第一話 罪と罰
──最悪だ。
目を覚ましたレックは、そう思った。
最悪の理由は、揺れる車体の反動で体を打ち、痛みによるモーニングコールを受けたことが一つ。
しかし、それ以上に彼を憂鬱にしたのは、頭の中で最初に思い浮かんだ≪新学期≫の文字。
嫌なことというものは、忘れようとしても忘れられないし、いずれ訪れるもの。
レックが過ごしてきた十四年という短い人生でも、それくらいのことは悟ることができた。
これが、先生に怒られるだけなら、どれだけ気が楽だろう。
一度怒られて、『次は気をつけなさい』の一言で終わる。
最初は怖気づくだろうが、終わってしまえばなんてことはない。
そこからまた、いつもの日常が始まるだけだ。
しかし、彼は自分がそういう次元にいないことを知っている。
目が覚めてなお、椅子の上でうつぶせになっているのは、彼の最後の抵抗というところか。
自分の抵抗に関わらず、車が学校へ向かうことを知りながら──
──あれ?
違和感に気付く。
横になっている椅子の感触が異様に硬い。その上、レックの知るレザーの匂いではなく、木の落ち着いた匂いが漂っている。
──父さんの車じゃない。
自分の知る車ではないと察した途端、周りの違和感をより如実に感じ始める。
まず気付いたのは、身体全体に吹いている風。恐らく、今いるのはトラックの荷台。
そして、前方には人の気配。恐らく、自分をここに連れてきた張本人。
額に冷や汗が流れる。
先ほどまでの憂鬱な感情は鳴りを潜め、代わりに湧き上がる不安と緊張。
悟られないよう気を配りながら、自分の四肢の感覚を確かめる。
腕や足は拘束されているわけではない。薬で動けなくされているということもなく、その気になれば立ち上がることも可能だ。
──誘拐ってわけじゃないのか?
体の自由を確認できたが、不安は拭い切れない。
やはり、周りを確認しないことには、状況を把握することは出来ないだろう。
とはいえ、それも生半可なことではない。
前方にいる、恐らく監視役の人物。この人物に起きていることがばれたら、何をされるか分からない。
──ひとまず、寝たふりをしながら周りの確認を……。
行動を起こそうとした瞬間、監視役の人物が、前に歩いている音をレックは聞き取る。
つまり、今はこちらに背を向けているということになる。
ここぞとばかりに、音を立てないよう気を付けながら、人物の方へ顔を向ける。
自分の知っている人間ならば、そこからある程度の予測は立てられる。あまり、そうとは考えたくはないが。
最初に目が留まったのは、四角い枠の中に灰色で書かれた【天】の文字。
茶色のローブの背中に刻まれていたものだ。
しかし、それを着ている人物は、フードを被っているせいで誰かを特定することはできない。
──見るからに怪しい風貌。身バレを恐れてのフードといい、良からぬことを考えていそうだ。
見た目の印象からそう分析する。
やはり、ただならぬ状況に追い込まれているのは間違いないだろう。
状況を確認できたところで、ばれる前に再び顔を伏せようとする──
「目を覚ましたか」
ローブを纏った人物は、こちらを振り向くことなく呟く。
瞬間、レックの身体は蛇に睨まれた蛙のように硬直し、視線を固定される。
──どうしてばれた!? 物音なんて立ててないはずなのに。
そんなレックの動揺などお構いなく、目の前の人物は、フードを脱ぎながら振り向く。
鮮やかな銀色の長髪。身長は百八十センチほど。
目鼻立ちのはっきりした──絵本の中の王子様のような美青年は、目を閉じたまま歩み寄る。
明らかに、レックの世界観とは逸脱した容貌。
視界に入る何もかもが、彼を不安の渦中に陥れる。
それまで考えていた予想をドブに捨て、なんとかこの状況を呑み込もうと、身体を起こし、必死に目を配る。
まず、自分がいるのは横幅が三メートル程ある船の上。それも、帆が備え付けられた帆船だ。
日本から海へ連れ出されたのかと、船の外を見るが、その予想とは裏腹に大地が続いている。
淡い期待を膨らませ、周りをよく観察するも、知らない草原が広がっているのみだった。
──だめだ、訳が分からない。
息が切れ、頭はクラクラする。言いようのない浮遊感が、レックを襲う。
気分を落ち着かせる為の状況確認が、逆に混乱を誘発させる結果となってしまった。
そんな様子を察してか、青年はレックの前で屈みながら言葉を続けた。
「ワタシの名は【ナイル】。混乱する気持ちはわかる。だが、信じてほしい。ワタシは君を守るためにここにいる。君がこれから生きていくため、尽力することをここに約束しよう」
ナイルと名乗るその男性は、初対面のはずのレックに対し、丁寧にそう言った。
『アンタがここに連れてきたんじゃないのか』と言うのを必死に堪え、努めて好意的に言葉を返した。
「……ありがとうございます。ボクは、レックと言います」
「レックか。よろしく頼む」
ナイルは目を閉じたまま、無表情でそう返事をする。
自分がどのように思われているか分からないが、少なくともここでナイルに敵意を向けるのは得策ではない。
体調はあまり芳しくない。こんな状態で襲われようものなら、赤子をひねるようにやられてしまうだろう。
──助けてくれるって言ってるし、ここは好意に甘えるのが無難か。
「あの……ここってどこなんですか?」
「ここがどこか……か。今は、見ての通り、としか言えないな」
少しでも情報を得ようとそう問いかけるが、ナイルは辺りに視線を向けながら歯切れの悪い言葉を返す。
──守ってくれるってだけで、信用はされてないのか。
不信感を募らせながら、フラフラする身体に鞭打って立ち上がり、自分の目で周りを確認する。
まず視線を向けたのは、帆船が向っている方向。
そこで最初に目についたのは、高さ三十メートル以上はあろう、白く巨大な四方を囲む壁。
その周りには、石造りの建物が立ち並ぶ街があった。
壁の真ん中にはアーチを描く門があり、そこから巨大な城の一端が垣間見える。
今度は体を回し、後方へ視線を向ける。
見渡す限りの広大な草原。
岩や木々が点在しており、草が散在する様は、自然と一言にいい表せる環境だった。
──やっぱり分からない。どこなんだここは。
辺りを確認して、改めて自分がとんでもない場所に連れてこられたと思い知る。
ここは日本なのか、外国なのか。外国だとして、なぜナイルと言葉が通じているのか。
考えれば考えるほど、謎は深まるばかりだ。
──いや、むしろ好都合か。
レックはふと思った。
ここなら、自分のことを知っている人間はいない。学校にも行かなくていいし、非難されることもない。
父親に会えなくなってしまうことだけが心残りだが、それで自分の犯した罪が許されるなら──
「──なんだッ!?」
言いようのない違和感を感じたレックは、両手で頭を押さえる。
これまでの不安と緊張による頭痛とは違う。
頭の中を直接いじられているような異物感。脳を掻き回されるような不快感。
まるで、直前の自分の思考を咎められているような感覚だった。
なんとか取り除こうと、頭を揺らしたり叩いたりするものの、効果はない。
「どうした、レック」
ナイルはそう声を掛けるが、レックにはその声を聞き取る余裕はなかった。
──なんだよ……罪から逃げようとしたのが、そんなに悪いのか。
遠のいていく意識の中で、何者かにそう問いかける。
罪悪感を抱いていないわけじゃない。
ただ、誰だって辛いことから目を背けたくなる時はあるはずだ。
その権利すら、許されないのか。
「あっ──」
おぼつかない足取りで体を支えていたレックは、気づくと船の端までたどり着く。
落ちないように、なんとか体勢を立て直そうと試みる。
しかし、意識を掻き回されたことで平衡感覚を失い、安定しない足場という状況が合わさり、足を踏み外してしまう。
「ナイルさん……!」
落ちる間際、助けを求めるようにナイルの方へ手を伸ばす。
しかし──、
──守ってくれるんじゃ……なかったのか。
自分が落ちようとしているにも関わらず、ナイルは微動だにしていなかった。
自分が落ちようとしているのに気づいていないのか。それとも別の理由があったのかは分からない。
だが、レックからして見れば、そんなことは問題ではない。
彼にとって、少なからず抱いていた期待を裏切られた。
希望から絶望へ叩き落された気分だ。
──これが、罰なのか。この世界でも、償えって言うのか。
船から落ちる刹那、神様へ訴える。
見知らぬ地で、命を落とすことが、償いなのか。
希望を持たせ、絶望へ突き落すことが、罰なのか。
十二分に悩んで苦しんだ。それでもなお、苦痛が必要なのか。
ならば、一体どうすれば許されるというのか。
──何を代償にすれば、≪人を殺した罪≫が消えるっていうんだ。
悲痛な表情を浮かべながら、レックは意識を失った。
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