叶いもしない夢を見た
私の人生は14歳のあの日、180度姿を変えた。
一国の王となるべく育てられ、王となるべく生きたはずの私は19歳の今、自国から遠く離れたこの森で、自らが朽ち果てる20歳になるときを、ただただじっと待っている。
この薄暗いボロ屋に幽閉されて5年が経ったのだ。夜が明けるたびに壁に刻んだ無数の跡が、今の私の心を支えている。
「あと1年……」
あと1年で、私は自分の役目をまっとうすることができる。
嬉しいのか、悲しいのかも、もうわからない。
ただ、終わるのだ。すべてが。
私はそれを、ずっと待っている。
「誰かっ!誰……かっ!いっ……ないか…!」
遠くの方で聞こえた必死な声に、ページをめくる手を止めた。
この魔物の森にハンターが訪れるのは珍しい事ではない。必死な声を聞くのも初めてではない。けれど、なぜだろう。今日は胸の奥が、ざわざわと音を立てていた。
「な、に……?」
こんなことは初めてだった。この地に来てからこんなにも心がざわめいたことはない。
ふと見た先には、この小屋を抜け出すことの出来る道。今までに使ったことはない。使おうと思ったこともない。逃げようなんて考えたことも……。週に一回やってくる私の見張り役は、きっとそこまで見越してここを塞いでいないのだ。
「う、うわあああああああ!」
悲鳴と、土が擦れる音。
悩んだのは一瞬だった。気付いた時には私の身体は小屋の外で、声のしたほうへ走り出していた。
あまり高くない崖の下には倒れる人とそれに近付く大きな魔物。迷わずに崖を滑り降りるとゆっくりと魔物は私を見た。
その目に私を写した魔物は、びくりと身体を震わせるとキュッと瞳孔を狭め僅かに唸ったあと、身体を翻す。
「これのどこが、愛されているって言うの」
忌み子。
魔物に襲われない、魔物に愛された子。
私の国では、忌み子は神への供物だ。
20歳になった時、儀式によって私の存在は無に帰る。私の身体はこの空気に溶け、人々の中にあった私の記憶も無くなる。
忌み子だとわかった14歳のあの日から、私はただ消えるために生きている。
「う……っ」
呻き声が聞こえて振り向くと白銀の髪を束ねた麗人が倒れていた。
「きれいな、ひと……」
小さく呟き近付くが、目を覚ます気配はない。身なりからしてハンターではないだろう。頭から足まで見回して、ふと目に入った紋章に息を呑む。
「ガラハルトの……王族?」
自国マナティアの隣にある大国ガラハルト。科学とかいう緻密な魔法のようなものを使い文明を発展させた国。私の国の国民の間では悪魔の国なんて呼ばれているけれど、そうではない事は、私も、マナティアの統治者である父も母も知っている。
膨大なデータを取りそれを解析して彼らは力を手に入れた。けれど、他国を侵略するような事はせず、ただガラハルトという国の民を守るためだけに尽力している。
私の国マナティアは閉鎖的な国だ。マナティアの民は、魔法という自分たちだけが使える力を他国へ流出させないように、自国から出ることも、また他国から人間を入れることもほとんどない。
王族であった私でさえ、自国を出たのは一度だけ。
ガラハルトの第三王子の10歳の誕生日に、私と父は隣国ガラハルトを訪ねた。
父はなにも言わなかったけれど、私にはわかった。父は、ガラハルトの力を求めていたのだ。第三王子をマナティアに迎え入れ、ガラハルトとの関係を作り、その技術を手にしたかったのだろう。
もし、私が忌み子でなかったのなら。
あの男の子と、ずっと一緒にいれたのだろうか。
ずっとそばにいると言ってくれた。
あの、絹のような美しい白銀の髪の、男の子と。
そこまで考えて、ハッとする。
白銀の、髪。
まさか。
「レク、サス、なの……?」
倒れている麗人が僅かに身じろぎをする。
面影が、ある。目は閉じられているけど、髪の長さも身長もなにもかもが変わってしまっているけれど。ガラハルトの王族に白銀の髪の人間は彼しかいなかったはずだ。
幼い頃の淡い想いが、私の目を、足を、そこへ釘付けにした。
会いたくなかった。
会いたかった。
声をかけることも、立ち去ることもできず、ただ呆然と彼の顔を見ていると、ざわざわと遠くの方から声がした。複数の人間が話す声。
「おーい!誰かいるのか!大丈夫か!」
私は慌てて少し離れた場所へ隠れる。レクサスの居場所を知らせるようになるべく大きな音を立てて移動すると、ざわざわとした声が大きくなった。きっとレクサスを見つけたのだろう。
彼らが来てくれて、よかった。来てくれなかったら、レクサスに声をかけてしまっていたかもしれない。
「今更、よね。なにもかも」
小さく呟いて、ぎゅっと目を瞑る。心の奥からなにか激情のようなものが溢れてくるようで、苦しくてたまらなかった。
しばらく経つと、近くから人が去った気配がしてホッとする。また、あの小屋に戻ればすべて元通りだ。なにも変わらない。過去は過去で、私は忌み子なのだ。
ホッとした私が愚かだったのか。
小屋への道すがら、森の奥へむかっていこうとしているレクサスを見かけて愕然とする。
なぜ、一人なのか。
なぜ、奥へ向かっているのか。
ひとつ、ゆっくりと長く長く息を吐いた。
覚悟は決まった。
なんて考えてみても、自分の心を誤魔化してるだけだということはわかっていたけれど。
「この先には、行ってはいけない」
心とは裏腹に、声は少しも震えることなく彼に届く。レクサスは、ハッとしたように私を見て、それからゆっくりと目を瞠った。
「きみは、この森の妖精……?」
「まさか」
「人間、なの?どうしてこんなところに……」
「あなた、道に迷ったんでしょう?入り口まで案内するわ、ついてきて」
彼の質問に答える気はない。彼を森の入り口まで送り届けて、私はもとの生活に戻る。それだけなのだから。それだけ、なのだから。
歩き出すと少し後ろを彼が大人しく着いてきた。
ずっと何か言いたげに私の背中を見ていたけれど、彼は何も言わなかった。私もなにも言えなかった。
入り口に着くと、突然レクサスに腕を掴まれた。
「お礼がしたい」
「お礼なんていらないわ」
強い目が私を見ていた。
「きみをここに一人で置いて行きたくない」
変わらない。彼は昔のままだ。
強い目が、強い言葉が、昔も今も私の心を揺さぶる。
あと、1年。
少しの間だけ、彼とともに過ごしても許されるだろうか。
甘えた考えだと自分でもわかっていた。
けれど……。
「私はレクサス。きみの、名前は?」
「……ユリ、シス」
レクサスは、少し驚いたように息を飲んでから破顔する。
「教えてくれると思わなかった」
あの日のような無邪気な笑顔。何度も夢に見た、あの笑顔。
なんで、今更。
入り口から少し離れた場所に、彼の従者たちが待っていた。
その中でもピンと背筋の伸びた存在感のある男が近付いてくる。
「レクサス様、そちらは?」
「ユリシスだ。私を助けてくれた」
「なぜこのような少女が魔物の森に?魔物の類ではないのですか……?」
「恩人に失礼な事を言うな、ジル」
「ですが、レクサス様……」
揉めている。
当然だ。私だったら、魔物の森で出会ったこんなどこの誰とも知らぬ女を自国に招こうなんて絶対に考えない。
「私はユリシスを城に迎える。彼女は客人だ」
レクサスは、他に類を見ないぐらい芯の通った声をしていると思う。聞いたものを従わせる、そういう声だ。ガラハルトはレクサスを第三王子として軽んじている節があるけれど、本当はきっと彼こそガラハルトの王に相応しい。
しばらく、私とレクサスを交互に見ていたジルという男はひとつ大きなため息をつくと私へと目を向けた。
「レクサス様を助けていただいたこと感謝いたします」
素っ気なくそう言って、車と呼ばれる乗り物に乗り込む。
ジルが見えなくなるとレクサスも小さく息を吐いた。
「ごめんね、ジルは少し気難しい奴だけど悪い奴じゃないんだ……」
「気にしてない、です」
小さく呟くとレクサスは困ったように眉根を寄せた。
「ありがとう。でも、普通に喋ってくれていいんだよ。私もそのほうが嬉しい」
「でも、レクサス様……」
「様もいらないよ。レクサスって、呼んで」
「……レクサス」
「すごく、嬉しい」
昔のような、無邪気な笑顔。
あなたは変わらないのね、レクサス。
なぜだか、ひどく泣きたい気持ちになった。
ガラハルトの城に連れられ、まずはザブザブとお風呂に入れられた。久々の大きなお風呂にやすらぐ暇もなくゴシゴシと身体中洗われる。忘れていたけれど、よく考えれば、いや、よく考えなくとも、崖から滑り降りたのだから身体は砂まみれだった。
改めて、ジルはよく私をここへ連れてくることを許可したと思う。
お風呂から出て髪を乾かされ、いい生地を使っていると一目でわかるシンプルなワンピースを着せられ、城の中の庭園のような場所に連れて行かれた。
「レク、サス……」
沢山の花が咲く庭園の中にポツンと置かれた椅子とテーブル。そこにレクサスはいた。きっとレクサスも身体を洗ったのだろう、今は束ねられていない白銀の美しい髪は森で見た時よりも艶やかに輝いて。神々しいまでのその姿はきっとどんなに力のある画家が描いてもここまでの印象をもたらすことはできないだろう。
ふと、読んでいた本から目を外し私を目に入れるとレクサスは大きく大きく目を瞠った。
「ユリ、シス……?」
それから、レクサスは何度かパチパチと目を瞬いて、片手で両目を抑え大きく息を吐く。
「いや、ごめん。なんだか随分印象が違って……うん」
目から手を外した彼は、ゆっくりと私を見た。私を見ているはずなのに、どこか遠くを見るように僅かに目を細める。
「森で見た時は、なんだか消えてしまいそうだと思ったんだ。幻なのかもしれないと思って、もしかしたら人間じゃなくて妖精なのかもとか……」
そう言って軽く喉を鳴らして笑った後、彼の力強い目が私を射抜いた。
「でも、今は……僕はきみほど存在感のある人を知らない。その空のような美しい色の髪の毛も、凛とした佇まいも」
「さすがに、言い過ぎだと思う」
思わずそう言うと、レクサスはきょとんとしたように目を瞬かせてから、照れたように笑った。
「なにを読んでいたの?」
「あ、ああ、これ?」
持っていた本を持ち上げる。その表紙には見覚えがあった。
「君主論……レクサス、あなた王様になるの?」
「え……いや、私は王には向いていないよ。第三王子だし、頭も良くない」
「私は、そうは思わないけど」
「ありがとう。でも、王になるべき人間っていうのはちゃんといるんだよ。私みたいなまがい物じゃなくて本物のね。なんでも知っていて、気高くて、強くて、優しい人」
「レクサスのお兄さんのこと?」
ゆっくりと首を振る。
「昔ね、私は兄弟の中でも一番の落ちこぼれで、色んなところで出来損ないだって噂されていた。でも、すごく憧れていた人がいて。その人の右腕のようになりたくて、隣に並び立ちたくて、がむしゃらに努力していたら、今では兄弟の中で一番有能だと言われるようになった」
そう言ってレクサスは、どこか悲しそうに笑った。
「王になる気はないよ。興味もない」
「いつか、その憧れていた人のもとへ行くっていうこと?」
「いや……その人は随分昔に死んでしまったよ。だから本当はもう勉強なんてしなくたっていいんだけどね。本を読む事だけは、クセになってしまったな」
寂しそうに笑う。そんな顔を見ていたくなくて、別に聞こうとは思っていなかった事が口から滑り落ちた。
「どうして私をここへ連れてきたの」
聞こうとは思っていなかった。気まぐれでもなんでも、別に良かった。
レクサスはまた、あの強い目で私を見る。
「運命だと思ったんだ。笑う?」
「笑うわ」
笑っちゃうわ、そんなの。
レクサスは笑わなかった。そして、どこか遠くを見たまま、続けた。
「本当だよ。運命だと思ったんだ」
「レクサス様」
私がなにも言えなくなって、しばらく経った頃、庭園にジルが入ってきた。
「レクサス様、そろそろ執務室へ」
「ユリシス、きみは好きにしていていい。少し遅くなるかもしれない。……ジル、書庫にでも案内してあげて」
レクサスはそう言って苦笑すると、足早に去っていく。
「書庫へ案内します」
それだけ言ったジルに案内されて書庫に着くと、目に入った見覚えのある本を手に取った。
分厚い本だけれど、一度読んだことのある本ならばそんなに時間もかからずに読めるだろう。
「その本、読めるのですか?」
ジルが、私の手元を覗き込んだ。
「一度読んだ事があるので、流し読みするだけですから時間はかかりません。持ち出したりしないので安心してください」
私が答えると、ジルは僅かに目を瞠ってまじまじと私の顔を見る。
「いえ、そういう事ではなく。その本はとても難しいと昔レクサス様が。レクサス様は最後までは読めなかったと記憶しております」
そう言って、なぜか寂しそうに笑ったジルは、それから今度は少し楽しそうに笑った。
「それに、時間はたっぷりありますよ。きっとレクサス様はあなたをあの森に戻したりすることはないでしょう。随分とあなたを気に入っているようだ」
「随分、森で会った時と態度が違うんですね」
突然友好的になられて警戒すると、ジルは表情を引き締めてから、腰を折った。
「森では失礼な事を言いました。お許しください。レクサス様は、人を見る目があります。私はなによりもあの方を信用している。それがすべてだと、思うことにしました」
まっすぐに私を見る。
強い目だと思った。
「なぜ、ですか」
「レクサス様が笑っているから。……レクサス様のあんな笑顔を見たのは久しぶりです」
その言葉に驚く。
私が持っているレクサスのイメージは、いつも無邪気で表情豊かで。
「都合の良い願いだと承知してますが、どうかレクサス様の、そばにいてあげてください。ユリシス」
私、は。
なにも言えずに俯くと、ジルは私の頭をぽんぽんと
優しく叩いて書庫を出ていった。
「その本が読めるなんて、ユリシスは優秀なんだね」
本に没頭してる時に突然話しかけられて身体が跳ね上がる。
「びっ……くり、した……」
「ごめんごめん。……ジルと、仲良くなったんだってね」
仲良く、というのだろうか。あれは。
首を傾げると、レクサスも同じように首を傾げた。
「ジルが掃除してくれて、東塔の一番奥の部屋はユリシス専用にしたから。……ずっとここにいればいいよ、ユリシス」
そう言ってレクサスは、幸せそうに笑った。
その笑顔を、ずっと見ていたいと思ってしまったの。
その先に、きっと希望なんてないのに。
それからは、毎日庭園でレクサスと過ごして。
一緒に食事をして。
レクサスも、ジルも、城の人たちも、みんな優しくしてくれて。
時間が止まればいいのに、なんて馬鹿みたいなことを考えて。
気付いたときには、儀式の日まで、もう残り1ヶ月を過ぎていた。
なんだかその日は胸騒ぎがして、レクサスもあまり機嫌が良くなくて、いつものように見えるのにいつもとはまったく違う空気が私の周りをぐるぐると渦巻いていた。
「レクサス様は今日の午後から他国の姫とお見合いがあるので不機嫌なんですよ、ユリシス」
「私は自由に生きたいんだよ。この年になって、親の決めた相手と結婚なんて……それに、こんな時ばかり私を都合よく使おうとするところも気に入らない。ユリシスもそう思わない?」
突然ぐいっと詰め寄られて、思わず一歩下がるとレクサスは拗ねたように唇を尖らせた。
「レクサス様、ユリシスが困っていますよ」
ジルが穏やかな顔で笑う。
「……そうだ!ユリシスが私と結婚してくれればすべて解決する」
ひゅっと、息を飲む。
私は、今、なにを考えた……?
「レクサス様!」
「……なんだよそんなに怖い顔しなくたっていいだろ、ジル。冗談ぐらい言わせてくれ」
レクサスはそう言って再び拗ねたように唇を尖らせると、庭園を出ていった。
ジルがまるで私を労るかのように優しく肩に手を置いてから去っていっても、私は動くことができなかった。
いつのまにか、消えたくないと思っていたの?生への執着が、ここまで来て私の心を巣食って。
こんなはずじゃなかった。
こんなはずじゃ、なかった。
全部。
その日の夜は綺麗な満月が出ていた。
「遅かったわね」
窓から入ってきた黒の衣を纏った男はニコリともせず私の前に立った。深い藍色の髪に、猛禽類のような鋭い目。
「居場所はわかっていましたから」
「アンタ、無事だったのね」
私がいなくなったのだから、普通なら見張り役は罰を受けるはずなのだろうけど、この男なら上手くやるだろうとは思っていた。
「隣国の王子が時折お忍びであの森に狩りに入っているという噂はありましたし、不自然な魔物の足跡も残っていました。あの状況を見ればなにがあったのかは大体の予想がつく。それに、貴女が自分の役割を大切に思っていたことは、俺も国王様も知っています。逃げ出したわけではない事はすぐにわかりますよ」
まるで決められた事だけを話しているかのような抑揚のない声。感情の読めない表情。彼の相変わらずの様子に不思議と、少しだけ安心した。
「私の役割、ね…」
そんな高尚なものじゃないのだ。ただ、運命に逆らうことが恐ろしかっただけ。父や母の立場と私の矜持、それを守る選択肢がひとつしかなかっただけだ。
「……どうしたいですか。貴女は今、なにを望んでいますか」
まっすぐな目が、私を見つめていた。
「なにも。……今更私に何が出来るっていうの」
「簡単です。貴女はただ言えばいい。逃げたいと、生きたいと、言えばいい。貴女が望むなら、俺は命を賭して貴女を逃がします」
無表情でそんなことを言う。
「馬鹿じゃないの。そんなこと絶対言わないわ。馬鹿じゃないの」
「そうですね、貴方は昔からなにも言わずに耐えるから。俺はいつも貴女の本当の心がわからなかった。今も、貴女の本当に望むものがわからない。でも、今、貴女の目は揺れている」
「……そうね、弱くなったわ。私、とても弱くなった」
逃げ出したい、なんて思いたくなかった。
私のあの森での5年間が、無に帰ってしまうようで。私の覚悟が矜持が、すべて泡のように消え去ってしまうようで。
「俺には貴女がすべてだ。今も、昔も。だから貴女の望みが叶うなら、他のものはなにを捨てても構わない」
王になるはずだった私の、一番の従者となるべく子供の頃から死にものぐるいの努力をしていたのを知っている。私が忌み子だとわかってから、苦しんで、苦しんで、今までの努力の向かう先を失い、見張り役を志願した事も知っている。
「私には誰もいないわ。今までも、これからも。どうせすべて消える。アンタにはきっと一生わからないわ、私の気持ちも私の望みも」
ひどい言葉を吐いた。彼の端正な無表情が傷付いたように僅かに歪み、苦しそうに息をする。
「俺だって、貴女を失う……っ」
「そうね。でも、私がいなくなったらアンタには新しい世界がある。自由がある。すぐにアンタの世界には私だけじゃなくなるわ。私の事も忘れてしまう。だから、アンタなんてきらい」
忘れないでほしい。
私の事を、忘れないでほしい。
本当は、望みなんてそれだけだった。
私という人間がいた事を、誰でもいい、覚えていてほしい。
叶うはずのない、願い。
「……ガラハルトのあの第三王子が王になり、マナティアに進言すれば、きっと儀式は止められます」
そう。マナティアはガラハルトに逆らうようなことはできない。ガラハルトのような大国が介入すれば……。けれど。
「しないわ。レクサスは王にはならない」
「貴女のためならば、なるのではないですか」
「それを、私が望むと思う?」
レクサスは、自由に生きたいと言っていた。王の素質とかそんなもの関係なく、レクサスが望むように生きるべきだ。
ましてや、私が巻き込むなんてそんな事あってはならない。
「俺は、貴女のすべてが愛おしい。自分を犠牲にして国民を守ろうというのに、少しも恐れずに前を見据える目も、幼い頃から寂しさを隠し続けたその心の強さも、嫌いだと言う俺の事さえ守ろうとするその慈悲も」
「アンタのそういうところが、本当に嫌い。アンタなんて、私がいなくなる直前になってえんえん泣いちゃえばいいんだわ」
「……そうですね」
寂しそうに笑う。
アンタなんて。
私の事、忘れるくせに。
レクサスの部屋を訪ねると、レクサスは驚いたように目を丸くした。
「どうしたの、ユリシス。ここへ来るのは初めてじゃないか」
お別れを、言いに来たの。
「お昼、落ち込んでたみたいだったからお見合い、どうだったのかなって思って」
「ああ、心配してくれたの?ありがとう」
レクサスは嬉しそうに笑った。
「でも、相手のリズはいい子でね。結婚、しようと思うんだ」
な、に……?
「ど、して……?国政に関わるようなことは嫌だって……もっと、自由に生きたいって……」
待って。
「魔物の森で、ユリシスに逢う前に魔物に襲われたんだけど、その時に助けてくれたのが、リズたちだったんだ」
待って。
「こんな偶然あるんだね。こういうのを運命って言うのかな」
待って。
なにが起きてるのかわからなかった。
けれど、なにかを考える前に私の口は勝手に動いていた。
なにか得体の知れないものが身体の奥から溢れて、止まらない。
「違う……っ!私が……っ、私が助けたのに!」
やめて。
「私がアナタを助けたのに!」
やめて。
「私のほうが先にアナタを見つけたのに!」
お願い、誰か止めて。
この醜い心を。醜い言葉を吐き出す口を。
誰か。
「私のほうがアナタを……っ」
愛しているのに、なんて。
レクサスが戸惑っているのがわかって、たまらなかった。
不毛だ、こんなこと。
どうせ、今日で最後なのに。
なぜこんな醜態をさらしているの。
どうして。
「不安に、させてしまったの?」
レクサスの声は、どこか揺れていた。
「心配しなくても、ユリシスを見捨てたりしない」
違う。
「ユリシスの事は……妹、みたいに思ってる」
違う。
「ずっと、一緒にいるよ」
ずっと、一緒。
昔の記憶と重なる言葉を子供をあやすように言われて、叫び出したい気持ちになった。
その瞬間、唐突に理解したのだ。
私は本当は、多分ずっと昔に戻りたかった。けれど、戻れるはずがなかった。
戻れるはずが、なかった。
そんな簡単なことに、今更気付いたのだ。
ふっ、と脚から力が抜けてその場に崩れ落ちる。
「ユリシス!?」
こんなに醜い心を、知らなかった。
「レクサス……」
呟く。
「レクサス」
届いているだろうか。
私の声は。
「どうしたの、ユリシス」
ああ。
もうそれだけで……
幸せだ。
「今日は、一緒に寝てくれる?お兄ちゃん」
声は震えていない。
私の言葉を聞いて、レクサスは安堵したように笑った。
「……うん、一緒に寝よう。ユリシス」
夜が更けて、レクサスの寝息が聞こえ始めた頃。ベッドから抜け出して彼の顔を見る。顔を近付けて……やめた。
口付けさえできないなんて、笑える。
「レクサス、しあわ……っ」
幸せになってとさえ言えないなんて、笑える。
でも、いいじゃないか。
もう、いいじゃないか。
「さようなら」
小さく呟くと、背後に気配を感じてゆっくりと息を吐く。
「ずっと、見ていたの?」
「はい、ずっと」
彼の声は平坦だったけれど、それだけではない事も私は知っている。
「本当にいいんですか」
なにが、とは言わなかった。
「残酷なことを聞くのね」
いいとも、悪いとも言えなかった。
諦めることも、諦めないことも、恐ろしかったから。
「あの日、貴女がガラハルトから帰ってきたあの日。俺は貴女の本当の笑顔を初めて見たと思った」
聞きたくない。
もう、たくさんだ。
「ここで最後にあの人と過ごせて、一緒にいられて、幸せだった。もう、それでいい。ここにいるみんなの中にある私の記憶を消して、私のいた跡も全部消してくれるんでしょう?」
彼の無表情な顔が、どこか意思を持ったように強張る様を、見た。
「……ねえ、いっそ、俺と二人で逃げませんか」
なにか、決意を宿したような目が恐ろしかった。
「私ね、本当はこの世のすべてが嫌いなの。未来があるくせに被害者面して私の横にいるあなたも、私を守ってくれなかった父も母も、昔の約束を守ってくれなかったレクサスも、なにも知ろうとしないままで古い言い伝えを守ろうとする国民も、みんなみんな嫌いだし、憎い。なんで私がこんな目に合わなきゃいけないのって、本当はずっとずっと思ってた。……でも、あなた達を不幸にしたいなんて思わない」
彼の目が揺れる。もともと、彼は臆病で感情が豊かな普通の男の子だった。
それを、私が変えてしまった。
何度も、何度も。
「……あの男が同じことを言ったら、貴女は断らなかったはずだ」
レクサスが、逃げようと言ったら。
「ありもしない話に興味はないわ」
ひゅっと息を飲み込むような音がして。
酷く顔を歪めた、迷子のような男の子がそこにいた。
「どうして俺じゃあダメだった?ずっといたのに。寂しいなんてどうして。俺が、いたのに。俺が……そばに、いたのに」
悲痛な声に、今更気付く。
彼はずっと、7年も前からずっと、傷付いていたのだ。
「ずっと、アンタがいてくれた。寂しいなんて、考えたことないわ。でも、7年前のあの日、寂しくないと言った私に、レクサスは自分が私といたいから一緒にいようと言った。アンタは私の事ばかりだけれど、レクサスは自分が、そうしたいのだと言った。アンタは私の心を知らないと言ったけれど、私だってアンタの心を知らないわ」
私の声は、震えていた。
再びひゅっと息を呑んで目を瞠った彼は、泣きそうな顔でゆっくりと言葉を吐いた。
「……俺は、本当は、貴女に消えてほしくない」
「うん」
「貴女に笑っていてほしい」
「うん」
「あの日あの男を思って浮かべた笑顔を、俺にも…っ」
「うん、ありがとう。ごめんね」
すべてがもう、今更だ。
「……ほら、本心を言ったってどうせ貴女は拒絶するじゃないか」
微かに笑って、それからまっすぐに私を見る。
「本当は、貴女を連れて二人で逃げたい。でも俺は、貴女の本当の望みを叶えたいんです。ずっと、見てきた。貴女が、逃げなかったのを、ずっと見てきたから。たとえ、貴女自身を見殺しにしても」
彼の揺るがない目が、私の覚悟を支えてくれる。
今も、昔も。
「うん、知ってる。ありがとう。アンタの事、嫌いだけどそういうところは嫌いじゃない」
どこか切なそうに目を細めて、こちらへと手を伸ばす。その目に、私は指一本動かすことが出来なかった。
「痛っ」
突然頭皮に走った痛み。
思わず視界に涙が滲む。
「ああ、すみません。ゴミがついてると思ったら髪の毛でした。こんなに抜けるぐらい引っ張ったんですから痛いですよね。泣いても当然だと思います。俺だったら泣きます。泣いてください」
ひどい棒読みで言われた言葉に思わず笑った。
「泣かないわよ。アンタやっぱり嫌いだわ」
私が笑うと、あなたの目尻が僅かに下がる。
私はそれが好きだった。本当は、とても好きだった。
その日は、快晴だった。
目が覚めて、肌寒さに身震いをする。
昨晩はこんなに寒かっただろうか。
ふと違和感を覚えたけれど、なにがおかしいのかは、わからなかった。
いつものように、庭園へ出て読書を始めると
、少し経ってジルがお茶を持ってやってきた。
ふと、私の持っている本に気付き僅かに目を瞠る。
「レクサス様、その本は……」
「ああ、難しい本だったから諦めていたんだけど、なぜか急に読む気になってね」
そう言うと、ジルはどこか嬉しそうに笑った。
「レクサス様ならば、きっとすぐに読めますよ。……あの日、魔物の森でリズ様に出逢ってからレクサス様が昔のように戻られたみたいで嬉しいです」
確かに、あの彼女に出逢ってから昔のような情熱が戻ってきたようだった。
王になるつもりはなかったが、王を支える立場として尽力していれば、きっと守ることができるから。昔の夢を、大切なものを、そして、大切な人を。今度こそ。
「大切な、人……?」
自分で呟いてみて、戸惑う。
リズのことではない。リズは王になる器を持っていると思うし、尊敬もしている。そんな彼女を支える事で、昔の叶わなかった夢を、昇華できるんじゃないかと思っていた。
でも、本当に一番叶えたかったのは。
叶えたかったのは。
「ジル……東塔の一番奥の部屋は今どうなっている?」
ぽろりと口から飛び出た言葉の意味が自分でもわからなかった。あの部屋は来賓用となっているが、私の客人専用に使っている。大人数が泊まれるスペースではないし、使われることはほとんどない。ジルに聞かなくともあの部屋が使われていないことは明白なのに。
「え?……あの部屋は随分長い間使っていませんよ。ですが、そうですね……今後リズ様が使う可能性もありますし掃除をしなければいけませんね」
ちがう。
違う。
「レクサス様!?」
走り出す。なにが違うのか。なにがこんなにも、悲しいのか。なにかを考える間もなく私の足は東塔の一番奥のあの部屋へ向かっていた。
机にはホコリが被っていた。机だけじゃない。床にも、窓の縁にも。まるで、人がしばらくいなかったみたいに……。
「お止めください、レクサス様!」
後ろで珍しく息を切らしながら慌てているジルを無視して、部屋中を探した。なにを探しているのかはわからない、けれど、大切なものだということだけはわかって、這いつくばってホコリまみれになって、それでも。
「あ……」
美しい空色の糸のようなものが一本。私には、なぜだかそれが糸ではなく髪の毛なのだとすぐにわかった。その一本がとても愛しくて、とても大切で。
そうだ。ここにいた、ここにいたんだ。
どうして忘れていたんだろう。あんなに大切であんなに愛おしい彼女のことを。
「ユリ、シス…?」
震える唇で呟いた。
その日。嘘みたいに空が青褪めたその日。
ユリシスは、私の前から姿を消した。