第57章 アイリーンの切札
アイリーンがベレニス・フレミングの存在の証拠に初めて出くわしたのは、二人が新居に住むようになってしばらくしてからだった。いつものように、女がいると思った……おそらく知り合いの誰かだ……ステファニー、ハンド夫人、フローレンス・コクラン、もしくはその後できた相手だ……向こうが出しゃばって来ない限り、状況は見かけほどひどくはないと考えて、半分胸をなでおろしていた。クーパーウッドがあくまで不特定多数を相手にしている限りは、彼が特定の妖婦に惑わされずにあちこち駆け回っている限りは、絶望には及ばなかった。結局、アイリーンは彼を誘惑してうまくつなぎとめていた……異変はなかった。十年間ずっと、後にも先にも他の女は誰も成果をあげなかったと信じていた。リタ・ソールバーグは成功していたかもしれない……あの人でなし! リタのことを考えるのがどれだけ嫌だったか! このときにはもうクーパーウッドは老齢にさしかかっていた。彼が目移りをしなくなるか、少なくとも変化に価値を感じなくなる日が来るに違いない。もしクーパーウッドがこの先ずっと、昔自分がしたように、彼を束縛して隷属させてしまう女性、どこかの妖婦さえ見つけなければ、まだすべてはうまくいくかもしれない。同時にアイリーンは、間もなく起こる発見を毎日恐れて生きていた。
ある日、アイリーンはシカゴの彫刻家リース・グリアーが紹介してくれた人物を訪ねに外出していた。クーパーウッドが機嫌をとろうとして買ってくれたフランス製の新車でセントラル・パークを横断していたとき、アイリーンの視線が脇道をさまよった。そこで、自分の車に似た別の車が立ち往生していた。午後の早い時間帯で、その時刻だとクーパーウッドはおそらくウォール街で仕事をしているはずだった。なのに、彼はそこにいた。一緒に二人の女性がいたが、速いスピードで通り過ぎたので、アイリーンはどちらも特定できなかった。車を停止させて、灌木の茂みに隠れて、見える範囲にまで走らせた。自分が知らないお抱え運転手がかっこいい自動車をいじくり回していて、その近くの草地にクーパーウッドと、アイリーンの髪にどこか似た赤毛で背の高い細身の若い女が立っていた。表情はつんとしていながら、空想的で、自由奔放だった。アイリーンはこの状況を解析できなかったが、これはアイリーンの注意を完全に釘付けにした。後部座席には初老の婦人が座っていた。アイリーンはさっそく娘の母親だろうと決めてかかった。誰だろう? クーパーウッドはこんな時間に公園のこんなところで何をしているのだろう? どこへ行くつもりなのだろう? 嫉妬のすさまじい吐き気を感じなからもアイリーンは、自分がよく知る笑顔とそれの意味するものがクーパーウッドの表情に出ているのに気がついた。これまでの年月の間に、何度それを目撃しただろう! 発見されなかったので、すぐに発進した車を安全な距離をとって尾行するよう運転手に命じた。クーパーウッドと二人の女性が大きなホテルで降りるのを見とどけて、その後をつけてレストランに入った。細心の注意を払ってうまく立ち回った後で、ついたての陰から気長に相手を調べるチャンスを手に入れた。ベレニスの顔の細部……上品に尖った顎、安定した澄んだ青い目、まっすぐで繊細な鼻、黄褐色の髪……までじっくり見た。給仕長を呼んで、二人の女性の名前を尋ねた。気前よくチップをはずんだらすぐに教えてくれた。「アイラ・カーター夫人とご令嬢のミス・フレミング、ベレニス・フレミング様です。カーター夫人は、以前はフレミング夫人でした」結局、アイリーンは彼らの後を追って店を出て、自分の車で玄関先まで追跡した。するとクーパーウッドもその中に姿を消した。翌日、そのマンションに電話をかけてみて、実際にそこで生活していることを突き止めた。二、三日考え込んでから、探偵を雇い、クーパーウッドがカーター家に頻繁に訪れることや、彼らが乗っていた車は別のガレージで管理されていた夫のものであることや、二人が本物の社交界の人間であることを突きとめた。公園やレストランでクーパーウッドが娘に向けた表情が、あれほど生き生きしたものでなかったら、アイリーンは決して手がかりを探そうとはしなかっただろう……否定できないほど魂が飢えた様子だった。
報われぬ愛に怯える者の姿をあざ笑うものではない。その触手は癌にかかっていて、それにつかまれると冷たく死んでしまうのだ。この出来事があってから、アイリーンは、自室で座っていても、ドライブしていても、散歩中でも、買物中でも、やっと面識ができた数少ない知人を訪ねていても、朝も昼も夜も、この新しい女のことを考えた。青白い繊細な顔が、とりついて離れなかった。遠くを見つめるその目は、何を見ていたのだろう? 愛か? クーパーウッドか? そうだ! そうなのだ! この家の価値も、新しく社交界に入るという彼女の夢も、一瞬で消え、永遠に消え去ったようにアイリーンには思えた。すでに散々苦しみ、散々耐えてきた。クーパーウッドが二週間家を空けたので、アイリーンは部屋でふさぎ込み、ため息をつき、腹を立て、酒を飲み始めた。最後には、かつてシカゴで自分に気を遣い、ここの演劇サークルで出会った俳優を呼びにやった。彼女が仕返ししたのは欲望に燃えていたというより、酔って気が滅入った中で決めたからだった。ワイン、蛮行、非難の応酬、憎悪、絶望の入り混じった乱痴気騒ぎが数日続いた。やっとのことで酒が抜けると、もしクーパーウッドがこれを知ったら自分のことをどう思うだろうかと考えた。これからも自分を愛してくれるだろうか? 許してくれるだろうか? どうせ気にするもんか? いい気味だ、犬ころめ! 思い知らせてやる、夫の夢をぶち壊してやる、自分の人生を台無しにしてやる、夫の人生も道連れだ! 全世界の前で夫に恥をかかせてやる。絶対に離婚してやるものか! あんな女と結婚して、このあたしをのけものにできると思ったら大間違いだ……絶対に、絶対に、絶対にできるもんか! クーパーウッドが戻ってくると、アイリーンは説明もなしにののしった。
すぐに、アイリーンが自分の活動を嗅ぎ回っていたのではないかと疑った。さらに、とろんとした目、熱をおびた頬、病人のような息づかいを見逃さなかった。明らかにアイリーンは、何かの社会的な勝利の夢を捨てていた。何の道に進んでいるのだろう……道楽か? ニューヨークに来てからも、アイリーンは自分の社会復帰に向けた良識ある行動ひとつ満足に取れずにいると思った。シカゴでもそうだったが、クーパーウッドが不在もしくは顧みないときにアイリーンがここでいい加減に関わった芸術や演劇の陳腐な世界は、無益どころか足を引っ張った。ぶち壊しだった。近いうちにいつかアイリーンとじっくり話をしなくてはならなかった。ベレニスへの熱い想いを率直に打ち明けて、同情と良識に訴えなければならなかった。この後にどんな場面が続くだろう! いや、アイリーンが屈するかもしれない。絶望と、プライドと、嫌悪感がアイリーンを動かすかもしれない。その上、今ならアイリーンに莫大な財産を贈ることができる。ヨーロッパに行けるし、ここに残って贅沢な暮らしもできる。もし許してくれるなら、クーパーウッドは常にアイリーンを大切にするつもりだった……援助でも助言でもするつもりだった。
結局、この話題で続いた会話は、夢のようなものだった。話し合いがあった部屋の中で、空虚に不自然に響いた。アッパー五番街の大きな家を考えてください。嵐の日曜日の夜、壮麗な部屋が光り輝いている。クーパーウッドはこの時に市内に居続け、イリノイ州議会での自分の闘いに影響を及ぼしている東部の資本家のグループを相手に忙しかった。結局、クーパーウッドにとって愛はおそらく別のものなのだ……命にかかわるものでも、魂を支配するものでもないのだ……と考えることでアイリーンは一時的に慰められた。今夜、クーパーウッドは蘭の咲く中庭に座って本……誰かが勧めてくれたチェッリーニの自伝……を読んでいたが、時々シカゴやスプリングフィールドのことを考えたり、メモをとるために中断した。外では、五番街の電灯に照らされたアスファルトに雨が激しく降り注いでいた……向かいの公園はコローの絵ような影だった。アイリーンは音楽室で淡々とピアノを弾いていた。過去を考えていた……リンドは半年で音信不通になり、彫刻家のワトソン・スキートも今は縁が切れていた。クーパーウッドが市内や自宅にいるとき、アイリーンは習慣で家かその近くにいた。献身的だった過去の慣習の影響があまりに大きいと、その行為の効力が切れても習慣だけ続いた。
「何てひどい夜かしら!」アイリーンは一度、錦織のカーテンの陰から外を見ようと窓辺に近づきながら言った。
「ひどい天気だね?」アイリーンが戻って来ると、クーパーウッドは答えた。「今晩どこかに出かけるつもりでいたんじゃないのかい?」
「いえ……そんなことないわ」アイリーンは平然と答えた。そわそわとピアノから立ち上がって、大きな画廊の中を歩き回った。つい最近掛けられたばかりのラファエロ・サンツィオの『聖家族』という作品の前で立ち止まり、その穏やかな顔……中世イタリアの聖母マリア風……をじっと眺めた。
その女性は、もろく、血の気がなく、ひ弱で……生きていないように見えた。こんな女性がいたのだろうか? どうして画家たちはこんな女性たちを描いたのだろう? それでも、小さなキリストは愛らしかった。他の人が熱中しないと、芸術はアイリーンを退屈させた。アイリーンが求めるのは人の生き生きした姿だけだった……描かれた肖像ではなかった。アイリーンが音楽室や、蘭の咲く中庭へと戻ってきて、飲み物を用意して小説を読みに二階へのぼろうとしたところへ、クーパーウッドが声をかけた。
「退屈そうだね?」
「あら、そんなことないわ、孤独な夜には慣れっこですから」アイリーンは静かに、皮肉を込めるでもなく答えた。
クーパーウッドは自分の理論に人を従わせ、自分の思ったとおりの形になるまで物を叩き続けるほど無慈悲だったが、深淵の上を舞う虹のような優しさも持っていた。クーパーウッドは一瞬、「かわいそうに、私と一緒にいると大変だろ」と言いたかったが、そんなことを言ったらどう受けとめられるだろうととっさに考えた。膝の上で本を手に持ったまま、人魚やトリトン、魚にまたがる妖精のおちゃめな大理石像に、絶えず小雨が降り注ぐように流れ続けている水を見ながら、瞑想した。
「きみはもう本当はこの状態に幸せを感じてないんじゃないか?」と尋ねた。「もし私が完全にいなくなったら、せいせいするかい?」
クーパーウッドの頭は突然、自分を悩ませている一つの問題と、この時に生じたチャンスに向いた。
「どうせ、そのつもりなんでしょ」と、アイリーンは答えた。もうこれっぽっちも夫の関心も気持ちも集められない自分の不幸を、ただ退屈な態度が隠しているだけだった。
「どうして、そんな風に言うんだい?」
「あなたがそのつもりなのを知ってるからよ。どうしてそんなことを聞くのかも知ってるわ。それはあたしがやりたいことじゃないってことを、あなたがちゃんと知ってるからよ。だってそれはあなたがやりたいことですものね。もうあたしに飽きたから、あなたは老いた馬のようにあたしを厄介払いしたいのよ。だから、せいせいするかなんて聞くんだわ。とんだ嘘つきね、フランク! ほんと、策士だわ! あなたが億万長者なのも不思議じゃないわ。長生きできたら、全世界を平らげてしまいかねない人よ。あたしがこのニューヨークにいるベレニス・フレミングのことや、あなたがどれほどべったりくっついてご機嫌取りをしているかを知らないとは一瞬でも思わないことね……だって知ってるんですから。何か月も、あなたがどんな風にまとわりついていたか、知ってるのよ……ここに来てからのことも、その前のこともね。今、すばらしいと思うのは、彼女が若くて社交界にいるからよ。ウォルドーフや公園で、あなたが彼女の言葉を一言も聞き漏らすまいとしていたことや、憧れの眼差しで彼女を見ていたのを見たんですから。何て馬鹿なのよ、大の大人のくせに! ピンクの頬とお人形さんみたいな顔さえあれば、どんな小娘だってあなたを指先で思いのままにできるんだから。リタ・ソールバーグだってそう、ステファニー・プラトーだってそう、フローレンス・コクランだってそう、セシリー・ハグエニンだってね……聞いたことないのがあとどれだけいるかは知りませんけど。ハンド夫人は今でもシカゴで一緒なんでしょ……あの格安売春婦! 今度はベレニス・フレミングと時代遅れのその母親なのね。あたしの見たところでは、あなたはまだ彼女を手に入れられずにいるわね……多分、母親が抜け目ないんでしょうけど……でも、多分、最後は手に入れるのよ。向こうの目当てはあなたのお金であって、あたたじゃないのよ。ふん! あたしは十分不幸です。でも、これ以上あなたにできることは何もないわ。あたしを不幸にするためにできることは何でもやったくせに、今度はあなたから離れた方があたしは幸せだと言うのね。賢いわね、あなたって! あたしは自分の十本の指を知るように、あなたのことなら知ってるわ。いつ、どんな手を使っても、あなたはあたしを騙せないわよ。それをあたしはどうすることもできませんけど。あなたが、会う女みんなと馬鹿なまねをして、人さまが国の端から端まで、噂を広めるのを、あたしには止められません。だって、あなたと一緒にいるところを見られただけで、女性には悪評が生涯ついてまわるんですもの。今はブロードウェー中が、あなたがベレニス・フレミングを追いかけているのを知ってるわ。すぐにあなたが関係した他の女たちと同じように彼女の浮名が流れるわよ。どうせあなたに身を捧げるんでしょうけど。彼女にまともな評判があったとしても、もうなくなってるんだから、それを頼りにすればいいじゃない」
この発言はクーパーウッドをとてもいらだたせた……激怒させた……特にベレニスへ話が及んだ部分がである。こんな女をどうするつもりだったんだ? と考えた。聞くに堪えなくなってきた。しつこさといい、迫り方といい、口やかましい女の喋り方だった。そもそも、結婚したのが大きな間違いだった。それでもまだアイリーンの手綱はクーパーウッドがほぼ握っていた。
「アイリーン」話が終わったところで冷ややかに言った。「散々しゃべっただろう。夢中で喋ってるうちに下品になっていると思うよ。私にも言わせてくれ」クーパーウッドは険しい相手を黙らせる目でじっと見つめた。「私にはするような謝罪はない。きみは自分の好きなように考えればいいさ。きみがどうして自分の行動を口にするのか知ってるよ。しかしここが問題だ。それを頭にはっきり叩き込んでおいてもらいたい。きみがどんな女性でも、最終的には多少違ってくるかもしれないんだ。私はもうきみのことなど構いたくない。他の言い方をしてほしいなら……きみにはうんざりだ。ずっと、そうだった。だから、他の女性たちに走ったんだ。もしきみにうんざりしていなかったら、そんなことはしてなかった。それと、私には他に愛する人がいる……ベレニス・フレミングだ。ずっと愛し続けると思う。私は自由になって、違う基準で人生をやり直し、死ぬ前にささやかな安らぎを見つけたいんだ。きみだって本当はもう私のことなんか気にしていないんだ。気にするはずがないよ。きみにひどい仕打ちをしたことは認めよう。しかし、もし本当にきみのことを愛していたら、そんなことはしなかったんじゃないかな? 私の中で愛が死んだのは、私のせいではないだろ? きみのせいでもない。だから、私はきみを責めてはいない。愛は、人工のふいごで風を送ればいつでも燃え上がる炭の山ではないんだ。なくなったら、そこで終わりだ。私はきみを愛していないし、愛することができないのに、どうしてきみは私を自分のそばにおきたがるんだ? 私と別れて離婚してくれてもいいだろう? 私といても別れても、同じように幸せか不幸になるんだよ。どうして駄目なんだい? もう一度自由になりたいんだ。私はここにいて惨めだよ。しかもずっとそうだった。きみが公平で適切だと思える取り決めをするつもりでいるんだ。この家をあげるよ……この絵もだ。きみがそんなものをどうしたいのか、さっぱりわからないけど」(クーパーウッドはできれば、画廊を手放したくなかった。)「生涯、きみが望むだけの収入を渡すよ。あるいは即金でまとまった額を渡したっていい。私は自由になりたいんだ。私と別れてほしいんだ。そろそろ、きみも分別ある態度をとって、私にこうさせてくれてもいいだろう?」
この話の間、クーパーウッドは最初は座っていたが、やがて立っていた。愛が本当に死んだと言ったところで、アイリーンは少し青ざめて、手を額にあてて目を覆った……クーパーウッドは初めてこれを飾らず、正面切って口にした。クーパーウッドが立ち上がったのは、そのときだった。冷たく、決然とし、一瞬少し復讐に燃えていた。アイリーンはようやく、クーパーウッドはこれを言いたかったのだと気がついた……その心には、過ぎ去ったものへの感情はこれっぽっちもなかった。……甘い思い出も、幸せな時間、日々、歳月を束ねた思いもなかった。それは思い返せばアイリーンにとってとてもきらびやかですばらしものだった。神さま、確かにそうでした! 愛は死んだ、とクーパーウッドは口にした! しかし、にわかには信じられなかった。信じるつもりもなかった。本来ならありえなかった。
「フランク」アイリーンは近寄りながら切り出した。クーパーウッドは避けてかわした。アイリーンの目は開き、両手は震え、唇が感情的に、波打つように、ワナワナと震えていた。「本気で言っているんじゃないわよね? 愛は完全に死んだりしてないわよね? あたしに向けてくれた愛が全部なの? ああ、フランク、あたしは怒ったし、憎んだし、ひどく嫌なことも言ったわ。でもそれはあたしがあなたを愛していたからなのよ! いつだって、そうだったわ。あなたならわかるわよね。あたしはとても嫌な思いをしたんだから……ああ、神さま、どれだけ嫌な思いをしたでしょうか! フランク、あなたにはわからないでしょうけど……でも、あたしの枕は一晩に何度も涙に濡れたんだから。泣き明かしたんだから。起きては、床を歩いたわ。ウィスキーだって飲んだ……ストレートでよ……だって、何だか辛くて、その苦しみを止めたかったの。他の男たちとも付き合ったわ、次々とね……知ってるでしょ……でもね、ああ! フランク、フランク、知ってるでしょ、あたしが望んだんじゃないって、そんなつもりじゃなかったんだって! いつも、後でそのことを考えて嫌になったわ。それもただ孤独だったからなのよ、あなたがちっともかまってくれないし、優しくなかったからよ。ああ、あなたとの愛の時間を、どんなに待ち望んだことかしら……一晩を、一日をよ! 黙って耐えられる女性もいるでしょうけど、あたしにはできないわ。心がほっといてくれないのよ、フランク……そうは思えないのよ。フィラデルフィアで、あなたが家に帰るときにあたしに会ったときや、あたしが九番街や十一番街であなたに駆け寄ったとき、あたしがどんなふうにあなたに駆け寄ったか、考えずにはいられないのよ。ねえ、フランク、あたし、あなたの最初の奥さんにひどいことしたかもしれない。今ならわかる……奥さん、きっと苦しんだにちがいない! でも、あたしはあの頃、ただの愚かな小娘で、わかってなかったのよ。よく九番街のあなたのところへ行ったことや、来る日も来る日もフィラデルフィアの刑務所に面会に行ったことを覚えてない? そのとき、あなたは、ずっとあたしのことを愛す、決して忘れないって言ったのよ。もう、あたしを愛することはできないの……これっぽっちも? あなたの愛が死んだというのは本当なの? あたし、そんなに年をとって、変わってしまった? ねえ、フランク、そんなこと言わないで……お願いだから……お願い、お願い、お願いよ! このとおりよ!」
アイリーンは近づいて、クーパーウッドの腕に手をかけようとしたが、彼は脇へ避けた。今、相手を見ているクーパーウッドとしては、アイリーンは到底たえられる相手ではなかった。美しいとか色っぽいと欲望を向けられる相手ではなかった。魅力はなかった。魔法は解けてしまった。彼が求めたのは別のタイプ、別の姿だった。しかし、何よりも肝心なのは、若さ、若さだ……たとえば、ベレニス・フレミングの中の精神だった。彼なりに、すまないとは思った。哀れみを感じた。しかしそれは遠くで鳴り響く羊の鈴の音や、嵐の海の夜の黒い波がぶつかる音に負けない警笛ブイの物悲しいうめき声みたいなものだった。
「きみは状況がわかっていないな、アイリーン」クーパーウッドは言った。「自分でもどうしようもないんだ。私の愛は死んだ。なくなったよ。そんなの、思い出せないし、感じることもできない。できたらいいんだろうけどね、できないんだ。きみはそこを理解しないといけない。物事にはできることもあれば、できないこともあるんだ」
クーパーウッドはアイリーンを見たが、和らいだ様子は全くなかった。アイリーンがクーパーウッドの目の中に見たものは、自分でも信じたように、冷たい哲学的な論理……実業家、思想家、交渉人、策略家……だけだった。こうして永遠に自分にきっぱりと門を閉ざすことができる彼の魂の強固さを思うと、アイリーンは荒れ、怒り、興奮した……完全に正気を失った。
「ねえ、そんなこと言わないでよ!」アイリーンは呆けたように訴えかけた。「お願いだから。そんなこと言わないでほしいの。少しくらい思い出すかもしれないわよ、も、もし……あなたがそれを信じさえすれば。あなたはあたしがどういう気持ちなのかわからないの? それがどういうことかわからないの?」
アイリーンは膝をついて、クーパーウッドの腰にしがみついた。「ねえ、フランク! フランク! フランクってば!」アイリーンは泣きながら叫び始めた。「あたし、耐えられない! 耐えられない! 耐えられない! 耐えられない! 死んでやるわ」
「そんな捨て鉢になってはだめだ、アイリーン」クーパーウッドは訴えた。「そんなことしても、何にもならないんだからね。私は自分には嘘をつけない。きみにだって嘘をつきたくない。人生はあまりにも短すぎる。事実は事実なんだよ。もしきみを愛していると言ってそれを信じられるものなら、すぐにだって言うさ。でもできないんだ。私はきみを愛してはいないからね。なのに、どうしてそんなことを言わなきゃいけないんだい?」
アイリーンの本質の中には、純粋に芝居っぽい部分と、子供っぽい……甘やかされて駄目になった……部分と、全く理屈に合わない部分と、豊かな感情の……深くて暗く複雑な……部分があった。自分を永遠の孤独の境遇に投げ返すかに思えたクーパーウッドのこの発言を受けて、アイリーンはまず妥協……共有……を持ちかけた。ステファニー・ブラトーとは闘わなかった。フローレンス・コクランとも、セシリー・ハグエニンとも、ハンド夫人とも、リタ以降は誰とも闘わなかった。もう闘うつもりはなかった。アイリーンはベレニスのことでクーパーウッドを探ってはいなかった……彼らとの出会いは偶然だった。確かに、アイリーンは他の男たちと付き合っていたわけだが? ベレニスが美しいことは認めたが、彼女もまだ彼女なりに美しかった……まだ少しは美しかった。クーパーウッドはもう自分の人生にアイリーンの居場所を見つけられないのだろうか? 二人の空間は存在しないのだろうか?
この屈辱と敗北の表明を受けて、クーパーウッドは悲しくなり、気分が悪くなり、吐き気を催すほどだった。どう言えばいいのだろう? どうすればアイリーンに理解させることができるのだろう?
「それができればいいんだけどね、アイリーン」クーパーウッドは最終的に厳かに締めくくった。「でもできないんだ」
真っ赤だが涙の枯れた目でアイリーンは突然立ち上がった。
「それじゃ、あなたはあたしを全然愛してはいないのね? これっぽっちも?」
「そうだ、アイリーン、愛してないよ。だからといって、嫌いなわけではない。女性としてのきみに興味がないとか、きみに共感してないということではない。してるさ。でももうきみを愛してはいない。愛せない。これまで感じていたものをもう感じることができないんだ」
これをどう受けとめていいのかわからないまま、アイリーンはしばらく動かなかった。その一方で青ざめ、数日かけてする以上に緊張して精神が高揚した。すっかり、絶望して、憤慨し、気分が悪くなった。しかし火に囲まれたサソリと同じで、自分しか刺せなかった。人生は地獄だと内心思った。いつの間にか過ぎ去って、人に老いと恐ろしい孤独を残すのだ! 愛情がなくなり、信頼がなくなり……何もかもなくなった!
アイリーンの目に、確信と激しさと意志を秘めた繊細な光が、一瞬灯った。「じゃあ、いいわ」アイリーンは冷静に、緊張した状態で言った。「自分がどうするかはわかってる。あたしはこんな生き方をするつもりはない。今夜より先を生きるつもりはないわ。とにかく死にたいの。だから死にます」
この最後は決して泣き叫んでおらず、穏やかな言い方だった。これはアイリーンの愛の証だった。クーパーウッドには、実態が伴わない空威張り、自分を脅すために一時的に怒ってみせたように見えた。アイリーンは振り返って、近くの大階段をのぼった……大理石とブロンズの幅が十五フィートもある見事な区画で、親柱には大理石の女神ネレイス、石には踊っている人の姿があしらわれていた。アイリーンはとても落ち着いた態度で自分の部屋に入り、短剣のデザインの鋼のペーパーカッター……柄がブロンズで刃先がすごく鋭利なナイフ……を取り出した。部屋を出て、クーパーウッドがまだ座っている蘭の咲く中庭に張り出したバルコニー沿いを進み、水のはったプール、小鳥、ベンチ、蔓草のある朝日の間に入った。ドアに鍵をかけて座ると、突然腕を露出して静脈を切りつけた……数インチほど切り……その場に座って出血するにまかせた。このときアイリーンは、自分が死ぬことができるかどうか、クーパーウッドが自分を死なせるかどうか、を確かめるつもりだった。
クーパーウッドは確信が持てずに驚いて、アイリーンがここまで無分別だとは信じられずに、アイリーンの気持ちがこれほどまでに大きいとは信じられずに、アイリーンが自分を不思議がらせたその場所にまだ留まったままだった。クーパーウッドは、そんなに大きく動揺していなかった……女の癇癪はよくあることだった……だが……アイリーンが本気で死のうとしているなんてことがありえるだろうか? 果たしてアイリーンにできるだろうか? 馬鹿馬鹿しい! 人生はとても奇妙だし、狂っている。しかし、この脅しをかけたのはアイリーンだった。ひょっとして、これをするために階段をのぼったのかもしれない。まさか! こんなことがあるだろうか? まさかとしか思わなかったが、一抹の不安、恐怖があった。クーパーウッドは、アイリーンがどんなふうにリタ・ソールバーグを襲ったかを思い出した。
急いで階段をのぼってアイリーンの部屋に入ったが、そこにはいなかった。あちこちに目を配りながら、バルコニーに沿って足早に進み、朝日の間にたどり着いた。ドアが閉められているのだから、そににいるにちがいなかった。開けようとしたが……鍵がかかっていた。
「アイリーン」と声をかけた。「アイリーン! 中にいるのかい?」返事はなかった。クーパーウッドは耳を澄ませた。依然として返事はなかった。「アイリーン!」と繰り返した。「中にいるのか? こんなの馬鹿げてるだろ?」
「ちぇ!」後ずさりしながら考えた。「また、やりかねないか……多分、やったな」アイリーンがつけた照明に刺激された大嘴の変な鳴き声しか聞こえなかった。額に汗がわいた。ドアノブをゆすって、使用人を呼ぶベルを鳴らして、すべてのドア用に作られた鍵と、ノミとハンマーを持ってこさせた。
「アイリーン、そっちが今すぐドアを開けないなら、こっちで開けるまでだ。どうせ、すぐに開くんだぞ」
依然として何の音もしなかった。
「まったく!」情けないやら、あきれるやら、クーパーウッドは叫んだ。使用人が鍵をもってきた。正しい鍵なのに入らなかった。反対側でもうひとつかかっていた。「どこかにもっと大きなハンマーがあるだろう」クーパーウッドは言った。「それをもってこい! 椅子をよこせ!」その間に、大きなノミを使い、恐るべき行動力でドアをこじ開けた。
すてきな部屋の石のベンチのひとつに、アイリーンが座っていた。その前には平らな水面のプールがあり、朝日が全てのものに降り注いだ。熱帯の小鳥たちが枝にいた。アイリーンは髪を振り乱し、顔面蒼白で、片腕……左腕……が切られて出血して垂れ下がり、真っ赤な血を大量に滴らせていた。床には血だまりがあった。何かの豪華な布のようで、ひどい緋色が、すでにところどころ黒くなっていた。
クーパーウッドは立ち止まった……驚いた。急いで駆け寄り、腕をつかみ、裂いたハンカチで包帯を作って傷口にあてて、外科医を呼びに行かせ、声をかけた。「よくもこんなまねができるな、アイリーン? ありえないぞ! 自分の命を粗末にするなんて! こんなのは愛じゃない。狂気でさえない。愚行だ」
「本当は気にしてないんじゃない?」アイリーンは尋ねた。
「よく聞けるな? どうしてこんなことができるんだ?」
クーパーウッドは、怒り、傷つき、アイリーンが生きていることを喜び、多くのことを恥じた。
「本当は気にしてないんじゃない?」アイリーンはだるそうに繰り返した。
「アイリーン、こんなことは馬鹿げている。今はそんな話をしている場合じゃない。どこか他のところも切ったのか?」胸や脇腹を触りながら尋ねた。
「それじゃ、どうしてあたしを死なせてくれないのよ?」アイリーンは同じ調子で答えた。「いつかは死ぬのよ。あたしは死にたいの」
「まあ、いつかは死ぬかもしれないが、今夜じゃない。きみが今するとは思わなかった。これはひどすぎるぞ、アイリーン……まったくありえないよ」
クーパーウッドは体を起こしてアイリーンを見た……彼の目は、冷静で、信じてはおらず、コントロールできる、勝ったぞ、と光っていた。怪しいと思ったとおり、これは確かに本気ではなかった。アイリーンに自殺するつもりはなかっただろう。アイリーンはクーパーウッドが来てくれるのを期待していた……昔そうしてくれたように。うまくいった。アイリーンがベッドに落ち着き、看護婦の手で安全が保たれたのを見届けると、クーパーウッドは今後は出来る限りアイリーンを避けるつもりだった。覚悟が本物なら、夫の留守中に実行するだろう。しかし、クーパーウッドはアイリーンがするとは思わなかった。




