01. 猫になった私
ワガハイは猫である。名前はまだない。
どこで生まれたのかはとんと見当がつかないけど、たった今思い出したことならある。
前世は人間でした。平凡な現代の日本人だ。
両親ともに一般的な会社員の家庭で育って大学まで出させてもらって、同級生と結婚して、平凡だけど仲良く夫婦で暮らしていた三十三歳女性でした。子供はいない。最後は入院していて、これはこのまま死ぬんだな、と思ったのを覚えている。
たぶんそのまま死んだ。一人残された夫のことを考えるとさすがに胸が痛い。夫はご両親も十年前に亡くしているのだ。こんなに早死にする予定じゃなかったし、こんなことなら多少無理をしてでも子供を作るんだった。夫には平均寿命まであと倍以上の時間があったし、幸せに長生きして欲しいので、あの後、ちゃんと人生のパートナーになる人ができていることを祈っている。
――で。
それはそれとして。
私はなんで猫になっているんですかね?
人間の私が変な夢を見ているというオチの可能性もある。自分の存在は自分で知覚するしかないので証明はできないんだよね。というのを、哲学ジャンルあたりの何かで読んだような気がするんだけど、なにしろ私の記憶はいい加減なので全然違うかもしれない。雑学は好きだけど覚え方が適当すぎるので、雑学クイズでは戦力外になるタイプです。
でもなあ、手を見ると肉球ついてるんだよね。夢の中で自分の姿を認識するときって、もうちょっとゆるふわになると思うんだけど、これはやけに具体的だ。手には肉球がついてるけど、肉球の間の毛だってちゃんとある。猫の肉球はぷにぷにしてるって聞くけど、この肉球はちょっと固いし、間にある毛にも土の臭いが染みついている。たぶん土の上を走っていたせいだと思う。あと、指の先には尖った爪もついていて、ちゃんと出し入れもできるんだよ。爪の出し入れの操作ってこうやるんだな、という目から鱗のような気持ちになる。
そういう感じで、体の操作自体はできてしまう。できるのだけど、それはそれとして全身があちこち痛くてね、全身が筋肉痛にでもなったみたい。あとお腹が空いている。ものすごく空いている。一刻も早く何かを胃に入れたい。
このリアルな感じはやっぱり夢ではなさそう。人間の私の体が猫に変わってしまった、というのも違う気がする。だって私は、猫の私の体の動かし方を知っている。尻尾だって動かせる。人間の体には尻尾がないにも関わらずだ。カフカの「変身」はタイトルと作者名だけ知っている。
変身したのでないなら、なんとなく転生って呼ばれる現象のような気がしてる。知らんけど。なんかアニメとかで見たアレ。
人間の記憶が猫に載ってる状態って、脳とかどういうことになっているんですかね?
猫の私の生まれの記憶は、本当にない。明治の文豪ごっこをしたかっただけではない。
生まれの記憶はないんだけど、私には猫の私としての記憶自体はちゃんとある。今が寝て起きたところだから、寝る前は昨日ってことにしとくけど、その昨日まで何日も、私はどこかから必死で逃げていた。
知らない人間に捕まっていたんだけど、隙をついて逃げられたんだよね。猫の体は液体っていうぐらい柔らかいので、ぬるりぬるりと隙間を抜けられた。
猫の私の体はまだ若い。自分の姿を見る術はないから、正確なところはわからないけど、少なくとも子猫と呼ばれる範疇にあると思う。子猫は柔らかい上に小さいので、いろんな隙間を使えるのです。すごいでしょう。
視力はあんまりよくなくて、視界の中のものはみんななんとなくぼやけている。動いているものはよくわかるんだけど、動いていないものは微妙な感じ。その代わり、音にはとても敏感で、臭いにも敏感だ。すごくいろんな音がするし、いろんな臭いがするのがわかる。
子猫の私は、あちこちで大きく聴こえる音に怯えながら、臭いと勘でなんとなくこっちかな? と思った方向に逃げたのだった。私を捕まえていたのは人間だったし、昼間は眩しすぎて怖かったから、移動するのは夜にした。繁華街みたいな場所も通ったけど、地面は全部草か土だった。アスファルトやコンクリートみたいな固いところはなかったと思う。生ごみっぽい酷い臭いは避けながら、勘だけで移動を続けて、朝のお日様が昇る頃、この大きそうなお宅の庭にたどり着いた。それでそのまま眠ってしまった。
今はその状態で起きたところ。おはようございます。時間はよくわからないけど、明るいから昼間だろうし、おはようございますでいいだろう。
こうして振り返ってみると、昨日までも人間の私の記憶はどこかにあったんだろう。認識したのはついさっきだけど。
そうでなきゃ、頑是無い子猫が「繁華街なのにアスファルトがタイヤを切りつけてないな」だなんて、認識できるわけがない。なんか人間がいてうるさくておっかないところ、ぐらいが関の山だと思う。それなのに昨日までの猫の私ときたら、大きな音はすごく怖いが、音だけなら急いで通り過ぎればだいたい大丈夫、なんて判断してたもの。普通の子猫ちゃんは大きな音がして怖かったら、ボワッと毛を逆立ててやんのかステップするものだと思う。動画でよく見たけど、あれかわいいよね。
木の陰の草の上で丸くなって寝たはずだった猫の私は、何かの建物の軒下の箱の中に収められていた。
小汚い木でできた箱の中に、稲だか麦だかかの藁っぽいものが入っていて、藁の先が顔のヒゲに絶妙に当たってめちゃくちゃ気になる。あとこの藁、ちょっと獣臭くてこれも気になる。牛とか馬とか飼ってるとこで積んでたやつかもしれない。都市部在住の日本人三十三歳の日常生活において、牛乳と牛肉にはずいぶんお世話になっていたけど、生きてる牛は身近ではなかった。馬はもっと身近ではなかった。このお庭、近くに牛とか馬とかを飼っているところがあるのかもしれない。北海道の酪農家のお宅ならあり得るのではないだろうか。
北海道、北海道なあ。一度だけ行ったけど、運河楽しんだりラーメン食べたり夜景見たりで、牧場には行かなかったんだよなあ。だから猫の私にわかる情報だけでは、ここが北海道かどうかの判断がつかない。たぶん違うんだろうとは薄々感じる。どこかで鮭やイクラの気配があったらもうちょっと北海道に近づけると思うけど、イクラは食べられないだろうな。猫に人間基準での味付けは厳禁だ。
こんなどうでもいいことを考えていないと、空腹に耐えられないのだ。食べ物を探しに出たほうがいいかもしれないが、お腹がすいて力が出ない。
それに、草むらに落ちていた子猫をこんな箱に入れたのは人間だろう。それも猫に好意的なタイプだと思う。
ということは、このまま待っていれば何かが出てくるのではないか……?
北海道っぽいシチューの広告と、お口でとろける生チョコレートのことを考えながらうとうとしていると、ちょっと離れたところから人間の話し声がした。猫は耳がいいので、ちょっと押さえた程度の声なら多少距離があってもわかる。
中年ぐらいの男女が、軽く言い争いをしている雰囲気だ。
「こんな時に迷い猫拾ったって? 何やってんだい」
あっ、これは私のことですね?
このちょっと獣臭い箱は、やはり誰かが用意してくれた、私のためのものだったようだ。
「この庭の、あっちの隅で蹲ってたんだ。刺客や間者が送り込んだ可能性もある、放っておくわけにもいかないだろ? 結界に異常はないそうだし、少なくとも使い魔のたぐいではないだろうから、しばらく様子を見ときたいんだよ」
いきなりファンタジー要素が生えてきてしまった。結界だの使い魔だの、日本人三十三歳な私の知る、現実の北海道にはない要素だ。知る限りでは北海道以外にもない。
これはやはり、異世界転生ということでよさそうだ。アニメで見たことあるアレの、当事者にまさか自分がなろうとは。
とはいえ猫なんだけども。
必ず人間に転生するとは限らない。それはわからんでもないけど、こういうお話だと大抵は人間に転生するよね? 生前の悪行により畜生道に落ちたわけではないよね? 日本の伝統的な地獄観に北海道っぽさとファンタジー要素は似合わないから、私は人間の愛玩するかわいい哺乳類になっただけだよね? きっとそうだね! 猫はかわいい、正義。
話し声はどんどん近付いてきて、すぐそこで扉を開けるような大きな音がして、びっくりして毛を逆立ててしまった。猫の私が入れられている箱は、戸口の脇に置かれていたらしい。
開いた扉からは思った通り、大きな成人男性が出て来た。子猫の私基準での大きさ判定だけど、人間目線でもきっとそこそこ大きい判定になるんじゃないだろうか。
成人男性はまあいいんだ、この人はたぶん悪い人ではないと思う。そんなことより、その手にあるもの、片方は布だけどもう片方はお皿ですよね? もしかしなくても牛乳入ってますね? 温めた牛乳の匂いがするんですよ!
お腹がすいて力は出ないけど、ホットミルクのためなら頑張れるので、必死に首を伸ばして匂いを嗅ぐ。
猫の体は味覚も猫だから、猫が食べるようなものは、口に入れさえすればだいたい食べ物ですねと認識できる。認識できるがおいしいとか、食べてて幸せを感じるとか、そういうのはまた別問題なんである。
まだ子猫の私には、狩りの経験がない。自分が何を食べられるのかって、学習で覚えるものらしいんだよね。狩りだって練習しないと無理だろう。そういうの、テレビの動物番組で見たことがあるし。
なによりここまで逃亡生活だったのだ。怖いものから逃げるのに精一杯で、食生活と呼べるような御大層なことはできていない。水もね、下水が混じってそうな水路の水や、水たまりの泥水を飲むのは躊躇われて、隠れながら隙をついて、汲み上げられた井戸水を飲んだりしてた。お腹を壊して動けなくなったら困るからね。清潔を貴ぶ日本人三十三歳の意識が、ここにも影響を及ぼしていたような気がする。
それでホットミルクですよ。ホットミルクは清潔と美食を愛する人間の私の価値観と、猫の私の現状に合致する、奇跡の飲食物なんである。だからそれを早く! 私の前に!
手にした皿を追尾するように首を動かす子猫が面白かったのか、男性がわずかに苦笑する気配がした。そのまま皿は箱の横に置かれて、待ってこれ箱出ないといけないの? しんどいけど立て! 藁に足埋まるけど立つんだ! がんばれ! 箱を乗り越えるんだ私!
ぷるぷるしながら動こうとする猫の私の、お腹の下に温かいものが差し込まれて、体が宙に浮いた。そのまま箱の壁を越え、そっと地面に降ろされる。
目の前にはいい匂いがする皿が! ホットミルクが! これですよ!
鼻先でつついてみれば、ミルクはぬるくなっていることがわかる。猫舌であろう猫の私にとっては適温だと思われます。
おいしいー!
なにこれ濃厚ー!
乳脂肪の存在を感じるー!
必死で舌を出してミルクを舐める猫の私の体を、温かい何かがもしゃもしゃ拭いてる気配がある。私は今ミルクと向き合うのに忙しくてそれどころではない。この濃厚さ、なかなかに高級な牛乳なのではなかろうか?
ミルクのミの字もないぐらいに皿を舐めまわして一息ついた隙をついて、顔を温かい何かでもしゃもしゃされた。わかります、蒸しタオル的なものですね。
改めて周囲を見てみると、お皿をくれた成人男性のほかに、あきれたような気配を漂わせる成人女性がいる。さっき聞こえた声はこの二人の会話っぽい。
「あんたねえ、汚れたまま藁の中に入れるんじゃないよ。藁に汚れが移っちまうだろ?」
「あー、そうだな。すまん」
大きな男性の大きな手が、子猫の背中を優しく撫でている。お腹は満ちたし、体はさっぱりしたし、そこにこの優しいスキンシップである。とても気持ちがいい。この人絶対猫好きだな。
「藁の中に直接入れたら藁くずだってついちまうだろ。出せる布はあるんだから、必要なら今度から言いなさいよ」
肝っ玉かーちゃんのような口調だけど、声音は低めで声量も抑えた言い方をしている。子猫を怯えさせない発声だ。さてはこの人も猫好きだな……?
女性は、男性が持っていた布を受け取ると、獣臭い木箱の中に敷き詰めた。箱の側面と藁と布でごそごそ音を立てさせた後、男性に撫でられるがままになっていた猫の私をそっと持ち上げ、箱の中にそっと降ろした。
なんということでしょう、あのヒゲに当たって気になる藁が、匠の技により布にきっちり包まれてふんわりしたベッドに早変わり!
小学生男子が拾ってきた子猫を、ぷんすか怒りながら適切に世話してしまう、世話焼きかーちゃんのようなムーブをかましているこの女性、きっととてもいい人である。猫の私が生活するにあたり、最も頼りにすべき人間はこの人に違いない。
「魔術師団は今忙しいんじゃないのかい」
「それでも全員出払ってるわけじゃない。こいつが使い魔じゃないにしても、マーカーの確認は早めにせにゃならん」
魔術師団とかいう、かっこいい名前のものが存在するらしい。何をする団体なのかは想像つかないけど、魔術で師団なんだから、なんかかっこいいに違いない。かっこいい制服とかありそう。
そんなかっこいいものが存在するなら見てみたいが、とりあえず私は今、このちょっと獣臭いけどいい感じにふかっとしたお布団を揉むのに忙しい。なんかこうね、揉んでいたくなるんだよ。猫の本能かもしれない。
「それならあんたから報告しといてちょうだい。こっちはこっちで大変だからね、庭のことまで世話してらんないよ。ああ、でも布とか餌とか、必要なもんがあったら声かけな」
「ありがとう、助かる」
ほっとした声で男性が礼を言う。私も礼を言いたい。これで当面の生活は安心できそうな気がする。
人間たちはその後も静かに会話を続けた。聞こえた内容からすると、どうやらこの二人は職場の同僚で、今はお昼休みみたいだ。この人たちもごはんはちゃんと食べたかな。お昼を抜いたらだめですよ。
結界だの使い魔だの魔術師団だのが存在するこの世界、お皿のおじさんと匠のおっかさんな二人の服装の雰囲気からしても、やっぱり欧風ファンタジーのような気がする。子猫の視力と視界では、細部があんまりわからないんだけど、中華や和風なファンタジーではなさそうなんだよね。そっち方面なら、人間の服ももうちょっと布がひらひらしてるんじゃないかな。わかんないけど。
獣臭い藁がスッとお出しされてしまうこのお庭は、少なくとも馬はいそうな雰囲気だ。異世界転生と言えば大きなお屋敷のような気もするから、そんなお屋敷が職場なこの人たちは、庭師さんと下働きのメイドさんかな? そういうのには詳しくないから全部勘です。
なんかね、つい最近、このお屋敷のおうちの人に、事故だか事件だかがあったらしいよ。イレギュラーな対応に人員取られてるけど、普段のお仕事は普通にあるし、その上、その事件だか事故だかに遭ったおうちの人の家族が体調崩してしまって、そちらの対応にも人員取られて、まあとにかく大変みたい。
主に匠のおっかさんの話を総合すると、そんな状態のようだ。そりゃあ同僚に愚痴の一つも言いたくなるよね。そんな忙しい時に庭に子猫が落ちててごめんね。知らなかったんだ。でもミルクくれたし体拭いてくれたし、箱もくれた。ありがとうね。
お腹は膨れたし、お布団はふっかりしているし、日差しは程よく温かい。ここに四季とかあるのかな。
なんだか眠くなってきたけど、推定野生の猫なんだから、あっさり警戒を解いたら負けな気がする。揉むのはやめて、箱座りをしてみた。首は一生懸命伸ばしておく。まだ起きてますよ。話は聞いてますよ。聞いてますったら。
「この子、この後どうするんだい? あんただって仕事あるだろ」
「猫見張ってられるほどの暇はねえなあ。建物の中に入り込むのは無理なんだし、出てったならそれまでってことで、確認済むまでちょいちょい様子見とくよ。……寝そうだな」
いやいや、まだ起きてますよ。ちょっと船漕いでる自覚はあるけど起きてるからね。
「夕方にでも、またミルクを頼めるか?」
「はいはい、わかったよ」
猫の私の体をひと撫でして、男性は視界から離れていった。女性は頭をそうっと優しく撫でたあと、そのまま扉の向こうに戻っていった。
私はこの後も無事に食事にありつけるらしいことにとてもほっとした。それでそのままぐっすり眠ってしまった。