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第一話 声を拾う者

 春の風は、柔らかくて、少し寂しい匂いがする。


 集音路 渉(しゅうおんじ わたる)はいつもの坂道を上りながら、冷気を孕んだ風から身を守るようにして、トレンチコートの襟を立てた。


 今年は四月に入っても、街の空気はまだ冬の名残を抱えていた。それでも花たちは、待ちきれないように一斉に芽吹き、色づき、声をあげる。


 歩き慣れた道の両側には、街路樹や花壇が並び、その小さな空間から季節の変わり目を静かに知らせていた。


 それは誰にも聞こえない、小さな、小さなささやき。


 蕾は「まだだよ」と身を固くし、葉は「今日は気持ちいい」と葉をいっぱいに広げている。

 

 咲き誇る花は、誇らしげに「見て、見て!」と花弁を揺らし、逆に落ちた花弁は「ありがとう」と静かに横たわって地に還る。


 渉は、物心ついた頃から植物たちの声が聞こえていた。いや、聞こえるというのは少し大げさだった。彼らの声は人のような言葉ではなく、頭にイメージが流れ込んでくる感覚。はじめて感じた時、一体なんなのか、理解できなかった。それに、それは普通の事だと思っていた。


 幼稚園に行き始めて間もない頃、家にある鉢植えから肥料が多すぎる、水が足りないというイメージが頭に浮かんできた。しかし、そこのことを両親に告げても、二人とも怪訝な顔をするばかりだった。


 でもそれは親に限ったことではなかった。


 幼稚園でも、小学校でも、先生やクラスの友達に言っても信じてもらえなかった。

 信じてもらえないどころか、嘘つき呼ばわりされ、ひどい時には気味が悪い、と言われた。


 だから植物からの訴えを知っていても、誰にもそのことを言わなくなった。

 ただ静かに、黙って生きることにした。


 誰にも言わなくなって、忘れたころ、なぜか祖父は気づいていたみたいだった。


(わたる)、お前は花守(はなも)りだな」と笑顔で言ってくれたことを今でも覚えている。


 そして中学生の頃、「植物のお医者さん」という存在をテレビで知った。と同時に、その先駆者である柳教授のことを知り、彼のいる大学へと入学した。

 

 教授の研究室にも入り、そして密かに植物の声を感じながら、癒す技術を学び、【ボタニカルドクター】と【バイオアーバリスト】という資格を取得。


 現在は、大学院で博士課程を歩みながら、柳教授の助手として研究室に籍を置いている。

 肩書きこそ“植物医”だが、学者としての道はまだ半ばだ。


 当然だが、教授には植物の訴えを感じることは言っていない。

 

 しかし、初めて会った日。「集音路渉くん。あなたでしたら、ぜひ私の助手をお願いしたいと思います」とだけ告げた柔和な表情を、今も忘れられない。


 そんな日々のなかで、今年の春は、少しだけ違った。

 あるニュースが、植物たちよりも先に伝えてきたのだった。


 *


 電車の中でスマホを開いた渉は、ある記事に目を留めた。

 

『千年桜、今年は開花せず? 満開のソメイヨシノにも遅れをとる枝垂桜の古木』

 

 写真に映ったその木は、どこか寂しげで、渉は小さく眉をひそめる。

 

 ——まだ、咲いてない?


 研究室に着く頃には、気になって仕方がなくなっていた。

 思わず備え付けのテレビのリモコンに手を伸ばす。

 柳教授が普段から“音と映像の時代の記録性”について語っていたこともあり、研究室には年代物のテレビが現役で残っていたのだ。


『古都の千年桜、果たして今年は咲くのでしょうか?』


 女性アナウンサーが現地から報告している映像に目を凝らす。画面に映った蕾はまだ硬そうで、胸の奥に妙な違和感が残った。


 ——あの木は、咲くことをためらっている。

 そんな気がしてならなかった。


 ふと研究室のドアの開く音がし、視線を向けるとすぐに柳教授が現れた。出張から戻ってきたのだ。

 いつも通りの落ち着いた雰囲気が漂っていた。


 教授は小柄で、白髪交じりの髪を後ろにきちんと整えている。眼鏡をかけたその顔には、年齢相応の深いしわが刻まれているが、その表情は柔和で、どこか優しげだ。

 しかし、その背中にはどこか威厳が漂っていて、普段から周囲の人々に自然と敬意を抱かせるオーラがある。


「教授、おかえりなさい。お疲れ様でした」


「ただいま戻りました。集音路くんもお疲れさまです。留守中、何か変わったことはありましたか?」


 柳教授の声は、まるで穏やかな春風のように心地よく響く。


 それに対して渉は軽く首を振りながら応えるが、教授の視線はどこか引っかかるように、テレビ画面をじっと見つめていた。


 画面には、未だに千年桜の映像が映し出されている。

 老いた一本の桜の木が、春風に揺れる枝をわずかに震わせている。


「やはり、気になっていましたか?」

 

 渉がぽつりと問いかける。


「ええ。今朝、出先でこのニュースを見ましてね」

 

 教授は軽く頷きながら椅子に腰を下ろし、静かに画面を見つめた。


 さっき感じた違和感を、ふと思わず口にしていた。


「この桜、咲くでしょうか?」


 教授が少し顔をしかめ、静かに画面を見つめたあと、低い声で答えた。


「さあ、どうでしょう。この桜が咲くか咲かないかは、私たちには分かりません。ですが千年もの長い時を生きてきました。それだけでも何か特別な意味がある気がしてなりません。集音路くんは、どう思いますか?」


 教授の言葉を反芻しながら再びテレビに目を向けた。

 画面からでは、桜の木の声は聞こえない。けれど、その存在は確かに強く、何かを訴えているように感じられる。


 千年もの長い間、生きてきた桜。

 単なる植物の枯れる、咲くという枠を越えて、深い歴史や意味を持っているような気がした。


 教授の問いに、どう答えようか考えていると、不意に白い封筒が目の前に差し出された。


「植物庁からです。封を開けて確認してくれますか?」


 教授の手から受け取った封筒は、少し厚み、ずしりと重みもあった。

 封の上には、きちんと『植物庁』の名前が印刷されている。

 さっそく封を切って、中から一通の文書を取り出した。


植物庁 植物文化財保護課

令和○年4月吉日

東京環境生態大学 植物生態学研究室

教授 柳 緑水 様

 

拝啓 早春の候、ますますご清栄のこととお慶び申し上げます。

さて、下記の件につき、現地調査のご協力をお願い申し上げます。

 

 

対象個体:

A県桜野町 国定公園内に所在する枝垂桜(通称「千年桜」)

※国指定天然記念物(昭和○年指定)

 

調査目的:

千年桜の開花状況および健康状態に関する緊急調査

 

背景:

当該個体において、近年は開花数の減少が確認されており、令和○年度の開花期においても現在まで開花の兆候が見られません。

地元自治体および文化財関係者より、植物生理的要因および環境的要因の総合的な調査が要望されています。

 

依頼事項:

・現地調査および開花遅延要因の分析

・必要に応じた土壌・気象・周辺環境の記録

・植物庁への所見報告(4月末日まで)

ご多忙のところ恐縮ではございますが、貴研究室の知見とご尽力を賜れますよう、よろしくお願い申し上げます。

 

敬具

 

植物庁 植物文化財保護課


 


 読み終えた瞬間、胸の奥の違和感が、静かに確信へと変わった。


 ——やはり、あの桜には何かが起きている。


「この依頼、受けられるんですか?」


 封筒を丁寧に封じ直しながら、教授に問いかけた。


 柳教授はすでに立ち上がっており、窓辺に置いてある鉢植えに声を掛けたり、水をあげたりしていた。そして静かに渉のほうへ向き直ると、穏やかに頷いた。


「もちろんです。千年を越えて生き続けた桜が、今年はなぜ咲かない……いえ、何を語ろうとしているのか確かめなくてはなりませんからね」


 こうして、春の始まりとともに千年桜調査が幕を開けた。


 *


 翌日。東京駅の新幹線ホームで柳教授を待っていた。

 時間までまだ余裕はある――はずだったが、ポケットのスマホが小刻みに震えた。

 画面には「柳教授」の名前。通話ボタンを押すと、すぐに教授の穏やかな声が耳をくすぐった。


「急用ができました。申し訳ないのですが、今回の調査はひとりでお願いします」

 

 それだけ伝えると、教授は一拍おいて言葉を続けた。

 

「集音路くんなら大丈夫です。君の思うように、調査をしてください」


 短い沈黙のあと、通話はあっさりと途切れた。


 ほどなくして、新幹線がホームへ滑り込んでくる。

 車内に腰を下ろし、窓の外をぼんやりと眺めていると、教授の言葉が胸の奥で繰り返された。

 ひとりでの調査は初めてではない。けれど、今回はなぜか、落ち着かない。

 不安を打ち消すように、鞄から植物庁から渡された資料を取り出し、ページをめくった。


 ほどなくして、新幹線は西へ向かって静かに発車した。


 千年桜は枝垂れ桜。国の天然記念物であり、管理も行き届いている。

 資料を読み返しても、病気や害虫、剪定による影響など、不安を煽る記述は見当たらない。

 唯一、花の数が年々減っていることだけが目に留まるが、これは老木には避けられない宿命だろう。


 枝垂れ桜の寿命は、せいぜい三百年。

 それを三倍以上、生き延びている千年桜。

 資料には開花時期のことも記されていた。毎年三月半ば、遅くとも三月終わり頃には咲く。

 ところが今年は四月に入っても、その兆しすらない。


 テレビのニュースで映し出された姿も、蕾は固く閉じたままだった。

 あと二週間――いや、もっと遅れるかもしれない。


 いったい、何が起きているのか。


 新幹線を降りたあとは、市電をいくつも乗り継ぎ、目的の地である桜野町へと向かう。

 列車から降り駅舎を出ると、春の陽気に包まれた街路が続いていた。

 どの家の庭先も、公園の桜も、ちょうど満開を迎えていた。


 薄桃色の花びらが風に乗り、ひらりひらりと空に舞う。

 すれ違うたび、桜たちが「おはよう」とささやくかのように花びらを揺らしている。


 そして、目的の桜である千年桜のもとへ辿り着いた瞬間だった。


 そこだけ、音が消えていた。

 世界から、春のざわめきがすっぽりと抜け落ちたかのような、異様な静けさ。


 資料通り、高さは十五メートル。枝は四方に二十五メートルも広がっている。

 だが、花の咲いていない木はまるで骨組みだけのオブジェのようで、支柱のほうが重々しく見えた。


 柵の向こう側。

 蕾は硬く閉ざされたまま、ひとつも咲く気配がない。

 

 それは、桜に近づいた瞬間だった。

 

 ――ザアア……

 

 音ではない。それは、風の記憶のような、遠い夢のような。

 光の粒が、流れる水のように頭の奥に流れ込んできた。

 色も形も持たず、ただあたたかな感情だけがそこにあった。

 寂しさ。祈り。やさしい、声。

 

「……っ」

 

 渉は思わず息を呑んだ。

 見上げた桜の枝が、風もないのにわずかに揺れている。

 

(今の……なんだ……?)


 頭の奥に、記号のような、名残のような“音”が残っていた。

 

「──✿……§#⊕?⊕……」


 意味はわからない。けれど、確かに訴えかけてきた。


 渉はぽつりと口にした。


「……いない? 何が……?」

 


 

「なにか御用ですか?」


 突然、背後からの声に、はっと振り返る。

 ベージュ色の制服姿の中年男性が、額の汗をタオルで拭いながら立っていた。

 名札には『植生管理課 石井 崇志』と書かれている。どうやら役所の人らしい。


「集音路と申します。植物庁からの依頼で、柳教授の代理として調査に来ました」


 名刺を差し出すと、相手も名刺を取り出し、互いに軽く頭を下げた。


「集音路渉さん……ボタニカルドクター、ですか」


「簡単に言えば、植物医です」


「植物医……さん、ですか。ああ、柳教授から連絡は受けています。こちらへどうぞ。千年桜の立ち入りは制限されていますので、ご案内します」


 石井の案内で、柵のそばへと歩いていった。

 色あせた立ち入り禁止の看板は、年月の風雨に耐えてきた証。


「石井さん、新たに分かったことなどありますか?」


 道すがら、植物庁の資料に書かれていた情報を石井に確認したが、返ってきた答えは同じだった。


「いえ、特にありません。今年は蕾が固いままです。去年も開花は遅れましたが、ここまで長引くのは記憶にありません。地元の人たちは、みんなこの桜を楽しみにしていて……。今年は特に、心配しているんです」


 石井は桜を見上げて、静かに笑った。


「昔から、この木は特別ですから。咲かない年なんて、考えたこともありません。最近は町の人が冗談交じりに、『桜が怒ってるんじゃないか』なんて噂してます。科学的には説明がつかないけど……今年は、なんだか変です」


 その言葉に耳を傾けながら、再び柵の向こう、咲かぬ桜の枝先に目をやった。


「すみません。近くで見てもいいでしょうか。できれば……幹にも、触れたいのですが」


 渉の問いに、石井は少し驚いたようだったが、すぐに頷いた。


「もちろんです。ただ、どうか優しく。長生きの桜ですから」


 礼を言い、柵を越えて木のそばへ歩み寄る。

 そっと、幹に手を添えた瞬間。

 ほのかに、桜の鼓動が掌へ伝わった。


 それは迷子の心音のように、不安定で、小さく震えていた。


『――✿……§#⊕?⊕……✿……$✿……』


 先ほどよりも、はっきりとした感情が頭に流れ込んでくる。

 

 (もういない? 探して?――どういう意味だ?)


 けれど、千年桜はそれ以上、何も語らなかった。

 静かに手を離し、幹や枝ぶり、地表を改めて観察したのち、石井のもとへ戻った。


「ありがとうございました。……この木、少し弱っているようですね」


「やっぱり……そうですか」


 顔には、淡い諦めと、拭えない寂しさの影が浮かんでいた。


「集音路さん、もし何か分かったら、教えてください。町の人も、桜も、きっと待っています」


 小さく頷きながら、再び桜の木を振り返った。

 あの音の意味——「もういない」「探して」

 一体、何を指して、どういう意味なのだろうか。

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