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巨人  作者: ドライサーの小説の翻訳作品です
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第32章 夕食会


アイリーンがクーパーウッドに多少寂しくほったらかしにされてからは、テイラー・ロードとケント・マッキベンの二人ほど誠実に気遣う人はいなくなった。二人とも大雑把に言うとアイリーンのことが好きだった。肉体も気質も興味深いと感じていた。しかし、ご主人に随分引き立てられた恩義があったので、アイリーンへの接し方は極めて慎重で、クーパーウッドが一途でいたのを知っていた最初の頃は特にそうだった。やがて、それほど気遣うことはなくなった。


この二人の男性を介して、必ずしも退屈ではない中間的な世界の生活にアイリーンが徐々に足を踏み入れるようになったのは、この後のことだった。どの大都市にも、ある種の社交界に準じたような世界がある。そこには芸術家や、従来の社交の枠にはとらわれない居場所の定まらないもっと冒険的な者が、交流の形式や儀礼では単純にくくりきれないものを交換しに集う。昔のボヘミアの世界である。ここには、舞台や応接間や、芸術のあらゆる流派の試みを、興味深くも特異にもしてしまう想像力を持つ思いがけない連中がよく訪れる。レーン・クロスやリース・グリアーのアトリエのようなシカゴの多くの場所でも、こういう小さなサークルが見受けられた。たとえばリース・グリアーはただのアマチュア・アーティストだが、ちゃんと雰囲気があって、約束事がわかっていて、仲間内で受け入れられるものを備えていて、かなり支持者がいた。テイラー・ロードとケント・マッキベンはアイリーンをつれて、こういう場所やその他を順々に案内して回った。二人ともクーパーウッドがいないときにエスコートを申し出たり許可を得たりしていた。


この頃この二名の友人にポーク・リンドという面白い社交家がいた。父親が巨大な収穫機工場のオーナーだったので、彼の時間は仕事をしないで、レースやギャンブル、社交……要するに思いついたことは何にでも……費やされた。背が高い、色黒の、スポーツマンで、姿勢がよく、筋肉隆々で、小さな黒い口髭を生やし、目はこげ茶色、髪は黒のちぢれ毛で、立派な軍人のような立ちふるまいだった……いつもそうした格好をして最高に優れた状態だった。賢いプレイボーイで、自分が征服したことを自慢しないのが彼の矜持だった。しかし人は彼を見ているし、手を出された人によって話は語られた。アイリーンが初めてリース・グリアーを見たのは彼のアトリエに行ったときだった。このときただの成り行きで紹介されたのだが、それでもアイリーンは、自分が魅力的な男性に出会っていることと、相手が好色で貪欲な目で見つめているのをはっきり意識していた。一瞬、見つめ方が少し図々し過ぎると辟易したが、それでも容姿は概ね好感が持てた。この男性は、自分があれほど憧れていて、今どうやら絶望的に締め出されたらしい、あのすてきな世界の住人だった。彼の垢抜けた大胆な雰囲気はとうとうアイリーンに、クーパーウッド以外で自分を適度に称賛してくれたらいいと思える男性像を具体的にした。アイリーンの言葉で言うなら、もし「間違いを犯す」つもりなら、こういう相手と「間違いを犯す」だろう。愛嬌があって、ちやほやするくせに、同時に、彼女のフランクのように、力強く、強引で、いい感じで残忍なところがあるのだ。彼にはクーパーウッドにはあり得ないものがあった。無為徒食、社会的優越感や怖いもの知らず……他人の意志や気まぐれを一向に気にしない傍若無人な無関心に由来する、ある種の上流っぽさというか、ふんぞり返ったところがあった。


数週間後にコートニー・タボール家のパーティーで次に見かけたときに、向こうが叫んだ。


「おや、奇遇ですね! 数週間前にリース・グリアーのアトリエでお会いしたクーパーウッドさんですね。あなたを忘れたことがありません。シカゴ中であなたをお見かけしますから。私のことはテイラー・ロードが紹介いたしましたよね。いやあ、しかし、お美しい方だ!」


取り入るように、気まぐれに、見惚れるように、男は近くに寄って来た。


まだ午後も早い時間なのに、人もいっぱいいるというのに、男が妙に張り切っていることにアイリーンは気がついた。実は、他所をいくつも回っていたせいで酒を飲み過ぎていた。目は輝き、肌は青銅色、ふんぞり返った態度をとり、傍若無人で、酔いしれていた。そのためアイリーンは少し警戒したが、彼の茶色く険しい顔、凛々しい口、ジュピターのような細かく縮れた髪はかなり気に入った。彼の賛辞は必ずしも不作法ではなかったが、それでも恥ずかしそうに彼を避けようとした。


「なあ、ポーク、こっちにお前の旧友がいるぞ……セイディ・バウトウェルがまた会いたがってるんだ」誰かが腕をつかみながら言った。


「おい、やめろよ」リンドは和やかだが、同時に少し怒って叫んだ……少し飲み過ぎた人がさえぎられているときに感じがちなわけのわからない怒りのようだった。「初めて会ったときに連れ去られるだけのために、どこかで会った女のことを考えてシガゴ中を歩くつもりは私にはないからな。まずは彼女と話すことにするよ」


アイリーンは笑った。「あなたはすてきなんですから、多分また会えるかもしれなせんよ。それに、ここにも誰かがいるんですから」……ロードは機転を利かせて彼女の注意を他の女性に向けさせた。その場にいたリース・グリアーとマッキベンも彼女を助けに入った。とりあえずアイリーンはその騒ぎから救出され、体よくリンドは彼女から遠ざけられた。しかし二人は再会し、それが最後にはならなかった。この二度目の出会いの後でリンドは問題を冷静に考え、アイリーンともっと親密になるためにも目に見える努力をしなければならないと決心した。アイリーンは他の女性ほど若くなかったが、彼の今の気分にぴったりだった。豊満な肉体だった……官能的でグッときた。厳密には彼の世界の人間ではなかった。しかしそれだとどうなるのだろう? 彼女はかつて社交界にいた著名な資本家の妻であり、彼女自身がすごい経歴の持ち主だった。リンドには自信があった。自分がその気になれば、彼女をものにできる。彼と同じように彼女を知り、彼が彼女に対して何をしたかを知るのは簡単だろう。


それから間もなくリンドは、ロード、マッキベン、リース・グリアー夫妻、かなり魅力的なグリアー夫人の若い女友だちのミス・クリストベル・ランマンと一緒に、アイリーンを観劇や夕食会へ招待した。計画は、フーリーの劇場で上演中の笑劇を観覧し、それからリシュリューで夕食をとって、最後にサウスサイドで盛況の高級カジノに繰り出すものだった。そこは俳優やギャンブル好きの社交家たちのたまり場で、ルーレット、トラントエカラント、バカラ、他のいろいろな運まかせのゲームは言うまでもなく、まっとうなポーカーを極めて洗練された環境の中でプレイできた。


パーティーは楽しかった。チキンとロブスターの特別料理とバケット入りのシャンパンが振る舞われたリシュリューに移ってからは格別だった。その後はギャンブルが楽しめるオルコット・クラブで、アイリーンはリンドにバカラ、ポーカー、何でもお望みのゲームを教えてもらうことになった。「私のアドバイスどおりにすることです、クーパーウッドさん」リンドは夕食の席で陽気に言った……ホストだった。自分とマッキベンの間にアイリーンの席を置いていた。「そうすれば、とにかく、私が金を取り戻す方法を教えます。どっかの誰かさんたちよりも多くね」最近、自分とマッキベンが友人たちと出かけた際に、マッキベンがやたらとアドバイスしたのにそれが裏目に出るのを目の当たりにしたときの様子を思い出しながら、リンドは元気に付け加えた。


「あなたギャンブルやってたの、ケント?」アイリーンは長年社交を指導してくれた友人の方を向いて、からかうように尋ねた。


「とんでもない、正直に言いますが、やってませんよ」マッキベンはにやけて答えた。「ギャンブルをしていると思ったかもしれないけど、やり方を知らないんですよ。このポークはいつも勝つんだよな、なあ、ポーク? じゃあ、言うとおりにするまでだ」


これにはリンドの顔に苦笑いがひろがった。一晩で一万も一万五千も大損したことは、知る人ぞ知る語り草だった。一昼夜かけてバカラで二万五千勝ってから、すってしまった記録もあった。


リンドはその晩ずっとアイリーンの目へ露骨な含みのある視線を送っていた。アイリーンはこれを避けることができなかったし、避けたい気がしなかった。リンドはとても魅力的だった。あからさまに言い寄るとか、目を向けさえしなかったが、劇場にいた時間の半分はアイリーンに話かけていた。アイリーンはリンドの考えを十分知っていた。クーパーウッドに初めて会ったあの日々のように、時々自分の意思とは関係なく血が騒ぐのを感じた。アイリーンの目は輝いた。難しいだろうが、こういう男性を愛せるようになる可能性だけはあった。それは自分をないがしろにしているクーパーウッドへの当然の報いになるだろう。なのにこの期に及んでも、クーパーウッドの影はアイリーンを覆っていた。しかし愛と充実した性生活も欲しかった。


カジノには物見高いかなり洒落た人たちが集まった……俳優、女優、クラブの会員、地元の上流社会でもとても奔放な女性が一、二名、多少は紳士っぽい若手のギャンブラーがたくさんいた。ロードとマッキベンは自分たちの弟子に縦の数字に賭けるように勧める一方で、リンドはアイリーンの白粉をまぶした肩をなでるように寄りかかった。「まずはこのあなたの分をコーナーベットにしましょう」二十ドル金貨一枚を放りながら言った。


「あら、でもあたしのお金でお願いします」アイリーンは文句を言った。「あたし、自分のお金で遊びたいの。そうじゃないと自分でやってる気分が出ないわ」


「いいでしょう、でも今すぐは無理ですね。紙幣では遊べないんです」アイリーンは新札の束を財布から出すところだった。「あなたの分は後で金貨と交換しなくてはなりませんから、そのときに私に払えばいいんです。とにかく、コールがかかりますよ。さあ、きた。コールだ。どうだ。勝つかもしれませんよ」小さな玉がポケットの上をぐるぐる回る間、リンドは話をやめて玉に集中した。


「それで、コーナーベットで勝つと、いくらになるの?」アイリーンは海外での経験を思い出そうとしていた。


「十倍ですね」リンドは答えた。「でも負けました。運試しにもうひと勝負しましょう。よく出るんです……十回から十二回に一度。私は一回目はそれでよく勝つんですよ。最後のコーナーベットが出たのは、どれくらい前だ?」リンドは隣にいる顔見知りに尋ねた。


「七回だと思うな、ポーク。六、七回ってとこだよ。必勝法かい?」


「まあ、そんなところだ」リンドは再びアイリーンの方を向いた。「いつ来てもおかしくないな。そういうときはいつも二倍にして賭けることにしています。そうすればいつか、負けた分は全て取り戻しますからね」リンドは二十ドルを二枚置いた。


「すごい」アイリーンは叫んだ。「あれが二百になるのね! それを忘れてたわ」


ちょうどその時、賭け金を置くのを締め切るコールがかかり、アイリーンは玉に集中した。目が回るほどぐるぐるまわって、突然、玉はポケットに落ちた。


「また負けだ」リンドは言った。「さて、今度は八十だぞ」リンドは二十ドルを四枚放った。「運試しに、三十六、十三、九にも賭けよう」軽い気持ちでリンドは百ドル金貨を各数字に置いた。


アイリーンは彼の態度が好きだった。フランクに似ていた。リンドには勝負師の冷静な一面があった。父親は彼の気質を知っていたので、毎年一定の金額が支払われるようにしていた。クーパーウッドもそうだが冒険心が別の形でしか働いていないとアイリーンは思った。ひょっとしたらリンドは何らか取り返しのつかない結末を迎える運命かもしれない。しかしそれだと何だというのだろう? リンドは紳士だった。彼の人生での地位は盤石だった。それはずっとアイリーンのひそかな悲願だった。彼女の人生はそうではなかったし、今もそうではないかもしれない。


「ああ、すでに負けっぱなしだわ」アイリーンは童心に帰って楽しそうに手を叩きながら叫んだ。「勝てば、いくらなの?」玉が落ちるときでさえ、その仕草は衆目を集めた。


「やった、勝ったよ!」ディーラーを見ていたリンドは叫んだ。「八百、二百、二百」……自分で数えていた……「だけど千三百負けた。調子いいぞ、これでさっき払ったのを除外してざっと千は勝った。序盤にしては、なかなかだと思わないかい? もし私のアドバイスに従うなら、しばらくはコーナーベットは控えることですね。負けた分の千三百を二倍にしたら……ベイツの公式を使うんです。どうやるかは私がお教えます」


リンドは勝負師だと知られていたので、背後にはすでに数名の見物人を集めていた。魅せられたアイリーンは確率の謎を知らなかったが満足そうに彼を眺めた。勝負のある局面でリンドは体を乗り出した。アイリーンの笑顔を見ながらささやいた。


「なんてすてきな髪と目をしてるんだ! 大輪のバラのように輝いてますよ。あなたにはすばらしい輝きがある」


「まあ、リンドさん! よく言うわね! ギャンブルしてると、あなたっていつもこんな調子なんですか?」


「とんでもない、あなたのせいです。いつだってそうなりますよ!」リンドは見上げるアイリーンの目をのぞき込んだ。アイリーンのためと称して勝負を続けながら、今度は自分のやり方で掛け金を二倍にし金貨で千ドルを置いた。アイリーンは、リンドに自分の勝負をやるように促し、見守らせてほしいと言った。「あたしはあっちこっちの奇数に小銭を賭けますから、あなたはあなたのやりたいようにやってください。それでどうかしら?」


「いや、だめです」リンドは情感を込めて言った。「あなたは私の幸運なんですから。一緒にやりましょう。その金貨は私のために取っておいてください。勝ったらすてきなプレゼントをしますよ。損は私持ちで」


「好きにしてください。やろうにも本当はよくわかりませんから。でも、あなたが勝ったらすてきなプレゼントをいただけるのね?」


「そうですよ、勝とうが負けようが」リンドはつぶやいた。「じゃ、私が言う数字にお金をおいて。七に二十。十三に八十。三十に八十。九に二十。二十四に五十」リンドは自分のやり方でやっていた。言われたとおりにアイリーンの白いふっくらした腕があっちこっちへと伸びた。他の誰でもないこの二人によって大勝負が挑まれていると気づいて見物人が立ち止まった。リンドは盛り上げようと張り込んでいた。一遍に千五十ドル失った。


「まあ、大金が!」ディーラーがそれをかき集めると、アイリーンは大げさに悲しんでみせて叫んだ。


「心配すんな、取り戻すまでのことだ」リンドは両替係に千ドル札を二枚放りながら叫んだ。「それを金貨にしてくれ」


男が両手で持ってきたものを渡すとリンドはそれをアイリーンの白い両腕の間に置いた。


「二に百。四に百。六に百。八に百」


金貨は五ドル金貨で、アイリーンはすばやく小さな黄色い山を築き上げ、言われたところへ押し出した。他のプレーヤーたちは再び動くのをやめて、奇妙な二人組を見物し始めた。アイリーンは赤みがかった金髪の頭、ピンク色の頬、軽やかに動いている目、シルクや高級レースに包まれた体で、リンドはきりっと立ち、シャツの胸が雪のように白く、顔は青銅色に近い黒、目と髪は黒だった……実に印象的な組み合わせだった。


「何事だい? 何なんだ、これは?」グリアーは来るそばから尋ねた。「誰だ、こんな無茶してるのは? あなたなんですか、クーパーウッドさん?」


「無茶なんかしてないさ」リンドは平然と答えた。「私たちはひとつの手法を実践しているだけだ……クーパーウッドさんと私とでね。共同戦線ってやつさ」


アイリーンは微笑んだ。いよいよ本領発揮だった。輝き始めていた。注目の的になっていた。


「十二に百。十八に百。二十六に百」


「おいおい、いくら突っ込む気だい、リンド?」リース夫人を置いてきぼりにしてやってきたロードが叫んだ。夫人は後からやってきた。見知らぬ人たちも集まってきた。場が最高潮に達していた……時刻は午前二時……部屋には人がいっぱいいた。


「これは見ものね!」テーブルの反対側では、ミス・ランマンが手を休めて見入っていた。その横にいたマッキベンも手をとめた。「無茶してるな。あの金を見てみろ! いやあ、彼女の度胸は大したもんじゃないか……で、相手の方は?」アイリーンのつややかな腕が、器用に、華麗に動いていた。


「ほら、札束を崩しているぞ!」リンドは、金貨との交換に使う黄色い新札の分厚い束を取り出すところだった。「これは名コンビになるな?」


今やボードは見応えのある小さな山となったリンドの金貨ですっかり覆われた。リンドはマザランという手法をとっていた。これだと勝率は五対一で、胴元を破綻させかねなかった。テーブルにはかなりの人が集まっていて、人工の光に照らされ顔が輝いていた。「大勝負だ!」「大勝負だ!」という感嘆が、あちこちから漏れ聞こえた。リンドは楽しそうに見えるほど冷静でぶれなかった。しなやかな体はきりっと直立し、目は思慮深く、口は火のついていないタバコをくわえていた。アイリーンは子供のように興奮し、再び話題の中心になれたことをうれしがった。ロードは同情的な目でアイリーンを見た。ロードは彼女のことが好きだった。さあ、彼女を喜ばせてやってくれ。アイリーンだってたまにはいい思いをすればいい。しかし、自分をかっこよく見せたくてこんなにも大金を危険にさらすとはリンドは愚か者だ。


「締め切ります!」ディーラーが叫んだ。すぐに小さな玉が回り始めた。全ての目が玉を追った。玉はぐるぐる回った……アイリーンは誰にも負けないほど目を凝らした。顔は紅潮し、目は輝いた。


「これに負けたら」リンドは言った。「もう一回、倍賭けして、そこで勝たなければやめましょう」リンドはすでに三千ドル近くすっていた。


「ええ、そうね! あたしとしては、今がやめ時だと思うけど。勝たなくても損は二千ですむわ。それでいいと思わない? あたしがもたらす運が足らなかったんじゃない?」


「あなたが幸運なんですよ」リンドはささやいた。「私が求めるすべての運なんだ。もう一回だ。もう一回、私のそばにいてくれますね? 勝てばやめるけど」


アイリーンがうなずいたとたん、小さな玉は音をたてた。ディーラーはあちこちに少しあった小さな山に払い戻しをして、残りの全てを厳かに回収口へかきいれた。あちこちで同情を寄せる落胆のつぶやきがあがった。


「あの人たち、あそこでいくらつかったの?」ミス・ランマンが驚いてマッキベンに尋ねた。「大金だったはずよね?」


「まあ、二千ドルってとこでしょう、おそらく。でもここじゃ、それほど大した額じゃない。八千や一万程度、突っ込む人はざらにいます。まあ、人それぞれですからね」マッキベンは軽蔑した見下した態度だった。


「へえ、でも頻繁にあることじゃないでしょ」


「おおい、ポーク!」リース・グリアーが近づいてきて袖を引っ張りながら叫んだ。「金を捨てたいのなら、ぼくにくれよ。ぼくだって、あのディーラーと同じくらい上手に集められるぞ。そして台車を調達して家まで運ぶんだ。家計の足しになるからな。お前さんが続けているやり方は最低だな」


リンドは落ち着いて負けを受けとめた。「さあ、掛け金を倍にするぞ」リンドは言った。「そして損を全て取り戻す。さもなきゃ下でチーズトーストとシャンパンで過ごすかだ。どんなプレゼントが一番うれしいですか?……でも気にしないでください。こういう時にふさわしい記念品のことならくわしいですから」


リンドは微笑んで金貨を買い増した。少し気が引けたが、アイリーンは派手に山を積んだ。アイリーンはこれ……大勝負……に全く賛同しなかったが、それでもよしとした。この勝負魂に共感せずにはいられなかった。しばらくしてボードの上にあったのは、同じ組み合わせの同じ山だった。ただ金額が倍で、全部で四千だった。ディーラーは締め切り、玉は転がって落ちた。三百ドルの戻りを除いて、胴元が全てをもっていった。


「さて、チーズトーストにしよう」後ろで微笑んでいるロードの方を向きながらリンドは苦もなく叫んだ。「きみはやらなかったんだね? こっちは不運だったよ、まったく」


リンドは内心ほんのちょっぴり機嫌が悪かった。勝ったら儲けの一部をアイリーンに贈るネックレスか何か見栄えのいいものに使うつもりだった。これですっかり身銭を切るはめになった。惨敗だったとはいえ、冷静で平然とした印象を与えたことに多少の満足感があった。リンドはアイリーンに腕を差し出した。


「さて、奥さま」リンドは言った。「勝ちはしなかったけど、ささやかな楽しいひとときが過ごせましたか? もしあの組み合わせがうまくいっていたら、私たちは大儲けだったんですけどね。次回はもっと幸運だといいですね、ねえ?」


リンドは優しく微笑みかけた。


「ええ、でも、あたしがあなたの運だったはずなのに、あたしったら役立たずだったわね」アイリーンは答えた。


「あなたはいてくれさえすれば私が求める幸運なんですよ。明日リシュリューで一緒にランチでも……どうですか?」


「それは、ちょっと」相手の用意周到で、どこか鉄のような熱情を見て危ぶみながらアイリーンは答えた。「無理ですわ」最後に言った。「別の約束がありますから」


「それでは火曜日では?」


アイリーンは、手軽に処理されてもいい状況を大げさにしていると急に気づいて、すぐに答えた。「いいですわ……火曜日なら! 事前に電話だけはくださいね。気が変わるか、時間を変更しなくてはならないかもしれませんから」そしてアイリーンは愛想よく微笑んだ。


この後、リンドにはアイリーンと差しで話をする機会がなかったが、おやすみなさいを言うときに、あえて思わせぶりに腕をつかんでみた。アイリーンはこれに妙に緊張してどきどきした。しかし、生きる実感を味わい復讐したいからこうなったんだと奇妙な判断をして、覚悟を決めなくてはならなかった。果たして自分はこれを続けたいのだろうか、それとも続けたくないのだろうか? これは一番大切な問題だった。自分が決断しなくてはならないと思った。しかし、こういう場合はほとんど状況がアイリーンに代わって決めることになる。彼女がテイラー・ロードに丁重に自宅まで送り届けられたとき、疑いの余地なく、この事実の一部が彼女の心にあった。



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