第24章 ステファニー・プラトー登場
財務も営業も順調だったと言ってもいいこの時期、アイリーンとクーパーウッドの問題はある程度丸く収められていた。今は夏に、一つはアイリーンの気晴らし、もう一つは自分が世界を見たいのと、だんだん造詣が深まっている美術品を収集したい願望を満たすために、外国やアメリカの国外領土に夫婦で短期旅行に出かけるのがクーパーウッドの習慣で、この二年でロシア、スカンジナビア、アルゼンチン、チリ、メキシコを訪問した。計画では五月か六月の出国ラッシュのときに出発して、九月か十月初旬に戻るつもりだった。できる限りアイリーンをなだめて、シカゴが駄目ならニューヨークかロンドンなどどこかよそで最終的に社会的勝利を収める楽しい期待で心を満たしてやり、肉体は離れても精神は今でも誠実だと感じさせようと考えた。
この頃までにクーパーウッドもすっかりずる賢くなり、愛しているふりをして、自分が感じていないというか、本物の情熱に裏打ちされていない女性への配慮をしてみせる能力が備わっていた。気配りはお手の物だった。花、宝石、小物、装飾品を買い与え、妻が限界まで癒やされていることを確認し、しかも同時に、人生が禁断の楽しみの形で提供するかもしれないものを物色して慎重に周囲を見回した。これが事実だとは証明できなかったが、アイリーンはこのことを知っていた。同時に、アイリーンは自分ではどうしようもない愛情と憧れをこの男に抱いていた。
大敗を期した将軍か、長年誠実に勤め上げた末に解雇された社員の胸の内でも思い浮かべたかもしれない。二人の愛が何の価値もなくなったとき、愛情の祭壇に置かれたものがすべて無駄な犠牲だとわかったとき、人生はその愛にどんな言葉をかけるのだろう? 哲学か? そんなものは、遊び相手の人形にでもあげてしまえ。宗教か? まずは形而上学的な考え方をしよう。アイリーンはもうクーパーウッドが最初に出会った一八六五年の、しなやかで、力強く、活気に満ちた少女ではなかった。依然として美しかった。これは事実だ。色白で、成熟した、品のいい女性で、せいぜい三十五、おそらくは三十に見えるかもしれない。残念だが本人はまだ若くて以前ように魅力的だと感じていた。どんなに幸せな境遇だろうと、年齢が忍び寄り、愛が幻影を唱えながら究極の闇へ消えて行くのを実感するのは、女性には酷なことだった。アイリーンは最大の勝利を迎えたときに、愛が死ぬのを目撃したのだ。時々やってみたが、愛は戻って来る、復活するかもしれない、と自分に言い聞かせても無駄だった。結局現実的な性格が、そんなことは絶対にないと語りかけた。リタ・ソールバーグは退けたが、クーパーウッドの最初の一途な心が失われたことをはっきり気づいてしまった。もはや幸せではなかった。愛は死んでしまった。心も端っこも真珠のようなピンクのあの甘い幻想、キューピッドの口とかすんだ目で魅了するあの笑う天使のケルビム、永遠の青春をささやく命の蔓のあの若々しい巻き具合、たくさん歩いて痛んで疲れた後に続くあの呼びかけ合いは、もう存在しなかった。
泣いて、荒れて、自分を責めた。無駄に鏡を見た。まだ新鮮で魅力的なふっくらとした甘美な顔立ちをしみじみ調べた。ある日、目の下の疲れた隈を見て、整えていた襟のフリルを首からもぎとってしまうと、ベッドに身を投げ出し、まるで胸が張り裂けんばかりに泣いた。何でおめかしするの? 何で飾りつけるの? あたしのフランクは、もうあたしを愛していないのに。今の自分に、ミシガン・アベニューの洒落た住まい、優雅なフランス風の婦人部屋、仕立屋が腕によりをかけた服、びっしり並んで咲いている蘭のような帽子が何になるのかしら? 無駄よ、無駄! ドアのまぐさに止まったカラスのように、悲しい記憶がここで喪に服した未亡人のようにしんみりと「もうおしまい」と泣いていた。クーパーウッドを一時的に自分に結びつけていた甘い幻想は消え去り、もう二度と訪れないことをアイリーンは知っていた。彼はここにいるのに。部屋では朝も夕方も足音がした。夜は長い退屈が延々とつづく間、クーパーウッドが自分の横で体に手を添えて寝息を立てているのが聞こえた。夫がいない夜もあった……『街の外にいる』ときだった……アイリーンは諦めて額面どおりに夫の言い訳を受け入れた。喧嘩してどうする、と自分に問いかけた。自分に何ができるだろう? 延々待ちつづけていたのだが、でも何のためだろう?
そして、クーパーウッドは、時間が我々みんなに及ぼす不思議な変えることのできない変化や、老化の印である膝のたるみ、若い頃の艶と輝きが溝を刻んだように減退していることに気がついて時には溜息をついたが、若さのある場所を永遠に壊し続けるその始まりに顔を向けた。若い頃の恋愛の完璧さの代わりにその思い出を使うとか、かつて存在した情熱や欲望の輝きの代わりに、一緒にいることが幸せだと考えてすます、おめでたい忠誠心は彼にはなかった……早朝の露のように凝固した結晶の記憶は玉の形をした思い出のまま、昔の喜びの終焉を慰めたり苦しめたりする。それどころか、アイリーンではわからない繊細な無関心な態度に自分の思いをすべて込めてリタ・ソールバーグがいなくなった後、クーパーウッドの心は痛んだ。ああいうものを手に入れなくてはならない。正直に言うとクーパーウッドには、絵画、古い陶器、音楽、豪邸、彩飾が施されたミサ典書、権力、偉大でありながら無思慮な世の中の称賛がなくてはならなかったのと全く同じように、若さ、美しい幻影、女の虚栄心、新しいまだ試されていない気質の物珍しさが常になくてはならなかった。
すでに述べたが、こうしたクーパーウッドの無節操な態度は気質から自然に開花したものだった。それは慢性的には無節操で、知的には気まぐれで、哲学的には無政府主義だった。見ようによっては、彼はある理想を実現しようとしていたと言えるかもしれないが、驚くことに、理想は時々変化して我々を暗闇で迷わせるのである。そもそも、理想とは何だろう? 亡霊、霧、風のかぐわしさ、清水を夢に見るようなもの。アントワネット・ノバクのような娘の真剣な憧れは、彼には少し窮屈過ぎた。これはあまりに情熱的で執着し過ぎだった。苦労しないわけではなかったが、クーパーウッドはこの特別な関係から徐々に抜け出した。その後も、他の女性と短期間の親密な関係を築いたが大きな満足は得られなかった……ドロシー・オームズビー、ジェシー・ベル・ヒンズデール、トマ・ルイス、ヒルダ・ジュウェルはいずれも名ばかりの存在に過ぎなかった。女優もいれば、速記者、旧株主の娘、教会で働く者、孤児院の支援を求めてきた慈善活動の勧誘員もいた。それは哀れな乱れた考えをする人であることも時々あったが、慣れ親しんだ物事の流れに逆らう変わり者ばかりだった。語り継がれたナポレオンの言葉で言うと、卵をわらずしてオムレツはつくれないのだ。
ロシア系ユダヤ人とアメリカ南西部の出身者を家族に持つステファニー・プラトーの登場は、クーパーウッドの人生の一つの出来事だった。背が高く上品で華麗で若く、リタ・ソールバーグのようにかなり楽観的なのに、不思議な運命論を授かっていた。彼女をよく知るようになるとそれはクーパーウッドに影響して彼を動かした。出会いはイェーテボリへ向かう途中の船上だった。父親のイザドア・プラトーはシカゴの裕福な毛皮商人だった。大柄で、太った、口が達者なタイプで、言わば歩くゼラチンのような男だった。ユダヤ人らしい普通の健全な商人魂を持っていたが、最初に一方を信じても自分の仕事にはっきり支障がない限り別な方も信じる気まぐれな哲学を備えていた。ヘンリー・ジョージや、ロバート・オーエンの持論のような利他的な実践理論を称賛したが、勝手な社会主義を気取っているだけでもあった。そして、かつて自分の帳簿係だったテキサス娘のスセッタ・オズボーンと結婚した。プラトー夫人は柔軟で愛想がよく繊細で、いつも社会の大きなチャンスを見ていた……つまり上昇志向だった。本や芸術や時事問題についての知識は不可欠であることをちゃんと理解する賢い人だったので、そういう知識を身につけた。
両親の気質が混ざって子供の中でよみがえるのだから不思議である。ステファニーは成長する間に、父親と母親の特徴のいくつかを違う体の内で再現していた……魂が興味深い変化を遂げていた。背が高く、色黒、血色が悪く、しなやかで、妙に気分屋で、ほぼ焦げ茶に近い栗色の目には、劣性のとても印象的な輝きがあった。ふくよかで感じがいいキューピッドの口、夢見がちで悩ましげな表情、優雅な首、物憂いしく暗いが人好きのする顔立ちだった。両親から、芸術、文学、哲学、音楽好きなところを受け継いでいた。すでに十八歳のときに、絵を描くこと、歌うこと、詩や本を書くこと、演劇……ありとあらゆることを夢見ていた。何が価値あるかを自分で判断するときは落ち着いていた。どんな愚かな雰囲気や流行も、それを絶妙だと考える……最後にそう言う……ことを重視しがちだった。最初はこれ次はそれといった感じで、芸術家、詩人、音楽家……要するに芸術と感情の世界全部との情熱的な結合を夢に夢見ているまったくの享楽家だった。
クーパーウッドは、六月の朝、ニューヨークの波止場に停泊中のセンチュリオン号の船内で初めてステファニーに出会った。クーパーウッドとアイリーンはノルウェーへ、ステファニーと両親はデンマークとスイスへ向かう途中だった。船の厨房の入口に押し寄せる大きな翼のカモメの群れを見ながら、ステファニーは右舷の手すりから体を乗り出していた。情感を込めて物思いにふけっていた……自分が情感を込めて物思いにふけっていることを(たっぷり)意識していた。背が高く、動きがリズミカルで、ダークグレーの格子縞のドレスと、ヒンズー教のショール風に両肩とウエストと片腕を覆うグレイのシルクの大きなベールがとてもよく似合うことに気づいただけでクーパーウッドはろくに注意を払わなかった。顔はとても血色が悪く、目はまるで胃弱を示すかのような隈ができていた。クーパーウッドの肥えた目は、上品な帽子の下の黒髪を見逃さなかった。その後、ステファニー親子は船長のテーブルに現れた。そこにはクーパーウッドも招待されていた。
ステファニーはクーパーウッドとアイリーンに関心を示したが、二人ともこの娘をどう扱っていいのかわからなかった。二人ともこの娘の魂のカメレオン的な性格をほとんど疑わなかった。彼女は芸術家だった。水のように形がなくて変幻自在だった。彼女にとりついていたのは、ただの一過性の憂鬱だった。クーパーウッドは、その顔のそこそこユダヤ人っぽい特徴、首がある程度膨らんでいるとか、暗い眠そうな目が気に入った。しかし、あまりに若すぎたし、とらえどころがないと思い、やり過ごした。十日に及んだこの旅行で、クーパーウッドはいろんな雰囲気の彼女をたっぷりと見た。ご執心らしい若いユダヤ人と散歩しているところ、シャッフルボードをしているところ、風や水しぶきのとどかない片隅でしんみりと読書をしているところ、いつも素朴に見えて、不思議と無邪気で、よそよそしく、夢見心地なところがあった。かと思えば、目が輝き、表情が生き生きし、魂が猛烈に熱くなり、荒ぶる躍動にとりつかれたようだった。一度、小さな角材に覆いかぶさるようにして、細い鋼の彫刻刀で蔵書票を作っているのを見かけた。
ステファニーが若くて大したことがなさそうで、圧倒的なバラ色の魅力と呼べそうなものがなかったので、アイリーンはそこそこ仲良くなった。その年でもアイリーンよりはるかに繊細なステファニーは、アイリーンのことや、精神的なゆとりや応対の仕方にとてもいい印象を持った。アイリーンと仲良くなって、蔵書票を作ってやったり、彼女のスケッチをした。両親が許してくれたら、自分は舞台に立つつもりでいる思いを打ち明けた。アイリーンは、帰国したら夫の絵画を見にいらっしゃいと誘った。アイリーンは、ステファニーがクーパーウッドの人生でどれほど大きな役割を演じるかをあまりわかっていなかった。
イェーテボリで下船したので、クーパーウッド夫妻は十月下旬までもうプラトー家の誰にも会わなかった。やがて、アイリーンは孤独だったのでステファニーに会いに行った。その後折に触れてステファニーはクーパーウッド夫妻に会いにサウスサイドまでやって来た。邸内を散策したり、豪華な室内のどこか隅っこで本を片手に瞑想にふけるのが好きだった。クーパーウッドの絵画、翡翠、ミサ典書、時代もののきらびやかなガラス器を気に入った。アイリーンと話していて、アイリーンはこういうものが本当に大好きなのではなく、興味や喜びを表現して見せるのは、ただの見せかけで、資産としての価値が理由なんだとわかった。ステファニーにとっては、ある種の彩飾が施された書物や、ちっぽけなガラス器は、かなり感性に訴える魅力を持っていたが、こればかりは真の芸術家にしかわからなかった。これらは彼女に悪夢のような気分や虚飾を解き放った。彼女はそれに反応してその余韻に浸り、音楽の編成された豊かさから感じ取るようにそこから不思議な気分を体験した。
そうしているうちに、クーパーウッドのことをたびたび考えた。こういうものが本当に好きなのかしら、それとも買うことが目的で買っているだけかしら? 彼女は、似非芸術家……芸術を見せ物にする人たち……のことをよく耳にしていた。センチュリオン号の甲板を歩いているときのクーパーウッドを思い出した。知性で輝いているように見えた、彼の大きな包み込んで抱きしめるような青灰色の目を覚えていた。明らかに自分の父親よりも力があって重要な人物に見えたが、その理由までは言えなかった。いつもとても垢抜けた服装で、抜群のコーディネートに見えた。言動は少ないが、言うこととやることのすべてに親しみやすい温かさがあった。目が嘲笑していて、心の奥には、彼女にもよくわからない何かに対するユーモアが存在する感じがした。
ステファニーはシカゴに戻って六か月、路面鉄道の計画で忙しかったクーパーウッドとほとんど会わずに過ごした後、別の関心事に巻き込まれてしばらくクーパーウッドとアイリーンから遠ざかっていた。ウエストサイドでは、彼女の母親の友人たち間で、舞台を盛り上げる目的でアマチュアの劇団が結成されていた。この昔からある問題が、新人や経験の浅い人の関心を引かないことはない。すべてはウエストサイドの新興富裕層の一人……ティンバーレイク家……で始まった。アシュランド・アベニューの大邸宅には舞台があり、亜砂色の髪の二十歳になるロマンチックな考えの娘ジョージア・ティンバーレイクは、自分は演技ができると想像していた。太った、子供に甘い母親のティンバーレイク夫人までもが娘と同意見だった。ミルトンの『コーマスの仮面劇』、『ピュラモスとティスベ』、劇団員の一人が書いたハーレクインとコロンバインの改良版などが少し試しに上演されたあと、この思いがスタジオ街へ移されて、ニューアーツビルが拠点にされた。レーン・クロスという名前の画家は肖像画が専門で、画家としての力量は舞台監督にはるかに劣り、どちらも大したことはなかったが、自分は絵が描けると社会をだまして信じ込ませることで生計を立て、この舞台公演を担当するように誘われた。
自らを『キャリック劇団』と名乗ることにした彼らは、古典や準古典劇を次々と上演する中で、徐々にかなり腕前と技を上達させた。ろくな小道具もないのに『ロミオとジュリエット』、モリエールの『才女気取り』、シェリダンの『ライバル』、ソフォクレスの『エレクトラ』が上演された。あれこれとかなりの能力が開発されて、後にアメリカの舞台で評判になる二人の女優が所属する劇団になり、そのうちの一人がステファニー・プラトーだった。活動的なメンバーの中には若いのから大人まで女性が約十人と、ほぼ同数の男性がいた……ここで語りつくせないほど多彩なキャラクターだった。ガードナー・ノールズという若い演劇批評家がいた。〈シカゴ・プレス〉の関係者で、とても気取っていてハンサムだった。色鮮やかな小さな杖で、きちんとズボンをはいた足を叩きながら、火曜日、木曜日、土曜日に劇団員が部屋で開くお茶会に顔を出して、この取り組みのいいところを話し合った。こうしてギャリック劇団のメンバーは徐々に新聞に紹介されるようになった。劇団を仕切るレーン・クロスは、髭のない顔をした青白く不健康な画家で、根っからのならず者の、巧みな女たらしだったが、尻尾をつかませない月並みな振る舞いで発見を免れた。ジョージア・ティンバーレイク、滑稽な役を演じる華やかで積極的な乙女イルマ・オットリ、ステファニー・プラトーたちに興味を持っていた。彼らは、魅惑的な踊りができて歌が歌えてとても多感でロマンチックなもう一人の娘エセル・タッカーマンと一緒に友人のグループを作って、とても親密な仲になった。すぐにこのグループ内で親密な関係が始まった。結婚がゴールではなくただ性の解放に行き着いただけだった。こうしてエセル・タッカーマンはレーン・クロスの愛人になった。イルマ・オットリと、ブリス・ブリッジという名前の若いのに働こうともしない社交家の間に禁断の愛が生まれた。ステファニー・プラトーの熱烈なファンのガードナー・ノールズは、ある日の午後インタビューと称して彼女の自宅に行ったときに文字どおり彼女に飛びついて強引にくどいた。ステファニーは彼に恋愛感情はなく、ほどほどに好きなだけだった。しかし、寛大で、あいまいで、情熱的で、感情的で、経験がなく、何も言わず、いたずらに好奇心旺盛で、こういう問題で社会を支配する自分と他人の物に関する感覚がなかったので、このかなり蛮行を成り行きにまかせた。彼女は臆病者ではなかった……そうなるには、あまりにあいまいで力が強かった。両親は知らなかった。そして、ひとたび別の世界に足を踏み入れてしまうと、性の悦びの世界がわかりはじめた。
こういう若者は悪人だろうか? 社会哲学者に答えさせよう。ひとつ確かなことがある。彼らは家庭を築いて子育てをしなかった。それどころか、二年近く陽気にまるで蝶々のような生活を送った。やがてリュートに亀裂が生じた。役割や、各自の能力レベルや、主導権をめぐって争いが起こった。エセル・タッカーマンはレーン・クロスがイルマ・オットリと愛しあっているのを発見し、レーンと破局した。イルマとブリス・ブリッジは互いに関係を解消し、ブリスは自分の愛情をジョージア・ティンバーレイクに向けた。ステファニー・プラトーはその中でもはるかに個性的で、自分の行動をおかしな方向へもっていった。ガードナー・ノールズとの情事が始まったのは二十歳を目前にひかえた頃だった。しばらくするとレーン・クロスは、芸術的解釈にやや真剣に打ち込もうとしたのと、年上という強みからステファニーの関心を高めたようだった……彼は四十歳で、若いノールズはたった二十四歳だった。彼はすぐにそれに応えた。この男とだらだらと情熱的な関係が続いた。これは重要なように思えたが、まったくそうではなかった。そして、この先も祝福が続くことや、どこかにこのどちらよりもずっと素晴らしい男性がいるかもしれないことにステファニーはぼんやりと気づき始めた。しかしこれは夢に過ぎなかった。時々、クーパーウッドについて考えた。しかしステファニーには、彼が自分の関係するアマチュア演劇のロマンチックな世界とはかなりかけ離れた厳しいとても大変なことに巻き込まれているように見えた。




