我慢の全肯定・後編
レンがお風呂場に引きこもった後、しばし呆然としていた女魔術師は肩を抱いていた姿勢を解いた。
予想外のことすぎて、ふにゃりと力が抜ける。座っている椅子の背もたれに、自然と体重がかかった。
ぎしり、と音が鳴った。
「なによ、あいつ」
女魔術師の胸の内で、何かの感情があった。
今日、帰宅する前は無性にイラついていた。自分がいない間に美人のシスターさんと会っているレンを目撃してしまい、なんだか収まりのつかない感情が湧いた。あんな奴にご飯など作ってやるかと思って、普段はあまりしない外食をして一人で食べて、帰った。
その後の会話で自分の勘違いを知って、つっけんどんな態度をとってしまったのもあって料理をしてやろうと思った。相変わらずバカみたいに喜んで、簡単な奴だなぁと呆れつつも嬉しかった。
だって、後輩相手なのだ。喜ばれて、先輩として悪い気がするわけもない。
だからお風呂上がりにレンが悩んでいる勉強を見てやろうとも思った。神典の原著に対する知的好奇心もあった。先輩として知識を伝授してやろうと隣に座って教えていたのだ。
それなのに。
「いきなり、あんなこと……」
前触れもなく変なことを言い出して、という思いはある。
でも怒りは湧かなかった。
面と向かって言葉に対しての羞恥心と、それ以上に今まで自覚していなかったことを言われたことに対する戸惑いが大きい。
エプロン姿がかわいいだとか、寝間着姿の体が綺麗だとか。
「……っ」
レンと触れていた肩に掌を当てて、ぎゅっと握る。
そもそもレンは自分を好きだと言っていた。というか、若い男女が一つの部屋にいるのだ。異性の視線に思い至らなかった自分の経験のなさが問題だったのだろう。確かに無防備だった。それ自体は、女魔術師も反省している。
危機感が足りないとは、そういうことだ。
その結果、レンから下心があったと、そういう目で見てしまったと言われた。
「あいつが……」
ここは普通、気持ち悪いと思うべきなのだ。
変な目で見るんじゃないと怒る場面なのだ。
でも、なんというか。
「あいつが、わたしで」
女魔術師は、もぞりと身をよじらせた。
そわそわする気持ちと同調して、無性に体がムズムズして落ち着かなかった。
むろん、知らない他人からだったら、下卑た視線を向けられるだなんて想像しただけでも怖気が振るう。たとえ顔見知りだろうと、劣情を抱かれるなんて気持ち悪くてたまらない。体を触りたいなんて言われたら嫌悪で撥ねつける。
でも今回は、それを言ったのは自分の後輩であるレンで。
「きれい、とか。かわいい、とか」
レンの台詞を復唱するとともに漏れた自分の吐息が、なぜか熱っぽい。
もちろん、女魔術師はよくある褒め言葉をもらっただけで喜ぶほど簡単な人間ではない。
容姿が優れた彼女にそういった褒め言葉を投げかけてくるような人間は今まで他にもいた。同性からも異性からも、賞賛の言葉は浴び慣れている。女魔術師はそれらをさらりと受け流す精神的な余裕を持ち合わせていた。
けど、見るたびに頑張っている、あいつだったら。
最初の最初、ど新人だった時から自分が見てきて、成長して、不器用ながらたくましくなっているあいつだったら。
自分のことを好きだって言って、それでも今まで強引に迫ってくるようなこともなくて、でもそっと寄り添ってくれるようなあり方をしてくれて、自分が無理なことを言っても迎え入れてくれて、とうとう我慢できないからってあんなことを言ってきて、それでも我慢するって顔を真っ赤にして言ってきたレンに、だったら。
見られて、思われて、伝えられることが、なぜか嫌じゃなかった。
きれいだって、かわいいって、我慢しなきゃどうにかなりそうだって、自分を見て、そう言って、くれた。
レンが言った台詞を思い出すだけで、とくとくと心臓が脈打って、じんわりと湧いてくるこの感情は。
「ね、寝るわよっ」
誰に言うでもなく言い放って、女魔術師は部屋の灯りを消す。
荷物をまとめて出て行こうとは思わなかった。レンから遠ざかろうだなんて感情は、発想からしてなかった。
だから女魔術師は、当然のようにレンの部屋で寝泊まりを続ける。レンのベッドに、潜り込む。
レンが引っ込んだ風呂場からは、灯りが漏れていた。レンがぶつぶつと原典の文章を読み上げる声が漏れ聞こえる。
自分が言った通り、まずは神典の音読をしているのだろう。
耳にかすかに届くレンの声。素直で、頑張っていて、不器用な少年の声。それが女魔術師の耳に入り込む。
すうっと呼吸をして、布団に残る自分以外の香りを感じる。慣れたのか、薄れたのか。毛布から感じるにおいは初日ほどでもない。
でも、なんというか。
「……」
女魔術師は自然と布団の中で内またになって、とん、と膝を合わせる。とくとくと脈打つ自分の心臓。とめどなく湧き上がってくる甘い感覚に、無意識のうちに太ももをこすり合わせる。毛布を口元に寄せ、そのまま呼吸を無意識に任せる。瞳を閉じて、耳に聞こえるレンの声を意識する。
耳と、鼻から、レンが入り込んでくる。
包まれているな、と思う。
においも、音も、少しずつ自分とレンが混じり合っているようで。
それが、とても落ち着いて。
寝そべりながら耳と鼻でレンを感じるのが、なんだか癖になってしまいそうなほど心地よくて、心がおぼれてしまいそうで。
これが、目で近くいるレンの顔を見ながらで。
それで、すぐ傍で寄り添って、肌もになったら。
さらに、唇で、なんて。
「ふゃ、ん」
思わずしてしまった妄想、初めての感情に、自分の気持ちで訳も分からなくなるほど心がさまよう。
見知らぬ自分に、浮つく感情に翻弄された女魔術師はじわりと目尻に涙を溜める。違う、違う、なんだこれと言い聞かせ、問いかけ、全部が徒労に終わってから回る。
知らない気持ちを確かめるように、ぎゅうぅっとレンの毛布を抱きしめて、声を震わせる。
「なによ、これぇ……!」
冬だとは思えぬほどに、自分の体温が熱かった。
次の日の朝。
目の下にくまを作ったレンは、ぽうっと指先に光を灯らせた。
「おお、俺すげえ……」
昨日までできなかった秘蹟の行使に、自画自賛。
一晩全力で神典を数冊読み込んだ結果、レンは浄化と治癒が使えるようになっていた。
実際、どの程度の効果があるのかは試してみないとわからない。だが、ないよりはずっといいはずだ。
「ははは……あー、疲れた……」
やればできるじゃんと自分の成果を誇らしげに笑って、ぱたりと腕を地面に落とす。
一晩中、やばいほど頭を回転させていた。いまから寝るかと目を閉じようとして、ふと、食事の香りがレンの鼻先をくすぐった。意識してみれば包丁がまな板を叩くリズミカルな音も聞こえる。女魔術師が、料理をしている気配だ。
「先輩……出て行って、ないんだ」
女魔術師が扉の向こうにまだいることが少し意外で、ちょっとほっとして、それ以上に顔を見せるのが怖かった。
あんなことを言った翌日にどの面下げて女魔術師と顔を合せればいいのか。
よろよろと立ち上がったレンは、風呂場から這い出る。
「おはようございまぁ!?」
とりあえず、何事もなかったかのように挨拶をしようとして、キッチンで調理している女魔術師が裸エプロンをしていたのを見たレンは自分の目を疑った。
「おはよ」
愕然としたレンに、女魔術師は平然と挨拶を返す。
なんだこれは自分は寝落ちていていやらしい夢でも見てるのかと目を血走らせて、気がついた。
女魔術師は寝間着の上からエプロンを付けていたのだ。ただ、キャミソールにショートパンツのスタイルなのでちょうどエプロンで隠されており、正面から見ると素肌にエプロンを付けているように見えてしまっただけである。
「あ、なんだ。寝間着の上にエプロン付けてたんですね」
「なんだとはなによ。ちょっと起きるのが遅かったから寝間着のままエプロンを付けただけじゃない」
じとっとした半眼に、咎めるような口調。
「そう、なんですね。あ、そうだ。昨日はすいません。変なこと言って」
「いいわよ。気にしすぎたらめんどくさいし。あたしはご飯を食べ終わったら着替えるから、その時はお風呂場に引っ込んでなさいよ。それと、さっきの反応はなに?」
女魔術師は鍋をかき混ぜていたお玉を片手に腰に手を当て、膨れ面ですねたように口先をとがらせる。
「この格好は、きれいでもかわいくもないって言うの?」
「い、いや。似合ってますし、だからこそ問題っていうか、その。……すごく、かわいいです」
「あっそ」
言葉だけは素っ気なくも、レンからは絶対に表情が見えない角度を向いた女魔術師は、にへらと頬をゆるませる。
褒められた。嬉しい。予想通りのレンの反応が見れて、どうしようもなく嬉しかった。
なんでわざわざこんな格好をしたのか、実は女魔術師にも分かっていない。いいや、たぶんそれは嘘だ。彼女はきっと自分で自分の行動理由に気づきつつあって、でも、自分に課した欺瞞が心地よいからこそ自分自身で誤魔化している。
自分が先輩で、あいつが後輩だからと。
「あの、先輩っ。俺、昨日も言ったんですけど――」
「なによ、あんたが昨日言ったんでしょ」
あんまり無防備なことはしてほしくない。そう言おうとしたレンの唇に、女魔術師は持っていたお玉を当てて台詞をさえぎる。
そして、にこりと微笑んだ。
「我慢、してくれるんでしょ?」
なにも言い返せなくなるほど魅力的な表情で、なにを我慢してでも守りたいと、これからもずっと見ていたいと思わせる笑顔だった。
ふっとレンの全身から力が抜けた。
不思議な感覚だった。ぷつんと理性の糸が切れた昨夜のとは異なり、体から余計な力が抜けて、手足の先から心が暖かくなっていく。
「……はい、先輩」
「よろしい、後輩」
上機嫌に頷いた女魔術師は、エプロンの裾を揺らしてくるりとキッチンに向き直る。その後ろ姿を目で追いつつ、レンは席に着いた。
予想外のことすぎて、ふにゃりと力が抜ける。座っている椅子の背もたれに、自然と体重がかかった。
ぎしり、と音が鳴った。
「何なんだよ、もお……」
うめいたレンの胸には、温かい感情が芽生えつつあった。
昨日の衝動と少し似て、でも全然違うなにか。
それが何なのかわからない。
でも。
「いくらでも我慢しますよ、はい」
それで女魔術師の笑顔が保たれるなら。
大切にしたい宝物のようななにかを胸に抱えて、レンは誓うように呟いた。






