我慢の全肯定・中編
女魔術師が作ってくれた食事はやはり素晴らしかった。
甘辛く味付けたタレのかかった魚の照り焼き。ふわりとほぐれる身と脂の乗った旬の魚特有のとろろりとした舌触り。夕食だから軽めだと言っていたが、充分に満足できた。
あの味を再現するためには、と横で見ていた手順を思い返す。
「魚をさばくには、ああして……」
「なにやってるの?」
宙で手を動かして包丁の動きを再現していると、後ろから声をかけられた。
湯上がりの女魔術師だ。薄着の寝間着姿で、タオルで長い髪を挟んで湿気を取っている。
エプロンの時と同様、寝間着姿も二度目だから初日ほどの衝撃はない。けれども華奢で柔らかそうな手足が無防備にさらされており、白い素肌へと吸い寄せられるような魅力は健在である。
「料理の手順の復習をしてました。すごくおいしかったですからね。ぜひ、自分でも作れるようになりたいです」
「ど、どーも。あの程度なら、また作ってあげるわよ」
「ほんとですか!」
目を輝かせて喜ぶレンに、女魔術師はぷいっとそっぽを向く。頬が上気しておるのは、湯上がりだからだろう。
「そ、それよりっ。料理もいいけど、神典を読んだら?」
そうだった。
女魔術師に言われて神典の存在を思い出し、レンの眉にしわが寄る。
「確かにそうなんですけど……」
レンはため息を吐いて改めて本を開く。せっかく有名人からもらったものだし、有効に使いたい。これまでのダンジョン探索で秘蹟の有用さも知っているから、使えるようにはなりたい。
だがこの神典は、読んでみても頭が痛くなるばかりなのだ。
「これ、難しいんですよね」
「聖人謹製の写本、ね。読んで損はしないけど、読みにくいでしょうね」
「そういえば先輩、神典についての知識ってあるんですか?」
「なめないで欲しいわね。基本くらいはさらってあるわよ」
「おお、さすがです」
女魔術師の博識さに感嘆してから、あれっと疑問が湧く。
「でも俺、先輩が秘蹟を使っているとこ見たことないですけど」
「あたしは使えないもの、秘蹟は」
意外な返答だった。
神典の知識があるというのならば、多少は使えるものだと思っていたのだ。というか単純に、女魔術師にもできないことがあるというのが意外だった。
「使えないんですか? 先輩でも?」
「むしろ魔術師だと使えない人のほうが多いわよ。一神教で構築された神秘領域と物質主義で構成された英知界は相性が悪いから」
「どういうことですか?」
よくわからないという顔をしているレンに、髪の湿気取りを終えた女魔術師はどう説明したものかと視線を宙にやって一瞬だけ思案。レンへと質問を投げる。
「あんた、神様はいると思う?」
「そりゃ、いるんじゃないですか?」
疑うことなく神の実在を信じていると返答する。レンのような田舎出身者には、特に教会の影響が強い。当たり前に神はいると思っているというか、幼少からいると聞かされるから実在を疑問に思うことがないのだ。
そんな彼に、女魔術師は肩をすくめる。
「私はいないと思っている。それだけのことよ」
教会の教えだけ受ければ、神の実在など思考しない。ただ高等教育を受けると、自然と神の実在への疑念が湧く。
女魔術師は、少なくとも教典にあるような神はいないと思っている。たったそれだけのことで神秘領域への接続の道は閉ざされ、秘蹟は使えなくなるのだ。
「これは借りた言葉だけど『物質主義は固すぎる』のよ。わからないものをわからないまま現象にはできないの。失敗するにせよ成功するにせよ『こうすればああなる』っていうことの積み重ねだから、観測外のものに対して『かくあるべし』っていう一神教に対して信用に足りる重みがなくなるのよ」
「やっぱ、ちょっとわからないんですけど……」
「細かいとこは気にしなくていいわ。あんたは使えるようになるだろうし。……そうね。あんたみたいに教養の素地がない方が、教え方次第で秘蹟も魔術も十分なレベルまで使えるようになるかもしれないわね。――ちょっと見せて」
そう言って女魔術師は、レンの横に座る。
ずずっと椅子を寄せて、さらに近距離に。ふわりとたなびく金髪が頬をくすぐり、湯上がりの高めな女魔術師の体温が空気を伝ってレンの肌に伝わってきた。
女魔術師は髪をかき上げ、隣から覗き込むようにしてレンの手元にある聖書の文言を指でなぞる。
「ふうん。活版の聖書に比べると、表現も古典的だし理解しにくいわね。とりあえず、声に出して読んでみなさい。聖書なんて読み聞かせが前提で音の響きも重要視されてるから、それだけでもだいぶ違うわ。韻を踏むためだけに表現を凝ってる部分は飛ばしなさい。それと歴史的な背景を知れば、理解も進むわよ。例えば――」
キャミソールコーデに、ショートパンツの寝間着。肩からむき出しになった二の腕が押し付けられるように触れる。やわらかい。女の子だ。
レンの頭に血がのぼる。どくどくとこめかみの血管が脈打つ音がうるさい。無意識のうちに、視線が女魔術師の胸元に、あるいは太ももに向かってしまう。接触部分から自分の心臓の鼓動の高鳴りが伝わってるんじゃないかと、もっと言えば下心がばれるんじゃないかと、変な熱気でゆだりそうになる。
真剣に教えてくれる女魔術師には申し訳ないのだが、とても集中できたものではない。だが女魔術師は善意でレンに教えてくれるのだ。なんとか聞き漏らさないように、なけなしの理性を総動員させる。
「――ってところかしら。関連文献も揃ってるみたいだし、とりあえず、こんなものね」
本を覗き込んでいた状態から不意に顔を上げる。
「わからないとこ、ある?」
至近距離からの自分を見つめる女魔術師の顔が、キッチンで無防備に笑った時と、重なった。
「――」
ぷつん、とレンの理性の糸が切れそうになった。
頭が真っ白になりかけた。右手が動きかけた。女魔術師の肩を押し倒して、抱きしめてやわらかさを感じたかった。キャミソールの肩ひもを外して、隠されているきれいな体を余さず見たかった。
好きだとか、愛おしいだとか綺麗な感情ではない。頭から決壊した衝動に流されかけた。
人間らしい言葉が全部なくなりかけた瞬間、頭の中で一つだけ、言葉が残った。
我慢していることは、絶対に伝えなさい。
「あ、のッ、先輩……!」
「なに? 質問ならちゃんと答えるわよ」
「そういうのじゃなくて、俺、我慢してることがあって」
左手で、勝手に動いた右手を痛いくらいに抑えつける。
シスターさんの言葉を思い出して、ギリギリで理性を取り戻したレンは思い切って自分の気持ちを告げる。
「実は俺、先輩がエプロン姿の時とか、いまの寝間着姿とか、かわいくてドキドキというか、なんか、見てるとたまらなくなっちゃって」
「……は?」
何を言われたのか、頭が理解するのに間が必要だったのだろう。
一拍の間を置いて、ぼんっと顔を真っ赤にする。
湯気や熱気が見えそうな赤面具合だ。女魔術師はとっさに椅子ごとレンから距離をとって、ばっと自分の肩を抱いた。
レンの視線を遮って身をかばうための動作だったが、逆効果だ。やわらかな胸が寄せられ、谷間が強調される。
レンは全力で視線を引きはがし、うつむいた。
「その、近くにいたり、先輩のきれいな体に触れたりすると、なんていうか……いまも、頭が真っ白になりかけて、もっと見たいとか触りたいとか思っちゃって、すいません。最悪ですよね、俺」
「な、え、あ、いや」
女魔術師は口をパクパクさせて、まともな返答もできない状態だ。
レンはまともに彼女を見れない。こんなことを言っている方も恥ずかしい。あなたに興奮しましたなんて伝えるのなど羞恥の極みだ。それでも取り返しのつかないことだけはしたくないと、レンは台詞を絞り出す。
「でも、我慢するんでっ。変なことは、絶対しないんで! それだけ伝えたかっただけなんでっ。すいません、それだけです!」
レンはそれだけ言って、本を数冊抱えて風呂場に引っ込む。とても女魔術師の反応を待つ気にはならなかった。
あんなことを言ったのだ。気持ち悪いと思われたに決まっている。今頃レンの言葉に怒って荷物をまとめているかもしれない。それならそれでいいと思う。レンがアホでどうしようもないバカだと、それで済む話だ。
常連のシスターさんの助言の通り、我慢していることを伝えた。そのこと自体に後悔はない。あの助言がなければ、自分が何をしていたかわからなかった。本当に今日、話を聞いてよかったと思う。
ただ、失望されたかもしれないと思うと、怖かった。
浴槽にもたれかかっていた背中が、ずるりと滑る。
どうしようもないことに、この段になっても目をつぶると思い出してしまう。
腕に触れた二の腕のやわらかさ。鼻をくすぐる湯上がりの香り。寄せられて強調された胸の谷間。
「バカか俺は……」
変なことをしないと言ったそばからこれだ。
理性が飛びそうになったという事実からくる自己嫌悪が胸を満たした。
たぶん女魔術師がレンの家に来たのは、彼女がレンに好きな相手がいると知っているからだ。奴隷少女ちゃんを好きになった日に忍び込んだ、神殿での告白。自分はぽろりと女魔術師に好きな人がいると伝えていた。だから女魔術師は、他に想い人がいるレンが変なことをするはずもないと、あんな無防備な態度をさらしているのだ。
だというのに、自分は。
「最低かよ……」
女魔術師は、そういうんじゃ、ないのだ。
自分より強くて、はっきりとした意志を持っている人で、現実へ挑戦することの明度がすごくて、目標へと邁進するあの人の価値は、自分のくだらない視線で見ていいものじゃ、ないのだ。
レンは神典を開く。
自分への怒りでまなじりを吊り上げ、挑戦する。
女魔術師は秘蹟を使えないと言っていた。同時に、レンなら使えるようになるかもしれない、とも。
あの人ができないことをできるようになるのだ。
そうすれば、少しだけ何かが取り戻せる気がした。
「全部、読み込んでやる……!」
どうせ明日は休みだ。夜を徹して頭を酷使させてやると、レンは風呂場の明かりを頼りに原典に目を通し始めた。






