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マグノリア  作者: 吉希
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おやすみイマジナリー

 千田が住むアパートの前を通った。あれからずっと気まずくて、一度も高台には行っていない。偶然家の前を通りかかったなんていうのは嘘で、本当は千田を見かけたら映画に誘おうと考えていた。彼の好きなアクション映画の公開日が迫っている。以前から千田は最新作を心待ちにしているようだった。

 別に喧嘩をしたわけでもないけれど、冷たいことを言ってしまった分は千田との関係を取り戻したかった。

 しかし、そんな都合の良い期待はすぐに打ち砕かれる。千田が大事にしていたベランダの鉢植えが無い。僕はその時点で、もう何もかも取返しがつかないような気がしていた。


 見知ったアパートの一室には、既に違う人が住んでいた。知らない大人が、通い慣れた部屋に入っていくのを見た。僕らだけの秘密基地に、当たり前のような顔をして見知らぬ誰かが住んでいる。虚構と現実の間で僕は眩暈を起こした。

 普通の大人なら、引っ越すことぐらいあるのだろう。むしろ今まで変わらず住んでいたのが長すぎたくらいだ。なんらおかしいことはない。それを顔見知りの子供に伝える義理なんて無くて当然だ。映画好きの宇宙人なんて、この世界には存在しないのだから。そう自分に言い聞かせることでどうにか立っていられた。

 彼について、僕が知っていることはあまりにも少なかった。連絡先も、勤め先も、出身も、詳しい事は何も知らない。そういうものを必要としなくても、会って話すことが当たり前だった。もう千田はここにはいない。あの時のことがきっかけになった、なんて考えるのは流石に傲慢だろう。幼い頃の幻想が本来の形に正されただけなのだ。

 僕は逃げてきたのだろうか。勉強のことも、将来のことも、考えたくなくてここに来ただけじゃないのか。普段よりも遠回りの帰り道を足早に行く。もうきっとこの道を通ることもないのだろう。


 明かりのついていないリビングを見ても、今では何の感情も湧いてこない。両親は僕が幼いころよりも忙しくなった。それを寂しいと思えるほど、もう子供ではない。静まり返った部屋でテレビだけが喋りだす。見たいものがあるわけでもないけれど、静かすぎる部屋にはそのほうが良かった。夕方のニュースを聞き流しながら参考書を捲る。形だけでも何かしていないと千田のことを考えてしまいそうだった。

 ふと、画面の中の”謎の物体が飛来か”という見出しが目に入った。テレビに視線を定めると、住宅地でゼリー状の物体が次々と発見されたという話題を取り上げていた。庭先や畑、学校のグラウンド。あるいは屋根の上で見つかったゼリーのような透明の物体。原因は明らかになっていないらしい。空から降ってきたのでは、とインタビューに答える住人。

 そんなことがあるものか。僕は心の中で思う。何かしらの自然現象か、そうでなければ誰かの悪戯だ。もうこんなニュースで胸を高鳴らせることはなかった。

 空から降る大量の魚、赤い雨、奇妙な隕石。世界中の事例を取り上げ、まだまだ世の中には不思議な事があるものですね、とキャスターが言う。


「宇宙人の仕業かもしれませんね」


 その一言に胸の奥が苦しくなった。かつてはこんな話題に胸を躍らせていたのだろう。テレビの電源を消すと室内に静寂が下りる。無性に耐え切れなくなって、気づけば外に飛び出していた。今度こそ、逃げ出したかったのかもしれない。


 宇宙人なんているわけがない。それなら、僕の孤独を今まで埋めてくれたものの正体は一体何だ。教えて欲しい。どうして今まで傍にいてくれたのか、もう二度と会えないのか。

 高台までの階段を上りながら、千田と最後にした会話を思い出していた。この先にある高台のベンチに座って目を閉じ、いつものように交信とやらをしていた。それから僕に嘘みたいな宇宙の話をして聞かせてくれる。でも、あの時は少しだけ何かが違っていた。彼にしては珍しく、やけに物々しい話だったのだ。僕はそれを気にも留めなかった。確か“傍受した”と言った。作戦を立てよう、侵略者を迎え撃つ為に。間違いなく、そう言ったのだ。何の意味があったのだろう。僕を喜ばせる為か、あるいは。馬鹿げた想像を振り払う。


 見覚えのある靴が一足だけ落ちている。それから、雨も降っていないのに地面が濡れていた。

 何をこんなに動揺しているのだろう。どうしてこんなに胸がざわめく。得体の知れない、悪い予感がして仕方なかった。先にもう片方の靴があるのが見える。息を殺して進む。これとよく似た光景を知っていた。かつての少年は植え込みの奥を覗き込む。そこにいるのは今も昔も変わらず、彼ただ一人だ。


「千、田…?」


 茂みに身を隠すように倒れている千田。彼の髪や服は大雨にでも降られたように濡れていた。初めて彼と出会ったときもと同じだ。いつの間にか、僕はそんなことも忘れてしまっていた。

 本当は、説明のつかないことなんていくらでもあった。何故、彼はこんな異様な出で立ちをしていたのか。どうして僕らの秘密は誰にもばれなかったのか。どうして、この瞬間に千田は倒れているのか。理解を超える出来事を、僕の頭は無意識に退屈な真実へと修正していた。しかし、今はそれができない。

 千田の腰から下が無い。倒れているのではなく、元より起き上がることが不可能なのだ。その姿に息を呑む。悲鳴を上げることすらできない。まるで溶けてしまったかのように千田の半身は存在しなかった。あり得ない程の大怪我のはずなのに、血は一滴も見当たらない。彼が人間ではないという事実を突きつける。


「めぐる」


 何かを確かめるように千田は呼んだ。その淡々とした言い方が、今は何よりも僕を安心させた。凄惨な見た目とは裏腹に千田はいつもと何も変わらない。


「巡、大丈夫だ。彼らは私が追い返した」

「どこに行ってたんだよ、どうして、こんな…」


 千田はゆっくりと上を指差す。それは空よりずっと高い所を指していた。


「本当に、宇宙人だなんて」

「巡が見破ったんじゃないか」


 千田の目が僅かに細められる。まるで微笑んでいるようだった。彼が人らしく笑うところはあまり見たことがない。


「怪我してるの…?」


 恐る恐る、その不可思議な体を見る。千田の腰の辺り、無くなってしまった体との境目は崩れたゼリーのようになっている。やはり夕方のニュースには彼が関わっていたようだ。自分の体を上空から散り散りに落としてきてしまったのだろうか。


「消耗しすぎてしまったようだ。やはり、私には巡の教えが必要らしい」


 彼の身に起こった出来事は想像もつかない。僕があの時ちゃんと話を聞いていれば千田はこんな目に遭わなかったかもしれない。


「僕が何を教えるっていうんだよ。あんなに酷いこと言ったのに…」


 何もかも、でたらめにしてしまった。千田のことも、全部。そのほうが生きていく上でずっと楽だったから。都合のいいところだけ忘れて、つまらない現実に作り替えて。


「巡が間違えた事など一度もない。いつも私を正しく導いてくれる」


 千田は僕を信じて疑わなかった。


「子供の言ったことをいつまでも真に受けてるなんて、どうかしてる」

「こども、じゃなくて、巡の言ったことだ」


 宇宙人からすれば、人類の大人か子供かどうかの違いは微々たるものらしい。言動に伴う責任も、何もかもが違うことを千田は知らない。

 なんて間抜けな侵略者だろう。たった一人の子供に言い包められて十年もいいように使われてしまうなどあっていいのか。


「征服とか侵略とか、僕はもうずっとそんなこと考えてないんだよ。千田と遊んでいるだけで良かった。だから簡単に信じないで、僕は約束を破ってる」


 自分だけ良い思いをして、千田を記憶の中に置き去りにしようとした。

 ああ、と千田は声を上げる。


「そうか。巡は、この星に不満がないのか」


 千田は一人、納得したように言う。その事実が彼にとってどういう意味を持つのか、僕にはわからない。失望しただろうか。それきり千田は一言も喋らなかった。


「千田、体が…」


 明らかに発見したときよりも崩壊が進んでいた。ゼリー状の部分は胸にまで及び、濡れた指先はふやけて水を吸ったようになっている。状態は明らかに悪化している。訳も分からず縋るようにとった手は、残酷にもほろほろと崩れてしまった。悲鳴を上げる。これは得体の知れないものへの恐怖ではない。僕が感じているのは紛れもなく、死に対する恐ろしさだ。


「嫌だよ…千田、一人にしないで」


 千田が残ったほうの手で頬に触れる。親指が確かめるように下唇をなぞった。彼の口が微かに動く。その声があまりに微かで、僕は慌てて耳を傾ける。身を起こした千田の顔が近づき、やがて唇が重なった。その形がキスに酷似していることに気づくまで、初心な僕は時間を要した。千田はこれの意味を知っているのだろうか。映画のワンシーンを真似たつもりかもしれない。本質的な意味はきっとわかっていないだろう。僕にだってまだわからない。千田の目は瞬きひとつしないでこちらを見ていた。その真っ直ぐな視線に思わず目を瞑る。唇の神経に意識が集中すると湿った感触に変わっていった。僕ははっとして目を開く。そこには先程までの彼のガラスのような瞳は無い。唇に残った一滴が顎をつたって地面に落ちた。脆く崩れるゼリー状の塊の中に人間の形はどこにも残っていなかった。千田だったものを必死で掻き集めながら、待ってくれと僕は叫ぶ。まだ千田の話をちゃんと聞いていない。約束を破った僕を、怒っているのかどうかも教えてくれていないのに。どれだけ両手で掬っても、水を含んだ透明な塊は崩れ落ちるばかりだった。やがて地面に浸み込んで消えてしまう。

 千田が着ていた服も、落ちていた靴も見当たらない。彼の存在を裏付けるものは何も残らなかった。不自然にぬかるんだ地面と、泥だらけの僕の両手だけが虚しかった。


 そこからどうやって家に帰って、日常に戻ったのかわからない。ただ、ずっと夢を見ているように頭がぼんやりとしていて、自分の身に起こったことが全て幻想だったような気がしていた。

 千田はもう僕の記憶の中にしか存在しない。僕はいつか千田を忘れるのだろうか。想像すると恐ろしくて仕方なかった。自分が自分でなくなってしまうような不安が僕を襲う。そんな不安で張り裂けそうな夜には、自分の肩を抱きしめる。それだけで何故だか心が安らいだ。そういうときには決まって夢を見る。高台の公園に二人でポップコーンの種を撒く。暖かくなったら芽を出すだろうと、千田は無表情な顔で喜んでいる。優しい夢の終わりに、彼は必ず僕におやすみを言った。

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