第33章 安らぎのリンド氏
アイリーン側にポーク・リンドのような男性が興味深く登場したのは、運命のちょっとした偶然というか余計なユーモアだった。これにはまだ我々が何も知らない物事に対する潜在意識が働いている。このときアイリーンは自分の運命に悩み、良からぬことを考えていた。このポーク・リンドは、街でも札付きで凄腕の女ったらしで、クーパーウッド以外のどの男性にも負けないほど、おそらくこの時期のアイリーンの気分と好みに合っていた。
多くの点でリンドは魅力的な男性だった。比較的若く……アイリーンよりも年下で……教養はなくても、アメリカの一流大学のひとつで、服や友人や、自分を取り巻く生活の細かい部分についての優れたセンスを磨いた。しかし根っからの放蕩者だった。若い頃からギャンブルが大好きだった。鉄の体質を持っていて影響を最小限に抑えてアルコールを飲めたので、大酒のみの範疇に入るが、決して酔いつぶれなかった。彼にはギボンの言う「我々の悪癖の中で最も愛すべきもの」、女性への情熱があった。カルデア人の神秘や神聖な権利に関心がないように、おそらく自分が後継者になる巨大な収穫機事業を築くときに父親が用いた、慎重で、辛抱強い、まるで悔悟者のようなやり方にも関心はなかった。事業そのものが立派であることはわかっていた。時々、広大な敷地、飾りっ気のない赤レンガの建物、高い煙突、けたたましい警笛のことを考えるのは好きだったが、その運営に関係するかなり平凡な日常業務は全然好きではなかった。
この状況でのアイリーンの大きな問題点は、やはりその激しい虚栄心と自意識だった。これほどの見栄っ張りというか、性の問題をかかえた女性はいなかった。クーパーウッドがよそで人生の歓びを求めて飛び回っているのに、どうして自分は来る日も来る日もそんな相手を思って悔しがりながら座して孤独を託っていなければならないのだろう、と自問した。どうして自分が、自分のたゆまぬ魅力を評価してくれる他の男性に、慰めや喜びとしてそれを提供してはいけないのだろう? そういうやり方は、それ自体がもともと完全に正しいのではないだろうか? しかし今でもクーパーウッドはアイリーンにとってとても大切で、すばらしい人だったので、本気で不貞を考えることなど到底できなかった。いいときは、とても魅力的で、とてもすばらしい人だった。リンドが昼食の約束を取り付けようとしたとき、最初アイリーンは断った。状況が少し違えば、これはあっさり成立したかもしれなかった。この頃アイリーンは毎日のようにクーパーウッドの浮気の追加の証拠や思い当たる節に悩まされていた。
たとえば、ある日ハグエニン家を訪問したとき、夫人は「不在」だと告げられた。相手が事実を知らない限りアイリーンはあくまで親しいふりを続けるつもりだった。その後まもなく、クーパーウッドにいつも好意的で、アイリーンはその友好的な記事が目当てで定期購読していた〈プレス〉が、突如、方針を変えて彼を攻撃し始めた。最初は、彼の方針と意図は街の最大の利益に合致しないかもしれないと指摘するもっともらしい記事だった。少ししてからハグエニンは、クーパーウッドを「破壊者」、「フィラデルフィアの山師」、「良心のない起業家」呼ばわりする社説を出した。アイリーンは何があったかをすぐに察した。しかし自分の立場が立場なだけに何も言えなかった。アイリーンでは自分の難局に活路を見出せないのはもちろん、クーパーウッドに嫉妬する世間の脅しや威嚇を解消することもできなかった。
ある日〈シカゴ・サタデー・レヴュー〉というシカゴの社交界の出来事を正確に伝える新聞のコラムに目を通していてアイリーンはとどめの一撃になるニュースに出くわした。
「しばらく前から社交界では、巨万の富と欺瞞の社会的名声を持つある人物の不義密通に関するさまざまな憶測が飛び交っている。この人物はかつてシカゴの社交界に本格的進出を試みた。男の名前は挙げるまでもない。シカゴでの最近の出来事を知る者ならみんな、誰のことを言っているのかおわかりだろう。すでに悪名高い評判に拍車をかける最新の噂は二人の女性に関係している……一人は、地元で名声も地位もある男性の娘であり、もう一人は妻である。某氏はこの最新の事実で、社交界と経済界に多大な影響力を持つ人物を敵に回してしまった。一人は夫が、もう一人は父親が、重責と権威を持っている。シカゴは財務や社会の問題で某氏の好き勝手を容認すべきではないし最終的には黙って見過ごすつもりはない、との指摘が一度ならずなされた。しかし今のところ某氏を追放するすための明確な行動はまったくとられていない。中でも最大の不思議は、東部からこの地へ連れて来られた妻である。噂では、某氏と生活する特権を得るために、自分の評判と他の女性の心と家庭をかなり無様に犠牲にした妻だが、よく続くものである」
アイリーンは内容を完全に理解した。「一人」の「父親」とは多分ハグエニンかコクランでハグエニンらしかった。「もう一人の夫」……もう一人の夫とは誰だろう? 人妻とのスキャンダルは聞いたことがなかった。リタ・ソールバーグ夫妻の件はありえない……それだと古すぎた。ちっとも心当たりがない何か新しい情事があるに違いない。アイリーンは座って考えた。リンドからまた誘いがあったら、応じてしまおうと内心思った。
アイリーンとリンドがリシュリューの貴賓室で会ったのは、そのわずか数日後のことだった。変な話だが、重要ではないと決めた相手のために、アイリーンはたっぷり時間をかけて人の気を引く化粧をした。二月、地面では雪がきらきらしていて寒かった。アイリーンが選んだのは、胸にYの字をかたどったラピスラズリのボタンがついた真新しい深緑色のブロードのガウンと、精巧に作られた大きな銀のボタンがついたアザラシの毛皮のジャケットを引き立てる、エメラルドの羽根飾りがついたアザラシ皮のターバンと、青銅色の靴だった。最後の仕上げに、小さな花の形のラピスラズリのイヤリングをして、模様のない重たい金のブレスレットをつけた。リンドはハンサムな茶色い顔に絶賛の表情を浮かべて現れた。「あなたがどんなにすてきに見えるか言わせてくれませんか?」リンドは向かいの椅子に座りながら言った。「色の選び方が上手ですね。イヤリングが髪にとてもお似合いですよ」
アイリーンはリンドの必死さが怖かったが、物腰の柔らかさには魅了された……外面の下にはあの鉄の強さの雰囲気があった。長くて茶色い美しい手は、硬く筋肉質で、いろいろな用途に使われそうな余力がうかがえた。歯や顎ともバランスがとれていた。
「よく来てくれましたね」じろじろ見ながらリンドは続けた。アイリーはしばらく堂々と相手の視線に立ち向かったが、そらすようにうつむいた。
それでもリンドは顎と口と色っぽい鼻を見ながら、じっと相手を観察した。色鮮やか頬や、仕立てのいい上着からうかがい知れるたくましい腕と肩の中に、自分が女性に求めてやまない人間の活力を認めた。リンドは気晴らしに昔ながらのウイスキーカクテルを注文してアイリーンにも勧めたが、相手の頑なな態度に気がつくとポケットから小さな箱を出した。
「いつぞやの夜、ゲームの折りに記念品を約束しましたね」リンドは言った。「お土産ということで? 何だと思います?」
アイリーンは箱の中身が宝石だとわかり、少し困惑してそれを見た。「まあ、やめてください」アイリーンは抗議した。「あれは勝ったらばという話でしょ。負けたんだから、あの話はおしまいよ。あたしも損をかぶらなきゃ。そのことは譲りませんでしたよね」
「それは、野暮ってもんでしょう!」リンドは細長い漆塗りのケースをいじりながら笑顔で言った。「私を野暮な奴にしたくはないでしょ? 潔くしないと……負けてもくよくよしないんですよ。察して収めてください」
熱心な懇願に対してアイリーンは唇をすぼめた。
「まあ、察するのはかまわないけど」アイリーンはぴしゃりと言った。「これは受け取れません。ブローチだろうと、イヤリングだろうと、ブレスレットだろうと……」
リンドは何も言わずに箱を開けて、丹精込めてぶどうの蔓状に仕上げられた金のネックレスを披露した。美しい彫刻で胸飾りにアレンジされた葉っぱが一房分ついていて、黒いオパールでできたその中心部が魅力的な光沢を放った。アイリーンがたくさんの宝石を見慣れていることや、華麗な造りと値打ちのあるものしか、自分に似合うものを見極める感性に響かないことをリンドはちゃんとわかっていた。アイリーンがネックレスの細部まで調べる間、リンドはその顔をじっくりと見ていた。
「最高にすてきじゃない!」アイリーンは感想を述べた。「何て美しいオパールなの……実に変わったデザインね」アイリーンはひとつひとつの葉っぱを丹念に調べた。「あまり馬鹿げたことはすべきじゃないわ。あたし、受け取れません。ただでさえいろんなことを抱え過ぎてるんだもの。それに……」もしクーパーウッドがこの入手先を尋ねてきたら、何と言おうか考えていた。何しろ勘が鋭いのだ。
「それに?」リンドは尋ねた。
「どうしても受け取るわけにはいかないのよ」アイリーンは答えた。
「記念に受け取ってくれませんか……私たちが意気投合したということで」
「どう投合したんですか?」アイリーンは尋ねた。
「別に大したことはないですよ。記念にですよ、あのときの……本当に……ねえ」
リンドのずうずうしく迫る指がアイリーンの指を握った。一年前なら、いや、六か月前でも、アイリーンは笑って手をふりほどいただろう。なのに今は躊躇した。クーパーウッドが自分につれない態度をとるのに、どうして自分が他の男性と会うのに気兼ねしないといけないのだろう?
「念のため聞いておきますが」リンドは相手の迷いに気づいて、指を優しく、しかししっかりと握って尋ねた。「私のこと、少しは気になりますか?」
「それは好きですけど。それ以上ではありません」
しかしそう言っておきながらアイリーンは赤くなった。
リンドは激しい燃えるような目でただ相手を見つめるだけだった。数多くの気質の中でロマンスと同時に生じる現象がアイリーンの中で目覚め、一時的にクーパーウッドを思考から除外した。これはアイリーンにとって驚くべき革命的な経験だった。燃えるようなほてりが答えになった。リンドは優しく励ますように微笑んだ。
「どうして私と仲よくしてくれないんですか? あなたが幸せでないことは知ってます……私にはそれがわかるんです。私もそうですから。私は無鉄砲でひどい性格なので、何かと地獄を見るんです。私には誰か気にかけてくれる人が必要なんです。お願いするわけにいきませんか? あなたみたいな方がタイプなんです。それを感じるんです。そんなに彼を愛してるんですか」……クーパーウッドのことを言っていた……「他の誰のことも愛せなくなるほど?」
「ああ、あの人ね!」アイリーンは苛立ち、もう知らないとばかりに答えた。「あの人はもはやあたしのことは眼中にないのよ。気にしたりするもんですか。あの人のせいじゃないわ」
「じゃあ、何なんですか? どうして踏ん切りがつかないんです? 私にそれほど興味がわきませんか? 私のことが好きではありませんか? 私があなたにぴったりだとは感じませんか?」リンドの手が静かにアイリーンの手を求めた。
アイリーンはその愛撫を受け入れた。
「そんなことはないわ」クーパーウッドとの長い付き合い、昔の愛情、熱心な反論を思い返して思いつめるように答えた。アイリーンは彼との生活から多くの実りを期待していたのに、こうして公共のレストランで、よく知らない相手といちゃいちゃして同情を引いているのだ。その思いが一瞬で急所をえぐって彼女の口をふさいだ。熱い望んでもいない涙が目に溢れた。
リンドはその様子を見て、美しさのあまり弱みにつけ込みたくなったが、アイリーンが本当にかわいそうでならなかった。「どうして泣くんですか?」リンドは紅潮した頬と色鮮やかな目を見ながら優しく尋ねた。「あなたには美しさがある。若いし、すてきですよ。世界の男性はご主人だけじゃありません。相手があなたを裏切っているのに、どうしてあなたが操を立てねばならないんですか? ハンドの一件は街中に知れ渡ってますよ。本当にあなたを大切にしようという相手に出会ったのに、どうして頑ななんですか? ご主人があなたを望まなくても、他に人はいるでしょ」
ハンドの話が出てアイリーンは姿勢を正した。「ハンドの一件?」アイリーンは怪訝そうに尋ねた。「どういうことですか?」
「知らなかったんですか?」リンドは少し驚いて答えた。「てっきり知ってるものと思ってました。さもなきゃ、言わなかったものを」
「まあ、内容は察しがつきますけど」アイリーンは、賢しげに、少し皮肉を効かせて答えた。「たくさんあったというか、似たようなことがずっと続きましたから。〈シカゴ・リビュー〉が言っていた有名な資本家の妻というのが、きっとそれに違いないわ。ハンド夫人と浮気してたんですね?」
「そんなところです」リンドは答えた。「余計なことを言ってすいません。全く、私としたことが。こんな話、するつもりじゃなかったのに」
「同じ土俵で戦おうというわけかしら?」アイリーンは楽しそうに冷やかした。
「別にそういうわけじゃありません。どうか見くびらないでください。私はそんなひどい奴じゃありませんよ。もともとそうであるというだけなんです。誰にだってちょっとした欠点はつきものでしょ」
「確かにそうね」アイリーンは答えたが、頭はハンド夫人のことばかり考えていた。つまり彼女が最新の相手だった。「まあ、とにかく今回は趣味がいいわ」アイリーンは茶化して言った。「でも随分いるものね。彼女だって新たなひとりに過ぎないんでしょうけど」
リンドは微笑んだ。彼もクーパーウッドの趣味はいいと感心した。ここでこの話題を終わらせた。
「でもこんなこと忘れましょう」リンドは言った。「もうご主人の心配はしないでください。あなたに変えられるものじゃありませんから。気をしっかりもちましょう」リンドは指を握りしめた。「いいでしょ?」問いかけるように眉を上げた。
「何がいいのよ?」アイリーンは考え込んで答えた。
「おわかりでしょう。ひとつはそのネックレス。私のこともです」リンドの目が相手をおだてて、笑って、訴えかけた。
アイリーンは微笑んだ。「悪い子ね」そう言ってはぐらかした。ハンド夫人の一件が明るみに出て、アイリーンは異様に仕返ししたい気分になった。「考えさせて。今日のところはネックレスは勘弁してね。いただけないわ。とにかく、それはつけられない。また今度ということにして」アイリーンはふくよかな手をぎこちなく動かした。リンドがその手首をなでた。
「このタワーにある私の友人のアトリエに行ってみたくないですか?」リンドはさらっと尋ねた。「風景画のすてきなコレクションがあるんですよ。絵に興味がおありなんですよね。ご主人は名画を何点かお持ちだし」
アイリーンは瞬時にその意味を理解した……本能でわかった。その問題のアトリエはプライベートな独身者向けの部屋に違いなかった。
「今日の午後はだめ」アイリーンはひどく興奮して取り乱して答えた。「今日はだめよ。また今度ね。それにあたし、もう行かないと。でもまたお会いしましょう」
「じゃ、これは?」リンドはネックレスを取り上げて尋ねた。
「次回まで預かってて」アイリーンは答えた。「そのときに、いただくかもしれないわ」
アイリーンは少し気が楽になり、無事に帰れるのがうれしかったが、決して悪い気はしなかった。それでも心は風にそよぐ雲のようにずたずただった。これこそ彼女が欲しかった時間だった……ほんのひととき……それだけだった。




