ある朝の悪夢
ぐちゃ。
生々しい音が耳朶を叩く。そこは光一つもない暗黒の世界。そこに一つの記憶が頭をよぎった。
一人の少女が魔族に殺される記憶。その映像がただ延々と、ジンの頭の中で繰り返される。ジンは、その暗黒の世界で眺めることしかできない。
「クラリアッ!」
ジンは喉が張り裂けそうなほどの大声で少女の名を呼び、手を伸ばした。しかし、ジンの腕はクラリアの身体をすり抜ける。
「ジン、私はあなたのことがーー」
悲しげな、今にも泣きそうな表情を浮かべていた。少女の台詞ともに世界に光が差し込んでーー。
カーテンから僅かに差し込む朝日の眩しさにジンは目を覚ます。身体からは嫌な汗が流れており、それを拭った。
久々に見た悪夢。一生、治ることのない心の『傷』。この悪夢を見るたびに、涙が溢れて仕方がない。胸が張り裂けそうな思いに必死に耐える。
雲一つない天気とは対照的に、ジン・クルシュガーツの朝の始まりは、最悪なスタートだった。
* * * * * * * * * * * * * * * * * *
心臓の鼓動が早くなっている。一度大きく息を吸って吐き、心を落ち着かせる。
ーーあれは、夢だ。そう分かっていても、頭にはさっきの映像が、頭にこびりつき、決して離れようとはしない。
「……大丈夫。もう、あの時の俺じゃない」
二年前、クラリアを失って、ただ泣くことしか出来なかった俺ではない。それに、今は守るものができたのだ。失ったら、今度こそ俺は俺でいられなくなる。重い腰を上げて、自室を出る。
リビングへと向かうが、天音の姿はない。
時計を見ると、時刻は朝の七時半。天音はどんな時でも、六時に起床しているのでこの時間になって寝ているというのは考えにくい。
テーブルに視線を移すと、置き手紙があった。
ーージンさんへ。
私は、いつもの湖のところにいます。
朝食はキッチンの所に置いてあるので、好きな時に食べてください。
可愛らしい丸文字で書かれていた。キッチンに向かうと、そこには食べやすいサイズに切られていたサンドイッチが置かれていた。天音がこの世界に来た時に、作ってやったサンドイッチだ。この味が気に入った天音に作り方を聞かれ教えてやったのだ。
前世では全く料理をしてこなかったという天音だが、飲み込みが早いのか、メキメキと料理の腕を上げ、今では天音がキッチンの主となっている。
「美味い」
俺は卵サンドを口にする。口の中で一瞬で溶けていくかのような味わいだ。完全に料理の腕は抜かされたなと苦笑する。サンドイッチを全て平げた後、俺は寝衣から私服に着替えてある場所へと向かった。
カジル村から少し離れた所に位置する広大な湖だ。湖の周りは木々に囲まれているが、不気味さは全くない。そこには、上下藍色の簡易的な服装に身を包んだ黒髪の少女が立っていた。
「≪メラ・レイズ≫!」
掌を前に掲げてると、そこから三つの小さな紅炎が出現する。その炎は今にも消えかかりそうな弱々しい炎だった。天音の視線の先には、天音と同じくらいの大きさの岩石が転がっており、それに焦点を合わせる。
「ふっ!」
そう声をあげると共に、天音は≪メラ・レイズ≫を放つ。三つの紅炎は岩石に向け、真っ直ぐ飛んでいく。しかし、どんどん失速していき岩石に届く前に広大な湖によって鎮火させられた。
「もー。なんで上手くいかないのー!」
そう文句を言って、天音は大の字に寝そべった。天音が寝そべる芝生は、普段から手入れされているのかと思うほどに整えられている。
一度横になったら最後、温かな太陽に当てられて居眠りをしてしまうかもしれない。
「天音」
「ジ、ジンさん!いつから!」
寝そべっていた天音が慌てて立ち上がり、驚きの表情を浮かべて、声を荒げた。
「≪メラ・レイズ≫を発動したところから」
「ーー」
かぁっと顔を真っ赤にして、天音は俺から顔を逸らす。そして、両手で顔を覆って首を横に振った。恥ずかしい姿を見られたのが、よっぽど嫌だったんだろう。おそるおそる両手を顔から外し、俺に尋ねてくる。顔はトマトみたいに真っ赤にしていた。
迷宮で、ナーシャから力を授かり一週間。天音は全属性の精霊と干渉できる精霊術師となった。だが、まともに扱えるレベルではない。さっきの≪メラ・レイズ≫がいい例だ。
≪メラ・レイズ≫は、炎の精霊メラの初球魔法。つまり、この魔法を使いこなせるようにならないと、話にならないのだ。他の精霊魔法も同様。何故か、命の精霊ライの回復魔法は完璧にできるようで。
ナーシャが言うには、ライを扱える精霊術師は、精霊界にもそんな多くないという。天音はそのライの精霊に特化していると言うのだからナーシャは天音に興味を持ったのだろう。
「でも、私ももっと強くなりたいんです!皆を守れるように、助けられるようになりたいんです!」
服についた芝生の草を手で払い、目をキラキラとさせて俺に噛み付いてきそうな勢いで迫ってくる。
そんな天音の姿を見て、本当に強くなったんだなと感心する。それと同時に、
「天音、俺は強いか?」
「え?」
「いや、変なことを聞いてすまない」
急な問いかけに天音は困惑の表情を見せる。
天音は己の傷と向き合い、前を向いた。だからこそ、今の天音は俺にとって眩しく見えてしまうのだ。二年前の過去を引きずっている俺とは違う。
「ジンさんは充分強いです。私やアテン君を助けてくれたじゃないですか」
天音は汚れのない純粋な笑顔を浮かべた。その言葉を聞いて、ほんの少しだが救われたような気がした。
「そうか」
「ジンさん?何かありました」
「なんでもない。天音が気に止むほどでもないさ」
「何かあったら私に言ってください。力不足かも知らないですけど、それでも私はーー」
表情に出したつもりもないんだが、女の勘というやつか。今後、天音に隠し事ができるか不安だな。
俺は天音の頭に手を置く。
「俺の事を心配してくれてるのか。ありがとう。本当に何もない。だから天音は精霊魔法を使いこなせるように練習することだ」
「分かりました!」
そう言って、天音は再び湖の方へと振り返り、精霊魔法の練習を行う。俺と天音の距離は5メートルもないはずなのに、何故だろう。俺の目には、天音が物凄く遠くにいる光のように感じた。




