追憶の前に
レンは、自室でぼうっとしていた。
頭がゆだっていた。心がまったく落ち着かなかった。枕を抱えてばたばたしたいくらいだった。
もちろんイチキの抱擁が原因である。
彼女とは仲良くなりたいとは思っていたし、もうちょっとフランクな感じに話せるように距離を詰めたいとも思っていた。
だが。
「距離、近くなりすぎじゃない……?」
あの衝撃で、奴隷少女ちゃんにあっさりフラれたショックが半分以上は吹き飛んでいた。もちろんフラれた事実は変わらないのだが、それはそれとして、イチキのことを考えてしまう。
情けないところを見せたのがいけなかったのか。年下のイチキに甘やかされるように抱きしめられるなど、予想だにしていなかった。
ぼすん、と枕に顔をうずめて、ふとあの時のことを連想してしまった。
服越しでも伝わった、人肌の温度と油断すれば溺れてしまいかねない心地よさ。
「……やわらかかったなぁ」
思わずつぶやいてから、はっと我に帰る。
ごん、と壁に頭を打ち付ける。知り合いの女の子に、なにを妄想しているのか。それはよくないことだとレンの理性が思春期とは信じられないほど頑張ってブレーキを踏んだ。
「落ち着け落ち着け落ち着つけ……」
壁に額を付けたまま唱えてみるが、効果は薄い。妄想というよりは、実際に感触を知ってしまったのだから、その刺激は男子には強烈すぎる。
服の上からでもわかるふくらみが、沈む指に形を変えていた場面。顔に押し付けられて、うずもれて包まれるようなやわらかな感触。耳に吹き込まれるような甘い声に、身を任せたくなるような言葉選び。
なによりも、万事控え目でかわいらしくも慎ましいイチキが最後に見せた艶っぽい、笑顔。
控えめで一歩下がっていたイチキとは違ったからこそ、忘れがたい魅力があった。
どれもが焼き付いて、しばらくレンの頭から離れることはなさそうだった。
なにか落ち着くものを、いっそ脳内スイッチでもするかと記憶を探って、奴隷少女ちゃんにフラれた事実を思い出す。
ふっとテンションが急落した。
スイッチもかくやというほどの冷却機能だが、同時にダメージも大きかった。どよん、と心が落ち込んだ。
「よし。イチキちゃんと次会った時には注意しよう……」
胸を押し付けるようにして顔を抱きしめるとか。
その後で『なんでも申し付けてくださいませ』とか。
あんなことされたら、男子はあっさりと勘違いするんだぞと忠告しよう。
失恋をリフレインすることで落ち着いたレンはぶつぶつと呟く。
「イチキちゃん、かわいいんだからさ。いくら強いっていっても、ああいうことしたら危ないだろ」
いまのイチキに聞かせれば、まず間違いなく甘い反撃に包み込まれるだろうことなど露知らず、ピントの外れた決意をするレンだった。
その頃、救国の勇者ウィトン・バロウは、かつては皇都と呼ばれていた首都にいた。
首都の神殿の奥深く。余人は踏み入ることのできない一室に案内された彼の前には、一人の老人がいた。
「ああ……もっと、もっと見ていたいのう……」
もごもごと声を漏らしているのは、気味の悪い老人だった。
禿散らかした頭髪に、シミまみれの顔面。歯はぼろぼろに抜け落ち、乱杭に何本か残っているだけだ。発音は不明瞭であり、聞き取りづらいことこの上ない。
老人は目を閉じ、指を痙攣させるようにうねうねと動かし、ぶつぶつと独り言をつぶやいている。
その老人を前にしたウィトンは、嫌悪の表情を隠そうとしなかった。
彼が首都神殿から呼び出されて一週間余り。確たる用件も告げられず、延々とこの老人の相手をさせられているのだ。
ここではないどこかを見てひとりごとを漏らし続ける老人の相手をするのにも限度がある。
「若いのう……愛されておるのう……。見るものすべて、幸せで、いいことばかりじゃ……なあ、ウィトンよ」
「なんだ」
「わしは、あの子の目が欲しい」
だしぬけに、老人がねだった。
ウィトンは顔をしかめる。一週間経ってよやくこちらに目を合わせたかと思えば、切り出されたのは意味不明で、なにより気持ち悪い要求だった。
「誰の、なんの話をしているんだ」
「誰のものなにも、貴様も見たことがあるではないか。レン。レンという子の目じゃ」
出された名前に、ウィトンは目を鋭くする。レンという少年は、ウィトン自身はもとより、彼の妹との縁が浅くない。
ウィトンの警戒を気にも留めず、枯れ木のような老人が、へらへらと笑う。半開きにした口端から唾液をたらし、ずっと閉じていたまぶたを上げる。
老人に、両目はなかった。
開いたまぶたの裏側には、ぽっかりとうろのような眼窩が広がっていた。
「あの少年は、なんて綺麗にこの世を見ているんじゃろうか……! あの子の視界は、目が奪われるほど、きれいなものばかりが見える。うらやましいほどの平和が続く。ウィトンや。わしは、あの子の瞳に映る世界だけを見ていたい。だから、なあ、ウィトンや」
虚ろに広がる眼窩でもって、老人はウィトンを見つめて懇願する。
「あの子の目を、えぐりとって、わしの眼窩にはめて――」
「ふざけるなよ!」
ウィトンの怒号に、ひいっと肩を震わせた。
開いていたまぶたを閉じ、老人はみっともなく狼狽する。
「な、なんじゃ。ああ、おそろしやおそろしや。いきなり怒鳴りつけないでおくれよ。びっくりするではないか。わ、わしは、誰よりも人の幸せを願っておるではないか。わしは一生懸命、世界の平和のために働いておるではないか! だから、平和な世界が欲しいのじゃ!」
「いい加減にしろよ、神の見えざる目」
ウィトンが怒気を放つ。ほとんど殺気に近かった。
「なんの用があるんだ。呼び出して一週間、訳のわからないことばかり……。目が欲しいなら、僕の目でもくれてやる。だから、彼に手を出すな。いいや。二度と、僕の周囲に関わってくるな」
「貴様の目を?」
老人の口が嘲笑に歪む。
「いらぬいらぬ。貴様の目など、ごめんだよ。昔の貴様ならともかく……汚いものばかりを見て、諦めることばかり知った貴様のよどんだ目など何の価値もない。おぬしが見ている世界がはめ込まれるなど、ぞっとするわい。いまも、ほれ、なんじゃ貴様は」
もごもごと口を動かし、老人は気味悪そうな口ぶりで肩を抱いて震える。
「見るからに頭のおかしい老人など見ているではないか。おお、気持ち悪い。気持ち悪い老人じゃのう……なんでそんな気持ち悪い老人を見ているんじゃ、貴様は……」
ウィトンのこめかみに青筋が浮く。その気持ち悪い老人とはお前のことだと言ってやろうかと思ったが、客観の権化である目の前の人物はすでに主観を失っている。教えてやっても無駄だ。彼にとって、自分すら他人でしかない。いまのように曲がりなりにも会話が通じる時間は、非常に短い。
だが、彼の言葉は誰も無視できない。
目の前にいる人物こそ、西方教会の頂点なのだから。
この気色の悪い老人こそが、教皇。
生まれてから親より授与された名前はおろか、聖職者としてあるまじきことに洗礼名すらなくした名無しの老人。
イーズ・アンと同じく聖人でありながらも、殉教し損ねこの世をさまよう迷い人だ。
一時、ウィトンの目を見て会話をしていた老人は、また別の場所へと目移りして、ころころと言動を変え続ける。
「ひひひ。これは、これは。つまらないものしか見れない、泥の瞳じゃな。あの別嬪さんがいる時ならともかく……おらぬな。これもまた価値のない目じゃ。おお、東方の毒の子は、ようやく宝貝の担い手を見つけたのじゃな。よきよき。ああ、宝貝といえば……うむ。ようやく聖剣も消えたのう」
目を見開いた。
何気なく呟かれた言葉に、聞き間違えたかと思うほどの衝撃がウィトンを襲う。
「ひとかけらも残さずなくなったのう……次はどこにできるのかのう……まあ、どうでもいいことじゃ」
「待て、待て! あの聖剣が消えた? そんなはずが……いやっ、次だと? なら――次は、どうなってる!?」
「ああ、目が欲しいのう……どこかに綺麗な目は落ちていないかのう……誰か見つけて、わしに届けてくれぬかのう……」
すでに教皇はウィトンを見ていなかった。
「綺麗な目が、愛されている目が、平和な目が欲しいだけなんじゃ……。この眼窩にはめて、一つの綺麗な景色だけを見たいだけなのに……ああ、なぜ、世界は、見るに堪えないものばかりなのかのう……やはり、やはりそうするしかないのかのう……わしが、世界を平和にするしか、ないのだのう」
世界のあらゆる場所を定めることなく見て回りながら、彼は虚ろな眼窩から涙をこぼす。
しくしくと見える光景に涙を流して、決意する。
やがて別の聖職者が、勇者ではなくなったウィトンに退出を促し帰宅を命じたあとも、老人は世界を見て回る。
ただ、そんな彼でも見ない人物が、この世にたった一人いる。
目を合わせてしまえば、彼の視界ですら潰れてしまいかねない至高。
「紫の御方がどうするのか……ひひひ。見えぬ見えぬ」
見えない世界のなんと平和なことか。
教皇『神の見えざる目』は、一人、気色の悪い笑い声をあげるのだった。
拠点に戻った奴隷少女ちゃんは、ふと今日の一幕を思い出した。
少し、頬が熱くなった。
ぱたぱた、と手で仰ぐ。ほんのりと風が送られたが、発熱を覚ますには少し足りない。
別に好きじゃないと言ったのは本当だ。本心である。
ただ告白されて、嬉しくなかったというのなら、それは嘘だ。
「……レンの助は――」
「主!」
「……――なに?」
「聞いてくだされっ。有望な近衛候補を見つけたのです!」
奴隷少女ちゃんの思考を遮って部屋に入って来たのは、スノウである。
近衛候補とか何言ってんだこいつと思ったが、聞き流した。スノウのことはボルケーノがよろしくしてくれるはずだということで話は決まっていた。自分のことに関しては、わりと他力本願なところがある奴隷少女ちゃんであった。
「なかなか見どころのある若者を見つけたのです。レンという名前で――ぐぼう!?」
スノウの脳天に、一切迷いがない看板スラッシュが放たれた。
なぜよりによってこのタイミングでレンの話題を持ってくるのか。ぷいっとそっぽを向いた奴隷少女ちゃんは、ボルケーノを呼ぶ。
「どうした……って、聞くまでもねえな、これは」
「……うん。ボルケーノさん。このバカ、どっかに連れてって」
「おう、わかった」
「主!? なぜ!?」
スノウの悲鳴が響いたが、彼女はボルケーノに襟首をつかまれてどこかへ連れていかれた。
騒がしいのがいなくなったと一息つく。そして思考が、スノウが来る前に戻った。
レン。
不思議な少年だ。彼自身はただの頑張り屋なだけの男の子なのに、いつの間にか、自分の周りに彼の影響が出ている。公園での全肯定の仕事柄、告白されるのは慣れている。告白された数だけ、ばっさりと全否定をしてきた。
だが、近くなっている、という感覚を覚える顧客は珍しい。
今までは、それこそあの常連のシスターさんくらいなものだった。
「……あきらめない、かな」
なんとなく、そんな気はする。
彼はまっすぐだし、頑張り屋だし、一途だ。よりによって全肯定奴隷少女の時の自分でなく、こんな自分を好きになってくれたというのは、嬉しくて――それ以上に、彼のためにならない。
「……『私』に、そんな価値はないから」
憂いを帯びた瞳で、彼女は髪をかき上げる。
いまでも、覚えている。
まだ、この髪が長かった頃。隠すことなく紫色を持っていた幼い日に、唯一、話すことができた大人との会話を。
――……こーていって、なにをすればいいの?
――ただ、頷いてくださればいいのです。殿下……いえ。陛下は、ただそれだけでよろしいのです。
――……ふうん。かんたんだね。
――はい。難しいことなどございません。万事、わたくしが取り計らいます。
――……うん、わかった。
大人の彼に頷けばいいと言われたから、その時も、あっさりと頷いた。特になにも考えていなかった。物事の判断の前には考える必要があるということすら、考えたことがなかった。
奴隷少女ちゃんは、紫の結晶を取り出す。
レンからプレゼントされて、思わず受け取ってしまったものだ。
ゆるしの恩寵。罪の結晶は、紫色をしていた。
「……きっと、レンの助だって」
知れば、許すことなんて、できないのだ。
いいや、彼だけではない。
この国の誰もが、許さない。許されるはずがない。他の誰よりも、彼女自身が許しはしない。
――では即位の時のお名前を考えましょう。
――……なんでも、いいよ。
――ではフーユラシアート、などはいかがでしょうか。陛下の幼名にも、近しい響きです。
――……うん。
それが、彼女の発した最初の全肯定。
何も考えずに他人の言葉に頷き続けたことが、どれだけ罪深い結果を招いたのか。
フーユラシアート・ハーバリア四世となった、己の力の価値にすら無知だった少女はのちに知ることになる。
――……それで、いいよ。
考えなく奴隷のように頷いた肯定の愚かさが、十数万の民を殺した最初の言葉となった。