兄妹
「名前は分かるか?」
目覚めたイリイチに向かって医者は話しかける。返答は来ない。黙って1点のみを見つめている。
「…どうも言語能力が弱くなっている。自分の名前も言えないとは。」
ため息をつくしかなかった。もし本当に記憶が弱くなっているなら、彼は間違いなく消される。雑作もなく。
「イリーナと会わせてみて、それでも反応がなければ本当にイリイチは終わりだ。学園が事態に気がつくのも時間の問題。さて、第六感の果てがこのザマなのか確認しようか。」
イリーナには今すぐ来るように連絡してある。東京の情報によると彼とイリーナは異父同母の兄妹だ。血の繋がりは彼の家族の中で一番濃い。
やつれたようなイリーナがやってきた。シックス・センスという唯一無二の力を持つ2人の世界は人間の哲学では思いもよらない。
「…イリイチ!」
少しイリイチは反応したように見えた。だが日本語を理解していない様子だ。
「ロシア語、要は母国語で話しかけてみな。」
ロシア語なら少しは理解出来るかもしれない。イリーナもその意味を汲み取ったのか流暢なロシア語でイリイチに呼びかける。それにイリイチはようやく反応した。
「…そうだな。俺はイリイチだ。お前は誰だ?他人な気がしない。」
自分の名前は覚えている。言語は日本語は話せないがぎこちないロシア語は話せる。そして周りの人間のことを覚えていない様子だ。
イリーナは少し戸惑ったような顔つきになる。ここで妹と言えればどれほど楽か。躊躇を続ける。
「…いっそのこと、妹と言ったらどうだ。」
医者の後押しもあり、事実とは少しズレた事実を言うことにした。
「私はイリーナ。あなたの妹。」
「…!そうか。イリーナか。昔そんな娘がいた気がしたが、まさか妹だとはな。長い夢から目覚めた気分だ。」
娘。イリイチの左手の薬指には結婚指輪らしきものが光っていた。少なくとも日本に来てからはずっと付けていた。なんとも感傷的な顔つきになったイリイチは次々に疑問を投げかける。
「イリーナ。色々と聞きたいことがある。まず、ここはどこだ。俺の予想だと日本のようだが。そして、なんで俺は記憶障害になったんだ。肝心なことを幾つか忘れたような気がする。」
イリーナは医者たちと目を合わせる。ある程度の所は教えて、危険な所はぼかすという意味合いのアイコンタクトを渡す。
「うん、ここは日本だよ。そして…。」
言葉を選ぶのを迷った隙に、日本人の友人は昏睡状態の友人を見舞うために入ってきた。部屋の異常な空気を見て、何かを察した様子だ。
「言語能力が低下している。日本語は話せないし通じない。何処まで記憶がおかしくなっているかは手探り状態だ。」
医者はわざわざ外に出て大智に現状を知らせる。会長代理の彼にはこの情報を黙っていても勝手に知ってしまうだろう。彼の良心に賭けるしかない。
「生徒会には入院していて面談不可能と伝えてある。今彼の惨状を知っているのは、我々とイリーナと君だけだ。」
「想像以上ですな。記憶が戻る可能性はどれぐらいで?」
「第六感が再び作動したら確実に戻るだろう。彼はあらゆる能力を第六感に頼り切っているフシがある。左脳で演算することはな。今は大幅に弱まっているからあの状態なんだ。」
大智は彼のことを信じているが、同時に彼のことを守りきる自信もない。
「シックス・センスの復活がなければあいつは大量の復讐に襲われて、殺されて、バラされる。学園そのものも、東京も、ロシアも、その他も。今まで散々やっといて能力が使用不能だからはいそうですかと帰る連中でもない。間違いなく惨殺される。…生徒会にも伝えない方が良さそうですな。信頼に値する生徒は少ない。取り敢えずはイリーナと話させてシックス・センスを取り戻すために四苦八苦して貰ったほうが都合がいい。」
イリイチの苦難は今に始まったことではない。金で動く殺し屋として復讐と政府に追われて、日本にきて学園に入っても様々な問題の中心にいた。それでも彼がもつシックス・センスによって彼自身は護られていた。
「人工知能を脳にぶち込もうとする医者もいる。それをやられれば彼は一生学園の犬だ。」
イリイチとイリーナは互いに憑き物が晴れたかのような柔らかい表情で話していた。2人とも境遇という絶望が共通点としてある。記憶回路がおかしくなったというのは、彼の性格が一時的にリセットされたという事だ。それが例え1ヶ月もすれば破綻するものであれ、今この時だけはイリイチの笑顔は晴れやかだった。




