聖女生誕・中編
部屋に、壮年の男たちが入ってきた。
男たちは、少女が床に転がっているのを見て眉をひそめる。吊るしてあったはずがなぜだと縄を拾い、切り口が腐っているのを見て舌打ちした。
そこに倒れているのは、十代の半ばの少女だ。歳と性別を考えれば、背が高い。いまはがりがりにやせ細っているが、健康だった時はすらりとした手足が魅力的な少女だった。村が平和だった頃は、あと数年もすればさぞかし美人になるだろうとほめそやされていた。
だがいまの少女には、片足がなかった。
切り口は縄で縛り、布が巻かれていた。腐って千切れた縄と自分の修道服の裾で止血したらしい。治療ともいえない苦し紛れの処置で、放っておけば傷口から腐って死ぬだろう。
少女は、まだ生きていた。
その証と言うべきか、彼女の頬が膨らみ顎が上下していた。何かを口に含んで咀嚼しているのだ。
それを見て、片方の男が頭に血を昇らせた。
「おいっ、なにを食ってやがるんだ!!」
激高した男が、少女の頬を蹴りつける。いまこの村では、パンの一切れは人の命よりも重い。食糧を隠し持った人間を、あるいは盗み食いをした人間を殴り殺しても、誰一人文句を言わない空気が蔓延している。
殴られた衝撃で少女の口から出てきたものが、床に跳ねて、かつん、と硬い音を立てた。
石だった。
少女は、石を食べていた。
「んだよ」
よくよく見れば、歯がぼろぼろになっている。石を噛んでいたせいだろう。空腹をごまかすためか、もしくは石がパンに見えるほどに頭がおかしくなったのか。彼女は床に転がっていた石を食み続けていたのだ
「あ、ああ……」
よろよろと伸ばした手が、石に届くことはなかった。
男がつまらなさそうに石を蹴飛ばしたのだ。さらに、靴を履いた男のかかとが少女の手を踏みつけにする。
「動くんじゃねえよ。次はここを斬るぞ?」
脅しつけながら掌を踏みにじる。
まだ生きているとは思っていなかったが、どうせすぐに解体することになるのだ。その役目を、ここにいる男二人がこなす。どちらも正気ではなかった。正気な人間は、とっくの昔に全員死んでいた。
「あ、ぁ゛あああああああ!」
少女が、突然、叫び始めた。男が蹴り飛ばした石へと、執拗に手を伸ばそうとする。片足がなくなって手を踏みにじられて、なにより見るから死にかけているのに、半狂乱になって吐き出した石を求めて這いずろうとする。
「あ゛ああぁあああっ、あああ、ああああ!」
「うるせぇ!」
「ぁぶッ」
男は机の上にあった聖書の一節をちぎって、少女の口に詰め込んだ。
轡を噛ませたような状態だ。いや、それよりはるかにひどい。呼吸も困難なほど喉奥に詰め込んだ。発声ができるはずもなく、少女の声が途絶える。あまりに乱暴な扱いに、もう片方の男が眉をひそめた。
「やめろって。あんまり変なものを食わせるなよ」
「いいじゃねえか、別に。石なんて食おうとしてんだぞ、こいつ」
少女を蹴り飛ばした男が、ぺっと唾を吐き捨てる。
吐き捨てた唾は、少女の頬に当たった。少女は、ぴくりとも動かなくなっていた。吐きかけられた唾をぬぐう気力も失せているようだ。あるいは、口に紙を詰め込まれて死んだのかもしれない。
「ったく、親子そろって偉そうに講釈垂れてて、いざとなったらこのざまだ。どうせ、こいつの口に入るものなんて、もうねえんだからよ。紙切れでふさいじまってなにが悪い」
「よくねえよ。こいつが紙を呑み込んだらどうすんだよ。あとで俺たちの腹に入るんだぞ? 変なもん食ってたら気分わりいだろうが」
結局は、片方の男の制止もそんなことが理由だった。この二人は、とっくに善性というものを飢餓で失ってしまったのだ。
相方のいうことにも一理あるなと納得した男が、口から紙を取り出そうとして気が付いた。
なぜか、少女の口に詰め込んでいたはずの神典の紙切れが消えていた。
視線をあたりにやるが、紙片は見当たらない。吐き出したとしたら床に散らばっているはずだ。まったく見当たらないというのはおかしい。
まさか本当に食ったのか? 男が眉をひそめた時だった。
「神は、いない」
「あ?」
不思議なほどによくとおる、無機質な声が響いた。
「この世には、すでに、神はいない。欲のありようよりも業深い生の営みに、神は関与しない。なぜならば神の捏ねた世界は一掬いの砂であり、主より零れ落ちた一滴の涙であったからだ」
もう一人の男も、いぶかしそうな視線を向ける。
「なぜ主は何人も救わぬのかという人の嘆きに、原罪ゆえにと神典は答えた」
少女は、つらつらと無感動に神典の解釈を語る。死にかけの人間が出している声にしては、あまりにも明瞭に理を説く。
「人は、神の作りし泥だった。この世は、一握りの砂と、神よりこぼれ落ちた一雫の涙滴によりできた泥だった。元来、なにも奪わず、なにも傷つけず、なにに傷つけられることもない泥の世こそが、神の創りし世界」
「なに言ってんだこいつ」
「しかし愚かにも神の恩恵を歪曲し、欲望をもって動き始めた物が動物となった」
男が口を挟むも、少女の声は止まらない。とうとう頭おかしくなったのかと顔を見合わせ、片割れが気が付いた。
倒れていた少女の体が、明らかに小さくなっていた。
「神が捏ねた型に満足せず、植物をちぎっては食み、同じく動物を潰して呑み込み、欲を満たした。物より肉と変わり果てた者の貪欲さ、神の恩恵を奪わんとするありかたは、あまりにも醜かった。本来、神が創りたもうた静謐な世と思えぬほどに、穢れが蔓延した。活動こそが、生きとし生けるものの、罪。生理、生殖、生活、生命。それらはすでに、あること自体が罪である」
倒れているから気が付くのが遅れたが、胸も平たくなり、手足が縮み、年頃の娘だった少女が幼い子供の身長になっている。それでいて、少女の顔立ちだけは変わっていない。
なんだ、これは。男たちの思考が真っ白になった。
ぎょろりと、少女の眼球が動いた。
「生あることは、すでに原罪を抱えた身であると同義。生ゆえの死も、腐敗の果てがあることから救いとなりえない。至らぬ者の末路であり、罰ですらない理である。裁きなき世に許しなどありえぬはずが、しかして、神の教えは残された」
少女が、立ち上がった。頭頂から糸で吊り上げられたかのような、重力を感じさせない奇妙な立ち方だった。
「そう、この世には、神典がある」
いつの間にか、無くなったはずの足が生えていた。男たちには意味が分からなかった。なんでだ、という混乱に思考が固まっていた。足を生やすために、他の体の部分を持ってきたかのように、少女の全体が縮んでいたことまで考えが及んでいなかった。
まるで、欠けてしまった泥人形をこねて、人の形へと作り直したかのように、少女は人の形を取り戻していた。
「跪け」
逆らいがたい、厳粛な声だった。
彼女の目を見て、男たちは怯えた。先ほどまでの死にかけていた少女とは、一線を画していた。彼女の目に、体を切り取られてしいたげられた怒りはない。身内に降りかかった理不尽への恨みもない。この世界への絶望もなければ希望もない様は、怨念を詰め込んだ殺意よりも遥かに非人間的だった。
「心から祈り、身を削ぐ信仰を捧げよ」
指令を下したのは、罰するためではない。なぜならば、彼女は彼女自身に人を裁く権利などないことを知っているのだ。人に、人は裁けない。だからこそ、人がどんなに愚かであっても、彼女は許し、与えるのだ。
信仰と、祈りを。
たった二つだけ残された人の許しを、罪人へと与えるのだ。
「恐れるな。苦しみは、余物を吐き出すための過程である。人の内には肉は不要であり、ささやかな信仰さえあればよい」
ただ、彼ら彼女らを人に戻すためだけに。
「人は、ただ、それだけでよい」
彼女は、彼女の信仰を告げた。






