第52章 アラスの向こうで
翌朝、ベレニスは、母親……ひどく憔悴しきっていた……が手渡したビールズ・チャドセイからの謝罪の手紙を読んだ。自分の見解は変えずに償いをしようとしている人物の一夜漬けの気遣いのような内容だと思った。カーター夫人は身に覚えがあるのが一目瞭然だった。むきになり過ぎだった。ベレニスはその気になれば自分で見つけ出せるとわかっていた。しかしその気になるだろうか? 考えるのが嫌だった。自分は誰を断罪することになるのだろう?
クーパーウッドは明るいうちに早々とやってきて、この問題にはできるだけ平静を装った。自分とブラックスマーが告訴するために警察署に行った経緯と、逮捕されて酔いが覚めたチャドセイが強がるのをやめて謙虚に謝罪した経緯を説明した。カーター夫人に手渡された手紙を見て声を大にした。
「ええ、そうなんですよ。こちらが彼を許すなら書くと大喜びで約束しましたからね。ブラックスマーはそうすべきだと考えてるようでした。私は裁判官に罰金刑をかけてもらって、それでけりをつけたかったんですがね。相手は酔ってました。それだけのことだったんです」
クーパーウッドはベレニスと母親の前では何も気づかないふりをしたが、母親と二人っきりになると態度がガラッと変わった。
「それで押し通すんですよ」クーパーウッドは命じた。「おおごとにはなりません。ブラックスマーだって、この男が本当に何かを知っているなんて信じませんよ。この手紙があれば、ベレニスは納得するでしょう。何くわぬ顔でいてください。何よりもあなたの態度にかかっているんです。動揺し過ぎですよ。それじゃ駄目なんです。そんな態度じゃ、すべてばれちゃいますよ」
同時に、内心ではこの出来事を、うまい具合にチャンスが舞い込んだと考えた……どう見ても大尉を追い払うのに役立つ材料だった。しかし、表向きは、図々しく白を切り通すことを要求した。カーター夫人は多少元気になったが、ひとりになると泣いてしまった。ベレニスは、たまたま母親に出くわし、目が濡れているのに気がついて叫んだ。
「ねえ、お母さん、お願いだから馬鹿なまねをしないで。どうしたら、こんなことができるのよ? お母さんがこんなに落ち着かないんじゃ、私たち、田舎に帰って少し静養した方がいいわね」
カーター夫人はただ神経質に反応しただけだと言ったが、ベレニスはこれだけ煙が上がっているのだから多少の火種はあるにちがいないと思った。
その後ブラックスマーに対するベレニスの態度は、しとやかだがよそよそしくなった。翌日、ブラクスマーがお見舞いがてらに出向いて、新しい気晴らしに誘ったのに、ベレニスは優しいが他人行儀だった。ベレニスの中ではビールズ・チャドセイの一件は終わっていたが、ブラクスマーの誘いを受けなかった。
「母と私はしばらく田舎に行く予定なのよ」ベレニスは感じよく言った。「いつ戻るかはわからないけど、あなたがずっとここにいるなら、会えるのは間違いないわ。きっとまた会いましょうね」東側の中庭に面した窓の方を向くと、朝日が窓辺の植木鉢の花にあたっていた。ベレニスは枯葉をところどころ摘み始めた。
アメリカのロマンスの伝統にたっぷりはまったブラックスマーは、ベレニスの生き生きとした魅力や、この状況下でも冷静さを失わない気高さや、自分と別れようとしている明らかな覚悟に魅了されたが、人間の心がしばしば精神の不可解さによってそうなるように、それを見た者はもちろんその犠牲者も謎の化学反応でそうなるように、押し切られた。ブラクスマーは、勇敢に、敬虔に、熱心に、無意識に、進み出て叫んだ。
「ベレニス! フレミングさん! こんなふうに別れるなんて嫌です。私を置いていかないでください。私が何かしたわけじゃありませんよね? 私はあなたに夢中なんです。何かがあって、あなたと私との間がどうにかなってしまうと思うことに耐えられないんです。今まで言う勇気がありませんでした。でも今は言いたい。出会った最初の夜から、ずっとあなたを愛してました。あなたはとてもすばらしい女性です! 私があなたにふさわしいかはわかりませんが、私はあなたを愛してます。私の名誉と力のすべてをかけて、あなたを愛します。あなたを敬服し尊敬しています。どんなことが真実であろうとなかろうと、私にはすべてが同じなんです。私の妻になってくれませんか? どうか、私と結婚してください! ああ、私はあなたの靴の紐にはなれませんが、地位があります。自分の力で名もあげるでしょう。ああ、ベレニス!」ブラックスマーは、腕を大げさに、外に向かってではなく下に、ぎごちなくまっすぐ伸ばして言った。「あなたなしでは、私はどうしたらいいのかわからないんだ。私には全く希望がありませんか?」
女性の優美さすべてを備えた芸達者……演技力があって、変幻自在で、多面性がある……ベレニスは自分が何をすべきか何を言うべきか、ほんの一瞬考えた。ベレニスは大尉が是が非でも自分を愛したようには、大尉を愛さなかった。どういうわけか母親の問題の発覚は、ベレニスのプライドを傷つけ、あの手この手と自分が助かるためにやらねばならないことを思いつかせていたが、これにもひどく腹が立った。このときの彼の不器用なプロポーズを残念に思ったが、それが心の純真さと善意から出たものであることはちゃんと知っていた。
「本当に、ブラックスマーさん」ベレニスは厳粛な目を向けて答えた。「今はその決断を私に求めてはいけません。あなたのお気持ちは知っています。私の態度に少し誤解を招くところがあったかもしれません。そんなつもりではありませんでした。いずれにしてもしばらくは、私のことを忘れた方がいいと思います。どうしてもと言うのであれば、これしかありません。私のことはきれいさっぱり忘れてください。あなたに私の気持ちがわかるかしら……これを伝えることが、どれだけつらいことなのか?」
ベレニスは話をやめた。完全に落ち着いていたが、本当はすっかり動揺していた。人が見惚れる魅力的な姿だった……ギリシャ人とも東洋人ともとれる……瞑想しているようで打算的だった。
この瞬間初めてブラックスマーは、自分が本当に理解できない相手と話していることに気がついた。ベレニスは奇妙に自分を抑制していて、謎めいていて、一段と美しかった。おそらくこれまで見ていたよりも遠い存在になったからだ。この若いアメリカ人は不思議な閃光の中で、ギリシャの島々、キュテレイア、失われたアトランティス、キプロスとそのパポスの聖堂を見た。彼の目は、奇妙な、理解し始めた輝きを帯びて燃えた。最初よかった顔色が青ざめた。
「ベレニスさん、あなたが私のことを全然気にかけていないなんて信じられません」ブラックスマーは完全に緊張して続けた。「気にかけていると感じました。でも、こうなった以上」奮い起こされたのか、本物の軍人らしい力を発揮して付け加えた。「あなたに迷惑はかけません。あなたは私を理解しています。あなたは私の気持ちをわかってくれています。私は変わりませんよ。とにかく、友達になれませんか?」
ブラックスマーは手を差し出した。ベレニスはその手をとって、のどかな恋だったかもしれないものに自分は終止符をうっているのだと今感じていた。
「もちろん、なれるわよ」ベレニスは言った。「近いうちにまた会いしましょう」
彼が去ってから、ベレニスは隣の部屋に入り、籐椅子に座って膝に肘をついて、両手に顎をのせた。あんなに無邪気で、あんなに魅力的だったのに、何て結末かしら! そして、もう彼はいない。もう会うつもりはない、会いたくなることもないだろう……いずれにしても、そんなには。人生には悲しい、醜い事実さえあった。そう、そうなんだ。ベレニスはそれをはっきり気づき始めていた。
その二日後、もうこれ以上耐えられないところまで思い悩むと、ついにカーター夫人のところに行って言った。「お母さん、私にもちゃんとわかるように、このルイビルのことを全部話してよ。 お母さんが心配事を抱えているのはわかってるわ。私が信頼できないの? 私はもう子供じゃないんだし、お母さんの娘なのよ。そうすれば物事がはっきりして、どうすればいいのかわかるかもしれないわ」
高慢だが愛情深い母親をいつも演じてきたカーター夫人は、この勇敢な態度にとても驚いた。赤面して少しゾッとし、それから嘘をつくことにした。
「何もなかったって言ってるでしょ」おどおどして、不機嫌に言い切った。「全部ひどい間違いなんだから。あんなひどい男は、自分が私に言ったことで厳しく罰せられればいいのよ。我が子の前であんな風に誹謗中傷されるなんて!」
「お母さん」ベレニスはあの冷ややかな青い目でじっと相手を見すえて尋ねた。「ルイビルのこと、全て私に話したらどうなのよ? 親子の間で隠しごとなんかするべきじゃないわ。私が助けられるかもしれないでしょ」
すぐにカーター夫人は、娘はもう子供でもただの社交界の蝶でもなく、自分よりもはるかに深い洞察力を備えた、優れた、冷静な、思いやりのある女性なんだと悟ると、後ろの重そうな花柄の肘掛け椅子に座り込み、片手で小さなハンカチを探し、もう片方の手で目をおおって泣き始めた。
「追い詰められていたのよ、ベヴィ、どうすればいいのかわからなかったのよ。ギリス大佐が言い出したんだけどね。お母さんはあなたとロルフを進学させて、チャンスを与えたかったのよ。真実じゃないの……あの恐ろしい男が言ったことはどれも。あいつが言ったようなことは何もなかったのよ。ギリス大佐と他の数人が、独身者用の部屋を貸してくれと頼んだの。それでそういうことになっただけなの。私のせいじゃなかったのよ。どうしようもなかったんだから、ベヴィ」
「じゃ、クーパーウッドさんはどうなの?」ベレニスは気になって尋ねた。最近はクーパーウッドのことをずいぶん考えるようになっていた。彼はとても冷静で、奥が深く、精力的で、ある意味では自分のように機知に富んでいた。
「あの人は何でもないわ」カーター夫人は言い訳がましく顔をあげて答えた。全ての男性の友だちの中で、クーパーウッドのことが一番好きだった。彼女に悪事を勧めたり、自分だけに都合のいいように家を利用したことはなかった。「私を助ける以外のことは何もしてませんよ。ルイビルの家を手放して東部に行き、あなたとロルフの世話に専念するよう勧めてくれたの。あなたたち二人が自立できるまで援助してくれると言ったから、それにすがったのよ。ああ、私がこんな愚かでさえなかったら……人生を恐れさえしなかったら! でも、あなたのお父さんとカーターが、すべてを使い果たしてしまったのよ」
夫人は心底深いため息をついた。
「それじゃ、私たちって本当は何も持っていないのね、お母さん……財産も他のものも?」
カーター夫人は、ないと言うつもりで首を振った。
「私たちが使ってきたお金は、クーパーウッドさんのものだったのね?」
「そうよ」
ベレニスは話をやめて、一望できる窓から広々とした公園をながめた。小さな湖と、その前の日本の塔のような木々の丘が、窓枠に収められた絵のようだった。セントラルパーク・ウェストの立派なホテルの黄色い壁がその丘の向こうでそびえ立っていた。下の通りで、路面鉄道の鐘の音が聞こえた。公園の道に、楽しそうな馬車が一列になって移動するのが見えた……寒い十一月の午後に外出中の街の人たちだった。
「貧困と追放」ベレニスは考えた。それでは、金持ちと結婚するべきかしら? もしできるのであれば、そういうことだ。じゃあ、誰と結婚すべきかしら? 大尉か? まさか。実際のところ、精神的に円熟していないし、こちらの負い目を目撃してしまったではないか。すると誰だろう? ああ、長蛇の列を成すほどの愚か者、軽薄、放蕩者、穀潰しが、真面目、裕福、石頭、間抜けな連中と一緒になって社会を構成している。本物の男性は遠く離れたところにちらほらいるだけだ。しかしそういう人は、自分のすべてを知っても、自分に関心を持ってくれるだろうか?
「ブラックスマーさんとは別れたの?」母親は好奇心、不安、希望、絶望から尋ねた。
「その後会ってないわ」ベレニスは控えめに嘘をついて答えた。「会うか会わないかもわからない。考えたいのよ」ベレニスは立ち上がった。「でも、心配しないでね、お母さん。クーパーウッドさんに頼らなくても生きていける他の方法があればいいのよ」
部屋に入って、鏡の前で招待されていたディナーの身じたくを始めた。つまり、この二、三年の間家族を支えてきたのは、クーパーウッドのお金だったのだ。自分は彼の資産で好き勝手をしてきたのだ……得意になり、うぬぼれて、自慢し、偉そうにしていた。なのに彼は、問いかけ、調べるような目で自分を見ただけだった。なぜだろう? しかしその理由を自分に問う必要はなかった。もう、わかっていた。彼は何というゲームをしていたのだろう。それがわからなかったとは自分は何たる愚か者だろう。果たして母親は気づいていたのかしら? 怪しいものだった。この奇妙な、たとえそうでも受け入れがたい、あり得ない世界! 考える間もクーパーウッドの目はベレニスに向けられて燃えていた。




