欠陥クラス―1
「失礼しやっす」
職員室の扉を開ける。開けた窓からの風に、古ぼけた紙の匂いとそれに混じる淡いコーヒーの香りが漂い、自分の鼻に吸い込まれた。室内に詰め込まれた事務机の前にまばらに座る教師陣。学校内で大人の集うこの職員室が異質な空間だと俺は思う。
え〜、阪無とやらの席は……。
並べられた事務机の端。廊下側の席に俺を呼び出した阪無教諭がいた。俺が入ってきた入り口とは逆だったようだ。位置を確認し、阪無に向かって室内を見渡しながら歩いた。
「はよっす」
「あ、来た来た。始業式の日から朝早くに悪いわね」
俺の気の抜けた挨拶に笑顔で応えた阪無。まだ若い女性教師でレディーススーツを身に纏い、少々OLっぽさのある服装だ。ウェーブのかかった茶髪は大人っぽく学校の生徒にはない色気を感じる。
「ほんとっすね。これっきりにしてもらいたいもんすよ」
「えらくはっきりと言うわね? でもま、こんな朝早くに呼んだのも君が問題起こしちゃうからだよ? 黒屋星治君」
「はぁ……そっすか」
指をさされて注意され、俺はつい癖で頭を掻いた。
問題を起こした……というより、一方的に襲われただけだと自分では思っているのだが。
「不良グループに絡まれて喧嘩に発展。警察が駆けつけた時には君が不良たちを撃退していたって話だけど、ホントなの?」
「別に喧嘩っつーか、ただ俺が一方的に殴られただけで」
不良に絡まれたのは事実だった。空っぽの頭で街の路地裏をぶらついていたところ、不良三人組がたむろしており、モクモクと口から煙を吹かしていた。そんな連中を見かけたのはもう運が悪かったとしか言いようがない。
不良たちとバッチリ目が合ってしまい、俺が見て見ぬ振りをする暇もなく周囲を囲まれてしまった。俺は戦意なんて全くなかったし、向こうが一切手を出してこなければ暴力沙汰なんて起こらなかっただろう。
俺を敵視した不良共の一人が「その舐め腐った顔が気に入らねぇなぁ」と言って殴り掛かってきた。俺は拳を避け、防ぎ、耐え凌いだ。他の二人が加わってきた時はさすがにまずいと感じたものの、その二人はすぐにへばってしまい地に伏した。最後の一人も粘ってはいたが結局大袈裟に倒れ、三人供地面に倒れ込んだ時、タイミング悪く誰かに呼ばれた警官に見つかった――という説明を阪無にした。
「まあ、君が被害を受けたのはその顔を見ればわかるけどね」
絆創膏の張ってある俺の顔を見て阪無は苦笑いを浮かべた。何発かもらった拳の痛みはまだ顔中に残っている。
「でも君が何もしていなくても、その現場にいた事実が問題なのよ? それはわかってる?」
「逃げるのは癪だったんで」
「ふーん。なんか変なプライドをぶら下げてるわけだ」
「そっすね」
プライドなんてそんな大層なものでもない。
ただ目の前に立ちはだかるものに対して、背を向けるのは嫌だった――それだけだ。
脚と腕を組み俺の話を聞いていた阪無は、机の上にある湯気の揺蕩うコーヒーをひと啜りすると、「ふぅ」と一つ息を吐いてから、俺を睨みつけた。
「何の価値にもならない意地がそんなに大切なのかしら?」
「なんだと……」
阪無はまるで挑発しているかのように上目で睨みつけてきた。せめて職員室だけでも優等生を演じていようかと思っていたが、意外と気迫のあった眼力を見て思わず素の口調を出してしまった。
「黒屋君。あなたが起こした騒動は別に今回が初めてではないわよね?」
「……そうだが、俺が起こしたわけじゃない。全部向こうから仕掛けてきたんすよ」
今日から高校三年に進学するわけだが、高校に入学してから何回か、俺は喧嘩で問題を起こした経験がある。
自分でもそんなに厳つい顔をしているとは思ってないが、鏡を見ると長く垂れた前髪の向こう側に陰気臭い顔がいつもいる。俺はそんなに殴りたくなるような顔をしているだろうか?
「でも過去の騒動であなたは当事者として現場に居合わせていて、いずれも相手側に外傷はなく、あなただけが怪我を負って喧嘩は治まっている。誰かに痛めつけられたい特殊な性癖でもあるのかしら?」
「あるわけね――」
一瞬怒りが頂点まで達してしまいそうだったが、俺は自分が今いる場所を思い出した。
「……ないですって。だから相手から逃げたくないし、こっちからそんな手出したくないだけなんですよ」
なんとか感情を押さえつけた俺を見て、阪無はニヤニヤと俺をイラつかせるような表情見せる。
「そう……まあいいわ。これから話を聞く機会なんていくらでもありそうだし」
「どういう意味っすか?」
「そのままの意味よ。これからあなたを一年間みっちり教育してあげるわ……っと」
阪無がそう言い終えて、まるでタイミングを見計らっていたかのように予鈴が鳴った。職員室で待機していた教師たちが各々書類を抱えて職員室から出ていく。
俺もそろそろ新しい教室行かねーとな。初日から遅刻して目立ちたくねぇし。
「俺は行くんで、それじゃ」
阪無に背を向けて職員室の出口へ向かって歩き出す。
「ちょっと、どこ行くのよ」
声を掛けられると同時に後ろから腕を引っ張られた。
「いやどこって、もう自分の教室行かないと遅刻するじゃないっすか。あんたに引き留められて遅れたって言い訳してもいいならゆっくりしていってもいいっすけど?」
教師に対する反抗心で俺は皮肉を口にしたが、阪無は全く動じていない様子。
「あぁ、君が心配してる新しいクラスならもう気にしないでいいから」
「は?」
他の教師と同様に、阪無も書類を机の上で何枚か重ね、それを腕に抱えた。
「君は今日から一年間……と言ってももう君は三年生だから卒業まで。私が担任を務めるクラスで授業を受けてもらいます」
「え? 何言ってんすか? いきなりクラス変えられるって……」
「クラスと言うより学科ごとね。この学校にはそういう制度があるのよ」
何を言われてもあまり動揺しない方ではあるが、さすがに突拍子もなさすぎて困惑する。
「これは決定事項です。君に拒否権はありません。さ、行きましょう」
阪無に手を引かれるがまま職員室を出た。どこに連れて行こうとしているかもわからないその手を俺は半ば強引に引き剥がした。
「あっ――もう、結構強引なのね。黒屋君って」
残念そうな顔をした阪無はまた廊下を歩き出す。説明が欲しくて俺も阪無の後ろを着いて歩いた。
「なんで俺がそんな――」
「これは罰よ」
歩きながら、阪無は言い続ける。
「あなたは他人から自分がどう思われているかなんて興味がないのかもしれないけれど、何度も問題を起こしている時点であなたは普通科の生徒から異分子だと認識されている。二年時にあなたのクラスを受け持っておられた先生からは、水の上に一滴の油がポツンと浮いたような奴だ――っておっしゃってたわよ?」
「けっ! 俺には他の連中の方が油みてぇに見えんすけどね」
職員室のある南校舎から渡り廊下を通り、教室の集う北校舎へと入る。俺は阪無がどこへ行くのかも知らないまま、後ろで話を聞いていた。
「君みたいに、普通とはかけ離れた異質な人間性を持つ生徒を教育、指導するクラスがあるの。この学校は全学年の生徒数も多いから性格がひねくれていたり、感情の乏しい生徒が少なからずいる。そういった生徒たちを集めたのが、私が担任として受け持っているクラス。もっとも、あなたは問題を起こした罰という名目でこのクラスに入ってもらう訳だけれど」
「問題を起こしたのはともかく……俺はそんなに普通じゃないんすかね?」
さっきからお前は異常者なのだと言われているみたいだが、俺の行動はおかしいのだろうか? その普通という基準が曖昧過ぎて俺にはわからない。
「ええ、異常ね。でも、あなたはまだ可愛い方よ。春休み中あなたが問題さえ起こさなければ、新しいクラスの一員として、平凡な三年生の高校生活を送れていたかもしれないわね」
俺が可愛い方……自分じゃ自分のことをそんなにおかしいともあまり感じないが、阪無の口振りから察するに、相当ヤバい奴らの巣窟なんじゃないのか?
「ちなみにあなた、次問題起こしたら退学らしいから、気をつけて」
「まじか……」
北校舎の四階まで登り、閑散とする廊下を歩き続ける。四階の教室は空き教室が多いと聞いていたが、何気に初めて登ってきた。ここら一帯はまるで人の気配がしない。
そしてようやく阪無の足が一つの扉の前で止まった。
「ここが君の新しい教室よ。既に何人かこのクラスに在籍してるから、最初は自己紹介をしてください」
「はぁ……まじかよ」
そして俺は、この学校で最後の一年を過ごす新しい教室の前に立った。
この時の俺はまだ、――『異質』とは何か? その答えをまだ知らなかった。
あるいは『普通』とは何か――という答えを知っている気でいた。
何となく一年間を過ごしていければそれでいい――そう暢気に考えていた俺は扉を開き、一歩教室へと足を踏み入れる。
「これが君の新しいクラス、『特別進学科』よ」