記者の全肯定・前編
体がよく動く。
毛皮に覆われた獣の腕が、ぶん、と空気を揺らすような勢いで振り抜かれた。レンはバックステップで相手の一撃をやり過ごし、油断なく剣を構える。
レンが戦っているのは熊のような魔物だ。全身を覆う獣毛に、丸太のような四肢。鋭く尖った爪に引き裂かれたら、一撃で絶命することもあるだろう。その上、野生の獣では有り得ないことに、頭がなく腹に巨大な口が開いている。長い手足の間合いをくぐっても、凶悪な口が待ち構えているという寸法だ。
見た目からして恐ろしい魔物だ。少なくとも、冒険者になって一年と経たない新人では手に負えないと判断されている。
だがレンには、目の前の魔物が見掛け倒しにしか思えない。
巨大ではあるが、山のように圧倒されるわけではない。力はあるが、真っ正面から受けずに力を流せばしのげる。素早くはあるが目にも留まらない速度ではない。
これより恐ろしい魔物を、レンはいくらでも知っている。最深部で見た魔物たちに比べれば、どうとでもやりようはある。
対策はいくらでも浮かんだ。一対一で負ける気はまるでしなかった。楽勝ではない。楽観視しているわけでもない。堅実に戦えば、自分なら勝てるとはっきりわかる。
あとは周囲に気を配りながら闘うだけだ。仲間と連携して、必要ならば援護する。そのために、目の前の相手以外にも意識を割く余裕を作って戦う。
ミュリナは、そんなレンの戦いを眺めていた。
なにがあったのか、また一つ、冒険者としての闘い方が進歩している。彼の飛躍の瞬間を見逃したのが、彼の躍進の原動が自分でないことが、ちょっと悔しかった。
「ふふ、見とれちゃってるの?」
「うん」
横合いからの女剣士の問いかけ。その声音は明らかにからかいだったのだが、ミュリナはあっさりと肯定した。
「さすがレンだわ。カッコいいでしょう」
得意げな返答にあっけにとられてから、女剣士は微笑む。
「うふふっ、そうね。カッコいいわね」
「でしょ! ……あっ。いくらアルテナさんでも横取りはダメなんだからねッ。お兄ちゃんで満足してよ?」
「だいじょーぶ。ふふ、今日は帰りに一緒に寄り道しましょう? 話したいことが、いっぱいあるわ」
「……うん」
ミュリナが頬を染めて頷いた。
いつも張りつめていたミュリナが、こういう顔でああいうことを言うようになったのだと思うと、なんだかたまらなく嬉しかった。
ダンジョン探索が終わった帰り道。
今日はミュリナにデートのお誘いを掛けられなかったレンは、ころりと手のひらで紫色の結晶を転がした。
「どうしよっかな、これ……」
ダンジョンの最深部で手に入れた恩寵。これを割れば、奴隷少女ちゃんの『咎』とやらがわかるという。
正直なことを言うと、レンは奴隷少女ちゃんのことを知りたい。好きな相手のことである。知りたくないわけがない。知れれば、奴隷少女ちゃんに近づけるかもという気持ちはある。
だが、勝手に使っていいものなのか。
『咎』というのが具体的になんなのかは知らないが、奴隷少女ちゃんに関わることであるのは確かだ。しかもダンジョンの最深部に現れるようなものである。心の奥底にしまい込んでいるものであるからには、他人に知られたいものではないだろう。
イーズ・アンが人の心の機微に触れない人間であることは、なんとなくわかっている。あの人はあの人ですごい人であるが、だからこそ彼女の行動指針に従えば正しいというわけでないということは悟っていた。
勇者は言った。あの子は絶対に話さないだろうから、そうやって知るのもいい、と。
アニキさんも言った。お前がどうするか決めろ、と。
二人とも、使うなとは言わなかった。その言葉がレンのためではなく、奴隷少女ちゃんのためだということは理解していた。彼らはきっと、知っているのだ。
過去に、奴隷少女ちゃんに何があったのか。
「……なにが、あったのかな」
レンには、想像もつかない。
もしかしたら知らない方がいいことなのかもしれない。だからこそ、レンは迷っていた。
そもそも人の過去は、勝手に覗き見ていいものではないはずだ。
そんなことを考えていたからだろう。足が自然と公園広場に向けられていた。奴隷少女ちゃんのところに行くと、今日もお客が先に立っていた。
「あなたが、どんな悩みも吹き飛ばしてくれるという『奴隷少女ちゃん』ですか」
眼鏡をかけた女性だ。二十代前半だろうか。レンズ越しの瞳をどんよりと曇らせている。奴隷少女ちゃんのもとに来る顧客の例に漏れず、日々の生活で疲れた人物である。
「ふふ、珍妙な格好をしていますね。ここは、どんな愚痴を叫んでもよい楽園だと聞きました。間違いありませんか?」
「……」
「私は、記者をやっています。もちろん今日はただの私用で来たのですが……それでも、ここであなたの商売を利用してもいいですか?」
「……」
珍妙と言われた奴隷少女ちゃんは、いつも通り楚々と微笑んでいる。ちらっとだけ一瞬レンを見たが、何も言わず表情も変えず、眼鏡の女性、記者さんの言葉に無言でこくりと頷いた。
「では、よろしくお願いします」
疲れ切った顔をした記者さんから千リンを渡される。
奴隷少女ちゃんが、ゆっくりと口元からプラカードをのける。彼女の形のよい口元とあご先があらわになり、口が大きく開かれた。
「わかったの!!!!! 他人に伝える言葉と自分の心の言葉は常に一致するとは限らないの!!!!! だからここではあなたのお悩みを素直に吐き出すといいのよ!!! えへっ!」
きゅるんとあざとい笑顔が輝き、ハスキーボイスが一気呵成に放たれた。