第八話 夏の境界で
梅雨もすっかり明け、夏の陽射しがじりじりと肌を焼く頃。
渉は、前回の騒動の舞台となった空き地を、颯汰とともに再び訪れた。蝉の声が容赦なく耳を刺し、足元では草いきれがもわりと立ちのぼる。
「……静かだね」
颯汰がぽつりと呟く。
確かに、あの時とはまるで別の場所のようだった。
風が梢を鳴らす音と、遠くで鳴くセミの声だけが響いている。あれほど喧しかった草の“声”は、今はまったく聞こえない。
渉はそっと目を閉じ、地面に意識を傾けた。
どこか深いところで、植物たちの気配は感じられる。ただ、それは眠っているか、あるいは目を伏せているような……そんな控えめな囁きだった。
「もう、怒ってる感じじゃないな」
「そっか……まあ、そうなると思ってたけど」
渉は自分の声が、空き地の広がりに吸い込まれていくような感覚を覚えた。
二人はしばらく歩きながら、地面の様子を観察する。
苔のような草が密集していた場所には、今はナズナが点々と生えていた。スベリヒユやイヌホウズキの葉も、ところどころに顔を覗かせている。
「雑草っていうには、ちょっと特徴的な生え方だよね。局所的に偏ってる」
「土のせいだと思う。酸性度とか、菌類のバランスとか……」
渉はしゃがみ込んで、ひと株のナズナをそっと引き抜いた。根の先には、乾いた土がかすかにまとわりついている。
「開発するなら、ちゃんと土壌改良から始めた方がよさそうだね」
隣で屈んでいた颯汰が、笑みを含んだ声で言った。
「っていうか、植物の気持ちを聞ける渉先輩が、その土地のカルテを書くって――すごく贅沢なことじゃない?」
「……そんな大層なもんじゃないよ」
渉は苦笑しながら立ち上がった。だが、内心にはほんのわずかな緊張が残っていた。
フウが目覚め、草の声が静まり――。
けれど、この空き地に流れる“何か”は、まだ完全に消えてはいない気がした。
「ただの草むら、なんだよな。見た目だけなら」
「でも、見えない“記憶”が、まだ残ってるんじゃない? たぶん……」
颯汰は軽い調子で言いながらも、どこか冴えた目をしていた。
渉はもう一度、草の匂いが混じる空気を吸い込んだ。
静寂の奥に、なにかが呼吸しているような――そんな気配をかすかに感じる気がした。
*
渉と颯汰は、かつて訪れた「荒井銀次」の家を目指して、町のはずれへと向かった。
あの井戸の前で、草たちの声に圧倒され、渉が立ちすくんだとき助けてくれた老人だ。
「フセガミ」という言葉を口にし、あの空き地の過去――育種試験場だったと語ってくれた人物。
あの人の言葉がなければ、神社へは訪ねてなかったかもしれない。
あの空き地で迷った自分を引き戻してくれた、確かな声だった。
だからこそ、ただの礼ではなく、何かを返したい気持ちがあった。
「本当、あの人がいなかったら“フウ”の存在に気付けなかったかもな……って、このあたりだったよね?」
颯汰がスマートフォンで地図履歴を確認しながら言う。
古びた民家の前で、二人は足を止めた。
板張りの塀にはツタが絡まり、郵便受けはサビついて、投函口からは湿気たチラシが覗いている。
渉が呼び鈴を押す。……反応はない。
もう一度押してみたが、静寂の中にかすかな電子音すら響かない。
代わりに、家の奥から風が吹き抜けるような音だけ聞こえる。
「誰も……いない、ね」
颯汰が軒先に回り込み、窓を覗き込んで言った。
「中も、家具とか何もないよ。これ、完全に空き家だと思う」
まるで“最初から誰も住んでいなかった”かのような空気だった。
玄関先に、靴の跡も、郵便物も、生活の匂いすらない。
銀次という存在そのものが、すべて夢だったのではないか――そんな錯覚すら、脳裏をよぎる。
「……じゃあ、あのとき話をしてくれた“銀次さん”って……誰だったんだ?」
背筋に、ぞくりと冷たいものが走った。
自分たちの記憶だけが、なぜか現実とすれ違っているような感覚――共有した時間が、本当にあったのか、不安になるほどに。
それでも確かに、あの老人と会い、空き地の昔話を聞いた。
「井戸が埋められている」「何かが封印された」――その言葉の一つひとつが、確かに記憶に刻まれている。
そして、草の声を聞いて苦しむ渉に手を差し伸べ、「フセガミだ」と静かに言った、あの眼差し。
なのに今、この家はまるで最初から誰も住んでいなかったかのような、冷たい空気を纏っていた。
「……あの人、実在してなかった……ってことはないよね」
颯汰の声が、どこか冗談めかしていたが、その目には笑いがなかった。
渉は黙って首を振った。
風が、ツタを揺らす音だけが耳に残る。
誰かが“銀次”という顔を装って、井戸を掘り起こさせようとしていた。
あの時、すでに導かれていたのだとしたら――。
目的はなんだったのか。なぜ渉たちを動かす必要があったのか。見えていない何かの意志が潜んでいるのではないかという、不穏な予感だけが残された。
*
明るい陽が差し込む研究室。
長机の上には資料の束と、精密な分析機器が整然と並べられている。
窓際の棚には、小さな鉢に植えられた植物がひとつ。柔らかな光を浴びて、フウの葉がふるふると揺れていた。
蝉の声が遠くから微かに届いている。
柳教授は、顕微鏡のレンズを拭きながら静かに口を開いた。
「分析の結果、フウの封印には……我々、人間の術理とは異なる構造が使われていました。明らかに、人の手によるものではありません」
「……それって、精霊ってことですか? 封じたのは、精霊?」
渉が手元のメモ帳から顔を上げて尋ねる。
教授は一瞬だけ考えるように沈黙し、やがて言った。
「断定は避けますが……その可能性は高いと言えるでしょう。精霊と呼ばれる存在、あるいはそれに類する世界の技が介在していたと仮定すれば、符号が合う点が多いのも事実。それにフウの存在は、我々の常識を超えたところにいます。精霊という言葉が最も近い表現かもしれません」
彼は机から一枚の紙を取り上げる。それは、封印されていた箱の蓋に刻まれていた文様の解析図だった。
「呪文の輪に、微細な改変の痕跡が見つかりました。あとから挿入された欠損――これは明らかに人為的なものです。何者かが、封印を意図的に緩めた」
渉は息をのんだ。
「誰かが、わざと……?」
「事故か、意図的な開放か。あるいは、彼女を目覚めさせたかったのかもしれません。目的は、まだ見えていませんが」
教授の語尾が淡く沈む。
「けれど、もしそうだとしたら……なぜ?」
その静かな問いが、部屋の空気に染み込みながら広がっていく。
渉は答えないまま、そっと窓際の鉢植えに目を向けた。
そこには、柔らかな陽射しのなかで、心地よさそうに葉を揺らしているフウの姿があった。
つい数日前の空き地での暴走が、まるで夢だったかのように思えるほど、空気は穏やかだった。
椅子に腰かけたまま、じっとフウを見つめた。
「……空き地の草の暴走が、すっかり止まったのは、この子が完全に目を覚ましたからですか?」
柳教授が手帳をめくりながら、軽く頷く。
「ええ。記録樹種フウ……彼女は精霊界と人間界の境に存在する種だったのでしょう。眠っているだけでも周囲に影響を与える。植物たちは彼女の記憶に共鳴し、過去の声や姿を模倣していた。人の声、赤ん坊の泣き声――すべては草たちの真似です」
「じゃあ……あの土地は、精霊界に近かったってことですか?」
「というより、擦れていたのかもしれません。地中の封印が古く、脆くなっていた。そこへ外からの刺激が加わり、彼女の記憶が滲み出してしまった」
教授の語りは、いつもどこか淡々としている。けれど、今の言葉には、ほんの僅かに緊張がにじんでいた。
渉は視線をフウに戻す。
葉をふるふると揺らすその姿は、まるで何かを聞き取ろうとしているかのようだった。
「……精霊って、本当にいるんですね」
無意識に、ぽつりと呟いた。
その言葉に、場の空気がほんの一瞬、凪いだ気がした。
フウがふわりと葉を傾ける。
その動きと同時に、音もないのに、渉にははっきりと声が届いた。
《渉は、すでに出会っているでしょう? あの、綺麗な桜の──》
「わっ、だめだめだめっ! フウが、それ言っちゃダメ!」
颯汰が慌てて駆け寄り、両手を広げてフウの前に立ちはだかった。
フウは、くすりと笑ったように葉を揺らす。
えっ……いまのフウの声……颯汰に……聞こえた?
「……何を隠そうとしているのか知りませんが――」くるりと椅子を颯汰に向けながら、柳教授が重い声で、「この場では言葉を慎みなさい」と言う。
颯汰は舌打ちこそしなかったが、明らかに「やっちまった」という顔をした。
渉は狐につままれたような表情で、颯汰とフウを見比べた。
「……ちょっと待って。何の話? 何か聞いちゃいけないことを聞いた?」
「いや、えーっと……」
颯汰は頭をかきながら、渉のほうに向き直る。
「ほら、渉先輩、植物の声、聞こえるようになったんだよね? だったら、いずれ気づくと思ってたけど……」
彼は一度、柳教授をちらりと見た。教授は無言のまま、書類の束を棚に差し込んでいる。
「じつは……俺、精霊の血をちょっとひいてるんだ」
「………………は?」
渉は絶句した。
「その……親父は普通に人間なんだけど、おかんの家系がちょっと変わっててさ。精霊っていうか、花守りとかと縁がある祖先がいたって話で……もう何代も前のことだけど、血はちょっとだけ混じってるらしい。俺も正直、よくわかんねえんだけど」
「花守り……?」
渉が無意識に呟いたその言葉に、記憶のなかの祖父の声――『渉、お前は、花守りだな』が重なる。
まさか。あのとき祖父が言っていたのは、冗談じゃなかったのか。
「だから、植物の気持ちもちょっとだけ分かるし、精霊の気配も少し分かる。フウのことも、まあ……最初から、普通の植物じゃないって感じはしてたけど」
フウは、まるで誇らしげに葉をぴょこりと動かした。
《この子は、わたしの声もずっと前から感じ取ってくれていたわ。言葉になる前の感覚で》
「……だから先輩」
颯汰が少しだけ真面目な顔をして言った。
「信じられないかもしれないけど、世界って、思ってるよりずっと広いんだ」
「……信じるよ。僕だって彼女――千年桜と会話したから」
渉は、かすかに笑った。
その笑顔に、颯汰は目を見開いたが、すぐに安堵したように笑い返した。
渉と颯汰の視線が、静かに教授に向けられる。
だが教授はそれ以上は語らずペン先を静かに動かしながら、「世界が、自ら語りはじめようとしているのです」と、ほとんど聞き取れない声で付け加えた。




