レンの全肯定・前編
息が、乱れる。
疲れで、緊張で、恐れで。
命を懸けた闘争が、初めて陥る窮地が、レンの精神を蝕む。
「っぷはぁ!」
乱れた呼吸から自分の精神が均衡を崩しそうになっているのを自覚して、レンは大きく息を吐いた。知らず知らず、息を詰めてしまっていたらしい。
心の乱れがそのまま呼吸に出る。肩で息をし始めたら、もう危ない。だからこそ、まずは荷物持ちから任された。姿勢、歩き方、呼吸の仕方まで。ダンジョンにいる間は、無駄な体力を使わずにいられるようになるまで、じっくりと。
一呼吸いれて、改めて状況を確認する。
襲い掛かってくるのは、成人男性を優に超すような巨大なひな鳥だ。嘴はなく、頭の部分は干からびたミイラのようになっていて、本来なら眼球があるべき場所にはぽっかりと穴が開き、樹木のうろのように奥の見えない闇が広がっている。
よたよたとした二足歩行の足どり。間抜けにも見えるが、その羽毛は一片一片が鋭い刃となっている。あの魔物に体当たりをされるだけで、無数の刃によって全身がズタズタにされるだろう。
確実な脅威として襲い掛かってくる魔物に、レンは剣を叩きつける。
鳥がベースになっているからか。意外に、相手の感触は軽い。あっさりと首の骨が砕けて霧散する。一匹倒すのに、そう手間はかからない。
だが、数が異常だ。
なにせレンの視界のほとんどを、その奇妙な魔物が埋め尽くしているのだ。
「なんで、こんなの……!」
「馬鹿野郎! 余計なことは考えんな! 先のこともいい! お前はとにかく、目の前の奴を倒すことだけ考えてろ!」
矢を放ってレンの援護をした先輩冒険者が、弱音を吐いたレンに向かって怒鳴りつける。魔術を付与された彼の矢は魔物を貫通して群れを突っ切り、十匹以上を一度に葬り去った。
それでも魔物の群れは、まるで減った印象がない。むしろ増え続けている。
果てが見えない戦い。レンは歯を食いしばって、ひな鳥の魔物を倒し続ける。
今回の探索は、いつも通りに終わるはずだった。
一匹の魔物さえ、出てこなければ。
「ほほほっほうー!」
この異常事態の元凶が、梟の鳴き声と子供の甲高い笑い声を混ぜたような耳障りな音を鳴り響かせる。
決して、大きな魔物ではない。そこらにあふれるひな鳥の魔物を成長させ、干からびた人の手足をくっつけたような見た目をしている。手に持っているのは、巨大な猛禽類の嘴を取り付けたような鎌。鋭い刃となってまき散らされる羽毛の色は漆黒。そんな魔物が音もなく飛び回るさまは、出来の悪い死神のようだ。
「クソがっ。町の情報はチェックしてたんだけどなぁ……!」
この異常な状況に、リーダーも顔をしかめた。
ダンジョンというものは、必ず人の集まるところにできる。
ひとところに集まった人間の集団思念と無意識に流れ出る魔力が結びついてできる概念領域こそが、この世にダンジョンとして現出する。人間社会の渦巻く感情の混沌こそが、概念空間であるダンジョンを創出したのだ。
善意は人を潤す資材となって、悪意は人を襲う魔物となる。
戦争などで大量の人員を動員してぶつけあい存在が固着された特殊なダンジョンのような例外を除けば、ほとんどのダンジョンは人の生活する街中に形成される。大都市とダンジョンは、切っても切れない関係にあるのだ。
だからこそ、ダンジョンの入り口に人の信仰の象徴たる神殿を建立して蓋をする。
だが、人の悪意は時に信仰を打ち破る。だからこそ冒険者という職業は必要とされる。
彼らは人の世にあふれ出そうになる悪意を駆逐し、間引きする役目を担っているのだ。
ダンジョンは本来、急激な変化はしない。大都市とはいえ、人々の生活は総体的に見れば大きな変化などないからだ。時勢に添って変化するが、おおよその魔物の分布は決まっているし、地形の変容も緩やかだ。
だが都市でなにかの変化が起きた時、ダンジョンは様相を変える。
「知性ある魔物が生まれるような事件は、耳に届いた覚えはないんだがなぁ!」
「ほっほほう、ほほほ!」
長く冒険者をやっているパーティーの面々ですら見たことがない、特殊な魔物。
目の前の魔物は、間違いなくおぞましい人の悪意から生まれた産物である。人の言葉こそ口にしないが、それは発声器官がないだけだ。ずるがしこく冒険者たちを見定める魔物には、間違いなく悪意にまみれた知性があった。
その魔物に対して、このパーティーは女魔術師、女剣士、リーダーの三人で対処していた。
漆黒の羽を広げて飛び回る魔物に魔術を食らわせ、刃で切り裂く。だが相手の傷口からこぼれ落ちるのは、廃油よりも汚らしい黒い呪いだ。地面に落ちた汚泥は、ひな鳥の魔物となってあふれ出る。
交戦を始めて、もう何度相手を斬り刻んだか。魔物が堪えている様子はまるでない。ただただ、本体の魔物の傷口から吐き出される分体が増えるばかりだ。
「これ、埒が明かないんじゃ……」
「ためらうな! 全部吐き出させろ! 無限なんてことはありえねえ!」
思わず漏れた女剣士の弱気な言葉を、リーダーは一喝してかき消す。
こういった命なき魔物は、浄化でかき消すか魔術で消滅させるかだ。本体を消し去れる程度まで弱めるために、相手の体を構成する呪いを吐き出させているのである。
リーダーも都市のおおよその出来事は確認している。
都市住民の不安を大きくあおるような事件はない。大規模な人死にもなかったはずだ。
ならばあの魔物は、人為的に創成された。過去のダンジョン事例に通じた何者かが、ひそやかに、この魔物が生まれるようなことを行ったのだ。
生贄を捧げる儀式か、生命力を徴収する呪術か。この都市で人知れず何かがあったにせよ、表ざたにならない程度のことならば、目の前の魔物の呪いが底なしということはない。
「ああ、もうっ。騎士隊の奴らは、こんな魔物が生まれるような事件も感知できないの!? あんの税金泥棒の無能どもぉ!」
「ほほほほほほほ!」
苛立たしく声を荒げる女魔術師に、魔物は法悦に笑う。
人の悪意から生まれた存在、知性ある魔物。まだ名もなき彼は、哄笑をあげる。
生まれてあまり時を経ていない彼にとって、初めての素晴らしい強敵どもである。
合計八人のパーティーだが、主力と思しきメンバーはそのうち四人。
踊るように果敢に切りかかってくる女剣士。様々の魔術のこもった矢を的確に使い分ける弓使い。両手に二本の短剣を携え、遠近両用の魔術を駆使する女魔術師。そしてリーダーである、秘蹟使いの男。
あとの四人は、こぼれでる分体で手いっぱいだ。脅威にはなりえない。
四人の主力の中でも、特筆すべきは二人。
まずは金髪の女魔術師。純粋に個人としての戦力が頭一つ抜けて優れている。近接魔術に、遠距離魔術の使い分け。女剣士もあなどれないが、距離の関係ない女魔術師のほうが厄介だ。
そして、もう一人は秘蹟使いのリーダー格の男。
外見こそ荒くれ者のようだが、よほど信仰と学識に優れているのだろう。祈りと知恵によって神秘に通じた者のみが行使できる秘蹟の数々。結界、補助、治癒、浄化。あまたの秘蹟を顕現させる彼がいるからこそ、戦線が支えられている。
ならば反対は?
このパーティーに、穴はないのか?
「……ほほほっほう」
名も無き魔物は笑う。にまぁっとうろのような口元がゆがんで崩れる。
彼のぽっかり空いた虚無の瞳でも、相手の弱所はよく見える。
弓使いの男冒険者とともにひな鳥の群れと戦っている、青年冒険者。決して不要ではなく、邪魔にもならない立ち位置で戦っている。奮戦していると言っていいだろう。
だがしかし、どうだ?
あの弓使いは、間違いなくこのパーティーの主力の一人だ。彼をこちらの戦いに回せばもっと楽であろうに、わざわざ分体掃討のフォローにあてている。
なぜか?
簡単だ。主力以外の中に、弓使いのフォローがなければ分体の相手でも危うい未熟者がいるからだ。
「ほほほっほー!」
女魔術師の放った炎に羽を焦がされながらも、名も無き魔物は愉悦に笑いをこぼす。
ずいぶんとまあ、大事にしているようだ。この場に見合わぬ弱者。メンバーに不釣り合いの足手まとい。あんなもの、見捨てるか餌にすれば自分の隙も作れただろうに。切り捨てれば、もっと楽をできたものを。
弱きものは、蹂躙されるのが定めだ。
名もなき魔物の持つ、猛禽のくちばしのような奇妙な鎌。
いままでは武器として扱っていたそれが、ぱかりと口を開いた。
「――ッ! 精神防御ぉ!」
リーダーが叫ぶも、少し遅い。
「精神汚染」
呪言が轟いた。
暗く粘り、這い寄る呪術。名もなき魔物の知られざる能力。これこそが、人の悪意が望んだ彼の力。
聞く者の相手を支配下に置く、精神汚染。
練達の強者ならばリーダーの注意で十分だっただろう。結界で、魔術で、肉体強化で、単純に耳をふさぐことで。経験豊富な彼らは各々の手段で呪言を防いだ。
レンと呼ばれていた青年は、無理だった。
「あ゛――」
ぐるん、と目玉が裏返る。意思が浸食される。脳に呪いが這い寄る。全身を浸す呪いに従い、魔物の群れに向けていた剣先が、味方へと向けられようとして――
「ぼさっとしてんじゃないわよぉ!」
「――ぁぶ!?」
女魔術師が、一切の躊躇なくレンに魔術を直撃させた。
離れた距離を、限りなくゼロ秒に近い速さで駆け抜ける雷撃の魔術。威力は調整してあったのだろう。雷に打ちすえられ正気に返ったレンが、きょろきょろとあたりを見渡す。
「え、あ? 俺――」
「ほっほほほほぅー」
名も無き魔物は呪言の不発に、不満の鳴き声を上げる。
成功をしかけたというのに、とっさに攻勢魔術を叩きこんで呪術を弾くとは、なんと強引な解呪法か。仲間同士で争わせるつもりが、愉悦なるその光景が見られないではないか。
しかし、しかし、成果はある。
最前線で後方の足手まといを助けるなど悪手にもほどがある。
「ぁ、ぐッ」
「ほほほほほほほ!」
名もなき魔物が哄笑し、女魔術師が苦悶のうめき声を上げる。
女魔術師が、後方へと魔術を放ったその瞬間。猛禽のくちばしに似た鎌の切先が、女魔術師の胴体を貫いていた。
やってやった。要の一人を打ち取った。拮抗していた戦いの天秤はこちらに傾く。悪意が正義を打ち破るのだ!
名もなき魔物は飛び散る鮮血に酔いしれる。勝利を確信して笑い声を上げた名もなき魔物は、しかし相手の表情を見てぎくりとする。
ぎろり、と女魔術の切れ長の瞳が名もなき魔物を射抜いた。
「なに笑ってんのよッ……!」
「ほ、ほほ?」
身を貫かれてなお、闘志を絶やさない。瞳を燃え上がらせ猛り狂う。彼女はただで相手に隙を晒したのではない。相手がレンを助けた自分の隙をつくことくらい、予測して行動した。
鎌を抜こうとして、びくとも動かない。貫いた傷口が、突き刺さった鎌ごと凍り付いているのだ。
「この、あたしがぁ! あんたなんかに殺されるわけ、ないでしょうがァ!!」
女魔術師が己の身の犠牲も顧みず名もなき魔物の動きを止めたのだ。その氷は鎌を通して瞬く間に本体まで浸食しようとする。
名前もなき魔物は鎌を手放し飛び上がろうとしたが、遅い。
「また無理をしてぇ!」
「だがよくやったぁ!」
少し怒った風の女剣士が瞬きの間に名もなき魔物の五体臓腑を切り裂き、秘蹟使いのリーダーが散らばる呪いに浄化の術を撃ち放つ。
「ほ、ほほ――」
呪いが、悪意が、打ち払われる。それでも名も無き魔物はあがく。
世界に伝えるのだ。己の誕生を。知らしめるのだ。人類の所業を。目玉をくりぬき歯を抜き取り子もなせぬ体に貶め全身を切り刻み羽をもぐように自意識をむしり取って従属させてはなぶり殺す。人が人に成した鬼畜の所業が自分を生んだ。闇夜に生まれた悪意よ悪意たれと哄笑をひびかせるために、名も無き魔物は――
「消えうせなさい、この世から」
最後に残った名もなき魔物の頭を、女魔術師が壮絶な笑みで掴み取る
命令口調とともに構築される、強大な魔術。女魔術師の渾身の魔力を込めた極大砲。
「あんたなんかねェッ、お呼びじゃァないのよぉ!!」
至近距離から放たれたとどめの魔術に、名もなき魔物は欠片も残さず消滅した。
女魔術師は、神殿の集中治療を受けることになった。
あれからすぐに残ったひな鳥の魔物を掃討し、ダンジョンから撤退。傷ついた女魔術師を神殿の治療室に運び込んだ。
胴体を巨大な鎌で貫かれたのだ。重傷なのはもちろん、悪いことにあの嘴の鎌には呪いが込められていた。リーダーの秘蹟で応急処置は行ったが、傷口から入り込んだ呪いも相まって、とても治しきれなかったのだ。
解呪と傷の治癒。二つを並行して行うために、女魔術師は神殿で集中治療を受けることになった。
レンは、なにもできなかった。
今日のレンは、真の意味で足手まといにしかならなかった。
パーティーの面々は、一切レンを責めなかった。お前のせいじゃない。今日は運が悪かった。むしろお前はよくやったさ。新種の魔物にぶち当たって生き残ったんだ、むしろ誇れ。
みんな、そう言ってくれた。
その優しさは、むしろレンの心を苛んだ。
間違いなく、女魔術師が重傷を負ったのは、自分の責任なのに。
女魔術師の治療が終わるまで神殿に残ろうとするレンに、リーダーは帰って休むようにと諭した。
レンは女魔術師と親族でもないなんでもない。神殿の治療室の前で何人もたむろっていたら邪魔になるだけだ。パーティーメンバーからはリーダーが一人残っていればいいだろうと判断された。女魔術師には兄がいるらしいのだが、忙しい人で捕まらなかったらしい。
帰り際、女魔術師の傷は命に別状ないとだけは言い聞かされた。気に病み過ぎるなよ、とも。
「……」
夢遊病者のように芯のない足取りで、レンは夜道を歩いていた。
レンは、心底から打ちのめされていた。
リーダーから長剣を贈られ、一人前として認められた気になっていた。前衛として戦って、魔物と渡り合える気になっていた。いっぱしの冒険者になれたんだと、そんな自負を抱いていた。
木っ端みじんに砕け散った。
自尊心の破片も残らなかった。本当に強い相手と闘えば、自分がどれほど薄っぺらいのか思い知らされた。
いままで自分は、保護されていた。育てられていた。親元から離れられないひな鳥のように、無理することなく庇護されていた。
そして、いまも、まだ。
「ぅうっ」
ありがたいと思うべきなのだろう。
人に話せば、望外のめぐりあわせだとうらやまれるだろう。
何ていい人たちに出会えたんだ。羨ましい。代わってくれよ。お前はラッキーな奴だ。
その通りだ。素晴らしい人たちだ。彼らに出会い、守られ、育てられていることに感謝するしかないのだ。
「ぅうううッ」
でも、レンは我慢できなかった。
女魔術師が重傷を負うような原因となってしまったことが。自分の未熟さが。一人前になりつつあったつもりで、できていなかったことが。
ガンガンと頭が痛む。意識をゆがませる何かがレンの脳みそを叩き続ける。食いしばった歯と歯の間から獣のようなうめき声が漏れる。たまにすれ違う人が、気味悪そうな視線を向けてレンを避けて通る。
何も考えられない。何一つ周囲に気を配れない。
だというのに、いつの間にか、広場に来ていた。
無意識だ。だが、ここに来た理由を、今のレンは重々承知していた。
救いを求めたいのだ。
広場には、いつものように奴隷少女が至っていた。
レンに気が付き、彼女は楚々と微笑む。
「……」
レンは、千リンを取り出した。
そして奴隷少女に紙幣を渡す。
千リンを受け取った奴隷少女は、そっと口元からプラカードをどける。
「お願い、します……」
「わかったの!!!!!!! 言いたいことを叫ぶといいのよ!!!!!!!!! えへっ!」
何度も見た、輝かんばかりのあざとく清廉な笑顔。何度も聞いた、エネルギーの塊のような快活なハスキーボイス。
それらがなぜか、いまのレンにはひどく空虚なものに感じられた。