表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
巨人  作者: ドライサーの小説の翻訳作品です
3/8

第18章~第25章


第十八章


衝突



リタ・ソールバーグの独特な人柄は、本人が自分の行動そのもので、普通に疑いを晴らすというか、はぐらかすほどのものだった。若いくせに、不思議なゆとり、度胸、魂の均衡が備わっていて、最大の試練の場でも自分を保ち冷静さを失わなかった。不名誉極まりない立場に追い込まれたかもしれないのに、態度は常にのんきで、どこか無邪気で、普段と変わらなかった。こういうことが人の道にもとるとは全然感じなかった。この種類の関係から生じることにちっとも厄介な感情を抱かず、自分の魂だとか罪、社会的評価なども全然気にしなかった。芸術と人生に本当に関心があった……実は異教徒だった。中にはこういう図太い人もいる。それは人一倍図太いタイプの人間の最も顕著な特性である……だからといって、必ずしも最も才人とか出来た人とは限らない。彼女の魂が敗者の苦しみに単に無頓着なだけだと言ってもいいかもしれない。彼女は、どんな敗北でも驚くほど平然と受け止めただろう……もちろん、多少の不安はあるが、それほど多くはない……なぜなら、彼女の虚栄心と魅力の自覚が、もっと良いもの、あるいは同じくらい良いものが待ち受けていると彼女に期待をさせたからだ。


リタはこれまでもハロルドがいようがいまいが定期的にアイリーンを訪ねたし、クーパーウッド夫妻と一緒に頻繁にトライブしたり劇場などで同席した。リタはクーパーウッドと親しくなってから美術の勉強を再開することにした。午後や夕方に授業があるのでこれが絶好の隠れ蓑になり、リタは頻繁にすっぽかした。それにハロルドは収入が増えたので、楽しみが多くなり、女に見境がなくなりのめり込むようになった。クーパーウッドはわざわざリタにアドバイスして、後で露見したらうまく彼の手をしばれるような浮気をハロルドがするようにそそのかした。


「ハロルドに浮気をさせるんだ」クーパーウッドはリタに言った。「こっちは探偵に尾行させて証拠をつかむ。向こうはぐうの音もでないだろうよ」


「私たちはそんなことをする必要はないわよ」リタは優しく無邪気に反論した。「もうちゃんと墓穴を掘ってるから。自分から手紙をくれたわよ」(リタは「手紙」をなまって発音した)


「しかし、いざというときのためには確かな目撃者が必要だからね。また浮気したら知らせてくれればいい。あとは私の方でする」


「今だってしてると思うわ」リタは面白がってゆっくりと言った。「先日だって、路上で学生のひとり……かなりかわいい女の子……と一緒のところを見かけたもの」


クーパーウッドはよろこんだ。状況次第では、アイリーンを陥れて自分の立場を安泰にするために……まさかとはいえ……アイリーンがソールバーグに屈服することでも望まんばかりだった。でも、よくよく考えてみれば本当は望んでいなかった……もしアイリーンが自分を捨てたとしたら、一時的に深く悲しんだだろう。しかしソールバーグに対しては探偵が雇われた。尻軽な生徒との新しい情事が明るみに出されて目撃者による宣誓供述書が作成された。もしどうしても手に負えなくなったら、リタの握っている手紙と合わせて、これが音楽家に『ぐうの音も出なく』させる材料になった。だからクーパーウッドとリタの関係は安泰だった。


しかし、アントワネット・ノバクのことばかり考えているアイリーンは、好奇心と疑惑と不安とで気が気ではなかった。フィラデルフィアでつらい経験をしたのだから、どんな形であれクーパーウッドを傷つけたくなかったが、こんな形で自分を捨てるのかと思うと、激しい怒りに陥った。愛情と同じくらい虚栄心も傷ついた。疑惑を立証するか晴らすためにはどうすればいいのだろう? 自分で夫を見張るのか? アイリーンは気位が高くてあまりにも見栄っ張りだったから、街角やオフィスやホテルをこそこそ歩き回るなどできなかった。絶対に! 追加の証拠がないのに喧嘩を始めるのは愚かだった。アイリーンがいったん口に出してしまった以上、クーパーウッドは抜け目なかったからこれ以上証拠を出すはずがなかった。ただ否定するだけのことだ。十年前に一度、父親が自分に探偵をつけて尾行させ、実際にクーパーウッドとの関係と密会場所を突き止めたことを、しばらくして思い出し、胸を痛め、アイリーンはイライラしながら考えた。あの思い出はつらかった……拷問だった。今やこの状況では、この同じ手段が、とれないほどの忌まわしいものに思えなかった。前回はクーパーウッドに害はなかった、とアイリーンは自分で結論づけた……あれを発見したのに特に害はなかった。(これは事実ではなかった。)今度も問題はないだろう。(これも事実ではなかった。)しかし、ひどく傷ついた、気性の荒い情熱家が、多少の判断ミスをするのは許してあげなくてはならない。アイリーンはまず自分の愛する人が何をしているのかを確かめて、それからとるべき方針を決めようと考えた。自分が危険な場所を歩いていることを知り、起こりうる結末を案じて気後れした。あまり激しく争い過ぎたら、夫は自分のもとを去るかもしれない。先妻リリアンを扱ったように自分を扱うかもしれない。


十三年前に最初の妻を捨てたように、すでに自分に見切りをつけたというのは確かだろうか、アントワネット・ノバクのような普通の娘と本当に仲良くなれるだろうか……半分怖かったがそれでも気丈に……迷い、迷い、迷いながらアイリーンはこのところ自分のご主人様のことを興味深く観察していた。夫にどう対処すればいいのかしら? 夫がまだ自分を愛してさえいれば、すべてはうまくいくだろうが……ああ! 


何週間も不安にさいなまれた末にアイリーンが最終的に依頼した興信所というものは、それが傷ついた感情や脅かされる利害関係の厄介な問題を解決する唯一の手段であるときに、多くの人が使うことを厭わない人間ならではの道具の一つだった。見るからに金持ちのアイリーンは、さっそく恥ずかしくなるほど法外な料金を吹っかけられたが、依頼内容はきちんと遂行された。数週間監視された後で、クーパーウッドは自分が疑惑を抱いていたアントワネット・ノバクだけではなく、ソールバーグ夫人とも関係している、との報告を受けてアイリーンは驚き、くやしがり、苦悩した。二つ情事が同時に進行していたとは。その瞬間、まさにアイリーンは唖然として息がつけなかった。


この時のアイリーンにとってソールバーグ夫人は、後にも先にもどんな女性よりも大きな存在だった。女性はあらゆる生き物の中で女性を最も恐れる。あらゆる女性の中でも最も賢く美しい者を恐れる。リタ・ソールバーグという人間はアイリーンの中で大きくなっていた。この一年の間に目に見えて成長を遂げていたし、そのせいか驚くほど美しくなっていた。とてもすてきな新しい軽二輪馬車に乗ったリタを通りで見かけたので、クーパーウッドに言ったところ、帰って来た答えはこうだった。「きっと親御さんが儲かっているだな。ソールバーグじゃそんなもの奥さんに買ってやれないさ」


アイリーンはハロルドの激しい気質には同情したが、クーパーウッドの言うことがもっともなのもわかっていた。


またあるときは劇場のボックス席で、ソールバーグ夫人の上品なドレスが細部に至るまで贅沢な作りなのに気がついた。淡いシルクには無数のひだがあり、針仕事は驚くほどすてきで、リボンは……数えきれないほどの量が、バラの形にしてあり、小さかった……誰かが精魂込めた印だった。


「なんて素敵なんでしょう」とまで言ったのだ。


「ええ」リタは澄まして答えた。「うちの仕立屋でもこればかりは無理だと思ったんですけどね」


全部で二百二十ドルかかったが、クーパーウッドは喜んでその請求額を支払った。


アイリーンはその時、リタのセンスと、実に上手に素材を自分の個性に調和させたものだと考えながら帰宅した。実にチャーミングだった。


しかし、自分を魅了したのと同じ魅力がクーパーウッドのことも魅了したとわかったとき、アイリーンはそれに対して腹立たしい動物的反感を覚えた。リタ・ソールバーグ! ふん! リタはやがて、クーパーウッドがアントワネット・ノバク……一介の速記係……と自分への愛情を共有していたことを知って、さぞ満足するだろう。アントワネットは……あの安っぽい成り上がりは……リタ・ソールバーグのためにアパートを借りたり、安いホテルや密会場所を使うくらい、クーパーウッドは軽い気持ちでしか自分を愛していなかったことを知って、さぞ満足するだろう。


しかし、こうしてすさんだ大喜びをしたにもかかわらず、思考は振り出しに、自分の窮地に戻ってきて、自分を苦しめ打ち砕いた。クーパーウッドの嘘つき! クーパーウッドの偽善者! クーパーウッドの卑怯者! よくもあれだけ否定できたものだと、すぐにこの男に一種の恐怖を覚えた。次に怒り……憎しみが膨らんだ。次に自分の立場が変わったことを哀れに思い知った。言うなれば、アイリーンのような女性からクーパーウッドのような男性の愛を奪うことは、魚を本来の環境から出すようなもので、陸に上がって干からびるとか、帆からすべての風を奪うようなもの……殺すも同然だった。クーパーウッドを通じて一度は得たと思った地位が、今や危うかった。フランク・アルガーノン・クーパーウッド夫人になって得た喜びも栄光も、今や色あせてしまった。この同じ日、探偵が報告書をよこした後で、アイリーンは自室で座り込んだ。目には疲労が見え、かわいい口もとには初めて見せたまとまった皺がより、頭の中では過去と未来が痛ましくぼんやり回っていた。突然立ち上がった。ドレッサーの上のクーパーウッドの写真の印象的な目が今なお自分を見つめているのを見て、それをつかんで床になげつけ、ハンサムな顔をかわいい足で踏みつけ、心の中で当り散らした。最低よ! けだもの! アイリーンの頭は、夫に抱きつくリタの白い腕と、リタに口づけする夫の唇のことでいっぱいだった。リタのふわふわのガウンや、魅惑的な装いがありありと目に浮かんだ。リタに渡してなるものか、夫に関わるものは一切渡さない。アントワネット・ノバクにしても同じことだ……哀れな成り上がり者、使用人のくせに。まさか会社の速記者にまで手を出すとは! そう思ったとたん、金輪際、女性をアシスタントにさせるものか、と決心した。あの卑怯者の夫のためにあれだけのことをしてきたのだから、自分のことを愛し、他の女性など放っておくのが義務なのだ。アイリーンの脳裏には奇妙な考えが渦巻いていた。今の彼女は正気ではなかった。この先、夫を失うと思うと居ても立っても居られず、無謀で無理な破壊的なことしか考えられなかった。大急ぎで慌ただしく身支度を終えると、馬車小屋から密閉型の馬車を出させて、ニューアーツビルに向かうよう言いつけた。向こうがクーパーウッドを誘惑して連れ去ろうがどうしようが、アイリーンは、このバラ色の猫みたいな女、この笑顔の無礼者、この毒婦に思い知らせるつもりだった。アイリーンは馬車の中で考え込んだ。かつてクーパーウッド夫人が自分にされたように、座して奪われるのを待つつもりはなかった。絶対に! クーパーウッドにはそんな扱いはできないのだ。その前に死んでやる! リタ・ソールバーグ、アントワネット・ノバク、クーパーウッドを殺して自殺するつもりだった。夫の愛を失うくらいなら、いっそそうやって死んだ方がましだ。それにこしたことはない! 幸い、リタ・ソールバーグはニューアーツビルにはおらず、ソールバーグも不在だった。パーティーに出かけていた。リタとクーパーウッドが時々密会していると探偵から報告を受けたジェイコブス名義のノースサイドのアパートにもいなかった。アイリーンは待つのは無駄だと思いながら、しばらくぐずぐずして、それから御者に命じて夫の事務所へ向かわせた。時刻はもうじき五時になろうとしていた。アントワネットもクーパーウッドも外出中だったが、アイリーンは知らなかった。しかし事務所に着く前に気が変わった……まず会いたいのはリタ・ソールバーグだった……御者にソールバーグ・スタジオへ戻るように命じた。しかし、まだ戻ってきてはいなかった。どうすれば最初にリタ・ソールバーグ独りに会えるかを考えながらやり場のない怒りをかかえて帰宅した。やがて相手の方から自分のところへのこのこやってきたものだからアイリーンは残忍に喜んだ。ソールバーグ夫妻は六時にミシガン・アベニューの外れのどこかのパーティーから帰宅する途中、ハロルドの希望でクーパーウッド夫人と時間を過ごそうとただ立ち寄っただけだった。リタは、淡いブルーとラベンダーを組み合わせたものに、銀のモールをあちこちにあしらった絶妙な衣装を着ていた。手袋と靴は現実離れした世界の刺激的な小物で、帽子は優美なラインをいくつも持つすばらしいものだった。まだ玄関ホールにいて自分でドアを開けたアイリーンはリタを見て逆上し、まさしく喉をつかんで殴りかかりたいところだったが、自分を抑えて「どうぞ」と言うにとどめた。怒りを抑えてドアを閉めるだけの分別と自制心がまだ残っていた。妻の横にはハロルドが無礼なほど気取って立っていた。おしゃれなフロックコートを着て流行のシルクハットをかぶっているのに様にならなかった。抑制効果はまだ続いていた。ハロルドは会釈して微笑んでいた。


この「おお」という音は「おお」でも「ああ」でもなくデンマークなまりの「おう」のようなもので、いつもなら耳ざわりではなかった。「改めて、ご機嫌いかがですか、クーパーウッドさん? 再びお目にかかれて嬉しい限りです」


「お二方とも、応接室にいらっしゃいません」ほとんどかすれた声でアイリーンは言った。「あたしもすぐに行きますから。何かほしいですものね」そしてあとから思いついたようにとても優しく声をかけた。「そうだわ、ソールバーグさん、ちょっとあたしの部屋まで来てくれませんか? あなたにお見せしたいものがあるのよ」


リタはすぐに反応した。リタはいつもアイリーンにとても親切に接することが自分の義務だと感じた。


「ほんの少ししかいられませんけど」お茶目に優しく答えて廊下に出た。「行きますわ」


アイリーンはリタが先に行くのを見とどけから、素早くしっかりと後を追って上の階にあがり、リタのあとから中に入ってドアを閉めた。純粋に動物的な絶望から生まれた勇気と怒りまかせに、振り返って鍵をかけ、それから素早く向き直った。目は荒々しい炎でぎらつき、頬は青ざめていたがやがて真っ赤に染まり、手と指は無意識に異様な動きをしていた。


「ねえ」リタを見て、素早く猛然と迫りながら言った。「あなたはあたしの夫を盗む気なんでしょ? 秘密のアパートで暮らすつもりよね? 笑顔であたしに嘘をつきにここへ来るのよね? このけだもの! 泥棒猫! 売春婦! もう化けの皮ははげたわ! あなたは亜麻色の髪をしたけだものよ! もう正体はわかったんだから! はっきりと思い知らせてやるわ! ほら、ほら、ほら!」


アイリーンは言ったそばから旋風と化し、獣ののように、殴るは、ひっかくは、首をしめるは、客の帽子を頭からむしり取るは、首のモールをもぎとるは、顔面を叩くは、髪や喉を激しくつかむはで、できることなら窒息させて美貌を台無しにしようとした。一瞬、怒りで本当におかしくなった。


この突然の猛攻に、リタ・ソールバーグは完全に後手を取らされた。迅速な凄まじい襲来だったので、嵐の前に何が起きていたのかほとんど気づいていなかった。議論も弁解も何をする暇もなかった。怖いやら、面目ないやら、困惑するやら、リタはこの電光石火の攻撃を受けてぐったりしてしまった。アイリーンが殴り始めたとき、リタは身を守ろうとしたが効果がなく、同時に家中に聞こえるほどの鋭い悲鳴を上げた。野生の瀕死の動物のような、異様な金切り声だった。瞬時に、品と教養を備えたすべての態度がリタから消え去った。歓待ムードの甘さと上品さから……丁寧で穏やかな物言い、気取った態度、思えばとても魅力的で、彼女の中で相手を惹きつけてやまない口の動き……が瞬時に剥げ落ちて、恐怖の中でその姿を見せる野生の獣状態になった。目には追い詰められた恐怖が宿り、唇と頬は青ざめて引きつった。リタはよろめきながら無様に後退した。怒って勢いづいたアイリーンがしっかり押さえつける中で悲鳴をあげながら、体をよじって、もだえた。


クーパーウッドが下の階の廊下に来たのは、悲鳴があがる直前だった。クーパーウッドはソールバーグ夫妻の直後に事務所から戻ってきた。たまたま応接室をちらっと見たところ、ソールバーグは、にこにこと、ご機嫌で、自己満足にひたって、社交と芸術に長けたへつらい屋のとらえどころのない雰囲気を醸し出していて、ボタンのかかった長い黒のフロックコートをさらりと着こなし、手にはまだシルクハットをもっていた。


「これはこれは、クーパーウッドさん、ご機嫌いかがですか」ソールバーグはカールした髪の頭を親しげに振りながら挨拶を始めた。「またお目にかかれて何よりです」すると、その時……しかしながら、恐怖の悲鳴を真似られる者はいるだろうか? これだけの恐怖と苦悶の音ともなると、きちんと表せる言葉も記号もありはしない。廊下、書斎、応接室、遠くのキッチン、地下室にさえ、凄まじい恐怖が響き渡った。


クーパーウッドは常に、神経質に考えるのとは対照的な行動の人だったので、一瞬で張り詰めたワイヤーのようにピンとなった。一体何事だろう? 何という絶叫だ! 芸術家のソールバーグは人生のさまざまな感情の色にカメレオンのように反応しながら、呼吸を荒らげ、青ざめ、自分を制御できなくなり始めた。


「何てことだ!」ソールバーグは両手をかざして叫んだ。「あれはリタだ! 二階の奥さまのお部屋にいるんです! 何かあったにちがいない。ああ……」とたんに我を忘れ、恐怖に震え上がり、ほとんど役に立たなかった。クーパーウッドはそれとは反対に、一瞬のためらいもなくコートを床に放り投げ、階段を駆けのぼった。ソールバーグは後に続いた。何事だろう? アイリーンはどこにいるんだ? 二階に駆けつける途中で、はっきりとした何か不吉な予感がした。気持ちが悪くなる恐ろしいものだった。立て続けに悲鳴がして、物音がした。「お願いよ! 殺さないで! 助けて! 助けて!」悲鳴があがった……この最後の一声は長くておぞましい耳をつんざく叫びだった。


ソールバーグは心臓発作でも起こして倒れんばかりだった。それほど怖がっていた。顔面が灰のように白かった。クーパーウッドは思いっきりドアノブを握って、施錠されているのに気づくと、ゆすって、ガタガタいわせて、ドアを叩いた。


「アイリーン!」と大声で叫んだ。「アイリーン! そこで何があったんだ? このドアを開けてくれ、アイリーン!」


「お願いよ! 助けて! 助けてってば! ああ、お願いしますー! ああ!」リタのうめき声だった。


「思い知らせてやる、この性悪女!」クーパーウッドはアイリーンが叫ぶのを聞いた。「教えてやるわ、このけだもの! 泥棒猫、売春婦! これでもか! これでもか! これでもか!」


「アイリーン!」クーパーウッドは声をからして叫んだ。「アイリーン!」何の反応もなく悲鳴が続くので、クーパーウッドは怒って振り返った。


「下がってくれ!」おろおろしてうめいているだけのソールバーグに叫んだ。「椅子をくれ、テーブルでも……何でもいいから持ってこい」執事が言いつけに従い駆け出したが、戻ってこないうちにクーパーウッドは道具を見つけていた。「これでいい!」階段の降り口にあった重厚な彫刻と重厚な鍛造の細長いオーク材の椅子をつかんで言った。大きく頭上にふりかざして、叩きつけた! 中の悲鳴よりも大きな音がした。


さらに一撃! 椅子はきしんで壊れかけたが、ドアはびくともしなかった。


もう一撃! 椅子が壊れてドアが開いた。クーパーウッドは鍵をぶち壊してアイリーンに飛びかかった。アイリーンは床の上のリタに馬乗りになって首をしめたり殴ったりして、リタを意識不明に追い込んでいた。クーパーウッドは猛然と組み付いた。


「アイリーン」クーパーウッドはしゃがれた耳障りな喉声で絶叫した。「こら! この馬鹿者……放すんだ! 一体どうしたんだ? どうするつもりなんだ? 正気を失ったのか?……きみは変だぞ、馬鹿!」


クーパーウッドはアイリーンの力強い手をつかんで引き離した。ひねったかと思えば、投げるようにして膝にのせあげて、つかんだ手を放させ、引きずるようにして後退した。アイリーンは正気とは思えない怒りようで、なおももがいて叫んでいた。「やっつけてやるんだから! やっつけてやる! 思い知らせてやる! あたしに抱きつくんじゃないわよ、このろくでなし! あなたにも思い知らせてやるんだから、このけだもの……ああ……」


「そっちの女を起こして」クーパーウッドはソールバーグと入ってきた執事にきっぱり言いつけた。「早いとこ連れ出すんだ! 家内がおかしくなった。さっさと連れ出すんだ、さあ! 家内の奴、自分のやってることがわかってないんだ。そっちは連れ出して医者にみせろ。まったく、この修羅場は何事だい?」


「ああ」ずたずたにされ、あまりの恐怖で意識がもうろうとして気を失いかけながら、リタはうめいた。


「あの女、殺してやる!」アイリーンは叫んだ。「あの女を殺す! あなたもよ、このろくでなし! ああ」……アイリーンは夫を叩き始めた……「他の女と浮気するとどうなるか教えてあげるわよ、このろくでなし! このけだもの!」


クーパーウッドはただアイリーンの手をつかんで、激しく力いっぱい揺さぶるだけだった。


「一体全体、どうしちゃったんだ、え、馬鹿なまねをして?」二人がリタを運び出すと、クーパーウッドはきつく言った。「何をする気だって……まったく、殺すだと? きみはここに警察を入れたいのか? わめきちらすのをやめておとなしくしろ、さもないとその口にハンカチを押し込むぞ! やめろって言ってんだ! やめろ! 聞いてるのか? いい加減にしろ、この馬鹿!」クーパーウッドはアイリーンの口に手を当て、強く押し付け、抵抗するアイリーンを力で抑え込んだ。怒って乱暴に揺さぶった。クーパーウッドはとても強かった。「さあ、自分からやめるか」クーパーウッドは言い放った。「それとも首をしめておとなしくさせられたいか? やめないのならやるからな。きみはどうかしているぞ。やめろって言ってるだろ! 自分の思いどおりにならないと、こんなやり方をするのか?」アイリーンは泣きじゃくり、もがき、うめき、半狂乱ですっかり自分を見失っていた。


「気の狂った馬鹿だな!」クーパーウッドは振り向かせて、顔を覆って口に詰め込んだハンカチを苦労して取り出しながら言った。「ほら」ほっとしたように言った。「さあ、おとなしくするかい?」鉄のようにしっかり抱え込んだまま、必要とあらば息をできなくする覚悟で、もがくまま振り向かせた。


制圧してしまうと今度は、相手をしっかりと抱きしめたまま、その横に片膝をついてかがみ込み、耳をすませて考え込んだ。確かに凄まじい情熱だ。クーパーウッドはいくつかの観点からアイリーンを責めることができなかった。怒りが大きいのはそれだけ愛情が大きいからだ。クーパーウッドはアイリーンの性格をよく知っていたので、この種のことを予期していた。それでも、この恐るべき事態の悲惨さ、不名誉、スキャンダルを思えば、いつものように落ち着いていられなかった。まさかこんな暴挙に出る者がいるとは! まさかアイリーンがこんなことをするとは! リタがこんなひどい目に遭わされるとは! リタが重傷を負い、命にかかわるほどで……殺される可能性さえ、無きにしもあらずだった。それを思うと身の毛がよだつ! 世間の怒りの嵐は避けられない! 裁判だ! 悲しみと怒りと死が一つ大爆発を起こしただけで一生が台無しだ! 神様のやることときたら! 


クーパーウッドは、リタを連れ出して急いで戻って来た執事を、うなずいて呼び寄せた。


「どんな具合だ?」必死に尋ねた。「重傷か?」


「めっそうもありません、旦那様。ただ気絶しているだけだと思います。じきに回復なさるでしょう。何かお手伝いできることはございますか、旦那様?」


いつもならクーパーウッドはこういう場面で微笑んでいただろう。今は冷静で真剣だった。


「今はいい」しっかりとアイリーンを抱いたまま、安堵のため息をついて答えた。「ここはいいからドアを閉めてくれ。医者を呼ぶんだ。廊下で待機して医者が来次第、声をかけてくれ」


リタに手当てが施され同情まで向けられているのに気づくと、アイリーンは起き上がって再び叫ぼうとしたが、できなかった。夫がなりふり構わず離さなかった。ドアが閉められると、クーパーウッドは再び言った。「さあ、アイリーン、おとなしくするかい? 起きて話をさせてくれないか、それとも我々は一晩中ここでこうしていないといけないのかな? きみは今夜限りで永遠に別れを告げられたいのかい? この件についてはすべてわかっているんだ。私はもう事態を掌握したし、掌握し続けるよ。きみは正気に帰って道理をわきまえるんだ、さもないと、ここにいるのと同じくらい確実に、明日お別れだからな」その声は説得力を持って響いた。「さあ、二人できちんと話し合うかい、それとも自分の醜態をさらして、私にまで恥をかかせて、家を汚し、自分共々私のことまで、使用人や、近所や、街中の笑いものにする気かい? 今日は大した見せ物を披露してくれたね。ご苦労さん! 実にいい見せ物だったよ! この家の中で取っ組み合いの喧嘩とはね! 私はね、きみにはもっと分別……もっと自尊心があると思ってたよ……まったく。きみはこのシカゴでの私の将来を本当に危険にさらしてしまったんだよ。一人の女性に重大な傷を負わせて殺しかねなかったんだ。それできみは絞首刑にされたかもしれなかったんだぞ。聞いてるのか?」


「じゃ、絞首刑にすればいい」アイリーンは苦悶の声をあげた。「あたし、死にたい」


クーパーウッドは口から手をどけて、両腕をつかんでいた手をゆるめて、立ち上がらせた。アイリーンは相変わらず猛然と、衝動的に、クーパーウッドを責めようとしていた。しかし、いったん立ってしまうと、無表情な目で、冷たく威圧的に自分を見つめる相手と対峙した。クーパーウッドは今、アイリーンが見たことがない表情を顔に浮かべていた……険しく、冷徹な、燃え盛る炎で、それは商売敵以外は誰も、その連中だってそういう機会がなければ目にしないものだった。


「もうよせ」クーパーウッドは叫んだ。「それ以上言うな! 一言もだ! 聞いてるのか?」


アイリーンは動揺し、くじけ、あきらめた。風がやめば海が静かになるように、荒れに荒れた魂の激しい興奮はすべて収まった。アイリーンはもう一度叫ぶ言葉を、胸に秘め、口に含んでいた。「このひとでなし! この野蛮人!」その他にあまたの無益な罵詈雑言があったのに、どういうわけか、クーパーウッドの目力と心の冷たさに押しつぶされて、口まで出た言葉が消えてしまった。アイリーンはしばらく夫を自信なげに見た。それから振り返って近くのベッドに身を投げ、頬と口と目を押さえて、悲しみにもだえて前後に揺れながら、すすり泣きを始めた。


「お願いよ! 神さま! こんなおもいをするなんて! こんな人生なんて! 死んでしまいたい! 死にたい!」


その場に立ってアイリーンを見ているうちに、アイリーンの魂が傷つき、心が傷ついたのが急にひしひしと伝わってきて、クーパーウッドは揺らいだ。


「アイリーン」少ししてから、近づいて、とても優しく触れながら声をかけた。「アイリーン! そう泣くなよ。まだ見捨てていないだろ。きみの人生は全然台無しになってないんだから。泣かないで。ひどいことになってしまったが、別に手立てがないわけじゃない。さあ、しっかりするんだ、アイリーン!」


答える代わりにアイリーンはただ動揺してうめき声をあげた。どうにもならないし、どうすることもできなかった。


もう一方の状況が心配になって、クーパーウッドはその場をあとにして廊下に出た。医者と使用人の手前を何とか取り繕わねばならなかった。リタの世話をして、ソールバーグにも何かそれなりの説明をしないといけなかった。


「おい」クーパーウッドは通りかかった使用人に声をかけた。「そのドアを閉めて見張っているんだ。もしクーパーウッド夫人が出てきたら、すぐ私に知らせるんだ」





第十九章


「地獄に怒りなし……」



リタは別に死んではいなかった……ひどい打撲とひっかき傷を負い、窒息させられただけだった。頭皮が一か所切れていた。アイリーンはリタの頭を繰り返し床に打ちつけた。もしクーパーウッドがすぐ中に入っていなかったら、深刻な結果になっていたかもしれない。ソールバーグは一瞬……実際には、しばらく……アイリーンが本当に正気を失って突然発狂した、そしてアイリーンが言うのを聞いたあの恥知らずな非難は錯乱した頭が発したものに過ぎない、と思っていた。それでもやはり、アイリーンが言ったことが頭から離れなかった。自分もひどい状態だった……医者にかかってもおかしくなかった。唇は青く、頬には血の気がなかった。リタは隣の寝室に運び込まれて、ベッドに寝かされていた。冷水、軟膏、アルニカの瓶が出されていた。クーパーウッドが現れたときには、意識が戻り、いくらか改善していた。しかし、まだ弱ったままで心身両面で傷がうずいていた。医者は到着の際に、客のご婦人が階段で転倒したと告げられていた。クーパーウッドが入室したとき医者は傷の手当ての最中だった。


医者がいなくなるとクーパーウッドは付き添いのメイドに言った。「お湯をもってきてくれ」メイドがいなくなると、かがみ込んでリタの傷ついた唇にキスをして、警告の合図に自分の口に指をあてた。


「リタ」優しく尋ねた。「意識ははっきりしている?」


リタは弱々しくうなずいた。


「いいかい」かがみこんで、ゆっくりとした口調で言った。「よおく聞くんだ。私の話をしっかりと聞いてくれ。一言一句理解して、言ったとおりにしないといけないよ。傷は大したことない。きみはもとどおりになるよ。この件は収まる。スタジオには別の医者を行かせるよう手配した。きみのご主人は着替えをとりに行った。じきに戻って来るよ。もう少し回復したら馬車が家まで送り届けるからね。きみは心配いらないんだ。何もかもうまくいく。でもすべてを否定しなくちゃいけないよ、聞いてる? 何もかもだ! わかってるだろうけど、家内の奴は正気じゃない。ご主人には、明日、私から話す。きみにはベテランの看護婦をつける。その一方で、自分の発言や言い方には用心しないといけないよ。完全に冷静でいないとね。心配しちゃ駄目だ。ここにいれば大丈夫だし、じきに帰れるからね。これ以上家内がきみに迷惑をかけることはない。私がそう取り計らうから。本当にすまなかったね。でも愛してるよ。私はずっときみのそばにいる。こんなことでくじけちゃ駄目だ。もう家内がきみに会うことはないからね」


しかし、そうならないことはわかっていた。


リタの容態を見て安心したクーパーウッドは改めて弁解しに……できればなだめに……アイリーンの部屋に戻った。アイリーンは起き出して服をきていた。新しい考えと決意を抱いていた。ベッドに突っ伏してすすり泣き、うめき声をあげていたら、徐々に気分が変化した。夫を支配することができず、きちんと謝らせることもできないのなら、別れた方がいいと判断するようになった。リタを守りたい思いがあまりにも強く見えたので、そして自分を抑え込んだときの手荒さがあまりにも目に余ったので、夫がもう自分を愛していないのは明白だと考えた。それでもアイリーンはこれが真実だと信じたくなかった。クーパーウッドは過去、自分にとってとても素晴らしい相手だったからだ。アイリーンは夫や他の女性たちに勝つ望みを完全に捨てたわけではなかった……夫を愛し過ぎていた……しかし別れないことには、それが実現することはないだろう。そうすれば夫は正気に帰るかもしれない。アイリーンは起きて身支度をして、市内のホテルへ行くつもりだった。夫が追いかけてこなかったら、もう会うべきではなかった。さしあたってとにかく、リタ・ソールバーグと絶交したことに満足だった。アントワネット・ノバクについては後回しにするつもりだった。頭も心も痛んだ。悲しみと怒りとが満ち溢れて交互に入れ替わるものだから、もうこれ以上は泣けなかった。鏡の前に立って、震える指で化粧を済ませて、外出着を整えようとしていた。クーパーウッドはこの予想外の光景に動揺し困惑した。


「アイリーン」ようやく背後に近づいて言った。「きみも私ももうこの問題を穏やかに話し合えるんじゃないか? きみだって自分が後悔するような真似をしたくはないだろう。考え直してほしい。ごめんよ。まさか、私がきみを愛すのをやめたと思ってやしないよね? そんなことはないからね。こういうことは見かけほどひどくないんだ。二人でずっと一緒にやってきたんだから、少しくらいわかってくれたっていいだろう。こんな突拍子もないことをするにしたって、何の確たる証拠ももってないのだろう」


「あら、もってないとでも?」悲しみと辛さを味わいながら、赤みがかった金髪をとかしていた鏡に背を向けてアイリーンは叫んだ。頬は紅潮し、目は真っ赤だった。この時ばかりは、十六歳の少女が赤いマントを着てフィラデルフィアの父親の家のステップを駆け上がるのを見た何年も前の最初の日のように、クーパーウッドにはアイリーンが目を見張らずにいられない存在に見えた。このときアイリーンはとてもすばらしかった。これが彼女に対する彼の気持ちをなごませた。


「所詮あなたの知識なんてそんなものよ、この嘘つき!」アイリーンは言い放った。「あたしが何を知ってるか、どうせあなたは知らないでしょ。数週間あなたの跡をつけて何の成果も出せないような探偵は使ってませんから。こそこそしちゃって! 今度は猫かぶって近づいて、私が何を知ってるのかさぐりたいんでしょ。まあ、ちゃんとわかってる、ってことは言わせてもらうわ。リタ・ソールバーグ、アントワネット・ノバク、アパート、密会場所のことでは、もうあたしをごまかせないわよ。あなたがどういう人なのかがわかったわ、このけだもの! あれだけ愛してると言っておきながら! ふん!」


クーパーウッドがその情熱にほだされ、その実行力に感動して見ているのに、アイリーンはぷいっと背を向けて自分の仕事にかかった。アイリーンがどれほど見応えのある獣であるか……多くの点で自分にとって本当に価値あるものであるか……がわかったのはよかった。


「アイリーン」クーパーウッドは少しずつでも機嫌をとり戻したかったから優しく言った。「頼むからそうつれなくしないでほしい。きみは人生の仕組みってものを理解していないのか……思いやりってものがないのかい? きみはもっと心の広い優しい人だと思っていたのにな。私はそんなに悪くないだろう」


クーパーウッドは自分に対するアイリーンの愛情を利用して、アイリーンの気を変えたいと期待しながら、思いをこめて優しく見つめた。


「思いやりですって! 思いやり!」アイリーンは激怒して向き直った。「思いやりならいくらでも心当たりがあるでしょ! あなたがフィラデルフィアの刑務所にいたとき、あたしは散々思いやりを持って接しませんでしたっけ? あたしの方はいいことがたくさんあったんでしたっけ? 思いやりですって! ふん! シカゴまで来て、随分あなたは売春婦と仲良くなったわね……安っぽい速記係だの音楽家の奥さんだの! あなたはたっぷりあたしを思いやってくれたわけね?……その証拠が隣の部屋で寝ているあの女だわ!」


アイリーンは帽子をかぶって襟巻きを整える前に、しなやかなウエストの皺をのばして肩を揺らした。アイリーンはそのまま出かけて、持ち物はすべてファデットに取りに戻らせるつもりだった。


「アイリーン」クーパーウッドは手玉に取ってやろうと決めて言った。「きみはとても愚かだぞ。本当にそう思うよ。こんなことはあってはいけないんだ……絶対に。ここできみは声を張り上げてわめき、近所中に恥をさらし、喧嘩をして、家を出て行こうとしている。言語道断だ。私はきみにそんなことはしてほしくないんだ。きみは私のことをまだ愛しているんだろ? そうなのはわかっている。きみの言うことのすべてが本心でないことくらいわかってるよ。きみらしくもないからね。まさか、私がきみを愛するのをやめたと、本気で信じてはいないよね、アイリーン?」


「愛ですって!」アイリーンは口火を切った。「愛に詳しいのね! これまで誰彼構わず愛してきたんですものね、このけだもの! あなたの愛がどういうものなのか、あたし、知ってるわ。昔はあたしのことも愛していたと思うから。ふん! あなたがあたしをどういうふうに愛していたのかわかったわ……あなたが他の五十人の女を愛したのと同じようによ。隣の部屋のリタ・ソールバーグを愛したように……あの猫を!……あの汚いけだものをよ!……アントワネット・ノバクを愛したように!……けちな速記係をよ! ふん! あなたには、その言葉が意味するものがわかんないんだわ」そして、その声はすすり泣きへと変わり、目は涙でいっぱいになり、熱く、腹立たしく、痛くなった。クーパーウッドはそれを見て、何らかの形で利用できないか考えた。今ではすっかり後悔していた……アイリーンが改めて自分に優しい気持ちを向けてくればいいと思った。


「アイリーン」クーパーウッドは訴えた。「頼むから、そうつれなくしないでほしい。そんなに邪険にしないでくれ。私はそんなに悪くない。もっと理性的になれないか?」クーパーウッドはなだめようと手を伸ばしたが、アイリーンは飛びのいた。


「あたしにさわらないでよ、このけだもの!」アイリーンは怒って叫んだ。「あたしに手をかけないで。あなたにはそばに来てほしくないのよ。あなたと暮らす気はありません。あなたやあなたの愛人なんかと同じ家にいる気はないわ。あなたがそうしたければノースサイドへ行って愛しのリタと暮らしなさいよ。あたしは構わないから。どうせ隣の部屋であの女……けだもの……を慰めていたんでしょ! あんな女、殺しておけばよかった……ああ、神さま!」アイリーンはボタンを調整しようとして、激しい怒りのせいで喉をひっかいてしまった。


クーパーウッドは文字どおり驚いた。これほどの爆発は見たことがなかった。まさかアイリーンにそんなことができるとは考えなかった。感心せずにはいられなかった。それでも、リタと自分の乱行を攻撃した残忍なやり方には腹が立った。この気持ちが最後の不適切な言葉に出てしまった。


「私がきみだったら、愛人にあんなひどい仕打ちはしないぞ、アイリーン」クーパーウッドはねだるような調子で言ってしまった。「自分だってそうだったんだから……」


すぐに自分が重大なミスを犯していることに気がついて口ごもった。この愛人としての過去に言及したのは致命的だった。その瞬間アイリーンは背筋を伸ばした。目には辛さがあふれていた。「それがあたしに向かって言う言葉かしら?」アイリーンは尋ねた。「そんなことわかってるわよ! わかってるのよ! 因果応報よね!」


銀器、宝石箱、ブラシ、櫛が積まれた胸の高さの長い整理だんすの方を向いて両腕をつくと、その上に頭をのせて泣き出した。タガが外れてしまった。彼女の少女時代の掟破りな愛情を攻撃の材料にして投げつけてしまった。


「ああ!」アイリーンは涙にむせび、どうしようもない哀れな気持ちになって発作的に震えた。クーパーウッドはすばやく近寄った。動転し悲痛な気持ちで「そんなつもりじゃなかったんだ、アイリーン」と説明した。「そういう意味じゃないんだよ……全然。むしろきみが私に言わせたんだ。でもね、私は非難のつもりで言ったんじゃない。きみは私の愛人だった。だからといってそれを理由に、きみを愛する気持ちが小さくなることはなかった……むしろ大きくなったさ。そうだったのは知ってるね。そのことは信じてほしい。本当なんだから。他の人の問題は私にとって大したことじゃないんだ……現に……」


アイリーンが自分を避けて離れるのを仕方なく見送ったクーパーウッドは、動転し、途方に暮れ、激しく後悔した。クーパーウッドが再び部屋の中央まで来るうちに、アイリーンの感情は激変した。さらに怒りの方向にだけ動いた。これはあまりも大きかった。


「これがあたしに対するあなたの言葉なのね」アイリーンは叫んだ。「あたしは散々あなたに尽くしたというのに! あなたが二年近く刑務所にいたとき、あなたを待ち、あなたのために泣いたこのあたしに向かってこんなことを言うのね? 愛人! それがあたしの報いなのね? ああ!」


ふと宝石箱が目についた。フィラデルフィア、パリ、ローマ、ここシカゴでクーパーウッドがくれた贈り物すべてに腹が立ち、いきなり蓋を放り投げて、中身を両手でつかんで、クーパーウッドの方に投げ始めた……実際には顔面に投げつけた。クーパーウッドが愛情をこめてアイリーンに贈った安物の装飾品が、数回わしづかみにされて飛んだ。翡翠のネックレスと、白い象牙の留め具がついていて、金糸で固定してある淡いアップルグリーンのブレスレット。夕陽に照らされるとほのかな真珠色に輝く粒も色もそろった真珠のネックレス。ダイヤモンド、ルビー、オパール、アメジストなどの指輪やブローチひとつかみ分。エメラルドの犬の首輪、ダイヤモンドの髪飾り。アイリーンは興奮してそれらを床に投げ散らかして、クーパーウッドの首や顔や手を叩いた。「受け取んなさいよ! それも! それも! ほら、どうぞ! もうあなたのものなんか何もいらないわ。もうあなたと関わりがあるものは何もいらないのよ。あなたの物なんか何もいりません。ありがたいことに、自分の生活費はちゃんとありますから! あなたなんか大嫌いよ……軽蔑するわ……もうこれ以上顔も見たくない。ええと……」もっと考えようとしたが思いつかなかった。アイリーンはさっさと廊下に出て階段を駆け下りた。クーパーウッドはいっとき圧倒されて立ち尽くした。それから急いであとを追った。


「アイリーン!」と叫んだ。「アイリーン、戻って来い! 行くんじゃない、アイリーン!」しかしアイリーンは早足になっただけだった。ドアを開けて閉め、暗闇の中へ出て行った。目は濡れ、心臓は破裂しそうだった。これが、とても美しく始まったあの青春の夢の結末だった。自分は他の連中と変わらなかった……彼の愛人の一人に過ぎなかった。他の者への言い訳に、自分の過去が投げつけられるとは! 他の連中と変わらないと言われるとは! そろそろ我慢の限界だった。二度と戻らない、二度と会わないと誓って歩く間、アイリーンは喉をつまらせて、むせび泣いた。しかしアイリーンがそうしているうちに、クーパーウッドがあとを追いかけてやって来た。自分と同じ掟知らずなんだ、これですべてを終わりにすべきではない、とすぐに腹は決まった。思えば、アイリーンは自分を愛してくれたのだ。愛の祭壇に、情熱と愛情をことごとく進物に捧げたのだ。確かにこれは公平ではなかった。アイリーンには、いてもらわなければならなかった。十一月の真っ暗な木立ちのもとまで来てクーパーウッドはよくやくアイリーンに追いついた。


「アイリーン」つかまえて腰に腕をまわしながら言った。「最愛のアイリーン、これは明らかにおかしいよ。愚行だ。きみは正気じゃないんだ。行くなよ! 私をおいていかないでくれ! 愛してる! それがわからないのか? 本当にわからなくなったのか? こんな風に逃げ出さないでくれ。さあ泣かないで。愛してるんだ。きみにはわかるよね。いつだってそうだ。さあ、戻っておいで。キスしてくれ。改心するよ。本当だ。もう一度チャンスをくれないか。見ていてほしいんだ。おいで……うん? 私のお嬢さん、私のアイリーン。行こう。さあ!」


アイリーンは息を吸い込んだ。クーパーウッドは離さないまま、腕や首や顔をなでた。


「アイリーン!」と頼み込んだ。


アイリーンが引っ張るので、クーパーウッドは最終的に両腕の中に抱きかかえざるを得なくなった。アイリーンは泣きながら悩んで立っていたが、ある意味では再び幸せだった。


「でも、あたし嫌」アイリーンは抵抗した。「あなたはもうあたしを愛してないんだもの。行かせてちょうだい」


しかし、クーパーウッドはアイリーンを抱いたまま説得を続けた。ようやくアイリーンは昔のようにクーパーウッドの肩に頭を乗せて言った。「今夜は連れ戻さないで。帰りたくない。無理だわ。街へ行かせてよ。いずれ帰るかもしれないけど」


「じゃ、一緒に行くよ」クーパーウッドは愛情込めて言った。「このままじゃよくないからね。この騒ぎを鎮めるためにやることはたくさんあるんだけど、行くよ」


そして、二人は一緒に路面鉄道をさがした。





第二十章


「凡人と超人」



ちゃんとした化学作用での結びつきを除くすべてのことで悲しいことを言うと、こういう咲くことは多くても悲劇的な結末にしかならないあのどす黒く赤い花は、自分たちを襲う不幸の嵐には耐えられない。リタ・ソールバーグのような女は、クーパーウッドに思いを募らせているように見えても、まだそれほど相手の虜になったわけではなかった。こうして自分のプライドが傷つけられてはっきりと目が覚めた。ずさんな計画の中に示されていなかったとしても、こうしてさらしものになるという押しつぶされそうな重圧や、つきものである高笑いや、こうした惨事につながる可能性をすべて事前に考慮しなかった失態は、到底リタには耐えられなかった。クーパーウッド夫人の術中にはまって見せ物と物笑いの種にされた、あの浮かれただらけぶりを考えると、自棄を起こすか発狂に追い込まれるくらい苦痛だった。何って野蛮なの……悪魔だわ! この状況で体が弱ったのは、リタにとって不幸ではなかった……むしろ優れた気質にとっては救いだった。しかし同時にリタはひどく打ちのめされた。美しさが見られたものではない見せ物と化したのだ。それで十分だった。この晩、収容されたレイクショア療養所で、リタの思いは一つしかなかった……すべてが終わって、疲れた頭脳を休めたら、抜け出そう。リタはもうソールバーグに会いたくなかったし、クーパーウッドにだってこれ以上会いたくなかった。すでにハロルドは疑念を抱き、真相を突き止めようと決心し、アイリーンが攻撃するなんて変だ……ありそうな理由を……リタに問いただし始めていた。クーパーウッドが説明すると、ソールバーグの態度は多少改まった。疑惑がどうであれ、まだこの非凡な男と争う準備ができてはいなかった。


「このたびはご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」颯爽と自信に満ちた態度で入って来るとクーパーウッドは言った。「家内があんな変に不安定になったことは、これまでありませんでした。私が帰宅して対処できたのがせめてもの救いです。お二人に対し、できることはすべてやらせていただきます。ソールバーグ夫人、あなたが大事に至らないことを心からお祈りいたします。もし私にできることがありましたら……何でも、お二人のどちらでもおっしゃってください」……クーパーウッドは心配して気遣うようにソールバーグを見た……「よろこんでやらせていただきます。ソールバーグ夫人にしばらく静養をとらせてさしあげるのはいかがでしょう? 奥さんの治療費はすべて私が支払います」


ソールバーグは、思い悩み、ふさぎ込み、反応しないまま、煮え切らないでいた。リタはクーパーウッドが来て元気づけられたが、全面的に安心したわけではなく、疑問をかかえて動揺していた。リタはこの関係が修羅場に発展するのを心配した。具合はよくなったし、もう大丈夫……帰らなくてもいいけど、ひとりでいたい、と言った。


「実に変だ」しばらくしてソールバーグは、ぶすっとして言った。「ぼくにはわかんないな! さっぱりわかんない。奥さんはなぜあんなことしたんです? なぜあんなことを言ったんです? 今までここでずっと最高に仲良くやってきたのに。それがいきなりぼくの妻に襲いかかって、あんな変なことを言ったんですよ」


「先ほども申し上げましたが、ソールバーグさん、うちの家内は正気ではなかったんです。あの夜のように暴力をふるったことはありませんが、過去にもああいう症状になったことがあります。すでに正常な状態に戻りました。でも覚えていないんです。ですが、もし今この問題を話し合おうというのであれば、廊下に出た方がいいですね。奥さんはできるだけ安静が必要ですから」


外に出たとたん、クーパーウッドは見事に開き直った態度で続けた。「さて、ソールバーグさん、どう言えばいいでしょう? あなたの要望は何ですか? うちの家内は、あなたの奥さんにこれ以上ないほどひどく恥ずかしい思いをさせて怪我までさせたばかりか、いろいろな根拠のない言いがかりまでつけました。重ね重ね、お詫びの申し上げようがありません。家内は大きな思い違いをしているんですよ。私が見たところ、この問題はすべてここで終わりにする以外に、何もすることも、何も言うこともありません。賛同してくれませんか?」


ハロルドはつらい立場で精神的にもがき苦しんでいた。自分の立場が大したものでないことは承知していた。浮気のことでリタが何度も責めていた。ハロルドはすぐにいい気になって怒鳴り始めた。


「あなたはそれでいいでしょうけど、クーパーウッドさん」反抗的に言った。「ぼくはどうなんです? ぼくの立場はどうなるんですか? まだ考えがまとまらないんです。これってとても変ですよ。あなたの奥さんの言うことが事実だったら? ぼくの妻が誰かと浮気してるとしたら? そこんところを知りたいんです。妻に男がいるとしたら! ぼくの考えているとおりなら、ぼくは……ぼくは……どうしたらいいかわからない。ぼくは至って乱暴者ですからね」


世間体をはばかっていたのでクーパーウッドは笑顔も同然だった。ソールバーグの腕っ節など全然怖くなかった。


「いいですか」クーパーウッドは音楽家を鋭く見てここは強気で行くことにして突然叫んだ。「立ち止まって考えてごらんなさい、あなただって私と同じ微妙な状況にいるんです。この件が公になったら、私と家内ばかりかあなたたち夫婦まで巻き添えになるんですよ。私の思い違いでなければ、あなた御自身の件だってあまりいい形にならないと思います。自分が黒なのを棚に上げて妻を黒にはできませんから……それは避けられませんよ。我々は誰も完全無欠ではありませんからね。私の方は心神喪失を証明せざるを得ませんが、これは簡単にできます。もしあなたの過去にそうあるべきだったのに必ずしもそうでないものが何かあったら、それはずっと隠しておけませんよ。あなたがこの件を水に流すのなら、私はあなた方二人にいい条件を出しましょう。しかしあなたが事を荒立てて、この問題を白日の下にさらすことを選ぶのなら、私は自分を守るために手段を選ばず、できるだけこの問題でいい目が出るようにしますからね」


「何だって!」ソールバーグは叫んだ。「ぼくを脅す気ですか? あなたがぼくの妻と浮気してるとあなたの奥さんが言ってるのに、ぼくを脅そうっていうんですか? ぼくの過去についてあなたが話すんですか! いいですね。へん! そいつを一緒に確認しましょうよ! あなたがぼくの何を知ってるっていうんです?」


「それはね、ソールバーグさん」クーパーウッドは穏やかに言った。「たとえば、あなたの奥さんが長いことあなたを愛さずにいることや、あなたが年金生活者のように奥さんを頼って生活していることや、あなたが六、七人の女性とそのくらいの年数浮気をしてきたこと、などですね。何か月も、私はあなたの奥さんの投資の相談役をしてきました。その時に探偵を使ってアンナ・ステルマク、ジェシー・ラスカ、バーサ・リース、ジョージア・デュ・コインのことを知りました……もっと言う必要がありますか? 実は、あなたの手紙もかなり入手しています」


「ああ、そういうことか!」ソールバーグは叫んだ。クーパーウッドはしっかりと相手を見すえた。「あなたはずっとぼくの妻と浮気してたんだな? じゃ、本当だったんだな。見事なものだ! ここに脅しに来て、こんな嘘をぼくに押し付けようっていうんだな。へん! それについては今にわかるでしょう。ぼくに何ができるか確認しますよ。まず弁護士に相談するから待っててください。それからですよ!」


クーパーウッドは、冷ややかに、忌々しそうに相手を値踏みした。「何て馬鹿だ!」と思った。


「いいですか」と言って、ひと目があるから下のホールへ降りようとソールバーグを促し、それから療養所前の通りに出た。そこでは二つのガス灯が暗闇の中で風に吹かれて不規則に揺れていた。「あなたが事を荒立てる気なのがはっきりとわかりました。これは何でもないんだと保証したのに……私が自分でそう言ったのに、それでは足らないんですね。続行すると言うんですね。それならいいでしょう。あくまで仮定の話ですが、クーパーウッド夫人は異常をきたしておらず、その発言は一言一句真実であり、私があなたの奥さんと浮気をしていたとしましょう? それだとどうなんですか? 何をするつもりなんですか?」


ソールバーグが激発する一方で、クーパーウッドは臆面もなく、斜に構えて相手を見た。


「ええい!」ソールバーグはメロドラマのような叫びをあげた。「じゃあ、殺してやる、それで決着をつけてやる。女もろともな。目にもの見せてやる。これが真相だとわかればな。見てるがいい!」


「なるほど」クーパーウッドは険しい顔をして答えた。「思ったとおりだ。あなたならそう来ると思った。だから、あなたの望みにぴったりのものをあなたに用意してきたんです」クーパーウッドはコートの中に手を入れて小型拳銃を二丁取り出した。まさにこのために自宅の引き出しから持ってきたものだった。それが暗闇で光った。「これが見えますか?」クーパーウッドは続けた。「これ以上の調査をする手間をはぶいてあげますよ、ソールバーグさん。今夜クーパーウッド夫人が言ったことはすべて事実です……これが私とあなたにとってどういう意味があるのか十分理解した上で私は言っています。家内は私と同様、狂ってなどいません。あなたには証明できないことだが、あなたの奥さんは何か月もノースサイドのアパートで私と暮らしてたんです。奥さんが愛しているのは、あなたではなく私だ。私を殺したければ、ここに銃がある」クーパーウッドは手を伸ばした。「選びたまえ。私が死ぬのなら、あなたも一緒に死んだ方がいい」


クーパーウッドがとても冷静に毅然と言ったので、もともと臆病者で、他の健康な動物と同じように死にたくないソールバーグは青ざめた。冷たい鋼鉄を見た効果は絶大だった。銃を押し付けた手は、無情で迷いがなかった。ソールバーグは一丁つかんだものの、指がふるえた。耳にした無情な金属音は、ソールバーグが持つわずかな勇気をむしばみつつあった。今やクーパーウッドは危険な男になっていた……悪魔の特徴を持っていた。ソールバーグは死ぬほど怯えて背を向けた。


「なんてことだ!」木の葉のようにふるえて叫んだ。「ぼくを殺したいんですか? あなたとはかかわりたくない! 話す気もない! 弁護士に相談します。まずは妻と話してからだ」


「そうはいかない」ソールバーグが振り返って行こうとするのをさえぎって、腕をしっかりつかみながらクーパーウッドは答えた。「そんなことはさせませんよ。あなたに私を殺す気がないなら、私だってあなたを殺しませんよ。でも一度は話を聞いてもらうつもりです。実は他にも言わなくてはならないことがあるんです。そしたら終わります。あなたにとって損な話ではありませんよ。少しは気になりますから、あなたの役に立ちたいんです。そもそも、家内の非難はでたらめですよ。事実じゃありません。今私が言ったことだって、あなたが本気かどうか確認するために言っただけです。あなたはもう奥さんを愛していません。奥さんもあなたを愛していない。奥さんにとってあなたは何の価値もない。そこであなたにとても都合のいい提案があります。もしあなたがシカゴを出て行って三年以上もどらなければ、毎年一月一日に五千ドルがあなたに支払われるようにしましょう……即金で五千ドルです! どうです? あるいは、このシカゴにとどまり黙っているだけでもいい。それで三千ドルです……毎月でも毎年でもお好きなように。ですがね……これだけは覚えておいてほしい……もし町を出て行かない、口も閉ざない、一度でも私に敵対して軽率な行動をとったら、殺しますよ。見つけ次第殺します。まあ、私としては、あなたにはここから出ていってもらって、おとなしくしていてほしいですね。奥さんのことは放っておいてです。一両日中に私のところへ来てください……お金はいつでも準備しておきます」クーパーウッドは話をやめた。ソールバーグはじっと見つめた……目を丸くして、うつろだった。これは人生で最も驚いた体験だった。この男は悪魔なのか王子様なのか、それともその両方なのか。「神さま!」ソールバーグは思った。「この人ならそれくらいのこともやるだろう。本気でぼくを殺すだろう」それから、驚きの代案……一年につき五千ドル……が頭に浮かんだ。まあ、いいか? ソールバーグの沈黙が承諾を伝えた。


「私があなたなら、今夜はもう二階には行かないな」クーパーウッドは厳しく続けた。「邪魔をしない方がいい。休養が必要ですからね。街に出て、明日私に会いに来てください……もし帰るのなら、ご一緒しますよ。私はあなたに言ったことをソールバーグ夫人にもお話ししたい。でも、私が話したことを忘れないように」


「はあ、どうも」ソールバーグは弱々しく答えた。「ぼくは街へ出てみます。おやすみなさい」そしてソールバーグは急いで立ち去った。


「気の毒なことをした」クーパーウッドは言い訳がましく独り言を言った。「やりすぎだが、こうするしかなかったんだ」





第二十一章


トンネル問題



手荒くはあったが、ソールバーグの問題はこうしてあっさり解決し、クーパーウッドはソールバーグ夫人に目を向けた。しかし、やることはあまりなかった。アイリーンとソールバーグを完全に抑え込んだこと、ソールバーグはもう事を荒立てないこと、手当を出すつもりでいること、アイリーンは永久におとなしくなりそうなこと、を説明した。クーパーウッドはリタに最大の気遣いを見せたのに、リタはもうこの騒動にうんざりしていた。確かにリタはクーパーウッドを愛していたが、アイリーンの怒りを通じて違う立場から相手を見てしまい、逃げ出したくなった。確かに彼のお金は豊富だった。それはある女性にとっては重要だったかもしれないが、リタにはそれほどではなかった。あれば贅沢ができるというだけで、いざとなったらリタは贅沢しなくても生きていけた。おそらくリタにとってのクーパーウッドの魅力は、彼を取り囲んでいるように見えた完全な安心感……ロマンスのキラキラ光る泡……でほとんどができていた。それが一度の凶暴な攻撃ではじけてしまった。同じ嵐や同じ難破の危険にさらされる点では彼も他の男性と同じだと見られた。ほどんどの船員よりましなだけだった。リタは徐々に回復して、故郷へ、ヨーロッパへ旅立った。これは話すと長くなるので詳しくは語れない。ソールバーグは散々考えて息巻いた末に、結局クーパーウッドの申し出を受け入れてデンマークへ帰った。数日喧嘩して、その中でクーパーウッドがアントワネット・ノバクと手を切ることに同意すると、アイリーンは帰宅した。


クーパーウッドはこんなひどい決着を決して喜んではいなかった。クーパーウッドの判断ではアイリーンは自分の魅力を高めてはいなかったが、不思議なことに、彼はアイリーンに冷淡ではなかった。一時期リタの方が自分の妻としてはるかにふさわしいタイプだという気持ちが強くなったことはあったが、それでもアイリーンを捨てたいとは思わなかった。しかし手に入れられなかったものは、手に入れられなかった。クーパーウッドは気を取り直して自分の仕事に専念した。しかし、リタと一緒にいたときや、リタを抱いて新しい詩的な角度から人生を見たあの輝かしい時間を何度も振り返った。リタはとても魅力的で、とても素朴だった……しかし自分に何ができただろう?  

 


その後数年間、クーパーウッドはシカゴの路面鉄道の状況を把握するのに忙しく、関心は高まる一方だった。リタ・ソールバーグのことをあれこれ考えても無駄なのはわかっていた……リタは戻ってくるつもりはなかった……クーパーウッドにはどうすることもできなかった。しかし一生懸命働くことはできた。それが大事なのだ。路面鉄道の仕事が天職であり好きなのは、ずっと前からわかっていた。それが今、クーパーウッドに休みを与えなかった。車両の鈴の音と単調な馬の足音が体の一部なんだ、と彼のことを言う人が確かにいたかもしれない。街を移動するときクーパーウッドは、まるで飢えた人の目で、鈴を鳴らす車両が走るこの拡張中の線路を見ていた。シカゴは急速に発展していた。特定の通りの小さな馬車鉄道は朝も夜も混んでいた……ラッシュアワーはぎゅうぎゅう詰めだった。そのうちの一つでもすべてでも一手に確保できたいいのだが、あるいはすべてを合併させて経営できたらいいのだが! 一財産できるな! これは他のことはできなくても、彼の苦悩の一部を癒せたかもしれない……巨万の富には違いないのだ。詩人が岩や細流に関心を抱くように、クーパーウッドはいつもその場面の様々な側面に忙殺されていた。この路面鉄道を手に入れてやる! この路面鉄道を手に入れてやる! 心の歌が鳴り響いた。


ガス業界と同じように、シカゴの路面鉄道業界は三分割されていた……市の三つの別々のサイド、というか地域を代表して対応している三つの会社があった。サウスサイドに陣取り、三十九番街の南端まで続いている〈シカゴ・シティ鉄道〉は、一八五九年に設立され、それ自体が宝の山だった。すでに約七十マイルの路線を運営し、毎年のようにインディアナ・アベニュー、ウォバッシュ・アベニュー、ステート・ストリート、アーチャー・アベニューへと延長されていた。旧式で(わら)が散乱する(かまど)のない車両百五十輌以上と、馬千頭以上を所有し、車掌百七十人、運転手百六十人、厩務員百人、それと鍛冶、馬具、修理の担当者を、関係する数だけ雇っていた。冬は除雪車、夏は散水車が通りで忙しく働いた。クーパーウッドは、その株式、債券、所有車両、他の動産の総額をざっと二百万ドル以上と見積もった。この会社の問題点は、そこの発行済株式の大部分が、今やクーパーウッドもしくは彼のやりたいことに断固敵対するノーマン・シュライハートと、これまで親交の兆し一つ見せたことがなかったアンソン・メリルに支配されていることだった。どうすればこの資産を支配できるか彼にはわからなかった。株は二百五十ドルくらいで売れていた。


〈ノース・シカゴ・シティ鉄道〉は、サウスサイドの会社と同時期に、違うメンバーに設立された会社だった。経営陣は古い、ありきたりの、役立たずで、設備も似たようなものだった。〈シカゴ西部鉄道〉は、当初〈シカゴ・シティ鉄道〉だか〈サウスサイド鉄道〉の持ち物だったが、今は別の会社だった。そこはまだ市の他の地域ほどの儲けは出なかったが、都市は全地域が発展中だった。馬の鈴の音があちこちで景気よく鳴っているのが聞こえた。


この光景の外側に立ってその将来性を考えながら、当時の他の誰よりもこの鉄道の将来に多額の私財を投じてきたクーパーウッドは、そのとてつもない可能性に感服していた……もしシカゴが成長を続けるなら巨万の富になる。そしてその進歩を促進したり阻害したりするさまざまな要因を気にかけていた。


この少し前にクーパーウッドは、ノースサイドとウエストサイドの路面鉄道の発展を妨げる大きな障害の一つが、シカゴ川に架かる橋の交通渋滞であることを発見していた。川に接続して都市の二つのサイドを結ぶ通りの両端の間に、この問題の川は流れていた……汚く、臭く、絵のように美しい。重たいのや、楽しいのや、絶えず混雑して移動する船の一団が、いろいろな橋を一時的に動かして、まるで馬車と船の混乱はもう収まらないかと時々思えるほど、川の両側の交通をせき止めた。そこは愛と人間味と自然に満ちたディケンズの世界だった……ドーミエ、ターナー、ホイッスラーが題材にしそうだった。橋の番人で一番暇な者が、船と馬車をいつどのくらい待たせるべきかを自分で判断した。割りと暇な連中は普通の歩行者に加わって、帆船の群れ、荷馬車の行列、前方真下の絵のようなタグボートに目を奪われ立って見入った。クーパーウッドは軽快な小型馬車に座って、遅れにいらついたり、橋が回る前に渡ってしまおうと先を急ぐときに、ノースサイドとウエストサイドは交通の便が悪い、とずっと前から気がついていた。川がなくて地続きのサウスサイドには、そういう問題はなく急速に発展していた。


このため、通行中に、ある日、自然に興味がわいて観察してみると、シカゴ川の下に二か所……一つ目は南北に走るラサール・ストリート、二つ目は東西に走るワシントン・ストリートに……今は水浸しでネズミの棲み着いた誰にも使われていないトンネルが二つ存在した……石油ランプがぼんやり灯るだけの暗くじめじめしたトンネルで、水がしみ出ていた。調べてみると、このトンネルは、今は橋で渋滞を起こしその当時でさえ急速に増加していた、この同じ貨物輸送の問題に対応しようとして数年前に建設されたものだとわかった。投資家や国民には、トンネルの通行料として現金でわずかな対価を課せられる方が、時間で対価の支払いを余儀なくされるよりもはるかにいいように思えたので、ここの交通に遅延を回避するチャンスが与えられた。しかし紙の上や頭の中に浮かぶ他の多くのご立派な事業案と同じで、この計画は正常に機能しなかった。もしこのトンネルが長く緩やかな勾配と、広い道幅と、十分な照明と空調を備えて適切に建設されていたら、利益が出ることを証明していたかもしれない。しかし現実はちゃんと市民が使える代物ではなかった。ノーマン・シュライハートの父親とアンソン・メリルはこのトンネルに投資していた。長い間……百万ドルの費用をかけて……無意味な算段を続けた挙げ句に、採算がとれないことがわかると、トンネルはそれぞれその金額で市に売却された。発展を続ける市の方が、謙虚で野心的で立派な市民の誰よりも、この穏やかならざる金額を失っても平気であると詩的な話が思いつかれた。これは議員が数年前に私腹を肥やした小さな出来事だったが、また別の話である。


このトンネルを発見してから、クーパーウッドは何度かその中を歩いた……今トンネルは板で囲われているが、まだ塞がれていない通路があった……そして、どうしてトンネルが利用できないのか不思議に思った。もし路面鉄道の便数がしっかりあって、収益性が十分で、妥当な金額でトンネルを緩やかな勾配にできれば、現在ノースサイドとウエストサイドの発展を妨げている問題の一つが解消されるようにクーパーウッドには思えた。だがどうやって? 自分がトンネルを所有しているわけではない。路面鉄道も所有していない。トンネルを借りて改修するとコストは莫大だろう。少しでも勾配があれば、人手、馬、御者を余分に使わねばならなくなる。つまりは費用が余計にかかる。唯一の牽引手段が路面鉄道の馬であり、長くて負担の大きい勾配がある以上、この事業が利益の出るものになる確信があまり持てなかった。


しかし、一八八〇年の秋かその少し前に(最終的にリタ・ソールバーグにたどりつく初期の情事にまだどっぷりつかっていた頃)路面鉄道にかかわる新しい牽引システムに気づいていた。それはアーク灯や電話や他の発明品の到来と共に、都会の生活の特徴を完全に変える運命にあるように見えた。


坂があるために満員の路面鉄道の走行が極めて難しいサンフランシスコで、最近、新型の牽引が導入された……ケーブル式である。それは溝の中で溝のついた車輪の上を循環するロープ状のワイヤーが走っているだけで、隣の駅か『動力小屋』などの手頃な位置にある巨大なエンジンによって動かされた。車両は簡単に操作できる『グリップレバー』や、細い隙間から溝に入って動いているケーブルを『掴む』鋼鉄の手を搭載していた。この発明は、重い荷物を積んだ鉄道車両を牽引して急斜面を上り下りする問題を解決した。同じ頃、シュライハートとメリルが主要なオーナーである〈シカゴ・シティ鉄道〉が自社路線にこの牽引方式を導入しようとしていること……ステート・ストリートにケーブルを敷設して、その先の不採算地域を走る他の路線の車両を『トレーラー』として投入しようとしていること、を回り回って耳にした。ノースサイドとウエストサイドの問題の解決策がすぐにひらめいた……ケーブルだ。


先に述べた橋の渋滞とトンネル以外にも、過去のある時期にクーパーウッドの注意を引き続けていた他の特別な事情があった。それは〈ノース・シカゴ・シティ鉄道〉の衰退だった……取締役たちは先が見えなかったので会社の問題を適切に解決できなかった。財務状況はかなり思わしくなかった……実際に、ある種のクーデターは可能だった。会社がサービスを提供するエリアは人口が少なく、ビジネス街からも距離がとても短くて、最初から利益が出ないと考えられていた。しかし、やがてその地域が人で埋まると、経営は上向いた。とたんに橋での長い待ち時間が始まった。経営陣は、この路線は客の入りが悪そうだと考え、質の悪いちゃちな軽量レールを敷いて、冬は氷のように寒く、夏はストーブを炊いたように暑い、薄っぺらい車両を走らせた。いくつかの路線のダウンタウン側の終点を、ビジネス街にまで延長しようという計画さえなかった……北は境に近い川を越えたところで止まっていた。(サウスサイドでは、シュライハート氏が自分の客のために、もっといい仕事をしていた。メリルの店のあたりに、ケーブル方式の環状線を敷いていた。)ウエストサイドのように、冬は乗客の足もとの保温のために、全車両の床に藁が敷かれ、夏は少ししかない開放型の車両が使われた。経費がかるので、取締役会はそういうものの導入に反対した。だから、最初から高い利益が出そうだと確信した地域にだけ路線を増やして、初期に使われたのと同じような安いレールを敷き、走るとガタガタ揺れる旧式タイプの車両を採用し、乗客の怒りが頂点に達するまで延々と続けてきた。最近はいろいろな訴えや苦情が多くて、会社はほとほど困り果てていた。しかしどうすればいいのか、この激しい攻撃にどう立ち向かったらいいのか、よくわからなかった。例えば本部長のテレンス・マルガノン、取締役のエドウィン・カフラス、会社の建築技師ウィリアム・ジョンソンのようなセンスのいい者もちらほらいたが、社長のオニアス・C・スキナー、副社長のウォルター・パーカーのような他の連中は、いかにも高齢者らしく反動的で、保守的で、考えるばかりで、けちで、最悪なのは臆病で、大きなことをやってみようという勇気がなかった。年をとると必ずと言っていいほど新しいことをやり遂げようとする意欲がなくなってしまい「ほっとけばいい」を何かと唱えたがるようになるのは嘆かわしい限りである。


これを踏まえてすでにすばらしい構想を思いついたクーパーウッドは、ある日のこと、社交を兼ねてジョン・J・マッケンティを自宅のディナーに招いた。妻を同伴してマッケンティが到着し、アイリーンが二人に優しく微笑みかけてマッケンティ夫人を精一杯もてなしていると、クーパーウッドは言った。


「マッケンティ、ワシントンとラサール・ストリートの川の下に市が所有する二本のトンネルがあるんだけど、何かご存知ですか?」


「必要もないのに市が引き取ったことと、無用の長物であることかな。私の時代よりも前の話ですよ」マッケンティは慎重に説明した。「確か、市はトンネルに百万ドルを支払ったけな。それが何か?」


「別に大したことじゃありません」この場はこの話題を避けて、クーパーウッドは答えた。「あれが何かに使えないものなのかなと思ったものですから。あの役立たずぶりが時々新聞でやり玉にあがるのを見ますからね」


「形がかなり悪いんだと思います」マッケンティは答えた。「私は何年もどっちらも通ったことがありませんね。もともとの考えでは馬車にそこを通らせて橋の渋滞を解消するはずでした。だが、うまくいかなかった。勾配が急過ぎたし料金が高過ぎたんです。だから御者は橋で待った方がよかったわけです。馬にもかなりの負担がかかりました。この身をもって証言できますよ。積荷を乗せた荷馬車であそこを何度も通りましたから。市は絶対にあんなものを引き取るべきじゃなかった。裏で取引があったんだ。誰がからんでいたかは知らないが。当時はカーモディが市長で、オールドリッチが公共事業を担当していた」


マッケンティはまた黙ってしまった。ディナーが済んで書斎へ移るまで、クーパーウッドはトンネルの話題を休ませた。そこでクーパーウッドはマッケンティの腕に親しげに手をおいた。政治家はこの人なつっこい振る舞いにかなり好感を持った。


「昨年はガス事業がうまくいって、よかったですね」クーパーウッドは尋ねた。


「はい」マッケンティは心から答えた。「あれ以上のことはありませんね。あの時も言いましたが」アイルランド人はクーパーウッドが気に入った。数十万ドルという大金で自分をさらに裕福にしてくれた早業に感謝していた。


「さて、マッケンティ」クーパーウッドは、いきなり、一見脈絡もないように続けた。「ここの路面鉄道情勢が大きく変化しようとしていると、これまでに思ったことがありますか? 私には始まっているのがわかるんです。一、二年以内にサウスサイドには新しい動力が導入されるでしょう。この話は聞いたことがありますか?」


「それなら読んだことがあるな」驚き少し疑問を抱きながら、マッケンティは答えた。タバコをとって話を聞く準備をした。クーパーウッドはタバコを吸わないので椅子を引いた。


「じゃあ、どういうことが話しましょう」クーパーウッドは説明した。「つまり最終的に、この市の鉄道の路線のすべてが……この変化が生じる前に建設されるすべての延長路線ももちろんそうですが……まったく新しい基準でやり直さねばならなくなるんです。つまり溝の中をケーブルが走るんです。今も古い設備にしがみついて進歩しない古い会社も、その改修をしなくてはならなくなるでしょう。自分たちの設備を最新のものにするまでに、何百万ドルもかけなくてはならなくなる。あなたがこの問題に関心をお持ちだったら、ノースサイドとウエストサイドの鉄道がどういう状況にあるかに気づいたに違いありません」


「かなりひどいのは知っている」マッケンティは言った。


「その通りです」クーパーウッドは強調して答えた。「まあ、古い経営陣を研究してわかったことがあるとすれば、これを実行するのは彼らには至難の業でしょう。二、三百万かかるものには二、三百万必要ですからね。彼らではそれだけの金を工面するのさえ簡単にはいかないでしょう……仮に我々が路面鉄道事業への参入を望めばですが、おそらくは我々以外の者にはそう簡単なことではありませんよ」


「ええ、仮にね」マッケンティは陽気に答えた。「でも、どうやって参入するんですか? 私の知る限り、売りに出ている株はありませんよ」


「同じですよ」クーパーウッドは言った。「やりたければできる。どうやるかは私が教えます。でも、今、特にやってほしいことがあるんです。さっき話した二つの古いトンネルのどちらかを自由にできる方法がないか知りたいんです。できれば二本とも。それができると思いますか?」


「そりゃ、できますよ」マッケンティは不思議そうに答えた。「でも、あんなものがどう関係するんですか? あんなものは何の価値もないですよ。いつだったか、若い連中が埋めちまえとか、ぶっ壊せとか言ってましたがね。警察はあの中に悪党が潜んでいると思ってますよ」


「どっちにしても、誰にも手を出させてはいけません……賃貸も何もさせてはいけません」クーパーウッド力強く答えた。「私がやりたいことをあなたには率直に伝えておきましょう。できるだけ早く、ノースサイドとウエストサイドで手に入れられるだけの路面鉄道をすべて手中に収めたい……新しいのも古いのもです。これでトンネルがどこにかかわってくるかわかったでしょう」


クーパーウッドは自分の言いたいことがマッケンティに全て伝わったか確かめるために話をやめたが、マッケンティには伝わっていなかった。


「大してほしいわけでもないんでしょ?」マッケンティは陽気に言った。「どうすればあのトンネルが使えるのか見当が付きませんが、もし重要だとお考えであれば、あなたのためにこれを引き受けない理由は全くありません」


「こういうことなんですよ」クーパーウッドは考えながら言った。「もし私の提案に賛同するのであれば、あなたを私が手掛ける全事業の優先パートナーにいたしましょう。今のような路面鉄道は遅くとも八、九年でことごとくひっぺがされてゴミの山に捨てられるしかなくなるんです。サウスサイドの会社が今何を始めているか見てごらんなさい。ウエストサイドとノースサイドの会社ではそう簡単にいかないでしょう。サウスサイドほど儲からないし、おまけに渡らないといけない橋がある。ケーブル鉄道にとってそれはとても不利なことなんです。第一、余分の重量と負担に耐えられるような橋を架け直さないとならない。ここで問題が持ち上がります……費用は誰が負担するのか? 市ですか?」


「それは誰が頼むかによりますね」マッケンティは愛想よく答えた。


「そういうことです」クーパーウッドは同意した。「次に、円滑な鉄道運行をすれば、この川は通行できなくなります。今だと引き船や大型船が通過する間に八分から十五分の待ち時間が生じます。今、シカゴの人口は五十万人です。一八九〇年にはどのくらいになるでしょう? 一九〇〇年は? 八十万人、百万人になったらどうなるでしょうね?」


「あなたの言うとおりだ」マッケンティは口をはさんだ。「かなり大変なことになりますね」


「そうなんです。でも、さらに問題なのは、ケーブルは支線からのトレーラーやら一輌車だって運ぶんです。橋で待っているのは一輌車じゃありません……列車ですよ、しかも満員の列車です。船が橋を通過する間、ケーブル車両を八分から十五分も遅らせるなんて利口じゃありませんよ。市民はそんなに長い時間我慢しないでしょうね、どう思いますか?」


「おそらくは騒ぎを起こさずにはいないでしょう」マッケンティは答えた。


「じゃあ、どうなります?」クーパーウッドは尋ねた。「交通量が減るでしょうか? 川が干上がるでしょうか?」


マッケンティ氏はじっと見つめた。急に顔が明るくなった。「ああ、なるほど」わかったように言った。「そこで思いついたのがトンネルなんですね。あれが果たして使えるでしょうか?」


「新しいのを作るよりも作り変える方が安くあがる」


「確かにそうだ」マッケンティは答えた。「修理できる状態なら、あなたの望みどおりのものになる」まるで勝ちが決まったかのように強気だった。「あれは市の持ち物です。あれでも一本に百万ドルかかってるんです」


「知っている」クーパーウッドは言った。「じゃあ、私のもくろみはおわかりですか?」


「そりゃあ、もう!」マッケンティは微笑んだ。「大したことを思いつきましたね、クーパーウッドさん。あなたには脱帽しますよ。何なりと言ってください」


「じゃあ、最初に」クーパーウッドは気さくに答えた。「我々がこの他の問題の対処方がわかるまで、どんなことがあっても市がこの二本のトンネルを手放さないという認識でいいですね?」


「手放さないでしょう」


「次は、おわかりでしょうが、今後はノースサイドやウエストサイドの会社が路線延長とか他の何かをしようとしても、できるだけ容易に条例が制定されないようにする、というのは? 私も自分で支線や郊外の路線の運営権を申請したいんです」


「あなたの条例を提出ですね」マッケンティは答えた。「何なりとやらせていただきます。すでに一緒に仕事をしましたからね。あなたが約束を守ることはわかってます」


「ありがとう」クーパーウッドは心から言った。「約束を守るのは大事なことだと知っていますからね。その間に別の問題がどうにかならないか先に確認しますよ。これに何人投入する必要があるかとか、どんな形の組織にするか、はっきりしてないんだ。しかし、あなたの利益は、きちんと守られる、何をするにしても、全てあなたにお知らせして同意のもとで行われる、このことは頼りにしていいですからね」


「いいことずくめだ」目の前に広がる新たな活躍の場を思い浮かべながらマッケンティは答えた。こういう仕事で自分とクーパーウッドが組むのだから、きっとどちらのためにもなるに違いない。それに前回の関係からしても、自分の利益が蔑ろにされることはないと信じていた。


「ご婦人たちをさがしに行きましょうか?」政治家の腕をつかみながら、クーパーウッドは気取って尋ねた。


「そうしよう」マッケンティは明るく賛成した。「立派な屋敷をお持ちだ……すばらしい。なれなれしくて申し訳ないが、あなたの奥さんほど美しい女性は見たことがありませんよ」


「自分でも常々、家内はかなり魅力的だと思っていますよ」クーパーウッドは無邪気に答えた。





第二十二章


念願の路面鉄道



〈ノース・シカゴ・シティ鉄道〉の取締役の中に、エドウィン・L・カフラスという若い前向きな男がいた。この会社の大株主だった父親が最近亡くなって、一人息子に持ち株のすべてと実質的な取締役の地位を残した。若いカフラスは路面鉄道の実務者ではなかったが、チャンスがあればうまくやれると思っていた。五千株のうち約八百株を持っていたが、残りは分散されていたので、小さな影響力しか行使できなかった。それでも、会社に入った日……クーパーウッドが問題を真剣に考え始めた数か月前……から、改革を強く求めた。路線の延長、事業規模の拡大、車両も馬もいいものにして、冬は車両にストーブを設置するなどを提案したが、そのすべてが同僚の取締役には若気の至りの無謀な衝動にしか聞こえず、ほぼ一様に反対された。


「車両がどうしたって?」カフラスが出席していつもの抗議をしていた会合の一つで、年上の取締役の一人のアルバート・トーセンが尋ねた。「何の問題も見当たらないがな。私だって乗ってるんだ」


トーセンは、太った、埃とタバコまみれの六十六歳で、少しどんくさいがおっとりした人だった。塗装業をやっていて、お尻と腕が皺だらけのとても軽い鉄灰色のスーツをいつも着ていた。


「多分、それが問題なんだよ、アルバート」出席していた仲間の一人のソロン・ケンプフェルトが甲高い声で言った。


この突っ込みは笑いを誘った。


「私にはわからんね。きみ以外の人たちだって車内でよく見かけるんだよ」


「じゃあ、問題点をあげましょう」カフラスは答えた。「汚いし、貧弱だし、窓がガタガタうるさくて考え事もできやしない。線路はひどいし、冬に敷いておく汚い藁のせいで気分が悪くなる。線路は補修が万全ではない。客が不満をもらすのも不思議じゃありません。自分も不満ですからね」


「私はそんなにひどいとは思わんな」社長のオニアス・C・スキナーが口をはさんだ。とても短い頬髯を生やした顔は中国の神さまのように印象が薄かった。年齢は六十八歳だった。「世界一の車両とは言わんが、いい車両だよ。中には塗装が必要とか、ニスの塗りがかなりひどいのもあるが、それを別にすれば、まだ何年でも使えるさ。新しい車両を入れられたらとても嬉しいんだが、出費が馬鹿にならないからな。構築しつづけなくてはならない延長路線と五セントの長距離輸送が利益を食いつぶしているんだ」いわゆる『長距離輸送』は市外のたったの二、三マイルに過ぎなかったが、スキナー社長には長く思えた。


「では、サウスサイドを見てください」カフラスは食い下がった。「ぼくにはあなたがたが何を考えているのかわかりませんね。フィラデルフィアで導入されたケーブルをここで使ってるんです。サンフランシスコでもそうですよ。ぼくが理解するところでは、電気で走る車両を発明した人だっているんです。それがこっちは藁を積んだ車両を走らせているんですよ……ぼくなら納屋と呼びますね。何にしても、そろそろ自分たちで気づく者が出てきてもいい頃だと思うんですよ」


「どうも、わからんね」スキナー氏は言った。「ノースサイドではかなり頑張ったように思うんだがね。大したもんだよ」


取締役のソロン・ケンプフェルト、アルバート・トーセン、アイザック・ホワイト、アンソニー・エワー、アーノルド・C・ベンジャミン、オットー・マットジェスは厳粛に紳士らしく、ただ座って見つめるだけだった。


しかし血気盛んなカフラスはそう簡単に引き下がらなかった。別の折にも自分の不満を繰り返した。この同じノースサイドのサービスのことで新聞に時々かなりの不満が掲載されるが、ある意味ではうれしかった。おそらく、足もとに火がつけば亀だって動き出すだろう。


このときにはもうクーパーウッドがマッケンティと合意していたので、ノースサイドの会社が占有していない通りに追加の運営権を得るとか、ラサール・ストリートのトンネルを使用することさえできなくなっていた。カフラスはこれを知らなかった。会社の取締役も役員たちも知らなかったが、事実だった。さらに、マッケンティは、ノースサイドで自分の息のかかった市会議員を通じて、現経営陣の評判を落とすために、さらなる不平不満をあおり始めていた。ノースサイドの会社に古い車両を廃棄させることや、もっと良質で丈夫な線路を敷設させることを強いる何者かの運動があって、議会は大騒ぎだった。奇妙なのは同じ状況でも、ウエストサイドとサウスサイドはこうならなかった。あれこれの目的を達成するために政治の世界で絶えず使われているトリックを知らない都会の一般大衆は、このいわゆる『市民の反乱』に大喜びした。彼らは自分たちがゲームの駒であることも、いかに薄っぺらな誠意が原動力になっていたかも、ほとんど知らなかった。


アディソンは、ノースサイドの会社の中でクーパーウッドの役に立ちそうな別の人物を考えていたが、最終的に若いカフラスを理想的な工作員に選び、ある日のこと、いかにも偶然らしくユニオンリーグでカフラスに自己紹介をした。


「あなたがたノースサイドとウエストサイドの路面鉄道事業者には、かなり深刻な出費が目前に控えているんですね」アディソンは折をみて言った。


「それはどういうことでしょう?」事業の発展にかかわることなら何でも興味を持って聞きたがるカフラスは尋ねた。


「まあ、私が大きな誤解をしているのでなければですが、あなた方はすべて、ごく近いうちに路線を全面的に改修する費用を負担することになりますからね……私が聞いたところでは……サウスサイドで始まっている新しいモーターだかケーブル・システムを導入するんだとか」アディソンは、市議会か市民感情か何かが、この大規模で高額な一連の改善を〈ノース・シカゴ鉄道〉に強制的にやらせたがっている印象を与えたかった。


カフラスは耳をそばだてた。市会議が何をするというのだろう? カフラスはそれについてすべて知りたかった。二人はすべての問題を話し合った……ケーブルが通る溝の特徴、動力施設のコスト、新しいレールの導入、もっと丈夫な橋の必要性、川を越えるかくぐるかする他の手段。アディソンは、〈シカゴ・シティ鉄道〉と〈サウスサイド鉄道〉は川を横断する問題がないから、他の二社のどちらよりもはるかに幸運な立場にあることをしっかりと指摘した。それから改めて、ノースサイドの会社がかなり厳しい立場にあることを憂慮した。「あなたの会社はとても大きな仕事をかかえることになりますね」アディソンは繰り返し言った。


カフラスは十分感銘を受け、適度にがっかりした。トンネルや他の改修に多額の出費が必要になるため、自分の持つ八百株は価値が低下するのだ。それでも、アディソンが今言ったような改善をすれば長い時間はかかるが路線の収益を向上させるられる、と考えて多少の慰めができた。しかしその間は波乱の航海が続くかもしれない。老いた経営陣は今すぐにでも行動を起こすべきだと考えた。サウスサイドの会社が改修しているのなら、自分たちもそれを見習わねばならないだろう。だがやるだろうか? 今後何年も鉄道に抵当権を設定する必要はあるが、長い時間をかければ返済できると、どうすればわかってもらえるのだろう? 古い保守的で慎重なやり方にはうんざりだった。


クーパーウッドの代わりに活動をつづけているアディソンは、数週間おいてからカフラスと二度目の私的な話し合いをした。しばらく秘密にしておく約束を取り付けてから、前回の話をしたおかげで、新たな展開に気がついたと言った。その間に、他の地域で長年路面鉄道にたずさわってきた人物数名の訪問を受けた。先方は、自分たちの資本の手頃な投資先をさがしながらいろいろな都市を回っていて、最終的にシカゴを選んだ。そしてこの地でいろいろな路線を調査して、〈ノース・シカゴ・シティ鉄道〉がいずれにも勝る投資先と判断した。それからアディソンは、クーパーウッドが要約した考えを、細心の注意を払いながら詳しく説明した。最初疑ったカフラスも最後は納得した。旧体制の埃をかぶった、ぐずぐずした態度に、彼はずっといらいらしていた。この新しい男たちが何者だかわからなかったが、この計画は彼の考えと一致していた。アディソンが指摘したとおり、それには数百万ドルの費用が必要だった。鉄道に多額の抵当権を設定しない限り、外部の援助もなしに、どうすれば資金が調達できるのか、彼にはわからなかった。もしこの新しい人たちが、進歩的な政策を始める他にも、この株の五十一パーセントに九十九年間高い金利を支払ってくれて、そのまま全株式に満足な利回りを保証するというのなら、任せてもいいのではないか? それは古い財産の魂を抵当に入れるのと同じだろう。とにかく、経営には価値がなかった。どうすれば、クーパーウッドの建設や設備の子会社からこの新しい投資家たちのための大金を作り出せるのか、どうしていったん必要な開業資金(彼の好む言い方だと『ものを言う資本』)が保証されると、新旧の鉄道会社の水増しした株式を発行することで、ほとんどクーパーウッドが一ドルもかける必要がなくなるのか、カフラスにはわからなかった。このときまでにクーパーウッドとアディソンは、もしこれが終わったら、数百万ドルの資金を持つ〈シカゴ信託〉を組織してすべての取引を操作することに合意していた。カフラスは、自分の株利回りがよくなったことと、新会社の(新しい表現で言うと)『基本計画』に参加するチャンスを得たことしかわからなかった。


「過去三年間ずっと、うちの連中に言ってきたことなんですが」カフラスは最後にアディソンが個人的に目をかけてくれたことに喜び、その大きな影響力に畏敬の念を抱き、声高に言った。「みんなはぼくの言うことなんか全然聞いてくれませんでした。このノースサイドの経営方法は犯罪ですよ。子供だって、ぼくらよりも上手にできたでしょうからね。うちは線路と車両を節約して、人の数で負けたんです。あそこで欲しいのは人なんです。そして、人を獲得する方法は一つしかありません。ちゃんとした鉄道サービスを提供することなんです。率直に言うと、うちは全然やってこなかった」


このすぐ後でクーパーウッドはカフラスと短い話をして、その中で、カフラスが所有している、もしくはリースで手放すことになるすべての株式の一株につき六百ドルを支払うだけでなく、尽力に応じて新会社の株もボーナスに与えると約束した。カフラスは自分と会社のために大喜びしてノースサイドへ戻った。搦め手から攻めるのがクーパーウッドの目的に一番かなっていると考えた後で、一見関係のなさそうな人物から微妙な話が持ち上がる方針でいくことに決めた。その結果カフラスは、他の取締役三名アイザック・ホワイト、アーノルド・C・ベンジャミン、オットー・マットジェスと大株主たちが、持ち株にとても驚くような価格を提示されて、他の株主を冷遇したまま売却するつもりでいることを内々に聞いたと打ち明けて、技術長のウィリアム・ジョンソンを、取締役で最も攻めやすいアルバート・トーセンに接近させた。


トーセンは悲嘆のあまり我を忘れてしまい、「いつ耳にした?」と尋ねた。


ジョンソンは教えたが、情報源はしばらく秘密にしておいた。トーセンはすぐに友人のソロン・ケンプフェルトのもとへ急行した。すると今度はケンプフェルトが情報を求めてカフラスのところへ行った。


「そういう話を聞いたことはあるが、本当のところは知らないよ」カフラスはそれしか言わなかった。


トーセンとケンプフェルトは、カフラスは売り払って自分たちには特に価値ある収穫を何一つ残さない陰謀をたくらんでいる、と想像した。これはとても悲しいことだった。


その一方で、クーパーウッドはカフラスの助言どおりに、アイザック・ホワイト、アーノルド・C・ベンジャミン、オットー・マットジェスに直接接触して、まるで自分が取り引きしたいのはこの三人しかいないかのような口ぶりで話をしていた。少し後で、トーセンとケンプフェルトは同じような訪問を受けて、内心ではびくびくしながら、他の人たちにも同じことができるのであれば、売り払うか、あるいはクーパーウッドが提示するとても有利な条件で貸すことに同意した。取締役会でクーパーウッドを強く後押しする気運はできあがった。最後に、アイザック・ホワイトが会議の席で、自分は興味深い提案を持ちかけられたと述べて、すぐその場で概略を説明した。自分はどう考えていいかわからないが、取締役会としてこれを検討したい、と語った。すぐに、トーセンとケンプフェルトは、ジョンソンの話がすべてが真実だと確信した。クーパーウッドにご足労願い、取締役全員に彼の計画の内容を説明してもらうことが決定された。これをクーパーウッドは時間をかけて淡々と明るい表情で語った。近い将来、道路の整備が必須であることが明らかにされた。今回提案された計画が取締役全員から仕事と不安と関心を取り除いた。さらに、今後二、三十年かけて得られると期待していた以上の利益が一度に保証された。そしてクーパーウッドと彼の計画が試されることになった。もし提案された利息を期日に支払うことができなかったら、資産は再び自分たちのものになることや、全ての義務……税金、水道代、既存の債権、わずかな報奨金……を彼が引き受けたことを確認してみると、ずいぶんと楽観的な構想に見えた。


「さて、みなさん、今日は我ながらいい仕事をしたと思います」アンソニー・エワーはアルバート・トーセン氏の肩に親しげに手をおきながら言った。「クーパーウッドさんの事業の成功を願うことで我々全員が結束できるものと私は確信しております」自分の持株七百十五株、七万千五百ドル相当が、四十二万九千ドルへと評価額を上げたので、エワー氏はおのずと大喜びだった。


「おっしゃるとおりだ」総計七百九十株から四百八十株を手放して、その価値が二百ドルから六百ドルへと跳ね上がるのを目にしたトーセンは答えた。「面白い男だ。彼の成功を願うよ」 

 


クーパーウッドは翌朝アイリーンの部屋で目が覚めた……昨夜は遅くまでマッケンティ、アディソン、ビダーラたちと外出していた……振り向いて、うとうとしている妻の首をなでながら言った。「ねえ、きみ、昨日の午後、私は〈ノース・シカゴ・シティ鉄道〉を整理したんだ。自分の経営陣を結成してさっそく私が新しいノースサイドの会社の社長におさまったよ。結局あと一、二年もしたら、私たちはこの村でそれなりの人物になってるからね」


中でもこの事実が自分に対するアイリーンの気持ちをなだめる結果になればいいとクーパーウッドは願っていた。リタを激しく攻撃してからずっと何日もアイリーンは、ふさぎ込み、よそよそしく、疲弊していた。


「それで?」寝ぼけまなこをこすりながら、半端な微笑を浮かべて答えた。アイリーンは白とピンクの泡のようなネグリジェを着ていた。「すごいんでしょ?」


クーパーウッドは肘をついて起き上がり、いつも感心して眺めている丸みのある素肌の腕をなでながら、アイリーンを見た。明るく鮮やかな髪はその魅力をまったく失っていなかった。


「つまりね、一年くらいしたら〈シカゴ西部鉄道〉にも同じことができるんだ」クーパーウッドは続けた。「しかし、これについてはいろいろな話が出ると思う。それに今すぐほしいわけじゃない。どうせうまくいくよ。シュライハートやメリルたちが、じきに気づくのが目に見えている。向こうはシカゴがこれまでに築き上げた最大のものを二つ、ガスと鉄道を取り逃がしてしまったからね」


「すごいわね、フランク、おめでとう」アイリーンはかなりわずらわしそうに言った。夫の裏切りを悲しんではいたが、それでも前進をつづけていることがうれしかった。「あなたはいつだってうまくやるわよ」


「きみがあまり気分を害してないといいんだが、アイリーン」一種の愛情を主張したつもりでクーパーウッドは言った。「私と一緒に幸せになろうと頑張らないかい? これは私と同じようにきみのためでもあるんだ。私よりもきみの方が溜め込んだものを解消できるからね」


クーパーウッドは得意そうに微笑んだ。


「そうね」うらめしげではあるがそのことで穏やかになり、少し悲しげに答えた。「大金のおかげね。でもあたしが欲しかったのはあなたの愛よ」


「それならちゃんとあるだろ」クーパーウッドは言った。「何度も言ってるけど。私はきみを大事にすることをやめたことは本当にないよ。そんなことがなかったことはわかってるだろ」


「ええ、わかってるわ」夫が腕にしっかり抱き寄せる間に、アイリーンは答えた。「あなたがどれほど大事にしてるかはわかってるわ」これがアイリーンの夫への優しい反応を妨げることはなかった。アイリーンのわきあがる不満の背景にあるものは、心の痛みと、夫の愛情がそのままであってほしい、かつて永遠に続くと信じたあの初期の愛情を復活させたい、という願いだった。





第二十三章


報道の力



この人事を秘密にしようとクーパーウッドとその仲間は努力したが、すぐに朝刊各紙は「ノース・シカゴ」の異変の噂でもちきりになった。今までシカゴの路面鉄道に関連して語られることがなかったフランク・アルガーノン・クーパーウッドが、オニアス・C・スキナーの有力な後任で、旧経営陣の一人エドウィン・L・カフラスが次期副社長と指摘された。この取引の背後にいるのは『どう見ても東部の資本家たち』となっていた。アイリーンの部屋で座って朝刊各紙を読んでいたクーパーウッドは、その日のうちに談話と今後の展望の発表を求められるのがわかった。新聞の経営者と直談判して……信頼を構築して……それから全体の方針が発表できるようになるまで、数日待つよう報道陣に要請するつもりだった。それは都市を、とりわけノースサイドの住人を、よろこばせる内容になるものだった。その一方で簡単にできないことや儲からないことを約束したくなかった。名声も評判も欲しかったが、それ以上にお金が欲しかった。両方を手に入れるつもりだった。


今までの自分がそうだったとクーパーウッドが考える、小さな金融畑で長いこと仕事をしてきた人物にとって、高度な金融や管理運営という派手な表舞台に突然躍り出たことは、すべてを刺激する材料だった。長いこと小さなところで策動し、何時間も何時間も独りで考え、話し合い、計画を立て、道を開いてきた。そして今実際に念願がかなったのに、しばらくはこれが真実だとなかなか信じられなかった。シカゴはこんなにもすばらしい都市だった。急速に発展を続けていた。すばらしいチャンスばかりだった。愚かにも自分たちの持ち株を無期限の賃貸契約で手放した連中は、自分たちが何をしているのかまったくわかっていなかった。ひとたび手に入れてしまえば、このシカゴの路面鉄道は、こんなにすばらしい利益を生むようにできるのだ。株式会社にして資本の過大評価をやればいいのだ。マッケンティが二束三文で自分のために確保してくれる多くの支線は、将来何百万もの価値になる。それらはすべて自分のものになるべきだった。この分の権利に関しては〈旧ノース・シカゴ・シティ鉄道〉の経営陣には何の恩義も感じるつもりはなかった。まだ古い会社に支配されていたが事実上自分のものであるこの鉄道会社は、都市が成長するにつれて、徐々に、年を追うごとに、自分がその周りに築くもっとずっと大きな新しい鉄道網の中の、ただの一項目、中心核に過ぎなくなるだろう。やがてはウエストサイド、そしてサウスサイドの各地にも……だが夢だろうか? あっけなく、シカゴ路面鉄道事業の第一人者になってしまうかもしれない! あっけなく、この街一番の豪勢な資本家になるかもしれない……この国で数少ない大財閥の一つになるかもしれない! 


彼の認識では、いかなる種類のいかなる公共事業であろうとも、市民の支持や特別な占有権がほしいのであれば、新聞は常に考慮されねばならなかった。クーパーウッドは今でも二本のトンネル……一本は最終的に〈シカゴ西部鉄道〉のものになると考えているもの、もう一本は今作ったばかりの〈ノース・シカゴ路面鉄道〉に与えられることになるもの……を虎視眈々と狙っていたので、いろいろな新聞経営者と親しくなる必要があった。どうすればいいだろう? 


近頃では、(何千何万というありとあらゆる種類、境遇の人たちが、都市の発展が期待をさせそうな仕事を求めて)自国からも外国からも大量に流入したために、そして無政府主義、社会主義、共産主義系の外国人グループの急進的な個人を通して扇動的な考えが普及したために、シカゴ市民の思想はこの上なく過激になっていた。ちょうどこの五月、クーパーウッドが自分に都合よくこの問題を調整していたところへ、国家的な大事件がもちあがった。ヘイマーケットとして知られるウェストサイドの大きな公共の場でのこと。講演者の数名の主義主張から無政府主義的と呼ばれたたくさんの労働者集会の一つで、興奮した狂信者によって投げつけられた爆弾が、爆発して大勢の警官を殺傷し他の数名にも軽傷を負わせた。この事件は、階級対大衆の全ての問題を稲妻の閃光のように一気に表面化させ、陽気で楽観的で、あまり論理的でないアメリカ人の考え方では以前ならありえなかった観点で、それを世に広めた。まるで噴火のように、商業界の様相を一変させた。それ以降、人は国や市民にかかわる物事をもう少し正確に考えた。無政府主義とは何か? 社会主義とは何か? 経済や政治が発展する中で、一般大衆はどんな権利をもっているのか? これは興味深い疑問だった。水に投じた大きな石の役目を演じた爆弾事件の後で、こうした考え方は波紋のようにずっと拡散を続けて、やがて編集室、銀行や金融機関全般、政界要人とその仕事の世界などの手の届かない鉄壁と思われた領域にも浸透した。


しかし、これに直面してもクーパーウッドは動じなかった。クーパーウッドは大衆の力や彼らの根本的な権利など信じなかったが、個人の境遇には同情した。自分のような人間は、その仕組みやライフスタイルをもっと完璧なものにするために世の中に送り込まれたと信じていた。準備段階の今、会社の車庫の中や周囲に集まる馬連れの大勢の男たちを見て、その様子を不思議に思うことがたびたびあった。どいつもこいつも活気のない奴ばかりだった。まるで動物のように、地道に働き、芸術性がなく、希望を失っていた。彼らの粗末な家や、長い労働時間や、低賃金を考え、もし彼らのためにできることがあるとすれば、まともな暮らしができる賃金を支払うことだと判断しそれを実行するつもりだった……それ以上のことはしない。自分の夢や展望を理解してもらうことも、自分が求める壮大なものや社会的優位性を共有することも、彼らには期待できなかった。クーパーウッドは最終的に、いろいろな新聞の経営者を個人的に訪問して、状況を話し合うのがいいだろうと判断した。この計画について相談されたときアディソンはやや懐疑的だった。彼はあまり新聞を信用しなかった。


新聞がつまらない駆け引きをして、敵や個人的遺恨を追求し、場合によっては哀れなほど小さな報酬で裏切るのを見てきたからだ。


「言っておくがね、フランク」ある時、アディソンは言った。「これをやるなら何事も慎重にやらないといけなくなる。あなたが大株主の一人でも、古いガス会社の連中は今でもあなたを嫌っているのをご存知でしょ。シュライハートは全然友好的じゃないし、〈クロニクル〉の事実上の所有者だからね。リケッツなどは彼に言ってほしいことを言うだろうね。〈メイル〉と〈トランスクリプト〉のヒソップは独立した男だが、長老教会派だし、冷たい独善的なモラリストだ。ブラクストンの新聞の〈グローブ〉は事実上メリルのものだ。しかしフラクストンはいい奴だよ。〈インクワイヤー〉のマクドナルド老将軍は、あくまでマクドナルド老将軍だ。すべては朝起きたときの自分の感じ方次第だからね。たまたま彼があなたの様子を気に入ったなら、あなたが何らかの形で彼の良心とすれ違うまで、いつまでだってあなたを応援するかもしれない。セイウチみたいな立派なじいさんだ。私は好きですよ。彼が渡したくないといったら、シュライハートもメリルも他の誰も、彼からは何も得られない。しかし、そう先は長くないかもしれない。それに私はあの倅を信じてません。〈プレス〉のハグエインは大丈夫ですよ、私が知る限り、あなたに好意的だ。他の条件が同じで、自分が公平で合理的だと思うことなら、当然あなたを応援すると思います。まあ、味方につけるといい。可能ならば全員味方に取り込んでください。いきなり、ラサール・ストリートのトンネルの話を持ちかけちゃいけませんよ。後で思いついたようにしないと……公共性が高いという風にね。肝心なのは、他の会社があなたに本気で戦いを挑んでくるのを避けることでしょう。それにかかってるんです。これからはシュライハートだって、この事業全体についてかなり真剣に考えてくるでしょうしね。メリルに関しては……まあ、こうすることで彼の店の取り分がどこにあるかをわからせることができれば、おそらくあなたの味方になってくれるでしょう」  

 


ある船に吹いて影響を及ぼす……張ったりないだりした帆を膨らませたりしぼませたりする……風の大もとまでたどれないのは、すばらしいのに不吉な人生の魅力の一つである。私たちが計画を立てるからといって、考えることで、背丈を一メモリ伸ばせる者がいるだろうか? 荒削りかもしれない私たちの目的を形作る神を、打ち負かす者、助ける者はいるだろうか? クーパーウッドは今、大きな公職に着任しつつあった。市のいろいろな編集者や公人が関心を持って彼を見守っていた。〈プレス〉という自分の新聞を持つ自由な活動家のアウグストゥス・M・ハグエインは自分の新聞を採算のとれるものにする必要があったので自由ではなかったが、大きな関心をもっていた。マクドナルドのような男が持つ威厳に満ちた魅力はないが、それでも正直者で、善意の主で、思慮深く、注意深い人物だった。クーパーウッドがガス事業で結果を出してから、ハグエインは彼の経歴に強い関心を持つようになった。クーパーウッドは大物になる運命なのかもしれないと彼には思えた。しかし、残酷なマキャベリズム的性質が混ざったもともとのきらびやかな力は、たとえそれがマキャベリズム的であったとしても、伝統的価値観の根付いた人たちには大きな魅力に見えるようだった。彼のまだるっこしい世界観を通して、そう見える事実を見ている平均的な生活をしている慎重な市民は、強者がかかげる厳しい弱肉強食的な理論を真っ先に許し大目に見ることが多かった。ハグエインはクーパーウッドを見てきて、犯している罪と同じくらい非難される人、友人には忠実な人、非常時に頼れる人、だと思った。たまたま、ハグエインはクーパーウッドの近所の住人で、シカゴの社交界入りが不調に終わってからも、ずっと親しくしてきた人たちと同じくらい、この家族を受け入れてきた。


そして、吹雪の中、クリスマス休みの直前、クーパーウッドが〈プレス〉のオフィスに到着すると、ハグエインは歓迎した。「まさに冬本番といった天気になってしまいましたね?」ハグエインは陽気に言った。「〈ノース・シカゴ路面鉄道〉のお仕事はいかがですか?」この数か月の間に、他の新聞社ともども、ノースサイド全体が立派なケーブル軌道や、動力施設や、魅力的な車両に様変わりしたのに気づいていた。そして乗客をダウンタウンに輸送するために何かもっといい設備が作られる話がすでに持ち上がっていた。


「ハグエインさん」クーパーウッドは笑顔で言った……厚手の毛皮のコート、ビーバーの襟巻、犬皮の馬車用手袋という姿で現れた……「ノースサイドのこの路面鉄道の問題も、新聞の協力、あるいは少なくとも友好的な応援を要請するところまで来ました。現在、私たちの大きな問題は、ダウンタウンへ向かうときに、すべての路線がレイク・ストリートで、つまり橋のこっち側でとまってしまうことなんです。そのせいで、みなさんはその南側の通りを延々と歩くわけです。ご承知かもしれませんが、不満がかなり寄せられています。それに河川の交通も増える一方です。何年もそうだったと言っていいかもしれなせんが……我慢も限界にきています。みなさんそれで困ってますからね。これまでそれを調整する努力がまったくなされませんでした。何しろ重大案件でしたから果たして納得いく形で出来上がるか疑わしいのです。長い目で見て一番いいのは、川の下にトンネルを通すことでしょう。しかしそれは大変費用がかかる問題ですから、今のところはそれに取りかかる状況ではありません。ノースサイドの交通量ではそこまでできません。現在ステート、ディアボーン、クラークで使っている三本の橋の改修だって本当は必要ないんです。もし今計画中のケーブル・システムを導入れば、橋は直さなくてはなりませんからね。これは私たちと同じくらい市民が大きな関心を持つ事業ですから、この改修工事に市が費用を負担しても、妥当なことだと思いますね。この路線に隣接するすべての土地と、それによって恩恵をうける不動産は、価値が上昇するでしょう。市の税収だってものすごく上がります。このシカゴで何人もの金融関係者と話したことがありますが、みなさん同意見でした。しかし、こういうことにはつきものですが、政治家の中には私に反対する者がいます。私がノース・シカゴの鉄道を経営するようになってから、新聞一、二社の態度は全く友好的でなくなりました」(シュライハート傘下の〈クロニクル〉では、クーパーウッド一派が経営すれば、かつてのレイクビューやハイドパークや他のガス会社の極端な戦術が繰り返される可能性がある、とすでに何度も記事になっていた。メリルが所有するブラクストンの〈グローブ〉は半中立で、そのような手段がここで繰り返されないことを願うと示唆しただけだった。)「おそらくあなたはご存知かもしれませんが」クーパーウッドは続けた。「もししかるべき公的配慮と援助を得られるのであれば、かなり広範囲に及ぶ改善計画もあるんです」


ここで、クーパーウッドはポケットに手を伸ばして、この時のために特に準備しておいた地図と青写真を周到に取り出した。それに載っているのは、ノースクラーク、ラサール、ウェルズ・ストリートを走るケーブル式の本線だった。ダウンタウンに通じるこの路線はノースサイドのイリノイとラサール・ストリートで合流した……その時クーパーウッドは言及しなかったが、その路線は地図では、橋のないラサール・ストリートで川の上か下を通り、そこからラサール・ストリートに沿ってマンロー、ディアボーン、ランドルフをぐるっと回って、再びトンネルに入るように赤で表示されていた。クーパーウッドは話を続ける前に、この非常に興味深い重要なコースにハグエインが気づくのを待った。


「地図の上にはね、ハグエインさん、もし市の同意が得られたら、莫大な橋の改修費用についての対立を不要にして、現在、市には完全に無用の長物だが、市民には多大な利便性をもたらすかもしれない資産の一部を利用する計画が示してあるんです。私が言っているのは、この」……ハグエインの手にある地図に指を置いて示した……「古いラサール・ストリートのトンネルのことです。今は板でふさがっていて、全く誰の役にもたっていません。これは、平均的な荷を積んだ馬車が走れる勾配を明らかに誤解して作られたのです。採算がとれないとわかると、トンネルは市に売却されて閉鎖されました。もしこれまでに通ったことがあれば、中がどんな状態だかおわかりでしょう。うちの技術者の話では、壁から水が漏れていて、早急に修理しないと崩落の危険があるそうです。使用に適した状態にするのに、約四十万ドル必要だとも言われました。私の考えを言わせてもらえば、〈ノース・シカゴ路面鉄道〉が、この橋の渋滞問題を解決し、ノースサイドの住民をビジネスの中心街に送り届ける実用的で継続的なサービスを提供する費用を負担するのであれば、市はさしあたってこのトンネルを提供するか、せめて名目上の賃貸料だけで長期リースに応じるべきです」


クーパーウッドは話すのをやめてハグエインの出方を見守った。


ハグエインはじっと地図を見て、クーパーウッドがこの要求をするのは妥当か、市は無償でこれを貸与すべきか、橋の交通問題は彼の指摘ほど深刻なのか、実は、このすべての行動が何かをただで得るための巧妙な策略ではないか、と考えていた。


「あと、これは何ですか?」さっき指摘したループに指をおいて、ハグエインは尋ねた。


「それは」クーパーウッドは答えた。「ダウンタウンのビジネス街とノースサイドにサービスを提供し、この橋の問題の解決できる唯一の手段です。私の思いどおりに、うちがこのトンネルを手に入れれば、ノースサイドの鉄道を走る全車両がここに来ます」……クーパーウッドはラサールとランドルフを指さした……「そしてぐるっと回ります……そう、市議会が通行権を与えてくれるのであれば、こうなります。もちろん、これに対する合理的な反論はあり得ないと思っています。ノースサイドの住民が、ウエストサイドやサウスサイドの住民と同じくらい便利な通勤手段を持ってはいけない理由はないですからね」


「確かに、ないでしょうね」ハグエインは認めざるをえなかった。「しかし議会や市が何の代償もなしこんなループという贈り物を認可すべきだなんて、あなたは納得しますか?」


「してはならない理由も見当たりませんね」クーパーウッドはいくらか傷ついた口調で答えた。「過去にも市に対して他の改善が提案されたことがありますが、代償が問題になったことはありません。サウスサイドの会社はステートとウォバッシュを回るループを認められました。〈シカゴ・シティ旅客鉄道〉にはアダムズとワシントン・ストリートにループがあります」


「そうですね」ハグエインは漠然と言った。「確かに。でもこのトンネルは……公益と同じカテゴリーに入るんでしょうか?」


その一方で、地図に示されたループ案を見ながら、トレーラーが連なるこの新しいケーブル路線は、シカゴのダウンタウンに本格的な都会の風を吹かせ、ノースサイドに素晴らしいマーケットを提供することになると考えずにいらなかった。問題の通りは、商業の盛んな立派な大通りで、当時でさえ五階、六階、七階、八階建てのビルが密集し、若くて、生き生きした、楽観的な、熱心な人たちが大河となってあふれていた。都市の商業活動を集約した狭い地域であるため、この土地と通りは都市全体の一等地の中でも絶大な価値があった。また、このループがここにできたら、ディアボーン・ストリートを通って帰る車両は、自分の玄関……〈プレス〉のオフィス……のすぐそばを通ることになり、それによって自分が所有するこの土地の価値が上がることにも気がついた。


「絶対に入りますよ、ハグエインさん」クーパーウッドは相手の質問に力強く答えた。「私個人は、シカゴは奨励金を払ってでも鉄道網を整備した方がいいと思ってます、特にこういう進歩的で伝統を重んじる計画を携えて企業が現れた場合はね。これでノースサイドの資産価値は何百万もあがるんです。私の提案どおりにこのループを作ればビジネス街にだって何百万という経済効果が生じます」


クーパーウッドは持参した地図にしっかり指をおいた。この計画が確かに健全な事業案であることにハグエインは同意した。「個人的には、私が一番不満を口にしないですね」と言い添えた。「この路線はうちの前を通るんですから。同時に、このトンネルには確か八十万ドルだか百万ドルかかってます。そこが微妙な問題ですね。他の編集者がそこをどう思うか、市議会自体はその辺をどう感じるのか、知りたいところです」


クーパーウッドはうなずいて「確かにそうですね」と言った。「楽しみですよ。完全に正当な案……この街の報道が結束して支持するようなもの……を持っていると感じなかったら、ここには来なかったでしょう。うちのような会社が、外部の資本に融資してもらわなくてはならないような巨額の支出に直面した場合、事前に無用の根拠のない反対を和らげたくなるのはごく自然なことです。私はあなたに協力願えればと思ってます」


「それはかまいませんよ」ハグエニン氏は微笑んだ。両者は仲睦まじく別れた。 

 


市の特権を守る他の新聞社は、必ずしもハグエニンほど物わかりよくクーパーウッドの案を承認しなかった。トンネルと数本のダウンタウンの主要大通りの使用は、クーパーウッドのノースサイド計画の推進に直結することかもしれないが、それを贈るとなると別の問題だった。実は、すでにさまざまな新聞の経営や編集に携わる者は、この新しい事業について彼らがどう感じているかとか、クーパーウッドを快く支持するかしないかを確認したかったシュライハートやメリルたちの相談を受けていた。ガス戦争で受けた傷が癒えないシュライハートは疑惑と羨望の眼差しで、このクーパーウッドの新たな活躍を見ていた。シカゴの名だたる市民はみんな注目していたが、他の誰よりも彼にとってそれは路面鉄道分野の新しい危険な敵だった。


「どうやら」ある晩、シュライハートは、ユニオン・リーグで会った〈トランスクリプト〉と〈イブニング・メイル〉の編集と発行を手掛けているウォルター・メルヴィル・ヒソップに言った。「このクーパーウッドという男は、路面鉄道の問題で何か人騒がせなことを仕掛けてくるだろうね。あいつはそういう奴だ。編集の立場から、彼の政治的なつながりに注視する必要があると思うよ」すでにマッケンティがこの新会社に何か関係しているという噂が立っていた。


ヒソップは、中肉中背で、派手な、保守的な人で、あまり信じなかった。「クーパーウッドさんがどんな提案をしてくるのか、きっと、もうじきわかりますよ」ヒソップは言った。「とても活気があって有能な人だと私は理解しています」


シュライハートとメリル同様に、ヒソップとシュライハートは長年の親交があった。


ハグエニン氏を訪ねた後、クーパーウッドは生まれながらの選択眼と自衛的判断から次にマクドナルド老将軍の新聞〈インクワイヤー〉のオフィスに行った。そこまで来て、老将軍はリューマチとシカゴの厳しい悪天候のせいで、ほんの数日前にイタリアに向けて出航していたことを知った。その息子の三十二歳になる攻撃的で商魂たくましい青年と、デュボイスという名の編集局長が代理を務めていた。クーパーウッドは、その息子の情熱的で冷静で鋭敏な青年トルーマン・レスリー・マクドナルドの中で、自分と同じような、鋭い自己中心的で自分に都合のいい観点からしか人生を見ない人物と出会った。彼、トルーマン・レスリー・マクドナルドは、ある一定の状況から何を導き出すのだろう? どうやって〈インクワイヤー〉を前任者の父親の時代よりも、さらに大きな資産にしようというのだろう? 息子は老将軍のかなり華やかな評判に押しつぶされる気はなかった。それどころか、堂々と金持ちになるつもりだった。ノースサイドで成長しつつあった若いとても洒落たグループの活動的なメンバーだった彼は、馬や馬車に乗り、新しい高級カントリークラブの設立に力を注ぎ、自分が憧れる立派な雰囲気に合わないとして一般大衆を軽蔑した。編集局長クリフォード・デュボイス氏は、四十歳のずうずうしい無頼漢で、紳士を装い、私的な目的をかなえるために巧みに〈インクワイヤー〉を利用していた。しかも老将軍の鼻っ先でやっていた。骨ばっていて、薄茶色の髪、青い目、鋭く恐ろしい鼻、頑丈な顎をしていた。クリフォード・デュボイスはいつも用心深くて右手がすることを絶対に左手には知らせないようにしていた。


老将軍の留守中に、クーパーウッドと応対したのはこの賢い二人だった。最初はデュボイス氏、次にマクドナルド氏の部屋だった。マクドナルド氏はすでにクーパーウッドの活躍をかなり聞いていた。かつてのガス戦争の関係者、例えば、旧北シカゴ・ガス会社の社長ヨルダン・ジュールズと、旧西シカゴ・ガス会社の社長ハドソン・ベーカーはずっと前にクーパーウッドを、とても楽でいい収入の職を奪った海賊だと非難したことがあった。その彼が今度は北シカゴの路面鉄道業界に押し入ってダウンタウンのビジネス中心地を再開発するという驚きの計画を持ってやって来た。市は見返りをもらうべきではないだろうか、いや、それよりも、クーパーウッドの計画の成功に大きな影響を与えた世論形成に貢献した者はどうなんだろう? トルーマン・レスリー・マクドナルドは噂どおり、人生を父親の観点からは見なかった。彼は一方的な取り引きを考えていた。老紳士の留守中ならそれをクーパーウッドに持ちかけることができた。将軍は知らなくていいのだ。


「あなたの考えはわかりました、クーパーウッドさん」マクドナルドは高慢に言った。「でも市がどこに関係するんですか? これがノースサイドの住民やダウンタウンで商売をする者や不動産所有者に、どんなに重要かは、とてもよくわかります。でも、それはただあなたにとって十倍重要というだけのことですね。確かに、市に恩恵はありますが、どうせ市は発展しているんです。それにあなただって恩恵はありますよね。こういう公共事業の運営権は、これまで以上の価値になったと私はずっと言ってきました。まだ誰もこのことをよくわかっていないようですが、これはれっきとした事実ですからね。今、あのトンネルには建設当時以上の価値があります。たとえ市が使えなくても、誰かが使えるんですから」


マクドナルドは暗にライバルの鉄道会社のことを言っていた。


クーパーウッドは内心いらいらした。


「ごもっともですが」表向きは平静を装いながら言った。「どうして差別するんですか? サウスサイドの会社は一ドルも支払わなくてもループがあるんです。〈シカゴ・シティ旅客鉄道〉にもありますよ。ノースサイドの会社は、これまでどの会社も一社でやったことがないような大規模な改修を計画しています。この時期にこの一社に限定して、代償だの運営税だのを問題にするのが公平だとは到底思えませんね」


「うーん、まあ、他の会社のことはそうかもしれませんが、サウスサイドの会社はずっと前からあの通りを持っていて、ただつないだだけです。でもこのトンネルとなると……話が違いますよね? 市が買ってその代金を支払ったんですよね?」


「そのとおりです……トンネルで採算がとれないとわかった連中を救済したんです」クーパーウッドは辛辣に言った。「市には無用の長物なんです。修理をしなければ、すぐにでも崩落してしまいます。このループの沿線の地主の承諾だけでもかなりの額になるでしょう。こういう大きな仕事は邪魔をするのではなく、市民が協力して応援するべきだと私は思います。これは、このダウンタウンに新しい都会の風を呼ぶことになるでしょう。シカゴは産着(うぶぎ)を脱いでもいい時期ですからね」


若いマクドナルド氏はうなずいた。マクドナルドは指摘された問題の重要性を十分理解したが、クーパーウッドと彼の成功が妬ましかった。このループの運営権とトンネルの下げ渡しは、誰かさんに何百万もの価値をもたらすのだ。そこに自分の分があったっていいじゃないか? マクドナルドはデュボイス氏を呼び一緒にこの提案内容を調べた。デュボイスは難なくこの問題の要点をつかんで


「優れた内容だ」と言った。「なんとも言えないが、市に得るものがないとな。近頃の市民感情は、企業への利益供与にかなり厳しいですからね」


クーパーウッドはマクドナルド青年の思考の流れを読み取った。


「では、あなたは市への代償にはどの程度のものが妥当だと思うのですか?」この攻撃的な青年が何らかの形で自分の立場を明確にするか疑問だったが、クーパーウッドは念のために尋ねた。


「まあ、そういうことは」マクドナルドは回避するように手を振って答えた。「私からは言えないな。ありのままの実用性とちゃんとつり合うべきでしょうね。そこのところはよく考えたいな。かといって市が無理難題を吹っかけるのを見たいわけじゃない。でも確かにここには何か価値のある特権が存在しているんです」


クーパーウッドは内心煮えくり返った。もしあるとすればだが、彼の最大の欠点は、いかなる反対も受け入れられないことだった。薄っぺらな涼しい顔の、鋭いきつい目をした、この若い成り上がりめ! 当人にもその新聞にも、くたばれ、と言ってやりたかった。老将軍が戻ってから何か別の方法で〈インクワイヤー〉に影響を及ぼせばいいと思いながら、クーパーウッドは立ち去った。


明朝ノースクラーク・ストリートのオフィスに座っているとクーパーウッドは、後ろの壁の電話……早々と導入されたうちの一台……の、まだ聞き慣れない新しいベルの音ではっとなった。秘書が出て、〈インクワイヤー〉の関係者が話をしたがっていると報告があった。


「〈インクワイヤー〉の者ですが」と声がした。受話器を耳にしてクーパーウッドは、将軍の息子のトルーマン・マクドナルド青年の声だとわかった。「あなたは尋ねましたね」声は続いた。「あのトンネルに見合う代償にはどんなものが考えられるか。聞こえますか?」


「ええ」クーパーウッドは答えた。


「まあ、あなたの判断にあれこれ口出ししたくはありませんが、意見を求められたら、私はノース・シカゴ路面鉄道株五万ドル分くらいだと申し上げておきます」


その声は若く、明快で、厳然としていた。


「それが誰に対して支払われたらいいとあなたはお考えなんですか?」クーパーウッドは優しく穏やかに尋ねた。


「それはあなたのまともな判断にお任せします、と申し上げましょう」


声はやんだ。受話器がおかれた。


「馬鹿にしやがって!」クーパーウッドは反射的に床を見ながら言った。微笑みが顔にひろがった。「そんな脅しに応じる気はない。付き合ってられるか。そんな価値があるもんか。とにかく、今はな」歯を食いしばった。


相手のことが気に入らないせいもあったが、クーパーウッドはトルーマン・レスリー・マクドナルド氏をあなどっていた。父親が戻って倅を追い出すと考えたのだ。これは彼が人生で犯した致命的なミスの一つだった。





第二十四章


ステファニー・プラトー登場



財務も営業も順調だったと言ってもいいこの時期、アイリーンとクーパーウッドの問題はある程度丸く収められていた。今は夏に、一つはアイリーンの気晴らし、もう一つは自分が世界を見たいのと、だんだん造詣が深まっている美術品を収集したい願望を満たすために、外国やアメリカの国外領土に夫婦で短期旅行に出かけるのがクーパーウッドの習慣で、この二年でロシア、スカンジナビア、アルゼンチン、チリ、メキシコを訪問した。計画では五月か六月の出国ラッシュのときに出発して、九月か十月初旬に戻るつもりだった。できる限りアイリーンをなだめて、シカゴが駄目ならニューヨークかロンドンなどどこかよそで最終的に社会的勝利を収める楽しい期待で心を満たしてやり、肉体は離れても精神は今でも誠実だと感じさせようと考えた。


この頃までにクーパーウッドもすっかりずる賢くなり、愛しているふりをして、自分が感じていないというか、本物の情熱に裏打ちされていない女性への配慮をしてみせる能力が備わっていた。気配りはお手の物だった。花、宝石、小物、装飾品を買い与え、妻が限界まで癒やされていることを確認し、しかも同時に、人生が禁断の楽しみの形で提供するかもしれないものを物色して慎重に周囲を見回した。これが事実だとは証明できなかったが、アイリーンはこのことを知っていた。同時に、アイリーンは自分ではどうしようもない愛情と憧れをこの男に抱いていた。



大敗を期した将軍か、長年誠実に勤め上げた末に解雇された社員の胸の内でも思い浮かべたかもしれない。二人の愛が何の価値もなくなったとき、愛情の祭壇に置かれたものがすべて無駄な犠牲だとわかったとき、人生はその愛にどんな言葉をかけるのだろう? 哲学か? そんなものは、遊び相手の人形にでもあげてしまえ。宗教か? まずは形而上学的な考え方をしよう。アイリーンはもうクーパーウッドが最初に出会った一八六五年の、しなやかで、力強く、活気に満ちた少女ではなかった。依然として美しかった。これは事実だ。色白で、成熟した、品のいい女性で、せいぜい三十五、おそらくは三十に見えるかもしれない。残念だが本人はまだ若くて以前ように魅力的だと感じていた。どんなに幸せな境遇だろうと、年齢が忍び寄り、愛が幻影を唱えながら究極の闇へ消えて行くのを実感するのは、女性には酷なことだった。アイリーンは最大の勝利を迎えたときに、愛が死ぬのを目撃したのだ。時々やってみたが、愛は戻って来る、復活するかもしれない、と自分に言い聞かせても無駄だった。結局現実的な性格が、そんなことは絶対にないと語りかけた。リタ・ソールバーグは退けたが、クーパーウッドの最初の一途な心が失われたことをはっきり気づいてしまった。もはや幸せではなかった。愛は死んでしまった。心も端っこも真珠のようなピンクのあの甘い幻想、キューピッドの口とかすんだ目で魅了するあの笑う天使のケルビム、永遠の青春をささやく命の蔓のあの若々しい巻き具合、たくさん歩いて痛んで疲れた後に続くあの呼びかけ合いは、もう存在しなかった。


泣いて、荒れて、自分を責めた。無駄に鏡を見た。まだ新鮮で魅力的なふっくらとした甘美な顔立ちをしみじみ調べた。ある日、目の下の疲れた(くま)を見て、整えていた襟のフリルを首からもぎとってしまうと、ベッドに身を投げ出し、まるで胸が張り裂けんばかりに泣いた。何でおめかしするの? 何で飾りつけるの? あたしのフランクは、もうあたしを愛していないのに。今の自分に、ミシガン・アベニューの洒落た住まい、優雅なフランス風の婦人部屋、仕立屋が腕によりをかけた服、びっしり並んで咲いている蘭のような帽子が何になるのかしら? 無駄よ、無駄! ドアのまぐさに止まったカラスのように、悲しい記憶がここで喪に服した未亡人のようにしんみりと「もうおしまい」と泣いていた。クーパーウッドを一時的に自分に結びつけていた甘い幻想は消え去り、もう二度と訪れないことをアイリーンは知っていた。彼はここにいるのに。部屋では朝も夕方も足音がした。夜は長い退屈が延々とつづく間、クーパーウッドが自分の横で体に手を添えて寝息を立てているのが聞こえた。夫がいない夜もあった……『街の外にいる』ときだった……アイリーンは諦めて額面どおりに夫の言い訳を受け入れた。喧嘩してどうする、と自分に問いかけた。自分に何ができるだろう? 延々待ちつづけていたのだが、でも何のためだろう? 


そして、クーパーウッドは、時間が我々みんなに及ぼす不思議な変えることのできない変化や、老化の印である膝のたるみ、若い頃の艶と輝きが溝を刻んだように減退していることに気がついて時には溜息をついたが、若さのある場所を永遠に壊し続けるその始まりに顔を向けた。若い頃の恋愛の完璧さの代わりにその思い出を使うとか、かつて存在した情熱や欲望の輝きの代わりに、一緒にいることが幸せだと考えてすます、おめでたい忠誠心は彼にはなかった……早朝の露のように凝固した結晶の記憶は玉の形をした思い出のまま、昔の喜びの終焉を慰めたり苦しめたりする。それどころか、アイリーンではわからない繊細な無関心な態度に自分の思いをすべて込めてリタ・ソールバーグがいなくなった後、クーパーウッドの心は痛んだ。ああいうものを手に入れなくてはならない。正直に言うとクーパーウッドには、絵画、古い陶器、音楽、豪邸、彩飾が施されたミサ典書、権力、偉大でありながら無思慮な世の中の称賛がなくてはならなかったのと全く同じように、若さ、美しい幻影、女の虚栄心、新しいまだ試されていない気質の物珍しさが常になくてはならなかった。


すでに述べたが、こうしたクーパーウッドの無節操な態度は気質から自然に開花したものだった。それは慢性的には無節操で、知的には気まぐれで、哲学的には無政府主義だった。見ようによっては、彼はある理想を実現しようとしていたと言えるかもしれないが、驚くことに、理想は時々変化して我々を暗闇で迷わせるのである。そもそも、理想とは何だろう? 亡霊、霧、風のかぐわしさ、清水を夢に見るようなもの。アントワネット・ノバクのような娘の真剣な憧れは、彼には少し窮屈過ぎた。これはあまりに情熱的で執着し過ぎだった。苦労しないわけではなかったが、クーパーウッドはこの特別な関係から徐々に抜け出した。その後も、他の女性と短期間の親密な関係を築いたが大きな満足は得られなかった……ドロシー・オームズビー、ジェシー・ベル・ヒンズデール、トマ・ルイス、ヒルダ・ジュウェルはいずれも名ばかりの存在に過ぎなかった。女優もいれば、速記者、旧株主の娘、教会で働く者、孤児院の支援を求めてきた慈善活動の勧誘員もいた。それは哀れな乱れた考えをする人であることも時々あったが、慣れ親しんだ物事の流れに逆らう変わり者ばかりだった。語り継がれたナポレオンの言葉で言うと、卵をわらずしてオムレツはつくれないのだ。


ロシア系ユダヤ人とアメリカ南西部の出身者を家族に持つステファニー・プラトーの登場は、クーパーウッドの人生の一つの出来事だった。背が高く上品で華麗で若く、リタ・ソールバーグのようにかなり楽観的なのに、不思議な運命論を授かっていた。彼女をよく知るようになるとそれはクーパーウッドに影響して彼を動かした。出会いはイェーテボリへ向かう途中の船上だった。父親のイザドア・プラトーはシカゴの裕福な毛皮商人だった。大柄で、太った、口が達者なタイプで、言わば歩くゼラチンのような男だった。ユダヤ人らしい普通の健全な商人魂を持っていたが、最初に一方を信じても自分の仕事にはっきり支障がない限り別な方も信じる気まぐれな哲学を備えていた。ヘンリー・ジョージや、ロバート・オーエンの持論のような利他的な実践理論を称賛したが、勝手な社会主義を気取っているだけでもあった。そして、かつて自分の帳簿係だったテキサス娘のスセッタ・オズボーンと結婚した。プラトー夫人は柔軟で愛想がよく繊細で、いつも社会の大きなチャンスを見ていた……つまり上昇志向だった。本や芸術や時事問題についての知識は不可欠であることをちゃんと理解する賢い人だったので、そういう知識を身につけた。


両親の気質が混ざって子供の中でよみがえるのだから不思議である。ステファニーは成長する間に、父親と母親の特徴のいくつかを違う体の内で再現していた……魂が興味深い変化を遂げていた。背が高く、色黒、血色が悪く、しなやかで、妙に気分屋で、ほぼ焦げ茶に近い栗色の目には、劣性のとても印象的な輝きがあった。ふくよかで感じがいいキューピッドの口、夢見がちで悩ましげな表情、優雅な首、物憂いしく暗いが人好きのする顔立ちだった。両親から、芸術、文学、哲学、音楽好きなところを受け継いでいた。すでに十八歳のときに、絵を描くこと、歌うこと、詩や本を書くこと、演劇……ありとあらゆることを夢見ていた。何が価値あるかを自分で判断するときは落ち着いていた。どんな愚かな雰囲気や流行も、それを絶妙だと考える……最後にそう言う……ことを重視しがちだった。最初はこれ次はそれといった感じで、芸術家、詩人、音楽家……要するに芸術と感情の世界全部との情熱的な結合を夢に夢見ているまったくの享楽家だった。


クーパーウッドは、六月の朝、ニューヨークの波止場に停泊中のセンチュリオン号の船内で初めてステファニーに出会った。クーパーウッドとアイリーンはノルウェーへ、ステファニーと両親はデンマークとスイスへ向かう途中だった。船の厨房の入口に押し寄せる大きな翼のカモメの群れを見ながら、ステファニーは右舷の手すりから体を乗り出していた。情感を込めて物思いにふけっていた……自分が情感を込めて物思いにふけっていることを(たっぷり)意識していた。背が高く、動きがリズミカルで、ダークグレーの格子縞のドレスと、ヒンズー教のショール風に両肩とウエストと片腕を覆うグレイのシルクの大きなベールがとてもよく似合うことに気づいただけでクーパーウッドはろくに注意を払わなかった。顔はとても血色が悪く、目はまるで胃弱を示すかのような(くま)ができていた。クーパーウッドの肥えた目は、上品な帽子の下の黒髪を見逃さなかった。その後、ステファニー親子は船長のテーブルに現れた。そこにはクーパーウッドも招待されていた。


ステファニーはクーパーウッドとアイリーンに関心を示したが、二人ともこの娘をどう扱っていいのかわからなかった。二人ともこの娘の魂のカメレオン的な性格をほとんど疑わなかった。彼女は芸術家だった。水のように形がなくて変幻自在だった。彼女にとりついていたのは、ただの一過性の憂鬱だった。クーパーウッドは、その顔のそこそこユダヤ人っぽい特徴、首がある程度膨らんでいるとか、暗い眠そうな目が気に入った。しかし、あまりに若すぎたし、とらえどころがないと思い、やり過ごした。十日に及んだこの旅行で、クーパーウッドはいろんな雰囲気の彼女をたっぷりと見た。ご執心らしい若いユダヤ人と散歩しているところ、シャッフルボードをしているところ、風や水しぶきのとどかない片隅でしんみりと読書をしているところ、いつも素朴に見えて、不思議と無邪気で、よそよそしく、夢見心地なところがあった。かと思えば、目が輝き、表情が生き生きし、魂が猛烈に熱くなり、荒ぶる躍動にとりつかれたようだった。一度、小さな角材に覆いかぶさるようにして、細い鋼の彫刻刀で蔵書票を作っているのを見かけた。


ステファニーが若くて大したことがなさそうで、圧倒的なバラ色の魅力と呼べそうなものがなかったので、アイリーンはそこそこ仲良くなった。その年でもアイリーンよりはるかに繊細なステファニーは、アイリーンのことや、精神的なゆとりや応対の仕方にとてもいい印象を持った。アイリーンと仲良くなって、蔵書票を作ってやったり、彼女のスケッチをした。両親が許してくれたら、自分は舞台に立つつもりでいる思いを打ち明けた。アイリーンは、帰国したら夫の絵画を見にいらっしゃいと誘った。アイリーンは、ステファニーがクーパーウッドの人生でどれほど大きな役割を演じるかをあまりわかっていなかった。


イェーテボリで下船したので、クーパーウッド夫妻は十月下旬までもうプラトー家の誰にも会わなかった。やがて、アイリーンは孤独だったのでステファニーに会いに行った。その後折に触れてステファニーはクーパーウッド夫妻に会いにサウスサイドまでやって来た。邸内を散策したり、豪華な室内のどこか隅っこで本を片手に瞑想にふけるのが好きだった。クーパーウッドの絵画、翡翠、ミサ典書、時代もののきらびやかなガラス器を気に入った。アイリーンと話していて、アイリーンはこういうものが本当に大好きなのではなく、興味や喜びを表現して見せるのは、ただの見せかけで、資産としての価値が理由なんだとわかった。ステファニーにとっては、ある種の彩飾が施された書物や、ちっぽけなガラス器は、かなり感性に訴える魅力を持っていたが、こればかりは真の芸術家にしかわからなかった。これらは彼女に悪夢のような気分や虚飾を解き放った。彼女はそれに反応してその余韻に浸り、音楽の編成された豊かさから感じ取るようにそこから不思議な気分を体験した。


そうしているうちに、クーパーウッドのことをたびたび考えた。こういうものが本当に好きなのかしら、それとも買うことが目的で買っているだけかしら? 彼女は、似非芸術家……芸術を見せ物にする人たち……のことをよく耳にしていた。センチュリオン号の甲板を歩いているときのクーパーウッドを思い出した。知性で輝いているように見えた、彼の大きな包み込んで抱きしめるような青灰色の目を覚えていた。明らかに自分の父親よりも力があって重要な人物に見えたが、その理由までは言えなかった。いつもとても垢抜けた服装で、抜群のコーディネートに見えた。言動は少ないが、言うこととやることのすべてに親しみやすい温かさがあった。目が嘲笑していて、心の奥には、彼女にもよくわからない何かに対するユーモアが存在する感じがした。


ステファニーはシカゴに戻って六か月、路面鉄道の計画で忙しかったクーパーウッドとほとんど会わずに過ごした後、別の関心事に巻き込まれてしばらくクーパーウッドとアイリーンから遠ざかっていた。ウエストサイドでは、彼女の母親の友人たち間で、舞台を盛り上げる目的でアマチュアの劇団が結成されていた。この昔からある問題が、新人や経験の浅い人の関心を引かないことはない。すべてはウエストサイドの新興富裕層の一人……ティンバーレイク家……で始まった。アシュランド・アベニューの大邸宅には舞台があり、亜砂色の髪の二十歳になるロマンチックな考えの娘ジョージア・ティンバーレイクは、自分は演技ができると想像していた。太った、子供に甘い母親のティンバーレイク夫人までもが娘と同意見だった。ミルトンの『コーマスの仮面劇』、『ピュラモスとティスベ』、劇団員の一人が書いたハーレクインとコロンバインの改良版などが少し試しに上演されたあと、この思いがスタジオ街へ移されて、ニューアーツビルが拠点にされた。レーン・クロスという名前の画家は肖像画が専門で、画家としての力量は舞台監督にはるかに劣り、どちらも大したことはなかったが、自分は絵が描けると社会をだまして信じ込ませることで生計を立て、この舞台公演を担当するように誘われた。


自らを『キャリック劇団』と名乗ることにした彼らは、古典や準古典劇を次々と上演する中で、徐々にかなり腕前と技を上達させた。ろくな小道具もないのに『ロミオとジュリエット』、モリエールの『才女気取り』、シェリダンの『ライバル』、ソフォクレスの『エレクトラ』が上演された。あれこれとかなりの能力が開発されて、後にアメリカの舞台で評判になる二人の女優が所属する劇団になり、そのうちの一人がステファニー・プラトーだった。活動的なメンバーの中には若いのから大人まで女性が約十人と、ほぼ同数の男性がいた……ここで語りつくせないほど多彩なキャラクターだった。ガードナー・ノールズという若い演劇批評家がいた。〈シカゴ・プレス〉の関係者で、とても気取っていてハンサムだった。色鮮やかな小さな杖で、きちんとズボンをはいた足を叩きながら、火曜日、木曜日、土曜日に劇団員が部屋で開くお茶会に顔を出して、この取り組みのいいところを話し合った。こうしてギャリック劇団のメンバーは徐々に新聞に紹介されるようになった。劇団を仕切るレーン・クロスは、髭のない顔をした青白く不健康な画家で、根っからのならず者の、巧みな女たらしだったが、尻尾をつかませない月並みな振る舞いで発見を免れた。ジョージア・ティンバーレイク、滑稽な役を演じる華やかで積極的な乙女イルマ・オットリ、ステファニー・プラトーたちに興味を持っていた。彼らは、魅惑的な踊りができて歌が歌えてとても多感でロマンチックなもう一人の娘エセル・タッカーマンと一緒に友人のグループを作って、とても親密な仲になった。すぐにこのグループ内で親密な関係が始まった。結婚がゴールではなくただ性の解放に行き着いただけだった。こうしてエセル・タッカーマンはレーン・クロスの愛人になった。イルマ・オットリと、ブリス・ブリッジという名前の若いのに働こうともしない社交家の間に禁断の愛が生まれた。ステファニー・プラトーの熱烈なファンのガードナー・ノールズは、ある日の午後インタビューと称して彼女の自宅に行ったときに文字どおり彼女に飛びついて強引にくどいた。ステファニーは彼に恋愛感情はなく、ほどほどに好きなだけだった。しかし、寛大で、あいまいで、情熱的で、感情的で、経験がなく、何も言わず、いたずらに好奇心旺盛で、こういう問題で社会を支配する自分と他人の物に関する感覚がなかったので、このかなり蛮行を成り行きにまかせた。彼女は臆病者ではなかった……そうなるには、あまりにあいまいで力が強かった。両親は知らなかった。そして、ひとたび別の世界に足を踏み入れてしまうと、性の悦びの世界がわかりはじめた。


こういう若者は悪人だろうか? 社会哲学者に答えさせよう。ひとつ確かなことがある。彼らは家庭を築いて子育てをしなかった。それどころか、二年近く陽気にまるで蝶々のような生活を送った。やがてリュートに亀裂が生じた。役割や、各自の能力レベルや、主導権をめぐって争いが起こった。エセル・タッカーマンはレーン・クロスがイルマ・オットリと愛しあっているのを発見し、レーンと破局した。イルマとブリス・ブリッジは互いに関係を解消し、ブリスは自分の愛情をジョージア・ティンバーレイクに向けた。ステファニー・プラトーはその中でもはるかに個性的で、自分の行動をおかしな方向へもっていった。ガードナー・ノールズとの情事が始まったのは二十歳を目前にひかえた頃だった。しばらくするとレーン・クロスは、芸術的解釈にやや真剣に打ち込もうとしたのと、年上という強みからステファニーの関心を高めたようだった……彼は四十歳で、若いノールズはたった二十四歳だった。彼はすぐにそれに応えた。この男とだらだらと情熱的な関係が続いた。これは重要なように思えたが、まったくそうではなかった。そして、この先も祝福が続くことや、どこかにこのどちらよりもずっと素晴らしい男性がいるかもしれないことにステファニーはぼんやりと気づき始めた。しかしこれは夢に過ぎなかった。時々、クーパーウッドについて考えた。しかしステファニーには、彼が自分の関係するアマチュア演劇のロマンチックな世界とはかなりかけ離れた厳しいとても大変なことに巻き込まれているように見えた。





第二十五章


東洋からの風



クーパーウッドがステファニーに本物の第一印象をもったのは、ギャリック劇団でのことだった。そこにはアイリーンと一緒に『エレクトラ』の上演を見に行った。この役柄のステファニーを特に気に入って、美しいと思った。それから間もないある晩、クーパーウッドは自宅で、ステファニーが自分の翡翠、特にブレスレットとイヤリングの列を見ていることに気がついた。動くとSの字を連想してしまう、一定の起伏のボディラインが好きだった。そのときふと、すてきなお嬢さんだ……とっても……何か重大な未来が待つ運命を感じた。同時に、ステファニーも彼のことを考えていた。


「そういうものに興味があるんですか?」傍らに立ち止まってクーパーウッドは尋ねた。


「すばらしいと思います。あの深緑色といい、あの淡い脂肪のような白も! 中国を背景に考えたらどんなに美しいか目に浮かびます。いつか中国か日本の作品を探してつけてみたいといつも思ってるんです」


「ええ、こういうイヤリングはあなたの黒髪に似合うでしょうね」クーパーウッドは言った。


これまで彼女の容姿に意見を述べたことはなかった。ステファニーは暗いこげ茶色の目を彼に向けた……黒い光を放つビロードのような目だった……今度はクーパーウッドがその目が実際にどんなにすばらしいか、手がどんなにすてきか……まるでマレー人のように茶色いことに……気がついた。


それ以上は何も言わなかった。しかし翌日、荷札のない箱がステファニーの自宅宛に届けられた。中身は一対の翡翠のイヤリングと、ブレスレットと、漢字が彫刻されたブローチだった。ステファニーはうれしくて我を忘れた。両手で中身をひろい集めてキスすると、イヤリングを耳につけて、ブレスレットと指輪を調整した。友人、親類、舞台の仲間、愛人を相手にした経験はあっても、まだまだ世間知らずだった。心はもともとロマンチックで無垢だった。これまで誰も彼女に大したものを与えてこなかった……実の両親でさえくれなかった。これまでの人生で小遣いといったら、衣類を除けば週たったの六ドルだった。自分の部屋でこっそりとこのかわいいものを眺めながら、クーパーウッドは自分を好きになりかけているのだろうかと変なことを考えた。ああいう強くて、厳しい実業界の人間が自分に興味を持つだろうか? 大富豪になりかけている人だと父親が言うのを聞いたことがあった。自分は、一部の人が言うような大女優だろうか、クーパーウッドのような強くて有能なタイプの男が自分を好きになるだろうか……最終的に? レイチェル、ネル・グウィン、聖なるサラや彼女の恋愛話を聞いたことがあった。ステファニーは高価な贈り物をつかんで、アクセサリーや秘密のもの専用の黒い鉄の箱に入れて鍵をかけた。


こういう物を黙って受け取っただけで、クーパーウッドは相手が好意的である心象を十分に得た。根気よく待っていると、ある日、「フランク・アルガーノン・クーパーウッド、親展」の手紙が自宅ではなく会社に届いた。小さく、きれいで、丁寧な手書きの、まるで印字のような文字で書かれていた。 

 



すばらしいプレゼントをいただき、どうお礼を申し上げたらいいのか、わかりません。あなたからいただくつもりで言ったのではありませんが、あなたが送り主であることは承知しております。喜んで頂戴し、愛用させていただきます。謹んでお礼申し上げます。 

 


       ステファニー・プラトー 

 



クーパーウッドは、筆跡、紙、言葉遣いを研究した。二十歳そこそこの女の子にしては、賢く、控えめで、そつがなかった。自宅の自分宛でもよかったかもしれないのだ。一週間の猶予を与えてみた。すると、ある日曜日の午後、自宅でその姿を見つけた。アイリーンは外出中だった。ステファニーはアイリーンが帰宅するのを待っているふりをしていた。


「あの窓のところにいるあなたは見応えがありますよ」クーパーウッドは言った。「背景にもぴったり合いますしね」


「私がですか?」こげ茶色の目が情熱的に燃えた。後ろのパネルは暗い色のオーク材で、冬の午後の日射しを浴びて光っていた。


ステファニー・プラトーはこのチャンスを狙った身じたくをしていた。豊かで短い黒髪は、血のように赤い子供用のリボンで受けとめられて、こめかみから耳にかかって低い位置でおさえてあった。印象的な丸みがとてもよく調和しているしなやかな体は、青りんご色のボディスを着て、裾に赤いひだのある黒いスカートをはいていた。なめらかな腕は肘から下が素肌だった。片方の手首には、彼が与えた翡翠ブレスレットがあった。ストッキングは青りんご色のシルクで、その日は寒かったにもかかわらず、足は真鍮のバックルがついた薄いスリッパを気を引くようにはいていた。


クーパーウッドはオーバーコートを掛けにホールへ行き、笑顔で戻ってきた。


「家内はその辺にいないのかな?」


「執事は外出していると言いましたが、せっかくなので少しお待ちしようと思ったんです。お戻りになるかもしれませんから」


ステファニーは悩ましげな謎めいた目で、腹黒い笑顔を向けた。クーパーウッドはようやくこの女優の全てをはっきりと理解した。


「私のブレスレットが気に入ったようだね?」


「美しいの何のって」ステファニーはうつむいて、うっとりとながめながら答えた。「いつもはつけないんです。マフに入れて持ち運びますから。ちょっとつけてみたところなんです。いつも肌身離さず持ち歩いています。とっても気に入りました。これを肌で感じるのが好きなんです」


ステファニーは傍らの小さなセーム革のバッグを開けてイヤリングとブローチを取り出した……バッグは、ハンカチといつも持ち歩いているスケッチブックと一緒に置いてあった。


こうした本物の関心の表れを認めて感激するのを不思議に感じながらもクーパーウッドは胸が熱くなった。彼も翡翠は大好きだったが、それ以上にこれを別の物で表したい気持ちが大きかった。大雑把に言うなら、女性の若さと希望が……特に若い娘の美と野心に結びついた若さが……彼を動かしたと言えたかもしれない。それが何であれ、クーパーウッドはこの世の中で何かをしたい、何かになりたいという女の衝動に敏感に反応して、優しく、寛容に、まるで親が見守るように、その生意気で、身勝手な、うぬぼれの数々に目を向けた。命の木に生えている哀れな小さな生物は、燃え尽きてすぐに消えてしまう。彼は昔の花の物語を知らなかったが、もし知っていたらそれは彼に訴えかけただろう。彼は手当たり次第に奪いたいわけではなかった。しかし、気質や好みがその人を彼の方向に傾ければ、その人たちは彼のせいで人生で大きな苦労をしなくなるのだ。女性に関する限り、この男は基本的に寛大なのが現実だった。


「すてきですね」クーパーウッドは笑顔で言った。「いいですね」それから傍らのノートと鉛筆を見て尋ねた。「何をしてるんですか?」


「ただのスケッチです」


「見せてくれませんか?」


「大したものじゃありません」ステファニーは謙遜して答えた。「あまりうまく描けないので」


「才女ですね!」それを手に取りながら答えた。「油絵、デッサン、木彫り、演奏、歌、演劇」


「どれもお粗末で」ステファニーは物憂に首を振って顔をそむけながら、ため息をついた。スケッチブックには自分の最高傑作を全て入れてあった。裸婦、ダンサー、胴体、走る姿、眠っている少女の悲しみ、憂鬱、色っぽい頭部と首、あがった顎、つむった目、自分の兄弟、妹、両親をスケッチしたものだった。


「面白いな!」クーパーウッドは新しい宝物に生き生きと鋭く反応して叫んだ。さて、その間彼の目はどこを向いていただろう? 自分のすぐそばにある宝石だ……無垢の汚れない……本物の宝石だ。このデッサンは、くすぶり続ける日の目を見ない炎を連想させた。それこそクーパーウッドを興奮させるものだった。


「私はこういうのを美しいと感じるんだ、ステファニー」クーパーウッドは簡潔に言った。不思議なはっきりしない感じ方だったが本物の愛情が自分に忍び寄っていた。この男が最も愛しているのは芸術だった。それは彼にとって催眠術だった。「絵を学んだことがあるんですか?」クーパーウッドは尋ねた。


「全然」


「それでは、演劇も学んではいなかったんですか?」


「ええ」


ステファニーはゆっくりした哀愁を感じさせる魅惑的な態度で首を振った。耳を隠している黒髪が彼を不思議な気分にさせた。


「私にはあなたの舞台での演技が本物だとわかります。あなたには自然に演じる技術が備わってますよ、私にはそう見えるんです。あれ、私としたことがどうしてしまったんだろう?」


「いえ、そんなんじゃないです」ステファニーはため息をついた。「何でも遊び半分でやってるようにしか自分には見えないですけどね。この先どうしようかと考えると、時々涙が出そうになります」


「二十歳なのに?」


「いい歳ですわ」ステファニーはおちゃめに微笑んだ。


「ステファニー」クーパーウッドは慎重に尋ねた。「正確にはいくつなの?」


「四月で二十一歳になります」ステファニーは答えた。


「ご両親はあなたにとても厳しく接してきましたか?」


ステファニーはぼんやりと首を振った。「いいえ、どうしてそんなことを聞くんですか? 両親とも私にはあまり関心がありませんでした。いつだってルシール、ギルバート、オーモンドが最優先でしたから」その声には、悲痛な、無視された者の響きがあった。舞台の最高のシーンで使った声だった。


「あたなに立派な才能があることに気づいていないのかな?」


「多分、母は私に何かの能力があるかもしれないと思ってます。でも父は違いますね。それが何か?」


ステファニーは物憂げで悲しそうな目を上げた。


「ステファニー、知りたいのなら言うけど、私はあなたがすばらしいと思っている。この間の夜、あなたがあの翡翠を見ていたときにそう思ったんだ。突然そう思ったんだ。あなたは確かに芸術家ですよ。私はずっと忙しくて、それを見過ごしてきた。ひとついいかな」


「はい」


ステファニーは静かに息を吸い込んで、胸をいっぱいに膨らませながら、黒髪の下からクーパーウッドを見つめた。両手は膝の前で無造作に組まれていた。それからつつましくうつむいた。


「さあ、ステファニー! 顔あげて! 聞きたいことがあるんだ。私と知り合って一年以上たつよね。私のことが好きですか?」


「とてもすばらしい方だと思ってます」ステファニーは小声で言った。


「それだけ?」


「それで十分じゃないですか?」ステファニーは相手の方向に鈍い黒のオパールの視線を放って微笑んだ。


「今日、私のブレスレットをつけましたね。つけてとても楽しかったですか?」


「ええ、それはもう」ステファニーは息苦しそうに息を吸い込んでため息をついた。


「本当に何て美しいんだ!」クーパーウッドは立ち上がって相手を見下ろしながら言った。


ステファニーは首を振った。


「そんなことないです」


「美しいですよ!」


「いいえ」


「さあ、ステファニー! こっちへ来て私のことを見て。とても背が高くて、ほっそりしていて、上品ですね。東洋人みたいですよ」


クーパーウッドがそっと腕を伸ばすと、ステファニーはしなやかに向きを変えてため息をついた。「こんなこと、すべきじゃないと思いますけど?」しばらくして相手から離れながら素朴に尋ねた。


「ステファニー!」


「そろそろ帰った方がいいですね」



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ