料理の全肯定・中編
落ち着け。
鼻歌をしながら料理をするミュリナの後姿を目で追いながら、レンは自分に命じる。
華奢な肩が抱きしめたくなるほど魅力的だ。ではない。背中で結んだリボンがふわりと揺れる動きすらかわいい。いや、そうではない。健康的な丸みを帯びたまぶしいほどの太ももに目が釘付けになる。でもなくて。
本能が熱暴走を引き起こしつつある頭を、必死に制御する。
「あれだ、俺にはあれがある……!」
勇者から受け継いだスキル、スイッチである。
あれをやると、本能と理性が切り離されて頭がさえるのだ。見るだけで正気度が削られるようなダンジョンの最深部すらも耐え切った頼れるスキルである。
すうっと深呼吸を一つ。精神を統一したレンは、ばちんと頭を切り換える。
勇者から植え付けられた精神統一方法は優秀である。すっとレンの頭が冷える。
落ち着いてみれば、なんてことはない。エプロン姿のかわいい先輩が家に来て料理をしてくれているだけである。感謝こそすれ、慌てるようなことは何も起こっていなかった。実際はどうであれ、そう思い込むことができた。
「できたわよー、レン」
「ありがとうございます」
ほどなくして、ミュリナの料理が完成した。
配膳をしに来たミュリナはにこにこと笑顔でいるが、いまのレンは完全なるクールな状態だ。落ち着きを払った声で答える。
このまま乗り切ってくれると余裕を取り戻したレンだったが、ふとおかしなことに気が付く。
ミュリナが用意したのは、お皿が一つで、スプーンも一つだった。
白いホワイトソースが目に優しく、何種類か混ぜこんだチーズの上にカリっとしたパン粉がまぶしてあるグラタンだ。具に織り込まれた季節の野菜とベーコンの赤のコントラストも美しく、食欲をそそるかおりをさせていた。
文句なしなごちそうである。
しかし二人で食べるのに、どうして食器が一つしかないのか。
レンが内心で首をひねっているのをよそに、対面に座ったミュリナはテーブルの中心に料理を置く。手に持ったスプーンでグラタンを掬い、上目遣いで戸惑うレンを見つめて、ミュリナがスプーンを差し出した。
「はい、あーん」
ピシャゴローン、という脳を揺らす雷がレンの頭の中で落ちた。
轟音を打ち鳴らした精神的ライトニングによりレンの精神防護にひびが入った。よく砕けなかったなと、レンは自分を褒めてあげた。
「ミュリナ、その、ちょっとそれは……」
「ん? どうしたの?」
どうしたもこうしたもない。というか、絶対わかってやっているだろうに、よくぞまあきょとんとした顔を向けられるものである。卑怯なくらいかわいいのが、これ以上なく小憎たらしくて直視することすら難しかった。
「あ、あの。お皿は……? なんで一個なんです?」
「あ、ごめん。割っちゃった」
私ドジッ娘ですみたいな顔でにっこりと口角を上げたミュリナは、不自然なほどに綺麗に真っ二つになったお皿を指さす。両手でお皿の端を握って均等に力を込め、ぱきんと割ったみたいな欠けのない割れ目だった。
「だから、お皿が一つしかないのよね。一緒に食べましょ」
「一緒にって……! そういう意味じゃ……!」
一緒に食べるというのは同じ食器で食べようという意味だとは思ってもみなかったレンの精神防御はすでにボロボロである。
確かにレンの家は一人暮らしなので、食器の数は多くない。一応、それぞれの食器で二つそろえていただけだ。一個割れれば予備しかなくなる。
とはいえ、お皿がなくともスプーンがあれば、あーんはしなくて済む。そしてスプーンは金属製だ。やすやすと割れたりしない、頼れる人類の文明の利器である。
「で、でもあれですよね。お皿はともかく、スプーンも二つあったはずなので……」
「ごめんね。なんか、見当たらなくて」
そんなはずはない、とキッチンに目をやる。今日の朝まであったのだから、無くなっているはずがないのだ。
そう思って目を向けた先で、換気に使うためのキッチンの傍にある窓が開いていた。
そりゃもちろん料理の煙を逃がすために開けていたんだろうと考えるのが妥当なのだが、レンは別の考えがぱっと思い浮かんだ。
もしやミュリナは、あそこからスプーンを投げ捨てたのでは。
その可能性に思い至って、ごくりと唾を飲み込む。ミュリナのやる気がひしひしと伝わってきた。手段を選ぶ気がない。
改めて、レンは食卓に視線を落とす。
おいしそうなグラタンは湯気をたてて食べられるのを待っている。レンの家にたった一つだけ残ったスプーンはミュリナの手にしっかりと握られていた。
スプーンをレンが持ったら持ったで、逆に「あーんして」って言われるのは目に見えていた。いまミュリナに小さな口をかけてねだられたら、たぶんレンの頭は沸騰する。
「だから、はい。あーん」
進退窮まった。
笑顔でスプーンを差し出すミュリナは、控えめにいって脳みそがとろけるほどに魅力的だ。
さすがにここで、料理を作ってくれたミュリナを放って食事をしないで席を立つなんて残酷なことをできるはずもない。
「ぐ、ぅっ」
自分の理性を蹂躙しようとする感情にうなり声を上げつつもレンは耐える。
ヒビだらけになりつつも、かろうじて理性をつなぎとめている精神防護を頼りに、覚悟を決めたレンは差し出されたスプーンに食いついた。
こんな状況ですら、ミュリナの料理はレンが食べてきた他の何よりもおいしく、レンの舌を満足させる。
「おいしい?」
「はい……世界一おいしいです」
「そっか。レンの好きなもの、増やせた?」
「はい、増えました……」
「……ふへへ。レンにそう言ってもらえると、すっごくうれしい」
幸せそうに笑ったミュリナが、もう一すくい。
また差し出されるのかな、と自分の理性の限界に不安に思ったのか、それとも期待しているのか。自分でもよく分からなくなっているほどに感情がごちゃごちゃしているレンをよそに、ミュリナはスプーンを自分の口元に持っていった。
さっき、レンが口をつけたスプーンが、ミュリナの唇に触れる。
「ん、おいし」
思わずミュリナの唇に視線が吸い寄せられる。
レンの視線に気が付いていたずらっぽい瞳を向けたミュリナは、自分が口をつけたスプーンでグラタンをすくって、迷わず再度レンに差し出した。
「はい、あーん」
逆らう気力は、溶けて消えていた。
こんなことをやっていて気恥ずかしくないと言われれば、もちろん恥ずかしいに決まっている。
ミュリナだって、わざわざお皿を割ったりスプーンを放り投げてまでレンに「あーん」する状況をつくりだしているなんて、バカみたいだと我ながら思う。お皿とスプーンをなくしたお詫びに後日一緒に買いに行こうだなんて誘い文句を企んでいる自分の姑息さには呆れてしまう。
ちょっと前まで自分だったらやろうだなんてこと、発想からしてありえなかっただろう。
レンに、変えられたのだ。
バカみたいに変化した自分が嫌いじゃない。レンが好きな自分が、ミュリナは嫌いじゃない。レンのためにって自然に考えられる自分が、レンのことを好きなんだなぁと思えてバカみたいでも嫌いになれるわけがないのだ。
レンが、好きだから。
でもまあ、恥ずかしいことは恥ずかしい。
レンに笑顔こそ向けているが、一番最初に「あーん」と言ったときなど、内心ではぷるぷる震えていた。断られたらどうしようと怖がっていたし、呆れられたら嫌だなと怯えていた。
それでも突き進んだ。
そしたらほら。
「はい、あーん」
また、食べてくれた。
レンが自分の料理を食べてくれるのが、とても嬉しい。自分がつくった料理を、恋人でもそうそうやらないだろうシチュエーションで差し出して、レンが食べてくれるのだ。心がぽかぽかしてくる。
食べさせた後は、自分でも食べる。レンが使ったスプーンを、自分の口の中に入れるのはドキドキする。それをまたレンに差し出して、食べてもらうのだ。
ぽかぽかとドキドキのまじりあった、幸せな時間だった。
そうして何回繰り返したか。回数なんてわからなるくらい繰り返した後に、作ったご飯はミュリナとレンの胃の中に消えていた。
「おいしかった?」
「はい。おいしかったです」
「……ふへへ」
感想をねだると、カチンコに固まった声が返ってきた。
レンも緊張しているらしいと知ると、なぜかふっと唇がほころんだ。
「じゃあさ、レン」
「はい」
ようやく、また家まで上がれたのだ。料理だけじゃ終わりにしないぞと、ミュリナは両手を無防備に広げる。
「レンの好きな料理を作ってあげたご褒美に、ぎゅってして」
「ぶっ!?」
レンが驚きで噴き出した。
「それは……無理です。もう勘弁してください。お金なら払うんで……! 後生ですっ」
「は? お金はいらないわよ」
できないらしい。
レンの言いざまにムッとして唇が尖った。もうちょっとマシな断り方があるはずだ。
レンが自分を受け入れてくれないことが、たまらなくもどかしいし、悔しい。別の人が好きだって言われていて、それでいいよなんて言えるほど自分の独占欲は弱くない。少なくともミュリナにとって、恋する好きという感情と独占欲はセットになっていて分離しがたい感情なのだ。
レンが好きだ。
だからミュリナはレンが欲しい。
前にぎゅってしてもらったときは、事情が事情だった。
ならばとミュリナは代案を出す。
「なら、レンの手を貸して」
「はぁ。まあ、それくらいなら」
抱きしめるよりはましと思ったのか、レンが頷いた。
最初に大きく条件を付けて引き下げるというのはごくありふれた詐欺の手法なのだが、あっさり引っかかる当たりレンが心配だ。でも、そこも自分が補えると思えば、やっぱり好きだ。
そんなことを考えながら、許可が取れたので、さっそくレンの左手を両手で握って包み込む。そうして指先でさわさわと、軽く押したり撫でたりして確かめる。
「ふむふむ。レンの手、ここがこうなってるのね」
「いや、わざわざ確かめるまでもなくなんの変哲もない手ですよ」
「そう? そんなことないわよ」
じっくりと手を触って検分されるのが思ったより気恥ずかしかったのか、レンの顔が赤くなっている。
それを見てちょっと楽しくなりつつも、ミュリナはそっとある部分を指でなぞる。
「ここ、タコができてる」
小指と人差し指の付け根が固くなっている。レンのタコをひっかくように指先でこりこりと撫でてみる。同じように掌の中心部分からちょっと外れたところにも固くなった部分ができている。レンの固くなった部分を撫でて感触を確かめる。
「ま、まあ剣を武器にしてるんで、多少は」
「手の皮も、厚めよね」
「そりゃ戦闘職なんで、多少はですけど。でも他の人達に比べれば全然ですよ」
「まだ一年目だもんね。でも、やっぱり他の人とは違うじゃない」
自分とは全然違う、男の手だ。歴戦の戦士の手というわけではない。でも、なにもしていない手ではない。自分が見てきたとおりに剣の訓練を積み上げてきたのが触ればわかる。
指も自分のと比べればずっと太く大きくて、がっしりとしている。爪はちゃんと切ってるようでそんなに伸びてはいない。
手には性格が表れるし、何よりもやってきたことが如実に表れる。
「あたしの好きな、頑張ってるレンの手よ」
レンが何か言おうとして、でもなにも言えなかったようで口元をわななかせた。
ふふん、勝った。
相手が何も言えなくなるくらいの好意を伝えたミュリナは、自分の気持ちでレンの口をふさげたことを内心で勝ち誇る。
「あ、あのミュリナ。そろそろ……」
「やだ」
貸し付けの時間を区切っていない。まだ駄目だ。全然満足できていない。こうして触るだけでも、知らないレンが出てくるのだ。もっともっと貸してもらわないとだめなのだ。レンの手でできることを、できる限りしたい。
手で触って、目で見て、じゃあ次はと考え、すぐに思いついた。
「よいしょっと」
レンの手を顔の高さまで上げる。
そして、レンの手に頬ずりをした。
「んぅ」
自然に、鼻にかかった声が出た。
無意識に出たのは、自分でもびっくりするような甘えた声色だった。
別にほっぺたが特別敏感だなんてことはないのに、レンの手が当たっていると思うと、驚くくらいに神経が集中していた。
気持ちよかった。
「ぁ……んんっ」
ご飯をねだる猫のように、ミュリナはレンの手に頬を寄せて押し付ける。両手でレンの手を握ったまま、ほっぺたから首筋までレンの手を動かして自分に触らせる。レンの手がうなじを通り過ぎる時のくすぐったさが、ぞくぞくとミュリナの全身に駆け巡る。癖になりそうなほどの気持ちよさだ。神経なんて通っていない髪の毛までレンに絡みつきがっている気がして、ミュリナの意識がレンの手に没頭する。
欲しいな。
レンの手のせいで熱の上がったぼうっとした頭で、ミュリナの欲求がふつふつと沸騰する。
レンが、欲しい。
レンと二人きりで、レンの手を頬で感じて、首筋に滑らせて、気持ち良くて、理性と我慢が外れていく。体温が上がって、吐息が熱っぽくなる。
いったん、自分の頬からレンの手を離す。これで終わりと思ったのか、レンがほっと息を吐いたのが、ちょっと腹立たしかった。
まだだ。
頬から離したレンの手を、ミュリナは何も言わずに自分の口元にもっていく。
「え?」
戸惑ったレンの声が聞こえた。ミュリナは無視した。
レンの指先が、ミュリナの口元に近づく。もちろん、間違いでもなんでもない。ミュリナがしたいから、近づけているのだ。
ちょん、とミュリナの鼻先に人差し指が触れる距離。
ミュリナはレンの親指のお腹に、唇を、ちゅっと音を立てて口付けた。
びくぅっとレンの手が震えた。まだ終わらせるつもりはなかった。タガが外れかかった気持ちが、まだ終わらせるなと言っていた。
ミュリナはあえていまレンがどんな顔をしているのかは見ずに、そっと口を開き
「あむ」
口内にレンの指を、ちゅるり、と咥えこんだ。
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