第六話 掘削当日
蝉の声が遠くから響く。七月の陽射しが容赦なく照りつける中、現場にはじっとりとした湿気と熱気がこもっていた。
かつて結核保養所が建っていた空き地――表向きにはそう呼ばれている場所に、いま重機の音が響いている。数人の作業員が慎重に地面を掘り進めていた。市から委託された土木業者、植物庁から派遣された監視員、そして柳教授を中心とする研究チーム。渉と颯汰、それに市役所職員の新井も立ち会っていた。
空き地は緑の柵で囲われ、植物庁のロゴが入った立て札が風に揺れている。
渉は柵の内側、やや離れた位置で目を細めながら作業の様子を見守っていた。背後には颯汰が立ち、時折水筒を手渡してくれる。
「思ったよりも、深いですね……」
新井が隣でつぶやいた。帽子の下の額には汗がにじんでいる。
「調査図面によると、この下に井戸があるはずなんですが……」
「大丈夫です。植物たちの記憶と合致していますから」
渉の言葉に新井が「植物……」と小さく反応するが、それ以上は何も言わなかった。冗談と受け取ったのか、それとも信じたのかは分からない。
その時だった。
「掘ってはならんッ!!」
怒号が響いたのと同時に、重機の音がぴたりと止まった。現場の空気が緊張で凍りつく。
柵の外に立っていたのは、一人の年配の男性。白い衣と袴をまとい、手には使い込まれた木製の笏を握っている。久野嶋神社の宮司だった。
新井が慌てて応対に出ようとしたが、それより早く、宮司は柵を越えて中に入ってきた。怒りをはらんだ足取りで、真っすぐ渉の方へと詰め寄る。
「この地は穢れを封じた地だ! 封印を解けば、何が起こるか分からん!」
「宮司さん、我々は植物庁の承認のもとで作業を進めています」
柳教授が落ち着いた声で応じる。しかし宮司は彼ではなく、渉を睨みつけて言った。
「お前……お前には聞こえているのだろう? ならば分かるはずだ。この封印の意味が」
渉はその言葉に一瞬、呼吸を詰まらせた。
「……でも、外へ出たいという声も、確かに聞こえました」
「だからと言って、それを叶えてよい道理はない。これは我らが代々受け継いできた戒め。開けてはならぬものが、この下に眠っている」
「では、ずっとこのまま放っておくんですか? 封印が壊れるのを待つだけで?」
渉の反論に、宮司は沈黙した。しかしその表情は、納得ではなく、苦悩と警告の色に満ちていた。
「……知らぬぞ。何が起きても。お前らが目覚めさせたのだからな」
そう言い残し、宮司は柵をまたいで去っていった。
渉はその背を見送りながら、深く息を吐いた。颯汰がそっと背中を叩く。
「大丈夫っす。封印だけじゃ、変わらないって、渉先輩が一番分かってるはずです」
「ああ……ありがとう」
重機の音が再び鳴り響き、作業は再開された。
シャベルが乾いた音を立て、土を持ち上げていく。深さが三メートルを超えたころ、作業員の一人が異変を告げた。
「……何かあるぞ!」
現場に緊張が走る。
慎重に土を払いながら掘り進めると、地下から姿を現したのは、分厚い“木箱”だった。長方形で、外側には錆びた紋様のようなものが刻まれており、腐食しつつもその輪郭はまだ残っている。
柳教授が急ぎ計測機器を取り出し、反応を確かめる。
「……反応あり。植物性物質が内部に含まれています。これは……やはり古種か……?」
渉がそっと箱に近づいた。
その瞬間だった。
視界の端がゆらりと歪み、耳鳴りが走る。胸の奥が締めつけられるように苦しくなり、思わずその場に膝をつきそうになる。
そして、はっきりと“声”が頭の中に響いた。
『どうして……眠っていただけなのに……』『苦しかった……でも、守ろうとした……信じていたのに……』
怒りと悲しみが入り混じった、傷ついたものの慟哭。それでいて、どこか底知れぬ力を秘めた声だった。
「先輩、どうした!?」
颯汰の声が背後から響く。
だが渉は、その箱を見つめながら呟いた。
「……まだ、起きてない。でも、目を覚まそうとしてる……」
掌が小さく震えている。
箱の接合部には、ひびが入りかけた箇所があり、古びた封蝋のようなものが半ば剥がれかけていた。まるで、時間の経過か、何かが内側から押し返しているように。
その時、空が陰った。
一陣の涼しい風が吹き抜け、空き地の草たちがそよいだ。
まるで、遠くに向けて何かを告げようとしているかのように、静かに、慎ましく――けれど確かな意志を持って――揺れていた。
*
発掘された箱は、厳重に梱包され、渉たちの大学研究室へと運ばれた。
表面には腐食が進んだ鉄製の金具が打たれていたが、箱そのものは重厚な木製だった。古い漆がところどころ剥がれ、深い割れが刻まれている。だが、その佇まいには、まるで長い時を越えてなお“意思”を宿しているかのような静けさがあった。
柳教授は作業台に木箱を設置すると、手早く手袋と防護眼鏡を装着し、準備を整えた。室内には数名の研究員が立ち会い、颯汰も緊張した面持ちで控えていた。
渉は少し距離をとりながらも、胸の奥で小さくざわつく感覚を押し殺していた。
「まずはX線CTで内部構造を確認します」
教授の指示で、木箱は慎重に装置へと移され、スキャンが開始された。断層ごとの画像が次々と表示されていくが、映像には目立った異物の影はなかった。
「……構造的には空洞ですね。内部に異物や構造物は確認できません」
研究員が言葉を選びながら報告する。教授は無言のまま、画像と手元の記録を見比べていた。
「金属部分の補正は済んでいますが……これは奇妙ですね。現場の計測では、たしかに植物性の反応が検出されたはずです」
数時間に及ぶ再確認の末も、結果は変わらなかった。箱の内部は、空であるかのように“何も”映っていなかった。だが、その「空白」が、かえって不自然な沈黙として室内に重くのしかかった。
そして、いよいよ開封の瞬間が訪れる。
教授が金具に慎重に手をかける。カチリ、と小さな音を立てて留め具が外れた。
古びた蓋をゆっくりと持ち上げる。
――中は、やはり空だった。
一瞬、誰もが言葉を失った。
防護服を着た研究員が慎重に内部を確認するが、箱の中には何もない。破損も、流入した土砂の痕跡もなかった。
「……封印されていたものは、既に……?」
「盗掘の痕跡もありません。どういうことだ……?」
柳教授が眉をひそめ、唇を引き結ぶ。颯汰も困ったように肩をすくめて渉の方を見た。
だが渉は、その瞬間――得体の知れない安堵と、不思議な空虚感に包まれていた。
まるで、箱に入っていたはずの“何か”が、すでに自分のそばにいるような、そんな感覚。声も、気配も、どこか近くに感じていた。
『ここは……明るいね……ありがとう、出してくれて……』
微かに、渉の耳の奥で“声”が揺れた。
何かが、確かに“ここに来ている”。
それはまだ名も姿も持たないが、渉にだけ分かる確かな存在だった。
*
その夜。研究室は騒然としていたが、これ以上の検証は難しく、調査班はひとまず解散となった。疲れの色が濃い面々の間に、沈黙だけが残る。
渉も無言のまま帰路につき、自室でリュックを下ろした。中身を取り出そうと、リュックを開けたとき、ふと、底のほうで何かがコツリと動いた気がした。
「……ん?」
気のせいかと首をひねりながら、荷物を一つひとつ取り出していく。そして――書類ケースの脇から、ころん、と“何か”が転がり出た。
ピンポン玉ほどの大きさで、深い赤褐色の殻を持った、まるで心臓のような形。それは、どこか柔らかい光を内に宿しながら、渉の手の中でかすかに温かく脈打っていた。
その瞬間――『ここも、明るいね…… 土が、恋しい……』と聞こえた。
渉は息を呑んだ。誰のでもない、手のひらのモノの声。だが穏やかで、決して脅威ではなかった。
「君は……箱の中にいた“何か”……古種なのか?」
答えは返ってこない。ただ静かに、渉の心の内に語りかける。
『……知っている。あなたのこと……あなたの“耳”のことも』
渉の胸が、どくんと高鳴る。
「……どうして、僕のリュックに?」
『ここが、安全だったから。あなたなら、わかると思った』
それの声は、優しかった。だが、その底には長い孤独と痛みが沈んでいるようでもあった。
「わかった……君が望むなら、土に返すよ」
渉は静かに、鉢に土を盛り、小さな穴にそれ――古種をそっと置いた。夜気に触れた種が一瞬、淡く光ったように見えた。
そのまま、丁寧に土をかぶせる。
そして翌日――すでに芽が出ていた。目を疑った。たった数時間で。真っすぐに、確かな力を宿して、若芽が空を目指していた。
その周囲の草たちも、微かにざわめいていた。まるで仲間の帰還を喜ぶように、あるいはこれから訪れる何かを予感しているように。
そして渉は、改めて思う。
これは“始まり”だ。封印の終わりではなく、新たな物語の芽生えなのだと。




