悩める青年は全否定・前編
レンは連れてこられた部屋にいる二人を前に、縮こまっていた。
連れてこられた部屋に同室しているのは『聖騎士』スノウ・アルトと『聖女』イーズ・アンだ。
ここに連れてこられる際に、有名人であり見た目だけなら美女である二人を侍らせているように見えなくもなかったレンは、いらぬ嫉妬を買ったりもしていたが、周囲の感情に構っている余裕など現在のレンには皆無だった。
レンは絶望していた。
知り合いのシスターさんに恋愛相談をしに教会に来たら、この仕打ちである。しかも当のファーンには見捨てられた。頼れるお姉さんに見放された事実が、結構なショックをレンに与えていた。
自分はそんな罪深いことをしただろうか。もし罪深いことをしたにしても、いくらなんでもちょっと天罰てきめんすぎないだろうか。進退極まったレンが現実逃避を始める程度には危機的な状況だった。
「少年。いかような用向きか」
「ああ、大船に乗ったつもりで相談するがいい。私たち二人が揃えば、どのような敵でも突破できるぞ。」
問いかける二人の目はまっすぐだ。イーズ・アンはいつも通りに無表情だが、スノウは朗らかにレンへと笑いかける。知り合いが困っているなら助けてやろうという、やや上から目線ではあるが善意に満ちた態度だ。
「…………」
レンは無言のまま、ゆっくりと瞳を閉じた。
現実が、見るに堪えなかった。
この二人に恋愛相談をするくらいならば、道端の野良猫に愚痴ったほうが百倍ましだ。なにせ害がない。なんと驚け、野良猫に恋愛相談をしてもなんの事件も引き起こされないのである。後顧の憂いなく話せる相手が、どれだけ重要か。その点をとってみても、千リンを支払えばなんの遠慮もなく愚痴を吐き出せる奴隷少女ちゃんという存在のありがたさが身にしみる。
翻って、この二人はどうか。
『聖女』イーズ・アンと、『聖騎士』スノウ・アルト。
二人して見た目がいい上、教会という大陸的な権威が功績を保証しているため、この二人は直接面識がない世間にはとても評価が高い。
だがレンの知る限りでは他人の機微をまったく気に留めない人間のツートップである。
スノウにしてもイーズ・アンにしても、方向性は違うものの、他人にアドバイスが可能な人間ではない。もっと正確にいえば、他人にアドバイスをしないほうが世界が平和になる人種だ。
恋愛相談などをしてみたら最後、誘拐され訓練と評したダンジョンへの最下層ツアーが始まるのではという恐れがレンを縛った。すでにほぼ実体験なあたり、見当はずれの恐怖でもなんでもないことが現状の救いのなさを際立たせていた。
どうにか逃げ出せないだろうか。そうっと目を開いてそわそわして部屋の出入り口に視線をやるレンの肩に、ぽんと手がおかれる。
「で?」
スノウが笑顔で話を促した。
特に何もされていないのに、レンはそれだけで屈した。
「はい、話します……」
レンの覚悟など『聖女』と『聖騎士』という権威を前にしては吹けば飛ぶものだった。腹をくくったというより、半ばやけっぱちになったレンは、かくかくしかじか、事情を話してしまう。
「くだらぬ」
すっぱりと言下に切って捨てたのは、鉄面皮の修道女だ。
「かような悩み、世俗の穢れ以前の問題である。心のありようが肉袋たる体に左右されるなど、信ずる心の足りぬ証左に他ならない。生殖に関わる本能など、自ずより切り落とせ。さすれば汝の迷いは万事、解決する」
「そう言われましても……」
切り落とせと言われようとも、そう簡単に欲望を思考回路から切り離せれば苦労はしない。レンも十七歳。思春期真っ盛り、男の性欲のピークである。エロいことを考えると脳みそがサルになる年頃だ。サルにはまっとうな言語など通用しないのである。必死に制御しようとしているだけでもレンは十二分に理性的だといえた。
だがイーズ・アンは、淡々と同じことを繰り返した。
「ならばこそ、切り落とせ」
なにを言っているのか、ちょっとよくわからなかった。
いぶかしみつつも、彼女の言葉が伝わりづらいのはいつものことである。どういう意味だろうとイーズ・アンと目を合わせようとしたレンは、ふと彼女が自分の顔を見ていないことに気が付いた。
イーズ・アンの視線は、下に向けられていた。レンの胸元よりさらに落とし、下腹部へ向けられていた。
ふっとイーズ・アンが顔を上げ、レンの眼球を見抜いた。
「切り落とせ」
感情というものが感じられない三度目の復唱で、その真なる意味を理解してしまった。
さあっ、とレンの顔が青ざめた。
「人の始まりが泥であったことから考えるに、この世の生理、生殖は不自然なものだ。事実、歴史において信仰を示すために己が一物を切り落とすことは自然に回帰するものとして行われていた」
顔面蒼白で言葉を失って紫色になった唇を震わせ「あわわわわわわ」とガクブル状態になっているレンの心など欠片も斟酌せず、信仰に邁進する修道女は滔々と原典教義の解釈を述べる。
「不自然を自然とする行いは、汝の信仰を我らが主に示すことである。人は無用を斬り捨てることで自然に回帰する。そのことを、汝が身をもって示せばいい」
生まれてから体に付いているものが不自然とか言われた日には、自然とはなんぞやと問わなければ始まらないのだが、頑迷な原典主義者回帰派であるイーズ・アンにとって、そもそも生殖というもの事態が不要にして無用な長物と認識されている。
なぜならば原初の人類は、生殖をしない。人類が生殖を始めたのは原罪を抱えてからであり、神の御手に捏ねられた始まりの泥の身は清らな存在だった。
人類誕生の奇跡を体現するイーズ・アンの掌に、浄化の光が集った。
「己で斬り落とせぬというのならば、我が浄化の光で、汝が悪しきを滅して――」
「勘弁してください……!」
レンは速やかに土下座の体勢に移行した。
魔を滅する、浄化の光。『魔』という定義が人によりけりだ。よりけりなのだが、もしイーズ・アンの掲げるそれに照射されたら、レンの男の子が消失される恐れがあった。
「どうかご慈悲を……! 俺、まだまだこれからなんです!」
レンの本能が許しを乞うていた。床に伏せる体が小刻みに震えていた。冗談抜きで、この都市に来て以来の恐怖の絶頂である。これに比肩しうるのは、ダンジョンの最下層を連れまわされた時くらいだろう。
悲しいことに、どっちも聖女様の仕業だった。
「はて。すべてを解決する万全の回答を前に、なにを躊躇うか」
「しいて言えば、なにもかもがです。そこまで超越した人間になりたくはないんです」
「そうだぞ、イーズ・アン。それはいくらなんでも酷だろう」
意外なことに、スノウが助け舟を出した。他人に助け舟を出せるんだこの人という新鮮な驚きがレンの心に生まれた。
「お前は相変わらず人の心が分からないな。隊員だって男だ。いままで一度も使ったこともないだろうに、切り落とせはないぞ」
「これまで使わず、これよりも使わぬ悪しきを滅してなにが問題か」
「未来まで確定してやるな。聞いたところによるとモテてるんだから、今後は使う機会もあるだろうさ」
いままで一度も使ったこともないは余計だが、とにかく助かった。レンはがくがくと壊れた人形のように頷いた。
イーズ・アンが、浄化の光を消す。
「しからば、少年の悪しきを如何にする」
「こういう時の解決策は一つ。発散させてやればいいんだ。つまりは――運動だ!」
「運動、ですか」
割とまともな意見だったことにほっとする。
スノウがレンに向けて、大変いい笑顔で、ぐっと親指を上げる。体育会系でたまにいる、自分の体をいじめることに快感を見出すちょっとマゾチックな面が入っている笑みだ。
「ああ! 死ぬほど体を酷使させれば他に考える余裕などなくなる! むろん、性欲だって消え失せるぞ? そうだな。手始めに、ダンジョンフルマラソンをしてみるのはどうだ? あれは私でもかなりつらいが……ま、大丈夫だ。私は死んだことがないからな!」
「はい?」
ダンジョンフルマラソンとかいう斬新な単語に、レンは己の耳を疑う。
だがスノウはレンの反応など気にした様子もない。
「苦しみというものはある一点を超えるとたまらなくくせになるからな。死を寸前にした、意識が体から引きはがされてどこかに吸い込まれるようにして墜ちていくあの感覚……! たまらなく病みつきになるぞ? あの良さを隊員にも教えてやろう。致命傷の原因で、それぞれ意識の遠ざかり方が違って、その差を味わうのも楽しみなんだ」
まずい。これはダンジョン最下層コースの流れだ。レンではそんな体験をしたら最後、肉体から離れた魂がそのままふわっと天に召されかねない。
「アハハハハハ相談を聞いてくださってありがとうございましたとても心が楽になりましたところで!」
経験からよくない潮流を感じたレンは息継ぎもせずにお礼を述べていまの話題を終わらせ、別の会話へと転換する。
「俺なんかのつまらない話よりも、せっかくなので革命期の話を聞かせてもらってもいいですか? 俺、勇者パーティーの話を聞きたいなぁ、なんて! あはは!」
「悪いが、私の話は他人に聞かせるようなものではない」
ぴりっとした口調で言い放ったのは、スノウだった。
「私は自分が愚かだという自覚はあるが、もっとも自分が愚かだった時のことをつまびらかにする心地にはなれない」
いままでの朗らかさからは信じられないほど頑なで明確な拒絶だ。纏う雰囲気の変化に、レンはごくりと唾を飲む。
ただ、彼女たちが勇者パーティーの二人だからこそ、この機会に問いかけたいことがあった。
皇帝打倒の革命。
あの時、玉座に座っていた皇帝は滅ぼされたといわれているが、レンには疑問があった。
「本当に、皇帝は打倒されたんですか?」
ずっと、心の底に沈んでいた疑念が口を衝いて出た。
その問いかけをした時に思い浮かんでいたのは、公園広場に佇む一人の少女だ。
公園広場で勇者とのやりとりを見て、あるいは彼女の咎だというゆるしの秘蹟を得た時から、抱いていた疑念があった。
紫色の、結晶。
ハーバリア皇国の時代を生きた人間にとって、紫紺の色は特別な意味を持つ。
あの時代、紫の色を持てるのは唯一無二だった。布の染色も、宝石の装飾も、紋章のデザインにも『紫』という色を用いることは禁止されていた。それほど象徴的な色なのだ。
紫とは、皇国臣民の頂点に座る皇帝のみに許された。
その秘蹟のもととなった少女に、皇国打倒の聖剣を振るった勇者本人が関わっている。そして勇者パーティーにいたというアニキさんことボルケーノまで傍にいる。
それが、どういうことなのか。
イーズ・アンの表情は変わらなかった。なにを知って、なにを考えているのか。彼女の表情からは決して読み取ることができない。
だが、スノウは違った。表情が動揺でさざ波だつ。
「隊員。君は――」
スノウが何かを言おうとしたとき、こんこん、とノックの音が鳴った。
「失礼します。ファーンさんから、ここにいるレンという冒険者の話を聞いて欲しいと――ひぃ! なにこの部屋!?」
眼鏡をかけた女性は、いつだか奴隷少女ちゃんに新聞社への愚痴を叫んでいた記者さんだ。仕事の合間を縫ったファーンの誘導によりその部屋を訪れた彼女は、中にいる人物を見て悲鳴を上げた。






