02. 魔術師団長の人と私
遠くから複数の人間の足音と、話し声が近づいてくる。目を開けば、日差しは少し傾いていて、もう夕方に近い時間になっているのだと思う。なんとなくおいしいものの匂いが漂っている気がして、私は全力で周囲の様子を伺った。
これは、少なくとも一人はお皿のおじさんだな?
私が寝落ちしてしまう前、夕方にもミルクくれるって言ったよね。私は聞いていましたよ?
首を伸ばして声のするほうに意識を向けると、人間は二人いた。片方はお皿のおじさんで、トレイのようなものを持っている。その中にお皿があってホットミルクもあるんですよね、期待していいですか。
お皿のおじさんの前を歩くもう一人は、おじさんより若い成人男性のようだ。知らない人だが、そもそも私がこのお屋敷らしき場所で知っている人間は、あとは匠のおっかさんしかいない。全体的に土臭い格好のお皿のおじさんとは違って、なんだかかっちりした服を着ていそうだ。軍人さんなのかもしれない。
「魔術師団もお忙しいでしょうに、こんなことでご足労頂いて、申し訳ありません」
魔術師団の人が来た! 魔術師団が実在した! おお、これぞファンタジー!
「構わない。些細な取りこぼしが重大な結果を招くほうが困る」
「それはそうなのですが、まさか師団長にお越し頂くことになるとは……」
「今は私が一番暇だからな。指示を出してしまえば、後は報告を待つしかない」
魔術師団長! なんかすごそうな人が来たな!
立ち上がって、首を可能な限り伸ばして近づいてくる人間たちを眺めていると、お皿のおじさんと目が合った。
「起きちゃったかクロちゃん」
クロちゃんって誰だ。もしかしなくても私か。
猫の私は自分で見える限り、だいたい全部真っ黒なのだ。右の後ろ足だけ白い靴下履いてます、チャームポイントだと思います。
それでね、魔術師団長も気になるんだけど、お皿のおじさんが持っておられる、そのトレイの中身が気になるんですよ。そこからおいしそうな匂いがすると思うんです。わざわざすごそうな人が来てるし、先になんか確認するのかもしれないけど、食いっぱぐれは避けたい。
とりあえずここは食事でしょ? と思ったので、ごはんをくれろという気持ちを込めて発声してみた。猫の私の体が人間の私の記憶を認識してから、はじめての発声だからちょっと緊張したけど、ちゃんと「ニャー」という声が出た。よしよし、ちゃんと猫だ。
お皿のおじさんはへんにょりと相好を崩して、しかし隣にいるのが偉い人だからか、丁寧に「失礼します」と言いながら、トレイに乗せていたらしいお皿を地面に置き、昼と同じように猫の私をすくい上げて皿の前に置いた。
何がびっくりしたって、お皿がね、三枚あるんですよ。
一つはホットミルクです。安心と信頼の確かな味のあいつです。もう一枚のお皿には匂いのない透明な液体が入っている。お水かもしれない。
で、もう一つなんですけどね、何か固形のものが乗っています。匂いと形状からして蒸し鶏っぽい。ちょっとだけ齧ってみたけど、これは蒸し鶏ですよ。まじか。猫と日本人三十三歳が一緒にスタンディングオベーションする食事です。何これ高待遇じゃないの!
とりあえず蒸し鶏から頂くことにした。感動に打ち震えながら食べる蒸し鶏は、大変によろしいお味がした。猫基準でよろしいお味なので、人間用の味付けなんかはしてなさそうな雰囲気だし、なおかつ細かく切ってある。この、猫の食事に対する細やかな心遣いには、匠のおっかさんの気配を感じる。お皿のおじさんは、こう、申し訳ないがその辺気が利かないというか、もう少しざっくりしてそうなのよ。
感動のあまりうまい、うまいとブツブツ言いながら食べてたんだけど、たぶん子猫がウニャウニャ言いながら餌を食べるやつになってると思う。動画で見たことあるけど、かわいいよねえ。
昼にホットミルク飲んでた時に同時進行で拭かれたように、今回も食べてる最中に何かされるのかなと思ったけど、そんなこともなかった。がっつき過ぎてやべえと思われた可能性はある。
猫の私の横にしゃがみ込んだお皿のおじさんが、背中をそーっと撫でる気配がする。蒸し鶏がおいしくてそれどころじゃないんだけど、おじさんが恐る恐る撫でてくるのは嫌いじゃないよ。
あんまり焦りすぎると喉に詰まらせて吐きそうなので、丁寧な咀嚼を心掛けつつ、蒸し鶏をきっちり完食した。おいしかった。肉汁もちゃんとあってジューシーで、まだほんのり温かくて最高でした。ごちそうさまです。
蒸し鶏を食べ終えたので、次はホットミルクに取り掛かります。まだ二回目だけど、安心と信頼のこの味、って感じがします。いい牛乳って温めると甘味が立つよね。心の中にいるグルメ漫画の爺さんが立ち上がるぐらいにはうまい。
ミルク飲んでる間に何かされるかな? と思ったけど、やっぱり何もなかった。お皿のおじさんが猫の私の背中をゆっくり撫で続けてはいる。
おいしくミルクを平らげて、もちろんお皿もきれいに舐めて、一緒に出してもらったお水を飲んで口の中がすっきりした。猫が猫でいるだけでこんな食事ができてしまうのか、最高かこのお庭。
一息ついたので、ずっと撫で続けてくれていたお皿のおじさんに親愛を示すため、おじさんの手に頭をすりつけてみた。お皿のおじさんは猫のスポンサーだと思われますので媚ぐらい売ります。おじさんはもう表情がニヨニヨに崩れている。
立ったまま、無言で猫の食事を見守っていた魔術師団長の人が、細く溜息をついた。
「慣れているんだな」
「物怖じしてる感じはないですね。賢そうな気がします」
「この大きさなら、網にかかるはずなんだがな。この庭にいたと言っていたな?」
「端のほうですが、庭の敷地内でした。結界の内側に当たると思います」
「今私が見た限りでは、この猫には具体的に不審な点はない。魔力の気配もないし、マーカーが付けられた痕跡もなかった」
偉い人と話すときにはさすがに表情引き締めるんだな、と思いながらお皿のおじさんを見ていたんだけど、どうやら食べている間に猫の私の何かを確認されていたことが判明した。非接触型の身体スキャンっぽい口ぶりで、ハイテクの気配にときめいてしまう。実際には科学じゃなくて魔術なんだと思うけど。この世界での自然科学はどういう扱いになってるんだろう。あと何度か言われてるマーカーってなんだろうか、GPSの発信機みたいなものかな。電波を魔術で扱っているのかもしれない。それなら理解ができる可能性がある。日本人三十三歳はそこらへんにいる凡人だったので、GPSへの理解も微妙なんだけども。
「ただ、どうにも腑に落ちないことが幾つかある。ラデク、この猫は処分しない、ということでいいんだな?」
「はい、お許し頂ければ私が管理しようかと。妃殿下やルミール殿下のお慰みとなることもございましょう」
魔術師団長の人からは大変不穏当な発言が聞こえた気がするけど、お皿のおじさんにより猫の命は救われたみたいだ。おじさんには猫的大サービスを捧げたいので、激しくスリスリするし親愛の体当たりだっていっぱいしちゃう。表情はがんばって保っておいて欲しい。
ていうか、殿下って聞こえたんだけど、このお庭のあるお屋敷はもしかして、王族とか貴族とか、そういう相当身分の高い人がお住まいなのではないだろうか。少なくとも、殿下と呼ばれる人は北海道の酪農家のおうちには住んでいないと思うんだ。己の想像力の限界を感じる。
身分の高い人が事件か事故に巻き込まれたなら、そりゃあみんな忙しいし警戒もするよね。でも猫を処すのは避けて欲しい。心情的には無害な猫です。元居た場所を逃げ出す前、私も知らない間に何か仕込まれてるかもしれないけど、猫の私に悪気はないのでどうか!
「わかった、それでいい。猫の行動は縛れるものではないだろうが、なるべくこの庭から出すなよ。念のため私のほうからマーカーを付けておく。私のもの以外の魔術干渉を阻害する術もかけておこう」
「ありがとうございます」
「網への出入りを許可した者はいないんだな?」
「本日こちらにいらっしゃる中で権限をお持ちなのは、家政長だけです。あとは魔術師団の方ぐらいでしょうか」
「ならば、網の目を抜けたのはやはり偶然か。網の目のサイズを絞ることも検討しておく」
「子猫ですからね。もう少し育てば抜けられなくなるかもしれません」
どうやら猫は処されずに済むらしい。それ以外の話は全くわからない。
わからないけど、私は魔術師団長の人に発信機を付けられるらしい、ということだけはわかった。昔の動物番組で見た位置情報の発信機はすごくでっかくて、付けられたほうも邪魔そうで気の毒だったけど、ああいうのでないといいな。
腹ごなしの運動も兼ねて、人間たちの話を聞きながら、ずっとお皿のおじさんの周りで親愛を表現し続けてたんだけど、お皿のおじさんの両手で挟まれてしまった。これは止まれってことですね。
そのまま持ち上げられるのかと思ったけど、魔術師団長の人のほうが屈んできた。子猫を囲む大きい成人男性二人の図は、なかなか面白いんじゃないかと思う。
おとなしくなった猫の私の頭を、魔術師団長の人がぎこちなく撫でる。猫に不慣れな感じが駄々漏れだ。もう片方の手は背中の辺りにかざされているみたいなんだけど、そこがぱっと一瞬光った。魔術師団長の人が息をつく気配がして、――どうやらこれで処置はおしまいらしい。光った以外はなんにも感じなかった。レントゲン撮影みたいだ。
「……お前は、王女殿下と同じ色なんだな」
「気が付きませんでした。そうですね、きれいな緑だ」
魔術師団長の人が笑う気配がした。なんだか寂しそうだ。お皿のおじさんも複雑そうだ。
えーと、もしかしなくても、こちらにお住まいなのは王族の方でございますでしょうか。
皇族の方を拝見する機会など一切なかった日本人三十三歳、あまりにも遠い世界に来てしまっている。そもそも猫になっているので人間からも離れているのだが。
事故か事件かにあってしまった人は、王女殿下って呼ばれた人なのかもしれないなあ、と思いながら、私は去っていく魔術師団長の人をお皿のおじさんと一緒に見送った。