第四話 声の洪水(後編)
午後も遅い時間、空は夏の光を少しだけ和らげ、淡い金色に染まりはじめていた。
空き地の草は、前よりもやや背を伸ばしていたが、風の通り道には踏み跡が残っている。渉と颯汰はそこを辿るように、空き地の奥へと足を進めていた。
「たぶん、あの辺りじゃないか……」
颯汰が指差した先に、それはあった。
一本だけ、奇妙に傾いた桜の木。
他の木々がほぼ垂直に立ち、風になびいている中で、その桜だけは風上へ抗うように枝を伸ばしていた。
「……ここだ」
木の前に立ち、しゃがみ込む。
根元には石のようなものが半ば埋もれ、かすかに人工的な円形を描いていた。土の中に“何か”が封じられている。それを告げるかのような静寂が、あたりを包む。
その瞬間だった。
――ざあああっ
耳を塞いでも聞こえてくるような、無数のささやき声。
それが意識に一気に流れ込んできた。
……あ……やめ……やめて……母さん……どこ……寒い……忘れないで……ここにいた……私たちは……。
子ども、女、男、老い、若者。声の主は定かでない。だがすべてが、苦しみや渇き、そして「忘却」への恐怖に満ちていた。
「――あ、ああっ……! また聞こえる……」
頭を押さえて膝をつく。
視界がぐらつき、空が引き裂かれたように歪んで見える。地面が揺れているのか、自分の心が崩れているのか、それすらもわからない。
「先輩! しっかり!」
颯汰がすぐに駆け寄り、肩を抱える。
その手は驚くほど冷静で、的確だった。
「深呼吸して。吐いて、吸って――声に飲まれないで。今ここにいるのは先輩、集音路渉。先輩自身だよ!」
「う……あ……っ」
頬に、冷たい水が触れた。
いつの間にか、颯汰がペットポットの水を掌にすくい、そっと顔を撫でていた。
「これは現実。いまいるのは俺たちだけ……聞こえる声は過去のもの。ここにはいない。大丈夫」
数分のあいだ、呼吸を整えることに専念した。
その間にも、耳の奥にはなお、声の断片が残響していたが――すでに押し寄せる奔流ではなかった。
「……ごめん。俺、また……」
「大丈夫だよ、先輩。こうなるって思ってたから」
颯汰は優しく微笑んで言ったが、その目の奥に、静かな焦りと決意が宿っていた。
「でも、わかったこともある。これが井戸の記憶なら――この場所には、まだ“完全には封じられていない何か”がある。たぶん、封印は弱まってる。だから、声が溢れ出してきた」
「……俺もそう思う」
額の汗をぬぐい、そっと桜の幹に手を当てた。
幹の中から、温かく、湿ったような気配が返ってくる。まるで、誰かがそこに“いる”ようだった。
……忘れないで。思い出して。名も、かたちも、私たちがここにいたことを。
地中の“記憶”は、今も呼びかけていた。
*
渉と颯汰は、井戸跡の前に座り込むようにして、互いの呼吸を整えていた。
風が通り過ぎ、草の波が静かに揺れる。
だがそこには、もうただの草原ではない、“過去が滲み出す場所”としての気配があった。
「ねぇ、先輩……」
沈黙を破って、颯汰が口を開いた。
「今ここで、先輩が聞いた声ってさ、全部“誰か”の記憶なのかな? バラバラだけど、どれも“今ここにいる”感覚が強かった。普通なら、もっとぼやけてるはずなのに」
「うん。たぶん、まだ完全には“死んでいない”……そんな感じだった。言い換えれば、忘れられてないんだと思う。記憶のどこかに、まだ残ってる」
「……それって、逆に言えば?」
「生きている……とはちがうけど、封じきれてなかった、ってことかもな」
渉は井戸跡を見下ろした。
かすかに、風とは異質な温度の揺らぎが、地面の奥から滲み出てくる。
「なぁ、颯汰。……これ、もしかしたら――」
風が草をかすめ、夏の匂いがふと鼻をかすめたそのときだった。
「おーい、おまえら……どうじゃった? 何か分かったかい?」
フェンス越しに聞こえた声に振り向くと、草むらを分けて一人の老人が近づいてくる。杖をついた皺深い顔、日焼けした肌――荒井銀次だった。
「荒井のおじいさん、さっきはどうも」
颯汰が軽く頭を下げると、銀次は息を整えるように立ち止まり、一本桜とその根元をしばらくじっと見つめた。
「……わしが子どものころな、そこの木、もっと大きかった。これは……まだ若い桜やな。前のは、枯れたんじゃろう」
渉が口を開いた。
「教えていただいた通り、ここに井戸があったようです。根元の地形、少しだけ盛り上がっていて……」
銀次はしばし空を仰ぎ、ぽつりと呟く。
「……さっきは思い出せんかったんじゃがな。わしの爺さんが、そのまた爺さんに聞いた話じゃ。この辺りはな……“実験場”やったんよ」
「実験場……?」
颯汰が思わず聞き返す。
「ああ。療養所ができるずっと前の話や。たしか、野菜や花の“育種試験場”みたいなもんやったって言ってたな。寒さや病気に強い作物を作るのが流行っとってな。誰かが外から持ち込んだ種や苗を、いろいろ掛け合わせとったらしい」
「誰がやってたか、わかりますか?」
「さあな。市が関わっとったとは思えん。どっかの学者か、民間の金持ちか、あるいは外国から来たもんかもな。あん時ゃ今よりずっと記録がいい加減でのう……」
銀次はそう言って、急に声をひそめた。
「……けどな、妙な話があったんや」
その言葉に、渉も颯汰も無意識に耳を澄ませる。
「ある日突然、作物が全部、枯れたとか……逆に暴れたとか。朝起きたら、畑の茎が家を這っとったとか、名も知らん花が、ぜんぶ同じ方角を向いとったとか……そんな話や。ほんまかどうかは分からん。けどな、わしら子どもには“あそこへは近づくな”って、きつく言われとった」
渉の胸の奥がざわめいた。自然の摂理を逸脱した何か。まるで、そこに存在していた植物たちが――“外から来た”意志を持っていたかのような、異様さ。
「……つまり、もともとここに“人が埋まってる”という話ではないんですね?」
銀次は即座に首を横に振った。
「そんな話は聞いたこともない。墓なら別の場所にある。ここに埋まっているのは、人間やのうて……“モノ”や」
その言葉に、場の空気がすっと冷えた気がした。
沈黙の中で、一本桜の葉が微かに揺れる。渉は井戸跡を見下ろし、呟くように言った。
「……“フセガミ”と呼ばれていたものですね。それは一体……?」
銀次は、まっすぐに渉を見る。
「その名のとおりや。封じられた神、あるいは、封じるために“形”を持たされた何か……。神格を与えて、畏れ、祀ることで、人の手が触れられなくなる。そうすれば、恐れなくて済むからな。……そういうもんや」
「それが、井戸の中に……?」
「そうじゃろうな。この辺は昔から“忌み地”として、人が近寄らんかった。療養所も、たまたま空いてたから建てたわけじゃない。誰も手をつけたがらん、そういう場所だったんや」
渉はそっと息を呑んだ。地図にも資料にも現れない、けれど確かに人々の記憶には残されてきた土地。そしてその中心に、名を与えられ、封じられた“何か”が存在する。
「……記録としては、何か残っていませんか? 名前や、儀式の内容とか……」
「残っとったら、とっくに誰かが掘っとるわ。ただ……神社には残ってるかもしれんなぁ」
銀次は肩をすくめた。
「こういう話はな、語り継ぐこと自体が“穢れ”とされた時代があった。誰にも伝えん。ただ“避ける”ことで守ってきたんや」
その言葉は、静かに、だが深く渉の胸に響いた。
人が語ることすら忌むほどに、深く封じられ、そして忘れられてきたもの。だが、渉には聞こえる。
――《きこえる?》《わたしたちを、わすれないで》
囁くような声が、またひとつ、耳の奥に触れた。
渉はゆっくりと頭を下げた。
「ありがとうございます。思い出して来てくださって……これで、だいぶ輪郭が見えてきました」
銀次は細く微笑み、背筋を伸ばして言った。
「気ぃつけるんじゃぞ。封じられたもんは……忘れられることを、なによりも恐れとる」
そう言い残し、銀次は草むらを踏み分け、再びゆっくりと帰っていった。
*
翌々日。
渉と颯汰は、町外れの古びた神社――久野嶋神社を訪れた。
鳥居をくぐると、風に揺れる杉の木々が、どこか懐かしい香りを含んで、ふたりの足音を吸い込んでいく。
社務所の引き戸を開けると、中には落ち着いた雰囲気の宮司が一人、帳簿を広げていた。
六十代後半ほどの年齢だろうか。白髪交じりの髪に眼鏡をかけ、物腰は穏やかで、話しやすそうな雰囲気をまとっている。
「こんにちは。少しお話を伺いたくて……」
渉が頭を下げると、宮司は眼鏡越しにふたりを見て、優しく微笑んだ。
「ええ、どうぞ。今日は風が少し強いですね。中へお入りください」
案内されたのは、社務所の一角にある小さな応接スペースだった。座布団に腰を下ろし、渉と颯汰は手短に要件を伝える。
「荒井のおじいさんにお話を聞いて、こちらに伺ったんです。昔の封印とか、“フセガミ”とか……」
颯汰が口にすると、宮司は少し首をかしげた。
「荒井さん……? すみません、すぐには心当たりが……。どちらの方でしたか?」
宮司の眉がわずかにひそめられる。
「えっと、旧保養所の近くに住んでる高齢のおじいさんで、いまは一人暮らし――」
渉が補足すると、宮司は「そうでしたか……でも“フセガミ”のことをご存知なんですよね」と不思議そうに呟いた。しばし思案したのち、宮司はゆっくり立ち上がると、壁際の書棚から一束の古文書を取り出して机の上に広げた。
黄ばんだ紙は時間の重みに沈黙しながらも、何かを今も伝えようとしている。墨のかすれた筆致が、時代の隔たりを越えてこちらを見ていた。
「これは、当社に伝わる古い祭祀の記録です。“フセガミ”という存在を封じ、祀るためのものですね」
渉がそっとページをめくると、乾いた紙の音が小さく響いた。
「……これは? ここに書いてある“封じられし芽”とは?」
「ええ、“封じられし芽”とは、地中に根を張り、時を経て暴れ出す災厄の象徴とされています。それを鎮めるために、代々祈祷が行われてきました」
宮司は一節を指さしたが、そこにある文字のいくつかはもはや判読不能だった。
「ただ……記録はご覧の通り、断片的です。詳しい儀式や道具の使い方については、もう正確には伝わっていないのです」
颯汰が、ややためらうように問いかける。
「でも祈祷は……続いてるんですか?」
宮司は静かに頷いた。
「ええ、形式的なものは続いています。ただ、その意味まで深く理解して続けている者は、少ないかもしれません。私も……正直、手探りです」
「その封印が……緩むってことはあるんですか?」
颯汰の目はまっすぐだった。
宮司はしばし沈黙し、やがて言葉を選びながら口を開く。
「……その可能性は否定できません。ですので、あの土地には安易に立ち入らないでください。封じられたものが目を覚ませば、町全体を巻き込む事態になるかもしれない。これは単なる禁忌ではなく、警告であり、同時に“守りの知恵”でもあるのです」
渉は静かに古文書に視線を落とし、言葉を絞り出した。
「……忘れ去られないように、祀り続けるしかないんですね」
「ええ。封じるという行為は、人の営みの中で続いていくものです。絶やしてはいけない。忌み地として守り続けることが、最も大切なことなのです」
窓の外では、風が杉の葉を揺らしていた。
古い神社の空気が、静かに、しかし確かに、渉たちに語りかけてくる。
封印の重さ、その根にあるもの――それらを前にして、ふたりは自然と背筋を正していた。
「……行こう、颯汰。あの草たちの声を、ちゃんと聞いてみたい」
*
神社を後にした渉と颯汰は、空き地へ戻ってきた。
風に揺れる草たちが、まるで生きているかのようにざわめいている。
踏み入れた瞬間、足元から伝わる冷たい気配に、渉はわずかに身震いした。かつて誰かがここで何かを封じた、その記憶がまだ残っているようだった。
ゆっくりと目を閉じ、呼吸を整えて草の声を聞こうとした。
だが、一斉に押し寄せる情報の波に意識がかき乱される。
――《覚えている……》《古い》《記憶》《封じられた》《芽》《暴れた日々》《痛い》《外へ出たい……》
声はどれも重なり合い、言葉が乱れて渉の頭の中で混沌を巻き起こした。
「うっ……」
思わず目を閉じ、肩を震わせる。
「先輩、落ち着いて。草たちはなんて言ってる?」
颯汰がそっと肩を支え、優しい声で言った。
「彼らの感情が強くて、情報が渦巻いてる……一度に全部聞くのは……無理……できない」
「先輩、桜の栞持ってる? 手に持って」
言われた通り、栞に触れて、再び草たちの声に耳を傾けた。
次第に情報の断片が整理され、渉の中で意味が繋がっていく。
――《“芽”は封じられた力》《封印の古種は暴走した》《かつて大地を荒らした》《掘り起こせばまた暴れる》《でも外の世界を知りたい触れたい》《自由になりたい》
渉は震える手でそっと草を撫でながら、囁くように返す。
「怖いけど、君たちの声はちゃんと聞いている。封印が弱まっているなら、どうすれば守れるのか教えてくれ」
草たちのざわめきが、少しだけ落ち着きを取り戻した。
――《外の世界を知らねば、この地も死ぬ》《封印は永遠ではない》《その時、何かが目覚めるかもしれぬ》《新たな形を創らねば、全ては終わる》《共に歩む者よ、決断をせよ》
渉は深く息を吸った。
「君たちも怖いけど……掘り出すべきだと言っているのか?」
草たちの囁きは微かに肯定を示す。
――《封印の重荷は苦しみ》《だが解き放つ道こそ、未来への扉》《信じる手を貸せ》
「封印を続けるだけでは、やがて壊れてしまう。新しい方法を探るべきだ。掘り出し、理解し、共存の道を模索する」
渉は草を優しく撫でながら、決意を新たにした。
「わかった。怖いけど、君たちと一緒に道を切り開こう」
西日に照らされた空き地は、太陽の光を受けながら草たちが揺れ、渉たちの決意を見守っていた。
次回は、8月15日(金)更新!




