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20. 私の顛末、猫の顛末



 早い段階から形骸化したまま続いていた毎朝の診察の時間は、現在はちゃんと実質を伴った診察と治療の時間になっている。術師をぶん殴ったあの時、衝撃に耐えられなかった私の右手は見事に骨折してしまい、それが治るのに時間がかかっているのだ。


「俺はね、そろそろ主治医はお役御免かなと思ってたんすよ。元々姫様は健康体でしたし、もうすぐ立場も変わられますし。それがなんで強制留任になってんだって話っすよ。訓練もしてない姫様が素手で殴ったら、手が負けるに決まってるでしょ」

「咄嗟だったけど、さすがに噛みつくのはだめだと思って」

「んなの当たり前っしょ」


 大量に文句を言いながら、手の固定の処置をし直してくれているカラシュさんは、医官としては本当に腕がいいのだと思う。


 あの後のカラシュさんは、大活躍だった。

 駆けつけた私付きの護衛の人に手の状態を心配されて、じわじわと痛みを自覚しはじめた私に、「緊急時の痛み止めはあるけど、作用強すぎるから使いませんよ」と、無情な宣言をした後、護衛の人たちに指示を出しつつ、私に応急処置をしてくれた。手際はとても良かったけれど、痛みに半泣きになっている私の心情には無配慮だった。外傷時に迂闊に痛覚を遮断すると危ないのかもしれないし、痛みを訴える王族に変に忖度しないのも、医療者としてよい姿勢なんじゃないでしょうか。でも無情だと思ってしまうのは仕方がないよね。

 ちなみに、攻撃を仕掛けた側の体がもたない現象は、近衛隊や魔術師団なんかの戦闘職ではあるあるだそうだ。初心者がやらかしがちな怪我だそうです。

 痛み止めは使われなかったのだけど、体が動かないように固定する術はかけられた。「どこまで痛めてるかわかってねえ。首回りは絶対に動かすな」と言いながら周囲に指示を飛ばすカラシュさんという図に、私は迂闊にもときめきを覚えてしまった。医療ものの海外ドラマみたいな展開だぞ? わくわくしないはずがない。まあ私は自分でやらかした患者の役なのであれですが。

 首まで固定されていたので、医療ドラマ的な光景は音でしか認識できず、廊下の天井の模様にだけ詳しくなった。本宮の廊下ったら、天井の模様は同じパターンのように見えて、ちょっとずつ変わっているのですよ。さすが王宮お金かかってるなとおののきつつ運ばれました。

 痛かったはずなのだけど、こんなどうでもいいことを考える余裕はあったので、おそらく途中でしれっと局所麻酔のようなものをかけてくれていたのだと思う。この人は意外と私に対して甘いところがある。日本人の頃にかかったことがある小児科の先生が、このタイプだった。患者からひそかに人気があったんだよねえ。


 それだけで怪我をきれいに治すような方法は、この国の魔術にはないという。ただし、極めれば非接触でMRIやCTスキャンのようなことはできる。歩く医療機器のような存在であるカラシュさんは、切開せずに骨と血管を縫合するという、想像するだけですごいとわかる技を披露してくれた。

 この技術、目視せず、使える空間に限りがある状態で細かいものを縫合するという、技能自体もすごいものなのだけれど、人体に対する正確な知識も必須になるはずだ。作業に相当な集中がいるのも想像に難くない。

 処置は離宮の私の部屋で行われたので、視界には目新しい天井もなく、邪魔しないように羊を数えていた私はそのまますこやかに眠ってしまい、気が付いたカラシュさんの「うっそだろ、なんで寝れんの」という呟きで目が覚めた。失神したり、意図的に眠らせたりという以外で、すぐ近くで他人が自分の体を弄っているのに寝てしまう例、というのは稀だそうです。しかし、私にはかつて日本の専門医療を受けまくった記憶があるので、脇で長時間処置されることにもぶっちゃけ慣れている。あんまり痛くなかったので余裕で入眠できました。


「本当に、何のために道具持たせたと思ってるんすか……」

「猫の最大の攻撃手段は牙で、次は爪だもの、仕方ないでしょ」

「姫様は猫じゃないでしょ」

「そうなのよねえ。あんな動きは、たぶんもうできないと思う」


 あれはおそらく、私の中に入れられていた猫の魂が、術師に対してやりたかったことだ。

 どんな動物も顔は急所で、子猫に比べれば圧倒的に大きい人間の男に対してでも、有効打となり得るのが顔への攻撃なのだと思う。

 術師の存在に気がついた途端に溢れた、生々しい猫の記憶は、あの時の涙と一緒に抜け落ちていった。質感はどんどん薄れて、今ではもう、どこかで読んだ悲しい物語、ぐらいの温度になっている。

 私の髪にあった一房の白髪は、あれから徐々に黒くなっていって、一か月たった今では、もうほとんどわからない。猫は白い毛を持っていた。少なくともそう自認していた。だからあれは、私の中に猫の魂があることによって表出したものだったのだろう。


 人間の私が人間に転生したのだから、猫だって猫に転生できると思う。どうか次は、幸せな猫として天寿を全うしてほしい。


「……どっか体におかしいとことか、ないっすか」

「匂いの感じ方が鈍くなったかな。人並みに戻ったぐらいだと思うけど。耳が妙に音を拾うのも無くなった。あとは右手が不便」

「あー、右手はねー。治るまで不便でしょうけどねー、そこは我慢してほしいっすねー」


 自覚はなかったけれど、私は猫によって少しだけ身体能力が底上げされていたようだ。音の聴き分けはまだできる気がするのだけど、聴覚自体が人並みに落ちていそうだから、どこまで持つかはわからない。

 そして、残念ながらリズム感はずっとない。


「肩や腕まわりの傷めてたとこは、完治ってことでいいと思うっすよ。こわばってると思うんで、様子見つつ動かす練習をしましょうかね。あとは手ですけど、骨折はそんなにすぐ完治とはいかないんで諦めてください」

「お陰で音楽とダンスは間に合わなくていいってことになったし、気長に治すからいいよ」

「あのね、反省してます?」

「してますしてます」


 私の成人王族としてのお披露目まで、あと一か月しかない。

 手を動かせなくても、ペンを落ちないように固定すればサインぐらいならできる。なので、そのあたりはセーフなのだけど、さすがにダンスを間に合わせるのは無理だと判断された。音楽は、こう、割と前から諦められつつあったのが、骨折をきっかけに本格的に諦められた感じだ。鑑賞を極める方向でがんばりなさいと母には言われた。

 ダンスについては、手が治ったら兄が相手をしてくれると言っている。動きを男性側が全面的に受け持つので、私は流されるだけでいいようにしてくれるって。男性側の負担がすごく大きいと思うのだけど、兄曰く「鍛えてるから大丈夫」だそうです。筋肉がすべてを解決しそうですごい。

 手を固定したままお披露目に出ることになりそうな私だけれど、当日は器具ではなく魔術による固定をしてもらえるそうだし、この国では高貴な女性は手をみだりに露出したりしないことになっている。なので、見た目上、多少鬱血が残ったままになったとしても問題はないのだけれど、念のため袖口の広い長袖で手元全体を覆う予定です。ドレスのデザイン変更が間に合ってよかった。手はみだりに出さないけれど肩は出すのが普通なので、結果的に上半身は日本人時代に見たバーチャルアイドルのような形になる。私の中に元気に息づく中二心も、これには大満足である。


 そうそう、私のこの負傷、さすがに何事もなかったことにはできないので、表向きは「王子の危機に王女が身を挺した」という美談にされた。実際には、弟は自分の身を自分で守り、姉は自主的に敵に突撃した結果、自爆しただけなのだけど、実情をそのまま出すといろいろと差し障りがあるのでそうなった。


 あの術師が使った方法は「あの場にいる人間の呼吸を阻害し、思考能力が落ちたところで意識を乗っ取り操作する」みたいなものだったようだ。護衛の人たちも立ち番の衛兵さんたちも、妙に息苦しくなった後の記憶が欠けている、と証言しているので、顔の周りの酸素濃度を落として酸欠状態を作り、頭がぼんやりとした状態になったところで操作したとか、そんな辺りじゃないかなあと個人的には思っている。人間に直接術をかけないあたり、なかなか小賢しいと思う。昔の襲撃の時には、奴は私と弟の声を奪っていたけど、そういう強い操作は一度に使える人数に制限があるのでしょうね。

 侍従くんについては、そういう予備兆候もなくて、急に意識を失ったそうだ。私が弟に声を掛けたあと、侍従くんも周囲がおかしいと気がついて戸惑ったところまでは覚えているそうなので、近くで見ていた術師がその隙に体を乗っ取ったのだろう。侍従くんはまだ子供だ、不測の事態に軽いパニックぐらいにはなるでしょうよ。

 あの術師、たぶん生霊っぽいものを飛ばせたんじゃないかな。制限はあるみたいだけど。

 音を消したり、酸欠状態にさせたり、見ただけでは姿がわからないようにできたりもしていたから、空気の組成を操るようなこともできていそう。


 ただ、それならなんで弟本人と私とカラシュさんだけ無事だったんだ、という話になるのだけど、たぶんだけどさあ、あれ、期間と空間の範囲を指定して、その間にその中に入った術師本人以外の人間に、無差別に術が発動するように設定してたんじゃないかなあ。それでいて、喋ってる最中の人間が、急に黙って回れ右してしまうと不審すぎて目立つから、ある程度以上の沈黙が発動条件にされていたのではないかな。護衛や衛兵は、仕事中は基本的に無言だし、廊下を喋りながら歩くのは、それなりに行儀が悪いという扱いを受けるしね。

 ところが私と弟はすっごく喋る。場を壊さない、声高にしない、みたいな最低限は守るけれど、それさえ守っていればセーフ、って勢いで喋る。五年程露出がなかった私はともかく、弟のおしゃべり好きは知ってる人には有名だったはずなのだ。なのになんでそれを計算に入れてないんだという、このツメの甘さよ! やっぱあいつら三流だぜ!


 三流の術師があの後どうなったのか、私は聞いていない。周囲の大人たちは誰もそのことに触れないので、私は知らなくてもいいことなのだろう。


 私の負傷が美談にされたこともあり、対象を危険に晒した護衛の皆さんや、不審者の侵入を許した衛兵の皆さんもそこまで重いお咎めにはならず、減給一か月ぐらいで済んだそうです。そもそも、現段階で防ぎきる方法はないと判断されていたそうなので、父もそこまで厳しく追及する気はなかったようだ。ただし、次がないように対策は徹底しろとお達しが出た。

 侍従くんは本当に不可抗力だし、倒れた時にお尻を打撲したそうだし、弟の盾にはなった形なので一切お咎めなしである。操られかけたことは、本人にも弟にも伏せられている。それでも不自然さに気付くのが遅かったと落ち込む侍従くんを、弟が慰めたというのは聞いた。「僕に何かあって倒れた時、指示を出すのがお前の役目だ」とか言って。うっわー! やだカッコイイ! 弟ったら、おねえちゃんが知らない間にすっかり立派な王子様してるじゃないの!


 主治医業からの残業で護衛業をやっていたカラシュさんについては、護衛対象を危険に晒したことで減点、私の怪我の治療を速やかに行ったことで加点となり、減給はなかったが褒賞も出なかったそうです。あんなに見事な技術を見せてくれたのに! ごめんよ愚痴なら聞く。


「はあ、もう……。心穏やかに新部署の立ち上げぐらいさせてくださいよ」

「申し訳ないのだけど、それはこう、諦めてほしい」

「えええ……」


 まだなんかあるんすか、もういいでしょ、とブツブツ言いながら処置を終えたカラシュさんが立ち上がり、私も立ち上がった。我々二人は、今日はこのまま離宮内の応接室に呼ばれているのである。


「うちの新部署ですけど、姫様はどんだけ関わる予定なんすか」

「私はド素人だから、あまり口出しするのは避けたいのだけど、例の件の絡みと医療関係は、お手伝いできることがあるならしたいかな」


 母の思い付きに端を発した魔術師団の研究部署は、本当に立ち上げることになり、カラシュさんもそちらに異動になった。医官さんの半分と、戦闘より研究が得意な人を何人か選抜して、最初は小規模に始めるそうだ。

 なんとなくだけど、カラシュさんは前線に出るより研究部署のほうが向いていそうな人なので、よかったなと思っているところです。私はこの人のことを相当な面倒くさがりだと踏んでいるのだけれど、戦闘職で前線に出ていたら、何かあった時に面倒がって素直に死にそうなんだもの。生きるのって面倒くさいものだからね。呼吸をするのも面倒くさいっていうあれですよ。



 雑談しながら着いた応接室には、すっごくいい笑顔の父と、完璧な王妃の笑みを浮かべる母と、どことなく楽しそうな雰囲気を漂わせる魔術師団長が待っていた。私はこれをあらかじめ知っていたので、しれっと父母の側に行く。横にいてもわかるレベルで両親の圧がすごい。

 私も聞いたのは一昨日なのだけど、少し前からなんとなくそうかなとは思っていたので、特に驚くこともなく普通に了承した。


「フェルディナント・カラシュ。君に一つ願いがある。我が娘、ノエミと婚姻を結んではもらえないだろうか」


 この国の王様に輝く笑顔を向けられてしまったカラシュさんは、目を見開いた後、声を発さず何かを呟いた。たぶん「マジかよ」あたり。声に出さなかっただけ偉い。

 きっとカラシュさんも、自分が私の婚約者候補に入っている可能性ぐらいは、考えたことがあると思うんだ。だけどこの反応を見る限り、そうだとしても最後まで残りはしない、と思考を放り投げて終わらせていたのだと思う。他人のことをよく見ている人にありがちな、自分のことは極めて雑になるやつですね。


「これは我が家からの私的な願いだ。同意なく君の行動を縛ることは行わないし、断っても、君に不利益は齎さないと約束する」

「あの、実家は田舎の貴族の端っこぐらいの立ち位置ですし、俺はそんな家の三男で、師団での役職もなければ、これといった功績もありません。本来なら王族の皆様のお近くに侍る機会もないような存在です。正直、王女殿下の降嫁を願えるような立場では全くないのですけど、……なんで俺なんですか?」

「君が一番ノエミをよく見ていたからだな。王女や、俺の係累としてじゃない、個人としてのノエミに気を配ってくれていたのが君だった」


 この理由は聞いていなかったのでびっくりした。全然自覚がない。たぶん、あの猫を囲む会による検討の結果がこれなのだろうけど、周囲が私とカラシュさんをそんなふうに見ていたとは思わなかったです。


「姫、……王女殿下は、これをご存じだったんですか?」

「一昨日聞いたところです。でも、そうかなとは思っていました」

「俺でいいんすか」

「カラシュさんがいいです」


 私の人間関係は、家族と、親戚のおじちゃん枠の魔術師団長を除いてしまうと、ずいぶんと狭い。だいぶ浅い上に広くもなくて、護衛さんや勉強の先生、そのほか働いている人たちを含めても、付き合いがある人が多いとは到底言えない。その中で、カラシュさんは一番近くにいる人だ。

 この後、私の交友関係はそれなりに広くはなると思うけれど、カラシュさんほど近くにいてくれる人を作れる気が全然しない。私も相応に無精者なので。


「九歳も年上のおっさんなんだけど」

「私だって九歳も年下の小娘よ。音楽もダンスも無理だし、愛の叙事詩も読み進められてないし、まだ言えていない秘密だってある」


 私の中にある日本人三十三歳の記憶のことは、なんだかんだで機会を逃してしまったまま、未だに誰にも話せていない。改まって言うのもなにか微妙な気がして、必要があったら都度話すぐらいでいいかな、とは思っている。呪い対策の研究で役に立つこともあるだろうし。

 でも、生涯の伴侶を決めるにあたって、さすがに伏せっぱなしなのはどうかな? と思ったので、こんな言い方になった。


「それ、秘密のままでなんか問題になるやつですか」

「ならないと思う」

「じゃあいいですよ。ダンスはがんばってほしいですけど」


 この人本当に一言余計すぎる。ダンスはね、無理なもんは無理なんですよ。


 むっとした私を見て小さく笑ったカラシュさんは、私の前に歩み出ると片膝をついた。本人の言動は至極雑なのに、姿勢はとてもいい。こういうところは本当にずるいと思う。


「謹んでお受けいたします。ノエミ王女殿下、私と結婚して頂けませんか?」


 こういうのを要所要所で決めてくるの、ほんっとーに卑怯だよなあと思いつつ、私はこくりと頷いた。







 吾輩は猫である。名前はまだない。家の人間からはウシ‐クンと呼ばれているが、それを名前だとは断じて認めたくない。



 ウシ‐クンのウシが何なのかは、この家の先輩のアラタ‐クンが教えてくれた。吾輩のこの美しい毛皮と同じような模様の動物で、大きくて、尻尾は短くて、一日草ばかり食べていて、糞は臭くてモーと鳴き、乳を出すそうだ。吾輩は草はたまにしか食べぬし、糞はまあ、臭くはあるがモーとは鳴かない。乳も出さない。吾輩も尻尾は短いが、この力強い動きができる尻尾は吾輩の誇りであり、ウシなどというものとはまったくもって違う。

 アラタ‐クン先輩は直接ウシと会ったことがあり、ソフトクリームを食べたと自慢していた。ソフトクリームは冷たくて甘いのだそうだ。それがウシとどう関わるのかを吾輩は知らない。


 この家には吾輩の兄弟のトラ‐チャンもいる。トラ‐チャンのトラは毛皮が縞々で、大きくて、肉を食べるかっこいい動物だそうだ。これもアラタ‐クン先輩が教えてくれた。

 吾輩の兄弟のトラ‐チャンは、ちょっと毛皮に縞模様があるぐらいで全然大きくない。肉は食べるが、吾輩だって肉を食べるし、吾輩の毛皮はかっこいいのだ。

 トラ‐チャンと吾輩は不仲ではないが、奴がたまに吾輩を「こいつ馬鹿だなあ」と思っていることを吾輩は知っている。トラ‐チャンは大きくないが、なぜか吾輩より強いことは認める。しかしながら、いずれそのうち吾輩が勝つ予定ではある。


 アラタ‐クン先輩以外にも人間はいて、名前はオトウ‐サンとオカア‐サンだ。アラタ‐クン先輩の家族だそうだ。吾輩が推察するに、オカア‐サンのほうはアラタ‐クン先輩の母親ではないだろうか。夏になったらもう一人家族が増えるとアラタ‐クン先輩が言うので、オカア‐サンの腹から子が産まれてくるのかもしれない。

 これはつまり、吾輩にもいよいよ後輩ができるということなのだ。トラ‐チャンが強いので、大変不本意ながら、今この家で一番の下っ端は吾輩である。吾輩は善き先輩たるべく、後輩を優しく指導する予定だ。


 この家で確認できる吾輩以外の家族は以上の四名だが、他にも家族と呼ばれる存在が、平たくて四角い何かの中にいるらしい。その周りには青い匂いがする植物や、人間の食べ物や、器に入った水が乗っていて、そこに吾輩が乗ると叱られる。

 この平たくて四角いものの中にいる家族は、どうやら既に死んでいるらしいということがわかっている。吾輩が認識できないのもやむを得ないことであり、決して吾輩が無能だからというわけではないはずだ。

 吾輩が実存を確認できていない家族は、オトウ‐サン‐ノ‐オトウ‐サン、オトウ‐サン‐ノ‐オカア‐サン、あとはナナミ‐サンという。名前の響きからして、オトウ‐サン‐ノ‐オトウ‐サンと、オトウ‐サン‐ノ‐オカア‐サンは人間だと思われるが、ナナミ‐サンについては判断がつかない。吾輩やトラ‐チャンのように猫かもしれない。


 オカア‐サンの語るところによれば、ナナミ‐サンはこの家においてオカア‐サンの先輩であり、憧れの相手なのだそうだ。今のオカア‐サンより若い歳で死んでいるらしい。人間は相手が死んでいても家族とするのだなと思ったが、吾輩とて離れて暮らす母はずっと母なので、そういうものなのかもしれない。


 オカア‐サンの先輩ならば、吾輩には大先輩である。敬意を以て接せねばなるまい。

 そう思うのだが、ご挨拶に伺おうと平たくて四角いものに近づくと、やはりお叱りを受けてしまう。猫式のご挨拶ができないとなると、ナナミ‐サンも人間なのかもしれない。

 もう死んでるんだからご挨拶はできなくて当たり前だろうという雰囲気でトラ‐チャンが見ている。いや、……うむ、そうかもしれない。



 ウシ‐クン、トラ‐チャン、ごはんだよ! とアラタ‐クン先輩の声がして、吾輩は急いで餌場に向かう。

 吾輩とアラタ‐クン先輩は仲良しなので、アラタ‐クン先輩は「ウシ‐クン」と、吾輩の名前を先に呼んでくれるのだ。



 なので、吾輩は猫であるのだが、名前はもうウシ‐クンでいいかなと最近は思い始めている。





最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。

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