ロボットはキャラクター? それとも舞台装置?
ロボットとは、一個のキャラクターなのか? それとも、演出上の舞台装置なのだろうか?
いきなり(あくまでも個人的な意見として)結論を述べると、どちらも正解なのだろう。
ここで言うロボットとは、お祖父ちゃんが残してくれたスーパーなロボットだったり、戦争の道具である人型機動兵器、または丸っこいデザインをした家庭用の子守ロボット、はたまた意思を持った変形する金属生命体と、幅広いロボットを想定している。
ロボットという言葉は……ここで改めて説明はしない。(だって本筋から外れそうだし)ひとまず、ロボットが登場する作品における、ロボットの立ち位置について考察してみようと思う。主に、ロボットとはキャラクターなのか、舞台装置なのかについてだ。
まずはそれぞれの定義について考えてみよう。
・キャラクター
・舞台装置
この2つがおよそロボットというものに当てはまると考えられる。それではまずキャラクターから。
・キャラクター
キャラクターとは、もともとギリシャ語の『彫る』という言葉から来ているそうだ。「印刻」「印象」といった意味から「表徴」「記号」という意味になり、次第に「性質」や「性格」、「個性」「人格」といった意味を持つようになった。そして現代では「他とは区別される性質や個性。あるいはそれを見た目であらわすもの」という意味で使われている。
つまり、キャラクターとは実在・非実在を問わず、名前や特徴を言えば「ああ、あれか」と多くの人がその顔や名前、性格を思い浮かべるものであると言える。
多くのフィクションにおいて、キャラクターの占める重要度は高い。世界観設定、キャラクター、シナリオの3つでほぼ構成されている(ゲームや映像作品だとこれに音楽などが追加)が、おおよそキャラクターの練り込みの度合いがその作品が面白いかどうかに直結するまである。
なぜなら、人は人を認識するから。ただの点∵が人の顔に見えるというアレ。そして人は人の感情に揺さぶられ、それを物語の中に求める。記号的な人間よりも、人間らしい人間の方が好まれるのは実生活においても当てはまる。
さて、ここで本題に戻る。ロボットはキャラクターなのか? 某大手ホビー会社のホームページを覗いてみると、トップバナーにキャラクターの文字が。そこをクリックすると、様々な人気キャラクターが並んでおり、その中にはロボットのシリーズものも含まれている。一般人的な感覚からすれば、ロボットはキャラクター商品の一つなのだろう。
では、作品を構成する要素として考えればどうか。例えば、人が乗り込んで操縦するタイプのロボット。多くの場合、この手のロボットは自我がなく、殆どが兵器であったり工業製品的な側面を有している。これでは流石に「人間らしい」キャラクターとは言いにくい。
しかし、自我を有したロボットはどうか。某国民的猫型ロボットや赤いポンコツお手伝いロボット、自分はロボットではなくアンドロイドだと主張するR。これらは他の登場人物と会話し、生活をし、その世界で暮らしている。こうなれば例え機械仕掛けの身体だとしても、人間と変わらない存在としてキャラクターといえるだろう。
これらは人間大の大きさだが、車や戦闘機に変形するタイプの全長数メートルクラスもあるロボットもキャラクター性は付与されている。金属生命体という設定から、個々人で性格も思考も違い、その仕草や言動はひどく人間臭い。彼らも立派なキャラクターだ。
ここで変化球的な存在として、物理的な身体や躯体を持たず、コンピューター上のみで活動するAIはどうだろうか。ひどく無機質な性格から人間のような反応をするものと、その幅はかなり広い。しかし、例えプログラムの集合体であっても人間と同じように会話をし、思考するAIは一人のキャラクターとして認知される場合が殆どである。
これらを踏まえると、キャラクターとしてのロボットは個性や特徴よりも、性格や人格に重きを置いた存在だと考えることができる。一個の人格を有した存在、語弊を承知で言えば人権を持った存在を指すといえる。つまり、作品の重要度で言えば人間と同格の存在なのだ。
・舞台装置
次は舞台装置。本来の舞台装置とは読んで字の如く、舞台演劇などに使われる大道具などを指す。それが転じて、小説などでは描写の背景や建物、あるいはキャラクターが暮らす共同体や国、時代設定と多岐にわたる。
舞台に備え付けられた装置なのであるから、それそのものにスポットライト(これも本来は舞台装置の一つ)が当たることは殆ど無い。あくまで主役はキャラクターだ。これは本来の舞台演劇でもそう。
舞台装置の役割は、「シナリオ」と「キャラクター」と相互に影響しあい、その視覚的情報を作り出し「場」を創り出す事にある。例えば「今、主人公は学校にいる」とするならば、学校の校舎や教室が舞台装置となり、だだっ広いグラウンド、机が並ぶ教室、静まり返った体育館、これだけでも学校という場という舞台装置がイメージ出来るはず。
舞台装置はあくまで場を形作るものであり、舞台装置そのものがシナリオを回す事はない。なぜならば、舞台装置には前述のようなキャラクター性が無く、それ故に物語が動く事が無いからだ。
そしてそれはパイロットが搭乗するタイプのロボットにも当てはまる。こういうロボットは思考や行動がパイロット本人の物によるものであり、ロボットが自発的に何かをする訳ではない。そういう意味ではキャラクター性のない舞台装置の一つと言える。
さらに言えば、搭乗するタイプのロボットはキャラクターが乗って戦闘をするという場を演出する為の大道具とも言える。ファンタジー世界の勇者が装備する伝説の武具と同じ扱いだ。いくら緻密な設定があったとしても、それらはあくまで剣と鎧であり、キャラクターではない。つまり、キャラクターと同格の存在とは言えないだろう。
2つの要素から、ロボットという存在について考えてみた。その結果が冒頭でも示したように、キャラクターでもあり、舞台装置でもあるという結論だ。
しかし実際のところ、例え人格や自我を持たない搭乗型ロボットを指して、それはキャラクターだと言う人はかなり多い。それはまぁそうだろう。アニメ作品のメインビジュアルでは主人公よりも大きく前方に描かれていたりもするし、タイトルは主人公機から取られたりする場合も非常に多い。
が、それは視聴者・読者視点だからであろう。受け手からすればパイロットとロボットの境界は曖昧なものであり、日本人的な感覚からすれば、ロボットに乗り込むというのは機体と融合・一体化するのと同義だからだ。
しかし、作り手側はそうはいかない。創作者が考える事は如何にしてキャラクターがシナリオを回し、世界観設定がリアリティを生むかについて心血が注がれる。作品の面白さとは、魅力的なキャラクターが縦横無尽に動き回る世界観と物語で構成されると私は考えている。
そこを踏まえ、私個人は自作で取り扱う搭乗型ロボットは舞台装置の一つとして考えており、そこにキャラクター性は付加しない。あくまでパイロットありき、なのだ。
ここまで読んで、人によっては違う意見、これはこうだと反論のある創作者もいる事だろう。それはとても結構な事で、全ての創作者が同じ考え方をする必要も義務もないし、各人で好きにするべきなのである。
重要なのは、これを読んで自分の考えを今一度再確認する事であり、それによって創作への糧とする事だ。
小難しい理論は無視して自分の書きたいように書いても良いし、プロットや演出の技法を駆使しても良い。物言わぬロボットにキャラクター性を付加しても良い。その辺りは自由なのだから。
それでは、最後に。
みんなロボット小説書こうぜ!!!!!!
作者の意見・考えを纏めてみました。こういうのは正解が無い問いでもあるので、改めてご自身の意見を考えてみるのはいかがでしょう。
このコラムは次の書籍を参考にさせて頂きました。
・小池一夫のキャラクター新論 ~ソーシャルメディアが動かすキャラクターの力(ゴマブックス株式会社)
著者:小池一夫