第七話 記憶を抱く芽
朝の光が差し込む小さなアパートの一室。
渉はベランダに置いた植木鉢の前でしゃがみ込んでいた。昨日まで双葉だった芽は、今朝はさらに背を伸ばし、葉も一枚増えていた。まだ幼いが、そのたたずまいには、妙に凛とした品格がある。
そっと手を伸ばすと、葉がかすかに震えた。
『おはよう、渉。今日は連れてってくれるの?』
それは頭に響くような、小さな鈴の音のような声だった。
渉は思わず周囲を見渡し、誰にも聞かれていないことを確認してから、声を潜めて答える。
「……やっぱり、君が箱の中にいた“古種”なんだね?」
『さあ? どうでしょうねぇ。もしかしたら似た誰かかも?』
芽はひらりと風に揺れた。とぼけた口調に、渉は苦笑した。
「じゃあ聞くけど……君は、何を知ってるんだい? あの土地に封印された理由とか、僕の“耳”のこととか」
『んー……知ってるけど、まだ全部は言わない。だって渉がまだ、全部受け取る準備できてないから』
その言葉には、どこか保護者めいた優しさが滲んでいた。
けれど、渉は言葉に詰まる。「受け取る準備」という響きが、自分の未熟さを突きつけてくる。
しかし、今は問い詰める時ではない。
渉は覚悟を決め、植木鉢を丁寧に抱えた。
「じゃあ、行こう。君も研究室で診てもらおう。ちょっと騒がれるかもしれないけど」
『わー、見世物扱い……こわいこわい。優しくしてね?』
古種の声は冗談めかしていたが、どこかで本当に怯えているようにも聞こえた。
渉はリュックに小さなタオルを敷き、植木鉢を丁寧に収めた。芽が揺れないように固定してから、そっとチャックを閉める。
『ちょっと狭いけど……まあ、いいか。渉のぬくもり付きなら我慢しよう』
「我慢してくれると助かるよ」
冗談めかしつつも、渉の胸には妙な緊張があった。これからこの“植物”を教授たちに見せる――いや、報告する。そして、事の始まりを話すことになる。
大学へ向かう電車の中、渉は何度も言葉を選び直した。リュックに入っていた? 話しかけてくる? 冗談だと思われてもおかしくない。
だが――。
それでも、伝えるべきだと感じていた。
*
研究室の扉を開けた瞬間――ざわっ
空気が揺れた。
渉が一歩踏み入れると、周囲の植物たち――観葉植物、研究用の草本、温室から取り寄せた種子までが、一斉に反応を示した。
葉が微かに震え、茎がわずかに傾き、まるで一斉に「見ている」かのようだった。
「……っ!」
颯汰がいち早く顔を上げ、渉を見た。
そして、目を見開く。
「……ちょ、まって……先輩……!」
声が裏返るほどの驚きと、目の奥には見え隠れする“本能的な警戒”があった。
渉はリュックを下ろし、中から植木鉢を取り出す。
「昨日の夜、リュックから出てきたんだよ」
「え? 先輩のリュックに? これが?」
「……いや、正確には、“種”の状態で、手の中で脈打っていて……それで植えたら……」
そこまで言って、渉は言葉を濁した。さすがに“話しかけてくる”とはすぐには言えない。
颯汰がさらに近づき、慎重に植木鉢をのぞき込んだ。芽を見つめたその表情には、いつもの陽気さはなかった。
「やば……これ、たぶん、伝承とかに出てくる……“|記録樹種『きおくじゅしゅ』”とかいうやつじゃないかな」
「記録樹種……?」
「俺も詳しくは知らないけど、幻の古代精霊界とか、異界の文献にちょっとだけ出てくる。“知識の種”って言われてて、育てば過去の出来事とか、精霊の記憶を話すって……」
渉は驚いて目を見張った。
「なんで颯汰、そんなに詳しいんだ……?」
颯汰はわずかに目を伏せ、肩をすくめてごまかすように笑った。
「え? あはは、いや、前に民俗植物学の授業でさ。レポートで扱ったことがあって……教授の話をちゃんと聞いてた成果、ってことで」
その笑顔はやけに無理があり、どこかぎこちなかった。
その時、奥の机で資料に目を通していた柳教授が、ゆっくりと顔を上げた。
「……集音路くん。それは、例の木箱にあったものですか?」
声色はいつもと変わらないが、その目の奥に、かすかな緊張と読みきれぬ探究の色が宿る。
渉が頷くと、教授は静かに椅子を引き、無言のまま近づいてくる。
植木鉢の前にしゃがみ、教授はそっと手をかざした。
その瞬間――。
「……お久しぶりですね、柳博士」
柔らかな声が、教授の掌に触れるように響いた。
渉と颯汰が一斉に教授を見つめる中、柳教授はほんのわずかに目を見開き、眼鏡を押し上げながらゆっくり言った。
「……ああ。“君”だったのか」
渉は思わず問いかける。
「えっ、知ってるんですか?」
教授は渉を見ず、まだ芽に手をかざしたまま、小さく頷く。
「……以前、ある古い協定を調べていたときに、特異な“記録媒体”として言及された存在と、偶然――ほんの一瞬、接触したことがあります。まさかまだ実在していたとは……」
「記録媒体……?」
「名前は明かされていませんでしたが、“知識を記録し、時を越えて語る者”だそうです。人に対して言葉を選び、必要なことしか話さない。……それは、誰の記憶を守るためなのか……私には分かりません」
植木鉢の中の芽が、そよぐように揺れた。
「……人間は、すぐに壊れてしまうから。でも……渉は、ちょっと違う匂いがする」
その言葉に、教授はふと目を細めたが、何も言わなかった。
*
記録樹種を囲んで沈黙が降りた。
その沈黙を破ったのは、柳教授だった。
目を細めながら、静かに渉と颯汰に向き直る。
「……少しだけ、彼女と二人にしてもらえませんか? 少し話をしたいので」
その声は穏やかだったが、どこか“拒めない空気”を纏っていた。
颯汰は一瞬だけ渋い顔をしたが、渉と視線を交わし、小さく頷いた。
「……わかりました。じゃあ、食堂にでも行ってきます。先輩、行こ?」
「あ、うん……」
研究室を出る際、渉はちらりと植木鉢を振り返った。
記録樹種は、葉を揺らしていたが、それはまるで何も語らぬ意志表示のようだった。
*
食堂で軽く昼食を取りながら、渉と颯汰は先ほどのやりとりを振り返っていた。
「柳教授って……何者なんだろうね」
渉がつぶやくと、颯汰はアイスコーヒーをストローでかき混ぜながら、ぽつりとつぶやいた。
「……なんか、人間っぽくないというか。あの人、本当はもっと違う何かなんじゃないかな。……冗談だけど、昔話に出てくる賢者とかさ、そういう系の」
軽く笑おうとして、言葉の尾が消える。
渉はそんな颯汰の横顔を見つめながら、心の奥にわずかなざわめきを感じていた。
*
一時間ほどして研究室に戻ると、空気は明らかに変わっていた。
今朝、この部屋へ入ったときのような緊張感はなく、記録樹種はただの静かな観葉植物のように、鉢の中で穏やかに佇んでいる。
「……あれ?」
渉が近づくと、記録樹種がほんの少し葉を揺らした。
けれど、あのときのような声は返ってこない。
代わりに、柳教授が優しい口調で言った。
「話は済みました。彼女は、今後も集音路くんと一緒に過ごしたいとのことです。それが、彼女なりの“条件”のようですね」
その言い回しには、どこか苦笑を含んだ余韻があった。
颯汰が小声で渉に耳打ちする。
「……結局、教授って何者なんだよ」
渉は答えられずにいた。だが、柳教授はどこか思案深げに彼らを見つめたのち、言葉を継いだ。
「記録樹種は、知ってはいけないことも知っている植物です。……だから私は、彼女に|1『・』|つ『・』|だ『・』|け『・』お願いしました。君がその“答え”に向き合う準備ができるまで――すべては語らないようにと」
その瞬間、記録樹種が軽く葉を揺らした。
『うん、約束した。……でも、渉にはちゃんと伝えるよ。誰でもない、“渉”としてね』
「……ありがとう」
思わず声に出してしまい、渉ははっとして口を押えた。
「先輩、今の……誰か入ってた?」
颯汰が不思議そうに渉を覗き込む。
「……いや、なんでもない。ちょっと、考え事してただけ」
ごまかすように笑った渉に、颯汰は少しだけ眉をひそめながらも、それ以上は追及しなかった。
*
「……よし!」
突然、颯汰が手を打った。
「え?」
渉が目を瞬く。柳教授もわずかに眉を上げる。
「この子、名前つけよう! “記録樹種”って言いにくいし、なんかこう、呼びにくいっていうか、植物っぽくないし」
そう言って颯汰は、植木鉢の前にしゃがみこみ、真剣な顔で芽をのぞき込む。
「君、名前ってある? それとも、呼ばれたい名前とか……ある?」
しばらく沈黙があったが、芽がふるりと揺れ、やわらかな声が響いた。
『……あったけど、もう古いから。それに、今は“渉のそばにいるわたし”だから、新しくてもいい』
その声は、まるで風のように、渉の胸の奥へすっと入り込んできた。
「……っ」
隣で軽く口を開いた颯汰が、ふと動きを止めた。何かを言いかけて、だが、すぐにその唇を閉じる。
そして、ぎこちなく渉の方をちらりと見た気がした。
「先輩……いまさ、なんて言ってた? この子」
渉は一瞬、返答に戸惑った。
――え、今の、聞こえてた……?
だが、颯汰の顔は無邪気そのもので、ただ興味本位で訊いたようにも見えた。
「えっと……“新しくてもいい”って」
「おお、前向き〜。そうこなくっちゃ!」
颯汰は腕を組んで考え込む。
「見た目はまだ芽だけど……そのうち、どんなふうに育つんだろうな。背が高くなる? それとも低木っぽい感じ?」
『さあ。今の世界の空気、まだよくわからない。でも、風は気持ちいいね』
記録樹種――いや、芽の声は、どこか楽しげだった。
「今の世界の空気は、まだよくわからない……って言ってる」
颯汰はその様子に満足げにうなずくと、ぽんと手を打った。
「じゃあ、仮で“フウ”ってどう? “風”の“フウ”。なんか軽やかで、でもちゃんとこの場所に根ざしてる感じがするし。あと、“ふう……”って深呼吸したくなる名前って、なんか癒やし系っぽくない?」
芽が、ふるふると揺れる。
『ふう……ふう。うん、気に入った。じゃあ、今日から“フウ”』
「気に入ったってさ」
「決定〜!」
颯汰が勝手にまとめてしまうと、渉は苦笑しつつも、芽――フウを見つめた。
「……じゃあ、よろしくな、フウ」
『うん、こちらこそ』
柔らかな風がふと、研究室の窓から吹き込んできた。
揺れる葉先が、まるで笑っているように見えた。




