第44章 運営権獲得
こうして高架鉄道の建設に必要な資金は見事に得られたものの、運営権の取得はそう簡単にはいかなかった。他の数ある問題の中で、チャフィー・セアー・スラスを手なずける問題があった。当の本人は自分に不利な証拠が積み重ねられていることに全く気づいておらず、いろいろな秘密の政治会派で、新しい条例が提出されようとしていることや、クーパーウッドがその恩恵を受けることになっていることが示唆されたとたんに、憤激し始めた。「奴らにそんなまねをさせてはなりませんぞ、スラスさん」ハンドは話し合うために、子飼いの市長を、丁寧ではあるが有無をも言わさずに昼食に誘って言った。「あなたにできるのであれば、そんなものを成立させてはなりません」(議長というか市議会の長として、スラスは議会運営にかなりの裁量権があった。)「あなたの頭越しに彼らが成立させないように、騒ぎを大きくしてください。これにあなたの政治家としての将来がかかってるんです……あなたはシカゴ市民と共にあるのですから。これがかかっているから、新聞と、一流の資産家、社交界の面々が、あなたを全面的に支持するんですぞ。さもなければ、彼らは完全にあなたを見捨てますよ。与えられた職務を遂行すると誓って選ばれた連中が、こうやって自分たちの後援者に背いて裏切ったから、大変なことになってしまったんですぞ!」
ハンドは憤慨していた。
黒いブロードと白いリネンで完璧に着飾っていたスラスは、ハンドの言ったことを文字通り厳守する覚悟だった。提出された条例案はスラスによって糾弾されて、立法化は議会で断固反対されねばならなかった。
「私がいる以上彼らは容赦なく糾弾します!」スラスはきっぱり言い切った。「私はどういうことになっているのか知っています。彼らは私がそれを知っていることを知っているんです」
正義の提唱者が相手を見るようにスラスはハンドを見つめた。金持ちの発起人は、政権の手綱がちゃんと手中にあることに満足して立ち去った。その直後にスラスは会見を開き、その中で、問題になっている条例に自分は市長として絶対に署名しない、と市会議員全員に警告した。
会見があった同じ日の午前十時半……いつもスラスが登庁する時刻……に、専用電話のベルが鳴った。そして側近が、フランク・A・クーパーウッド氏と話す気があるかと尋ねた。スラスは新たな勝利の栄冠を予感しながら、朝刊の一面を飾った自分の声明に満足し、市民の誇りで内心胸を膨らませながら厳粛に言った。「ああ、つないでくれ」
「スラスさん」クーパーウッドが電話の向こうで切り出した。「フランク・A・クーパーウッドです」
「ええ、私に何のご用ですか、クーパーウッドさん?」
「朝刊を見たんですが、あなたはノースサイドでもウエストサイドでも高架鉄道の運営権を私に与える条例案は一切取り合わないと言ってますね?」
「そのとおりですよ」スラスは高慢に答えた。「取り合いません」
「噂に過ぎないものを非難するとは、いささか性急だとは思いませんかね、スラスさん?」(面白がって独りで微笑んでいるクーパーウッドは、疑いを抱いていないネズミをもてあそぶ猫と一緒だった。)「あなたが取り返しのつかない態度をとる前に、私は個人的にあなたとこの問題を徹底的に話し合いたいのです。私の話を聞いた後なら、私に全面的に反対するとは限らないこともあり得るんですよ。私は時々、個人的な友人を何人か使いに立てたのですが、どうやらあなたは彼らを受け入れる気がないようですね」
「そのとおりです」スラスは高慢に答えた。「でも私がとても忙しい人間であることは覚えておいていただかないといけませんね、クーパーウッドさん、それに、あなたの用件を、果たしてかなえられるのかわかりませんよ。あなたは、私の倫理観や気質と正反対の勢力のために働いている。私は、違う側のために働いている。我々が折り合う共通の立場があるとは思いませんね。現に、私がどうあなたのお役に立てるのかさっぱりわかりません」
「ちょっといいですか、市長さん」クーパーウッドは相変わらずとても人当たりよく答えた。スラスが受話器をおいてしまうかもしれないと心配しながらも、声の調子は確かに主導権を握っていた。「あなたが知らない共通の立場があるかもしれませんよ。我が家で昼食でもどうですか、それともお宅へお邪魔してよろしいですか? あるいはあなたの事務所に行きますから、この問題について私に話をさせてください。こうするのが、特別な計らいであるのはもちろん賢い手立てだとあなたにわかっていただけると思っています」
「今日はあなたと昼食をとるのは無理かもしれません」スラスは答えた。「それに、お会いすることもできません。気になる用事がたくさんあるのでね。また、あなたやあなたの使いの者と、秘密の話し合いもできないことも伝えねばなりません。来てもあなたは他の者を相手に話をしなければなりませんよ」
「いいでしょう、スラスさん」クーパーウッドは明るく答えた。「こちらから、あなたの事務所にうかがうのはよしますよ。でも本日午後五時までに私のところへ来なければ、あなたは明日正午までに契約不履行で訴えられて、あなたがブランドン夫人に宛てた手紙は公開されます。選挙が迫っていることと、シカゴが公私共にモラルを重んじる市長を好むことを、あなたに思い出していただきたいですね。ごきげんよう」
クーパーウッドはカチャンと音を立てて電話の受話器をおいた。スラスは見てわかるほどはっきりと強張って青ざめた。ブランドン夫人だと! 薄情にも自分のもとを去った、あの魅力的で、いとしい、控えめなブランドン夫人が! どうしてブランドン夫人が自分を契約不履行で訴えようと考えるのだろう、それに、夫人に宛てた自分の手紙がどうやってクーパーウッドの手に渡ったのだろう? 大変だ……あんなのろけた手紙が! 妻が! 子供たちが! 教会とそこのしかめっ面の牧師が! シカゴが! そこの保守的で、道徳にうるさい、信心深い風土が! 考えてみれば、ブランドン夫人はどんな手紙もスラスに書いて寄こした試しがなかった。スラスは彼女の経歴すら知らなかった。
スラスは自分の奥さん……あの険しく冷たい青い目……を思うと、高らかと立ち上がり、放心し、手で髪をすいた。親指と中指を鳴らし、じっと床を見ながら窓まで歩いた。事務所のすぐ外にある電話交換台のことを考えた。若くて美しい長老派教会信者の秘書が、いつものように立ち聞きしていただろうかと気になった。ああ、こんな情けない目にあおうとは! ノースサイドの連中がこのことを知ったら……ハンド、新聞、マクドナルドは、自分を守ってくれるだろうか? 守るまい。もう一度自分に市長をやらせてくれるだろうか? 絶対やらせないだろう! 個人のモラル違反や、偽善や、表と裏の顔の使い分けを非難するすべての教会と一緒に、国民を説き伏せて、自分に投票させられるだろうか? ああ、主よ! ああ、主よ! スラスはとても尊敬されて、一目置かれていた……それだけに最悪だった。恐るべき悪魔クーパーウッドが襲来した。スラスは我が身は安全だと思っていた。スラスはずっとクーパーウッドに礼を欠いてきた。その非礼に対してクーパーウッドが報復に出たら、どうなるのだろう?
スラスは椅子のところに戻ったが、座ることはできなかった。コートを取りに行って、手にとったが、また掛けて、手にとって、数時間は誰にも会えないと電話で伝えて、専用口から外に出た。交通の喧騒を見ながら、汚れてにぎわう川を見ながら、空や煙や灰色の建物を見ながら、どうしようか考えながら、疲れ果ててノースクラーク・ストリートを歩いた。世界は時々とても厳しくて、とても残酷だった。妻、家族、政治生命が心配だった。良心にかけてクーパーウッドのための条例には署名できなかった……そんなことは、道徳に反するし、不正であり、市に対する汚職だった。クーパーウッドは悪辣な公共の福祉の敵だった。同時に断ることもできなかった。魅力的で無節操なブランドン夫人が、クーパーウッドの術中にはまっているのだ。せめて夫人に会って、頼むなり、お願いできたらいいのだが、一体どこにいるのだろう? もう何か月も夫人に会っていなかった。ハンドのところへ行って全てを打ち明ければいいだろうか? しかしハンドは厳格で、冷たく、道徳を重んじる人物でもあった。ああ、主よ! ああ、主よ! スラスは思い悩み、ため息をついて、考えこんだ……結局、為す術がなかった。
道徳の網にかかった哀れな人間は気の毒である。おそらくは違う国で、違う時代の違う日だったら、この問題は解決できただろうし、スラスにとって必ずしも絶望的ではなく、クーパーウッドのような男に完全に有利に働くとは限らなかった。しかし、ここアメリカ、ここシカゴでは、道徳的事実はすべて、知ってのとおり、スラスに不利になるように並べられるだろう。レイクビューはどう思うだろう、牧師はどう思うだろう、ハンドとその道徳を重んじる仲間たちはどう思うだろう……ああ、これはスラスが身を持ち崩した、恐ろしい、議論の余地のない結果だった。
午後四時、スラスが自分のことを、馬鹿だ、悪党だとののしりながら雪と寒さの中を何時間も歩き回った後、クーパーウッドがデスクで書類に署名しながら座って、燃え盛る炎を眺めながら、市長は顔を出した方がいいと考えるだろうかと思いを巡らせていると、オフィスのドアが開いて、こぎれいな速記者の一人が入ってきて、チャフィー・セアー・スラスの来訪を告げた。スラス市長は入室した。悲しげな、重い足どりで、打ちひしがれ、萎縮し、五時間半ほど前に、電話越しにあれほど偉そうに話していた紳士とは全くの別人だった。どんよりした天候と厳しい寒さ、妥協できそうもない事実を散々考えたせいで、すっかり意気消沈していた。少し顔色が悪くて、少し落ち着きがなかった。精神的な苦痛は萎縮や硬直を生じさせる。スラス市長は何となく、身長、体重、体格がいつもより小さく見えた。クーパーウッドはいろいろな政治の舞台で一度ならず見かけたが、会ったことは一度もなかった。困り果てた市長が入ってくると、クーパーウッドは礼儀正しく立ち上がって椅子を勧めた。
「お座りください、スラスさん」と穏やかに言った。「あいにくの一日になりましたね? 今朝の話の件で来られたのですね?」
こういう手厚い対応は想定外だった。クーパーウッドという人間の基本的本能のひとつは……ごまかしたり、ずる賢い割に……打ちのめされた敵をなぶらないことだった。勝ったときは、常に礼節を重んじ、人当たりよく、温厚で、同情的でさえあった。今日はまさにそれで、腹を割って話そうともしていた。
スラス市長はかぶっていた山高のシュガーローフハットをとり、極限状態でさえも彼らしい仰々しい態度で言った。「さあ、このとおり参上しましたよ、クーパーウッドさん。一体、この私に何をしろというんですかな?」
「不当なことは一切ありませんよ、スラスさん」クーパーウッドは答えた。「今朝の私に対するあなたの態度は、少しぶっきらぼうでした。私は常々あなたと分別のある個人的な話をしたいと思っていたので、この手段をとったまでです。いずれにせよ、私があなたに不当な要求をする気でいるという考えは、すぐに頭から取り除いていただきたい。今のところ、私はブランドン夫人と交わしたあなたの手紙を公表するつもりはありません」(これを言う間にクーパーウッドは、引き出しから手紙の束を取り出した。スラス市長はすぐにそれがいつだったか美しいクローディアに書いたラブレターだとわかった。スラスは、この自分に不利な証拠を見てうめいた。)クーパーウッドは続けた。「私はあなたの経歴を台無しにしようとも、あなたが良心に従ってできると感じていないことをさせようともしていませんよ。言っておきますが、ここにある手紙は、全く偶然で私のところへきたものです。私が探し求めたんじゃありません。でもせっかく持っているわけですから、これを、私たちが話をして妥協できる根拠だと言ってもいいと思ったんですよ」
クーパーウッドは笑っていなかった。ただ思うところがあるようにスラスを見た。それから、自分が言ったことが真実であることを証明しようとして、手紙を上下にとんとん叩いて、それが本物だと見せつけた。
「ああ」スラスは物憂げに言った。「わかったよ」
スラスはその束……小さな中身のある物体……を、じっとみた。その間クーパーウッドはさり気なくそっぽを向いた。自分の靴と床をじっと見つめた。手をさすって、それから膝をさすった。
スラスが完敗したのが、クーパーウッドにはわかった。ぶざまで、哀れだった。
「さあ、スラスさん」クーパーウッドは愛想よく言った。「元気を出してください。物事はあなたが考えるほど絶望的ではありません。あなた自身が熟慮して不当だと言えることは、一切行われない、と今この場で約束します。あなたはシカゴの市長で、私は一市民です。私は、ただあなたから公平な対応を求めたいだけです。今後は私に対するただの嫌がらせに過ぎないこの闘いに参加しないと約束してほしいだけです。追加の運営権で私が完全に正当な要求だと考えたものが、あなたの良心のせいで助けられないのなら、少なくとも公然とわざわざ私を攻撃しないでいただきたい。この手紙は金庫にしまっておきます。次の選挙が終わるまで保管して、終わったら出して破棄します。私はあなたに個人的な反感を持っていませんよ……世界の誰も対しても持っていません。議会が私に高架鉄道の権利を与えると認めた条例に、あなたが署名するよう求めているわけじゃないんです。今、お願いしたいのは、私に対する国民の反感を煽るのを控えることです。特に議会があなたの拒否権を上回って条例を可決するときにです。それなら呑めるでしょう?」
「だが、私の仲間は? 市民は? 共和党は? あなたに反対する何かの活動を行うことが私に期待されていることがわかりませんか?」スラスは神経質に尋ねた。
「わかりませんね」クーパーウッドは簡潔に答えた。「いずれにせよ、公の活動なんてやり方はいくらでもありますよ。やりたければやればいい。でもあまり気合を入れないことです。いずれにせよ、うちの法律顧問のひとりが、時々うかがいますから、その時は会ってください。ディッケンシーツ判事は有能で公平な人物です。ヴァン・シックル将軍もね。たまには話をしてみたらいかがですか?……もちろん、大っぴらにではなく、あまり目立たない形でね。二人ともとても頼りがいがあることがわかりますよ」
クーパーウッドは励まし慈しむように微笑んだ。チャフィー・セアー・スラスは政治的希望がかすかなものになり、しばらく悲しみと絶望に打ちひしがれて座って考えこんだ。
「いいでしょう」スラスは盛んに両手をさすりながら、ようやく言った。「私はこうなることを予期していたのかもしれない。わかっていたはずだった。他にどうしようもない、しかし……」スラスはまぶたの下で熱く燃えている涙を抑えきれずに、帽子を手に取り、退室した。つけ加えるまでもないが、クーパーウッドに反対する彼の演説は永久に封じられた。




