09. 私
◇
猫の私が、この離宮のお庭に転がり込んでから、五回目の冬が終わろうとしている。
ここまで猫的には大きな問題もなくて、愉快なお城の飼い猫生活を満喫している。五歳といえば、普通の猫ならいい歳こいたおばちゃんに相当するぐらいの年齢だと思う。しかし、猫の私は生後三か月判定が半年経っても生後三か月判定という、訳の分からない存在であったので、五年経ってもまだ若いんである。一切成長してないというわけでもなくて、一般の猫の成長に詳しい匠のおっかさんの見立てでは、生後七、八か月ぐらいじゃないかとのことだ。
子を産ませないなら避妊措置を考えたほうがいいかもしれないと言われて、それはさすがにちょっと怖いな、と思っているところです。猫の私の体は女というかメスなのだけど、人間の私の記憶によれば、避妊手術は子宮を摘出したりするやつだった気がするのですよ。もっとも、メスの猫が妊娠するにはオスの猫とどうこうなる必要があるわけで、元人間の意識が強い現状では、さすがにそれは気が進まない。そういう意味で避妊措置はまあ、やぶさかではないのだけど、せっかく魔術がある世界なんだから、魔術的な何かで済ませてほしい。
ルミールくんは身長が伸びて、手足がすらっと長くなってきた。成長している最中の子供特有のあの感じです。
木登りは上手なままなんだけど、体重も増えてきたから、木の上でのくつろぎタイムはそろそろ難しいかもしれない。あまり高いところは避けているとはいえ、横に張り出すタイプの枝でやるからね。慎重に見極めないと枝が折れる可能性が高くなってしまう。
魔術の勉強は順調で、簡単な防御の術式や、不意をついて相手を驚かす術式は、もう使っていいと言われたとルミールくん本人から元気よく教えてもらいました。不意をつく術式というのは、相手の顔を見て発動させると、相手の目の前で音と光が炸裂するやつらしい。似たような不意をつく技が脳内の日本人の記憶にありまして、名前は「猫だまし」です。猫が騙されるやつです。猫は音に敏感だから、そういうことされると普通にめちゃめちゃびっくりすると思うよ!
今は離宮の中で平和に過ごしてるルミールくんだけど、先々のことを考えて、自分の身を守る技術を優先して教えられた気がする。出番がないといいなー、と思う。
ベルナルトくんはこの国での成人年齢を迎えた。声はすっかり低くなって、背もすごく大きくなって、筋肉もどんどん付いてきているようだ。登った時の固さでわかる。私はそろそろ筋肉の状態ソムリエを名乗れるかもしれない。
最初の冬の頃から、体術の練習を楽しそうにやってるのは知っていたけど、どうやら体を鍛えるのがお好きらしい。成人になったので、王弟としての仕事もちょっとずつ割り振られているそうなのだけれど、書類仕事や人の前に立つ仕事よりも、体を動かす現場仕事みたいなののほうが好きなんだって。このまま筋肉ムキムキマンを目指しているそうです。筋肉ムキムキマンって言ったのは王様です。王様のネーミングセンスは本当に残念すぎる。
どんどん立派な体格になっていくベルナルトくんだけど、紐の扱いは相変わらず激烈にうまい。あの動きには本当に逆らえない。猫を誘惑する悪い男に育ってしまった。
お皿のおじさんと匠のおっかさんもずっと元気で、お皿のおじさんはお庭で仕事をしているし、匠のおっかさんも建物内で仕事をしつつ猫に食事を用意してくれる。本当にありがたい。お皿のおじさんは、よく見ると最近ちょっとだけ白髪が目立つようになってきた。日本人みたいな真っ黒な髪は稀で、おじさんもご多分に漏れないからさほど目立たないんだけど、日々登り続けて至近距離にいる私にはわかります。庭師さんの仕事は真夏に暑かったり、冬が寒かったりして大変だけど、是非とも元気で長生きしてほしい。
そうそう、猫を囲む会初期メンバーの重鎮であり、優秀な猫の遊具である魔術師団長の人なんですけど、この五年の間に結婚なさったんですよ。五年の間というか、最初の冬が終わった直後に結婚して、同じ年の夏に式を挙げていた。私は最初の冬のうちに話を知ってました、王妃様によるリークです。
離宮にいる時の王妃様は、結構ざっくりとした感じで過ごしてらして、たまに王妃付きの侍女さんたちとか、子供たちとか、子供たちの先生とか、あとはたまたまいた魔術師団長の人を捕まえて、お茶をしていることがあるのです。で、そこに猫がいると猫も混ぜられる。猫は聞いても話す先がないので、ただ話したい時なんかにちょうどいいのかもしれない。お茶の代わりにミルクを出してもらえるので、猫としては異存はありません。
お茶のメンバーが王妃様と侍女さんたちだと、ノリが女子会になってしまうので、恋バナとかはじまるんですよ。それで、そのまま魔術師団長の人の結婚情報が暴露されました。なんかね、あの人は何年もずっと、モテるにもかかわらず女性を寄せ付けない孤高の存在だったらしいのですよ。孤高! 進んで猫の遊具になりに来る奴なのに孤高!
魔術師団長の人は貴族のおうちの生まれだそうですが、跡継ぎではないし、研究面白いし仕事面白いしで、女の人とかめんどくさい、というタイプだったそうです。この情報の出元は王様で、どうやらこの二人は幼馴染で仲がいいらしいです。これあれでしょ、男子大学生がやる安居酒屋の飲み会で、深酒してぐだまいた時の発言みたいなやつでしょ。猫の脳内の日本人がそういう判定をしています。
ずっと孤高な感じだった魔術師団長の人だけど、離宮に猫が来てから、ずいぶんと心境の変化があったそう。家族が欲しくなったんですって。家のほうに来ていた縁談に乗ってお見合いして、お相手と意気投合して、そのまま怒涛のようにゴールインなさったそうです。急展開がすぎる。
これ、犯人は猫って言われてる割に思い当たる節がぜんぜんなくて、猫というよりルミールくんの影響じゃないかと考えている。子供はかわいいからねえ。
猫は離宮の敷地から出ないので、魔術師団長の人のお嫁さんになる人も全然知らなかったのだけど、結婚式の後に離宮まで来てくれて、無事にご挨拶ができました。ご挨拶は鼻でツンってする猫式のやつでしたが大歓喜された。朗らかで愉快な人です。
そんなこんなで、魔術師団長の人も今では二児のお父さんになっている。双子の女の子で、奥さんがたまに離宮まで連れてきてくれるのだけど、とてもぽわぽわしててかわいいんだよね。ルミールくんもベルナルトくんもメロメロなので、今の離宮のトップアイドルはこの双子ちゃんたちだと思う。猫は獣なので衛生的にやや問題があるんだけど、きれいに拭かれた後なら近付いていいって言われるので、毎回尻尾ぐらいなら供出できますよって気持ちで寄っている。乳幼児には本能を刺激するなにかがあると思う。
冬の間は寒いので、魔術師団長の人のところの双子ちゃんは遊びに来ない。なので今はみんなでじりじり春を待っているところです。冬の間は猫を愛でるといいと思うよ。最初の年みたいな、万人受けする子猫の姿ではなくなったけど、猫は全力で猫を遂行するので、どんとかかって来てほしいと思う。
そういう感じでずっと呑気に過ごして、今年も春がやって来た。
私は、当然のようにこの先もこの離宮で、悠々自適な飼い猫として生活するんだろうなと思っていたのだ。
◇
春になって雪が解け、地面を歩いても冷たくなくなったので、私はお庭に出るようになった。
私は相変わらず木登りが好きなので、お庭に出ると一日一度は登っている。体も少しは大きくなったし、日々いろんな人間に登り続けて技術が上がった結果、大きな木の垂直な幹からも難なく降りられるようになりました。やっぱりこういうのは反復練習が物を言うんだな。
高い木の上のほうに登ると、離宮の敷地の外が見えることがある。登る木は適当に決めているのだけど、今日登った木はお庭の端っこ寄りのやつだった。このお庭には結界という名の、猫には見えず人間にも見えないらしい電柵があるのだけど、それが離宮の敷地を大きく包むようにかかっているということを、高い木に登れるようになってから聞いた。端っこもだけど、木の上の高いところでジャンプしたら、ビリっと弾かれてしまうかもしれない。
ただまあ、どっちにしても触らなければいいんである。五年もいるとさすがに慣れて、最初の頃のように過剰な警戒はしなくなっていた。
樹上から見える敷地の外に、よその猫がいるのがわかる。
そういえば、春はそういう季節だった。オス猫がアオアオ鳴きながら歩き回っているのを目にした記憶が、人間の私の中に残っている。あの猫もそうやって、お嫁さんを探しているんだろう。
春先は風が強いことがままある。今日もその例に漏れず、なかなかに風が強い。風に吹き飛ばされて、小さな葉っぱが飛んでゆく。動くものを目で追ってしまう猫の習性をそのままに、飛んでいく枯れ葉を見つめて私は体を乗り出した。
そんな状態で、タイミングよく吹いた横殴りの突風が、近くの枝をばきりと折った。驚いた私は咄嗟に飛び上がってしまい、そのまま風に流されつつも着地した。足の裏がまあまあ痛いけど、着地自体は上手にできたと思う。
問題は、降りた先がお庭にある柵の外であったことだ。ビリっとして出入りを疎外するはずの電柵が、ぜんぜん仕事をしていない。
――どうしよう。
――外に出てしまった。
外に出たら、恐ろしい何かに捕まえられてしまう。
私は以前、恐ろしい何かから逃げ出して、命からがら必死に逃げて、どうしても帰りたくて、それであの庭に辿りついたのだった。私の家はあそこだったから、家まで帰れば大丈夫だと信じて。
後から思い出してみると、たぶんこの時の私は、軽くパニックのような状態になっていたのだと思う。記憶の断片のようなものが錯綜して、呆然としていた。
動けずに佇む私を見つけたオス猫が、寄って来て、誘うように鳴く。私の体は成猫としてはまだ小さいせいか、オス猫がずいぶんと大きく見える。猫ではメスに拒否権があると聞くけど、人間の私の記憶が適切な行動をとることを邪魔している気がする。体格に勝る相手を怒らせるのが恐ろしくて、強い拒絶ができない。
何気ないふりで歩き出したのに、後ろを追いすがってくる相手をなんとか巻くため、走り出そうと向きを変えると、目の前にはお皿のおじさんのとても大きな手があった。
おじさんはオス猫をなんてことなく追い払い、私を持ち上げて抱きかかえた。さっきまでいた庭の外側を回り込み、離宮の通用門から敷地内に入っていく。この辺りは、猫が出ていい庭とは別の区画で、猫の私は行ったことがない。
門を入ったところには、魔術師団長の人もいた。たぶん例の、通知にちょっと難があったアラートが仕事をしたのだ。猫のためにご足労をお掛けしてごめんなさい、という気持ちで見たら、魔術師団長の人はとても難しい顔をしている気配がある。怒らせてしまっただろうか。
二人は建物には入らずに、そのまま敷地内を歩いて進み、猫の私もよく知る庭に戻ってきた。見慣れたいつもの作業小屋の近くには、布を持った匠のおっかさんがいた。おじさんから手渡された猫を、おっかさんが温かく蒸された布でいつにも増して丁寧に拭いていく。表情を伺うと、やっぱり難しい顔をしている気がする。怒らせてしまったかもしれない。
「怒ってないよ」
私の気持ちを読んだかのように、おじさんが言う。
「みんな心配してんだよ。何もなくてよかった」
私はやっと安心した。
拭かれた私は、匠のおっかさんにより建物内に回収された。魔術師団長の人とはそこで別れた。お仕事中にごめんなさい。
最初の冬に屋内に移された猫の拠点は、そのままずっと通年で稼働しっぱなしになっている。最初の冬はまだ獣臭かった猫の箱も、中身の藁が古いクッションに差し替えられて、今はもう、獣臭さは全くない。
お皿のおじさんが箱の横にホットミルクの入ったお皿を置いて、匠のおっかさんはその前に私を降ろしてくれた。この人たちは、いつだって猫に優しい。
どことなく落ち着かない様子の猫は、しばらくそっとしておくことにされたらしい。誰もいなくなったところで箱を抜け出し、私はどこか落ち着いて眠れるところを探した。とにかく気疲れしていた。この拠点は、仕事をしている人たちが出入りする区画にある。気配に敏感になってしまっている今の状態だと、ここではあんまり休める気がしない。
そういえば、猫の私が勝手にベッドを使わせてもらっている部屋があった。あの部屋は、普段から人の気配が薄くて、とてもよく眠れるのだ。
廊下の端っこを身を低くしながら駆け抜けて、王族の人たちの区画に入った私は、首尾よく狙った部屋にすべりこみ、いつも寝具が整えられているベッドの上で丸くなった。
◇
離宮の王族達の住む区画の端に、魔術師団が離宮警護のために使っている部屋がある。離宮の敷地をまるごと包む「網」も、建物を覆う「膜」も、動作仕様や運用の詳細を外部に漏らすことはできないので、離宮内の簡単に出入りできない区画に、管理のための部屋を設けていた。
「あー、師団長の推測通りっすね。記録を見ると、さっきの時間に網を内から外に通ったのは、登録されてる誰でもないって扱いっすわ」
「クロに出入りの許可は与えられていないんだな?」
「ないっすね」
この離宮に設定している結界は、三年前に仕様を変えて更新している。それ以前のものでは、許可のない者が接触することへの対策にのみ、重きを置いていた。そのため、出入りの記録自体はあるものの、それが許可済の誰であるかという情報までは保存しない挙動だった。蓄積する情報の総量が多くなりすぎて、保存と運用に支障があったからだ。
現在のものは取り扱いを改善しており、後からでも出入りした者を特定できるようになっている。この変更に伴って、長期の許可を出している者の情報は、すべて再登録を行った。
三年前に、個人を特定できる情報を載せることができないまま、許可が残されている者は一人。当時既にこの離宮に居なかったとされる人物だけだ。
「考えられるのは『呪い』ぐらいだな。『呪い』はお前でもわからないものか」
「機序がぜんぜんわからないんで、さすがに無理ですね」
「団員に詳しい者はいるか」
「元々秘匿されてて文献も少ないし、ここ二百年以上は実例もないとされてますからね。趣味レベルで研究してるのが去年入った奴に一人いますけど、メインは古文書解析だって聞いてます」
「今後は認識を改めなければならないだろうな」
「ああー、そうっすね……」
綱渡りのような幸運で、結果的に保護が叶っていたにすぎない。我々が自ら手を下していた可能性もあった。
本当に、少しでも何かが違えば、命ごと失われていた。
気付かなかった魔術師団側の失態とされるだろう。責任者である自分の首だけで収まってほしいが、こればかりはわからない。
職務上の過失であるので、少なくとも職務に無関係な者の連座だけはない。だが、それでも妻子に不名誉を遺すことになる。判断を鈍らせるこの感情が嫌で、自分はずっと家族を持つことを避けてきた。それを今更思い出した。
「まずは目の前の問題に対処する。交替を呼んで、お前も代わり次第来てくれ」
「わかりました」
以前付けたマーカーはまだ生きている。最初にかけた術は他のものに変えていたが、これだけは残していた。位置を確認すれば、この部屋と同じ区画にいるようだ。動いていないので、眠っているのかもしれない。
おそらく、彼女の部屋にいる。
思えば気付くべき機会は何度かあった。
最初の冬、離宮の建物へ入れるための許可を設定した際、ルミール殿下は腕に抱いたクロと共に境界を通り抜けた。処理が完了する直前で、本来ならばクロだけが弾かれていたはずだ。タイミングの問題で、処理自体は終わっていたと考えたが、それは誤った認識だったのだろう。
そもそもは五年前の春、網を抜けて庭にいたと聞いた、あの時の違和感はおそらく正しかったのだ。今になって思えば、よくぞ弾かれず通り抜けてくれたと感謝するしかない。
なかなか育たない体も、実際には人間であったと考えれば辻褄があう。五年前に十歳だった体ならば、今は十五歳、人間として成熟する一歩手前ぐらいだろう。五年前に子猫だったクロは、今は成猫の一歩手前のような体格をしている。
目的の部屋の目の前で、クロに仕掛けていた術が警告を発し、そのまま壊れた気配がした。部屋の扉は開いたまま、中から短く鋭い悲鳴が上がる。彼女の部屋の管理を行っているメイドだろう。
緊急事態と判断し、そのまま中に踏み込むと、室内には今まで居なかったはずの人物がいる。
長い黒髪の中に、妃殿下によく似た顔立ち。陛下や殿下達と同じ、印象的な緑の瞳。
それを目にした瞬間、跪いて頭を下げた。
視界の端でメイドが動くのが見え、衣擦れの音がする。寝具で体を隠すのだろう。目の前の女性は服を着ていなかった。
「ニーブルト卿」
「……よくぞお戻りくださいました、王女殿下」
彼女が笑う気配がした。
「私は、ずっとここに住んでいたのだけどね」
貴方達のお陰でずっと快適だったと、王女殿下は笑っていた。
◇
勝手に入り込んだ部屋の、ふかふかの寝具の上で、私は夢を見ていた。
このお布団は私のものだし、このお部屋も私のものだ。夢の中の私はこの部屋の中で駆け回り、壁に付けてしまった傷をどうにかして隠すため、私付きのメイドをおやつで買収しようとして失敗していた。だめじゃん。
部屋を出て、三つ先の扉は弟の部屋だ。そこに母や兄もいるのを知っていた。ノックもせずに扉を開いて中にいるみんなを驚かせ、母にはきっちり叱られた。だめじゃん。
まだ小さい弟を兄があやしている。兄ばかりずるい、私も弟と遊ぶのだと駄々をこねて、代わりに母が私と遊んでくれた。背中に飛び付いた私を背負ったまま、母はくるんと回ってくれ、私は喜んで大きな声をあげた。この離宮は家族の場だからと、私をはしたないと叱る者はいなかった。
そういう、取り留めのない古い記憶が、頭の中をふわふわと通り過ぎる。
弟の髪は美しく光を放つ銀、兄の髪は柔らかな淡い茶色、二人とも父と同じ、鮮やかな緑の瞳をしている。母の髪は黒に近い艶やかな濃茶で、瞳は透き通るような薄い水色だ。鏡に映る私の髪は黒だが、目は父や兄弟と同じ色をしているのがわかる。猫の視力では捉えることが叶わない、輪郭も色彩も鮮やかな世界だ。母と同じ水色の瞳が良かったと、駄々をこねた覚えがある。
日本人三十三歳が終えた生を引き継いで生まれた私は、十歳のあの時までそのことを忘れていて、普通の無邪気な子供として育っていた。
十年分の子供の記憶に蓋をされ、何もわからないまま猫としての生を始めることになったあの時、十年生きた経験の代わりとして、生まれる前の三十三年分の記憶が浮き上がってきたのだろう。私はそのお陰で生き延びることができた。
私の中の前世の記憶に、十年分の子供の記憶が継ぎ目なく繋がって、猫であった私がそれを俯瞰している。その全てが繋がっていて、私の自意識を作っている。
私の名前はノエミ・クロル 。この国の王と王妃を父母に持つ娘。
それを認識した瞬間、何かが砕けて剥がれ落ちるような感覚がして、目が覚めた。
すぐ近くで短い悲鳴のような声がして、目線を向ければそこには見知ったメイドがいた。壁の傷をごまかすのに、おやつでは買収されてくれなかった彼女だ。記憶にあるより少し老けたように見える。
それを、はっきりと視認できる。
目の前に置いていた自分の手は、長い指のある人間のそれの形をしていた。