騎士の全肯定・前編
レンの視界に、黒い影が立ちふさがった。
全身鎧でも纏うように隙なく体を甲殻に覆った魔物。ぎちぎちとかみ合わされる大顎。人の背丈ほどもある巨大な昆虫が目の前にいた。
その姿は、蟻。群れであり、自己はない。末端の一匹まで統制されて効率を突き詰めたような感情のない動き。統率を体現したような群体生物。
ダンジョンが人の感情の寄り集まりだというのならば、この光景も人の中にあるはずのものだ。
だが、この無機質な魔物は人の感情のどのような部分から生まれるのか。
「はァっ!」
そんな疑念を抱かずにはいられないような魔物に対して、レンは恐れずに剣を振るう。
肉体強化に武器強化。経験を積み重ね、感覚的に行使できる近接魔術。闘うための魔力運用は、レンの能力を引き上げる。
黒い甲殻を叩き斬った刃が、魔物の頭を割る。
頭部を二分割にされ、それでもなお相手は動く。昆虫を模しているからか、それとも別の理由からか。頭を失っても簡単には死なない。
レンは動きを止めない。体の中心と、下腹部。三つの副脳を叩き割る。殺害というよりは、機能停止というのがふさわしく蟻の魔物が動きを止めて崩れ落ちる。
「っふ!」
鋭く息を吐いたレンは、一回の勝利に浮かれることなどしない。
一匹で止まっている暇などありはしない。続けて、二匹目三匹目と。鋭く、余分なものを削ぎ落とした剣で節の生えた前足を切り落とし、時には徒手空拳も混ぜた闘術で巨大な蟻たちと渡り合う。
もちろん、レンのみならず他のパーティーメンバーも同等以上の活躍をしている。
特に主力の四人のうち三人は巣穴に突入して、女王蟻を狩りにいっている。
残り、レンも含めた主力には及ばない四人と弓使いの先輩冒険者を含めた五人がオトリとなって、巣穴から兵隊蟻を吐き出させているのだ。
地上に弓使いの先輩冒険者が残っているが、彼の援護がレンのところにだけ重きを置かれているということはない。状況に即した魔術を矢に込めて、相手の群れを削り取る。未熟者をフォローする動きではなく、前衛を壁として扱う代わりに後衛としての役割の本懐をこなす。
レンは前衛の一人として、過不足なく機能し始めているのだ。周りとの連携、個人としての技量。どちらも十分に備わりつつある。それを感じて、弓使いの先輩冒険者は口元をほころばせつつも、一矢。放った矢は、蟻の群れの中腹に食い込み巨大な爆発を起こして削り取る。
そうして奮戦している地上。
「……へえ」
女王蟻の討伐を無事終えて巣穴から出てきた女魔術師は、真っ先に吐息を漏らしてレンの活躍に目を奪われる。
兵隊蟻は決して弱い魔物ではない。彼らの体を覆う甲殻は肉体強化、武器強化のない人間の攻撃ならば残らず弾く強度を持つ。動きこそ速くはないが、機械的なまでに徹底された集団戦法は脅威的だ。
それを、レンはさばいて打ち倒している。
何でもない魔物の一匹に怯えて、荷物をバラまいた少年。女魔術師が初日に役立たずと見下した彼は、パーティーに入ったばかりの頃では考えられなかった成長を遂げている。
それに、女魔術師が何を思っているのか。
知らず、レンの戦いぶりに見入っている女魔術師の様子に、微笑ましいなぁと女剣士が声をかける。
「ふふっ。頑張ってるわね、レン君。思わず見ちゃうのもわかるわぁ」
「――はぁ!? いやっ、ちが!」
自分の視線の先を指摘され、びくんっと少々過敏な反応をした女魔術師は、とっさに一拍間を置く。
呼吸を入れて精神を落ち着けた彼女は、顔を背けて、すまし顔。
「違いますっ。あの新人が危なっかしいから注意を払ってるだけです。……先輩として!」
少し強すぎる否定を放って、頬に赤みを残した女魔術師は蟻の群れに突っ込んでいく。すれ違いざまに兵隊蟻を焼いて切り刻むその力量は、近接戦闘だけに絞ってもやはりレンと比べれば数段上だ。
あらあら、と笑いながらも女剣士は剣を一振り。寄ってきた魔物が数体、まとめて切り刻まれて四散した。二人の様子を呆れ顔で見送ったリーダーは、秘蹟でもって結界を発動し、範囲の指定で浄化を放つ。
やはり、まだまだレンの力は未熟で発展途上。
けれどもレンも、ようやく彼らと比べる量りに乗せられるほどに成長し始めていた。
レンが主に食費を削って奴隷少女ちゃんのもとに通うようになって早一週間。
レンは絶好調だった。
「今日も失態はゼロだぁ!」
何か突出して功績を挙げたわけではないが、レンのような初心者にとって、周りの足を引っ張らないで戦えるようになったという喜びは大きい。
最近、自分は強くなっている。
その実感がわいている。戦いの時に視野が広がった。思う通りの動きができるようになってきた。自分で自分の役割が見いだせてきた。主力の四人には及ばずとも、他の四人に混ざって足を引っ張るようなこともない。
それが、たまらなく嬉しい。
「これも奴隷少女ちゃんのおかげだな!」
最近の好調の理由を、レンは笑顔で断言する。
間違いない。奴隷少女ちゃんのもとに通うようになってから、ぐんぐん調子が上がっているのだ。
最初は奴隷少女ちゃんとお近づきになりたいだなんて気持ちがあったが、そんな下心を抜きにして、一利用者として自信を持っていえる。
奴隷少女ちゃんの効能は素晴らしいのだ。
なにせ人間、日々ストレスが全くないなどありえない。いいや、ただストレスを叫ぶだけではない。今日の自分の成果を奴隷少女ちゃんに告げて全肯定してもらう。あの快活な声で、自分の積み上げてきたものを全肯定されると、嬉しくてしょうがない。もっともっとやろうという気持ちになるのだ。
褒めて伸ばしてくれるとは奴隷少女ちゃんのことだ。
もはや奴隷少女ちゃんの全肯定は生きがいだ。素晴らしい日々とはまさしくこのことである。
奴隷少女のいない日々など考えられない。一日一奴隷少女ちゃん。完全にレンの日課として身についた。
そんなわけで今日も今日とて冒険終わりに奴隷少女ちゃんのいる広場に向かうと、途中で知り合いと顔を合わせた。
「ありゃ、レン君」
「あ、こんにちは」
二十代半ばの、どことなく清楚な雰囲気のある女性。つまり、常連のシスターさんだ。
神殿から公園広場に向かう道。つまりはどちらも奴隷少女ちゃんに会いに行くという目的地は同じである。見なかったことにしてすれ違うことにするような仲でもないと、にこやかに挨拶を交わす。
「レン君も、これから奴隷少女ちゃんのところに行くの?」
「はいっ、そうなんですよ!」
このシスターさん、どうもレンたちのパーティーの探索終了時間と彼女の退勤時間が重なることが多いらしい。今日のように道中を共にもするのは初めてだが、奴隷少女のいる広場ですれ違ったりすることが多かった。
「最近、レン君も調子がいいみたいだもんね。やっぱり、奴隷少女ちゃんのところに通うようになると、一日の締めが一味違うもんね」
「一日の終わりに全肯定をしてもらうと、充実感がまるで違いますよね。いいことがあれば、いいことを思いっきり全肯定してもらえますし、悪いことがあれば励まして全肯定してもらえますもん。帰った後の寝つきも、今までとは違うんですよ!」
「そうなのよ! 完ぺきな一日の締めとは、奴隷少女ちゃんのことだわ。まったく、奴隷少女ちゃんを知らない人はかわいそうよね」
「間違いないです! あ、俺、冒険者を続けるつもりなんで、これからもシスターの皆さんとは良好な関係でいたいです」
「ふふっ。私もよ。冒険者のみなさんはお客さんだし、レン君みたいなちゃんとした子が増えてくれると嬉しいなって」
同じ奴隷少女ちゃん愛好者同士、にこやかに話しているようだが内実は違う。お互い愚痴のことは外で口外しないようにしよう、という遠回しな確認である。
なにせレンとシスターさんは、顔見知りなのだ。しかも神殿のシスターとダンジョンを探索する冒険者という日常的に仕事で顔を合わせやすい間柄だ。奴隷少女ちゃんに叫んでいる愚痴を周囲にばらまかれたら、非常に困った事態に陥る。
かといって、お互い奴隷少女ちゃんの利用ができなくなるのは困る。日々の癒しなのである。日々の活力なのである。もうこの二人は、その日にあったことを奴隷少女ちゃんに叫ばずにはいられないのだ。
だからこそ、奴隷少女ちゃんに話したことは絶対口外不可と、明言を避けつつも牽制し合っているのだ。
「そういえばレン君、最近なんか痩せてきてない? 大丈夫? ちゃんと食べてる?」
「え? ぜんぜん大丈夫ですよ。むしろ、調子がよくなっているくらいですよ」
移り変わった話題に、レンは絶好調だと明るい表情で答える。
もちろんレンは最近、あまり食べていない。
一回千リンをねん出するために、レンは生活を削っている。
生活費を削る際に最初に犠牲になるのは食費であり、最後に犠牲になるのも食費だ。つまり、いまのレンの食糧事情は最低限。かつてない粗食を強いられている。
だが不思議なことに、レンの調子は上がっている。明らかに魔力の量が上がっているし、その運用も上手くなっている。むしろ最近、水と塩だけで生きていけるんじゃね? という感覚だ。事実、昨日から水と塩だけの生活を送っているというのにまるで問題がない。むしろ冴えに冴えていた。
「俺、知らなかったですよ。人間っていうのはずいぶんと余計なものを抱えていたんですね。体が軽いです。こんな気持ち、初めてですよ!」
レンは熱っぽく語る。人間は、強くなるためには切り詰めるものなのだ。そうすることによって感覚が鋭敏になっていく。余計なものがそぎ落とされることで、鋭くなる。
そう、自分は真理に到達しようとしているのだ。
「俺、ちょっとわかってきたんです。強さっていうのは、肉体の呪縛から解き放つ先にあるんですよ!」
「そ、そう……」
シスターさんは若干引いていた。
そういえば断食修行をしていた知り合いが最終的にこんな感じになっていたなと思うが、シスターさんはあんまり深く考えないようにした。正直、レンとシスターさんはプライベートに深く突っ込むほどの関係ではないのだ。変なことを言ってるなと思ったら、そっと一歩引いて触れないようにする。それも人間関係を円滑にすすめる一つの手段だ。
そうして雑談をしながら話し合っているうちに、広場に到着する。
「ありゃ」
シスターさんが残念そうな声を漏らしたのは、先客がいたからだ。
プラカードで口元を隠す奴隷少女ちゃんの前に立っているのは、体つきのよい生真面目そうな男である。
「あれは、騎士ね」
「騎士、ですか」
シスターさんが断定した理由が分からずにレンは小首をかしげる。
確かに体格の良い男性だが、別の職種の肉体労働者だという可能性もあるし、それこそ冒険者かもしれない。もちろん騎士の隊服を身に着けているわけでもなし。見た目だけで判別できるものだろうかと疑念を抱くのは当然だ。
だがシスターさんは絶対の自信を持っていた。
「ええ、筋肉の付き方でわかるわ」
普通、分かるものなのだろうか。
さらに疑念を深めるレンに、シスターさんは説明を続ける。
「冒険者と違って、騎士隊って訓練の仕方が統一されているから筋肉のつくりも似た感じなるのよ。僧帽筋の部分とか――ほら、あの前鋸筋の付き方とか! あれは絶対に、騎士隊の素振り訓練の結果よ!」
「いや、ぜんぜんわかりません」
「そう? レン君もまだまだね!」
シスターさんが言っている部位がどこなのかすらレンにはわからない。たぶん、シスターさんとレンとでは目指す場所が違うのだ。
しかし、あの男性が騎士と聞いたレンは、少し不穏な予感を捕らえた。
もしや、取り締まりに来たのか。
騎士と聞いて、レンの頭に真っ先に思い浮かんだ可能性がそれだ。
絶対にないとはいえないことである。ここは公園の広場。明らかに公共の場所だ。なにがしかの商売をするにしても、行政の許可はいるはずだ。
それに、とレンは思う。
奴隷少女ちゃんは、ちょっと裏社会的なものと関わりがあるっぽい。努めて深くは考えないようにしていたが、それ関連で騎士が探りに来たのでは、と勘繰ってしまう。
レンとシスターさん、二人が見守る中、騎士の男は千リンを取り出した。
「これでお願いする」
堅苦しい口調だが、普通にお客だった。
楚々と微笑む奴隷少女ちゃんは、騎士さんから千リンを受け取る。
隠れていた口元があらわになり、奴隷少女ちゃんの美貌がさらされる。
「わかったの!!!! これから十分、あなたの言いたいことを全部叫ぶのよ!!!!!!! えへっ!」
通りのよいハスキーボイスが広場に響き、あざとくも清冽な笑顔が輝いた。