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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

愛する旦那様へ、この家を出ていきます。もう二度と会うことはないでしょう。

作者: 四馬㋟




「とんだ醜女をあてがわれたもんだ。お前なんぞ、誰が嫁に貰うものか」


 面と向かって見合い相手の男性に嘲笑されても、月姫子は何も感じなかった。

 ただこれ以上相手を不快にさせないために、俯いて顔を隠す。


 いくらか酒を飲んでいるせいもあるのだろう、「これっ」と同席した両親に窘められても男は馬鹿笑いをやめなかった。しまいには「てっきり見合い相手は美人の妹のほうだと思っていた。これでは話が違う」と怒り出す始末。


 二十数回目の見合いは散々な結果に終わり、家に帰れば地獄が待っていた。


「この穀潰しがっ。一体いつになったらこの家を出ていくのよっ」


 着物を剥ぎ取られ、鬼のような形相した継母に折檻される日々――父親の助けはとっくの昔に諦めていた。元より、彼はほとんど家にはいない。仕事で忙しいと言いつつ、馴染みの芸者のところへ通いつめているのだ。それでいつも継母の機嫌が悪いのだと、なんとなく察しがついた。


 ただでさえ、継母は先妻の娘である自分を嫌っているというのに。


 ――私だって、さっさとこんな家から出て行きたい。


 自室で自身の傷の手当てをしながら、月姫子はぼんやり考えていた。ベルトで打たれた背中を見るために鏡を覗き込むと、そこにはガリガリに痩せた十八の女が映し出されていた。青白い肌にはいくつもの青痣と、ミミズ腫れのような赤い筋があり、とても綺麗とは言えない。


 顔にいたっては額から顎にかけて、煤で汚れたような痣があるせいで、醜女と呼ばれてしまう。もう見慣れてしまったので自分ではなんとも思わなかったが、どうやら他人の目には薄気味悪く映るようだ。それを知ってからは、極力うつむき加減で、顔を隠すようになっていた。すると根暗で陰気な娘だと、いっそう周囲に毛嫌いされてしまう――悪循環だ。


 ――お母様が生きていたら、こんなことには……。


 母は大変な器量良しで、歴史ある名家の出身だった。しかし名家とはいえ没落寸前の華族、当時、商人として成り上がりつつあった父の目に止まり、身売り同然で嫁入りさせられてしまったらしい。


 ――それでもお母様は私を愛してくれた。


 今では誰も信じないだろうが、子どもの頃の月姫子は透き通るような肌に薔薇色の頬をした大変な美少女だった。外を歩けば誰もが振り返り、なんて美しい娘だろうと口々に褒めそやしたものだ。


 母もそんな娘を自慢に思っていたらしく、どこへ行くにも月姫子を連れて出かけた。


 ――お母様の様子がおかしくなったのは、確かお父様が異国から戻ってきたあと……。


 父は母に土産物として異国の神の像を贈った。

 それは大きな木彫りの置物で、美しい少女の姿をしていた。

 

 その美貌に家の者たちは夢中になり、やがて「月姫子様ですらこの像の美しさにはかなわない、この家で最も美しいのはこの少女の姿をした神の像で、月姫子様は二番目だ」と使用人たちですら噂するようになった。


 それを聞いた母は怒って神の像を燃やしてしまったのだが、それからまもなくして母は心臓発作で亡くなり、月姫子の顔には煤で汚れたような痣が浮かび上がった。いくら洗ったり擦ったりしても、黒ずんだ肌が以前の綺麗な肌に戻ることはなかく、


 ――神罰が下ったのだと、誰もが言ったわ。


 事実、神の像は燃えずに残り、気味悪がった父が蔵の奥に隠してしまった。


 金持ちの娘らしく、蝶よ花よと育てられた月姫子だったが、母が死んでからは状況ががらりと変わってしまった。父は自分に見向きもしなくなり、早々に後妻を家に入れて、家事の一切を取り仕切らせた。




『なんて醜い子だろう。お前のような不器量な娘、生まれてこの方、見たことがない』



 それが月姫子への、継母の第一声だった。

 元来が子ども嫌いなのだろう。例外なのは自分の血を引く子どもだけ。



「ちょっと月姫子、窓枠が汚れているじゃない。まともに掃除もできないなんて、本当に役立たずなんだから」

「申し訳ありません、お母様」

「月姫子、あたしの訪問着はどこ? まさかお前が盗んだんじゃないでしょうね」

「すぐに探してまいります、少しだけお待ちください」



 彼女に対して、月姫子は娘というより使用人のように尽くした。笑顔の練習をしたり化粧をしたりと、少しでも自分を美しく見せようと努力もした。けれど記憶にある限り、継母から優しい言葉をかけられたことは一度もない。学校にも通わず、どれほど家のことを手伝おうと「穀潰し」と罵られる。対して連れ子である妹は女学校に通い、なんの苦労も知らずに育ち、可愛がられている。


 最初こそは理不尽に感じたものの、今では完全に諦めていた。


 ――皆が言うように、本当にバチが当たったのだわ。


 不安になった月姫子は、夜になるとこっそり蔵に忍び込み、神の像を探した。

 半刻ほどかかって見つけた神の像を見て、月姫子はひっと息を飲む。


 なぜなら少女神の美しい顔は煤で汚れたみたいに黒くなっていたからだ。


 ――私と同じ……。


 試しに布で擦ってみたが汚れはとれず、月姫子は涙を流しながら「ごめんなさい」と呟く。


「燃やされてしまった上にこんな暗い蔵の奥に閉じ込められて、さぞ苦しんだことでしょう」


 月姫子は神の像に、醜い自分の姿を重ねずにはいられなかった。

 仮に母の死や自分の痣がこの像による祟りだとしても、今では当然の報いだと思えた。

 

 涙を拭うと、月姫子は神の像をそっと胸に抱いて、部屋に持ち帰った。

 それから柔らかな布で丁寧に磨いて埃を取り、明るい場所に置く。


「あんなところに独りでいては寂しいでしょう? これからはずっと私がそばにいるわ」


 心なしか、少女神の顔に優しい笑みが浮かんだような気がした。




 ***






「月姫子、感謝しなさい。うちに縁談話がきているわよ。お相手の方は我が家より格式の高い家柄だから、くれぐれも粗相のないように。本来なら、お前にではなく璃々を嫁がせるべきなんでしょうけど」



「あら、お母様ったら、言ったはずよ。私に結婚は早いわ。まだまだ遊び足りないもの」

「困った子ねぇ。まあ、美しい貴女なら、この先、見合い相手には困らないでしょうし」

「そう。だから可哀想なお姉様に譲ってあげるの。優しい妹に感謝してよね」


 無邪気な顔でそう告げる血のつながりのない妹を、これまで何度、羨ましいと思ったことだろう。好きなだけ勉強ができて、いつも美しい格好をしていて、友人たちに囲まれて楽しそうで、それでいて自信に満ち溢れている――あげるとキリがない。


 ――だめよ、月姫子。そんなことを考えては……。


 少女神の美しさに嫉妬した母の顔を思い出して、月姫子は唇を噛みしめる。

 外見は醜くとも、せめて心だけは美しく健やかでいなければ……。


「月姫子、璃々にお礼を言いなさい」

「ありがとうございます、璃々お嬢様」


 畳に手を付いて、深く頭を下げる。


 ともあれ、期待はできない。

 のこのこ嫁いでいったところで、どうせ追い返されるに決まっていると、月姫子は悲観的だった。


「あ、そうそう。お相手の方は戦時中に視力を失っておいでだから、外見で追い返されることはまずないわ。ただし、大変なわがままでご気性の荒い方だそうよ。気に入らないことがあれば女子どもにも容赦なく手をあげるとか。その点、お前は慣れているから平気ねぇ」


 相手が元軍人だと知って内心怖気づいていたものの、今の月姫子には頷くことしかできない。ようやくこの家から離れられるというのに、また暴力を振るわれるのだろうか。これ以上の地獄はないと信じたかったが、現時点では希望を抱くことすら難しい。


「私の分まで幸せになってね、お姉様」


 優しい声で残酷なことを言う妹が悪魔に思えた。





 ***





 その後、あれよあれよという間に縁談はまとまり、結婚式当日を迎えた。


 結婚が決まったと知らされてからは、継母に折檻されることなく、月姫子は穏やかな時を過ごしていた。これまで一日二食だった食事が三食になり、食後にお茶菓子まで用意されるようになった。また、朝早く起きて使用人のように働かされることもなく、ガリガリだった身体には多少なりとも肉もついてきた。


 しかしそれも今日で終わりだと、白無垢姿の月姫子はぼんやりと考えていた。

 白い布地がいっそう黒い痣を濃くしているようで、鏡を見る気にもなれない。


「でも大丈夫、私には志笑しえみ様がいるもの」


 家では誰にも相手をされず、独りぼっちの月姫子は寂しさのあまり、神の像に志笑と名付けて、話しかけるようになっていた。夕飯に好きなおかずが出てきて嬉しかったことや、久しぶりに顔を合わせた父が赤の他人を見るような――まるでお化けでも見たような顔をしていたこと、空を自由に飛び回る鳥を眺めて羨ましいと思ったことなど。


 ――なんでも話せるお友達がいるっていうのは、いいものね。


 はたから見れば気味悪がられる光景かもしれないが、月姫子は開き直っていた。


 ――この先、どうなるかは分からないけれど、家を出られただけでも感謝しなくちゃ。


 ふいに馬車が停まり、大きな屋敷の前で下ろされる。使用人たちに手を引かれ、月姫子はしずしずと門をくぐった。継母と妹は先に来ていて、その敷地の広さ、手入れの行き届いたお庭や近代的な建物に圧倒されているようだった。



「さすがは伯爵家のお宅ねぇ」

「見て、お母様、自動車まであるわ。最新型よ」

「触れてはダメよ、璃々。お父様の収入では、とても弁償できませんからね」



 屋敷の中へ入ると、親戚一同が集まるだだっ広い部屋に案内され、そこで花婿となる男性が待っていた。その日初めて、月姫子は自分の夫となる男性を目にしたのだが、


 ――意外と若い?


 歳は三十過ぎと聞いていたが、見た目は二十代でも通用しそうだ。長身でありながら姿勢も良く、顔立ちも驚くほど整っている。ただし盲目なのは事実らしく、焦点の定まらない目が、ガラス玉のように透き通って見えた。


「月姫子さん、ですね」


 柔らかな口調で訊ねられて、月姫子は慌ててうなずいた。

 けれど相手が盲目であることを思い出し、「……はい」と小声で返事する。


「初めまして、神納かのう家の長男、煌雅こうがと申します」


 それほど大きな声を出していないのに、彼の声がはっきりと耳に届く。

 礼儀正しく挨拶されてて、月姫子は思わず面食らってしまった。


 継母から聞いていた話とだいぶ印象が違うような……。


 実際、そう感じたのは月姫子だけではなく、後ろで「嘘でしょ」と璃々の愕然とした声も聞こえてきた。

 続いて言い争う声も。



「お母様、どういうこと。あんなに素敵な方だったなんて、私聞いてないっ」

「おだまりなさい、璃々。あたしだって詳しくは知らされていなかったのよ。一体どういう……」


 そんな二人の声を綺麗に無視して、煌雅は微笑む。


「今日から俺が、貴女の夫になる男です」





 ***





 滞りなく式は終わり、二人は夫婦となった。


 祝いの席ではご馳走が振舞われ、親戚一同がドンチャン騒ぎを繰り広げる中、月姫子は他人事のようにその光景を眺めていた。結婚したという実感はなく、喜びもない。ただあることが気になって、ついちらちらと横に座る煌雅を盗み見てしまう。



「俺に何か訊きたいことでも?」


 どうやら月姫子の視線に気づいていたらしく、面白がるような視線をこちらに向ける。


「それとも後悔していますか? 目の見えない男と結婚したこと」

「と、とんでもない」


 この時ばかりは、月姫子は強い口調で否定した。


「ただ、貴方のように見目麗しく、地位も財もある方が、どうして私なんかと……」

「商家の娘であることに引け目を感じておられるのですか? 貴女の母君は由緒正しき名家のご令嬢でしょうに」

「……そういうわけでは」

「驚いているのはむしろこちらのほうですよ。俺の評判は既に耳に入っていると思いますが」

 

 そういえば、と継母の言葉を思い出す。


『大変なわがままでご気性の荒い方だそうよ。気に入らないことがあれば女子どもにも容赦なく手をあげるとか』


 種明かしでもするように、煌雅は言った。


「あれは故意に流した嘘です」

「……嘘?」

「はい、不用意に怯えさせて、申し訳ありません」

「でもどうして……」

「縁談を断るよりも断られるほうが楽なので」


 煌雅の答えはあっさりしたものだった。


「最初から誰とも結婚する気はなかったんです。顔も分からない相手を愛せる自信なんてありませんから」


 それはそうだろうと月姫子は納得した。


「けれど周りは結婚しろ、嫁を貰えとうるさくて。俺もいい歳ですし」

「でしたら、申し訳ないこと致しました」

「月姫子さんは悪くありません。おそらく貴女の場合、断れない状況にあったのでしょう」


 見えないはずの目に見つめられて、月姫子は頬に熱を感じた。


「実は貴女のこと、少し調べさせてもらったんです」


 戸惑うような口ぶりを聞いて、ドキッとした。

 どこまで事情を知っているのかは分からないが、煌雅の声は驚くほど優しい。


「どうか気を悪くしないでください。ただ 貴女があまりにも可哀想で……」


 ……可哀想。


 それは前妻の子でありながら使用人扱いされていたから? 

 不器量な上に学校にも通っていないから?


「すみません、目の見えないお前が言うなって感じですよね」


 自嘲するように言われ、月姫子はかぶりを振った。

 同情でも嬉しいと、素直に告げる。


 その時、同類相憐れむという言葉がふと脳裏をよぎったものの、気づかないふりをした。


「ともあれ、書類上あなたは俺の妻になりますが、妻としての義務を果たす必要はありません。俺としても決まった相手がいれば、周りにうるさく言われずにすみますし」


 どうやら偽装結婚を打診されているようだと、この時になって初めて月姫子は気づいた。


「もちろん恋愛は自由ですし、離婚となれば、それ相応の慰謝料もお支払いします。どうでしょう?」


 離婚後は食うに困らないだけの給金と住まいも提供してくれるという。願ってもない申し出に月姫子は息を飲んだ。いずれ離婚するとなれば、出戻り娘としてそれなりにキズモノ扱いされるだろうが、今より状況が悪くなるとは思えない。


 今の月姫子にとってはまさに渡りに船である。


 ――こんな幸運ってあるのかしら。


 試しに頬をつねってみたが、夢ではないようだ。

 

「……期限は?」

「決まっていませんが、強いて言うなら、俺の目が見えるようになるまで、かな」


 ポツリとつぶやかれた言葉に、月姫子はぞっとした。

 こんな綺麗な男性に醜い顔を見られるのが嫌で、反射的に痣の部分を手で覆い隠してしまう。


「完全に失明されたわけではないのですね」

「医師の話では、なんらかのきっかけで視力が戻ることもあるそうです。もっともそれがなんなのかはわからないそうですが」


 もちろん、このまま一生見えない可能性もあると軽い口調で彼は言う。


「ですからこちらで期限は定めません。貴女が離婚したいと強く望まれる時に、また話し合いましょう」


 他に質問はありますかと訊かれて、「いいえ」と苦笑する。


「もしかして呆れていますか? それとも怒ってます? よりにもよって結婚式の日にこんな話をするなんてと」

「どちらでもありません。正直に話してくださって、感謝しています」

「では……」

「ええ、その申し出、私で良ければありがたくお受けいたします」




 ***




 まだ顔に痣がなかった頃、母に似て早熟だった月姫子の初恋の相手は年上の男性だった。

 当時は七歳か八歳くらいだったので、相手の顔はよく覚えていない。

 

 十年も経った今では、きっと会っても分からないだろうが、月姫子にとっては大切な思い出だった。


 

「どうして泣いているんだい?」


 母とはぐれて迷子になっていたところ、一人の書生風の青年に話しかけられた。

 穏やかな優しい声を聞いて、ほっとしたのを覚えている。

 

「……鼻緒が切れてしまったの」


 彼はなるほどと頷くと、持っていたハンカチを裂いて直してくれた。

 あまりの手際の良さに見とれていると、


「お兄さん、手に何かついているわ。とってあげる」


 思わず手を伸ばして彼の手に触れるが、何も掴めず首を傾げてしまう。


「これは黒子だよ」


 彼はくすぐったそうに笑うと、大きな手のひらを見せてくれた。

 確かにそれは黒子で、珍しいことに星の形をしていた。


「俺にとっては幸運を招くお守りなんだ」


 嘘かホントか、そう断言する彼に、


「月姫子にも黒子くらいあるわ。ほら、口の下」


 負けじと言い返せば、「本当だね」と彼はおかしそうに笑う。


「さあ、これで大丈夫だ。試しに歩いてごらん」

「すごいわ。本当に歩ける」


「ところで君、こんなところで何をしているの? 見たところいいとこのお嬢さんっぽいなりをしているけれど、付き添いの大人はいないのかい?」


 月姫子が迷子であることに気づいた彼は、


「だったら近くの交番へ連れて行ってあげよう。そこならきっとお母さんを見つけてもらえるよ」


 なぜか青年と離れたくなかった月姫子はいやいやとかぶりを振ると、


「お巡りさんはいや。お巡りさんはきらい」


 訳もなく駄々をこねてしまった。

 青年は弱ったなぁとばかり頭を掻くと、


「だったらお母さんの特徴を教えてくれる? 一緒に捜してあげるから」


 結局、彼は母が見つかるまで月姫子そばにいてくれた。

 駆け寄ってきた母は泣きながら我が子を抱きしめると、青年にしきりに感謝の言葉を口にしていた。


「書生さん、よろしければお名前をうかがっても?」

「…………かの……いえ、上谷コウと申します」


 聞けば、彼は近くの大学に通う学生で、父親と喧嘩をして家を追い出されたので、ちょうど下宿先を探しているとのことだった。「でしたら、うちへいらっしゃいな」と母は朗らかに言った。


「部屋ならいくらでも空いていてよ。それに家賃は結構ですからね」


 それでは申し訳がないという彼に、「ならば」と母は条件を付ける。


「お勉強のお邪魔にならない程度で、月姫子に学問を教えてくださらないかしら? このご時世、何が起きるか分かりませんからね。女だって、学問くらい身につけなくちゃ」


 それから大学を卒業するまでさらに一年近く、彼は月姫子のそばにいてくれた。女学校にすら通えなかった月姫子が、難しい本を読んだり手紙を書いたりできるのは、ひとえに彼の教育のおかげだった。


「コウ、私、大きくなったらコウのお嫁さんになってあげる」


 生意気なことを言いつつも、もじもじする月姫子に、


「十年後も今と同じ気持ちなら、考えてあげなくもないよ」

「それってどういう意味? お嫁さんにしてくれるってこと?」


 詰め寄る幼い月姫子の頭をよしよしと撫でて、彼はただにこにこと笑っていた。



 ――懐かしい夢……。



 ふと目を覚ました月姫子は、幸福だった日々を思い出して、胸が締め付けられた。


 彼は大学を卒業したのち、すぐに海外へ渡ってしまったので、その後の足取りはつかめないまま。

 きっと今頃は結婚して、美しい妻と幸せに暮らしているに違いないと、月姫子は苦笑する。


 再び目を閉じて幸せな夢の世界に浸りたかったけれど、そうもいかない。

 窓から差し込む朝日に目を細めながら、習慣的に身体を起こす。


 見慣れない天井に、広く居心地の良い部屋。


 未だ結婚したという自覚はなく、伯爵家の若奥様というのもしっくりこない。

 新しい家に奉公しにきた女中であれば、今の自分に合っている気がする。


 ――きっと、奴隷根性が染み付いているせいね。


 結婚後は神納家で暮らすことになった月姫子だが、煌雅の一存で、本邸ではなく敷地内の離れ――といっても小さな一軒家で、二人が住むには十分な広さがある――に居を移すことになった。


 それもこれも、偽装結婚であることを周囲に隠すためである。


 寝室を別にしているため本邸の使用人を呼ぶこともできず、家事は全て月姫子が負担することに。ともあれ、これまでの生活に比べれば、ここでの暮らしは天国だった。盲目とはいえ、煌雅は身の回りのことはほとんど自分でやってしまうので、あまり手がかからない。普段から書斎にこもって、家令の男性と仕事の話ばかりしている。


 その間に月姫子は家の掃除と洗濯を済ませ、本邸の使用人が定期的にもってきてくれる旬の食材で料理を作る。本邸に滞在するプロの料理人が作ったものと比べるとお粗末なものだが、意外なことに、煌雅は喜んで食べてくれた。


「これ、おいしいね。なんていう料理?」

「鶏肉の南蛮漬けです」


 月姫子が神納家に嫁いで、ひと月が経っていた。

 煌雅の口調もいつの間にかくだけたものになり、そんな些細な夫の変化を、月姫子は密かに喜んでいた。


「……菜の花のおひたしはいかがです?」

「ちょうどいい味付けだよ。ねぇ、明日の晩はコロッケを作ってくれない?」

「昨日の晩もコロッケでしたよ?」

「そうだっけ? まあ、細かいことは置いといて……」

「わかりました、コロッケですね」

「ひき肉は多めにね」

「はいはい」


 平穏な日々だった。


 ここにいる限り、月姫子は自由だ。

 馬鹿にされて叩かれることも、ひどいことを言われて傷つけられることもない。


 醜女であることも――醜い痣があることも忘れられる。


 ――もう、何も感じることはないと思っていたのに。


 夜、継母に折檻されることなく、ぐっすり眠れたのは何年ぶりだろう。

 明日が来るのが待ち遠しいと思ったのはいつぶり?


 やっていることは実家にいる時とほとんど変わらないというのに。

 けれど煌雅はけして、月姫子のことを見下したり、奴隷扱いしたりしない。


 掃除をすれば「ありがとう」と感謝してくれるし、料理を作れば「おいしい」と言ってなんでも食べてくれる。整った美しい顔に、子どものような笑みを浮かべて。


 感謝するのはむしろこちらのほうなのに。


「ずっとこんな時間が続けばいいのに……」


 ついそんなことを口にしてしまい、月姫子はハッとして口を押えた。


 ――私、あの人のことが好きなのかしら。


 いいえそれはありえない。

 そんなことは許されないのだと自分を戒めながら、月姫子は志笑に話しかける。


「私から離縁を切り出すなんて、考えられないわよね。だって煌雅様は本当に良くしてくださるんだもの」


 そもそも、この家を出たところで頼れる当てなどないし。

 やりたいことや行きたいところも思い浮かばない。


「本当なら、煌雅様の目が早く良くなるように志笑様にお願いすべきなんでしょうけど……」


 そっと鏡を覗き込んで、月姫子はため息をこぼした。

 




 ***





「煌雅様、どうなさったの、そんなところに座り込んで……」


 ある日の夕暮れ、中庭の庭石に座り込んで動けずにいる煌雅を見つけた。

 不思議に思って近寄ってみれば、草履の鼻緒が切れて困っていたらしい。


「目が見えれば自分でなんとかできるんだけどね」

「でしたら、私に任せてくださいな」


 そう言って月姫子は持っていた桃色のハンカチを取り出すと、ぴっと裂いて、細くねじる。


「少しの間、草履をお借りしますね」


 手際よく応急処置を施すと、煌雅の足に再び草履をはかせた。


「どうかしら? これで歩けるでしょう?」

「ありがとう。こんなこと、どこで覚えたの?」


「子どもの頃、私も同じ経験をしたことがあるんです。母とはぐれて迷子になって……通りすがりの書生さんが助けてくれなかったら、どうなっていたことか……」


 その人に鼻緒の直し方を教わったのだと言うと、煌雅は顔を隠すように俯く。


「……十年も昔のことなのに、よく覚えているね」

「あら、大切な思い出ですもの」


 答えながらも、ふと違和感を覚える。

 煌雅の口からなぜ「十年も昔」という具体的な数字が出てきたのか不思議に思い、そことを訊ねると、


「ただなんとなく、そう思っただけだよ」


 そう誤魔化すように笑いながら、彼がさっと利き手を隠すのを見た月姫子は、


 ――そういえば、煌雅の手にも黒子のようなものがあった気がするのだけど……。


 よくよく思い出して、月姫子は息を飲む。


 ――そうよ、金平糖みたいな……星の形をしていたわ。


 それにあらためて見ると、煌雅は彼に背格好がとてもよく似ている。

 年齢も、彼と同じ。


 なぜもっと早く気づかなかったのだろう。

 ドキドキと逸る気持ちを抑え、月姫子は思い切って口を開く。


「その方、上谷コウというお名前なのですが、煌雅様はご存じありませんか?」


 しかし煌雅の反応は、月姫子が予想したものとは異なり、


「さあ、知らないな。聞いたこともないよ」


 彼はやりきれないとばかりに答えると、さっさと家に向かって歩き出してしまった。

 まるで逃げるみたいに。


 しばらく呆然とその場に立ち尽くしていた月姫子だったが、


 ――きっと、両目を患っていらっしゃるせいね。


 そのせいで名乗り出ることができないのだと、自分に言い聞かせる。


 ならばこちらも気づかないふりをしよう。

 何事もなかったように振る舞うのだ。


 そう決意するものの、


「月姫子さん、早く家に入りなさい。風邪をひいてしまうよ」


 はぁいっと返事をして、彼の元へ駆けていく。


 この瞬間から月姫子は、どうしようもなく煌雅に惹かれていく自分を抑えることができなかった。少しでも気を抜くと彼ことばかり考えてしまい、知らぬ間に少女の頃の夢が叶っていたのだと、つい浮かれてしまう。


「煌雅様……私の旦那様」


 彼の名を口にするだけでじんと身体が痺れて、頬が熱くなる。

 けれどその度に月姫子は鏡の前に立ち、自分を戒めた。 


 ――私のような女は、美しい煌雅さんにはふさわしくない。


 彼は自分を地獄から救い出してくれた恩人だ。けれどそれは同情からで、深い意味はない。彼が優しいのは、優しい性分だからだ。きっと誰に対しても同じ態度を取るはず。


「期待してはダメですよね、志笑様」


 つーと目尻から流れる涙を乱暴に拭うと、月姫子はいつものように神の像に話しかける。

 

「だって私には醜い痣があるんですもの。貴女と同じ……」


 心なしか、少女神の顔も暗く落ち込んでいるように思えた。


「月姫子さん? いないのかい?」


 煌雅の呼ぶ声に応じて、慌てて部屋を飛び出していく。

 少しでも長く、彼のそばにいたいと願いながら。




 ***





 居間で縫い物をしていると、仕事を終えた煌雅が書斎室から出てきた。


 少し前まで訪問客がいたので、一人でゆっくりくつろぎたいだろうと思い、お茶だけ淹れて自室に引っ込むはずが、「月姫子さんもほら、一緒に座ってゆっくり休もう。君は働きすぎだよ」と引き止められてしまう。


 しかたなく、煌雅の隣に腰を下ろした月姫子だったが、


 ――ちょっと近すぎるかしら?


 夫婦とはいえ偽装結婚なのだからと、心持ち距離をとる。 


「そういえば、ここで何をしていたの?」

「繕い物を」

「繕い物って、俺の?」

「いえ……自分のものを」


 見えないとわかっていても、恥ずかしさのあまり着古した着物を後ろに隠してしまう。元は年配の使用人のものだったが、まだ着られるからと同情心から譲ってもらったのだ。地味な色合いで、相当年季が入っている。


「少し、破れてしまったものですから」


 持っている着物は全て使用人のお古だったが、ほつれたり破れたりした箇所を自分で修復しながら、月姫子は大事に使っていた。この世には、裸同然で暮らしているような人たちもいるのだ。着られるものがあるだけありがたいと思っていた。


「やっぱり、目が見えないとダメだな」


 なぜか落ち込んだ様子の煌雅に、首を傾げてしまう。


「気を悪くしないでもらいたいんだけど……」

「なんでしょう?」


 珍しく歯切れの悪い口調で、煌雅は続ける。


「さっき、訪問客があっただろう? 彼に訊かれたんだ、新しく女中を雇ったのかと」


 彼の言わんとしていることを察して、月姫子は羞恥心を覚えた。


 今まで身なりに気を遣ったことなどなかったので――見合いの席で着ていた晴れ着は妹からの借りもので、全く自分に似合っていなかった――指摘されるまで気付かなかった。いくら偽装結婚とはいえ、伯爵家に嫁入りしたとなれば、それなりに相応しい振る舞い、服装が求められる。


「もちろんすぐに妻だと訂正したよ」

「も、申し訳ありません」

「君は悪くない。でも、妻に使用人のような格好をさせて、甲斐性のない男だと思われただろうな」


 冗談めかして煌雅は言うが、耳に痛い言葉だった。


「それでこれから街へ出かけようと思うんだけど」


 話のつながりが見えず、月姫子は「はあ」と気の抜けた返事をする。


「でしたら本邸に連絡して、車を出してもらいましょう」

「そうだね、月姫子さんも一緒に来るんだよ」

「私もですか?」

「当然。夫婦なんだから」


 目的地も知らされないまま、自動車に乗り込む。

 ややして、ポツリと煌雅が口を開いた。


「月姫子さんはあまり喋らないよね」

「……すみません」


「責めているわけじゃないんだ。ただ、俺は書類上の情報でしか君のことを知らないから、見落としている部分がかなりあると思う。ただでさえ、今の君がどんな顔をしているのかわからないのに……たまにもどかしく感じるよ」


 期待してはダメだと自戒しつつも、月姫子は密かに胸を高鳴らせていた。


「俺はもっと君のことを知りたいし、俺のことも知ってほしいと思う。ダメかな?」

「ダメでは、ないです」


 煌雅の目が見えなくて良かったと、この時ばかりは本気で思った。ただでさえ醜い顔が、ゆでダコのように真っ赤になっている様は、ひどくみっともないに違いない。


「だったら互いに質問して、知りたいことを教え合うのはどうかな?」

「かまいませんよ」

「じゃあ、まずは俺から……」


 目的地に着くまでの暇つぶしにはなるだろうと言われ、月姫子は喜んでこの遊びに付き合うことにした。


「私の名前の意味、ですか?」

「そうそう、前から知りたかったんだよね。名は体を表すと言うし」

「……そうですね」

「ちなみに煌雅という名は輝かしい人生を送れるように、という意味が込められているらしい」

「私は、月のように周りの人たちを優しく元気付けてあげられる人になって欲しいと……亡き母が……」


 声が震えてしまい、それ以上、言葉を続けることができなかった。

 今の自分の姿と、なんとかけ離れていることか。


 幸いなことに、煌雅は何も言わず、黙って手を握ってくれた。


「月姫子さん、着いたよ。ここで降りよう」




 ***





 車を降りると、目の前には西洋風の建物があって月姫子は怖気ついてしまった。


「あの、ここは……」

「洋服屋だよ。妹のお気に入りの店でね」


 煌雅の妹、蝶子はまだ学生だが、絵に書いたようなモダンガールで、それはそれは美しかった。断髪した頭にクロッシェと呼ばれる帽子をかぶり、丈の短いスカートを履いて、すらりと伸びた長い足を魅力的に見せていた。


「……煌雅様はてっきり和装のほうがお好みかと思いましたが」


 彼の普段着を思い出しながら月姫子は言う。

 もしかして新しい仕事着が必要になったのかと思いきや、


「俺のじゃなくて、月姫子さんのを買うんだよ」


 そう言って強引に月姫子の手を掴むと、店にずかずかと入っていく。

 といっても、目の見えない煌雅の動きは非常にゆっくりで、慎重だ。


「すみません、この女性に似合う服を見繕って頂けませんか?」

「まあ、煌雅様、お久しぶりです」

「蝶子様はお元気?」


 お得意様らしく、煌雅は瞬く間に華やかな店員たちに囲まれてしまった。


「あら、そちらの女性は?」


 さすがは接客のプロというべきか。

 彼らは月姫子の顔を見ても動じるどころか、にこやかな笑みを崩さない。


「妻の月姫子です」

「は、初めまして」


 店員たちは皆おしゃれで品がよく、月姫子は自分の身なりを思い出して逃げたくなった。けれど煌雅に強く手を掴まれているせいで、動くに動けない。顔の痣を見られたくなくて、うつむき加減でじっとしていると、あれよあれよという間に試着用の服が積み重なっていく。


「煌雅様、申し訳ありませんが、私にモダンなものは似合いませんわ」


 この店から逃げ出したい一心で、さらに言えば、同情で結婚してくれた相手に服をねだるなんて恐れ多いと、月姫子は必死に「いらない」アピールをした。今は手持ちの服で十分だと。しかし煌雅は聞く耳持たず、


「いいから、試しに着てごらんよ」


 気づけば試着室に押し込まれ、逃げ場を失ってしまう。


 やむを得ず既製品を試着してみたところ、締め付け感がなく、まるで何も着ていないような錯覚に陥ってしまう。良く言えば開放的で動きやすい作りになっているが、着慣れていないせいか違和感がある。あまりの心許なさに落ち着かず、「私には合わないわ」と月姫子は早々に服を脱いでしまった。


「気に入らなかった?」

「申し訳ありません、やはり洋服というものは蝶子様のようにスタイルの良い方でないと……」

「なら店を変えようか」


 あっさりとした煌雅の物言いに、「えっ」と戸惑ってしまう。


「でも何も買わずに出るのも店の人に悪いから……月姫子さん、服がダメなら靴はどうだい? 例えばブーツとか」

「ぶーつ、ですか?」

「草履よりも歩きやすいし、それに今は和装に洋装の小物を取り入れるのが流行りみたいだよ」


 結局、商売熱心な店員たちの口車に乗せられてしまい、煌雅に三足も靴を買わせてしまった。その上、レースの日傘や肩掛け用のおしゃれなショール、ハンカチまで。


 ――私ったら、煌雅様に散財させてしまったわ。


 車の中で青くなっていると、


「よし、次はここだ」


 着いた先は老舗の呉服店で、「まさか」と月姫子はめまいを覚えた。


「曽祖父の代からうちの家が贔屓にしている店でね。ここならきっと月姫子さんも気に入るよ」


 またもや強引に手を掴まれ、勝手知ったる我が家のように中へ入っていく。

 すると即座に気づいた店の主人らしき中年女性がいそいそと近づいてきた。


「いらっしゃいま……まあ、神納家の坊ちゃんじゃありませんか」

「坊ちゃんはよしてくれ」

「それは失礼いたしました、旦那様。それで、今日はどのようなものをお探しですか」

「……こちらの女性に似合うものを」

「まあまあ、なんてお可愛らしいお嬢様ですこと。蝶子様のご友人ですか?」

「妻だ」


 お世辞を間に受けるほど馬鹿ではないが、女主人から好意的な視線を向けられて、月姫子はほっとした。少しでも優雅に見えるよう、丁寧にお辞儀をする。


「月姫子と申します。煌雅様にはいつも大変お世話になっております」


 緊張のあまりおかしなことを口走ってしまったらしく、


「逆だろう、月姫子さん」


 煌雅がおかしそうに指摘する。


「そうですよ、奥様。神納家にはいつもご贔屓にしていただいて、こちらこそ感謝しております」


 ではどうぞ奥の部屋へと案内される。

 するとそこには色とりどりの反物が敷き詰められていて、月姫子は息を飲んだ。


「それで、月姫子さんに似合いそうなものはあるかな?」

「ええ、こちらなんかどうでしょう? 深い青色ですが、奥様の濃い黒髪が映えますわ」


 目の見えない煌雅のために、色彩や模様などを細かく教えてくれる。


 いくつか既製品もあり、張り切る女主人の前で、月姫子は着せ替え人形と化していた。最初こそは反物の値段を知って尻込みしていたものの、女主人がこれでもかというほどお世辞を言って持ち上げてくれるので、途中からまんざらでもない気持ちになってくる。


「この花柄模様、素敵ですね」

「藤の花ですわ。花はお好き?」

「ええ、とっても」

「他にも椿や朝顔、百合や梅の花と様々な模様がございますのよ。ぜひお試しになって」


 やっぱり洋服よりも和服のほうがしっくりくると、鏡を見ながら月姫子ははしゃいでいた。試着する前に女主人が化粧をしてくれたおかげで、顔の痣が以前よりも目立たなくなっている。そのせいか、鏡を見るのも苦ではなかった。


 そこから少し離れた場所では、煌雅が座ってお茶を飲みながら、店員を呼び止めていた。


「妻の様子はどうかな?」

「まだ試着されていますよ、花柄の着物をいたくお気に召したようで」

「笑ってる?」

「はい、それはもう、楽しそうに」

「残念……それは見てみたかったな」

「はい? 今何かおっしゃいましたか?」

「妻が気に入った反物は全て仕立てて欲しいと言ったんだ。それに合わせて帯や小物も適当に見繕ってくれ」

「さすがは神納家の旦那様、ありがとうざいますっ」




 ***



「こんなに遅くなってしまって、申し訳ありません」

「俺が誘ったんだから、気にしなくていいよ。それより腹がすいたな」


 呉服店を後にして二人が向かったのは、夜遅くまで開いている「カフェー」だった。そこで少し早めの夕食を摂ることになったのだが、渡されたメニューを見て、月姫子は戸惑ってしまう。


「煌雅様、この、アイリッシュシチューというのは何ですか?」

「月姫子さん、洋食を食べたことないの?」

「ええ、お恥ずかしながら……」

「それはもったいない。人生の半分を損しているよ」


 そう言って、煌雅は慣れた様子で料理を注文していく。


 まもなくして、卵のオムレツやローストチキン、イタリアンマカロニやビーフスープ、ベイクドポテトにアイリッシュシチューと、とても食べきれない量の食事が次々と運ばれてくるので、月姫子は慌ててしまった。


「私、こんなに食べられません」

「一口ずつでもいいから、食べてごらんよ。おいしいよ」

「二人でこの量は多すぎます」

「たまの贅沢もいいだろ」

「贅沢って……」

「もちろん、一番おいしいのは月姫子さんの手料理だから」


 そういうことを言っているのではないと思ったが、優しい笑顔を向けられて、ぐうの音も出ない。それよりも、煌雅もまた、この状況を楽しんでいるとわかって、ほっとした。彼にはしてもらうばかりで、少しも恩返しができていないから、いつも心苦しく思っていたのだ。


「私の手料理なんて、どうせすぐに食べ飽きてしまいますよ」

「そんなことないと思うけどな。そういえば料理、どこで習ったの?」

「習ったというか、見よう見まねで覚えました。自分の食事は自分で用意しなければならなかったので」


 いつも使用人たちに混じって、台所の残り物で簡単な物を作って済ませていた。食事は一日に二食だけ。賃金は与えられなかったので外食することもできず、常に空腹だった。こうして誰かと差し向かいで食事することもなかったので、煌雅と一緒に暮らし始めた最初の一週間、ひどく緊張したのを覚えている。


「月姫子さんの母君はいつ頃……」

「私が十歳の時に心臓発作で亡くなりました」


 その頃にはもう、父はよそで女を作り、喪が明けると同時に再婚した。

 そして継母と連れ子の璃々が我が家へやってきたのである。


「母は、私のことをとても自慢に思ってくれていました。けれど今は……」


 今の自分の姿を見て、母は喜んでくれるだろうか。

 それともガッカリされてしまうだろうか。


「煌雅様はご存知ですよね、私の顔にある痣のことは」

「……うん。周りの人たちは人形の呪いによるものだと噂しているそうだね」


 煌雅は不思議そうに首を傾げると、


「御払いや祈祷を試したことは?」

「あります。父に言われて……効果はありませんでした」


 どうしたものかと考え込む煌雅に、


「痣のことはもういいんです。諦めていますから。それに今は呪いなんて思っていません。この痣があるおかげで、またコウに……煌雅様に会えたんですから」


 煌雅は困ったように笑うと、


「月姫子さん、君は自分で思っている以上に素敵な人だよ。思いやりがあって真面目で、我慢強くて、懐が広い。こんな俺と結婚するくらいなんだから。もっと自分に自信を持っていいと思う」


 単なる慰めの言葉で、深い意味はないとわかっていても嬉しかった。

 月姫子は店員を呼んで小皿を持ってこさせると、煌雅のために少しずつ料理を取り分けた。


「煌雅様、いつものように時計回りに小皿を配置していますから、どうぞお好きなものからお召し上がりください。お代わりがあれば遠慮なくおっしゃって。では順番を申し上げますね。向かって六時の方向にスープ、四時の方向にベイクドポテト、二時の方向に……」


「俺の世話を焼くのはそのくらいにして、ちゃんと食べなよ。月姫子さんはただでさえ痩せてるんだから」

「あら、私が痩せているなんてどうしてわかるんですか」

「それくらい、見なくたってわかるよ。それにさっき、奥様にあまり苦労をかけないようにって、小言食らったしさ」


 それは知らなかった。さぞかし居心地の悪い思いをしただろう。何一つ、煌雅は悪くないというのに。申し訳ない気持ちはあったものの、子どものように膨れる煌雅が可愛く思えて、つい「ふふっ」と笑ってしまった。


「……もしかして今、笑った?」


 慌てて謝罪すると、「謝らなくていい」と柔らかい笑みを向けられる。


「俺、月姫子さんの笑い声好きだな。控えめで、可愛らしくて」

「……からかわないでください」

「からかってなんかないよ。真面目に言ってる」


 それはそれでタチが悪いと、ため息が出てしまう。


「なんで今、ため息ついたの?」

「ご自分の胸に手を当てて、考えてください」




 ***




 平穏な日々は瞬く間に過ぎて行き、半年の月日が流れた。


 一緒にいる時間が長くなるにつれて会話も増え、月姫子は次第に、自分の感情をコントロールすることができなくなっていた。煌雅のことが好きだ。好きで好きでたまらない。彼の姿を見るだけで鼓動が早まり、笑顔を向けられただけで、みっともなく赤面してしまう。


 ――煌雅様の目が見えなくて本当に良かったわ。


 もちろんそんな不謹慎なこと、口に出しては言えないけれど。

 でなければとっくに気持ちを悟られて、家を追い出されていただろう。


 ――同情で結婚した女に愛しているなんて告白されたら、さぞかしぞっとしないでしょうね。


 そう自分を戒めながらも、時として過剰なほど煌雅の世話を焼いてしまうこともあり、「月姫子さん、俺を子ども扱いしないで欲しいな。これでも三十過ぎの男だよ」とやんわりたしなめられてしまう始末。


 ――もう少し、距離をとらないと。


 けれどそれが難しい。


 月姫子は人目を避けて、ほとんど家にこもりきりだし、煌雅も家の中で仕事をしているので、自然とよく顔を合わせてしまう。朝昼晩と、煌雅の姿を見ない日はなかったし、「ずっと家にいると身体がなまってしょうがない。散歩に行こうか?」と誘われれば、月姫子はいそいそと外出の支度をするのだった。


 ――だって、断るわけにはいかないわ。私は彼の妻だもの。


 煌雅が買ってくれた着物はどれも着心地が良く、息を呑むほど美しい――そのせいか、以前ほど人目を気にしなくなっていた。よく、美しいものを身に着けると、自分も美しくなったような錯覚を覚えるというが、月姫子の場合、美しくなったとまではいかないものの、自信は持てた。


 ――煌雅様には感謝してもしきれない。


 できることなら、このままずっと彼のそばにいたい。

 彼の妻として生涯を共にしたいと、いつしか強く願うようになっていた。


「月姫子さん、今の俺の話、聞いてた?」


 考えにふけってぼうっとしていた月姫子は、煌雅に話しかけられてはっとした。

 いつの間にか立ち止まってしまったせいで、彼との距離が開いている。 


 今二人は、神納家の広大な庭を散策しているところだった。


「あれ、月姫子さん、いないの?」


 手を伸ばして、何かを探すような仕草をする。

 しかしその手は空を切るばかりで、


「もしかして先に帰ってしまったのかな」


 少し前まですぐ隣を歩いていたので、煌雅は勘違いしたようだ。 


「何も言わずに帰るなんて、月姫子さんらしくないな」

「い、いますっ」


 煌雅にがっかりされたくなくて、月姫子は慌てて返事をした。


「ちゃんとここにいます」


 するとほっとしたような、心底嬉しそうな笑みを向けられて、月姫子は泣きたくなった。


 ――どうしてそんな顔をするの?


 少しくらい、期待してもいいのだろうか。

 彼に好かれていると、自惚れてもいいのだろうか。


「煌雅様、私……」


 勇気を振り絞って、月姫子は口を開く。


「私、煌雅様のことが……子どもの頃から、ずっと……」


 好きだと告白しかけて、


「よかった、そこにいたんだね。今何を言いかけたの?」

「……いいえ、なんでもありません」


 最後まで口にできなかった。

 臆病な自分にあきれてしまう一方で、


 ――せめて、彼が上谷コウだと、名乗り出てくれさえすれば……。


 彼にも事情があるのだと自分に言い聞かせるものの、もどかしく感じてしまう。


「そうだ、月姫子さん、言いにくいことなんだけど、実は寝室が別々なのが父にバレてしまってね……」


 ハッと息を飲む月姫子に、煌雅は決まり悪そうに続ける。


「これ以上怪しまれないために、寝室だけでも一緒にしようと思うんだ。もちろん、君には手を出さないと約束するよ」

「手を出して頂いても、かまいませんっ」


 つい大声を出してしまい、はしたないと思いつつも、


「契約婚とはいえ、最終的にはお金を頂くのですから。私に妻としての仕事をさせてください」


 呆気にとられる様子の煌雅に月姫子は畳みかける。


「もちろん、子どもができると困るというのであれば、話は別ですけれど……」

「いいや、問題ないよ。むしろそれはそれでありがたい。けれど、月姫子さんは本当にそれでいいの?」

「煌雅様はどうですか? 私のような女は無理ですか?」

「……月姫子さん、自棄になっていないよね?」


 そうではないのだと、月姫子は必死に言葉を紡ぐ。


「私を本当の妻にしてください、煌雅様。ほんの少しの間だけでもかまわないから、夢を見させてください」




 ***




 その日の夜、月姫子は初めて煌雅の寝室で過ごすことになった。これから本当の意味で彼の妻になれるのだと思うと、喜びのあまり、再び涙がこみ上げてくる。けれど浮かれていたのは最初だけで、


「月姫子さん、どうしたの?」


 深い口づけの後、手馴れた様子の煌雅に帯を解かれ、肌着を脱がされた途端、月姫子は怖気づいてしまった。なぜなら自分の裸が美しくなかったから。既に半年は経っているというのに、継母に折檻された傷跡がまだいたるところに残っていて、シミのように広がっている。


「ごめんなさい」


 月姫子は泣いて謝った。


「どうして謝るの?」

「綺麗じゃ、ないから……」

「それは、初めてじゃないということ?」

「いいえいいえ」


 かぶりを振って、嗚咽混じりに訴える。


「私のような醜い女、誰も相手にしません」

「月姫子さん、君への侮辱は、夫である俺への侮辱でもあるんだよ」


 困ったように指摘されて、身の縮むような思いがした。


「ご、ごめんなさい」

「謝ることはないよ。これからは、神納家当主の妻として、堂々としていればいい」


 それができたらどんなにいいか。

 こんな醜い女を抱いて、煌雅は後悔しないだろうか。


 不安ばかりが募って、そんな自分が嫌になる。


「そろそろ続きをしてもいいかな?」

「……はい」


 煌雅は考え深げに首を傾げると、探るように手を動かした。

 ゆっくりとした慎重な動きで、月姫子の背中に触れる。


「……ところどころ腫れてるね」

「子どもの頃に火傷して……」


 それはウソだった。


 何度目かのお見合いが失敗して、癇癪を起こした継母にやられたのだ。着物を脱がされ、裸にされた状態で、背中に金属製の火鉢を押し付けられた。この時ばかりはさすがに命の危険を感じて家から逃げようとしたものの、準備の途中で体調を崩して寝込んでしまい、回復した頃には逃げる気力も失っていた。


「子どもの頃に? それは災難だったね」


 幸い煌雅に疑う様子はなく、優しく頭を撫でられる。


「でも俺の前では気にしなくていいよ。どうせ見えないんだから」


 盲目であることを茶化すように言う彼に、胸がぎゅっと締め付けられた。月姫子の負い目を少しでも軽くしようとしてくれているのだろう。そのことが嬉しく、気遣われていると実感できた。


「さあ、君も目を閉じて。たまには視覚に頼らないで、俺にだけ集中してよ」


 言われた通り、月姫子はそっと目を閉じた。


 昔から、暗闇は恐ろしいものだと思っていた。けれど今は少しも怖くはない。緊張はしていたし、心臓もうるさいほど高鳴っていたけれど、頼りがいのある温かなぬくもりに包まれて、安心して身を任せることができた。ゆっくりと事は進んでいき――気づけば朝になっていた。


 多少の痛みはあったものの、気持ちはいつになく晴れやかだ。

 この日、この夜、月姫子は神納煌雅の妻になった。




 ***




 目が覚めると、愛する人の腕が身体に絡みついていて、それだけで幸福感を覚えた。


 窓から差し込む朝日が眩しい。

 視界に映る全てのものが美しく、光り輝いて見える。


 このまま愛しい人の腕に抱かれて、幸福感を噛み締めていたかったが、そうもいかない。彼の好きな白ご飯を炊いて、お味噌汁を作らなければ。もうすぐ新鮮なお魚が届くだろうから、焼き魚にして、お漬物はきゅうりとお茄子にしよう。いそげば、いつもの朝食の時間に間に合うかもしれない。


 眠っている夫を起こさないよう、寝台からそっと抜け出して、手早く肌着を身に付ける。着替えている途中、胸の辺りに昨夜の痕跡を見つけて、恥ずかしさと誇らしさで胸がいっぱいになった。


 ――私はもう、無学で醜いだけの女ではないわ。


 これからは辛い過去は忘れて、未来に目を向けよう。


「……月姫子さん、まだ寝ていればいいのに」


 上体を起こした煌雅がこちらに顔を向けているのに気づいて、ドキっとする。


「ごめんなさい、起こしてしまいましか?」

「いいんだ。俺が単に物音に敏感なだけだから」


 ぼんやりとした口調で言いながら「ふわぁ」と大きな欠伸する。

 後ろについた寝癖がなんだか可愛らしい。


 普段は身なりの整った、完璧な姿の煌雅しか見たことがなかったので、寝起き姿の彼は新鮮だった。寝台から降りる気配はなく、枕に背を預けてぼんやりしている。寝起きはあまり良くないといっていたから、そのせいだろう。


「今、温かいお茶をお持ちしますね」

「そんなことはいいから、ベッドに戻っておいでよ」

「……煌雅様ったら」

「前にも言ったろ、君は働きすぎだ。少しくらいサボってもいいんだよ」


 真面目な顔をして何を言うかと思えば、


「サボって何をするんですか?」

「何も。ベッドでごろごろして、俺の抱き枕になるといい」

「お気遣いは嬉しいですが……」

「気遣っているわけじゃなくて、俺の願望を言ってる」


 珍しく子どもじみたことを言い張る煌雅に、愛しさがこみ上げてくる。


「煌雅様……」

「あとその、様を付けるのもやめてくれ」


 わかりましたと、月姫子はすんなり譲歩した。


「ですが私は、いやいや家のことをしているわけでも、煌雅さんのお世話をしているわけでもないんです。好きなんですよ。この家に来て、好きだと気づいたんです。ですから私から唯一の楽しみを取り上げないでくださいまし」


 煌雅は苦虫を噛み潰したような顔をすると、


「その言い方はずるいなぁ」


 とぼやいた。


「それだとまるで、俺と一緒にいるより家事をするほうが好きみたいじゃないか」

「まあ、煌雅さん、これ以上私を困らせないでください」


 以前の自分なら、煌雅に嫌われることを恐れて、彼の言いなりになっていたことだろう。そもそも、このような言い合いに発展することもなかったはずだ。この心境の変化に、一番驚いているのは月姫子自身だった。


 ――煌雅さんにわがままを言えるようになるなんて。


 そしてそのわがままを、煌雅はしぶしぶ受け入れてくれた。

 朝食の支度が済んだら呼んでくれと言って、お布団の中に潜り込む。


 どうやら年甲斐もなく不貞腐れているらしい。。

 月姫子はくすくす忍び笑いをしながら一階へと降りて行き、台所へ入る。


 ――心が通じ合うってこういうことなんだわ。


 鼻歌を口ずさみながら割烹着を身に着け、月姫子は無意識のうちに微笑んでいた。今でも信じられない。自分が初恋の人の妻になれるなんて。これが夢ではないことを実感するために、何度頬をつねったことか。


 ――もしかして一生分の幸福を使い果たしてしまったのではないかしら。


 いっそ怖いくらいだったが、何もかもが順風満帆に思えた。

 この時は……。




 ***





 煌雅と本当の夫婦になって、三ヶ月が過ぎた。


 その日、月姫子は朝から煌雅の身支度を手伝っていた。

 スーツ姿の彼を見るのは久しぶりで、惚れ惚れしてしまう。


「本当に、私も付いていかなくてよろしいんですか?」

「心配性だな、月姫子さんは。目的地までは車で行くし、向こうで人が待っているから、平気だよ」


 神納家は帝都に多くの不動産や土地を有していて、それを貸すことで多額の収入を得ている。他にも株取引や事業投資も行っているらしく、今日は投資先の会社へ出向き、事業内容について話し合うとか。


「今夜はホテルに泊まるけど、明日の昼までには帰るから」

「……お早いお戻りをお待ちしております」

「旦那は元気で留守がいい、ってね。月姫子さんもたまには羽を伸ばしなよ」


 思わず黙り込んでしまった月姫子に何を勘違いしたのか、慌てたように付け加える。


「もちろん俺はまっすぐ帰ってくるから。外じゃ羽も伸ばせないしね」

「ええ、信じています」


 くすりと笑い、月姫子は笑顔で煌雅を見送った。


「いってらっしゃいまし」


 煌雅が出かけてしまうと、家の中は驚くほど静かになった。


 羽を伸ばせと煌雅は言ってくれたものの、なぜか落ち着かず、月姫子は今まで以上に動き回っていた。普段は掃除しないところまで掃除をし、家中のシーツを洗った。床を綺麗に磨き上げながら、少しの静寂も耐え切れない自分に困ってしまう。


 ――私ったら、ダメね。


 夜になるといっそう寂しさが増して、月姫子は早々に寝室に引き上げた。元は煌雅の寝室だが、今では夫婦の寝室となっている。そこで煌雅の残り香に包まれて、月姫子は目を閉じた。しかし眠気は一向にやってこず、まんじりもせずに朝を迎えた。


「お帰りはお昼頃だと言っていたから、昼食の支度をしておいたほうがいいわね」


 しかし昨夜の睡眠不足が祟って、料理中にうつらうつらしてしまう。少し休んだほうがいいと思い、長椅子に横たわった瞬間、月姫子は意識を失うように眠ってしまった。目が覚めた時にはもうとっくにお昼の時間を過ぎていて、慌ててしまう。


「まあ、どうしましょう、お出迎えもしないで」


 慌てて夫の書斎室に飛び込むが、煌雅はまだ帰ってきていないようだった。不安に思い、何度も玄関へ足を向けるものの、呼び鈴が鳴るどころか、車のエンジン音すら聞こえない。


「もしかして本邸へ立ち寄っているのかも……」


 廊下を行ったり来たりしているうちに時間が過ぎ、気づけば夕暮れ時になっていた。

 たまらず外へ出て、正門へ続く道を歩いていくと、


「奥様っ――若奥様っ」


 本邸のほうから、血相を変えた使用人がこちらに向かってくるのが見えた。


「先ほど、病院から連絡があってっ――旦那様が――っ」 

「主人に何があったの?」


 慌てて駆け寄り、使用人の肩を掴んで揺する。


「まさか車の事故で怪我をしたんじゃ……」

「いいえ、テロですわ奥様っ。爆発に巻き込まれたんですっ」

「……テロ」


 話を聞けば、煌雅が宿泊していたホテルの入口付近で、一台の自動車が爆発したらしい。その爆発に煌雅が巻き込まれたというのだ。逃走した犯人はすぐに捕まったものの、自ら舌を噛んで自害してしまったという。


「それで、主人の様態は?」

「詳しいことはまだわかりません。先ほど大旦那様が大急ぎで病院へ向かわれました」

「だ、だったら私もすぐに病院に……」

「いいえ、いけません。奥様は自宅で待機するようにとの、大旦那様のご命令です。病院からの連絡を待つようにと」


 そんな……と絶望する月姫子だったが、


 ――きっと、女の私が行ってもパニックを起こすだけで、役に立たないと思われているんだわ。


 しかし、ただ連絡を待つだけなんてごめんだ。

 煌雅のためにできることをしようと、家の中に戻った月姫子は少女神の像の前に跪いて、一心に祈った。


「志笑様、神様、どうか私の願いを聞き届けてください。病院にいる煌雅さんが、早く家に戻ってきますように。私はどうなってもかまいません。彼が無事で、健康なら……それだけで十分なんです」


 それから月姫子は一晩中、祈り続けた。


 ただひたすら、煌雅が無事であることを。

 夫にもう一度会えるのなら、自分の命すら惜しくはないと思った。


 翌朝、月姫子の願いが通じたのか、本邸から使用人がやってきて、


「大旦那様よりお電話がかかっております、すぐに若奥様とお話がしたいそうで……っ」


 慌てて電話を取ると、震える声で「お電話代わりました、お義父様。月姫子です」と伝える。


 煌雅は無事だった。


 幸い、爆発から離れたところに立っていたため、軽傷で済んだらしい。

 念の為に病院で精密な検査をしたところ、どこも異常は見つからなかったという。


 それを聞いて安心した月姫子は、力が抜けてしまい、その場に座り込んでしまう。

 良かった。彼を失ったら、とても生きてはいけない。


 今日中には退院できると聞いて、


「本当に良かった……お早いお帰りをお待ちしております」


 ああそれと、と義父は慌ただしく付け加える。


「まだ他にあるのですか?」

『喜べ、月姫子。煌雅の視力が戻ったっ。以前のように、目が見えるようになったのだっ』




 ***




 爆発に巻き込まれ、吹き飛ばされた煌雅は、しばらくの間、失神していたらしい。目覚めると、激しい耳鳴りと頭痛に悩まされ、再び意識を失い、次に目が覚めた時、病院にいて、視力が戻っていることに気づいたそうだ。 


 医学的には説明できない、奇跡が起きたとしかいいようがないという医師の説明に、煌雅の家族は大喜びしていた。煌雅自身は、まだ爆発の影響で少し混乱していたそうだが、視力が戻ったことに気づくと、涙を流して喜んだという。無神論者である彼が神の存在を信じ、感謝を捧げるほど。


『それはもう、お前に会いたがっているぞ』


 義父の声が遠くに聞こえる。

 電話を切って立ち上がった月姫子は、弱々しい声で使用人に訊いた。


「ここから病院まではどのくらいかかるの?」

「自動車で小一時間ほどでしょうか」


 小一時間。

 残された時間はあまりにも少ない。


「ですから奥様はご自宅でお待ちになったほうがよろしいかと。行き違いになる可能性もございますし」

「……そうね」


 使用人に怪しまれないよう、月姫子はゆっくりと離れへ戻った。


 そして家に入ると階段を駆け上がり、慌ただしく自室の扉を開ける。

 寝台の下から旅行用の鞄を引っ張り出して、最低限必要な物を詰め込んでいく。


 月姫子はここを出ていくつもりだった。視力が戻った今、煌雅に自分は必要ない。優しい彼のことだから、多少は気に病むだろうが、きっとすぐに忘れるはず。なぜなら彼の世界は、こんなにも美しい物で溢れているのだから。


 ――契約結婚の期限は、彼の視力が戻るまで……。


 もっともそんなこと、当の本人は忘れているかもしれないけれど。

 月姫子にも譲れないものはあるのだ。 


 ――あの人には絶対、見られたくない。煌雅さんにだけは……。


 この醜い痣も、身体に残った傷跡も。

 見えなければきっと、美しい思い出として覚えてくれるはず。


 ――ごめんなさい、煌雅さん。ごめんなさい。


 支度を終えると、彼の寝室へ行き、紙とペンを拝借した。

 そこに彼へのメッセージを残す。




『愛する旦那様へ、この家を出ていきます。もう二度と会うことはないでしょう。私のことはどうか捜さないでください。落ち着いたら住所を知らせますので、離婚に必要な書類を送ってくださると幸いです。それではどうかご自愛くださいますよう。月姫子』



 慌ただしく支度を済ませると、月姫子は裏口からそっと抜け出した。

 そのまま使用人専用の通路を通って、敷地の外へ出る。


 ――早く、ここから離れないと。


 でなければ煌雅が戻ってきてしまう。

 ふと、部屋に置いてきてしまった神の像の存在を思い出して、引き返そうとか迷うものの、


 ――重すぎて、さすがに連れていけないわね。


 住む場所が決まったら他の荷物と一緒に送ってもらえばいい。

 行くあてなどなかったが、とりあえず駅を目指して、月姫子は小走りに歩き出した。




 ***





「俺の妻はどこにいますか? 妻に会わせてください」


 家に帰って月姫子の置き手紙を目にした煌雅は、その足で彼女の生家を訪れていた。月姫子の父親は不在で、その妻が対応した。彼女は煌雅の視力が戻っていることに気づくと、露骨なまでに擦り寄ってきた。しまいにはその娘まで出てきて、「お義兄様」と甘ったれた声で呼ぶので、癪に障って仕方がない。


「あいにく、娘はここにはおりません」

「ではどこに?」

「さあ、見当も付きませんわ。あの子には懇意にしている友人もおりませんし」


 真っ赤な口紅に濃い化粧をして、ケタケタと笑う義母を不快に感じた。


「そんなにご心配なさらずとも、いずれ戻りますわ」

「ですが……」

「あの子の家出癖は、今に始まったことではありませんのよ」

「そんなことより、お義兄様。今夜はうちにお泊まりになるといいわ」


 ――気色の悪い女どもだ。


 念願叶って視力を取り戻したというのに――ようやく妻の笑顔を見られると歓喜したのに。


 ――この二人は、俺が何も知らないとでも思っているのか?


 月姫子は不幸な娘だ。顔にある痣のせいで醜女と呼ばれ、家では使用人扱いされていた。父親は女狂いで酒癖が悪く、ほとんど家にはいない。周囲の話によれば、月姫子が神納家に嫁いできたばかりの頃、彼女はがりがりに痩せていたそうだ。立っているのが不思議なくらいで、それでも彼女は労を惜しまず、自分に尽くしてくれた。


 ――そして一度も、俺に泣きごとは言わなかった。


 生家でどんな暮らしをしていたのか、ほとんど話してもくれなかった。家族の話になると、いつも決まって口をつぐんでしまう。よほど触れられたくない何かがあるのだろうと、無理やり聞き出すことはしなかった。彼女が自分に心を開いて、打ち明けてくれるのを待つつもりだったが、



『ごめんなさい』

『どうして謝るの?』

『綺麗じゃ、ないから……』

『……ところどころ腫れてるね』

『子どもの頃に火傷して……』


 あの時抱いた疑念が、ここに来て、大きくなっている。

 明らかに月姫子は何かを隠していた。 




『私を本当の妻にしてください、煌雅様。ほんの少しの間だけでもかまわないから、夢を見させてください』




 あの時、好きだと正直に告白していたら、彼女は出て行かなかっただろうか。

 

 顔も分からない相手を愛することなんてできない、そう言ったのは確かに自分だ。

 しかし実際に彼女と暮らしてみて、考えが一変した。


 ――俺は彼女の、控えめで優しい声が好きだ。聞き上手なところも、世話焼きで真面目なところも。


 彼女が他の男に笑いかけていると想像しただけで、腸が煮えくり返りそうになる。


 ――初めはこうじゃなかった。ただ、彼女の亡き母君に少しでも恩返しができればと思い……。


 学生の頃、父と喧嘩をして家を追い出され、路頭に迷っていた自分を、彼女の母は快く下宿させてくれた。当時は父に勘当されたものと思っていたので、加納家の苗字を名乗るのは気が引けて「上谷コウ」などという、適当な偽名を使った。

 

 戦地で両目を負傷した際、父の勘当は解けたものの、少女だった頃の月姫子と共に過ごした日々は、今でも鮮明に覚えている。お転婆で賢く、誰もが愛さずにはいられない、可愛らしい娘だった。

 


『コウ、私、大きくなったらコウのお嫁さんになってあげる』

『その方、上谷コウというお名前なのですが、煌雅様はご存じありませんか?』

 

 

 自分こそがその上谷コウだと名乗り出なかったのは、単純に目が見えないという負い目があったからだが、今では後悔していた。




「煌雅さん、ご夕食は?」

「……まだです」

「でしたら何かご用意しましょうか? あたくしたちはもう済んでしまったので」

「お願いします。それまで、お庭を見せてもらっても?」

「ええ、もちろん」


 立ち上がって庭へ出ると、案の定、娘も付いてきた。


「お義兄様、もっと璃々とお話しましょう」

「かまわないよ」


 最初はたわいもない会話から始めて、徐々に月姫子の話題へと持っていく。

 煌雅は立ち止まると、小声で言った。


「今から話すことは誰にも秘密だよ」

「まあ、秘密の話って大好き」

「お父様やお母様にも内緒だからね」

「ええ、もちろんよ、お義兄様」

「月姫子さんの背中には火傷の跡があるんだけど、君は見たことある?」


 その瞬間、璃々の顔色が変わった。

 後ろめたそうな顔で、視線をさまよわせている。


「見たことがあるんだね」

「その話はよしましょう。ちっとも楽しくないわ」 

「なぜ?」

「見たことあるけど、とっても気持ちが悪いんですもの」

「……君がやったのか?」


 この時、自分がどんな顔をしているのか、煌雅にはわからなかった。

 ただ璃々が、怯えた目でじっと自分を見上げているので、よほど怖い顔をしていたらしい。


「正直に言わないと許さないよ」

「わ、私がやったんじゃないわ。お母様よっ」


 甲高い声を出して、涙目で璃々は訴える。


「お姉様の身体の傷は全部、お母様がやったのっ」




 ***




  

「もうやめてぇっ、それ以上やったら、お母様が死んでしまうっ」


 女を殴ったのはこれが初めてだが、罪悪感はひとかけらもなかった。戦場では多くの兵士たちを手にかけ、同時に何度も殺されかけた。視力を失ったのもそのせいだ。だから女一人、素手で殴り殺すくらいなんとも思わない。


 たった二、三発、頬を殴ったくらいで女は泣き出した。

 髪を掴んで引きずりあげると、今にも死にそうな悲鳴を上げた。


「月姫子さんなら、そんなみっともない悲鳴はあげないと思うな」


 四発、五発と意識が飛ばない程度に殴り続ける。

 歯が何本か折れたらしく、女は口から血を流していた。


「誰かっ、誰かこの人を止めてよっ。どうして誰も助けてくれないのっ」


 商家の使用人たちは皆、遠巻きにこちらを眺めていて、割って入る気配すらない。心配するどころか、中にはニヤニヤ笑って、この状況を楽しんでいる者もいる。「やはり評判通りのお人だったな」とこそこそ話をしている声がここまで聞こえてきた。


「なるほど、下の者たちにはずいぶんと慕われているようですね」


 ――それならいっそ、このまま殴り殺してしまおうか。 


 しかしここは戦場ではない。

 神納家の当主とはいえ、人殺しは重罪だ。罪は免れない。


 ――刑務所に入ったら、月姫子さんに会えなくなってしまう。


 それだけは嫌だと思い、手を止める。

 すると璃々が泣きながら、母親の身体にすがりついた。


「し、死なないでぇ、お母様」

「大げさだなぁ。少し殴っただけじゃないか。そんな傷、どうせすぐに治るよ」

「お、お父様がこのことを知ったら、た、ただじゃ済まないから」


 なおも強がりを言う璃々に、にっこり笑いかける。


「君のお父上が愛妻家でないことを願うよ」

「こ、この人でなしっ。悪魔っ」


 どっちが、と思いつつ、煌雅はその場をあとにした。



 後日、この件で神納家が訴えられることはなく、月姫子の父親からは謝罪文が届いた。

 煌雅はその手紙を読む前に破り捨て、暖炉の火にくべてしまった。


「奥様の件、どうなさいますか?」


 神納家の有能な家令にして、幼い頃からの教育係でもある初老の男――黒刀こくとうに訊かれ、煌雅は「うーん」とうなった。


「……どうすべきだと思う?」

「質問を質問で返さないでください」

「本音を言えば、警察なり探偵なりを使って、すぐにでも見つけ出したい。けど……」

「奥様に会うのが怖いんですか?」

「それは向こうだろ。どんな外見をしていたって、俺は気にしないのに」

「旦那様と違って繊細ですから、奥様は」

「で、どうすればいい思う?」

「もう一度、失明されればよろしいかと」

「相変わらず辛辣だなぁ、お前。いつか絶対クビにしてやる」

「わたくしの雇用に対する権限をお持ちなのは大旦那様だけですっ」

「あーはいはい」


 話が脱線しかけているので、元に戻す。


「奥様の手紙に、落ち着いたら住所を知らせると書いてあるのですから、試しに待ってみては?」

「……一体いつになることやら」

「たまには羽を伸ばして欲しいと、奥様に言ったのはどこのどなたです?」

「さぁ、誰だろうね」


 とぼけると、「はあ」とこれ見よがしにため息をつかれてしまう。


「最初に契約結婚を持ちかけた旦那様にも責任があると思いますが」

「……目が見えるまで、なんて冗談でも言うんじゃなかった」


 あの時のことを思い出すと、悔やんでも悔やみきれない。


「冗談だったんですか?」

「うん、場の雰囲気を和ませようと思って」

「まったく、育ての親の顔が見てみたいものですなっ」

「目の前にいるよ、鏡を持ってこようか?」

「話を逸らさないでください」

「わかってる、お前の言う通りにするよ」


 いつだって彼は正しい助言をくれるのだから。


「けど俺、我慢できるかな」






 ***






 朝の市場は賑やかで活気に満ち溢れている。

 大きな買い物かごを抱えた月姫子が慎重に食材選びをしていると、 


「よぉ、そこの美人さん。夢みたいに綺麗だねぇ。サービスするから買っていかねぇか?」


 一体誰のことかと辺りを見回すと、


「あんただよ、別嬪さん。言われ慣れてるくせに、とぼけなさんな」


 指をさされた月姫子はさっと顔を俯けると、逃げるようにその場から立ち去る。

 煌雅の家を出て、二ヶ月が経っていた。


 汽車に乗って帝都を離れ、安宿を転々としながら、いつの間にか海の見える港町に辿り着いていた。そこで運良く親切な人と巡り合い、住み込みで宿屋の女中をしないかと誘われ、現在に至るわけだが、


 ――まさか顔の痣が消えるだなんて……今でも実感が湧かないわ。


 買い物を終えて宿屋に戻る道すがら、月姫子は大きなため息をついた。


 最初の頃は仕事を覚えるのに必死で、鏡などろくに見ていなかったから、痣の色が薄くなっていることにも気付かなかった。わずか二か月ほどで痣が完全に消えてしまうと、そこには桜色の頬をした、色白の美しい顔があって、思わず「お母様?」と呼びかけてしまったほどだ。それほど、鏡に映る自分の顔は、若かりし頃の母に似ていた。


 ――でも、どうして突然……。


 さらに奇妙なことに、数日前、気づけば寝泊まりしている部屋の隅っこに神の像――志笑様がいて、腰を抜かすほど驚いた月姫子だったが、


 ――志笑様の顔も、元通り綺麗になってる。


 恐ろしい、気味が悪い、と思うところだが、この不思議な現象を月姫子は心から喜んでいた。

 

「きっと寂しくなって、私に会いに来てくださったんだわ」


 そう思い、一層この像のことを大事にしようと決めた。

 それに、と久しぶりに手鏡を手に取る。


「この顔なら、煌雅さんに見られても、恥ずかしくはない」


 しかし顔の痣は消えても、身体の傷跡はまだ残っている。

 焼け爛れたような火傷の跡も。


 こんな身体で、また妻にして欲しいとは言えない。


「でもそろそろ、無事であることを知らせないと」


 使用人も含め、煌雅の家族には大変良くしてもらっていた。実家の者たちはともかく、神納家の人たちにはひどく心配をかけていることだろう。今のところ捜索願等は出されていないようだが、それも時間の問題だ。


「さすがの煌雅さんも、きっと愛想を尽かしているでしょうね」


 爆発に巻き込まれ、怪我をした夫を病院まで迎えに行くどころか、黙って家出をしてしまうなんて。ろくでもない妻だと呆れていることだろう。二ヶ月もの間、音信不通で、家事一切を放り出して逃げたふしだらな娘だと。


「離婚されても文句は言えないわ」


 ともあれ離婚するにも、色々と手続きが必要になるだろう。書類を送って欲しいと手紙を送ってしまったら、優しい煌雅のことだから、きっと自分に会いに、ここへ来るという確信があった。


 ――今の私を見て、私だと気づいてくれるかしら。


 顔の痣が消えただけで、別人のようになってしまった自分に。

 おそらく声を聞けば気づいてもらえるかもしれない。煌雅はとても耳がいいから。


 ――でもそれはそれで面倒なことになりそう。


 口のうまい彼に説得されて、実家に連れ戻される可能性もある。

 何より、煌雅の顔を見ながらでは、冷静に話せる自信がない。


「そうだわ、誰かに頼んで、離婚に必要な書類を取りに行ってもらいましょう」


 そうすれば居場所を知られずに済むし、もう二度と、彼に会うこともない。

 無事であることも知らせることができる。


「その人が怪しまれないよう、私の書いた手紙を預ければいいし、でも誰にお願いすれば……」


 真っ先に思いついたのは自分に親切にしてくれた、宿屋の女将さんの顔だったが、


「ダメ……ダメよ。女将さんがいないんじゃ、あの宿は一日だって回らないんだから」


 それに個人的な問題に彼女を巻き込むわけにはいかない。だったら赤の他人をお金で雇うしかないが、日々を生きていくのに必死で、持ち合わせは少ない。食事と住む場所を提供してもらっている分、賃金は安いのだ。


 結局解決策が思いつかないまま、宿屋に帰り着いた。


「ただいま戻りました」

「おかえり、月姫子。どうしたの、顔色が悪いようだけど……」


 その時、ふと吐き気がこみ上げてきて、月姫子は慌てて厠へと走った。

 朝方、外出前に食べた朝食を吐いていると、「大丈夫?」と女将さんが心配そうに顔を出す。


「今日は一日仕事を休んでゆっくりしたら? あんた、昨日から具合が悪そうだし」

「……平気です」

「こんな時に強がり言うもんじゃないよ。仕事中に倒れられたらこっちが迷惑するんだから」


 それもそうだと思い、彼女の親切に甘えることにした。

 今はとにかく、一人でじっくり考える時間が欲しかった。

 



 ***




 部屋で少し眠ったら体調がよくなったので、月姫子は散歩に出ることにした。

 どうせなら海でも眺めてのんびりしようと思い、浜辺へ向かっていると、


「あの、すみません、そこのお嬢さん」


 後ろから声をかけられて、息を飲んだ。

 なぜならその声を、月姫子は知っていたからだ。


「道をお尋ねしたいんですが」


 立ち止まって振り返ると、恋焦がれた彼がいて、咄嗟に声が出なかった。


「勿忘草という名の宿を探しているのですが。そこで妻が働いていると聞いて……」


 愛する彼が今目の前にいて、自分を捜しているというのに、月姫子は馬鹿みたいにつっ立って、何も言えなかった。

 ただ呆然と、スーツ姿の彼を見上げていた。


「ご存知ありませんか? 顔に痣のある娘のことを」


 その特徴が今の自分に当てはまることはなく、煌雅が自分に気づかないのも無理はなかった。けれど声を聞けば、間違いなく自分だと悟られてしまうだろう。月姫子は黙ったまま首を横に振ると、宿屋のある方向とは反対方向を指さした。



「あちらの道ですね、ありがとうございます」



 煌雅の姿が見えなくなると同時に、月姫子は走り出した。

 どうしてここにいることがバレてしまったのだろう。


 いやそれよりも、なぜ彼に言えなかったのか。

 自分が月姫子だと、彼の妻なのだと。


 ――見た目が変わっても、私の中身は何も変わっていない……。


 いきなりのことで、混乱してしまった。

 心の準備ができていなかった。




『その方、上谷コウというお名前なのですが、煌雅様はご存じありませんか?』




 あの時、なぜ彼が名乗り出なかったのか、今ならわかる気がした。


 ――名乗り出る前に気づいてもらいたかったのよ。


 なぜなら、今まさに月姫子も同じ心境だったから。


 ――私の姿が見えているのに、気づいてもらえなかった。


 いくら痣が消えて別人のような顔になったとはいえ、自分たちは一年近く一緒に暮らした夫婦なのだ。顔見知り程度の赤の他人とは訳が違う。それなのに気づいてもらえなかった。そのことがひどくショックで、思わず嘘を教えて逃げ出してしまったのだ。


 そろそろ息が切れてきたので、途中でペースダウンして、月姫子はしょんぼりと肩を落とした。傍から見れば些細な問題かもしれないし、馬鹿なことにこだわっているという自覚もあったが、自分の心に嘘をつくことはできない。


 ――せめて彼が、一言でも私の名を呼んでくれていたら……。




「――さんっ」




 いよいよ幻聴まで聞こえてきたようだと、月姫子は視線を遠くに向ける。


「待ってよ、月姫子さんっ」


 今度ははっきりと聞こえた。

 はじかれたように振り返ると、煌雅がこちらに向かって走ってくるところだった。


「すぐに気づけなくてごめんっ。君は月姫子さんだっ、絶対に月姫子さんだっ」


 息を切らせて、目を輝かせながら、ぐんぐんこちらに迫ってくる。


「君からの連絡を待てなくて、迎えに来たんだ。君が家を出たのは俺のせいだ。いくらでも謝るから、戻ってきてよ。俺を捨てないで。一緒に帰ろう」


 月姫子から少し離れた場所で足を止めると、食い入るように自分を見る。


「……顔の痣、いつ消えたの?」

「少しずつ薄くなってきて……ほんの二、三日前に」

「以前の顔も見てみたかったと言ったら、君は怒るかな」


 月姫子は唇を噛み締め、俯いた。


「消えたのは痣だけで、他は何も変わっていませんわ」

「……月姫子さんは、俺に会っても嬉しそうじゃないね」

「貴方は悪くありません。私に問題があるんです」

「問題って?」


 固く口を閉ざす月姫子に、煌雅は覚悟を決めたようだった。


「ごめん、実は知ってるんだ。君の実家に行って、妹さんから聞き出した。彼女の母親が、君に何をしたのか」


 口調は穏やかだったが、怒気のこもった声だった。こんな彼の声は初めて聞く。はっとして見ると、案の定、彼は怒っていた。強く拳を握り締め、親の敵を見るような目で宙を睨んでいる。


「君のお父上は方々に借金があるそうだね。おそらく彼の代であの家は終わるだろうけど、俺の力でそれを早めることもできるんだ。月姫子さん、君がそれを望むのなら……」


「やめてください、私のためにそんなこと」

「逆の立場なら、どう思う? 俺が継母に折檻されていたら? 月姫子さんは……」

「許しませんっ」


 自分でも驚くほど大きな声が出てしまった。


「絶対に、許さない……」

「月姫子さん、泣かないで。例えばの話だよ」


 いつの間にか煌雅の腕の中にいて、月姫子はほっと息をつくことができた。

 それと同時に、自分がいかにこのぬくもりを求めていたか、痛感する。


「はぁ、ようやく捕まえた。このまま俺と帝都へ帰ろう」


 手のひらを返したような態度に、驚きと喜びを隠せない。

 たまらず、


「煌雅様のことが好きです」


 驚いて目を見開く彼の顔をまっすぐ見つめながら、思いの丈をぶつける。 


「ずっと好きでした、子どもの頃から、ずっと……。私も気づいていたんですよ。すぐには分からなかったけれど、貴方があの時の書生さんだって、私の大好きなコウだって。名乗り出てくれるのとをずっと待っていたのに……」


 長いこと、煌雅は黙っていた。


 息の詰まるような沈黙。

 それでも月姫子は逃げずに、忍耐強く彼の返答を待った。


 待って待って、ようやく彼が口にした言葉は……


「はあ、びっくりした。夢でも見ているのかと思ったよ」


 気の抜けるような声を出されて、こちらの力まで抜けてしまう。


「そっか、気づいてくれてたのか。嬉しいよ。けど、言い出せなかったのはお互い様だよ。俺は目のことで、月姫子さんは顔の痣や身体の傷のことで負い目を感じていた。俺たち、似た者同士だね」


 それもそうだと思い、月姫子はふっと笑う。


「だったら初めから、私のことを知っていてい見合いを申し込んだのですね」

「君たち母子がどうしているのかは、ずっと気になってはいたんだ。まさかあそこまでひどいとは思わなかった」


 煌雅はふいに真剣な顔をすると、


「俺も月姫子さんのことが好きだよ。最初は同情の気持ちでも、今は本気だ。でなきゃ、ここまで来ない」


 初恋の男性に愛をささやかれ、月姫子のほうこそ、夢を見ているような気分だった。


「いいんですか? 私が妻のままで……」

「月姫子さんがいいんだよ」


 甘えを含んだ声で言われて、月姫子は幸せだった。


「こんな遠いところまで迎えに来てくださって、ありがとうございます」

「俺と一緒に帰ってくれる?」

「ええ、もちろん」


 月姫子は彼の手をしっかりと握りしめて答える。


「私は煌雅さんの妻ですから」





終わり



最後までお付き合い頂きありがとうございます。

かなり前に投稿したものの加筆修正版となります。


「なんで消したんですか」という問い合わせに「改稿して再掲載する」と答えて早数年。

こんなに時間がかかってしまい、申し訳ありません。


少しでも楽しんで頂ければ幸いです。

ちなみに下記☆にて評価して頂けると励みになります。


四馬タでした。


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