第51章 ハッティ・スターの復活
クーパーウッドのお金が与えてくれる歓びや娯楽に夢中のあまり、ベレニスは最近まで自分の将来についてあまり考えを割いてこなかった。クーパーウッドはとても寛大だった。「彼女は若いんです」ベレニスと彼女の将来について話をしたときに、損得抜きの寛大な態度で、一度カーター夫人に言ったことがあった。「とても美しい娘さんです。おもいっきり伸び伸びさせてやることです。立派に結婚してくれれば、あなたにも私にも何よりの恩返しになるんですからね。でも今は彼女に必要なものを、すべて与えましょう」見事な蘭の花を栽培している庭師の態度で、クーパーウッドは小切手にサインをした。
実際、カーター夫人はベレニスを美の対象として、将来の貴婦人として、とても気に入っていたので、娘の晴れ姿を見るためなら自分の魂だって売っただろう。そして、ドレス、舞台装置、身の回り品にかける金をどこかから工面しなくてはならないので、夫人は自分の魂をクーパーウッドに服従させてしまい、身近で大切なものすべてを置いているその不名誉な立場に気づいていないふりをした。
「ああ、ありがとうございます」夫人は、一度ならず、喜びの混じった感謝の気持ちで目をうるうるさせてクーパーウッドに言った。「私は誰の厚意も信じる気はなかったんですけど、ベヴィのことがありますから……」
「美しいものが好きな人は美しいものが好きなんです」クーパーウッドは答えた。「希少な存在なんですよ。私は、彼女のようにすてきな精神が困らずに動くのを見ることが好きなんです。彼女は自分の道を切り開きますよ」
ベレニスの問題の真正面にブラックスマー大尉を見ながら、カーター夫人は愚かにも、気安く、取り入るように、この問題をくどくど繰り返した。ブラックスマーは彼なりに本当に面白かった。若くて背が高い筋肉質の二枚目で、優雅に踊る人だった。しかしそれ以上に彼は自分の雰囲気の中に、家柄や、社会的地位や、ベレニスの関心が高かったいろいろなものを見せていた。知的で、真面目で、ある種の高貴な品格があり、それがまた陽気で、礼儀正しく、物思いに沈んでいた。ベレニスが初めて彼に出会ったのは地元のダンス・パーティーで、そこでは新しいステップが使われていた……「納屋のダンス」と言われた……彼はすてきな衣装を着て、ベレニスが一瞬感動しかけるほど軽快にステップを踏んだ。
「楽しそうに踊るわね」ベレニスは言った。「これも海の生活の一部なのかしら?」
「深海を進むダンスなんですよ」すばらしい微笑を浮かべて、ブラックスマーは答えた。「すべての闘いにダンスがつきものなのを知らないんですか?」
「まあ、へたな冗談!」ベレニスは答えた。「信じられないほどひどいわよ」
「そんなことないですよ。もっとひどいのだって言えますから」
「そんなものごめんだわ」ベレニスは答えた。「聞いていられないから」そして二人は踊りつづけた。その後ブラックスマーがやって来て、ベレニスのそばに座った。二人は月明かりを浴びながら散歩し、海軍での生活や、南部の家族や身内について語った。
カーター夫人はベレニスと一緒にいる彼を見て、紹介されたので、翌朝言った。「私はあなたの大尉さん、気に入ったわ、ベヴィ。お身内の方も何人か知ってるわよ。カロライナ出身なのよね。きっとお金持ちになるわ。ご家族みなさん、裕福ですもの。あなたに興味を持ってくれると思う?」
「まあ、おそらくね……そうなると思うわ」ベレニスは軽く答えた。こうやって親が関心を示すのをあまり歓迎しなかった。ベレニスは今、漠然と人生が流れるのを見ていたかった。こういうことは、問題をあまりにも身近に感じさせた。「でも彼の頭は機械のことしか考えてないから、果たして女性に本気になれるかしらね。男性っていうよりほとんど戦艦だわ」
ベレニスは顔をしかめた。カーター夫人は明るく言った。「まあ、無理しちゃって! 男性はみんなあなたに関心を示すわよ。あなたの方こそ、彼のことが好きになれるって思わないの?」
「まあ、お母さん、何なのよ、その質問! 何でそんなこと聞くのかしら? 私がそうなるのが、そんなに重要なことなの?」
「あら、そうじゃないわよ」カーター夫人は、自分に課せられたと感じた言葉に緊張して優しく答えた。「でも彼の身分を考えなさい。それなりの良家の人だし、かなりの正当な財産を相続するにちがいないわ。ねえ、ベヴィ、急がせたり、どんな形であれあなたの人生を台無しにしたくないのよ。だけどね、将来のことは考えておこくことよ。あなたが好きに生きるにしても本能のまま生きるにしても、お金は欠かせませんからね。結婚しなかったら、どこであなたがお金を手に入れることになるのか、お母さんは知りませんよ。あなたの父親はとても軽率で、ロルフの父親はそれに輪をかけてひどかったのよ」
夫人はため息をついた。
ベレニスは生まれて初めて、この考えを厳粛に受けとめた。ブラックスマーを人生のパートナーとして我慢して、彼について世界中を回り、もしかしたら南部に移り住むことに耐えられるかもしれないと考えたが、決断できなかった。母親のこの差し出口は、娘のカップに毒をもってしまった。実を言うと、悩んだこのとき、ベレニスの考えはぼんやりとクーパーウッドの方を向いた。彼は、ベレニスが本当に望むことを、自分から積極的に表現する人だった。彼の財力と、新居がただの美術館にしかなりえないという嘆きと、表情と無言の告白とで自分に近づいたときの態度を思い出した。しかし高齢で既婚者……したがって問題にならなかった……そしてブラックスマーは若くて魅力的だった。まさか母親が、彼を候補と考えるように勧めるほど無粋だったとは! ベレニスにすれば興ざめもいいところだった。それに、このときのこの一家の経済状態は、母親が言うほど不安定なのだろうか?
危機とあっては、これまでの社交の経験が重要な意味を持ってきた。たとえば、ブラックスマーと出会うほんの数週間前、ベレニスはロングアイランドのレディングヒルズにあるコースキャデン・バーチャー家の別荘を訪問して、たとえ遠景でもロングアイランド湾を見事に見渡すヒルクレストの居間で、女主人と一緒に座っていた。
フレデリカ・バーチャー夫人は栗色のブロンドで、色が白く、クールで、動かない人だった……オランダの絵画のようだった。灰色と銀のモーニングガウンをまとい、プシュケのように結んだ髪を重ね、この時は膝にジャバ・バスケットをのせてノルウェーの刺繍を試していた。
「ベヴィ」夫人は言った。「キルマー・デュエルマを覚えているでしょ? あの人、昨年の夏、あなたがいたとき、ハガーティ家にいなかったかしら?」
小さなチペンデール風の文机で手紙を書いていたベレニスは、ちらりと顔を上げた。すぐに話題の青年が頭に浮かんだ。キルマー・デュエルマ……背が高く、がっしりしていて、いばっていた。服装はゆったりした無頓着な季節に合った完璧なもの、歩き方はのんびりで、わざとらしく、無気力で、方向感が定まっていなかった。血色はよく、頬はふっくらしていて、目は少しうつろで、質問や考えが自分に向けられるとどれにも一応大人しく、どうでもよさそうに黙って従った。銀行家で起業家の億万長者オーギュスト・デュエルマの二子の弟の方で、ざっと見積もって六百万から八百万くらいの資産家になるはずだった。その前年ハガーティ家で、彼は闇雲にベレニスにまとわりついていた。
バーチャー夫人はしばらくベレニスの様子を観察してから刺繍に戻った。「今週末にお誘いしてあるのよ」夫人はそれとなく言った。
「そうなんですか?」ベレニスは感じよく質問した。「他の方々もいらっしゃるんでしょ?」
「もちろんよ」バーチャー夫人はそっけなく言った。「キルマーじゃ、不足よね」
ベレニスは不可解な微笑みを浮かべた。
「クラリサ・フォークナーを覚えてるわよね、ベヴィ?」バーチャー夫人は話を続けた。「ロムルス・ギャリソンと結婚したのよ」
「よかったですね。今はどちらにいらっしゃるのかしら?」
「冬の間はアルスのシャトー・ブルイユを借りていたわ。ロムルスはお馬鹿さんだけど、クラリサはとてもお利口さんよ。今シーズンはそこで本格的な庭開きをしていると手紙をよこしたのは、あなたもご存知でしょ。パリとロンドンの名士の半分は立ち寄っているわ。今はこういうことができるんだから、あの娘にとってはとてもいいことよね。ねえ、あなた! 私はあの娘のことで一時期はずいぶん悩んだものよ」
ベレニスは、表には何の素振りも出さなかったが、この似通った話の意味を完全に理解していた。まったくその通りだった。人生設計は早めに始めなければならない。ベレニスはわずらわしい義務感に苦しんだ。金曜日の正午にキルマー・デュエルマが到着した。六種類の鞄を持ち、特別な側仕えを一名従え、ポロとハンティングに馬鹿みたい熱中していた。(最近、バークシャーのハンティング仲間からもらった病気だった。)ミス・フレミングから発せられて、バーチャー夫人が機転を利かせて彼に伝えたと思われる、巧妙に練られたお世辞が効いたのか、キルマーはのんびりベレニスのところまで歩いて行って、日曜日にサドルロックへのドライブを提案した。
「まあ、その、おわかりでしょうが、また会えてうれしいですよ。まあ、その、ハガーティ家でお会いしてずいぶんたちましたね。あなたが帰ってしまってから、みんな寂しい思いをしましたよ。まあ、その、ぼくもそうだったんですけどね。あなたに会ってから、ポロを始めたんです……今じゃいつもポニーが三頭一緒にいるんです……まあ、その……これじゃ普通の馬小屋ですね」
ベレニスは落ち着いて関心を持とうと立派に努力した。義務だと思えばこそだった。シャトー・ブルイユでクラリサ・ギャリソンが冬の催しをするくらいなのだ。時間の流れは早いと思いつつも最初から多少の予感はあった。ドライブは退屈で、会話は重荷であり、反応するのが大変で、我慢できなかった。月曜日が来ると、ベレニスはその日からモリスタウンでの週末の間までで、三日を残して逃げ出した。バーチャー夫人は……先が読めるだけに……ため息をついた。彼女の夫のコースキャデンは法外なお金持ちではなかった。しかし人生は送らなくてはならないし、野心家は富を相続するか賢く手元に引き寄せなくてはならない。愚かなありえない計画でもたてればデュエルマはすぐに落ち着くだろう、そしたら……ベレニスの方は少し難しい、と彼女は考えた。
ベレニスはこの出来事の記憶と、最近母親がブラックスマー大尉を売り込んだことを結びつけずにはいられなかった。自分たち親子はあまりお金持ちではない、家柄は別としても、自分はある意味で社交界にもぐりこんでいるだけなんだ、とわかってきたことで、自分の人生の、大きな、暗澹たる、不穏な、壊滅的要因が明白になった。自分にまつわる莫大な資産の噂はなかった……相続人という身分をもてはやされることも、公示もなかった。社交界のやけに気取った小物のマネキンたちはみんな、無限の銀行口座を持つ、頭に綿を詰めた人形のような娘を警戒していた。もともと快楽的で、芸術的構造物や威厳のある儀式やあらゆる形での権力や成功が大好きな彼女は、このところずっと、その時代で一番偉大な人の富やそういうものだけがもたらすことができる状況下で、偉大な魂の自由や芸術の自由を夢見てきた。同時に彼女は、自分を本当に好きでいてくれて、自分でも愛せて、とても崇拝さえできる人……深く心から自分を必要としてくれる人……を見つけたら、自由に喜んで我が身をささげようと漠然と考えていた。だが、そんな人物がいるとしたら誰だろう? ブラックスマーには魅力を感じた。しかし彼女の鋭い分析的な知性は、もっと熱心に、もっと生き生きと、もっと容赦なく、巨大な力として自分に訴えかけてくる相手を求めた。それでいて保守的な立場をとらねばならず、勝つためには持ち札を何でも使わなくてはならなかった。
夏にナラガンセットに出かけたとき、クーパーウッドはそう長くブラックスマーの存在にわずらわされなかった。大尉は特命を受けてハンプトンローズに急行せざるを得なくなった。しかし、来る十一月、シカゴの大変な仕事を一時中断してニューヨークとセントラル・パーク・サウスのカーター家のアパートに向かうと、クーパーウッドは再び大尉に出くわした。ある晩、大尉はベレニスを舞踏会へエスコートするために華麗に正装して現れた。ハンサムな顔の上に高い軍帽をかぶり、肩章を金色に輝かせ、後ろに翻るマントの折り返しが美しい赤いシルクの裏地を露わにし、傍らで剣を鳴らし、まさに若さを謳歌している炎のようだった。クーパーウッドは、環境の変化……年齢、不釣り合い、ロマンスや活力とは逆向きに広がる力……につかまってかなりもだえ苦しんだ。
ベレニスは、肌に密着した透けるように薄い衣装をまとってとても美しかった。クーパーウッドは読書をしているふりをして隣の部屋から二人を見て、ため息をついた。ああ、人生の……それも自分の人生の……移ろいを克服するいは、どれだけ自分が狡猾で先が読めればいいのだろう? どうすれば若者に自分をアピールできるだろう? ブラックスマーには時間があり、華があり、担うものがあった。出かける準備が整ったとき、今夜のベレニスは若さと希望と高揚とで満ちあふれているようだった。クーパーウッドはしばらくして立ち上がり、仕事を口実にして急いで立ち去った。しかし、近くのホテルの自室にこもって座って考え事をするだけだった。騎士道精神や、自己犠牲や、向上心を持つべし、などといった古い概念が合わさったこの状況で普通の人がとる考えは、若者に道を譲る、慣例にならう、道徳と美徳のために身を引く、だった。クーパーウッドはこういう説教くさい利他的な観点で物事を見なかった。「自分を満足させる」は、ずっと彼のモットーだった。だから、恋愛中のベレニスや恋愛そのものにどれだけ共感しようと、自分の希望が本当に潰えたと確信するまで、大人しく引き下がるつもりはなかった。彼とベレニスの間で少し親密な間柄に近づいた瞬間があった……これは、彼女は決して本気で自分を拒んではいないと彼に信じさせるものだった。同時にカーター夫人が少し後で打ち明けたこの大尉の問題は、軽く考えられるようなものではなかった。ベレニスはそれほど気にかけていないかもしれないが、ブラックスマーは明らかに気にかけていた。
「いなくなってからずっと、彼は手紙を送り続けてるのよ」ある日の午後、夫人はクーパーウッドに言った。「ノーと言ってきくようなタイプだとは思わないわ」
「成功してばかりいるタイプなんでしょう」クーパーウッドは冷淡に言った。カーター夫人はこの件で助言をほしがった。ブラックスマーは多才な人だった。夫人は彼の親類縁者を知っていた。父親が亡くなれば、少なくとも六十万ドルを相続する。ルイビルでの経歴はどうなるだろう? 後で表沙汰にでもなったら? ベレニスにとっては結婚してその危険を乗り切った方がいいのだろうか?
「それは問題ですね?」クーパーウッドは冷静に言った。「ベレニスが恋をしていると思いますか?」
「まあ、はっきり言いませんけど、恋愛ってあっという間に発展するでしょ。私はベレニスが誰かに夢中にさせられるなんて考えたこともありません……あの娘はとても思慮深いんです……でも、あの娘だって世の中には自分が切り開かなくてはならない道があることはわかってますし、ブラックスマーさんは確かにふさわしい相手なんです。彼のいとこにあたるクリフォード・ポーター家を私はよく存じてます」
クーパーウッドは眉をひそめた。ベレニスのことが心配でたまらなくなった。深刻な社会的傷を負わせてでも、彼女を手に入れなくてはならないと思った。他の人と一緒にそれから逃げるよりも、自分と一緒にそれを乗り越えた方がいい。しかし、偶然、そんな考えに基づいた最終的な恐ろしい行動をクーパーウッドはとらずに済んだ。
ニューヨークでも有数のあるホテルのレストランを想像してほしい。時刻は真夜中、夕方のオペラがはねた後、クーパーウッドはホストとして、ベレニス、ブラックスマー大尉、カーター夫人をそこに招待した。彼は今、無関係な立場のホストで叔父のような仕切り役を演じていた。
ブラックスマーにとっては破滅的な展開を考えていたとはいえ、ベレニスに対する彼の態度は、優しく、礼儀正しく、穏やかに思慮深かった。クーパーウッドは本物の悪魔メフィストフェレスのように、カーター夫人とベレニスを眺めながら世話をやいていた。二人はオペラ愛好家がよく着るエキゾチックなひだのある衣装で正面の椅子に座っていた……カーター夫人は淡いレモン色のシルクにダイヤを飾り、ベレニスは紫色と灰桃色の衣装で、髪に宝石のついた櫛を飾っていた。まぶしい軍服姿の大尉は、笑顔で穏やかに話し、歌手をほめ、ベレニスとって楽しい他愛もないことをささやき、クーパーウッドには合間を見て、たまたまその場に居合わせた海軍関係者の話をした。オペラ座から出て、風の吹き荒れる通りを駆け抜けてウォルドーフまで行き、予約しておいた席についた。料理の打ち合わせをしてワインを注文してから、クーパーウッドは音楽を回想した。『ラ・ボエーム』だった。プッチーニのすばらしいメロディーによって音で表されたミミの死とロドルフォの悲しみがクーパーウッドの関心を呼び覚ました。
「ああいうその場しのぎの舞台の世界は、本物のプロのアーティストとは無縁かもしれませんが、よく人生を表していますね」彼は言った。
「私にはさっぱりわかりません」ブラックスマーは真面目に言った。
「ボヘミアについての知識は本で聞きかじった程度ですから……『トリルビー』とか……」他に思い当たらず口ごもった。「パリの話ですよね」
確認がてらベレニスを見て、微笑みを勝ち取ろうとした。気まぐれで共感しがちな性格のベレニスは上演中、言葉にはできないが精神でははっきり理解できる歓喜や哀愁の美しい波によって、楽節から楽節へと押し流された。ひとたびベレニスが夢のような瞑想にふけり、両手を膝の上で組み、目が舞台に釘付けになってしまうと、ブラクスマーもクーパーウッドも彼女の開いた唇と美しい横顔を、感動と熱中という共通の衝動に駆られて見つめていた。ベレニスは余韻がさめてから、二人が自分を見ていたことに気づくと、しばらくそのポーズを続けて、それからため息をつき、夢から覚めた。オペラ全般に感じた気持ちと一緒に、今、ベレニスはこの出来事を思い出した。
「とても美しいですよね」ベレニスは言った。「何て言ったらいいのかわからないわ。人間って確かにああいうものですよね。ただの退屈な心地よさよりはるかにいいわ。とにかく人生は悲劇的なときが一番すばらしいのよ」
ベレニスはクーパーウッドを見た。クーパーウッドはベレニスを見つめていた。それからブラックスマーを見た。彼は自分が戦艦の艦橋にいて有事の指揮を取っている姿を見ていた。大きな困難の瞬間の数々がクーパーウッドによみがえった。確かに、彼の人生は、彼女を満足させるくらい波乱万丈だった。
「私はそんなものがいいとは思わないわ」カーター夫人は口を挟んだ。「人は悲しい出来事にはうんざりするものよ。ドラマなんて実生活で十分だわ」
クーパーウッドとブラックスマーはかすかに微笑んだ。ベレニスは瞑想にふけっている様子だった。客のざわつき、磁器やガラス器の鳴る音、せわしげに行き交うウエイター、オーケストラの演奏が、多少ベレニスの気をそらせた。ブラックスマーとベレニスとは面識があってもクーパーウッドのことは知らない、入ってくる客の会釈や笑顔が同じことをした。
突然、男性向けカフェ&グリルの開いている隣のドアから、見た目はふんぞり返った社交家の男性といった、半分酩酊した人物が現れた。服装はやや乱れ、片方の肩からだらしなくオペラコートをたらし、つぶれたオペラハットを片手にぶらさげ、目は少し充血し、下唇が少し反抗的に突き出ていた。顔全体が、呑んだくれの放蕩者がそうであるというよりはそう思われている、悪魔じみた、尊大な、意地の悪い様相を呈していた。ぶすっとした顔で、自信なげに、あたりを見回し、クーパーウッド一行に気がつくと、何杯も飲んで正常でなくなった人がとるような、決めたのかどうでもいいのか半々の態度で向かって行った。クーパーウッドの……かなりの注目の的だった……テーブルの真向かいで、気づいたかのように急に立ち止って近づいていき、カーター夫人の素肌の肩に、穏やかなのにそれでいてなめた態度で手をかけた。
「よお、どうしたい、ハッティ!」男はいやらしく、馬鹿にしたように声をかけた。「ニューヨークなんかで何してんだい? ルイビルの仕事をたたんだんじゃないよな、えっ、おい? ちょっといいか、お前さんがいなくなってから、いい娘とはご無沙汰でな……ひとりもいやしない。こっちで店を開いているんなら、教えてくれないか?」
男は名刺を出そうと白いベストを探るようにしながら、にやにやと横柄な態度で、覆うようにかがんだ。同時に、クーパーウッドとブラックスマーは男の言葉の意味をはっきり理解して立ち上がった。カーター夫人が身を引いてその見知らぬ人から離れようとする間に、(最も身近にいた)ブラックスマーの手が男にかかり、チーフ・ウエイターと店の者が二人現れた。
「いかがいたしました? この男がどういたしましたか?」店の者が尋ねた。
一方、侵入者は食ってかからんばかりに全員をなめまわすように見て、よく聞こえる大声で叫んだ。「手を離せ。お前たちは誰だ? これに何の関係があるんだ? こっちがちゃんとわかってやってるのが、わからんのか? こっちは彼女の知り合いなんだぞ……なあ、ハッティ? こちらはルイビルのハッティ・スターさ……聞いてみろ! ルイビルで最もすてきな店の一軒を経営していたんだ。お前らは何をそう大騒ぎしたいんだ? こっちはわかってやっているんだ。こっちはこの女の知り合いなんだ」
男は言い張るだけでなく、食ってかかった。それもかなり激しかった。クーパーウッド、ブラックスマー、ウエイターたちが立ちはだかった。男はロビーへ、外側の出入り口へと押し出され、警官が呼ばれた。
「この男を逮捕してください」警官が現れるとクーパーウッドは強く言った。「この男は私の連れの女性をひどく侮辱したのです。酔っぱらって手に負えない状態です。私は告訴したい。これが名刺です。どちらへ出向けばいいか、教えていただけますか?」そう言って名刺を手渡した。一方、ブラックスマーは見知らぬ男を徹底的に調べて付け加えた。「半殺しにしてやりたいところだ。お前が酔っぱらってなかったら、そうしたからな。もしお前が紳士で、名刺を持っているのなら、そいつを渡してもらいたいな。後で話がしたいんだ」ブラックスマーは身を乗り出して、ケンタッキー州ルイビルのビールズ・チャドセイの顔の前に冷酷な厳しい顔を突き出した。
「いいぜ、隊長さん」チャドセイはあざ笑うようにいやらしい目をした。「名刺ならある。やっても害にはならんしな。ここにあるんだ。いつでも好きなときに会えるぜ……ホテル・バッキンガム、五番街と五十番街のところだ。俺にはな、好きな相手と、好きな場所で、好きな時に話す権利があるんだ。わかったか?」
警官が身柄を拘束する準備を整える間に、男は探しながら言い放った。名刺が見つからないので付け加えた。「大丈夫だ。書いてやる。ビールズ・チャドセイ、ホテル・バッキンガム、でなきゃ、ケンタッキー州ルイビル。いつでも好きなときに来ればいいさ。あいつはハッティ・スターだ。俺は彼女の知り合いなんだ。俺があの女を見間違えるはずはないんだ……百万回に一回もな。あの女の家でたくさんの夜を過ごしたんだから」
警官が邪魔しなければ、ブラックスマーは男をど突く気だった。
レストランに戻ると、ベレニスと母親は座っていた。母親はすっかり取り乱し、青ざめ、放心し、ひどい驚きようだった……説得してごまかせるような悩み方ではなかった。
「全く、どういう魂胆かしら!」夫人は言っていた。「あの恐ろしい人ったら! ああ、怖い! 会ったこともない人なのよ」
ベレニスは動揺し途方に暮れながらも、見知らぬ男が母親に向けた馴れ馴れしい淫らな目つきを考えていた……それを恐れ、恥じていた。全くの人違いだったら、酔った男が、あんなに喧嘩腰に、あんなに執拗に、あんなに自分から進んで説明できるものだろうか? 自分はどんな恥ずかしいことを聞いていたのだろう?
「ねえ、お母さん」ベレニスは優しく威厳をもって言った。「気にしないの、大丈夫だから。すぐに家に戻れるから。ここを出れば、気分もよくなるわよ」
ベレニスはウェイターを呼び、殿方が戻ったら自分たちは女性の化粧室に行ったと伝言を頼んだ。ベレニスは邪魔な椅子を押しのけて母親に腕を貸した。
「こんな侮辱を受けるとは」カーター夫人はぶつぶつと言った。「立派なホテルで、ブラックスマー大尉とクーパーウッドさんのいる前で! これはひどすぎるわよ。ああ、こんな目にあったことないわ」
母親は歩く間半べそをかいた。ベレニスは威厳を持って部屋を見渡し、顔を気高く凛とあげ、不思議な胸が引き裂かれる痛みを感じながら堂々と連れ出した。あの恥ずかしい発言の根底には何があったのだろう? なぜ、あの人騒がせな酔っぱらいは、レストランに他にも大勢の女性がいたのに、あの無礼な発言の対象に自分の母親を選んだのだろう? 男が言ったことに真実がないのなら、なぜ母親はショックを受けて完全にへたりこまねばならなかったのだろう? とても奇妙で、とても悲しく、とても残酷で、とても恐ろしかった。自分がよく知っている、あのゴシップとスキャンダルが大好きな世界は、こういう場面に対して何を言うのだろう? 生まれて初めて上流社会からの追放の意味と恐怖が、ベレニスの脳裏をよぎった。
翌朝、ブラックスマー大尉がジェファーソン・マーケット警察裁判所を訪れ、すぐに満足が得られなければ、冷たい鉛をビールズ・チャドセイの胃に流し込むと言い出したため、ホテル・バッキンガムの便箋に次のような文面が書かれて、アイラ・ジョージ・カーター夫人……セントラル・パーク・サウス三十六番地……に送られた。
拝啓
昨晩、私は泥酔して羽目を外してしまい、これには納得いくどころか適切な説明のしようもありません。不幸にも、あなたばかりか、ご令嬢、ご友人の方々のご気分をひどく害してしまいましたこと、謹んでお詫び申し上げます。私がどのような言動をとったのか、今ははっきり思い出せないのですが、どれほど心から後悔しているか申し上げようがありません。酒が入ったときの私の精神状態は、人につっかかり意地が悪くなります。私はこの気分と状態になってしまい、全く根拠がないと自分でわかってることを言ってしまいました。酔ってよくわからなくなって、あなたをルイビルのある悪名高い女性と間違えました……どうしてなのか、自分でもさっぱりわかりません。この恥ずべきとんでもない行為を、許していただきたいと心から願っております……どうかお許しください。私にどんな償いができるかわかりませんが、提案がございましたなら、喜んでやらせていただきます。なお、文面にしたためられた真意と、決して完全に償いきないのはわかっておりますが、ささやかな償いの試みとして、この手紙をお納めいただきたいと思います。
敬具
ビールズ・チャドセイ
同時にブラックスマー大尉は、この手紙が書かれたり送られたりする前に、カーター夫人に対して暗に示された罪状には十分すぎるほどの根拠がある、とちゃんと気がついていた。ビールズ・チャドセイは酔っぱらって、ルイビルの真面目な男性の二十人、警察でさえも裏付けてくれることを言ったのだ。チャドセイは手紙を書く前にこのことをはっきりさせろとブラックスマーに言い張った。




