19. 猫の悔恨、老人の回顧
本格的な冬がやってきて、王宮の周囲は雪と氷の世界になった。
寒さは人の動きを鈍くする。家族のくつろぎスペースである離宮はそうでもないのだけれど、出入りする人がとても多い本宮は、冬の間はずいぶんと静かな雰囲気になる。
春に成人を控えた私は、人が減ったのをこれ幸いと、時々本宮の建物に出入りするようになった。母から振られた事業云々はさておき、成人した王族に割り振られる公務というものがあるので、それの準備である。
秋から私に付けられるようになった担当の護衛さんたちは六人いて、このうち三人が女性だ。ローテーションで、状況に応じて二人か三人が付いてくれるような形になっていて、そのうち最低一人は必ず女性が配置される。建物内には女性しか入れない場所というものが存在するので、護衛が誰も付かないという状態を無くすための対策である。
本宮に行く際には、その護衛さんたちとはまた別に、魔術師団から一人が付いてくれるようにもなった。そういう時は護衛も三人体制にされるので、本宮の廊下を歩く私の周囲には常に四人以上の人がいる。普段離宮の中で好きに過ごしている身からすると、なかなか仰々しい集団ができている。
本宮の建物は広くて、たくさんの文官さんが働いている区画や、外から来た人が過ごす区画もあるのだけれど、私が通っているのは王族の私的な区画なので、人の出入りはそこまで多くない。なので、悪目立ちを避けるために、これ以上護衛の人数は増やせないと父に言われている。だから気を付けろ、と。
この手厚さには原因があって、例のあの男の動きがですね、ちょっときな臭いらしいのです。
あの男はいろいろなことの黒幕と目されているのだけれど、今まで明確な証拠はなくて、ずっと見逃され続けていた。そこへ私が登場して健在をアピールしたわけで、心当たりがある関係者がスッと手を引いていったという。
私には物証なんて何もないし、記憶にある音と臭いだけが頼りな上に、当時の私は十歳の子供、しかもあれから六年近く経っている。一方のあの男は、国内では上から数えて一桁台なレベルの権力を持っていて、私から告発できるような状況では全くない。それでも、「お前が何をしたかを知っている」という楔は効きがよかったようで、今のあの男は、外堀をどんどん埋められているような状態だそうだ。
今はまだ子供扱いされる私の発言力は、春になって成人として扱われると一気に上がる。つまり、何かするならこの冬が最大のチャンスということになる。周囲のあらゆる人から、くれぐれも気を付けるようにと念を押されて、しかし特段何も起こらないまま、私は本宮で自分の執務室を整えるなどしている。仕事の参考書を選ぶ必要があるとか、選ぶために自分の習熟度と向きあう必要があるとか、そういう細々が意外とあるのです。執務室かあ。王族ともなると新人でも個室が貰えるのだなあという、変な感慨が生まれてしまう。
弟もこの冬から、日常的に本宮のほうに出入りするようになった。側近候補の侍従もついた弟は、いよいよ本格的に立太子の準備に入っているのだ。実際に王太子になるのはもう二、三年先の予定だけれど、王太子には学ばないといけないことが多いので、非常時以外は準備期間を設ける慣例になっている。
そういう意味では弟こそ大変危険な状態だ。なにしろ相手は以前、弟を狙って襲撃を起こした輩である。今の弟は魔術である程度自衛ができるのだけど、大人と比べてしまえば軽くて小さく、力もないのだ。物理で押し切られる可能性が普通に高い。護衛についてはそちらを手厚くしようということで、近衛隊の中から魔術師との戦闘経験がある人が選抜されて、常時五人ほど付けられている。ちなみに彼らが寄ると筋肉の壁ができる。
そんな感じで時折緊張感を持ちつつも、だいたい平和に過ごしていた。生活の中心は相変わらず離宮で、両親や兄弟とは毎日顔をあわせている。長らく姉大好きを隠さないまま育った弟だが、最近は侍従くんと一緒に楽しそうにしている時間が長くなってきており、おねえちゃんはちょっとさみしい。
弟は年齢から考えると反抗期が来てもおかしくないし、ただ構ってもらおうとして反発されたら私がダメージを受けるので、考えた結果、防犯訓練めいたものを一緒にすることにした。咄嗟に大声を出したり、防護の術を出したりするあれです。自衛の方法があっても、咄嗟に出せなければ意味がないからね。
私は魔術を使えないのだけど、防犯用の道具を持たされており、それを使う。弟は自分で防御系の術を展開させるのだけど、例の猫だましっぽい術がだいぶ強力になっていて、それだけで戦力になりそうな勢いである。特に光が強烈で、実験台になってくれた護衛の人は十分ぐらい目がおかしかったと言っていた。それだけ強い光だと本人も無事では済まなそうだが、自分の目は保護するように改良されているそうです。すごいことになっている。
弟に侍従が付いているように、本来なら私にも専属の侍女がいていいはずなのだけど、実際にはまだいない。王女として戻ってきたのが急だったのと、戻った後も離宮に引っ込んでいたこと、あとまだ子供の年齢だったので、先送りにされていたのだ。弟と侍従くんを見て羨ましくなっていたのだけれど、春になったら付くことになったと聞いて、楽しみで少し浮かれている。
来てくれるのは、以前仲良くなった、弟付きの護衛の人の妹さんたちだって。王宮から打診したのは一人だけれど、お姉さんだけずるいと妹さんが物言いをつけ、姉妹で揉めた結果二人とも来てくれるそうです。私は大歓迎だ。賑やかになりそうで嬉しい。
こうやって先の話が決まっていくと、今までの私が如何に狭い世界で、守られて生きていたのかがよくわかる。途中で五年ほど猫をやっていたけど、猫もがっちり離宮で守られていたので、猫だからこそ広がった世界、みたいなものはあまりなかった。離宮に出入りする男性陣の登り心地は、猫じゃないとわからなかったとは思うけども。
子供から大人になるって、こういうことなんだろうなと感じ入る日々なのだけど、変わる立場に思うところがあるのは、やっぱり私だけではなかったようだ。
◇
今朝は特に冷え込みが厳しくて、王宮の中はいつにも増して静かだった。
私は午前中から本宮に来ていた。最近やっていることは公務に関する具体的な予習で、私の元に回って来る予定の書類の形式を教えてもらったり、私の名前で対応する必要がある事業について習ったりしている。今日の午前もそうだった。終わった後も昼食を挟んで、午後の最初の時間まで、本宮での予定が入っていた。
食事のために一旦離宮に戻るのも微妙なスケジュールだったので、昼は母の部屋にお呼ばれすることになっており、王妃の執務室まで廊下を歩いて移動していた。本日の魔術師団からの護衛役はカラシュさんで、毎朝の日課になっている診察の時間からの続投だ。
こういうことは時々あって、主治医役から護衛役への変身がシームレスすぎて、ちょっと心配になってくる。この人には本来の業務もあるはずなので、残業させてごめんという気持ちになるのだけれど、本人は「これもちゃんと仕事のうちで、給料出てるからダイジョウブ」とおっしゃっていた。サービス残業とかでなくてよかった。大丈夫がちょっと片言だったけども。
どんなに冷え込んでいても、王宮内の部屋は暖かくされている。ただ、廊下はそこまでではないので、こんな日は染みこむような冷えを感じる。みんな廊下に出る時間を最小限にしたがるので、歩いている人は少ない上に、誰もが普段より足早だ。私もはしたないと言われない程度に速度を上げることを意識して、寒さをごまかすために雑談をしつつ長い廊下を歩いていると、前から弟がやってくるのが見えた。私たちが通り過ぎたところには離宮へ行く通路の扉があるので、弟は昼から離宮に戻るのだろう。
それにしても、本当に静かだ。
「姫様、一旦止まってください」
私の斜め後ろを歩いていたカラシュさんが、腰に手をかける気配がする。本日のカラシュさんは護衛役なので、武器を携行しているのだけど、私はこの人が実際に剣を手にしたところを見たことがない。
そして、雑談する私たちの後ろに、囲むように付いてきてくれていたはずの護衛の三人は、近くにいる気配がない。
「この近くにいる人間の認識が、狂わされているかもしれません。姫様と俺はとりあえず問題なさそうですけど」
この廊下の静けさが不自然なのは、本来なら要所要所で立ち番をしているはずの、王宮の施設管理部署が統括している衛兵の姿すら見えないからだ。彼らは勤務中に無駄口など一切発しないけれど、生きた人間である以上、近くにいれば全くの無音というのはあり得ない。
そもそも、私に付いていた護衛もこの場にいた衛兵も、足音も衣擦れも一切感じさせずに姿を消していること自体が、どう考えてもおかしいのだ。彼らは武器や防具を所持していて、動けばどこかしらと当たって音が出る。存在を顕示する立場の人たちだから、敢えて音が出るようになっているのだ。
そんな彼らの遠ざかる音や動く気配、変わる影のかかり方に、戦闘職でもあるカラシュさんが気付かないはずがない。なんらかの魔術が使われたのは確実で、そして私たちは後手に回ってしまった。
私とカラシュさんの立てる音だけが響いて、あとは前方から来る弟たちの、少し遠い音だけがある。
弟は侍従くんと話をしながら歩いていて、なにかおかしなことになっているようには感じられない。
というか、弟の姿がはっきり見えることがおかしい。本来なら、周囲には筋肉の壁があるはずなのだ。
「ルー!」
「あっ、姉上! ……あれ?」
私を見て嬉しそうに声を上げた弟は、すぐに周囲の異変に気付いたようだ。立ち止まって、怪訝そうに辺りを伺っている。
その弟のすぐ後ろで、さっきまで弟と普通に話していたはずの侍従くんの動きが止まり、軋むように伸ばされた腕が、弟の首元に向かっているのが見えた。
「ルー、敵! 後ろ!」
次の瞬間、すさまじい閃光とものすごく大きな破裂音がした。練習の成果が出たのか、弟は振り向きざまに猫だまし的な術を発動させたようだ。音も光も、ついこの前に見せてもらったものとは段違いに大きい。手加減なしでやるとこういうことになるのだろうけど、もはや猫だましとか呼んでいたのが申し訳ない威力である。ほぼ兵器だよ閃光弾でしょこんなの。
私の目と耳には、カラシュさんが保護の術をかけてくれていたようだ。
音と光は一瞬で終わり、仰向けに倒れた侍従くんと、それを見て慌てる弟が見える。一拍遅れて怒号と悲鳴が聞こえ、そう遠くないところにいたらしい、弟付きの護衛の人たちが駆けてくるのがわかる。
爆音から耳を庇ってもらったお陰で、私は聞き覚えのある音に気が付くことができた。壁際から、護衛さんたちの間をすり抜けるようにして立ち去ろうとしている。
片足をわずかに引きずるような、特徴のある足音だ。
覚えのある臭いがすることにも気が付いた。あまり清潔とは言えない、皮脂混じりの体臭に、移り香なのか、特徴的なバラの香りが少しだけ混ざっている。
止められる前に飛び出した私は、その音と臭いの発信源の、顔と思しき部分を全力で殴った。
「――姫様」
すぐに追いついたカラシュさんに引き剝がされて、私は倒れたそれを見下ろした。
はじめて明るいところで見る術師は、どこか不潔な雰囲気の漂う、取り立てて特徴のない中年の男の姿をしている。顔の、私の拳が当たったと思しき部分はひしゃげていた。
「こいつ」
涙がぼろぼろと零れる。
「……これが、術師っすね」
「こいつが、猫を、殺したの」
廊下の床に落ちている男は、駆け付けてきた私付きの護衛の人たちによって拘束されていく。手足は縛り上げられ、口には布が噛ませられ、耳は塞がれ、目には薬が入れられた。
猫はオスだった。まだ子猫といっていい月齢だ。
母猫や兄弟たちと一緒に、暖かな屋内で育った。母猫の乳の出が悪くなることもなく、離乳後も、食べる物は人間から与えられていた。
兄弟たちと走り回ったり、時折迷い込んでくる虫を追いかけたり、窓から見える小鳥を狙って喧嘩になったり、家具で爪を研いで人間に叱られたり、カーテンによじ登って人間に叱られたり、――猫はそういう感じで暮らしていた。
窓の先には人間が「庭」と呼ぶ場所があり、そこには草や木があって虫がいて、普段は犬が暮らしていた。猫たちと犬は互いに縄張りのような形で譲り合い、犬が暮らす場所にみだりに入ってはいけない、と母猫から教わっていた。
ある日、「庭」に犬がいなかった。
窓は開いていて、母猫はひだまりでまどろんでいた。
兄弟たちは別の場所で走り回っているのがわかる。
猫はそっと足を踏み出した。
庭の草は柔らかかった。
夢中になって探っていると、人間の気配がした。
ここは犬の場所だから、見つかったら叱られてしまうかもしれない。
慌てた猫は、気配を殺してすばやく逃げた。
逃げて逃げて、逃げすぎてしまったことに気がついた時には手遅れだった。
人間の家で育てられた猫は、他の人間への警戒が薄かった。
外の世界の夜は寒く、雨は冷たく、食べる物は奪わなければ手に入らない。
そして、餌を差し出した人間の男に容易に捕まった猫は、男の操る何かの素材とされたのだ。
「白い毛の、尻尾の短い子だった。だから私、尻尾の先だけうまく動かせなかったの。あの子にはないものだったから」
ぼろぼろに泣きながら、傍から見れば訳の分からないことを言っている私の話を、カラシュさんは静かに聞いてくれた。
「……怖かったっすね」
もう大丈夫ですよと言うカラシュさんは優しかったが、それでも口調は雑なままで、私はそれにとても安心した。
◇
体の芯から凍えるような寒さが続いた後、日差しは熱を取り戻し、凍てついていた地面からは土の色が見え始めた。
男が乗っている馬車は、車内を美しく豪奢に飾り付けた自慢のものだ。外側こそ、紋も飾りもないシンプルなものだが、扉を開ければ別世界が広がっている。招いた客人が息を呑む姿を見るのが楽しくて、季節にあわせて装いをガラリと変えてみたりもした。
招いた客は、まず迎えに来た馬車の内装に圧倒される。そうなった相手との話し合いは容易いもので、この馬車は男にとって重要な小道具の一つだった。
この国のためと思っていた。王家に次ぐ地位を持つ大貴族である男の後ろ盾があれば、王の治世は安定する。
長く膠着した隣国との紛争を、若くして解決した先王は有能だったが、その子は甘くて凡庸だった。紛争が解決して十年以上を経て、今更のように送り込まれた隣国の王族の娘などより選ぶべきものがあるということに、遂に気付くことがなかった。
付き合いのある雑貨商から紹介された魔術師は、技術に斑はあるが特殊な術が使え、使い勝手がよかった。特に人の認識や感情を操作する術は、万能ではないものの、ここぞというときには便利だった。
娘に先王の子を孕ませることに成功して、産まれた子が男だったのもよかった。ただ、子をあの王子夫婦が囲い込むとは思わなかった。本来ならば、国のためにも幼児期から正しい教育を受けさせなければならなかった。それを遠ざけられてしまったのは、大いなる損失に他ならない。
男はただ回顧する。
罪の意識はない。反省もない。何が故に責められるのか、男には理解ができない。
ただ、負けたことはわかる。男は何かに負けたので、一人で自慢の馬車に揺られている。
――父上のために家を用意しました。
当主交代の書類にサインをさせて、彼の長男は静かに言った。
――庭にはちゃんと池も作っていますよ。
――十分な深さを持たせて、冬でも凍結しきらないよう計算しました。
男の長男は、仲のよかった姉を王宮の池で亡くした。事件に憔悴した姉弟の母親は、数ヵ月後に屋敷にあった池に入水した。
その後にしかるべき貴族の娘と婚姻を結んだ彼は、妻子を別の屋敷に住まわせ、男と会わせることは決してなかった。
――これからは、池を眺めてお過ごしください。
圧倒的な権勢を誇る有力者から、問題の多い老いた隠居に立場を変えた男は、広い馬車にただ一人、早春の田舎道を行く。