第三話 声の洪水(前編)
深夜の大学構内は、昼の喧騒とは違い、研究棟の廊下を渡る風の音だけが耳についた。
蛍光灯の下、古地図とコピーされた資料を机いっぱいに広げ、渉と颯汰は黙々と作業を続けていた。
「……地形の変化、こうして並べると顕著だね。昭和初期の地図じゃここ、“池”って表記がある」
颯汰が指先でなぞったのは、今は草むした空き地になっている一帯。渉がその横に並べた戦後の地図と見比べると、池の表示はなく、代わりに「清和結核療養所」の名称が記されている。
「埋め立てて病棟を建てたのか……でも、それにしても」
渉が顔を上げた。眠気を押しのけるように、手元の資料に目を凝らす。
「この地図、療養所の図面も粗いし、何より境界が不明瞭すぎる。これだけの土地に建物があったなら、何かしら詳しい区画記録があるはずだよ」
「まさか、市の記録から“意図的に消されてる”とか……?」
冗談のように笑って言った颯汰だったが、渉は目を伏せて黙った。
その沈黙に、彼もすぐに真顔に戻る。
ふと、研究室の隅に置かれたスマートフォンが震えた。颯汰が手に取ると、表示されたのは郷土史家・多々良の名。
『ひとつ、思い出したことがあって連絡したんだがね。空き地の南端……ちょうど緩やかに窪んだあたりに昔“開かずの井戸”があったという話がある。今は埋められて何もないが、昔の村の境界を示す大切な井戸だったらしい』
「開かずの井戸……?」
メッセージを読み上げる颯汰の声に、渉が身を乗り出す。
「位置、特定できる?」
颯汰が地図の上に手を伸ばし、印刷された微細な等高線のわずかな歪みに指を当てた。
「このあたり……ちょうど今、草が不自然にまばらだった一帯に重なる。そこ、行くべきだな」
颯汰の声には決意がこもっていた。
渉も頷くが、その表情は曇っている。
「でも……また……」
「大丈夫。俺もついてるし、機材も借りられる。ちゃんと“準備”して行こう」
机の上、かすかに風が吹いたように一枚の紙がめくれた。
草花に埋もれた井戸の想像図が、ちらと顔をのぞかせる。
“声の洪水”が、再び彼らをのみ込もうとしていた。
*
午前十時。夏の陽がじりじりと空き地を照らしていた。
再び訪れた現場は、数日前と変わらぬ静けさを湛えていた。いや、変わらないように“見える”だけだ。
渉の胸中には、確かに違和感が積もっていた。
「こっちの南側だ。地形図で見た窪み、たしか……」
颯汰がタブレットを見ながら歩く。そのすぐ後ろを渉がついていく。
前回と違い、今回は長靴に日除けの帽子、荷物も計測機器を入れたバックパックに替えている。
フェンスの切れ目から中に入り、茂る草を踏み分けて進む。湿った土の匂いと、微かに甘い花の香りが混ざっていた。
「ここ、だな……」
颯汰が立ち止まった地点は、緩やかな傾斜の底。まるで地面が息をひそめるように、草丈が不自然に低い場所だった。中心には円形に草が倒れ、地肌が覗いている。
「……あの時の“うねり”が強かった場所と、一致してる」
渉が足元を見下ろす。風が吹いたわけでもないのに、草がそよいだ。
呼ばれている。
また、声が。
「……っ」
不意に、視界が揺れた。額を押さえ、渉が立ち止まる。
……ここ…………ここにいる……ひかりがない……みてほしい……きこえるの?
次々と流れ込む無数の声。前よりも鮮明で、直接“思考”に叩きつけられるようだった。
草の一本一本が、自身の過去を語ってくる叫びに聞こえた。
根から吸い上げた記憶、見たことのない時代の光景、焼けるような熱、深い悲しみ。
「……やばい、また……」
崩れ落ちそうになった身体を、颯汰がすかさず支えた。
「先輩! 落ち着いて、聞こえてるんだよな? 深呼吸して!」
だが渉は答えない。唇を震わせ、目を見開いたまま土を見つめている。まるで意識が半分、地面の中へ引きずり込まれているかのようだった。
再び声が押し寄せてくる。
……わたしたち……おぼえている……たれもこなかった……ひとがふんだ……ここ……とじこめた。
「……っ、苦しい……っ!」
胸を押さえ、片膝をつく。土に触れた手のひらから、さらに強く流れ込んでくる記憶。
――黒い布に包まれた何かが、静かに地中へ降ろされる。
――声も、涙も、風すら届かない。
――ただ植物たちだけが、見ていた。
その光景が、渉の脳裏に焼きついていく。
「引くぞ、もう無理だ!」
颯汰が背中に腕をまわし、ぐっと渉を抱きかかえるようにして引き起こした。
強引にでも距離を取らなければ、またあの日のように“取り込まれて”しまう。
「いったん下がる、離れよう!」
数歩後退しただけで、渉の表情が少しずつ戻る。呼吸が整い、肩の震えが弱まっていく。
「……ごめん。急に……」
「いいから。あれだけの情報を受け取って、正気でいられる方が不思議だよ」
颯汰はあえて軽く笑ってみせたが、その目は真剣だった。
「でも、確かに聞こえた。“閉じ込められた”って。まるで……訴えてるみたいだった」
渉が頷く。汗で湿った髪の下から、確かな決意の光が覗いていた。
「何があったのか、ちゃんと調べないといけない。あの声に応えるためにも」
空き地の奥――草の波が風に揺れる。
その下に埋もれているのは、歴史か、それとも罪か。
まだ“声の洪水”は終わっていなかった。
*
車の中は、しばらく沈黙が支配していた。
助手席に座る渉は、まだ浅く呼吸をしていたが、だいぶ落ち着きを取り戻していた。
運転席の颯汰は、ちらりと横目で様子をうかがいながら、静かに声をかけた。
「先輩……少し、話せる?」
渉は目を閉じたまま頷いた。少しの間を置いて、ぽつりと口を開く。
「……じつは植物の“声”が聞こえるんだ。最初は……“気配”とか、“記憶”とか、言葉にならない想念のかたまりみたいなものが、頭に直接流れ込んできてた……」
颯汰は驚いたように目を見開いたが、声を荒げたり、問い詰めたりはしなかった。
ただしばらく、それをかみしめるように黙っていた。
「それって……ずっと前から?」
「ああ、子供の頃からずっと。でも、今年に入ってから……言葉として受け取ってる」
渉は、ポケットから例の桜の栞を取り出した。紗久夜の気配が微かに残っている気がして、ふと親指でなぞる。
「きっかけは、千年桜と出会ってからだ。声がどんどん強くなってる。今回の空き地の件は、それがピークみたいな状態だ」
「だから、あんなに……」
颯汰が静かに呟く。声は驚きというより、納得だった。
「……話してくれてありがとう、先輩」
「……信じるのか?」
「うん、信じる。だってあれだけの反応、説明がつかないし……それに」
颯汰は軽く笑った。
「俺、渉先輩がウソつくような人じゃないって知ってるから」
渉の顔にわずかに安堵が浮かぶ。
「ありがとう。……お前に言えて、よかった」
そのとき、車の窓をコンコンと叩く音がした。
二人が顔を上げると、車の外に白髪の老人が立っていた。杖をつきながらも、背筋は意外としっかりしている。
窓を開けると、老人がにこりと笑った。
「君たち、さっきの草むらで何か探してたな? あそこに興味があるのかい?」
「いえ……あの土地について、調べていて……」と颯汰が応える。
老人はゆっくり頷いた。
「なら、うちに来るといい。話せることがあるかもしれん。あの場所については……若い人が知らないこと、まだまだある」
渉と颯汰は顔を見合わせた。
「本当に、よろしいんですか?」
「かまわんさ。ちょうどお茶も沸いたところだ」
老人の家はすぐ近く、古い瓦屋根の平屋だった。
縁側には風鈴が揺れ、猫が丸くなっている。庭には百日紅が咲き、静かな時間が流れていた。
「疲れてるようだな、若いの。少し横になってもいい。話はそれからだ」
渉は素直に礼を言い、座敷の縁に腰を下ろす。
畳の匂いと涼しい風に、少しだけ身体がほぐれていく。
その間、颯汰と老人が庭先で話しはじめていた。
土地の記憶、若い頃の体験、戦後の変遷、そして“あの井戸”の話。
渉は目を閉じながら、意識の深いところで、草たちの囁きを追っていた。
(あの声たちを、繋ぎ合わせるんだ。断片じゃ、救えない)
そしてその先にある、紗久夜の記憶にも――触れたいと思っていた。
*
颯汰視点
渉が縁側で横になってまどろむ間、颯汰は老爺と向かい合って、庭先の木の縁に腰を下ろしていた。
湯呑に注がれた番茶は、少し熱く、けれど土の香りがするような味だった。
「若い人が、あの空き地を気にするとはな……。あそこは、昔から“変な場所”だったよ」
老人──名を荒井銀次という──は、しわの刻まれた手で湯呑を包みながら、ゆっくりと語り始めた。
「わしが子どもの頃、あのあたりはまだ木立があってな。今みたいに開けてなかった。戦争のあとに、あそこが“整地”されたんだ。療養所ができる前の話さ」
「整地、というと……何かがあったんですか?」
「……ああ。井戸があった。大きな、石積みの井戸だ。周囲には木の柱が立てられ、縄が張られて近づくなって書かれてた。子どもには意味がわからなかったが、大人たちは“あそこは近寄るな”と、やけに厳しかった」
颯汰は思わず背筋を伸ばす。
「その井戸には何かあったんですか?」
「いや……逆だな。“何かがあった”んじゃなく、“何かを封じていた”」
銀次は、湿った風が庭を通り抜けるのを見送るように、空を見上げた。
「土葬だった時代、その井戸の周辺にはよく火の玉が出るとか、声がするとか、いろいろ言われてた。だが不思議と、土地そのものは痩せないんだ。草はよく育つ。……まるで何かが、下から養分をくれてるように」
「……」
「やがて、療養所の建設が決まって、井戸は埋められた。“病を封じる”という名目だったらしい。けど、あれはただの埋設じゃない。地元の古い神社から、神職が呼ばれていた。白装束でな。わしはその姿を覚えてる。大人たちの顔つきが、ただの土地造成には見えなかった」
銀次の目が、細くなる。
「その後、療養所の入所者の中で、ある噂が広まった。『夜になると地面の下から声が聞こえる』『夢の中に誰かが立っている』『誰かを“忘れてはいけない”と、囁く声がある』……」
「まるで、“記憶”を伝えようとしてるような……」
颯汰の口から漏れた言葉に、銀次が頷いた。
「そうかもな。忘れられた人間の声か、あるいは……この土地そのものが、何かを覚えているのかもしれん」
そのとき、渉が縁側から身を起こした。
目はまだ少し赤かったが、表情ははっきりとしていた。
「……ありがとうございます。その井戸の場所、少しでも覚えてますか?」
銀次はしばし目を閉じて考え、やがておもむろに立ち上がった。
古びた箪笥から、色褪せた手書きの地図を取り出して戻ってくる。
「ここだ。療養所の建物が建つ前の、元の地形を描いたものだ。家の整理をしてたら、出てきてな……捨てられなくて、しまっておいた」
地図の一角に、手書きの注釈がある。
《フセガミの井戸》
渉と颯汰はその名を見て、息を呑んだ。
「……“フセガミ”? 封じる神、ですか?」
「そう読んでいい。だが、正式な神社名ではない。あくまで“地元の人間が呼んでいた名”さ。どこかから来た神か、土地神かも定かじゃない。ただ、そこには“名がない神”がいたという言い伝えもある」
「この井戸が、いまの空き地のどの辺にあたるのか、特定できますか?」
「……正確な測量は無理だが、目印はある。桜が一本だけ、他と違う方角を向いてるはずだ。風の流れとは逆に、傾いてる。……その根元に、井戸が埋められてる」
「わかりました。探してみます」
颯汰が礼を述べ、銀次も穏やかに頷いた。
「気をつけなさい。声に引きずられるな。あれは“記憶”だが、時に心を壊す」
その警告を胸に、二人は立ち上がる。
今度こそ、あの草原にある“核心”へ、たどり着かねばならない。
次回は8月8日(金)更新!




