少女たちの行く先は・後編
公園広場でのいつも通り仕事を終えた奴隷少女ちゃんが帰ると、妹の出迎えがなかった。
「……イチキ?」
妹の名前を呟いた奴隷少女ちゃんのハスキーボイスは静かに響いて消える。どうやら留守にしているらしい。
「……珍しい」
基本、奴隷少女ちゃんが帰ってくるときにはイチキがすべての炊事を整えて迎えてくれる。奴隷少女ちゃんの妹、イチキは非常にできた妹なのだ。
ボルケーノが用意してくれた拠点に戻れば、明るい笑顔と共に温かいご飯が待っており、お風呂の湯が沸いている。湯船ではイチキが背中を流して髪を洗ってくれ、もちろん寝床もシワの一つないベッドメイクでしっかり用意してあり、朝起きれば綺麗に畳まれた服が枕元に置いてある。
そんな風に一事が万事抜かりのない、自慢のかわいい妹がいない。
小首をかしげつつも、イチキがいないのだからご飯は用意されていない。全自動でできる料理など、ありとあらゆる家庭に存在しないのだ。すべての家事が人力でまかなわれていることは、決して忘れてはいけない重要事項である。
くーきゅるると、奴隷少女ちゃんのお腹が音を立てた。全力で全肯定をした仕事帰りでエネルギーを使っており、だいぶお腹が減っていたのだ。
どうしようと思った奴隷少女ちゃんの頭に、革命的な閃きが生まれた。
イチキがいない。むしろこれは、いつも尽くしてくる妹に感謝を返すチャンスなのでは、と。
「……うん」
いつも家事諸々の世話になっている分、たまには自分がご飯の用意をするのだ。
名案である。思いついたのだから、さっそく実行するべく奴隷少女ちゃんは動きだす。ぐっと握りこぶしをつくってやる気を出した奴隷少女ちゃんはキッチンへと向かった。
いままで一度たりとも調理場に立ったことがないためなにをどうすればよくわからないが、まずはお湯でも沸かそうかと鍋に水を入れた奴隷少女ちゃんは、つるっと手を滑らせて足元に水をぶちまけた。
「……あれ?」
しまったと思いつつ、台ふきに手を伸ばす。それは台ふきではなく水洗いをしたお皿を拭くための清潔な布だったが、残念ながら奴隷少女ちゃんには見分けがつかない。さらに無意識に近い行動だったせいで、体幹がぐらりと傾いた。
しかし奴隷少女ちゃんの運動神経は悪くない。バランスが崩れないようにと、とっさに踏ん張った。
「……およ?」
踏ん張ろうとした足元が水浸しになっていたので、つるりんと滑った。完全に体勢を崩した奴隷少女ちゃんを待ち受けていたのは、食器を収納している棚だった。
奴隷少女ちゃんは、頭から食器棚に突っ込んだ。
衝撃で戸棚が開き、お皿が雪崩を起こして大量に割れた。
「…………?」
どうしてこうなったのか。散乱するお皿の破片に囲まれ、水浸しになった奴隷少女ちゃんの心は驚きでいっぱいだった。
無生物のはずの物体が意識ある人間に逆らって動き回り、大迷惑を引き起こすという不思議な現象を起こしたのだ。目を丸くしつつも、立ち上がろうとした時だった。
「姉さま!?」
ちょうどよく帰ってきたイチキが、玄関先にいても聞こえるようなけたたましい物音を耳にして慌てて駆けつける。
「いまの物音は一体!? お怪我はございませんか!」
「……うん」
「よかった……! いえ、しかし、どうしてこのようなありさまに……?」
イチキは台所の惨状に目を向ける。
イチキの鋭敏な感覚でもってしても、曲者の気配は特に感じない。だがなにがあったのか、床が水浸しの上に食器が散乱して割れている。
まるで押し入り強盗が荒らし回ったかのような状態だ。まさかお湯を沸かそうとしただけでこうなったとは、いくらイチキが頭脳明晰であろうともわかるはずがない。
とはいえ、奴隷少女ちゃんは正直者なので、ぽつぽつと事情を話す。
「……イチキが帰ってくる前に、ごはん、作ろうと思って」
「まあ!」
ご飯をつくろうと思ってどうしてこうなると呆れべきところなのに、イチキの口から出たのは感激の声だった。
「姉さまからそのようなお気持ちを頂けるだなんて……わたくしは幸せ者でございます! そのお気持ちだけでも胸がいっぱいになりました!」
「……でも。せっかくだし、今日は、私が――」
「いいえ、いけません、姉さま。姉さまの心意気は素晴らしいですが、かような些事はすべてわたくしにお任せください!」
ぱん、と柏手を打つと、それだけで床に散乱していた食器の破片が一か所に集まる。奴隷少女ちゃんが破片でケガをしていないことを確認したイチキは、ほっと一息吐いてリビングに姉を戻らせる。
「姉さまは、姉さまのなさりたいことに専念されるべきなのです! わたくしは僅かなりともそのお手伝いをできればいいのです」
手早く奴隷少女ちゃんがやらかした後始末をすましたイチキは、きっぱりと言い切って料理を作りはじめる。
さすがはイチキだ。
なんだかいつもより機嫌が良さそうな妹の背中を眺めておいしいご飯ができあがるのを待ちながら、奴隷少女ちゃんはイチキのありがたみをしみじみと感じる。
イチキは、それこそ大国に十人といないほどの魔術師である。つまりはそれだけ知識量があり、己を御す精神性の持ちぬしであるということだ。それだけの力を持ちながらも、非常に気立てのよい美人なのである。
そして何より、奴隷少女ちゃんにとっては、この世で唯一残った守るべき家族だ。
だからだろうか。
ふと思った。
イチキのしたいことは、なんだろうか。
「……」
その思いつきは、予想以上に奴隷少女ちゃんの頭に残った。
出会ってからずっと、イチキは奴隷少女ちゃんのため、あるいは死んでしまった兄のため動いている。
イチキは幸せになるべきだと奴隷少女ちゃんは思っている。いつか、消え去るべきの自分とは違うのだ。
だからこそ終わりの時が来る前にイチキが自分のためにやりたいことを見つけるか、あるいはあまりに低い自己評価を改めさせてくれるような連れ合いが見つかれば、自分と一緒にいる必要もなくなるはずだ。
「……イチキの、相手」
ふむ、と瞳を閉じた奴隷少女ちゃんは、妹を任せられるような相手を思い浮かべる。
イチキより強く賢く、清い心の持ち主であることは前提条件だ。金銭面の不安もなく、将来安泰で、もちろん浮気なんてあり得ず、他の誰よりもひたむきにイチキを見てくれる者でなければならない。ふらふらと思いが定まらず、ほいほいと女の子に手を出すような害虫など、論外である。
もし、そのような愚か者が妹に手を出そうなどとしたのならば、どうするか。
「……」
剣呑な目つきになった奴隷少女ちゃんは、そっと首に手を当てる。そこには革の首輪を嵌めてある。
これを外した時に放たれる声に宿る力は、決して乱用していいものではない。あまりにも影響が大きい力なのだ。あるいは、奴隷少女ちゃんは自分の命が危機に陥っても、易々と使うつもりはなかった。
しかしいまキッチンで機嫌よく調理を進めている妹のためならば。
「……玉音も、辞さない」
「姉さまー? なにかおっしゃいましたか?」
「……ううん。なんでも、ない」
かわいい妹の問いに、奴隷少女ちゃんはにこりと柔らかな微笑みを返した。
部屋に戻ったレンは、机に置いた手紙をじっと見つめていた。
ふわりと香るのは、寒梅の枝の花からだけではない。手紙自体にも香が焚かれているらしく、上品な匂いは長く残っていた。
イチキと名乗った少女から受け取った手紙である。アニキさんの知り合いだというから、てっきりお使いかと思ったのだが、少し話してみたら違うぞとわかった。
あの、ものすごく緊張した態度。そして『わたくしの気持ちです』という言葉。
「これ、ラブレターってやつじゃ……」
そんな予測をしたレンの口元が、にへらっと緩んだ。
なぜあんなかわいい異国の美少女が自分なんかにラブレターを渡してくるのか。それはさっぱりわからないが、あの態度はそうとしか思えない思春期ピーク十七歳の童貞レンだった。
「へへ、そっかぁ。ラブレターかぁ!」
朗らかに声を上げたレンは、明らかに嬉しそうで、困ったなぁまったくぅ、みたいな顔である。
ミュリナに告白されたのと違ってやたらと気持ちに余裕があるのは、これを渡して来た相手であるイチキのことをほとんど知らないからこそだ。
ダンジョンを一緒に探索する冒険者仲間であり、明日も顔を合わせるミュリナとは違うのだ。言い方は悪いが、断るにしても後腐れがない相手のため気が楽なのだ。
いまのレンは、かわいい女の子からラブレターをもらったという優越感と、普通に嬉しい気持ちが大きかった。
とはいえ、いつまでもニヤニヤと眺めているわけにもいかない。ラブレターにしても、断りの返信は出さなければいけないのだ。
「……まあ、それは仕方ないよな」
ふっとレンが真面目な表情に戻った。
レンには奴隷少女ちゃんという好きな相手がいて、レンのことを好きと言ってくれる女の子まで他にいる。これ以上ややこしい関係を持つつもりはなかった。
それでも相手の気持ちを考えて顔を引き締めたレンは、内容を確認するために丁寧に折り畳まれた紙袋から手紙を取りだす。
そして書面に目を通したレンは、書かれている字を見て無表情になった。
「……」
無言になって口をつぐんだレンは、眉根をひそめて文字を追う。しばらくそれを続けていたが、やがて机に両肘をついて顔を覆った。そこに書かれていたのは、あまりにレンの予想を超えていたのだ。
「これ……は」
両手で顔を覆ってうなだれる。
レンが目の当たりにした現実はあまりにも理不尽なもので、震え声を絞りだすのが精いっぱいだった。
「読めねぇ……!」
達筆すぎるイチキの筆文字は、レンでは判読すらままならないほどの達者さだった。






