第37章 アイリーンのしっぺがえし
問題のポーク・リンドはある日の朝起きがけに、まんざらでもないのだからアイリーンとの情事は、そろそろこの辺で自分に満足いく形で決着をつけねばならないと決心した……できれば今日明日にでも。昼食を共にしてから、かなり時間が経過していた。リンドはいろいろ手をつくして会おうとしたが、アイリーンは自分の将来を考え、危険にさらしてはならないと一応は感じたので、リンドを避けていた。アイリーンは、自分がよろめきかけていることと、今チャンスが大きな音をたてて自分のドアをノックしていることがよくわかったので、ものすごく意識してしまい、気が気じゃなくなっていた。いつの間にか、クーパーウッドはアイリーンの手に余る存在になってしまった……世の中のものすごい人だと確信していた。これがアイリーンを妙にかき乱し、もやもやさせ、考え込ませた。他のタイプの女性だったら、彼女と同じくらい悩んでも、さっさとそれに折り合いをつけただろう。特にハンド夫人の件が追い打ちをかけた後ではなおさらそうなっただろう。アイリーンはそうではなかった。二人の間で交わされた若き日の誓いと約束が全然忘れられず、夫はまだ行いを改めるかもしれないという、たびたび砕かれる幻想を抑えられなかった。
一方のポーク・リンドは、略奪者で、社交界の冒険家で、愛情にかけては無節操だったので、そう簡単に袖にしたり、待たせたり、断れる相手ではなかった。クーパーウッドと同じで、リンドは実力のある男性だった。女性のこととなると、その手口はさらに大胆だった。長年の女性遍歴から、女性は自分が最も望むことでさえ、内気で、はっきりせず、馬鹿馬鹿しいほど心と矛盾した態度をとるものだと学んでいた。勝利を望むなら、強引に取らねばならないことが多々あった。
この態度のせいで、リンドには悪評が立っていた。リンドと昼食をとった日、アイリーンはそれに気がついた。彼の真剣な暗い目には、油断のならない優しさがあった。相手が豹変したら自分が無力なのを思い知る何らかの状況に自分が進んでいるのかもしれないとアイリーンは感じた……それでも進んでしまった。
リンドは、アイリーンの時間稼ぎを考えながら、今日こそはっきりと決着をつけるべきだし、かなうはずだと判断した。朝十時に電話して、リンドはアイリーンの優柔不断と気まぐれにいらいらした。友人のアトリエに絵を見に行く気があるか、独身の友人たちが企画したダンスパーティーに行く決心がつかないか、を知りたがった。アイリーンが気分がすぐれないと訴えると、リンドは元気を出してくださいと励ました。「あなたがそんな調子じゃファンをがっかりさせちゃいますよ」と優しく誘いをかけた。
午後二時に部屋のドアベルが鳴って、リンドの名前が告げられたときアイリーンは、決着をつけないまま駆け引きをしてしばらく問題を先送りしたのに、と思った。「お客様は、奥さまは在宅のはずだと申しております」そう言った使用人は、一ドル握らされていた。「ほんの少しでいいから、お会いできないかと? ほんの少しだけだそうです」
アイリーンはこの厚かましさに気を緩め、相手に何か話したい多少大事な用事があるのではないかと気になり、自分の煮えきらなさとせめぎ合い、恋の相手として本格的にリンドに惹かれ、朝方の彼の冗談めいた猫なで声を思い出しながら、下りて行くことにした。アイリーンはひとりで、襟と袖口が白貂になっているラベンダー色の部屋着姿で、本を読んでいた。
「音楽室へお通しして」と使用人に言いつけた。入るとき、何か少しつかえるものがあって息が苦しかった。それほどリンドが影響を与えていた。これまで彼のところへ行かなかったことで自分が恐れていることを露呈してしまったのをアイリーンは知っていたし、早まった臆病さは明らかに人の抵抗力の足しにはならないのだ。
「まあ!」感じてもいない力をバネにしてアイリーンは叫んだ。「電話をいただいた直後にお会いするとは思わなかったわ。我が家へいらしたことは、ありませんでしたわね? コートと帽子を脱いで画廊に行きませんか? あそこの方が明るいし、興味を引く絵があるかもしれないわ」
リンドは自分の滞在を長引かせてアイリーンの緊張をほぐす口実を探していたので、ただの通りすがりで暇をもてあましているふりをしながら受け入れた。
「ひと目でいいからもう一度お会いしたいと思いましてね。ちょっと立ち寄る誘惑にかないませんでした。すばらしい部屋ですね? ゆったりとしていて……あれは、あなたですね! 誰の作品ですか? ああ、わかった……ヴァン・ビアーズか。すてきな作品だ、それに魅力的でもある」
リンドはアイリーンを見てから絵に目を戻した。十歳若くて、快活な、希望に満ちた彼女が、青と白の縞模様のパラソルを持ち、オランダの空と雲を背景にして石のベンチに腰掛けていた。アイリーンが両方で見せた姿に魅了されてリンドはにこやかに称賛した。今のアイリーンは以前よりも体格も血色も良くなっていた……歳月の経過で細胞繊維が硬くなりはしたが、それでもまだ満開だった……少し晩夏のきらいはあるが満開だった。
「うん、そうだ、これはレンブラントだ……驚いたな! ご主人のコレクションが、これほど代表的なものだとは知りませんでした。イズラエルスですね。そしてジェローム、メッソニエ! いやあ! 代表的なコレクションですね?」
「中にはすばらしいものもありますけど」アイリーンはクーパーウッドや他の人たちをまねながら、それらしくコメントした。「しかし最終的にはかなりの数が淘汰されるでしょう……あのポール・ポッターやこのゴヤも……もっといい作品が市場に出てくれば」
アイリーンはクーパーウッドがそう言うのを何度も聞いていた。
単純な感情の介在しない方向なら二人の間に会話が成立することがわかって、アイリーンはすっかり自然体になり、リンドの控えめな存在に面白おかしく楽しませてもらった。明らかにリンドは通りすがりに社交を兼ねて立ち寄った以上の態度は見せなかった。一方でリンドは自分の気軽で距離を取った態度がどんな効果を及ぼしているかを考えながら、アイリーンを観察していた。ざっと画廊を見終えてリンドは言った。
「いつもこの家のことを考えてたんです。もちろん、ロードとは知り合いですから、大したものだと常々聞いてはいましたよ。あちらがダイニングですか?」
この家があまり社交の足しにはならなかったことが実証済みだったにもかかわらず、いつも自慢の種にしていたアイリーンは、得意気に残りの部屋もリンドに見せびらかした。リンドは、もちろん、あらゆるレベルの物質的に豪華な家に慣れていた……彼の実家が名家のひとつだった……感じてもいないのに関心のあるふりをした。続けて、装飾と木の彫物のセンスの良さと、こざっぱりして見える配置のうまさなどについて感想を述べた。
「ちょっと待ってね」自分の部屋の入口に近づくと、アイリーンは言った。「あたしの部屋、整理できてたかしら。ぜひ、お目にかけたいわ」
アイリーンはドアを開けて入った。
「大丈夫だわ、入ってらして」と声をかけた。
リンドは後に続いた。「いやあ、実に、魅力的ですね。とても優雅です……あの小さなレースは踊っているみたいじゃないですか? 楽しい配色ですね。あなたにぴったりだ。あなたそのものですね」
リンドは話をやめて、温かい青とクリーム色のゆったりとした絨毯と、金のオルモルのベッドを見た。「見事だ」リンドは突然、調子を変えて、装飾の話題をやめ、つけ加えた。(アイリーンはリンドの右側にいて、リンドはアイリーンとドアの間にいた。)「今夜、ダンスパーティーに行きませんか? すてきですよ。楽しめますって」
アイリーンには、リンドの様子が急に変わったのがわかった。部屋を見せて回っていて、あっけなく出来たまずい立場に自分で自分を追い込んでしまったことに気がついた。リンドの暗い魅力的な目がそれを物語っていた。
「でも、そんな気分じゃないわ。しばらくはいろんなことしたくないのよ。あたしね……」
アイリーンはさり気なくリンドを迂回してドアの方へ移動し始めたが、リンドが手で制した。「まだ行かないで」リンドは言った。「話をさせてください。あなたはいつもそうやって神経質に私を避けますね。私のこと好きじゃないんですか?」
「あら、好きよ。でもここじゃ音楽室にいるのと同じ気分で話せないでしょ? あたしがあなたを避ける理由なんて、むこうでだってここと同じように話せない?」アイリーンは勝ったつもりで今度は怖がらずに微笑んだ。
リンドは二列に並んで輝く白い歯を見せた。目が楽しそうな悪意に満ちていた。「確かに、そうですね」リンドは答えた。「でも、この自分の部屋にいるあなたは一段とすてきですよ。私はここを離れたくないな」
「同じよ」アイリーンはあくまで明るく、しかし今度は少し戸惑いを見せて答えた。「向こうの方がいいと思うわ。下の階でおもてなしするわよ」
アイリーンは動いた。しかしクーパーウッドと同じでリンドの力には太刀打ちできなかった。リンドは力の強い男だった。
「まったく、もう」アイリーンは言った。「ここでこんなことしちゃいけないわ。誰か来るかもしれないでしょ。あたしとこんなことができると、あなたに思わせるようなことを、あたしが何かしたかしら?」
「何かした?」リンドはおおいかぶさって、茶色い両手でアイリーンのふっくらした両腕をなでながら言い返した。「まあ、はっきりしたものはなかったかもしれません。あなた自身の問題ですよ。オルコットでの夜、私があなたをどれほどすてきに思っているかを話しましたね。そのときにわかりませんでしたか? てっきりわかったと思いましたよ」
「まあ、あなたがあたしを好きなんだとわかったわ、それだけのことよ。誰だってそんなもんでしょ。でも、まさか……その……こうやってあたしを意のままにするなんて、夢にも思わなかったわ。でもね、聞いてよ。誰か来ちゃうわよ」アイリーンは自分の身を自由にしようとして急に懸命に努力したが失敗して言った。「放してちょうだい、リンドさん。女性の意思に反して押さえつけるのはあまり男らしいことじゃない、と言わなくちゃいけないわ。もし本当にあたしのせいだとしたら……もう怒るわよ」
またもやきれいに並んだ歯がにやりとして、暗い意地悪な目に皺が寄った。
「まったく! どうしようっていうんです! すっかり他人扱いですね。昼食のときに自分で私に言ったことをあなたは覚えてないんですか? 約束を守っていないのはあなたの方ですよ。だってあなたは行くかもしれないって私に思わせたでしょ。そうではなかったんですか? あなたは私が怖いんですか、それとも好きではないんですか、それとも両方ですか? あなたはとてもすてきですし、すばらしいと思います。だから知りたいんですよ」
リンドは姿勢を変えて、アイリーンのウエストに腕を回して引き寄せ、目をのぞき込んだ。もう一方の手でアイリーンの自由な腕をつかんだ。突然、リンドは自分の口で相手の口をふさぎ、それから頬にキスをした。「私のことが気になるんでしょ? その気がなかったのに、行くかもしれないと言うなんて、どういうつもりだったんですか?」
アイリーンがもがいても、リンドはしっかり抱きしめた。これは新しい感覚だった……別の男性を感じた。相手はポーク・リンド。クーパーウッド以外で自分が引かれると感じた初めての人だった。しかしここは自分の部屋だ……クーパーウッドが戻って来るかもしれないし、使用人が入ってくるかもしれない領域だ。
「ねえ、自分のやってることを考えて」アイリーンは抗議したが、リンドとの争いの結果についてはまだ本当に動揺はしておらず、今のところはそれ以上のことをする意図はなくリンドは自分に優しい態度をとらせようとしているだけのように感じていた。「ここはあたしの部屋なのよ! 今すぐあたしを解放しなければ、本当にあなたを見損なうわよ。リンドさん! リンドさん!」(リンドはおおいかぶさってアイリーンにキスしていた。)「ねえ、こんなことよしてよ! まったく! あたし……あたしは行くかもしれないと言ったのよ、それって行くこととは違うでしょ。しかもここまで来て、こんなふうにあたしを誘惑するなんて! あなたって恐ろしい人だわ。もし以前にあなたに関心があったとしても、もう終わったと断言できるわ。すぐにあたしを放さなかったら、もう二度と会いませんからね。会いません! 絶対に! 本気ですよ! さあ、放してください! 大声を出しますよ! 今日を最後に、二度とあなたには会いません! ああ……」激しく抵抗したが無駄だった。
およそ一週後のある晩、帰宅したら、アイリーンが陽気に鼻歌を歌っているのにクーパーウッドは気がついた。しかし深く考え込んでいるようにも見えた。ちょうど夕方の化粧を済ませたところで、若く華やかに見えた……若い頃のように貪欲に自分を追求していた。
「ねえ」クーパーウッドは明るく尋ねた。「今日はどうだった?」人にはよくあることだが、自分が悪いことをしたとしても仕方がなかったとか、これでいつかクーパーウッドを取り戻せるかもしれないと何となく感じながら、アイリーンは幾分普段よりも相手に優しい態度をとっていると感じた。「ええ、とても順調だったわ」アイリーンは答えた。「午後に少しホエクセマさんの家へ寄ったの。十一月にメキシコに行くんですって。あの人にはお気に入りの新しい乗り物があるの……あれに乗って様になるのはあの人くらいなものね。エタはブリンマー大学に入る準備をしているわ。犬や猫を置いていくんで大騒ぎしてるのよ。それからレーン・クロスのパーティーに行って、メリルの店をまわって」……アイリーンは巨大な店舗のことを言っていた……「帰ってきたわ。ウォバッシュ・アベニューでテイラー・ロードとポーク・リンドが一緒にいるのを見かけたわ」
「ポーク・リンド?」クーパーウッドは言った。「彼は面白いかい?」
「ええ、面白い人よ」アイリーンは答えた。「あれだけ完璧なマナーの人は見たことがないわ。とっても魅力的だわ。まるでただの子供よ。それでいて、神さまならご存知なんでしょうけど、たいそう世の中で経験を積んだみたいよ」
「そう聞いてるね」クーパーウッドは言った。「数年前にここで、あのカルメン・トリバ事件に巻き込まれたのが、そいつじゃなかったっけ?」クーパーウッドが言っているのは、アメリカを旅行していたスペイン人ダンサーの一件だった。どうもリンドはべた惚れしたらしかった。
「ええ、そうよ」アイリーンは邪険に答えた。「でも、そんなのあなたにどうでもいいことでしょ。とにかく魅力的よ。あたしは好きだわ」
「私は別に何も言ってないだろ? だた事件の話をしたくらいでむきにならなくてもいいだろ?」
「その事件のことは知ってるわ」アイリーンは冗談まじりに言った。「あなたのことだって知ってる」
「それはどういうことだい?」クーパーウッドは相手の表情を観察しながら尋ねた。
「あら、あなたを知ってるってことよ」アイリーンは楽しそうに、それでいて身構えて答えた。「あなたは自分がよその女と遊んでいる間、あたしがここでじっとして、満足で、優しい愛妻を演じると思うの? あたしは御免よ。どうしてあなたがリンドのことをこんな風に言うのかわかってるわ。どうせ、あたしが彼に興味を持たないようにするためでしょ。でもね、持ちたかったら、持つわよ。持つって言ったんだから、持つでしょうよ。だからあなたは好きにすればいいわ。あたしのことがいらないのなら、他の男性があたしに興味を持とうと持つまいと、気にしなくてもいいでしょ?」
リンドとアイリーンの関係を、彼女と他の男性との関係以上に、はっきり考えていたわけではないのは事実だったが、それでもクーパーウッドは少し誰かを感じていた。アイリーンがクーパーウッドに感じたのがこれだった。それがアイリーンに余計に思える一言を言わせた。このとき、クーパーウッドはその含みをはっきりと理解したが、出来るだけ穏やかでいようと努めた。
「アイリーン」と甘ったるく言った。「なんてこと言うんだい! どうして、そんなことを言うんだい? 私がきみを大切にしてるのはわかってるだろ。きみがやりたいことは、私にはとめることができないし、とめたくもないことはわかっているね。私はきみが満足するところが見たいんだ。大切にしてることはわかってるだろう」
「ええ、あなたがどんなに大切にしてくれてるか、わかってます」アイリーンは答えた。その瞬間に態度が一転した。「お願いだから、その減らず口はたたかないで。聞き飽きたわ。あなたがどんな浮気をしてるか知ってるのよ。ハンド夫人の件だって知ってるわ。新聞でもはっきり伝えてるじゃない。この八日で家にいたのは一晩だけで、あたしには垣間見るくらいの時間しかなかったわ。あたしに話しかけないでよ。いちゃいちゃ迫らないでよ。いつだってお見通しなんだから。あたしがあなたの最新の愛人を知らないと思わないことね。だからって、泣き言はやめてね。絶対にやるけど、あたしが他の男性に興味を持って浮気しても食ってかからないでちょうだい。そうなっても、すべては身から出た錆よ、思い知るがいいわ。文句言わないでよね。そんなことしても無駄ですから。ここに座ったまま馬鹿をみるつもりはありません。そのことは何度も言ったわよね。あなたは信じないでしょうけど、あたしは見過ごしにしないわ。近いうちに誰か見つけるって言ったわよね。そのつもりです。実は、すでに見つけたわ」
この発言を受けてクーパーウッドは冷たく、批判的に、しかし同情しないでもなくアイリーンを見た。しかしアイリーンはクーパーウッドが何も言えないうちに不貞腐れて部屋を飛び出し、音楽室へ行った。しばらくすると、情感がこもっていて、このときばかりは感動的に演奏されたハンガリー狂詩曲第二番の旋律が、下のホールから彼のところへと聞こえてきた。アイリーンはそこに自分の凄まじい悲哀と苦悩を込めた。すぐにクーパーウッドは、リンドのようなキザな奴が……見てくれと人当たりだけはいい社交界の放蕩者が……アイリーンをその気にさせたのかと思って嫌になった。しかしそれはそれで仕方がなかった。クーパーウッドには文句を言う正当な理由がなかった。同時に、過ぎ去った日々を思ってクーパーウッドは一瞬本当に悲しくなった。フィラデルフィアにいた頃の赤いケープをまとった学校へ通う少女……父親の家で暮らす姿、乗馬や馬車を操る様子を思い出した。何てすばらしくて、愛らしい少女だったんだ……愛のことになると実に甘っちょろいお馬鹿さんだった。もうクーパーウッドのことは心配しないと本当に決心できたのだろうか? 自分に興味を持ちそうで、自分からも強い関心を持てそうな他の誰かを見つけられるだろうか? これはクーパーウッドらしくない考えだった。
後でダイニングへ入って来たときにクーパーウッドは、銅の錆のような緑色のシルクを着飾り、髪を高い位置で巻いたアイリーンを見た……思わず、称賛せずにはいられなかった。内面はとても若く見えた。それでも、不機嫌で……(誰かを)愛していて、一途で、不貞腐れていた。情熱と愛情とは何と恐ろしいものだろう……どうやって我々みんなを愚かにするのだろう……クーパーウッドは一瞬考えた。「我々はみんな、大きな創造的衝動に支配されている」と心に思った。しばらく他のこと……間近に迫った選挙や、『街をクーパーウッドのものにしてしまうのか?』という問題を提起している自分でも見かけた街宣車……について話して「ずいぶん安っぽい政治だ」と感想をのべた。それから、ステイト・ストリートと十六番街にある共和党のいわゆる特設会場……座席つきの、大きな安い造りのペンキも塗っていない木造の掘っ立て小屋……に立ち寄って、演説中の弁士に自分がこっぴどく糾弾されるのを聞いた話をした。「一度そのとんまに少し質問をしてみたくなったが、やめることにした」クーパーウッドは付け加えた。
アイリーンは微笑まずにいられなかった。欠点はあってもすばらしい男性だった……街を二分させるほどなのだ。「相手が私に公平でないのなら、その公平の度合にかまっていられないからね」
「リンド以外にも誰か気に入った人は見つかったかい?」最後に、あまり感情を逆なでしすぎないように茶化して、もっと情報を集めようとした。
この話題がまたもちあがることを確信して、相手の出方を見ていたアイリーンは答えた。「いいえ、いないわ。必要ないもの。ひとりで十分だわ」
「それはどういうことだい?」クーパーウッドは穏やかに尋ねた。
「あら、言ったとおりだけど。ひとりいればいいじゃない」
「つまり、リンドと恋愛中なんだね?」
「つまり……ああっ!」アイリーンは話をやめて喧嘩腰に相手を見た。「あたしがどういうつもりでいようと、あなたに関係ないでしょ? ええ、そうよ。あなたに何の関係があるのよ? どうしてそんなところに座ってあたしに質問するのよ? あたしがどういうつもりでいようと、あなたには関係ないでしょ。あたしのことなんか、いらないくせに。何でそんなところに座って探ったり見張ったりするのよ? これまで自分を抑えてたのは、あなたに気兼ねしてたからじゃないわ。仮にあたしが恋をしていたら? それがあなたに何の関係があるのよ?」
「気になるんだ。気になるのは当たり前だろ。どうしてそんなことを言うんだい?」
「へえ、気になるんだ」アイリーンは激怒した。「どの程度気になるかはわかってるわ。じゃあ、ひとつだけ言っておくわ」……クーパーウッドがかまってくれないことに対する怒りがアイリーンを駆り立てていた……「あたしはリンドを愛してます。それだけじゃないわ、あたしは彼の愛人です。そしてこれからも続けるわ。でもあなたに何の関係があるのよ? ふん!」
アイリーンの目は熱く燃え上がり、顔が紅潮して深みを増した。大きく息をした。
長年の無関心で生じた鬱憤が溜まりに溜まって出たこの表明に、クーパーウッドは一瞬緊張した。時々敵に対してみせる、あの容赦しないにらみ方で目が険しくなった。アイリーンの人生を惨めにして、リンドに復讐するためにやれることはたくさんあると一度は思ったが、結局やらないことに決めた。クーパーウッドを動かしていたのは、弱さではなく優越感だった。どうして自分が嫉妬しなくちゃいけないんだ? 自分が優しくしてこなかったわけでもないのに? たちまち、アイリーンのことが、自分のことが、人生……この欲望と必然のからみあったもの……が、悲しくなった。アイリーンを責められなかった。リンドは確かに魅力的だった。クーパーウッドはアイリーンと別れたくも、リンドと喧嘩したくもなかった。ただアイリーンとの親密な関係を一時的に絶ち切って、気持ちを整理させたかった。おそらくアイリーンは自発的にクーパーウッドのもとをはなれたくなったのだ。もし今後ふさわしい女性を見つけたら、これはアイリーンと別れるいい理由になるかもしれない。ふさわしい女性……そんな人がどこにいるだろう? クーパーウッドはまだ巡り合ったことがなかった。
「アイリーン」クーパーウッドはとても穏やかに言った。「これをそう深刻に受け止めないでほしいな。どうしてそんなことになるんだい? いつそんなことをしたんだい? 話してくれないかな?」
「いやよ、話すつもりはないわ」アイリーンは辛辣に答えた。「あなたには関係ないんだから話すつもりはないわ。あなたこそ、どうして聞くのよ? 関心もないくせに」
「だから、あるって言ってんだろ」クーパーウッドはいらいらして、乱暴に答えた。「いつからだい? せめて、そのくらいは言えるだろう」目に一瞬、険しい冷酷な表情が浮かんだが、薄れていって優しい問いかけに変わった。
「つい最近よ。一週間くらいだわ」アイリーンはしぶしぶ答えた。
「知り合ってどれくらいなんだい?」クーパーウッドは詮索した。
「四、五か月ってとこね。去年の冬に出会ったの」
「そして、きみはわざとこんなことをしたのか……彼を愛したからなのか、それとも私を傷つけたかったからなのか?」
二人の過去の出来事を振り返ればアイリーンが自分を愛するのをやめたとは信じられなかった。
アイリーンはいらだちを募らせ「好きだからよ」と激怒した。「そうしたかったから、そうしたのよ。あなたへの愛情とか関係ないわ……そういうことよ。あれだけあたしのことを無視しておきながら、こんなところに座って、ずうずうしく質問をするあなたの神経は大したものよ」アイリーンは皿を押し戻して立ち上がりそうになった。
「ちょっと待ってくれよ、アイリーン」クーパーウッドはナイフとフォークを置いて、セーブルや銀の食器、果物、料理の載った皿が並べられていて、シルクのシェードの照明の下で二人が向かい合って座る、すてきなテーブル越しに見ながら簡潔に言った。「そういう言い方をしないでほしいな。私がレベルの低い四流の愚か者でないことは知ってるだろう。きみが何をしようと、私がきみと争う気がないことはわかるはずだ。きみが何に悩んでるのか知ってるんだから。きみがこういうことをする理由も、続けたら後でどんな思いを抱くかも、わかってるんだ。そんなことを私がしたって仕方が……」クーパーウッドは感情の波に飲まれて口ごもった。
「へえ、仕方がないんだ?」アイリーンは自分の中で高まりつつある感情を克服しようとしながらもカッとなった。クーパーウッドの冷静きが過去の記憶を呼びさました。「まあ、あなたは自分のことだけ考えてればいいのよ。あたしのことは考えなくて結構だわ。あたしはうまくやるから。あたしに話しかけないでほしいわね」
アイリーンは、シャンパンの入ったグラスがひっくり返って、ワインが白いリネンに擦れた黄色いシミを作るほど勢いよく皿を押しのけて、立ち上がり、ドアに向かって急いだ。怒りと辛さと恥と後悔とで息が詰まりそうだった。
「アイリーン! アイリーン!」クーパーウッドは名前を呼ぶと、激しい椅子の物音を聞きつけて現れた執事には構わずに、後を追いかけた。こういう家庭内のトラブルは今に始まったことではなかった。「きみが望むのは愛であって復讐ではないだろ。知ってるよ……私にはわかるからね。きみは誰かに徹底的に愛されたいんだ。すまないが、私に厳しすぎる態度をとらないでくれ。きみだけにかかわってもいられないんだ」隣の部屋に入ると、クーパーウッドはアイリーンの腕をつかんで引き止めた。この時にはもうアイリーンは、すっかり興奮してしまい、まともに話すこともクーパーウッドがしていることも理解できなかった。
「放してよ!」目に熱い涙を浮かべて怒って叫んだ。「放してってば! あたしはもうあなたを愛してないって言ってるのよ。あなたなんか嫌いよ!」アイリーンは身をふりほどくと、クーパーウッドの前に立ちはだかった。「話しかけてほしくないんだけど! 声もかけてほしくないのよ! あたしの悩みのすべての原因はあなたなのよ。あたしがいつ何をしようと、その原因はあなたなのよ。まさかそれを否定しないでしょうね! 今にわかるわ! 今にわかるんだから! あたしがやることを見せてあげるわ!」
アイリーンは体をよじったりねじったりした。いつものようにアイリーンが崩れ落ちて泣き出すまで、クーパーウッドは強くつかんでしっかりと抱きしめた。「ああ、あたし泣いてるわ」アイリーンは泣きながら言った。「でもどうせ同じことなのよ。もう遅いんだから! 手遅れなのよ!」




