憶樹種。

 その葉がふるりと震える。


『渉、本当に一人で行くつもり?』


 風もない室内で、小さくそよぐ葉。

 それは渉にしか聞こえない声――いや、正確には、彼らにしか聞こえない声だ。


「もしかして、フウも行きたいのか?」


 渉の問いかけに、鉢の葉がさらに震えた。

 傍らの颯汰が、ややげんなりした顔でぼやく。


「うわ、また頭の中で聞こえた! ……フウ、ほんと煩い。いや、まあ……俺もたまに似たようなこと言われるけどさ……」


『ちょっと、それ褒めてるの? けなしてるの?』


「どっちでもない」


 渉が吹き出すと、フウはあえて不満げに葉を揺らして見せた。


『あたしはちゃんと役に立つのに。移動中に折れたって、すぐ治るし』


「お前、自分で観葉植物って自覚あんのか?」


 すかさず颯汰が皮肉たっぷりに言う。


『あたしは記憶樹種よ。静かなクスノキの怒りだって、ちゃんと感じ取ってるんだから』


 どこか拗ねたようなその声音に、渉はそっと言葉を継ぐ。


「分かってる。けど……やっぱり連れていけない。どんな場所か分からないし、危険もあるかもしれない」


『……でも、()()にしないでほしいな』


 そっと落ちた葉の影が、机の上に小さく揺れた。


「フウ……」


 渉が何かを言おうとしたとき、颯汰が小さく笑った。


「俺も行きたかったですよ、先輩。……けど、俺のせいで留年したら、おかん泣くんで」


 自嘲気味にそう言う彼の声には、どこか本音のにじむ優しさがあった。

 渉は、静かにうなずいた。


「次は一緒に行こう。二人ともな」


 フウの葉が小さく揺れ、颯汰もまた、ふっと目を細めた。

 そんな二人の表情が、山の静けさの中でふと頭をよぎる――。


 ――風は、止んでいた。


 神社の境内。


 渉は拝殿の前で立ち止まり、境内をぐるりと見渡した。

 足元の玉砂利が、わずかに軋む。


 さっきまでの気配は、嘘のように消えている。


 やっぱり……この神社、何かある。


 御神木は、拝殿のさらに奥。

 石段を少し上った先、薄く靄がかかる林の中に、それはひっそりと佇んでいた。


 奥へ行こう。


 渉はゆっくりと足を踏み出した。

 けれど、頭の中ではついさっきのやりとりが繰り返されていた。


 ――「俺も……行きたかったなぁ」


 颯汰の残念そうな寂しい笑顔。

 軽い口ぶりの中に、どうしようもない悔しさが滲んでいた。

 そして、観葉植物の姿のまま、動くことのできないフウ。


 ――『ほんとは……ずっと、そばにいたいのに』


 そんなふうに、風のない部屋でふるえていた葉の声が、今も耳の奥に残っている。


 「……ほんと、お前たちがいれば……ちょっとは心強いのにな」


 ぽつりとこぼした声が、杉の木立に吸い込まれていく。


 しかし、返事はない。

 植物たちは、まだ口を閉ざしたままだった。


 ――僕の声が聞こえていないんじゃない。聞こうとしていないんだ。……あるいは、聞くことも話すことも拒んでいるのか?


 それは、植物との対話を重ねてきた渉にとって、あまりに異常な状態だった。


 神社の奥へ向かうにつれ、空気がじわじわと重くなる。

 林に入ると、日差しは急に遮られ、足元の地面には苔が広がっていた。

 

 しばらく進むと、空が再び開ける。

 そこに、()()はあった。

 

 推定樹齢千二百年――幹周りは大人五人が手をつないでやっと回りきれるほど、優に十二メートルはある。

 幹肌には無数の皺と亀裂が刻まれ、節や瘤が山の稜線のように盛り上がっていた。

 地を割るように伸びた根は岩を押し分け、谷の斜面を何本も這い下りている。

 かつては濃く茂っていたであろう葉も、今はところどころ茶に変わり、枝先は疲れたように垂れていた。

 

 御神木――クスノキ。

 この霧楠谷(きりくすだに)に人が暮らすよりも前から、風雪と陽光を受け止め続けた古き守り木が、いま静かに息を細くしている。

 

 その姿を前に、渉は胸の奥を掴まれるような痛みを覚えた。


 「……ひどいな」


 クスノキを見上げ、呟きと同時に手帳を開く。

 調査を始める前に、できる限りこの木と対話する必要がある。


 目を閉じて、深く息を吸い込んだ。

 頼む……教えてくれ。


 脳裏で、言葉にならない問いを投げかける。

 空気の震え、樹皮のひび割れ、地面をつたう根の鼓動——。

 それらの微細な変化を、生き物としての「意志」として掬い上げようとする。


 けれど――。


 ……駄目だ。何も、聞こえない。


 クスノキは沈黙していた。

 その沈黙は、ただ静かなだけではない。

 耳を塞がれたような、厚い壁の気配。


 どうして? いつもと何が違う?


 二日前、研究室で依頼文を受け取ったとき——まさか御神木がなにも語らないとは考えもしなかった。

 いままでなら、異変を抱えた植物は、われ先にと訴えてきた。


 目視でも葉枯れの進行は異様に早く、根腐れの兆しまで併発している。

 それでいて、資料の調査報告では土壌にも地下水脈にも異常は見つからない。

 本来なら植物の声があれば、原因の手がかりは簡単に掴めるはず。

 それなのに、この木は沈黙を貫いている——自らの体が蝕まれているにも関わらず。


 なぜだ。


 渉は拳を握った。

 ただ、この沈黙は死の気配ではないという直感があった。

 むしろ、その奥に、明確な意志があるように感じる。

 

 拒絶。

 閉ざされたままの対話の扉。

 

 ……君は、僕に怒っているのか? それとも、人間そのものに?

 

 問いは風に乗らず、境内の空気に溶けて消えた。


 そのとき、足元で風が一瞬だけざわめいた。

 木の根元の、土の中から……まるで、低く呻くような音が、ほんの一瞬だけ渉の内耳に届いた。


 ――ズ……。


 重たく、軋むような、土の中から。


 「……っ!」


 渉は息をのんだ。


 今のは……?


 だが、その音もすぐに消えた。

 まるで何事もなかったかのように、静寂が戻ってくる。


 ……土? 調査では異常はなかったはず……それとも、何かあるのか?


 記録を取りながら、再びあの二人――颯汰とフウの言葉を思い出していた。


 ――「たまにヤバいやついるからマジで気をつけて」

 ――『でも、そのクスノキ……静かに怒ってるし……』


 ああ、やっぱり連れて来るべきだった。

 けれど、今は自分ひとりでやるしかない。


 渉はそっと、御神木の前に膝をつき、目を閉じた。


 「……ごめん」


 その一言だけを、土の中へ向けて、小さく(こぼ)す。


 風は吹かない。

 けれど、大地のどこか深いところで、わずかに何かが動いた気がした。

 

 *


 細い足音が近づいてくるのに気づいたのは、渉が御神木の前に膝をつけて間もなくのことだった。

 苔むした土の上をサク、サクと鳴らす規則的な音。それは軽やかではあるが、どこかためらいがちで、不安と緊張を含んでいた。


「――失礼します」


 そっとかけられた声に、渉はゆっくりと立ち上がった。

 拝殿の方から歩いてきたのは、スーツにコートを羽織った女性だった。二十代後半に見える知的な顔立ち。眉の形がすっきりとしており、黒髪をひとつに結っている。


「あなたが……植物庁の方ですか?」


「はい。集音路渉といいます。植物庁から依頼されて来ました」


 胸元から身分証を取り出すと、彼女は小さくうなずいた。


「そうですか。……私は榊理乃(さかきりの)と申します。この土地のリゾート開発に関わっている会社の者です」


 そう名乗ると、彼女は御神木を仰ぎ見た。

 そこへ、もうひとりの足音が境内に響いた。背広姿の男性が、やや大股に近づいてくる。


木村篤史(きむらあつし)です。同じく開発事業に関わっております」


 彼は軽く名刺を差し出すと、すぐに御神木へ視線を向け、眉をひそめた。


「……なるほど。確かに少し元気がないように見えますね。ただ、樹齢千年以上なら、枯れ始めても不思議じゃないでしょう。老化ですよ」


 あっけらかんと言い放つその口調に、渉は思わず息をのむ。


「老化……ですか?」


「ええ。自然の摂理です。むしろ、これまで保ったことの方が奇跡でしょう」


 木村の言葉に、理乃も小さくうなずいた。

 

「確かに……私も子どものころからこの木を見ていますが、最近は明らかに弱っているように感じます。ですが、それは自然な衰えかもしれません」


 渉は反論したい衝動に駆られた。

 ――何かが違う。この木は、まだ生きようとしている。

 けれど、証拠を示すことはできない。植物の声を聞ける自分の感覚は、彼らにとってただの主観でしかないのだ。


 唇を結び、渉は押し黙った。


「いずれにせよ、我々としては開発が原因だと決めつけられては困ります。そこは調査で明らかにしていただきたい」


 木村の冷たい視線が渉を射抜く。

 理乃もまた、どこか複雑そうなまなざしを向けていた。


 その瞬間、御神木の梢がわずかに揺れ、乾いた音を立てて葉が一枚、はらりと地面に落ちた。


 渉は落ち葉を見つめ、心の奥で静かに誓った。

 ――必ず、この木を救ってみせる。

次回更新は、来週金曜日!

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