悩める青少年の全肯定・前編
レンが目を覚ますと、見慣れた天井が視界に映った。
家賃ひと月三万八千リンのワンルーム。自分の家のなんの変哲もない薄汚れた天井だ。眠気を払って起き上がったレンは、あははと笑った。
「なーんだ、夢か」
レンはさっきまで変な夢を見ていた。
ミュリナのお見舞いに行って最初は普通に看護をしていたのだが、そこで例によって例のごとくミュリナの誘惑に負けてベッドに引きずり込まれたところまでは、まあよい。だってミュリナだしと納得できる。
だがその後が問題だ。
いつの間にかイチキに膝枕をされて甘やかされ、色っぽい声で告白をされた。そこでなにを考えたのか、自分から反撃してやろうとセクハラっぽいことをかました挙句にやり返されたイチキを押し倒しそうになった。
そもそも女の子に迫られたから優位をとるために反撃してみろなんて、まるきりバカの発想だ。
例えばミュリナに迫られ、こちらからやり返すように迫ったとしよう。
普通にウェルカムしたミュリナといくとこまでいく未来しか見えない。ある意味ハッピーエンドである。そこからのレンの人生の八割はミュリナといちゃいちゃすることに費やされるだろう。ミュリナの独占欲からして、奴隷少女ちゃんのところに通うのも難しくなる。
そして実際、イチキとも半分アウトみたいなゾーンに片足を突っ込んでいた。つまり自分がイチキといい雰囲気になった事実なんてなかった。全部夢だったのだ。そう思い込もうとした。
「あ、おはよー、レンおにーちゃん」
ひょいっとリンリーが顔をのぞかせた。
てこてこと近づいてくる幼女に、レンの顔が強張る。夢だと思い込もうとした最後の情景。理性がイチキに殺された間際、リンリーの掛け声とともに膝がぶち込まれた記憶がよみがえったのだ。
もしや、夢ではなかったのか。いや、まだあれが現実だと決まったわけではない。どこからどこまでが夢だったのか。ミュリナのところはともかく、イチキとのやりとりだけは夢だったのではないか。かすかな可能性にすがりつくため、問いかける。
「な、なんでリンリーが俺の家に……?」
「レンおにーちゃんってばあたしの天誅で気絶しちゃったから、わざわざ家に送ってあげたんだよ。ミュリナのお見舞いに残った尊師も、送ってあげなさいって言ってたから」
すべてが夢ではなかった。
ミュリナのお見舞いに行ってからイチキを膝に乗せて迫られたところまで、まがうことなき現実だった。
「マジかぁ……」
「マジだよー」
がっくりと頭を抱えるレンに、リンリーは軽く頷く。そしてびしりと指を突きつけた。
「レンおにーちゃん、セクハラとかやっちゃだめだから!」
「セクハラ? ……ああ、うん」
どうやらリンリーの中ではそうなっているらしい。正確にはイチキから積極的に迫って来たからレンのセクハラには該当しないのだが、途中からしか見ていないリンリーに察しろと言うのは酷だ。
訂正するべきかと迷い、十一歳になったばかりの少女に話すことでもないかと息を吐いた。どうせレンが血迷ったことは事実なのだ。
「ミュリナのベッドに二人一緒に潜った後にイチキ尊師を膝に乗せるとか、なにやってんの!」
「本当に俺はなにをやってるんだ……!」
ぐうの音も出ないほど『なにやってるんだ』だった。
レンから精神的なマウントをとったリンリーは、ふふんと胸を張る。
「レンおにーちゃん、パーティーリーダーでしょ? 知り合いの女の子に節操なくやーらしーことしてると、信用がなくなるよ」
「確かになぁ。色々まずいよな、このままじゃ」
「わかればいーの。まあ、あたしはとーってもやさしいから、レンおにーちゃんにもチャンスをあげる。イチキ尊師にセクハラしてたの、ミュリナには黙ってあげるから感謝してよね!」
「あ、それは助かる。マジで助かる」
幼女に説教をされて恩を着せられるレン、十七歳の春だった。
そんなレンに、リンリーが頭を差し出す。
「それなら、ほら。んー」
「ん?」
せがむように前のめりになっているが、なにをしてほしいのか。リンリーの仕草の意味がわからずに戸惑う。
察しの悪いレンに、上目遣いのリンリーがぷくりと頬を膨らませた。
「感謝の印で頭撫でていいって言ってるの! 雑魚のレンおにーちゃんでもできる簡単なお仕事でしょ!」
「ああ、そういうことか。わかったわかった」
なるほどと納得する。なぜかは知らないが、リンリーが頭を撫でられることが好きなのはレンも承知している。
それならばお安いご用だと、頭を撫でる。子供だからこそか、やわらかい綺麗な黒髪を整えるように撫でる。
「んー」
「お客さまー。かゆいところはありませんかー」
「耳の後ろのとこー」
「はいはい。ここかー?」
「んぅっ……そう、そこ。いい感じー」
髪を梳いて、時々指で要所要所をひっかいてもらう。こそばゆさにリンリーは目を細めて、くすぐったそうに唇をほころばす。
レンの手のひらは結構好きだ。ちょっとごつごつしてて、節くれだった感触も含めて安心する。
人生で最も追いつめられていた時に、自分を受け入れてくれた感触だ。急転直下で奈落に落ちていた時に自分をすくい上げた手だ。だからリンリーは、レンに撫でられるのが好きだ。
でも最近、それだけではちょっとだけ物足りない。
何でだろうか。猫のようにレンの手にすり寄りながらリンリーは考える。ただレンに褒めさせて自尊心を補充するだけでは、ちょっと足りないのだ。
なぜの答えは出なかったが、考えているうちにお見舞いで聞いたミュリナの声が蘇った。
――好きって気持ちはスペックで決まるもんじゃないわよ。
じゃあ一体、好きっていうのはなにで決まるのか。
リンリーは別に誰かに好きになってほしいだなんて思ったことはない。だって自分が愛されるのは当たり前なことだからだ。生まれながらに美少女で天才児である自分は世界に愛されているし、誰もが好きになる。イチキやイーズ・アンなどのごく一部の例外を除いて、世界のみんなが自分を好きになって当然だと思っている。
もちろん、目の前のレンだって自分のことが好きに決まっている――という思考に至った時、リンリーの脳裏にベッドでミュリナといた時の映像が、ソファでイチキを膝に乗せていた時のレンの姿がよぎった。
「……」
胸が、ムカりとイラついた。狐の尻尾があれば、ぱたんぱたんと地面を叩きたくなるような気分。よくわからないけど、このイライラはレンが原因だ。
雑魚雑魚のよわよわレンおにーちゃんの分際で、格上たる自分をイラつかせるなんて、どうしてくれよう。
これは罰をくれなくてはと思案したリンリーは、悪戯を思いついた子供特有の笑みを浮かべる。
「レンおにーちゃんっ」
かけ声とともに、腰にぎゅーっと抱きついた。
媚び媚びあざとモード大サービスである。猫が自分のものだと主張してにおいを擦り付ける仕草と同じく、レンのお腹にぐりぐりっと頭を押し付ける。
レンはほっこりした。断じてロリコンではないものの、子供に懐かれて満更でもないレンだった。
「どしたー、リンリー」
「レンおにーちゃん。あたしって、かわいーでしょ!」
「ああ、リンリーはかわいいな! 世界一だ!」
「だよね! 知ってる。世界一かわいいリンリーの頭を撫でれて満足した?」
「したした。大満足!」
「えっへへー!」
レンに褒めさせて自尊心の補充をし、なぜかムカムカしていた気分も解消させたリンリーは、ぱっと顔を上げる。
「あたしが満足させてあげたんだから、他の誰かにちょっかい出すのはだめだからね?」
リンリーが浮かべたのは、年相応にあどけないようで、年不相応な嗜虐の色が混ざった絶妙の笑顔だった。
「また誰かにセクハラしようとしても、ちゃーんとあたしが止めてあげる。次からレンおにーちゃんが変な気分になったら、リンリーの頭を撫でさせてあげるから、ありがたく満足してね?」
それとこれとは話が別なんだが、とレンは苦笑しつつも、やはり説明するわけにもいかない。子供に話すことではないのだ。
「レンおにーちゃんはリンリーの安全地帯なの! その分際をしっかりわきまえてね、レンおにーちゃん。はい、復唱!」
「はいはい、わかったわかった。俺はリンリーの安全地帯ですよっと」
「えっへへー、よろしい!」
レンに復唱させて満足したのか。ほどなくして手を振って帰宅したリンリーを見送り、部屋に戻ったレンは椅子に深く腰掛けた。
「さて……」
ニヒルな笑みを浮かべ、手を組んで黙考する。ニヒルとかいいつつも、だいぶ自嘲と諦観の割合が多かった。
「……俺はどうすればいいんだろう」
深淵なる自問だった。
イチキからの告白。
嬉しくないと言ったらウソだ。レンもイチキに好意はある。いい子だなと思うし、美少女だなと思うし、うっかり押し倒しそうになったほど魅力的な女の子だなと思っている。
ただ、それ以上にいまのレンにとっては重荷だった。
なにせただでさえ、ミュリナに好意を告げられて隙あらば迫られている状態である。これにイチキが加わるとなると、もはや不誠実とかそういう問題ですらない。それでいて自分は奴隷少女ちゃんが好きで、フラれた直後なのだ。
なんだこの状況は。自分とはいったいなんなのか。レンという少年は、どこから来てどこへ行くのか。そんな哲学的な問いすら浮かび上がる。
ここは奴隷少女ちゃんに相談を――
「――できるかぁ!」
なにせ絶賛フラれ中。しかもイチキは奴隷少女ちゃんの妹である。この間フラれたばかりだというのに『君の妹に告白されたんだけどどうすればいいかな?』と相談しに行けるほどの蛮勇をレンは持ち合わせていなかった。そもそも会いに行ける踏ん切りがまだついてない。恋愛相談などもっての他だ。
悩める青少年レンだったが、この窮地において閃く名案があった。
「ファーンさんだ……! この町の教会にはファーンさんがいるッ。俺にはファーンさんがいるんだ!」
教会の頼れるお姉さん。常連シスターさんこと、ファーンがいるのだ。
道が開けた。向かう場所は教会だ。救いの光が見えたレンは、ぱあっと顔を輝かせて教会へと続く道をダッシュした。






