夢の中で走っていた人だろ
あたしが大好きだった先輩。
「短距離走はシンプルで好き。だって、一番早くゴールについた人が一番なんでしょ?」
「何ですか、それ」
くすくす笑うと軽く睨み付けられた。小柄な先輩は180近いあたしから見ると40cmも低くて、横に座っていても結構目線の高さが違う。
「サッカーとか、野球とか。球技はルールが難しいし覚えられない」
そうかなあ?と首を傾げた顎と頬を掴んで、先輩は身体に見合わない強い力で抱き寄せた。彼女は睫毛が長いし、唇もつやつやしていて綺麗だ。
飛び起きた布団のうえで、大きく溜息をついた。途中までは事実だが、最後は願望だ。想いを何も告げられないまま先輩は卒業してしまった。遠くの大学で陸上をやっている先輩とは今でもメッセージアプリでやり取りはしているけど、しばらく顔を見ていない。高校生のあたしには会いに行くお金も無い。保育園から高校まで同じで、毎日顔を見ていたのに。都会に出てしまった先輩は多分向こうで就職してきっとこのまま思い出になってしまうのだろう。そう思うともう一つ溜息が出た。
ようやく殺人的な日光が緩んだグラウンドで、タオルと水を投げてやった後輩が小生意気そうなつり目にそぐわなくなるほどの弾けるような笑顔をあたしに向けた。ごくごくと水を飲むと喉が小さく動き、あわせてちょっと茶色がかった長いポニーテールが小さく揺れた。手元のストップウォッチを見ると、また自己新記録だ。高校に入るまで陸上未経験だったのにタイムはぐんぐん縮んでいる。
「先輩は、何で陸上やってるんすか」
こいつはあたしなんかより遙かに才能がある。あたしの方がまだ早いのは経験の差でしかない。もっとも、嫌味で言ったわけではなさそうだ。なぜだか知らないが、尻尾があればぶんぶん振っているだろうくらいには面倒臭いあたしに懐いているこの子の問いは、純粋に疑問のものだろう。
「好きな女がいたんだよねえ」
「えっ女!?まじっすか!?」
女子陸上部だから珍しくもないだろうと思うのだが、そんなに驚くことだったろうか。まじっす、と真似して笑うと頬を膨らませた後輩が身をすり寄せた。暑いよと顔を顰めるのにも構わず目を伏せたこいつはささやき声で尋ねた。何ていうか、こいつは美人な方だな。
「どんな人だったんすか」
「あたしより背が低くて、穏やかで落ち着いた人でちっこくて可愛い小動物みたいな感じ」
スマフォのロック画面で肩を組んでいる先輩とあたしの写真を見せてやった。ショートカットで垂れ目のあの人は、笑顔がなんだか困ったように見えるのを嫌がっていたけれども。なぜか写真を見て呻く後輩の肩を叩いて立ち上がった。
「走り込みもうちょっとするけど、どうする?」
「付き合うっす!」
何だか一気に機嫌が悪くなった気がしたけど、どうしたんだろう。面倒見が良い方とは言えない自分からすると初めて出来た慕ってくれる後輩だから大事にしたいけど、何が悪かったのか全然わからない。誘ったらついてきてくる辺り、可愛らしいもんだし嬉しいとは思うのだけど。
「先輩、終わったらどっか行きません……すか?」
無理して体育会系みたいなしゃべり方しなくてもいいのにな、とこいつと顔を合わせる度に毎日思うのだけれども、本人が無理してないならいいか。
「金ねンだわ、なんだよねえ」
「コンビニでいっすよ」
うんうん、と頷いてから準備出来たこの子と一緒に走り出した。西の空には血みたいに赤い夕焼けが綺麗だ。外周三周、と呟くとまた嫌そうな顔をしたので小さく笑ってしまった。
家は神社の社務所を兼ねている。ご神木に留まった蝉が夜なのにやかましく鳴いていて元気だなと思う。ただいま、とがらがらうるさいガラス戸を開けて声を掛けるが、誰も返事が無い。見覚えの無い靴があるから、誰か来ているのだろうか。シャワーは学校で浴びてきたとはいえ、帰ってくるまでにまたちょっとじっとり汗をかいてしまったから、早く浴びたいなんて思いながら客間兼広間を通りがかりに見ると、両親が神妙な顔で見知らぬスーツの男性二人と向き合って座っていた。まだ十九時とはいえ、こんな時間にお客さんなんて珍しいな。逆側の居間の襖も開きっぱなしで、テレビが今朝からの立てこもり犯のニュースを流していた。テレビつけっぱなしじゃん、と思いつつ通り過ぎようとすると、母さんが目を向けて口を開いた。
「こっちに座りなさい」
え、お客さんいるけどいいの?と目で訴えるが、構わず言葉を繰り返した。鞄をとりあえず客間逆側のリビングに放り出して、母さんの隣に座った。雰囲気が妙に重苦しくて、両親の顔を見るが何も言わずに押し黙っている。別に悪い事をした覚えも無いし、お客さんには見覚えが無い。
「初めまして。私達は警察のものです」
「あっ、はい。はじめまして」
警察の人って名刺くれるんだ。名刺なんて初めてもらったな。警察っていうと、やっぱり何か悪い事をしたんだろうか。父さんも母さんもそんなタイプじゃないし、あたしかな。でも身に覚えが無い。そういえば自分の自転車の鍵を出先でなくして、しょうがないから蹴り壊して乗って帰ってきたけど、それが通報されたとか。困ったな。自分の自転車なんだけどどうやって証明したらいいんだろう。
「どうしてうちの娘なんですか」
父さんが絞り出すように声を出す。こんな声、あたしが子供の時にドブ川で流れて来たゴミ箱に飛び乗って溺れかけた時以来久々に聞いた気がする。母さんが呻くように声を上げて泣き出した。
警察の人曰く、先輩が立てこもり犯に捕まって、交渉のメッセンジャーにあたしが指名されてるらしい。あんまりに現実感がなさ過ぎて、我ながら間抜けな仕草で向こうのテレビを指さして尋ねた。警察の人二人が頷く。頷く速度が同じで、顔はまるで似てないし名字も違うのにまるで双子みたいだななんておかしくなった。
「犯人は薬物を摂取していて、しかも銃を持っています。『早く走って来る女なら撃たないが、そうでないと撃つ』と言っています。極めて危険ですので、無理にとは」
「やります」
警察の人の言葉を遮って頷いた。母さんが泣きながら抱きついてきた。父さんまで聞いたことの無いような呻き声をあげて、小さく笑ってしまった。
朝焼けも血みたいな色で、都会の昼は雨なのかもしれない。早朝の空気が気持ちいい。
一回だけ出たインターハイ県予選でもこんなになかったなってくらいのカメラとマイクの囲みの向こうに、先輩がいる汚いアパートがある。都会にもこんな汚いアパートがあるんだなってぼんやり眺めてるのを気遣うように警察の人が色々説明してくれた。要約すると早く走ってゴールについて、渡されたメモをドアの郵便受けに入れるだけ。うん、簡単だ。
「先輩、短距離走ってシンプルだね」
スタートの体勢を機動隊の人の盾の後ろで取って、一人で笑う。彼女と遊びに行ったとき可愛いって褒めてくれた一番のお気に入りの服と、一番早く走れる靴。服と靴の色が合ってないけど、しょうがないよね。この盾が上げられたらスタートだ。心配させたくないから内緒で出てきた後輩の顔がふと思い浮かんだ。自己新更新するからね、と内心呟いて前を見上げた。
今日見た夢を小説にしました。もっと自由な感じだったのですが表現が難しいです。