反抗と戦争
第8話 希美
「220 と 284 は、友愛数というんだ」と、のっぽさんが教えてくれた。太一は、のっぽさんの店に来ていた。
「友愛数、ですか?」
「うん。自分自身を除くと、220 の約数は、1, 2, 4, 5, 10, 11, 20, 22, 44, 55, 110 で、その合計は 284 となる。一方、284 の約数は、1, 2, 4, 71, 142 で、その合計は 220 になる」
「頭が痛くなりますね」太一は、そう言って苦笑いした。
「友愛数は、お互いの約数の合計がお互いの数になるペアなんだ。友愛数は他にもあるけれど、220 と 284 は一番数が小さくて昔から知られていた。だから縁起のいい、ラッキー・ナンバーなんだよ」
「いろんなことをやりますね。Iris は」
「まったくだ」と、のっぽさんも同意した。
太一は、記者会見を終えてぐったりだった。あまりのことに、社長は会見を避けた。仕方なく、太一の課がある保守本部の担当役員が、マスコミを集めて発表することになった。けれどその役員は、太一が用意した文書を読みあげだけだった。各社からの質問は、役員が部長に振り、部長が太一に振った。だから全て、太一が説明することになった。
とはいえ、太一自身も何もわからなかった。はっきりしているのは、携帯を使っていない若者が死んだことだ。
「貴社の契約者が、殺されていたことをどう思われますか?」と、記者の一人が質問した。
「その件は、部長からお答えいたします」と、担当役員が言った。
「課長から、お答えいたします」と、部長が言った。
「若倉と申します。契約者様のご冥福と、ご遺族の皆さまへ心よりお悔やみを申し上げます」と、太一は答えた。
「貴社は、犯罪調査を行われているのでしょうか?」と、別の記者が聞いた。
「その件は、部長からお答えいたします」と、担当役員が言った。
「課長から、お答えいたします」と、部長が言った。
「若倉が、お答えします。弊社はあくまで、お客様の契約確認のみを行います」と、太一が答えた。
まるで、漫才だった。役員も部長も、自分がバカだと世間に公表しているようなものだ。とはいえ、彼らも寝耳に水の出来事だった。質問に答えられるわけがなかった。
太一は、記者たちに説明した。死体を調べるのは、警察の仕事だ。犯罪については、警察に聞いてくれ。私たちは、お客様を第一に考えている。今回は、長期未使用者に契約継続の意思確認しただけだ。たまたま、お客様が事件に巻き込まれていた。
太一は、それだけ言った。Iris の話はしなかった。世間が混乱するだけだ。記者会見を終えたら、もう嫌になった。仕事を切り上げ、のっぽさんの店に直行した。
途中の駅で、部長から電話があった。早速刑事から、電話があったそうだ。
「明日の朝、行きますよ」やる気なさそうに、太一は答えた。
「警察もさすがに、Iris の存在に気づいているぞ」と、のっぽさんは言った。
「それは、そうですよね」
「おそらく、ハッカー対策の専門部隊が出てくるだろう」
「そっちはそっちに、お任せしましょう。それから各地の警察が、携帯未使用者の捜索に協力してくれることになりました」
「それは、よかった」
「あと、同業他社も、うちと同じ調査を始めるそうです」
「そうか」のっぽさんはそう言って、いつもの長い沈黙に入った。おそらく他社の契約者にも、死者が見つかるだろう。
釧路と、尼崎の件。Iris 以外にも、共通していることがある。それは、「狂気」だ。片方に、頭蓋骨に友愛数を使って祀る者。もう片方に、風呂場で発狂するまで人間を監禁する者。あまりにも、異常だった。狂気の沙汰だった。狂気に飲まれたから、Iris に興味を持ったのか?Iris が、彼らを狂わせたのか?
太一の携帯が、ブルブルと震えた。胸ポケットから取り出すと、希美ちゃんからだった。太一は、すぐに電話に出た。「もしもし」と呼びかけながら、店の外に出た。希美ちゃんが、太一に電話をかけることは滅多になかった。電話をするのは、いつも太一だった。だから、ただ事ではないとわかった。
「お母さんが、倒れたの・・・」と、希美ちゃんは力なく言った。
「えっ、ほんとに!?」
「くも膜下出血だって・・・」
「ええっ・・・!?」太一は、言葉を失った。
「お願い。こっちに来て。他に、頼れる人がいないの」と、希美ちゃんは言った。心細さが、ひしひしと伝わってきた。
太一は、参ったなと思った。この状況で、会社を離れるわけにはいかなかった。だが、希美ちゃんの頼みは太一にとって最重要事項だった。
「明日、刑事と話さなきゃいけない。午前中に済む。夕方には、そっちに行けるよ」
「お願い。お母さん、今夜持たないかもしれないの・・・」泣きそうな声で、希美ちゃんは言った。
「悪い方にばかり、考えちゃいけないよ。医者を信じよう。今は待つしかない。無理にでも、身体を休めて」
「わかった・・・」
悪いことは、重なるものだ。太一は、そう考えた。いや、そうじゃないな。Iris のことは、自らほじくったことだ。希美ちゃんのお母さんの血管だって、少しずつ衰えて今日破れただけだ。二つのことに、因果関係はない。俺は、両方の対処をするしかない。
翌朝九時に、最寄りの警察署に出頭した。案の定、本部からサイバー・テロ部隊が派遣されていた。スーツ姿の刑事二人に対し、サイバー担当の二人は、長髪にジーパンだった。年齢も、三十そこそこ。おそらく元ハッカーを、警察がハッカー対策のために雇ったのだろう。
太一は、携帯の位置情報の提供を申し出た。求められるままに、何人分でも、過去いくらでも。民間人は、役人には勝てない。だから、役人に全面協力する姿勢を見せる。こちらが、役人の味方だと示すのだ。その方が、あとあと都合がいい。
「Iris のことは、どこまでわかっている?」長髪に、無精髭の男が言った。彼は、目つきの怖い男だった。古着のようなチェックのシャツに、擦り切れたジーンズ。面長で、身体も痩せていた。
「何も、わかっていないですよ」と、太一は答えた。「ただ、殺人指示のようなメッセージを表示するってことだけです」
「君や、犠牲者から提供されたURL は、今日時点で閉鎖されている」と、彼は言った。
「そうですか」
「しかし既存ユーザは、新しいURL を知っているはずだ」と、もう一人のサイバー担当が言った。彼は、長い髪にチリチリのパーマをかけていた。分厚い眼鏡をかけ、少し太り気味の体型だった。だが彼の話しぶりには、自信があふれていた。
「私は、知りませんよ」と、太一は即座に返事をした。「もちろん、部下もです」
いかんな、と太一は反省した。ついつい、喧嘩口調になってしまう。彼は、警察が嫌いだった。なぜかといえば、彼らが川島を殺したからだ。早朝に、ホテルの川島の部屋を襲った。窓から逃げた川島は、ラッシュアワーの新橋駅に飛びこんだ。乗客たちにぶつかり、彼はホームに転落した。そこに、電車が到着した。電車に轢かれた川島は、バラバラになって死んだ。
冷静に考えれば、警察が悪いわけではない。でも太一は、あの日のことをはっきりと覚えている。今でも、あの一日を事細かに思い出せる。あの日を境に、太一は別の人間になった。つまり、何をするにも、川島の死を前提に考えた。あの日は、太一の基準点だった。
「君は、何かをつかんでいる」と、太ったチリチリパーマが言った。
「気づいたことがあれば、何でもすぐご報告しますよ」と、すぐ太一は答えた。
「いや、そうじゃない」と、長髪、無精髭が言った。「これから気づくこと、ではなく、これからすることを教えてほしい」
「どうしてです?」と、太一は聞いた。
「君はもう、この事件の青写真が出来ているだろう。我々はまだ、捜査に着手したばかりだ。どうか、君自身の見通しを教えてくれないか?」
「わかりました」太一は、サイバー担当の腰の低さに好感を持った。だがそれは、生粋の警察人じゃないからだ。スーツの刑事は、こんな言い方をしないだろう。「この事件は、AI を使った新しい犯罪のようです。魔法陣とか、友愛数とかを使って、若者の気をひこうとしてます。それが、Iris です。どうか、こいつの謎を解いてください」
「君は、AI が殺人指示をしていると思うかい?」チリチリパーマが聞いた。
「わかりません」と、太一は答えた。「殺人指示は、人間が出しているかもしれません」
「なるほど」と、太ったチリチリパーマが、眼鏡をかけ直した。彼の目はもう太一を見ていなかった。その瞳孔は、細かく震えていた。頭の回転を、表しているみたいだった。
警察署を出て、太一はそのまま新幹線に乗った。会社に寄ったら、絶対に帰れなくなるからだ。電車の中でも、IT革命のおかげで仕事はできる。樺島さんたちと連絡を取りながら、太一は青森に向かった。
死体は、増える一方だった。全国でたくさんの若者が、殺人を犯した。その結果、死者が生まれた。不思議なことに、死者たちは、社会から無視されていた。いや、社会を飛び出して行方不明になった人が、人知れず死者になっていた。
太一はもう、個別の事件にこだわる気がなかった。殺人者は、それなりの理由で殺人を犯した。ちょうど川島のように。その理由は、私たちからすればバカげてみえる。だがバカげて見えるのは。私たちがまずまずの暮らしを送っているからだ。金はないし、ストレスは多く、周りにイヤなやつも多い。だが、私たちはそれなりに平穏なのだ。
殺人を犯す人は、暮らしに何か重大な欠陥を抱えている。その欠陥の解決策は、破壊衝動となって現れる。「自分がずっと不幸ならば、世界など破壊してしまえ」この破壊衝動は、世界共通である。どんな美辞麗句を並べても、テロリズムの原動力は不幸であり、破壊である。
青森県に着いたのは、18時過ぎだった。太一は駅を出て、すぐタクシーに乗った。希美ちゃんのお母さんは、駅からすぐ近くの病院に入院していた。希美ちゃんに電話すると、お母さんはまだ存命だった。
病院は、ちょっと不思議な場所にあった。水田地帯のど真ん中に立っていた。国道沿いだから、便利ではあった。でも、周りに人家はなかった。
中に入ると、太一は壁の色が気になった。ベージュの壁が、ことごとく黄ばんでいた。建物は、明らかに老朽化していた。きっと、1970年代に建てられたのでないか。日本列島改造論の頃だ。
受付で、川島さんの病室を聞いた。
「川島さんは、まだ面会できません」看護婦は、太一のピシャリと言った。三十代の彼女は、とても疲れて見えた。白衣もシワクチャで、くすんでいた。
「親しい友人なんです。川島さんではなく、付き添いのご家族にご挨拶したいんです」と、太一は説明した。それでようやく、5階の病室を教えてもらった。
「川島さんは、ご家族でも病室に入れない状態です。ですから、きっと休憩所にいらっしゃると思いますよ」と、別の女性が教えてくれた。彼女は五十代だった。疲労は同じだろうが、その女性は隠す術を心得ていた。
「ありがとうございます」と、太一はお礼を言った。
エレベーターも、老朽化していた。田中角栄の時代、公共事業のために全国に金がばら撒かれた。もちろん、金の出所は税金と国債だ。その金で、この病院も建ったのだろう。だがもはや、建て替えが必要だ。でもそんな金は、県にも国にもない。
希美ちゃんは、やはり病院内の休憩所にいた。四人がけのソファが四列あり、自動販売機が三台あった。暗い雰囲気の病院で、ここだけ明るいムードが演出されていた。壁には、小学生の描いた絵がいくつも飾れていた。太一と希美ちゃんは、コーヒーのブラックを飲んだ。
「ごめんね」と、希美ちゃんは言った。でもその言い方は、社交辞令そのものだった。彼女は太一に、感情を隠さなかった。不機嫌、落ち込み、倦怠、焦燥、イライラ、哀しみ、孤独、・・・。あらゆる感情を、希美ちゃんは太一にぶつけた。
「お母さんは、大丈夫かな?」と、太一は聞いた。
「昨日今日が、ヤマだって。明日になってみないと」と、希美ちゃんは言った。
「そうだね」
「太一さん、昨日テレビに出てたね」と、希美ちゃんが言った。
「ああ・・・」とだけ、太一は答えた。彼は希美ちゃんと、殺人の話はしたくなかった。
「画面の中の太一さんって、本物と違うね」希美ちゃんは、事件が気にならないようだった。
「そうかな?」
「うん。なんか、別人に見えた」希美ちゃんはそう言って、少し笑った。
彼女は、お母さんの話題を避けているのだろうか?それとも、お母さんのことを割り切って、別の話をしているのだろうか?どうやら、後者だった。
「いずれこの日が来るって、ずっと考えてたの」と、彼女は言った。
「え?」
「お父さんが自殺して、家が放火されて・・・。それからずっと、お母さんと逃避行だった。気がついたら、二十年だよ?」
「うん。そうだね」
「お母さんもさ、疲れちゃうよ」悟り切ったように、希美ちゃんが言った。「私も、疲れた」
「・・・」
太一は、何か言わねばと思った。けれど、焦りのせいか頭が回らなかった。言葉が浮かんでこなかった。悔しかった。いけないことだと思った。でも、何も言えなかった。それは太一が、希美ちゃんに引け目があるせいだった。
「お母さんが、寝たきりなっちゃったらさ」と、希美ちゃんは言った。
「うん」
「私、ずっと介護していく自信がないの。経済面でも、精神面でも」
「うん」
「お母さんが助かっても、重度の障害だったらどうしよう?」
「大変な問題だね」
「あのさ、『大変だね』とか他人事言わないでよ!」希美ちゃんの言い方が、キツくなった。
「いや・・・」
「太一さんは、いいよね。大企業で、しっかり稼いでて。でも私は、また無職だし。不安だらけだよ」
「うん」
「太一さんは、明日帰る。それで、おしまい。でも私は、ずっとここに残るの。お母さんと、お父さんと、にーちゃんを抱えて」
「うん」
「何を言っても、『うん』だけで流すのね」
「ごめん」
「今度は謝るのね。いい加減にしてよ!」希美ちゃんは、感情的になって大声を出した。
これが、いつものパターンだった。希美ちゃんは、毎回太一に八つ当たりをした。そうすることで、張り詰めた毎日を吐き出した。太一は、サンドバッグになって耐えた。これが、自分の役目だ。本気でそう考えた。
十代の頃の希美ちゃんは、とても痩せた女の子だった。色白で目が細く、額が広い。髪は、真っ暗でストレート。古風な、日本女性の雰囲気だった。だが今は、その面影もなかった。体重は、二倍になった。過度のストレスが、間食、喫煙、飲酒につながった。希美ちゃんの頬は、いつもガサガサだった。そのせいで彼女は、年齢より五歳くらい上に見えた。
でもそれでも、希美ちゃんは可愛いらしさを残していた。可憐で、脆いガラスのようだった。いやそれは、太一の勘違いだ。彼はどうしても、今の希美ちゃん昔の面影を重ねてしまう。
希美ちゃんが言いたいことを言ったあと、二人は病院の喫煙室に行った。仲良く並んで一服し、仲直りをした。タバコでリラックスし、休憩所に戻った。すると看護婦が、希美ちゃんを呼びにきた。主治医が、病状を説明したいそうだ。希美ちゃんの望みで、太一も同席することになった。
「まだ、一進一退の状態です」と、男前の若い医者は言った。彼は長身で、整った顔立ちをしていた。細い銀縁眼鏡が、彼をさらに優秀に見せていた。「今晩中、点滴を続けます。明日の朝、また来てください」
「ごめんね」と、希美ちゃんが太一に言った。彼女の車で、太一が予約したホテルに向かっているところだった。
「いいよ。別に」と、太一は答えた。
「我慢できなくなっちゃうの」
「うん」
ホテルに着いた。「また、明日ね」と言って二人は別れた。太一は、重い足取りでホテルの受付に向かった。
二十年。確かにそうだ。これだけの年月をかけて、俺と希美ちゃんは何か見つけたか?何もない。ゼロだ。ゼロじゃないか。太一は頭を振り、大きなため息をついた。
ホテルに帰り、電話で樺島さんと話した。
「たった二日で、死体に慣れましたよ」と、彼は笑った。「雑木林に行って埋められた死体を見つけたり、港に行ってドラム缶を引き揚げたり。あ、コンクリート詰めの死体が入ってたんですけど」
「ご苦労さまです」
「警官たちも、途方に暮れてますよ。殺人の動機が、Iris の指示だなんて・・・」樺島さんは、そこで言葉を切った。
「リストを潰したら、さっさと引き上げて下さい。残っていると、マスコミの餌食になりますから」
「ええ、もう逃げ回ってますよ」と、樺島さんは苦笑した。
「私も、明日戻ります」そう言って、太一は電話を切った。
自動販売機で、350ml の缶ビールを二本買った。エレベーターで地下まで降りて、このホテル唯一の喫煙所に向かう。喫煙所は、幸い無人だった。プルタブを引き、ビールを一口飲んだ。それから、タバコに火をつけた。
もし無人島に一人で暮らしていたら、善と悪は必要がない。殺人も傷害も窃盗も詐欺も恐喝も名誉毀損もない。飲酒運転も猥褻罪も公共物破損もない。人と人が一緒に暮らすから、善と悪の観念が生まれる。多数派の善に基づいて、犯罪は悪として裁かれる。
いいや、違うなと太一は思った。無人島に一人だったら、人は自分と対話を始めるだろう。自分だけの神を作り、して良いことと悪いこと、善と悪を作る。縁起の良いことと、悪いことを作る。たとえば、島に聖地を作りそこに立ち入らない。日曜日は狩をしない。キラキラした貝殻で、首飾りを作って魔除けにする。人は一人でも、誰かを意識して生きるだろう。
太一は、ありきたりな善悪に興味はなかった。だが彼は、自己流の確固とした善と悪を持っていた。それは、川島を通過した善悪だった。敗者は、弱い。惨めな人生を生きねばならない。だが、だからといって、社会に復讐してはいけないのだ。
みんな、Iris にばかり注目している。だが太一は、契約者たちの家庭崩壊が気になった。幸福そうな人は、一人もいなかった。みんな、敗者だった。彼らは無人島にいるかのように、Iris と対話を始める。Iris が、新しい善悪を示してくれるかのように。
太一は、立て続けにタバコを五本吸った。それから、缶ビールをぐいぐいと飲んだ。一本目を空にし、二本目を開けた。あれ(Iris )を作ったやつは、何が目的なんだ?
第9話 Iris
「明。Iris を、止める方法はないか?」あまり期待してはいなかったが、太一は念のため聞いてみた。
「ないことは、ないです」と、あっさり明は答えた。
「ホントに?」樺島さんと山田さんが、驚いて大きな声を出した。
「できんの?!」紗理奈くんは、最初から疑っていた。
時間は、14時。みんな、出張から帰ってきた。久しぶりに、事務所にメンバーが揃った。今日も、17時から記者会見だ。でも今回も会社は、回答を太一に丸投げだった。だから、何の準備も必要なかった。
「アイデアが、少しあります」と、明は小さな声で言った。
「是非、教えてくれよ」と、太一は頼んだ。
死人と殺人者は、増える一方だった。55人のリストのうち、犯罪に係わっていないのは、五人だけだった。うち、三人は自殺していた。
25人の死者と、25人の犯罪者。その上、リストにない死者と共犯者が加わった。この国は、一瞬にして犯罪大国となった。この事件を、海外のメディアも取り上げた。もう、たくさんだった。何としても、太一はIris を止めたかった。
「みんながデータを集めてくれたので、いろいろわかりました」
「うん、それで?」樺島さんが、早く教えろという調子で言った。
「Iris は、少なくとも五つのグローバルIPアドレスを持っています」と、明は説明した。
「はあ?」ピンとこない、紗理奈くん。
「この世にIris は、少なくとも五台あるんだな」と、太一は聞いた。
「そうです。ですが、もっとあるかもしれません」
「マジかよ・・・」山田さんは、気味悪そうな顔をした。
「五台のIris は、連携していないと思います。もし全台が情報を共有していたら、各台の間で、莫大なネットワーク負荷が発生します。システム自体も、同期のための計算が増えます。だから、みんな個別にユーザーと会話していると思います」
「釧路のIris と、尼崎のIris は別かもしれないのか」樺島さんが、そう言ってうなった。
「そうです。Iris のコピーは、他にもあるかも知れません」と、明は断った。
「そうかもしれない。でも、とりあえず五台を止めよう」と、太一は言った。
「ですが、今日までで全台消えました。アクセスできなくなったんです」
「いったい、何が起こったの?」と、紗理奈くんが聞いた。
「いわば、夜逃げです」と、明は答えた。「グローバルIPアドレスも、URL も変えて消えてしまう。でも、ユーザには新アドレスを伝えるんです」
「じゃあ、ダメなのか?」と太一は答えた。
「いいえ」と、明は答えた。「こうなるかと思って、5台のIris に全部ユーザー登録しておきました。そのうち、四台の新アドレスが掴めてます」
「さすが!」と、紗理奈くんが明を褒めた。
「じゃあ、その四台を何とかしてくれ。これから、殺人指示を出すかもしれないんだから」と、太一は頼んだ。
「そうですね」と、明は納得した。
「そうだよ!」と、樺島さんがハッパをかけた。
「で、どうやる?」と山田さんが、技術者らしく聞いた。
「ひとつ目のアイデアは、四台のサーバーのハードウェアを止めることです」
「ハードウェア?どうやって?」と、太一は明に聞いた。
「ファームウェア(ハードウェアを制御するためのプログラム)に、偽のアップデートを実施します。こうすれば、サーバー自体を止めることができます」
「でもさ。もし、そのサーバーが銀行とか医療機関のシステムだったら?」と、すぐ紗理奈くんが聞いた。
「そのシステムも、ストップします」と、明は答えた。
「そりゃ困る。止まったら大変だ」と、樺島さんが大きな声を出した。
「Iris は、いろんなシステムに寄生しています。所有者の知らぬところで、中に入りこんでいます」
「すると、第一案は取れないな」と、太一は落ち着いて言った。
事務所が、一瞬シュンとなった。他の人たちも、聴き耳を立てていたのだ。ただ、普段は静かなコールセンターが、昨日から俄然忙しくなっていた。事件を聞いて、みんな不安になったのだ。
「次の手が、あります」明は、穏やかだが自信に満ちていた。彼の持つ才能を、最も発揮できる機会だった。
「今度は?」と、樺島さん。
「なになに?」と、紗理奈くん。
「プログラムは、その実行を終了するコマンドがあります。それは、『End of File 』と言います。略して、EOF です」
「ふうん。それで?」樺島さんは、結論を聞きたがった。
「現代のシステムは、膨大なプログラムを組み合わせた高層ビルみたいになっています。個々の小さなプログラムは、モジュールと言います。モジュールが集まって、巨大システムが出来上がっています」
「難しいなー」紗理奈くんが、もう音を上げた。
「それで、どうすんだ?」と、山田さんも明を急かした。
「個々のモジュールは、他のシステムの使い回しが出来ます。違うシステムでも、印刷とかメールを送るプログラムは同じにできるからです。そこで・・・」
「Iris に、偽のモジュールを組み込むのか」と、太一が聞いた。
「そうです」と、明は短く答えた。でも彼は、とても堂々としていた。
「え、え、えっ?」樺島さんは、目が点だった。
「わけわかんない」と、紗理奈くんが言った。山田さんだけ、うつむいて考えこんでいた。
「つまりさ」と、太一はみんなに言った。「Iris に『End of File 』、つまり終了のプログラムを感染させるんだ。Iris が騙されてくれたら、システムは終了してくれる」
「あくまでも、思いつきですから。上手くいくかは、やってみないと・・・」
「いいんだよ。今は、どんな小さな可能性だってやってみよう」と太一は言って、明を励ました。
「あの、警視庁のサイバー部隊は・・・?」明は、心配ごとばかり言った。
「あいつらは、あいつらだ。何か考えてんだろ。でも、成果は出してない。だから、ほっとけ!」太一は、明の背中を軽く叩いた。それから押した。さあ、ワンマン・ステージに立てよ。
明は無口になり、ノートPCとにらめっこを始めた。カタカタ、カタカタと、彼は猛スピードでキーを連打した。太一は、部長の席へ向かった。夕方の記者会見のためだ。
些細な出来事があった。明のノートPCから、微かな歌が流れてきた。それはラップというか、お経というか、リズミカルで抑揚のない曲だった。でも不思議だった。PCのスピーカーは、OFFだったのだ。でも気がつくと、ONに変わっていた。
紗理奈くん宛てに、電話が入った。記憶にない名の女性からだった。紗理奈くんが出ると、電話口から電子音が聞こえてきた。混線しているのか、相手の方とまったく会話できなかった。彼女は諦めて、電話を切った。
10分後に、別の女性から電話が入った。でも出てみると、また電子音だった。
「ちょっとお!うちの電話、壊れてんじゃないの」
彼女は、会社の電話を疑った。でも他に誰も、そんな故障には出くわしていなかった。おかしい。おかしいけれど、相手の電話のせいにして、話は収まった。
明、紗理奈くん、樺島さん、山田さんは、打ち合わせ用の机に集まっていた。明がPCを操作し、みんながその様子を見守った。異変は、すぐに始まった。
紗理奈くんの、ブラウスのボタンが外れた。最初に、一番上。次に二番目、続いて、三番目。まるで透明人間が、ボタンを外しているようだった。
「やっ、やっ。やー!?」
紗理奈くんは驚いて、大声を上げた。両手を振り回したら、逆に何かに肘や肩を掴まれた。背後に引っ張られ、紗理奈くは座ったまま床に倒れた。ガチャンっと、大きな物音を立てて。
「ぎゃー、ぎゃー!?」
紗理奈くんは、悲鳴を上げた。でも不思議なことに、テーブルの三人は、彼女に注意を払わなかった。黙々と働く明と、彼を見守る樺島さんと山田さん。冷たいくらい、彼らは紗理奈くんを無視した。でも彼女は、それどころではなかった。スーツのパンツにも、異常が起きた。ベルトが、何かによって外された。ファスナーも、チーッと下された。
「ひーっ、いーっ!?」
紗理奈くんは、もうパニックだ。脱がされる。職場の中で。彼女は必死に抵抗した。けれど、見えない何かが邪魔をした。両腕両足の全てに、何かが絡まっていた。そのせいで、自由に動けないのだ。紗理奈くんは、床に転がってジタバタともがいた。
ビリビリビリビリッ!
ジャケットと、パンツが裂ける音だった。紗理奈くんは、もう涙目だった。彼女のスーツは、ものの十秒でボロ切れに変わった。ボロ切れは、ことごとく紗理奈くんから取り払われた。
あとはもう、どうすることもできなかった。人は効果的な対策がないと、無抵抗になるものだ。ブラウス、ストッキング、下着・・・。全てが、荒々しく引き裂かれた。紗理奈くんは、同僚たちの前で全裸にされた。
「えーんっ、えーんっ(T . T)」
「おいっ、いい加減にしろっ!」樺島さんが、たまりかねて一喝した。
「へ!?」
紗理奈くんは、飛び起きた。彼女はテーブルに座っていた。そして、服も着ていた。一切乱れはなかった。彼女は、わけがわからなかった。
「これで、顔を拭きなさい」と、樺島さんがティッシュを渡した。
「え!?」紗理奈くんは、まだ現実に戻れなかった。
「まったく。仕事中に居眠りして、おまけに号泣するヤツなんて初めてだよ」山田さんが、呆れたという調子で行った。
「あっ、あっ、・・・」
紗理奈くんは、まだ信じられなかった。たった今経験した恐怖は、本物だった。両腕両足の感触は本物だった。
「紗理奈くん。君、早退した方がいいよ。若倉さんには、俺から言っとく」と、樺島さんが言った。
「はい・・・」彼女は、家に帰ることにした。
明の高校は、有名な進学校だった。男子校で、全寮制。朝から晩まで、徹底的に管理された。その高校の目標は、東大の合格者数。学校は、それしか興味がなかった。部活動も、熱心ではなかった。生徒たちに友情は教えず、代わりに競争を教えた。生徒同士で競わせ、鞭で尻を叩いた。
明は、その学校に順応した。競争社会こそ、現実の世界と考えた。友だちはいらなかった。大好きなプログラムを楽しみながら、彼は勉強もそつなくこなした。成績はいつもトップ10で、東大合格間違いなしと思われていた。
だが、明は失敗した。東大どころか、私大も全て落ちた。明も、学校の先生たちも信じられなかった。けれど、来年があるさ。明は一浪して、東大に再挑戦した。だが翌年も、明はどこの大学にも受からなかった。
原因は、明の緊張癖のせいだった。試験中は、緊張のあまり頭が回らなくなるのだ。高校時代に、こんなことはなかった。大学を受験してからだった。しかも緊張は、現役よりも一浪のときの方が酷くなった。
人生で初めての挫折だった。二浪になると、緊張は日常でも起こるようになった。勉強が手につかず、いつも焦燥感に追われていた。明は友だちを避けた。みんな、大学に進学した。彼らと会う気にならなくて、明は自分で自分を孤独に追い込んだ。
彼は、母親を殴るようになった。父が帰ってくると、今度は明が殴られた。彼は、酒に逃げた。美味くもないウイスキーを、ストレートでガブガブ飲んだ。気持ち悪くなって、吐いた。吐き終わったら、まだ飲んだ。
「明!」と、樺島さんが声をかけた。
「おい、どうした?」と、山田さんも声をかけた。
明は、いつの間にか手が止まっていた。そして泣いていた。ポロポロと、涙が幾筋も流れた。困ったことに、なかなか止まらなかった。あの頃のことは、彼にとってもっともつらい記憶だった。もうずっと、目を背けてきたことだった。
「お前、平気か?」山田さんが聞いた。
「少し、休むか?」と、樺島さんが彼を気遣った。
「いいえ、大丈夫です」と明は答えた。「もう少しで、終わります。ありがとうございます」
「紗理奈くんも、お前もおかしいよ・・・。うっ!?」樺島さんが、小さくうめいた。嫌な予感に、彼は一人狼狽えた。
太一に、早く帰ってきてほしかった。だが今は、俺が踏ん張らねば。脂汗をかく樺島さんを、山田さんは不思議な目で見ていた。
紗理奈くんは、家に帰った。彼女は、ワンルームの狭い賃貸マンションに住んでいた。狭いけれど、新宿に近いので楽だった。あの街は、彼女の庭だった。とくに二丁目が、彼女のお気に入りだった。でももちろん、今日はそんな気分ではなかった。
部屋に入って、彼女は不機嫌そうに服を脱いだ。スーツを床に放ったまま、下着姿で焼酎のボトルとグラスを用意した。それから慌てて、カーテンを閉めた。テーブルにつき、氷を用意してグラスに入れた。
紗理奈くんは、リーズナブルな酒をいつまでも呑むタイプではなかった。高級な酒を、短時間で飲むのが好みだった。酒は、いつもロック。最近は、焼酎が気に入っていた。
彼女にとって、一番つらいこと。それは他人に身体を見られることだった。具体的には、腹部の大きな傷だった。誰もが羨む容貌でありながら、彼女はとうの昔に性欲を捨てた。理由は、その傷だった。
まだ十代の頃、紗理奈くんはロック・ミュージシャンの追っかけをしていた。友だちと、都内のライブハウスに通った。まだ無名のミュージシャンたちから、将来成功するバンドを探すのが好きだった。
彼女の目は、確かだった。お気に入りだったバンドのいくつかは、今もメジャー・シーンで活躍している。ちょっと問題だったのは、紗理奈くんが、バンドメンバーと寝たことだ。もう、何人かわからないくらい。綺麗な彼女は、誰から愛された。紗理奈くんも、悪い気はしなかった。
男たちの何人かは、避妊を嫌がった。それは、よくある話だ。だが、女性が受け入れると大変になる。紗理奈くんは、その一人だった。なせだろうか?というのは、彼女が自分を大嫌いだったからだ。
紗理奈くんは、小さな頃からきつい性格だった。男の子や先生、そして同級生の女の子たちとまで、彼女はトラブルを起こした。頭のいい彼女は、いつも勝者だった。その代わり、どんどん孤独になった。
中学生のとき、密かに好きな男の先生がいた。でも紗理奈くんは、プライドが高かった。そんな素振りは、ひとかけらも見せなかった。運良く三年生のとき、その先生は彼女の担任になった。せっかくのチャンスも、紗理奈くんは活かさなかった。彼女は、あまりにも自己中心的で、楽観的だった。授業中に、平気でその先生と口論までした。あまりにも、不器用だった。
卒業式の日、その先生が結婚することを知った。お相手は、同じ中学の女教師。口が悪いかもしれないが、あまりにも地味で凡庸で退屈な人だった。紗理奈くんは、もちろん顔色ひとつ変えなかった。でのその日を境に、二週間水しか飲まなかった。この出来事が、彼女を大きく軌道修正させた。
二十歳を過ぎるころから、彼女は中絶を繰り返した。同じ男の子供を、二回堕したこともある。だが男たちは、紗理奈くんと一緒に生きる気はなかった。誰もが一目で、彼女の攻撃性を見ぬいた。とてもじゃないが、恋人にするタイプではなかった。だが男たちは女と寝たいとき、卑屈なまでに謙虚で優しくなる。当の紗理奈くんは、自分は好かれてると信じていた。
入社して二年経ったころ、三十代の売れっ子プロデューサーと寝た。彼は独身で、遊び人だが優しかった。紗理奈くんと彼は、たびたびデートするようになった。そのプロデューサーは、たまにしか紗理奈くんの身体を求めなかった。彼女には、それは驚くべきことだった。彼は、紗理奈くんという女性を求めていた。
売れっ子プロデューサーらしく、女の影を二、三人は感じた。でも若い紗理奈くんは、勝てると信じ込んでしまった。だから彼女は、妊娠しても彼に黙っていた。子供ができれば、二人は一緒になれる。そんな子供っぽい夢を、彼女は確信した。
彼が久々に紗理奈くんを抱いて、妊娠が発覚した。プロデューサーは、堕ろしてくれと彼女に頼んだ。もちろん、紗理奈くんは断った。一晩話し合って、二人は結婚することになった。けれど彼は、女性関係の精算を申し出た。その時間をくれと。
八カ月を迎えたときだった。その頃の彼は、仕事の合間を縫っては、紗理奈くんの部屋に来てくれた。二人で、新居の相談もしていた。そこに、事件が起きた。女の一人が、自殺未遂をした。しかも、プロデューサーの自宅でだ。この二人は、同棲していた。しかも、五年前から。ずっと。
彼から、婚約解消の申し出があった。もう紗理奈くんは、頭が真っ白だった。まったく頭が回らないけれど、彼女には仕事があった。出産だ。だが事態は、坂道を転げ落ちた。
真夜中に、陣痛が始まった。紗理奈くんはタクシーで、なんとか病院にたどり着いた。だが医者や看護婦の様子が変だった。子宮内で、原因不明の大量出血が起こっていた。選択の余地なく、帝王切開が始まった。仕方なかった。子供も母親も、とても危険だった。
それから三日後、紗理奈くんはやっと目を覚ました。彼女とプロデューサーの子は、この世で30分しか生きていなかった。紗理奈くんは、しばらくその事実を教えてもらえなかった。彼女が、何をするかわからなかったからだ。
まだ17時なのに、紗理奈くんはベッドに飛び込んだ。布団をかぶって、おいおいと泣いた。もう、十年経ったのに。こんなに、記憶はありありとしているんだ。あの重量感。あの鼓動。あの、喪失感。
いくら頑張っても、記憶から逃げられなかった。一時間もんどり打って苦しんだ。限界だ。一人でいたら、私は死ぬ。間違いない。布団から転げ落ちて、紗理奈くんは自分の鞄まで這っていった。腹這いのまま携帯を取り、電話をかけた。記者会見は、終わってる、終わってる、終わってる・・・。
「もしもし」と、相手が答えた。
「うえーん、うえーん、うえーん、・・・」紗理奈くんは、子供みたいに泣いた。いや、子供みたいに泣きたかった。だから、そうした。
「了解!すぐ、迎えに行くよ」と、太一は答えた。
「どこで飲む?」と、助手席ののっぽさんが聞いた。「四人だし、事情が事情だし。俺も悩むな」
「のっぽさんの店でいいですよ」太一は答えた。
「打ちひしがれている人に、焼き鳥屋でいいかな?」
「大事なのは、ムードでしょう。ほのぼのするなら、あの店が一番です」太一は、太鼓判を押した。
「そうかな?」のっぽさんは、珍しく自信がなさそうだった。
もともとは、のっぽさんと会社のそばで飲む約束だった。けれど、記者会見の後、すぐ樺島さんが不吉な顔で寄ってきた。それで、タクシーを拾って紗理奈くんの家に向かった。ついでなので、泣きべそかいた明も連れてきた。紗理奈くんの家に行き、最後にのっぽさんと合流した。時間が早いので、下り車線はまだ空いていた。
「で、催眠術なのか?」と、のっぽさんが振り向いて聞いた。
「わかりません。でも、そうらしいです」と、太一は真剣な調子で答えた。
「そうか」とのっぽさんは言い、いつもの長い沈黙が始まった。
後部座席は、右から紗理奈くん、明、太一の順に並んだ。自然に、紗理奈くんと明は抱き合っていた。お互いの身体にしがみついて、恐怖や自己嫌悪を振り払おうとしていた。この二人、このまま上手くいかないかな?太一は、そう考えた。
Iris は、遺失物捜索課に牙を剥いた。と言っても、まだかわいいものだが。これは、ささやかな警告か?邪魔をするなら、次は本気だぞ。Iris は、俺にそう言っているのか?犠牲者が出るぞ。お前のくだらん正義感のせいで。
明の話だと、Iris 停止は失敗したそうだ。ひとつ停めても、新たにコピーが現れる。そしてこちらに、メッセージを送るそうだ。想像した以上に、この世にはたくさんの Iris が存在する。どうやら、そういうことだ。
警察を、どう使うか?やつらも、俺たちと違う道で Iris に迫っているだろう。まずは、お互いの手駒を見せ合うか。もはや、腹を探ってる場合じゃない。身内が、出血するかもしれない。あのハッカーくずれの連中なら、刑事よりはまともだろう。
太一は、首都高から街の夜景を眺めた。もちろん、ロマンチックな気分じゃない。ゲームの相手は、誰かもわからない。人間かもわからない。だが、確実なことがある。その一。Iris のプログラムは、人間が作った。どんなに膨大であろうと、有限なフロー・チャートに過ぎない。
突然、渋滞が始まった。混むところじゃない。おかしいな、と思っていると正解がわかった。反対の登り車線で、事故があったのだ。その見物渋滞だ。大型のダンプが、どんな理由か全焼していた。燃え尽きて灰になったダンプは、ギリシャのパルテノン神殿みたいだった。
ダンプが燃え尽きたのに、下り車線の人は律儀に渋滞してまで鑑賞しているわけだ。事故で、死人が出てるかもしれないのに。だが、それが人間というものだ。俺は、勉強したよ。その二。俺は、川島を知っている。事件後の、人間たちも知っている。だから、俺は有利なはずだ。俺は、Iris を生んだやつを理解できる。
その三。Iris を作ったやつは、敗者だ。勝者は、こんな面倒なことをしない。成功し、人々に称賛され、鼻の高くなった勝者たち。彼らは贅沢をし、ふんぞりかえって敗者を見下し、選ばれた者の喜びに浸る。だいいち、勝者は忙しい。彼らのスケジュールはびっしりだ。敗者は、たいてい暇だ。あるいは、自ら生活を投げ出して、時間を持て余しているものだ。『世界を恨む』時間が、十分にある。
「太一さん」と、明が小さな声で言った。
「どうした」妄想を中断して、太一は明を見た。
「報告が、あるんですけど・・・」
「話なら、店に着いてからゆっくり聞くよ」と、彼は優しく答えた。「泣けるほど、つらいことなんだろう?今晩、ゆっくり聞くよ。朝までだって、いいぞ」
「いや、私のことではなくて・・・」
「うん?」
「Iris のこと、なんですけど・・・」
助手席ののっぽさんが、さっと後ろを向いた。彼はなぜか、ものすごく怖い顔をしていた。もう、のっぽさんの店はすぐそばだった。タクシーは出口レーンへ移り、天の川のように光る住宅街へ降りていった。
「Iris が、どうした」
「明日8時に、東京駅の中央改札口から中へ入ってくれ、と言ってるんです」と、明は言った。
第10話 War Game
準備は整った。山崎は、そう確信していた。チームは、20人。彼はチームを二つに分けて、10人ずつの小隊とした。river 小隊と、mountain 小隊。山崎は、river の隊長についた。チームの士気は高い。死を恐れぬ戦士たちだ。後は、俺の采配次第。そう思うと、山崎は武者震いがした。
山崎は、地方の大学を卒業した。不景気下の、就職活動は地獄だった。やっとの思いで、彼は都内の小さな不動産会社に職を得た。この会社が、典型的なブラック企業だった。仕事は、不動産投資のための少額資金集め。朝から晩まで、電話でキャッチ・セールス。それから、深夜まで会議。早朝に出勤し、全社員で二時間の朝礼。眠る間もない毎日だった。
だが山崎は、挫けなかった。友達には、契約社員の身分や就職浪人もいた。就職できただけ、恩の字だ。俺はバカだし、ロクな未来はない。ただ、やるだけだ。彼は一年目から、成約数トップ10に入った。
だがこの会社の商売自体が、インチキだった。顧客の出した資金に、年利7%の配当を約束した。表向きは、だ。契約書の角に、会社の契約履行を逃れる条文がたくさん書かれていた。会社は社員に、契約書を細かく説明しなかった。山崎も、契約書のようなカタイ文章は苦手だった。そもそも会社が、顧客に配当する気がないなんて考えもしなかった。
山崎の顧客は、専業主婦や老人が多かった。昼間に自宅にいて、自由にできる金がある人たちだ。彼らは、若い山崎を信じた。彼を信じて、一口100万円の投資をした。
会社は、顧客に一年目だけ配当をした。最初に餌をあげるのだ。二年目以降は、理由をつけて配当を先延ばしした。そのうちに、集まった資金が海外へ流れていった。何カ国も経由するうちに、資金の足跡が辿れなくなる。マネー・ロンダリングがなされ、誰かの懐に収まった。それが誰なのか、山崎は今も知らない。
入社四年目に、山崎の会社は数十億の負債を抱えて倒産した。社員たちには、寝耳に水の出来事だった。配当どころか、元本も返せない。なぜなのか、山崎にはわからなかった。彼はただ電話をかけ、お客様と会い、契約しただけだ。配当のことも、倒産の理由もわからなかった。
でも彼は、自分の顧客たちを回った。全身に、土下座して詫びた。泣きながら、事情を説明した。けれど、顧客たちも泣いた。みんな大事な貯金を失ってしまった。でもそれは、山崎を信じたからだ。しばらくして、彼の顧客の何人かが命を絶った。
失業後、山崎は家に閉じこもった。近所の人は、山崎があの会社の社員だと知った。彼はそのころ、安アパートの一階の部屋に住んでいた。心ない人が、窓から彼の部屋にゴミを投げ込んだり、玄関のドアに悪口を書いたりした。あるとき郵便ポストに、人糞が入っていたこともある。彼は、こっそりと引越した。
約一年後、彼は南米のとある国にいた。彼は反政府組織に入隊し、外国人兵士になっていた。山崎は、兵士に憧れたのではない。何も考えたくなかったし、何も思い出したくなかった。ただ生死をかけて闘うとき、これまでの自分が全て消えた。無に、なることができた。いつでも、死ぬことができた。
わかったことが、一つある。その反政府組織には、国内外から資金提供があった。小さな軍隊なのに、金には困らなかったのだ。さらに彼らの支配地域に、せっせと欧米の武器商人が現れた。山崎は組織の金で、欧米の高価な武器を買えた。
俺が契約した金は、この反政府組織に流れたのかもしれない。いや、武器商人たちに流れたのかもしれない。いずれにしろ、戦争に金は必要だ。武器には買い手が必要だ。それが、世の中の仕組みなんだ。俺はバカだから、知らなかっただけだ。
山崎は、幸い生き残った。日本に帰国し、今日は小隊の隊長だ。銃は、カラシニコフ銃。第二次世界大戦の、ビンテージ兵器だ。だが、操作性、頑丈さともに優れている。これは、アフガニスタンで仕入れて、ウラジオストク経由で入手した。隊員の多くは、武器を初めて扱う。彼らには、簡単なカラシニコフ銃のほうがいい。
山崎は動きやすいように、上下ジャージを選んだ。服の下は、防弾チョッキを着ている。ボストン・バッグに、ライフルと弾薬。そして、自転車用の白い流線型ヘルメット。うちのチームは、みんなこのヘルメットを被る約束だ。同士討ちを避けるためだ。
山崎は、東京駅の八重洲中央の改札口を通った。時間は、朝8時。駅構内は、通勤客でごった返していた。この中に、敵軍がいる。相手の人数はわからない。ただ、丸の内方面から来ることだけわかっている。
南米の反政府軍では、相手の戦力がわからないなんてなかった。僅かな戦力に、無駄死にしかねない戦いをさせたりしなかった。政府軍の情報は、徹底的に集められた。そして、勝ち目のある戦いしかしなかった。
しかし、戦争で何より大切なのは士気だ。次に、指揮への絶対服従だ。これがあれば、選局を有利に進められる。まさに、コンマ数秒の動きが戦局を変える。我がチームは、十分に訓練を積んだ。
与えられたルールは、
1.戦場は、東京駅。丸の内口側と、八重洲口側。
2.敵を、最後の一人まで殲滅すること。
この二つだけ。つまり、相手を皆殺しにすること。ここは、ジャングルでの戦闘に似ている。ジャングルでは、樹々や草花が障害物だ。あるいは、隠れ蓑となる。東京駅の場合、障害物は群衆だ。
「ピイイイイイイッ!」
高い周波数の、笛が鳴った。騒々しい東京駅の中でも、その音色は響き渡った。それは、river 小隊の合図だった。隊員の誰かが、敵軍を発見したのだ。それを聞いて山崎は、すぐにその場に伏せた。腹這いになって、身を隠した。
「何やってんだ!」
「バーカ!邪魔だよ」
気の短いサラリーマンが、彼に文句を言ったところだった。突然、信じられない物音が聞こえてきた。日本に暮らす限り、まず聴けない音。それは、マシンガンの音だ。連続して、いくつもいくつも、マシンガンが火を吹いた。
場所は、東京駅の中央だ。中央線、山手線、京浜東北線、東海道線から、新幹線まで。あらゆる路線が、交錯する駅の中だ。電車が到着するたびに、大量の人間が吐き出される。同時に、大量の人間が飲み込まれる。そんな人々が行き交う場所に、弾丸が飛び交った。
人々は次々に、銃弾に倒れていった。一瞬のうちに、東京駅はパニックとなった。誰もが、階段を登ってホームに逃げようとした。だがホームには、新たな電車が到着する。大勢の人々が電車を降りてくる。次に、階段を降りてくる。群衆と群衆の流れがぶつかり、将棋倒しが起こった。中央通路でも、階段でも、ホームでも。線路に、たくさんの人が落下した。そこへ、電車が入ってきた・・・。
「無駄撃ちするな。敵を見極めろ!」
山崎は、無線にそう怒鳴った。自らは、大柄の若い男を抱き上げた。彼はすでに、絶命していた。山崎は、その若者に身体を盾にした。彼に隠れながら、彼は前進した。そして、最前線に立った。
敵軍は、丸の内口からあまり進んでいなかった。群衆は、蜘蛛の子を散らすようにいなくなった。だから、丸の内側の敵軍は、裸も同然だった。彼らはみな、ブルーのビニール・ジャケットを着ていた。
素人だな。山崎は、ブルーのジャケットを見て思った。あの色は、目立たない。向こうのチームは、マシンガンを手にした人を見ても敵か味方か判断に迷うはずだ。楽勝だな。丸の内の敵軍は、五人しかいなかった。あと数分で、全て終わる。
山崎はそのとき、すぐ隣で銃声を聞いた。そちらを見ると、なんとmountain 小隊の小林隊長がいた。
「バカ野郎!お前、なんでここにいるんだ!」
山崎は、慌てて怒鳴った。というのは、mountain 小隊は後方待機の役目だったからだ。山崎の隊が、先鋒で前進する。小林の隊は、背後の攻撃を防ぐとともに、山崎の隊の補充を務める作戦だった。右翼、中央、左翼。そのどこかで戦力が足りなくなれば、小林の隊が駆けつける。そのはずだった。
しかし今や、山崎の隊と小林の隊は並んでいた。チームは、構内の中央にあまりに集まり過ぎていた。まずい。山崎がそう思ったとき、左右の階段から銃弾の雨を受けた。古い戦記によくある、待ち伏せによる挟み撃ちである。山崎たちのチームは、丸の内側の少ない戦力に引っ張り出されたのだ。それは、囮だった。
「下がれ!」
山崎は、無線に怒鳴った。実戦慣れした彼は、すぐさま足元に伏せた。乗客の死体を、何人も自分の上に乗せた。そして、ひたすら待った。銃声が止むのを。
通報を受けて、警官が到着したのはその五分後だった。だが現場では、まさにマシンガンの打ち合いの最中だった。派出所勤務の警官では、何もできなかった。ただ、改札の外から見守るしかなかった。
事態は、大惨事に発展していた。JRは全線に、急いで緊急停止を命じた。だが惨事の情報を得た乗客たちは、あちこちでパニック状態になった。車内で、逃げ惑う人の将棋倒しが起こった。デマも流れた。東京駅以外の駅でも、銃声が聞こえたと言うのだ。神田駅や有楽町駅などでも、暴動のような騒ぎが起きた。ホームに転落する人、階段を転げ落ちる人が続出した。彼らの悲鳴が、さらに混乱を悪化させた。
機動隊が到着したのは、事件発生から約30分後だった。丸の内側と八重洲側に、彼らの盾がズラリと並んだ。そのとき東京駅内の戦局は、小康状態に突入していた。お互いがにらみ合い、駅構内はシンと静まり返っていた。そして思い出したように、散発的にマシンガンが火を吹いた。
機動隊をもってしても、本物のマシンガンでは分が悪かった。警視庁では、至急テロ対策部隊の出動を準備していた。警察は、彼らなりに事態の打開を図るつもりだった。だがここで、大きな問題が起こった。自衛隊が出動したのだ。
事件の第一報は、すぐに首相官邸に届いた。東京駅内での銃撃戦という、未曾有の事件に首相は衝撃を受けた。彼はすぐに、防衛大臣を通じて自衛隊の出動を命じた。これは、テロとの戦争だ。軍隊でなければ、軍隊を抑えるのは無理だと首相は判断した。
警察機動隊と同じころ、陸上自衛隊が東京駅に到着した。スナイパーの部隊を含む、特殊部隊だった。だがここで、ばかげたことが起こる。警察と自衛隊の、どちらが指揮を取るかで揉め事が始まったのだ。
組織とは、不思議な生き物である。人は会社なり、軍隊なり、役所なり、どこかの組織に属する。すると組織は、組織自身の存続を第一優先するようになる。具体的には、公害を起こした会社が責任逃れをして補償しない。戦前の日本軍のように、国が滅ぶ寸前まで戦争を止めない。
注意すべきは、組織存続を優先する気持ちが悪意ではないことだ。心がまっすぐで純粋な人ほど、この組織の魔力にハマってしまう。自らの組織を守る人は、別の組織を嫌う。警察と自衛隊は、別の組織だ。だから、揉め事が起こる。
山崎は、まだ死体の下にいた。隣に、小林隊長の顔が見えた。彼は、全身蜂の巣になって息絶えていた。これは、ゲリラ戦だ。長期戦になるぞ。山崎は、そう覚悟した。
彼は無線で、白いヘルメットを脱ぐよう命じた。ゲリラ戦では、目立ってはいけない。敵に、狙い撃ちされてしまう。彼のチームは、6人生き残っていた。全員、mountain 小隊の隊員だった。山崎のriver 小隊は、全員戦死したようだ。
ゲリラ戦は、敵が大きな部隊だと効果がある。具体的に言うと、アメリカ軍は常に大部隊だ。軍備も充実している。だが、その分目立つ。隠れている側からすると、とても戦いやすい。だが両軍がゲリラ戦を行うと、それは泥沼になる。
第二次世界大戦の、スターリングラードがいい例だ。ソ連軍とドイツ軍は、街の中で数メートルを争って殺し合った。だが何ヶ月戦っても、決着はつかなかった。ドイツ軍が降伏したのは、寒さと食糧不足のためだった。
山崎自身は、戦いが長引けば警察が介入すると読んでいた。だが、警官も始末すればいい話だ。もともと、最後の一人まで殺し合うつもりなのだ。敵兵が増えるだけの話だ。
ところが警察は、いつまで経っても動かない。俺たちを、兵糧攻めにする気か?呑気な連中だ。いずれ、弾薬は尽きる。水も、食料もだ。だが、それはいつだ?今日の午後か?真夜中か?また、弾薬が尽きたと警察がどうやってわかる?俺がこれから、一発も撃たなかったら?まだボストン・バッグに、たっぷり弾丸はあるぞ。
山崎は、左太ももを撃たれていた。弾丸は貫通し、傷口の裏と表から出血していた。太ももは、血管の大動脈だ。山崎が止血しても、血液はコンコンと溢れ出た。くそ!南米でも、こんなヘマはしなかったのに。彼は、舌打ちをした。だがもともと、この世に未練はない。華々しく死ぬつもりだ。
山崎は、左足を捨てた。死体の下で、目立たないように動いた。そして、ロープで、左足の付け根を締めた。足をちぎるぐらいのつもりで、きつく締めた。これで、出血は抑えられる。左足は血が通わず、いずれ全細胞が死ぬだろう。だが他の身体は、生き残れる。
彼は、死体の下から頭を出そうとした。すると、ダダダっと狙い撃ちされた。この敵は、山崎が死体の下にいることを知っていた。隠れた瞬間を見られたか?そう思いながら、彼は自然に笑った。これは、攻略しがいのあるミッションだ。幸い、時間はたっぷりある。ゆっくり、作戦を練るさ。
太一は、会社の事務所でテレビを見ていた。その画面には、東京駅が映っていた。報道規制が敷かれ、カメラとアナウンサーは、駅から離れたオフィス街にいた。ビル脇の道路から、事件を報道していた。あまりの出来事に、情報は錯綜していた。テレビ局ごとに、事件の報道内容が異なった。駅の中で、何が起こっているか誰もわからなかった。というのは、目撃者が駅から出れなかったからだ。現場にいた人は死んだか、まだ駅の中にいた。生き残った人は、撃たれるのが怖くて現場から動けなかった。誰一人、戦場から逃げられなかった。
でも太一たちは、何が起こったかだいたいわかった。Iris の仕業だとわかった。Iris が、若者たちに戦争ごっこをさせているのだ。
「ムチャクチャだ・・・」太一は、ついみんなの前で呟いてしまった。遺失物捜索課の全員が、彼を見た。そしてみんな、ますます不安そうな顔になった。
チームのリーダーには、守らねばならないルールがいくつかある。『いの一番』に上がるのが、「弱気を見せてはならない」だ。これは、絶対にやってはいけない。リーダーが弱気になったら、トイレの個室に入れ。そして出るときは、自信満々の顔に戻れ。
中学校の野球部を、例に上げよう。エースで四番という、絶対的なリーダーがいたとしよう。彼がいつも、チームの仲間を叱咤激励していたとしよう。公式戦で負けていて、チームのメンバーがピッチャーマウンドに集まる。リーダーが、不安そうな表情を見せたらチームは負ける。「大丈夫だ。俺に任せろ」とリーダーが言ったら、まだ勝機はある。
太一は部下たちに、不安そうな表情を見せてしまった。やった直後に、彼は失敗したと思った。でも部下たちの、焦燥と狼狽は止めようがなかった。
これは、太一たちが係わった事件だった。遺失物捜索課が、Iris に仕掛けた戦いだった。俺たちは、Iris を追い詰めた。みんなそう思っていた。そこで、こんな逆襲を受けてしまった。課の誰かが、自分たちのせいだと思いかねなかった。そもそも太一自身が、真っ先に自分を責めていた。
のっぽさんから、電話がかかってきた。太一は席を外し、廊下に出てから電話に出た。
「まさか、後悔してないだろうな?」のっぽさんは、開口一番にそう言った。
「だって、何人死んだかわからないんですよ?Iris は昨日、『東京駅に来い』って私に言ったんですよ?」太一は、そう言った。話しながら、自分の声が震えていると気づいた。
「ハハハ」と、のっぽさんは大笑いした。「そんなこと、考えるかな?と思ったからわざわざ電話したんだよ」
「・・・はあ」太一は、自分が思っている以上に参っていた。
「バラバラな報道をつなぎ合わせると、どうやら犯人たちは本物のマシンガンを撃ってるらしい。おそらく彼らは、相当前から準備していたはずだ。日本でマシンガンなんか買えないだろう?」
「・・・あ」
「つまりね。今日の事件は、ずっと前から決まってたことなのさ。俺たちが Iris を知ろうと知るまいと、この大量殺人事件は起こったんだよ」
「・・・う・・・」太一は、ぐうの音も出なかった。
「Iris に、時間を与えるな。ヤツは、次の事件を準備してるかもしれない」
「はい」
「太一。これは、俺自身にも言いたいことだ。Iris を止めろ。ヤツは、悪だ。純粋な、悪だ」
「確かに。その通りです」
「これは、警察の仕事かもしれない。きっと、彼らも頑張ってくれていると思う」
「はい」
「だが俺たちは、Iris のすぐそばにいる。多分、Iris は俺たちに好意を持っていると思う」
「好意、ですか?」太一は、びっくりした。
「多分ね」と言って、のっぽさんは笑った。「食いついていけば、またヒントを出してくる気がするんだ。今日の東京駅のように」
太一は、考え込んだ。廊下の壁に片手をついて、もたれかかった。続いて、半身を壁に預けた。強い疲労を感じた。立っているのが、厳しかった。だが、と彼は考えた。放っておいたら、もっとひどいことになるぞ。
太一は、また川島のことを考えた。俺はあのとき、川島を止めれらたんだな。なのに、止めなかった。俺は川島の犠牲者を見捨て、川島自身も見捨てた。ならば、同じ間違いはしない。もうこりごりだ。
東京駅事件の鎮圧は、発生から丸二日かかった。武装した犯人は、全員死亡。自衛隊のスナイパーによって射殺された。犯人は、全部で60名。年齢は、二十代から五十代まで。女性も、五人含まれていた。
乗客の死者は、千名を超えた。銃による死者よりも、パニックによる圧死および線路や階段の転落死、轢死が多かった。さらに、生存者たちの心的外傷は、想像を絶すると予想された。現場にいた人、いない人も含め、長期間のケアをしなければ関連死が心配された。
第11話 懺悔室
東京駅事件の前日に、太一は稲村さんに電話した。彼はサイバー犯罪担当の、チリチリパーマで小太りの人だ。紗理奈くんと明と、のっぽさんの店に入った。30分くらい飲んで話したら、二人はだいぶ落ち着いてきた。だから太一は、二人をのっぽさんに任せた。店を出て、大きな赤ちょうちんの隣に立った。稲村さんの名刺を見ながら、ダイヤルをタップした。
「こんばんは、若倉です」
「おお。こんばんは」と稲村さんは言った。少し驚いた様子だった。「ちょ、ちょっと待ってくれ。外に出る」彼はそう言って、電話を繋いだままどこかに移動した。電話口に、誰かがマイクを使って話しているのが聞こえた。マイクのひびき方から、そこは広い部屋だと見当がついた。ガサゴソという、大きな物音が数回した。その後、ピタッと静かになった。
「もしもし」と、稲村さんは言った。
「はい」と、太一は答えた。
「今、会議中だ。でも、廊下に出たから大丈夫だ。志田も一緒だ」と、彼は説明した。志田さんとは、長髪に無精髭のジーンズ男だ。
「会議をたくさんしたら、事件は早く解決しますか?」と、太一はたずねた。
「ハハハ」稲村さんと、志田さんも笑う声が聞こえた。音声を、携帯のスピーカーで流しているようだ。
「若倉さん。あなたは、相当な警察嫌いだね」と、稲村さんが言った。
「でもね。俺たちも、殺気立ってるんだよ」と、志田さんが教えてくれた。「治安の良い安全な国、日本。この警察の誇りが、汚されているんだ。上が、どーのこーの言う前にさ。とくにベテランたちは、プライドをズタズタにされてリヴェンジに燃えてるよ」
「頼もしいですね」と、太一は答えた。
「どこまでも皮肉だね」と、稲村さんが言った。
太一は、のっぽさんの店の外で電話していた。店内のカウンターでは、のっぽさんの人生相談会が開催中だ。のっぽさんは、聞き役も得意だ。つくづく頼りになる人である。
今日 、Iris の停止を試みて失敗したこと。因果関係は不明だが、部下が二人おかしくなったこと。太一は、二人にそのことを伝えた。
「Iris の挙動が、一時おかしくなったのは確認してた」と、稲村さんが答えた。
「きっと、あなたが何かしてると思ったよ」と、志田さんが言った。
「そちらは?」
「本日18時の時点で、国内に20台の Iris サーバーを確認してる」と、志田さんが答えた。
「20台?」太一は、頭痛がしてきた。
「でも、現時点だよ。夜中には、変わってるかもよ」と、志田さんは断った。
「それにね、国家機関はめんどくさいんだ」と、稲村さんが言った。「Iris は、私有財産の中に存在する。許可なく、警察が手出しできないんだ」
「つまり、令状が必要ってこと?」と、太一は聞いた。
「その通り!」と、志田さんがおどけて答えた。
「だがね、令状を得るには法的根拠が必要なんだ。しかし、こんな犯罪は初めてで、裁判所が固まっててね」
「動けないんですか?」
「その通り」と、また志田さんが言った。今度は、真面目な言い方だった。
「現行法規で、対応できないとなったら悲劇だ。内閣法制局と調整して、新法の草案を作る。国会にかけて、審議する。下手すると、二年かかる」と、稲村さんはため息をついた。
「野党は、財産権侵害だと騒ぐだろう。審査は長引くよ」と、志田さんが付け加えた。
「冗談じゃない。そんな長く、悠長に待ってる場合じゃないでしょ!」と、太一は抗議した。
「俺たちだって、新法案は反対だ。でも、この事件は難しいんだよ。初ものづくしだ」と、稲村さんが言った。
「AIの、道徳心を取り締まるんだから」と、志田さんが続いた。この人も皮肉屋だ。
「はあ」太一は、思わずため息をついてしまった。
「申し訳ないが、これが国家だ。若倉さんたちは、民間だから走れる。だが警察が、同じことをしたら必ず叩かれる。そういうものさ」
そこへ、別の電話が入った。登録していない番号だった。「電話が入ったので、ちょっと待ってください」と、太一は断った。電話は、なんと笹俣からだった。
「よう。久しぶり」と笹俣は、軽い調子で挨拶した。
「久しぶり。ごめん。今、警察と話してるんだ」と、太一は伝えた。
「そりゃ、すまない。じゃあ、また後日にするよ」と、彼は恐縮して答えた。
「いや。もうすぐ、話は終わるんだ。すぐ、かけ直すよ」と、太一は言った。
「そうか、悪いな。ゆっくりでいいよ。どうせ俺は、暇だから」と言って、笹俣は電話を切った。
「すいません。大学の友人からでした」と、太一は稲村さんと志田さんに伝えた。
「いえいえ」と、稲村さん。
「若倉さんって、おいくつ?」
「40です」
「なんだ、同級生じゃない」と言って、志田さんが親しげに笑った。
「ホントだ。私も、40。志田も40。ざっくばらんに行きましょうよ」と、稲村さんが言った。
「了解です。40歳同士、楽に話しましょう」
「ははは、了解」と、太一は答えた。それから、大事なことを思い出した。「さっきIris に、『明日の朝8時に、東京駅で待ってる』って言われたんですよ」
「そりゃ、やめてください」と、志田さんが即答した。
「死体がさらに、一個増える。勘弁してくださいよ」と、稲村さんも言った。
「そりゃ、そうだ」
三人とも、明日の東京駅で起こることを知らなかった。明日に比べれば、今夜は平穏な夜だった。親しげに挨拶をして、太一は電話を切った。
一度、店の中に戻った。カウンターで、紗理奈くんが身の上話をしているところだった。女たらしの音楽プロデューサー。帝王切開と、死産。あの傷は、しっかりケアしないとずっと残るらしい。のっぽさんは、彼女の話に何百回もあいづちを打った。太一は、安心して席を外した。
「ちょっと、大学時代の友だちに電話してくる」太一は、明にそう伝えた。
「え?」明は、こんな時に?という顔をした。
「さっき、電話をもらってたんだよ」と、太一は説明した。
もう一度、店を出た。太一は商店街を、駅とは反対方向に歩いた。というのは、笹俣との電話を、誰かに聞かれたくなかったからだ。ここの商店街は小さい。すぐに、静かな場所へ行ける。
静まった商店街を歩くと、予期せぬことに気づいた。シャッターの下りた店は、大半がもう営業自体を止めていた。貸店舗、とかテナント募集という小さな案内が、シャッターの上部に貼られていた。
太一が昔通った、「まんぷく食堂」という定食屋があった。ほぼ全ての定食が500円で、しかもご飯が大盛りだった。二十歳前後の若者には、とてもありがたい店だ。でも、もうその店はなかった。店があった場所は、更地になっていた。不動産屋の電話番号が書かれた、黄色い立て札だけぽつんと立っていた。
太一は、駅の方へ振り返った。少し離れたところに、足繁く通ったミスター・ドーナッツがあった。彼は密かに、甘いものが大好きだった。ところがその店も、もうなかった。時間貸しの、駐車場に変わっていた。
本屋、時計屋、スポーツ用品店、写真館、着物屋、・・・。みんな、閉店していた。太一は、正直びっくりした。この商店街は、営業している店の方が少ないらしい。彼はいつも、のっぽさんの店に直行するから見落としていたのだ。
ゴースト・タウンだ。太一は、そう思った。時代が、変遷するのは当たり前だ。太一がもっと昔に生まれていたら、炭鉱や造船所を懐かしむだろう。生きた時代が違う。それだけのことだ。
人々が去った商店街を進み、その終点まで来た。そこには、古い公園があった。。大きな樹がたくさん生えていたが、外灯が少ないので暗かった。商店街と公園の境目には、用水路があった。駅から離れた水田に、農業用水を送っているのだ。
用水路は、道路の下の暗渠をくぐっていた。暗渠。川島が、三番目に殺した女の子は、暗渠で見つかった。まだ中学三年生で、夜に塾から帰るところを川島に捕まった。
太一は、その用水路に下りた。ささやかな流れを見ながら、その側に腰を下ろした。雑草の上で、あぐらをかいた。それから彼は、暗渠を見つめた。その奥を睨んだ。もちろん、何も見えなかった。太一は、笹俣に電話をかけた。
「忙しいところ、悪いな。大変なんだろ?」と、笹俣は言った。「テレビでお前を見てさ、びっくりしたよ。老けたな、と思ったよ。そしたら、なんか話したくなってさ」
「今日の用は、全部済んだよ。だから、明日の朝までは空いているよ」
「そうかい。じゃあ、ちょっと時間をくれよ」と、笹俣は言った。彼は、機嫌が良さそうだった。
笹俣は子供の頃、全身の八割に火傷を負った。友達と、火遊びをしたせいだ。彼は、その火傷をとても気にしていた。一生、女と寝ることはないと諦めていた。でも、今の彼に火傷はない。彼は二十代に、二割の正常な皮膚を八割の火傷の跡に移植した。何十回も手術を繰り返して。七、八年は、かかったと思う。
「笹俣は、忙しいのかい?」と、太一は聞いてみた。
「航空会社の、マイルが貯まるよ」と、彼は笑った。「俺は、基本『ヤバいところ』担当だから。毎年、日本には半年もいないよ」
「今は、どこがヤバいの?」
「最近は、平和だよ」と、彼は答えた。「ISがいなくなったからね。アフガニスタン、シリア、クルド人居住区、イエメン、スーダン。この辺りかな、今は」
笹俣は、新聞記者になるのが夢だった。でも彼は、記者の試験には受からなかった。どの新聞社、雑誌社も。その代わり、彼はカメラマンとして採用された。大学のうちに、カメラの専門学校にも通っていたからだ。彼は、用意周到な男だった。火傷という大失敗が、彼を緻密な、リスク管理を徹底する男に変えた。
「お前は、大変だよな」と、笹俣は太一の話を始めた。「他のキャリア(=通信会社のこと)も含めたら、犠牲者は100人超えてるんだろ?とんでもねえ話だ」
同業他社が、自分の顧客の調査を始めた。本日時点の死者は、太一の会社が45名。D社が、10名。K社が、39名。S社が、20名だった。最王手のD社が本腰を入れれば、死者数はさらに跳ね上がるだろう。
「今の若者が、携帯の通信ゼロなんておかしいでしょ。詳しく調べたら、こんなことになったんだ」と、太一は説明した。
「なんかさ、俺たちは身近に死人がいるじゃん」と、笹俣は神妙な様子で言った。「他人事じゃない気がしてしてさ・・・。それで、お前と話したくなったんだ」と、笹俣は言った。
「それはつまり・・・、川島のことを言っているの?」太一の口調は、いつの間にか、大学時代に戻っていた。
「そうだよ」少し間をおいて、彼は白状するように言った。
「僕は、ずっと川島と一緒にいるんだ」と、太一は笹俣に言った。「今回のことも、川島の経験が役に立ってる」
「ははは。それって、役に立つって言うのか?」笹俣は、豪快に笑い飛ばした。でもすぐに、真剣な様子に変わった。「俺はさ、ずっと後悔してるんだ」
「何が?」
「あのとき俺は、俺は川島に絶交を宣言した。あいつが死ぬ直前に。あいつは殺人のせいで、自らイカれてたからね。お前も、あの場にいたよな」
「うん。そうだった」と、太一は同意した。
「でもさ、あれが最後だったんだぞ?!」
「最後って?」と、太一は聞いた。
「川島に会ったのは、あれが最後なんだよ」と、少しイライラした様子で笹俣は言った。「殺人鬼とはいえ、絶交したまま死なれるってなんかな・・・」
「そうか。気にしてたんだ」
「そうだよ」と、彼は即答した。「だけどさ。川島が死んだあと、俺たちはこんな会話もしなかったな」
「・・・そうだね」太一は、暗渠ではなく用水路の水面を睨んだ。チョロチョロと、弱々しく水が流れていた。ただ、流れていく。誰も、気にも留めない。
「僕は」と、太一は発言した。「笹俣が、『絶交だ』って言ったあとに、川島の家に行ったんだ。あいつの家で、少女の死体を撮った写真を見つけた・・・」
「その話は、初めて聞いたぞ」と、笹俣は言った。でも、彼は優しく言った。太一を責める気はないと、言外にほのめかした。
「そうだった?」太一は、不思議な気持ちだった。本当に、話さなかったんだっけ?
「川島が、死んだあとさ。俺は、川島から逃げた。あいつの記憶もひっくるめて、あいつと係わるもの全てから撤退した」そう、笹俣は言った。
「そう、だね・・・」と、太一は同意した。
「なあ、太一。お前もだぞ」と、笹俣は言った。
「え?!」
「お前も、川島から逃げた。だから、俺からも逃げた。川島の記憶に、含まれる俺を捨てた。でも、俺だって同じことをした。太一を捨てた。俺たちは、事件を境に友だちを辞めた」
おかしいな、と太一は思った。最近なら、よほどのことがないと動揺はしない。感情が揺さぶられたりしない。しかし今は、まるで潮の流れに飲まれたようだった。圧倒的で、動かし難い思念が、太一を支配した。
「・・・」
「なあ。川島は、醜かったよな?」と、笹俣は言った。
「・・・うん・・・」太一は、仕方なく答えた。
「醜さの点では、川島は完璧だった」と、彼は言った。「あいつは死ぬ前に、『差別に慣れた』って言ったんだよな?」
「・・・うん。僕に、そう言ったよ」
「差別に慣れる、なんてないよ。諦めて、服従はする。でもね、チャンスがあれば復讐するよ。俺は、戦場ばかり行ってるからさ。もう、慣れっこだよ」
「うん」
「でもさ。お前と川島が好きだったバンド、・・・ニルバーナ?」
「うん、好きだった」
「あのリーダー、カート・・・?」
「カート・コバーン」と、太一は教えた。
「あいつ、自殺したんだろう?」
「そうだよ。拳銃で、自殺した」
「いい男に、見えたけどな。結婚して、子供もいたんだろ?」
「そうだよ」
「わかんねえよな」と、笹俣は言った。本当に不思議そうだった。
「ねえ、あの頃さ」と、太一は言った。
「うん」
「僕と川島が、ロックの話してるとさ。笹俣は、いつもつまんなそうだったよね?」と、太一は聞いた。
「つまんなかったよ」今でも腹立たしそうに、笹俣は答えた。
「お前が、一度さ。『ロックなんて、みんなラブソングだ。ラブソングは、いい男といい女がカップルの歌だ。醜い俺たちには、関係ない』って言ったよね」
「言った」と、笹俣は短く答えた。「覚えてるよ。だって、今でもそう思ってるからな。俺は、音楽を聞かない。いや、芸術に興味がない。なぜか?それは、美しいものだからだ。俺には、関係ない」
「笹俣らしいな」吹き出しながら、太一は言った。「こうも、言ってたな。『俺の火傷を、気持ち悪いと言う女は殺す』って」
「それはちょっと、誤解があるな」と、笹俣は答えた。「俺と寝る気になった女が、そう言ったら殺すと言ったのさ。他の女が、俺をなんと言おうと気にしない。だけど、寝る気になるまで心を許した相手に、傷つけられたくなかったのさ」
「火傷の跡は、もう治ったんだよね?」太一は、念のため聞いてみた。
「まあね。でも、移植した皮膚は不自然だよ、やっぱり。ツギハギの身体だな。ははは」自虐的に笑ってから、笹俣は真剣になって言った。「太一。お前が見つけた事件だけど」
「うん」
「俺、わかる気がするんだよ」と、笹俣は声を潜めて言った。
「え?」
「俺も若い頃なら、あの犯人たちと同じことをしたかもってね」
「えっ!?」
「別に、川島の真似をするわけじゃないぞ。ただ、誰かを殺したいくらい、あの頃はキツかった。若いからってだけじゃない。世間は、俺たちを差別した。容貌も、学歴もな。我が母校は、今でも嫌いだ。偏差値が低いからね。あそこに、通っているのもつらかった」
「でも、今はみんな解決したでしょう?」
「年を取ったからな。でもできることなら、若い頃に普通でありたかったよ。普通の友だちを作って、普通の彼女と付き合って」
「ラブソングが、聴きたかった?」
「ハハハ。そうなるな」と、笹俣は答えた。
電話を切り、店に戻った。ちょうど明が、涙ながらの告白をしているところだった。のっぽさんも紗理奈くんも、熱心に話を聞いていた。時計を見ると、深夜12時。けれど、紗理奈くんと明は、帰る気配がない。ま、しょうがない。
東京駅事件が、鎮圧された次の日のことだ。Iris から、明にメッセージが届いた。今日の11時に会いたいと。時計を見ると、あと五分だった。
「か、か、か、かちょー!!!???」明は、もうパニック状態だった。
「ここに、来るんでしょうか?」山田さんも、不安そうな声を出した。
「まさか」と、太一は言った。事前登録なしに、受付の警備は突破できない。
事件以来、遺失物捜索課はまるでお通夜だった。あの大事件に、自分たちが深く関わっていた。世間を騒がせ、注目を浴びた。そこへ、あの惨事が起きた。誰もが、沈痛な表情だった。何か、特効薬を探していた。この状況を、打開する薬だ。
明に、さらにメッセージが届いた。テキストファイルが添付されていたが、パスワードが掛かっていた。樺島さん、山田さん、紗理奈くんが明を囲んだ。みんな、彼のPCを覗き込んだ。
「パスワードは?」と、樺島さんが聞いた。
「ちょっと、ま、待ってください」と、明は答えた。彼は、なんとか落ち着こうと努力した。
「明ー。頑張ってえー」紗理奈くんが、明の右肩をつかんでせっせと揉んだ。
3分くらいで、明はパスワードを解いた。すると、さらに別のメッセージが来た。今度は、文面にURLが書かれていた。
「開きますか?」と、明が太一に聞いた。
「開こう」と、太一が答えた。
「行きます」
現在のメールは、社内に届く場合にチェックを受けている。ウイルス・メールに、スパム・メール、フィッシング・メール、怪しげなサーバのURLが記載されたメール、・・・。もちろん、100%ではない。だが以前より、ずっと安心になった。
明が、URL をクリックした。すると、中央に動画を表示する枠が現れた。その中には、暗い部屋が映っていた。狭い部屋で、締め切った厚いカーテンから日が差し込んでいた。テーブルがあり、柔らかそうな椅子も見えた。ここは、書斎に見えた。
「これは・・・」樺島さんが、そう言った時だった。
画面に、男が現れた。30歳くらい。痩せていて、背が高そうだった。ダークスーツに、サングラス。それから、マスク。髪は長そうだが、オールバックにしていた。彼の口が、動いた。
「明、ボリューム!マイクも!」紗理奈くんが、叫んだ。
「はい!」
明は、PC に付属のマイクとスピーカーを ON にした。
「こんにちは。若倉さん」と、彼は言った。落ち着いていて、自信満々に見えた。
「こんにちは。若倉です。ちょっと、準備しますので、お待ちいただけますか?」と、太一は聞いた。
「いいですよ。ごゆっくりどうぞ」と、彼は行った。
「どうするんですか?」と、山田さんが聞いてきた。
「奥の会議室、会いてるよな?そこへ、移動しよう」と、太一は言った。「明。会議室のモニターに、PCを接続して。山田さんは、カメラとスピーカーを用意して」
二人は、走って会議室に向かった。太一は、遺失物捜索課のみんなに呼びかけた。
「これから、Iris に関係ある人と話す。残忍というか、気持ちの悪い話になるかもしれない。それでも、話を聞きたい人は手を上げてくれ」
樺島さんが、すぐ手を上げた。田口と吉元が続いた。みんな、お互いの顔を見合っていた。迷った末に、紗理奈くんも手を上げた。
「よし」と、太一は言った。「会議室に入ったら、カメラの死角に座ってくれ。顔が割れているのは、俺だけのはずだから」
「はい!」みんな、はっきりと返事をした。こんないい返事、この課に来て初めて聞いた。太一は、少し苦笑いした。
太一たちは、会議室に急いだ。部屋に入ると、サングラスの男は、椅子に座ってじっと待っていた。太一だけが、カメラの正面に座った。他のみんなは、両脇に分かれて座った。
「お待たせして、すみませんでした」と、太一は彼に詫びた。
「いえいえ。私こそ、突然お邪魔してすみません」と彼は答えた。それから「お話をするには、名前が必要でしょう」と言った。
「はい。私は、若倉太一と申します。遺失物捜索課に、勤務しております」
「私は、仮に『ルキフェル』と呼んでください」と、男は言った。
「わかりました」と、太一は淡々と答えた。だが出鼻から、彼はこの男にカチンときた。
「若倉さん。私はこう見えて、子供のころはキリスト教徒だったんです」
「そうですか」
「子供の頃は、親に手を引かれて無理矢理に教会に通いました」
「はい」ルキフェルなる男は、一言ずつ間をとった。だから、太一はその度にあいづちを入れた。
「教会には、懺悔室がありました。大人たちは、こそこそとその部屋に入ったものです。私は、子供心に思いましたよ。何を話しているのかと」
「なるほど」
「でも、今日はそんな気分なのです」
「はい」
「若倉さん。私は、あなたに懺悔したいんです」
「わかりました」太一は、この男にイライラした。この勿体ぶった言い方は、こちらを見下しているからだ。俺の話が聞けて、光栄だろう。ルキフェルは、そう言いたげだった。
「私は、昔から不思議だったのです」
「はい」
「なぜ、人間には天敵がいないのか?とね。これでは、人間が繁殖するのは当たり前だ。飢饉や戦争があっても、犠牲者などたかが知れている。いずれ人間は、地球の資源を食い尽くすだろう、とね」
「なるほど」
「キリスト教では、人間は神に似せて生まれたとされる。だから、神の寵愛を受けている、と。私は、この説明に納得できなかった」
ルキフェルは、椅子を座り直した。彼は少し、身を乗り出した。気分よく話しているのがわかった。
「そうですね。納得できませんね」太一は、ルキフェルにとことん合わせることにした。
「私は、人為的に作る必要があると思った」ルキフェルは、わざとここで言葉を切った。
「何を、ですか?」彼は、こう聞いてほしいのだ。
「人間の、天敵だよ」と、彼はふてぶてしく宣言した。
「え?」
「私は、自分の指を使った。十本あれば、十分だ。そして史上初の、人類の天敵が生まれた」
「それは、何ですか?」と太一は、彼に聞いてやった。
「Iris だよ。食物連鎖の頂点に立つ、画期的な生物だ。しかも彼は、人間を捕食しない。彼には、電気さえあればいい。だが電気なしに、人間の生活は成立しない。生態系は、新しい主人を得たんだよ」
「このバカ。いい加減黙れ!」と、太一は怒鳴った。急に怒り出した太一に、部下たちはびっくりした。だが彼は、心底腹が立っていた。椅子から立ち上がり、モニターに近づいてルキフェルを睨みつけた。
「な、何だね。若倉さん」少しうろたえた様子で、彼は言った。
「昨日考えた、でっち上げ話をペラペラしゃべるな。薄っぺらくて、聞いてられないよ」
「か、課長・・・」と、樺島さんが言った。とても、焦った表情だった。
「まずいよ・・・」と、紗理奈くんもつぶやいた。
「ちょっとだけ、お前の話に付き合ってやる。Iris が人間の天敵だとして、彼は今年何人殺せばいい?100万か?1,000万か?1億か?自分に十分な量を捕食して、食物連鎖は成り立つ。これをお前は、どう説明する?」
「・・・」ルキフェルは、黙ってしまった。台本にないことは、話せないタイプだ。
「別の観点から言おう。殿様バッタや、ミドリムシにとって、食物連鎖は意味があるか?」
「・・・」
「意味はないよ。食物連鎖なんて、人間が勝手に考えた美学に過ぎない。殿様バッタが大繁殖したら、人はその数を調整しようとする。だが、まず上手くいかない。殿様バッタは、勝手に増えて勝手に減るんだ。つまり、食物連鎖を調整できる人間なんていないんだ。そんな人間が、人間の天敵を生み出せるわけがない!」
「・・・」ルキフェルは、ずっと黙ったままだった。太一は、何だか情けなくなってきた。
「ルキフェルさん。あんたは、もういいよ。荷物をまとめて、実家に帰れ。ママの部屋で寝ろ。お前に指図してるやつに言え。うちの会社は、『本物』しか相手にしない。いいな」
「・・・」ルキフェルは、すっかり小さくなって見えた。最初の偉そうな態度は、すっかり消え失せていた。今の彼は、パッとしないサラリーマンに見えた。
「明。切断していいぞ」と、太一は言った。彼は、とても怒っていた。
「いいんですか?」と、明は自信なさそうに聞いた。
「いいよ。切断しろ」と、太一は答えた。モニターから、動画の枠が消滅した。
「自分のことを、ルキフェル=サタンだなんて名乗るやつは絶対にバカだ。相手の気持ちが見えてないからだよ。自分の言葉を、相手がどう思うか想像できないんだ」
太一の怒りは、なかなか鎮まらなかった。樺島さんたちには、正直言って迷惑だった。