17. 私の魂、猫の魂
あの男に私の生存を明かして、お前だと知っているぞとも明かして、その後。
多少は身構えてはいたのだけれど、私の生活は驚くほど平穏だった。元々離宮の敷地から出なければ、私本人の平和は約束されたようなものだし、本当に何もないわけではないのだろうが、父母をはじめとした私に優しい皆さんが堰き止めてくれているのだと思われます。ありがたいことです。
あれから後に開催された、国が主催の園遊会のほうにも出た。会場の警護は国が担当するのだが、招待客の人数がとても多い会なので、参加者同士のトラブルには手が回り切らない可能性もあり、参加する人は各々の護衛も連れて出席することができる。前回の若い人向けの会は、位置付けとしては私的なものだから、あんまり堂々と護衛を連れて歩くのはよろしくないという扱いだった。
この日は私の臨時の護衛として、本来は弟担当の木登り競争の時の人と、魔術師団からカラシュさんがついてくれた。兄や弟には決まった担当の護衛の人たちがいるが、私にはまだいない。普段の私は離宮の外に出ないし、子供の頃とは違ってちゃんと自重もできるので、護衛さんに常時付いてもらう必要が今のところはないからだ。そしてカラシュさんは、「こんにちは、魔術師団のほうから来ました護衛です」という、そのまま悪徳訪問販売ができそうな言いかたをしてやってきた。この人はどうしていちいち小ネタを添えるのか。
護衛の人たちを引き連れて、兄と一緒に可能な限り会場内で顔を売ったのだが、そこまで疲れるようなことは起こらなかった。兄の護衛が筋肉仲間の人で、会場内にいる人の筋肉の鑑賞会を小声で展開されたことのほうが疲れたぐらいには平和だった。二人同時に感嘆の声をあげられた時には私の腹筋が引きつりかけた。勘弁してほしい。
参加者の皆さんにはものすごく見られたり探りを入れられたりはしたけれど、どれも想定の範疇で収まる程度だ。それでも、あんまり失礼な奴は脳内の「後で覚えてろよリスト」に名前を記載させて頂いた。後日改めて兄と突き合わせて、ちゃんとした要注意人物リストも作りました。ちなみに、リストの筆頭のあの男は来ておらず、代わりに息子さんとその奥さんが来ていた。次期当主にあたる方だそうです。
そうそう、園遊会の後、弟には専属の侍従がつけられたのですよ。弟の一歳上で、将来の側近候補ですって。園遊会の時に初顔合わせをして、相性は悪くないだろうと判断されたそうです。弟はやや人見知りの気があるけれど、打ち解けてしまえば懐くタイプなので、まだ多少ぎこちなくはあるけれど、それでも仲良さそうにしているのを見る。
この国の上層部には政略的な人間関係が溢れているけれど、政略一辺倒ということは全くなくて、その辺がかなり慎重に運用されている印象だ。過去にかなりいろいろあったことが察せられるのだけど、私の知識はまだその辺りの細かいところまで到達できていない。勉強はねえ、地道にやるしかない外国語はともかく、愛の詩とかその辺がねえ。手を付け始めたけれど気はまったく進まないので、進捗は駄目なかんじです。あとはこう、知っていたけどダンスも駄目です。努力はしているけど駄目です。無理なもんは無理って言っているじゃない……!
毎朝の診察ついでの雑談会は、今もずっと行われている。以前「古語の参考に」と無茶振りされて、カラシュさんから貸し出された古い本はちゃんと読んでいるので、内容について話したりもしている。
それで、先日めでたく読み終えた結果、ちょっと腰を据えて話しておいたほうがよさそうなことがあると判断した。
今のこの国には、日本人的に言うところの「魂」とか「霊魂」とかの概念がなさそうなのだけど、この古い本を読んでいると、かつてはあったらしいということがわかる。なにしろ、該当する単語が存在するのですよ。前後の文脈を見ると、これが示すものは「魂」だな? みたいな語があるのです。文字は表音なので読めるけれど、私がこの国の王女として生を受けてからは耳にした覚えがない。カラシュさんも聞いた覚えがないと言う。
この古い本に載っている「呪い」の話は、「かつてこんなことがあったそうだ、これはきっと呪いだな」みたいなものだ。基本的にはいわゆる昔話、民間伝承みたいなものだと思う。でも、そこに魂の話が混ざっている。「呪われた魂」とか「魂を縛る」とかの表現があるのです。
日本人三十三歳の現実では、呪いも魂も実際に観測することはできなかったけれど、物語の中ではたくさん見聞きしたものだ。そのあたりの記憶と突き合わせた限り、この国にかつてあった呪いや魂の考えかたも、それと大差はなさそうな気がする。そのうえで、この国で呪いと呼ばれるものには、魂という概念が関わっていそうな雰囲気がビシビシにあるのです。
私を猫にした呪いと思しきものをかけた術師は、たぶんまだ生きている。別の被害者が出る可能性は普通にあるし、このあたりの話は魔術師団と共有したほうが絶対にいい。
そう考えて、カラシュさんに話を振ったのだけど、失われている概念の話なので彼は頭を抱えていた。
私も頭を抱えている。観測方法のないものって説明難しいね!
「ええと、心が人の体から分離できて、その分離できる心が逆に体のほうを操作したりできる、……でしたっけ?」
「その説明であっているかわからないのだけど、なにかこう、そういうもののような感じ」
「……体を離れられる心? 心が体に影響を与えるというのは知ってますが、離れる……?」
「私は魔術も医学もさっぱりわかっていないのだけど、そもそも心ってどういう扱いなの?」
「それは概念の話ですかね? 臓器の動きに伴うものの話ですかね?」
「ええと……?」
曖昧な知識で曖昧なものの話をすると、全てが曖昧になってなんだかわからなくなる、ということがとてもよくわかりました。
私の中の日本人三十三歳の記憶の話をしたほうがわかりやすいか? とも考えたのだけど、おそらくそれ以前の問題で、私の説明能力も低いし混乱するだけな気がする。やめておいて正解なやつだと思う。
「ちゃんとした定義はさておいて。とにかく、この本にはそんな感じの意味合いの言葉が出てくるの。それで、どうもその『魂』が『呪い』に関わっていそうな書かれかたをしているのね。そもそも、この『魂』って言葉があるのだから、昔はそういう考えかたもあったのだと思うのよ。それが今は聞いたこともないって、ちょっと作為的な感じがするでしょう」
「ああ、それはあるかもしれないっすねえ。『呪い』自体も今は失われてるものなんで」
カラシュさんは「失われている」と言い切っている。この話、これ以上は他の人に普通に聞かせていい内容ではなさそうだ。
部屋の壁際にはメイドさんたちが控えていてくれているので、一人だけ残ってもらい、他の人には退出してもらった。全員に出てもらったほうが本当はいいのだろうけれど、一人はね、残しておかないとですね、未婚の男女が二人きりでいることになってしまうのです。それは大変よろしくないこととされておりまして、外聞に重大な差し障りが出てしまう。実態は早口で会話しがちな残念寄りの趣味仲間みたいなやつだけども。
残ってもらった一人は、聞いた内容の口止めを改めてお願いした。私が猫から人間に戻るところを直接目撃している人だ。巻き込んでしまって本当に申し訳ないのだけれど、きな臭い話に付き合ってもらおう。
「……あのね。猫の私って、何がどうなっていたかはわからないまでも、本質的には人間の私と変わらない存在だったのよね?」
「そうっすね。そうでなければここの結界の反応が説明できないんで」
「体のつくりは完全に猫だったと思う、でも意識は私のままだった。体が何かの作用で作り変えられたと仮定して、それを人間としての経験しかない状態で、うまく操れると思う? 体の形が何もかも違うのだから、動かしかたも感覚も違うはずでしょう? でも私、すぐに走って逃げられたのよ。最初から、猫の能力を全力で使っていたと思う。これ、ちょっとおかしくない?」
「……あー……。ちょっと、いやかなり、おかしいっすね……。俺、たまに手足の切断やった傷病者診ることあるんすけど、体のバランスがうまくとれないとか、無くなってる手足の先が痛いとか、そういう話はよく聞きます。片手が無くなった奴が上手く動くには、慣れるためにしばらく訓練がいる感じっすわ」
魔術師団が軍事組織で、このノリが軽い人の本業が医官だということを思い出す瞬間だ。手足切断、そんなにあるあるな話なのか。国境の小競り合いはしょっちゅうあると聞くし、事件や事故や災害に巻き込まれることもあるだろうから、少なくとも珍しい話ではないのだろうけども。
「やっぱり普通ではないよね。もっとも全部普通ではないのだけど。……まあ、だから、私に本物の猫の意識がまるごと載っていたのじゃないかって、これを読んでいて思ったの」
「――は?」
「今の私にどこかの猫の記憶があるかといわれたら、それはない。でも、猫の体を動かした経験がある何かが、少なくとも猫の形になった私の体には入っていたと思う。そうでもなければ説明がつかないと思わない?」
「……それが『魂』っすか」
「そうかな、って」
ちょっと考えていたのだ。
ただ体を猫にするだけなら、私の十年間の記憶を消す必要はあまりないと思う。容量に制限がある状態で、新しく別の意識を載せるというなら、そのあたりの辻褄が合う気がするのだ。メモリが足りないのに新しいアプリを入れたくて、古いアプリは消した、みたいな感じ。
猫の魂は実際にはそんなにメモリを必要としていなくて、元からあった空き容量に収まってしまったし、十年分の私の記憶を消したせいで、その前の古い記憶が参照しやすくなっちゃったし、記憶の消しかたもいい加減で、全然ちゃんと消せていなくて、普通に復旧してしまったし。……という感じになるのだろうか。例えるなら。いやこの例えで合っているのかもわからないんだけど。
しかし、仮定とはいえ改めて考えると、やっぱり奴らの仕事のいい加減さが際立つ。あれはもう、雰囲気だけ玄人だ。
日本人三十三歳の感覚では、魂であれ呪いであれ、どちらも等しくちょっと現実味がない話だ。でも私の記憶は引き継がれて、転生しているとしか思えない状態になっているし、そもそもこの世界には魔術なんてものが現実として存在するのだ。魂と呼べるようなものだって実際にあってもおかしくないし、どこかの猫の魂っぽいものも、たぶん私の中に存在している。
最近になって気が付いたのだけど、外の世界をものすごく怖がっているのは、おそらく私ではないのだ。例の襲撃と攫われた後の経験のせいで、私は離宮の外に出るのは少し怖いと感じている。だから、猫の私が結界の外に落ちてしまった時の、あの怖い気持ちも私のものだと思っていたのだけれど、よくよく考えてみると、あの時に感じた恐ろしさは、あの襲撃だけが原因ではないような気がする。
私が気が付いていないトラウマがあるのかもしれないけど、少なくとも私は最近、王宮内とはいえ離宮の外に出て、宿敵と遭遇しているのだ。その結果は、とてつもなく疲れはしたけど、それだけだった。敷地外に出てしまっただけで感じた、あの思考停止してしまうような恐ろしさに比べると、ちょっと軽すぎるような気がする。
「あと、これは魔術も呪いも全然わからない私の勝手な想像なのだけど、魂が体を操れるのなら、魂の在りかたに体のほうを寄せるようなことも、もしかしたらできるのかもしれないなって。それが『呪い』なのかも」
実際に何がどうなっているのかは全くもって一切わからない。完璧なる素人の戯言で申し訳ないのだけど、可能性の提示ということで許してはもらえないだろうか。
「……ああー……。うん、わかんねえ、わかんねえけどわかりました。俺らの知ってる魔術とは全然違う機序で、体に強く影響を与える方法があるのはほぼ確定してる。それはたぶん『呪い』で、古語にある『魂』ってやつに関係してる。そこらへんの話は言葉ごと今は失われてるけど、少なくともこの本が成立したよりも後に、何かで意図的に失伝させられた可能性が高い。でも扱える術師は今も存在して生きてる。……最悪じゃねえか」
普段から口調は限りなく雑だけど、悪態をついているのは聞いたことがない。見たことがないぐらいに凶悪な顔をしたカラシュさんは、自らの頭髪をかき混ぜながら天を仰いだ。
「ぜんっぜん時間が足りねえ……」
なんだかんだで忙しそうだものなカラシュさん。普段の仕事の上に、私に関連する諸々が積みあがっている状態なのかもしれない。いや、うん、大変申し訳ない。お陰で私はとても助かっております。
「ええと、姫様。とりあえずこの話は持ち帰って、師団長と今後の対応を相談します。近衛にはなるべく早くに話通しますけど、姫様付きの護衛、ちゃんと揃えましょう。今までこの建物内ではいろいろ省略してましたけど、姫様を攫った連中の術師が無傷で雇い主が健在なんですから、離宮の防御を抜けてくる可能性もそれなりにあると思ったほうが無難っす」
「ごめんなさい、手間をかけさせちゃうわね」
自然に情報ハブの役割を担えるって、なかなか得難い能力だと思う。相変わらずかゆいところに手が届く有能さだ。
「そこは『ごめんなさい』じゃなくて、『ありがとう』にしてください」
「……そうだね。ありがとう」
「どういたしまして」
有能な雑談友達は、よくできましたと言わんばかりに、にっこりとした笑みを返してきた。