第11章~第17章
第十一章
大胆の報い
明朝、ノリエ・シムズ家をはじめとした他の家々では食後のお茶がすんでから、クーパーウッド夫妻の社交の努力の成果が議論され、最終的に受け入れるかどうかの問題が慎重に検討された。
「クーパーウッド夫人の欠点は」シムズ夫人は述べた。「あまりにも不器用すぎることね。すべてのものが派手過ぎだったわ。ギャラリーの奥に自分の肖像画があって、反対側があのジェロームだなんて! その上、今朝の新聞記事ときたら! ほら、あなただってあの人たちが社交界にいたんだと思ってしまうわよ」シムズ夫人はすでに、自分の友人であるとばかり思っていたテイラー・ロードとケント・マッキベンに、自分が利用されたことに少し腹を立てていた。
「集まった人たちの様子はどうだったのかね?」ロールパンにバターを塗りながら、ノリエは尋ねた。
「ええ、もちろん、代表的な方々は全然いなかったわ。あそこにいた重要人物といったら、私たちくらいでしたもの。今となっては行ったのを悔やんでますわ。一体、イスラエルス夫妻だの、ホエクセマ夫妻だのって何者かしら? あんなひどい女はないわ!」(ホエクセマ夫人のことを言っていた)「あれより退屈な話は聞いたことがないわよ」
「私は、午後、新聞社のハグエニンと話したんだけど」ノリエは言った。「ハグエニンが言うには、クーパーウッドはここに来る前、フィラデルフィアで破産して多くの訴訟をかかえていたそうだ。そういう話は聞いたか?」
「いいえ。でも向こうのドレイク夫妻とウォーカー夫妻をご存知だそうよ。そのことでネリーに尋ねるつもりでしたの。そんなにうまくいっていたのなら、どうしてフィラデルフィアを離れなければならないのか、何度も不思議に思ったのよ。普通はそんなことしませんものね」
シムズは、クーパーウッドがシカゴであげている投資の実績が、すでに妬ましかった。それに、クーパーウッドの態度を見れば最高の知性と勇気の持ち主であることがわかった。人生の他のことでもそうだが、それは常にへりくだってものを頼む者と勝った支配者以外の全員に怨まれた。シムズはついに、クーパーウッドについてもっとたくさんのことを、はっきりとしたことを、本気で知りたくなった。
アイリーンは考えもしなかったかもしれないが、この社会的地位の問題がいずれかに決着がつく前に、ある意味ではるかに大きな事態が発生した。新旧ガス会社の間で緊張が高まっていた。既存の会社の株主たちが不安を募らせていて、自分たちの独占的な領域を荒らすと脅している新ガス会社の背後にいる人物を見つけ出そうと躍起になっていた。デ・ソト・シッペンスとヴァン・シックル老将軍の陰謀と闘うために〈北シカゴ・ガス・イルミネイティング社〉に雇われた弁護士の一人がようやく、レイクビュー議会が最終的に新会社に運営権を与えたことと、上訴裁判所がそれを支持するつもりでいることをつきとめ、陰謀と、議員に対する大規模な収賄を告発することを思いついた。ドゥニウエイやジェイコブ・ゲレヒトや他のノースサイドの人間が、現金で買収されていたという重大な証拠が集められた。訴訟を起こせば運営権の最終承認が遅れて、他にすべきことを考える時間を既存の会社に与えることになる。パーソンズという名前のノースサイドの会社の弁護士は、シッペンスとヴァン・シックル老将軍の動きをたどり、彼らはただのダミーと駒に過ぎず、この騒動全体の黒幕はクーパーウッド、さもなくば同氏が代理人を務めている人物だと最終的に結論づけた。ある日、パーソンズは面会するためにクーパーウッドの事務所を訪ねた。納得できなかったので、相手の経歴と人脈の調査を始めた。こうした各種調査と対抗策は、十一月下旬に合衆国巡回裁判所に提出されたフランク・アルガーノン・クーパーウッド、ヘンリー・デ・ソト・シッペンス、ジャドソン・P・ヴァン・シックルらを陰謀罪で訴える裁判手続きで頂点に達した。この直後に、同じ内容を訴えたウエストサイドとサウスサイドの各社による訴訟がなされた。いずれの裁判でもクーパーウッドの名前は、既存の会社に買収させるために共謀していた新会社の黒幕として言及された。フィラデルフィア時代の経歴が公表されたが、部分的なものだった……いつだったか以前新聞社へ提供したかなり修正されたものだった。陰謀だの贈収賄だの言葉は物騒だが、弁護士の訴えは何の証明にもなっていなかった。しかし、どう言い訳しても前科は、前回の破産、離婚、不祥事(新聞はこれについて極めて慎重に言及しただけだった)と合わさって、世間の関心を呼び、クーパーウッド夫妻を世間の注目の的にした。
クーパーウッド本人もインタビューを申し込まれたが彼の返事は、自分は新会社三社のただの財務担当者に過ぎず投資家ではない、自分に関するかぎり、告訴は事実無根であり、状況をできるだけ厄介にするために捏造されただけの無意味な訴えだ、というものだった。名誉毀損で訴えると脅かした。とはいえ、この訴訟は結局(どの会社でも財務担当者の身分以外にはたどり着けないように万全の態勢がとられていたから)失敗に終わったが、それでも訴訟が起こされたことで、今や確実に華々しい経歴をもつ凄腕の相場師であることがばれてしまった。
「どうも」ある日の朝食の席でアンソン・メリルは妻に言った。「このクーパーウッドという男、新聞に名前が出始めたな」目の前のテーブルにタイムズを置いて見出しを見ていた。当時はやりの古風なピラミッドの形で、「シカゴ全市民に対する陰謀。フランク・アルガーノン・クーパーウッド、ジャドソン・P・ヴァン・シックル、ヘンリー・デ・ソト・シッペンスらが巡回裁判所への訴状に名を連ねた」とあり、そのあとに他の事実が詳しく続いた。「てっきり、ただのブローカーだと思ってたよ」
「私だってろくに知りませんわ」妻は答えた。「ベラ・シムズが話してくれた以外のことはね。何て書いてあるの?」
メリルは妻に新聞を手渡した。
「ただの社交界入りをしたがっている人なんだと思ってました」メリル夫人は続けた。「私が聞いたところでは、奥さんの方は無理ね。私は会ったことがありませんけど」
「フィラデルフィアの人間にしてはいいスタートを切ってるな」メリルは微笑んだ。「旦那の方にはカルメットで会ったことがある。私にはかなりの切れ者に見えたがね。とにかく景気よく仕事をしているな」
同じようにノーマン・シュライハート氏もカルメットやユニオンリーグ・クラブのホールなどでクーパーウッドを見かけていたが、この時まで彼のことを考えたことがなく、何者だろうと真剣に尋ね始めた。シュライハートは心身ともにすこぶる元気で、身長六フィート、牛のように強くて無神経で、アンソン・メリルとは全く違うタイプであり、新聞が話題にし始めた直後のある日のこと、カルメット・クラブでアディソンに会った。相手のそばの大きな革のソファに座りこんで、シュライハートは言った。
「最近、新聞で名前を見かけるクーパーウッドという人物は何者なんですか、アディソン? あなたは顔が広いからご存知でしょ。あなたは一度、私に紹介しませんでしたっけ?」
「確かにしましたね」クーパーウッドが攻撃にさらされていたにもかかわらず、ことのほか上機嫌なアディソンは快活に答えた。この闘争に伴う騒ぎを見れば、クーパーウッドがかなり巧みに事態をコントロールし続けなければならないことが明らかだった。そして何よりも第一に彼は後援者の名前が出ないようにしていた。「生まれはフィラデルフィア。数年前ここに来て、穀物仲介業を始めた。現在は銀行家だ。かなりのやり手だ、と言っておこう。資金は潤沢だよ」
「一八七一年にフィラデルフィアで百万ドルが原因で破産したというのは、新聞が言うように事実なんですか?」
「私が知る限り、そうだね」
「じゃ、向こうで刑務所にいたのですか?」
「まあ……そうですな。本当は犯罪じゃないと私は信じてるけどね。私が知りえたところでは、何か政治と金の込み入った事情らしい」
「で、新聞が言うように四十そこそこなんですか?」
「そのへんのところは、判断するしかないな。どうしてなんですか?」
「まあ、彼の計画が私には、ずいぶんと思い上がって見えたものですから……地元の既存のガス会社に立ち向かうだなんてね。何としても押し切るつもりなんですかね?」
「私にはそんなことわからんよ。私が知っているのは新聞で読んだことだけだからね」アディソンは慎重に答えた。本当はこの件に一切触れたくなかった。ちょうどこの頃、クーパーウッドは代理人を通じて、関係者全員と妥協して融和を図ろうと忙しかった。なかなかうまくいっていなかった。
「ふん!」シュライハートは言った。どうして自分もメリルもアーニールも他の連中も、ずっとこの分野に参入せず、既存の会社を買収せずにきたのだろうと考えていた。シュライハートは興味を抱いて立ち去った。一両日中に……翌日午前中のうちに……計画がまとまった。シュライハートはクーパーウッドと同じで、抜け目なく、シビアで、冷たい男だった。口にこそしなかったがシカゴと、その将来にかかわる全てを信じていた。クーパーウッドが目をつけたこのガスの問題は、今ならシュライハートにも鮮明に見通せた。今でさえも、第三者が介入して手の込んだ工作をすることによって、多大な報酬を確保することが不可能ではないかもしれないのだ。もしかしたらクーパーウッド自身が買収されることだってありえる……そんなことが誰にわかるのだろう?
シュライハート氏はとても支配的なタイプの人間で、従属的な事業提携や投資を良しとしなかった。こういうものに立ち入るなら自分が仕切りたがった。そしてシュライハートは、クーパーウッドを自分の事務所に招いて問題を話し合うことに決めた。それに伴い、秘書に手紙を書かせて「重大な用件」があるとかなり高慢な文言でクーパーウッドに来訪を呼びかけた。
たまたまこうなったとはいえ、ちょうどその頃クーパーウッドは各方面から自分に浴びせられた中傷のひどさにずっと苦しめられていたが、シカゴ金融界に築いた自分の地位がかなり固まったと感じていた。こんな状況でも貧富の分け隔てをせず人間をめげずに軽蔑してみせるのが彼の気質だった。シュライハートは紹介されていながら今まで自分を全然気にも留めようとしなかったとクーパーウッドはちゃんと気がついていた。
「クーパーウッド氏に代わってお返事いたします」アントワネット・ノバクはクーパーウッドの言う通りに書いた。「現在大変立て込んでおりますが、当事務所にて、いつでもよろこんでシュライハート氏にお会いいたします」
これは高圧的で尊大なシュライハートを少々いらだたせた。かと言って、この場合、話し合いが害になるはずがなく、むしろ好ましいと納得した。ある水曜日の午後、シュライハートはクーパーウッドの事務所を訪れ、とても手厚く迎えられた。
「ようこそ、シュライハートさん」クーパーウッドは手を差し伸べながら心からそう言った。「またお会いできてうれしいです。数年前に一度お会いしたことがありましたね」
「そうでしたね」シュライハートは答えた。肩幅が広く、頭が四角く、目は黒で、短い黒の口髭が引き締まった上唇を優雅に飾っていた。険しくて暗い刺すような目をしていた。「新聞で知ったのですが、もしそれが信頼できるのであれば」シュライハートは単刀直入に要点に入った。「あなたは地元のガスに関わりをお持ちですよね。それは事実でしょうか?」
「新聞なんてどれも当てにできないと思います」クーパーウッドは平然と答えた。「私が関わっているかいないかに、どうしてあなたが関心をお持ちになったのか教えていただけますか?」
「ええ、実を言いますと」シュライハートは資本家を見すえながら答えた。「私もこの地域のガス情勢には関心があるんですよ。投資すればかなり儲かる分野ですし、最近になって既存の会社の人間が何人か私のところに合併を手伝ってほしいと頼みに来たんです」(これはまったく事実ではなかった。)「あなたが今とっている方針であなたがお考えの勝算とはどんなものだろうと思いましてね」
クーパーウッドは微笑んだ。「あなたの動機と人脈を今よりももっとたっぷり把握しないうちは、それを議論したくありませんね」クーパーウッドは言った。「あなたが本当に既存の会社の株主に、この問題に介入して調整役を担ってほしいと頼まれたのだと理解していいのですか?」
「そのとおりです」シュライハートは言った。
「ご自分で合併できるとお考えなのですか? 合併基準は?」
「既存の各社の一株に対して、新しい会社の二株か三株を提供すればことは簡単だと言っておきましょう。そうすれば我々は、役員を一組選出して、事務所を一組構えて、訴訟を全部やめて、みんなを丸く収められますよ」
まるでクーパーウッドがとっくの昔にそんなことをすべて考え済みなのを否定してかかるような、余裕に満ちた偉そうな態度でシュライハートはこれを言った。自分の計画が偉そうな態度で自分に突きつけられたものだからクーパーウッドは少なからず驚いた……しかも相手は地元のかなりの実力者……これまで完全に自分に対し見て見ぬふりを決め込んでいた人物である。
「この新しい会社を組み入れる基準はどうお考えですか?」クーパーウッドは慎重に尋ねた。
「資本金が大き過ぎなければ他と同じ基準ですね。細部に至るまで検討し尽くしたわけではありませんが、投資額に応じて一対、二か三でしょうね。もちろん、既存の会社が被る不利益は考慮されないとなりません」
クーパーウッドは考え込んだ。この申し出を受け入れるべきかはねつけるべきか? 既存の会社に売却して手っ取り早く儲けを出すチャンスが来た。自分ではなくシュライハートだけが、この手の込んだ取引で大きな成果を手にすることになる。しかし、待てば……たとえシュライハートが既存の三社を一つにまとめられたとしても……もっと良い条件を引き出せるかもしれない。確証はなかった。最後にクーパーウッドは尋ねた。「新旧の各社にこの基準が適応されたあとで、新会社の株式はどれくらいあなたの手元に……設立メンバーの手元に残るのですか?」
「まあ、おそらく全体の三十五から四十パーセントでしょうね」シュライハートは機嫌をとるように答えた。「労働には賃金で報いませんとね」
「まったくです」クーパーウッドは微笑んだ。「しかし、この柿をとるために棒を切っていたのは私ですから、相応の取り分が私のものになるべきだと私には思えるのですが、そうは思いませんか?」
「どういうことでしょうか?」
「言ったとおりですよ。この合併案を実現させた新会社を作ったのはこの私なんです。あなたの提案している計画は、かねてから私が提案してきたものに過ぎません。私は彼らの領域に侵入したと思われているだけなのに、既存の会社の役員や取締役連中は私に憤慨しているんですよ。もしそれが理由で、彼らが私ではなくあなたを通して行動したいというのであれば、私はもっと多くの株式を持つべきであるように思えるのですがね。この新会社に対する私個人の権利はあまり大きくはないんです。本当に財務担当者でしかありませんからね」(これは事実ではなかったが、クーパーウッドは相手にそう思わせたかった。)
シュライハートは微笑んだ。「しかしですね、これを実行するために私がほぼ全財産をつぎ込んでいることをあなたはお忘れですよ」
「あなたこそ」クーパーウッドは言い返した。「私が初心者でないことをお忘れだ。私は自分の全財産をつぎ込むことを約束します。もしお望みなら、あなたの労に報いるだけのいいボーナスを出しますよ。新旧の会社が持っている工場にも運営権にも、それなりの値打ちがありますからね。シカゴが発展中であることを覚えておかなければいけません」
「そんなことは知っている」シュライハートは言葉を濁して答えた。「あなたの前途に長くて高くつく戦いがひかえていることもね。このままでは、あなたが続けても既存の会社に承諾されることは期待できません。私の見たところ、向こうはあなたとは組みませんからね。この合併を実現させるには、私のような第三者……影響力がある者、シカゴの古株と言った方がいいですかな、この連中を知る者が必要になるんです。私以上の適任者がいると思いますか?」
「適任者を見つけることは全然不可能なことではありません」クーパーウッドはあっさりと答えた。
「私はそうは思いませんね。このままではきっと駄目でしょう。既存の会社はあなたを通して仕事をしたがりませんよ。彼らが組むのは私です。私の条件を受け入れ、先々のことは私に任せて、この問題を収束させた方がいいとは思いませんか?」
「あの基準では話になりませんね」クーパーウッドはあっさり答えた。「我々は敵国深く侵攻して多大な成果をあげたんです。一対三であれ一対四であれ……どんな条件が既存の会社の株主に与えられようと……新株については精一杯のことをしましょう。残ったものが何であれ、私の持ち分は半分でなくてはなりません。それを他と分けないとならないのでね」(これもまた事実ではなかった。)
「いや」シュライハートは四角い頭を振りながら歯切れ悪く反対した。「それは無理だ。リスクが大き過ぎる。四分の一なら認めてもいいかもしれないが……まだ断言はできませんね」
「半分か、あきらめるかですな」クーパーウッドはきっぱり言い切った。
シュライハートは立ち上がって「それがぎりぎりの線なんですね?」と尋ねた。
「絶対に譲れません」
「それでは」シュライハートは言った。「折り合えませんね。残念ですな。かなり長くて高くつく戦いになると気づくかもしれませんよ」
「それはちゃんと想定済みです」資本家は答えた。
第十二章
新たな家臣
とても丁重だがきっぱりとシュライハートをはねつけたクーパーウッドは、剣をとる者は剣で滅びることがあることを学ぶことになった。法人設立証明書が発行される市町村議会や裁判所などがある州議会議事堂で目を光らせていた自分の用心深い弁護士が、重大な反対活動が始まったと察知するまでに長く時間はかからなかった。ノースサイドの会社が関係している何かの予兆の第一報を告げたのはヴァン・シックル老将軍だった。ある日の午後遅くなって将軍は、埃っぽいオーバーコートをゆったりと肩にはおり、小さな柔らかい帽子を毛深い眉をおおうように目深にかぶって現れた。クーパーウッドが「今晩は、将軍、どうしました」と問うと一大事とばかりに座り込んだ。
「これからやって来る本物の嵐へ備えないといけませんね、大将」将軍は、つけるのが癖になった敬称をつけて資本家に言った。
「今度はどんな問題なんですか?」クーパーウッドは尋ねた。
「まだ本格的な障害ではないが、いずれはそうなるかもしれない。何者かが……正体は不明だが……既存の三社をひとつにまとめようとしているんです。〈シカゴユナイテッド・ガス燃料社〉の法人設立証明書の申し込みがスプリングフィールドでありました。そして今、〈ダグラス信託〉で取締役会が開かれています。この情報の出所はドゥニウエイです。あいつはどこかに物知りな友人がいるようですね」
クーパーウッドはいつものように指先を合わせて、軽快なリズムで叩き始めた。
「えーと……〈ダグラス信託〉。シムズ氏がそこの社長だが、そんなものを作るほどの切れ者じゃない。設立者は誰ですか?」
将軍は四人の名前のリストを出した。その中に既存の会社の役員や取締役はいなかった。
「全部ダミーだ」クーパーウッドは簡潔に言った。「黒幕の心当たりならあるよ、将軍」しばらく考えてから言った。「でもこれは心配しなくていい。向こうが統合しても我々に害を与えられないからね。最終的には我々に売り渡すか、我々を買収することになるんだ」
しかし、何を根拠にしたにしろ、シュライハートが既存の会社を説得して統合に成功したと思うとクーパーウッドは腹立たしかった。じきに第三者を装ってアディソンに出向いてもらい、まさしくこの提案をしてもらうつもりでいたからだ。あの話し合いの後すぐにシュライハートが動いたのは確実だった。レイク・ナショナル銀行のアディソンの事務所へ急いだ。
「ニュースを聞きましたか?」クーパーウッドが現れた瞬間に相手は大声をあげた。「向こうは合併を計画している。シュライハートのしわざだ。こうなるのを心配していたのにな。〈ダグラス信託〉のシムズが財務担当の役まわりだ。私がこの情報を手に入れて十分とたっていませんよ」
「その件は聞きました」クーパーウッドは静かに答えた。「もう少し急ぐべきでした。ですが、別にこちらの落ち度というわけではない。合併の条件はご存知ですか?」
「三対一の割合で株式を持ち合って、シュライハートには持株会社の約三十パーセントを残して、売却するなり保有するなり好きにさせるというものです。利息は彼が保証します。私たちは彼のためにお膳立てしたようなものだ……勝負を奴にくれてやったんですからね」
「それでも」クーパーウッドは答えた。「彼にはまだ我々との取引が残っています。さっそく市議会に乗り込んでいって、包括的な運営権を申請しましょう。それなら手に入れられるかもしれない。それさえ手に入れてしまえば、向こうは折れるでしょう。我々は、小さな会社を供給会社としていますから実際には彼らよりも有利な立場になるでしょう。こっちはこっちでまとまればいいんです」
「それにはかなりお金がかかるんじゃないですか?」
「大したことはないですよ。こっちはガス管を敷設したり、工場を建設したりしなくて済むかもしれません。その前に向こうが身売りか買収か合併を申し出てくるでしょう。条件を決められるのはこっちですから。私に任せてください。ひょっとして、マッケンティさんをご存知ないでしょうか、地方の問題に大きな発言力をお持ちのジョン・J・マッケンティさんなんですが?」
クーパーウッドが言及したのは、ギャンブラーであると同時に、一連の売春宿のオーナーとも元締めとも噂され、市長や市会議員の選定にも一役かっていると噂され、多くの酒場や請負業者の資金繰りを支援している噂がある……要するにシカゴの政界や裏社会の守護神で、市や州の議会運営にかかわる問題で自ずと考慮される……人物だった。
「私は知りませんが」アディソンは言った「紹介状なら用意できますよ。どうしてなんですか?」
「今さら聞くまでもないでしょう。紹介にあたっては全力で後押し願います」
「今日中に用意しよう」アディソンは手際よく答えた。「あとで届けさせますよ」
アディソンがこの最新の行動に考えを巡らせている間にクーパーウッドは出て行ってしまった。クーパーウッドを信じて、敵が転がり落ちるかもしれない穴掘りをまかせるつもりだった。アディソンは時々この男の知略に驚嘆した。クーパーウッドの行動のストレートな鋭い部分には決して異論を唱えなかった。
このかなり予断を許さない時期にクーパーウッドの念頭にあったマッケンティという男は、どこででも会いたくなる面白くて頼りがいのある男で、当時のシカゴや西部の典型的な人物だった。マッケンティは楽しくて、にこやかな、人当たりがいい、親しみのもてる人だった。魅力や繊細さがクーパーウッドに似てなくもなかったが違うのは、クーパーウッドでもほとんどわかなない(表面には見えない)野性的な荒さの度合いと、彼が気に入った一種の気質的な魅力の中の、裏社会のあのとても痛ましい人生だった。そんな中で彼の魂は解決策を見つけたのである。ある種の性質はあるのだが、芸術的でなく、精神的でなく、決して感情的ではなく、かといって過度に哲学的でもなく、それでいて人生を取り囲む含有物だった。おそらく透明ではなく、かといって必ずしも闇ではない……曇った得体の知れない瑪瑙のような気質である。マッケンティは三才の子供の時、食うに困っていた移民の両親によってアイルランドから連れてこられた。サウスサイドの奥地の迷路のような線路の近くに立つ掘っ立て小屋で育てられ、裸の赤ん坊の頃は土間を這っていた。父親は隣接する鉄道で長年日雇い労働者として働いた後で管区長に昇進した。そして八人兄弟の一人のジョン・ジュニアは幼い頃から多くの仕事をやらされた……店の下働き、電報会社の配達員、酒場の臨時の掃除係、最後はバーテンダーだった。この最後の仕事が本当の始まりだった。ジョンは頭の切れる政治家に見出されて、州議会に立候補し法律を学ぶように勧められた。若いうちに学ばなかったことは何だろう……強奪、不正投票、票の売買、リーダーの任命権、収賄、縁故採用、あくどい搾取……そのすべてが、政治・経済・社会的対立を有するアメリカの世界を構成する(した)。底辺で学ぶことは何もないという強い思い込みが上流社会には存在する。もしジョン・J・マッケンティの大きいのにバランスのとれている気質を覗き込めたら、そこに奇妙な賢さと、もっと奇妙な記憶を見ただろう。野蛮なもの、敏感なもの、間違っているもの、経験して耐えて楽しみさえした悪行数々の世界……そこを支配する知覚、本能、食欲以外は何もない野獣のタフで盛んな生命力。なのにこの男には紳士の雰囲気と態度があった。
このとき四十八歳のマッケンティは極めて重要な人物だった。ウエストサイドのハリソン・ストリートとアシュランド・アベニューにある彼の広い家には、ひっきりなしに、資本家、実業家、役人、聖職者、酒場の主人……活発で微妙な駆け引きを要する人生のあらゆる階級と分野の訪問者があった。彼らはマッケンティから、そのときどきで手に入れたがっている助言、知恵、保証、解決策を手に入れることができた。感謝を表明して彼の指導的立場を認めるだけですむことが多かったが、いろいろなうまいやり方で喜んで代償を支払っていた。困った時に、彼の人当たりがよく、親切で、ハンサムと言っていい顔が微笑みかけると、解雇されて当然のときにタイミングよくその地位を救った警部や巡査には、非行少年や少女を刑務所から出して再び家に帰してやった母親には、地元警察の目に余る過度な介入から守ってやった売春宿の主には、いろいろな社会の大変動で破滅の危機に瀕した政治家や酒場の主には、天から授かった光の子にも、全能で慈愛に満ちた完璧な西洋の神ようにも見えた。また一方では、恩知らず、妥協許さない独善的な狂信家や改革派、何かを企んでいる腹黒い敵がいて、彼を闘うべき敵だと見なしていた。彼の命令を実行する子分はたくさんいた……皇帝の使いのようだった。服装や好みは簡素で、結婚して(見た目は)とても幸せで、ほとんど守っていないくせにカトリック教徒を標榜し、温厚で、人当たりのいい、仏陀のような男で、力強く、謎めいていた。
クーパーウッドとマッケンティが最初に会ったのは、春の夕暮れ時のマッケンティの自宅だった。大きな家の窓は網戸こそついていたが、ガラッと開けてあって、カーテンがかすかにそよ風に吹かれていた。いたるところで芽吹く新緑の気配と共に、家畜場のにおいが漂ってきた。
アディソンの紹介状と、ヴァン・シックル経由で著名な政界に詳しい判事から確保したもう一通を見せたところ、クーパーウッドは招待された。到着すると飲み物やタバコをすすめられて、マッケンティ夫人に紹介され、最終的に書斎に通された……夫人は計画的な人付き合いをしていなかったが、たとえいっときでもこういう上の世界の有名人と会うことがいつも楽しみだった。もし目を向けていたらわかったかもしれないが、マッケンティ夫人はふくよかな五十歳で、年老いたアイリーンの感があったが、まだまだ往年のしたたかな美しさの名残りを見せていて、かつては娼婦だった痕跡を上手に隠していた。たまたまこの日の夕方のマッケンティはとても穏やかな心境だった。ちょうどこの時、彼を悩ましている火急の政治問題が皆無だった。五月になったばかりで、外では木々が芽を出し、スズメやコマドリが勝手気ままに鳴いていた。すがすがしい靄が立ち込め、気の早い蚊が窓とドアを守る網戸を偵察していた。クーパーウッドはいろいろと問題を抱えていたが、自分では満足していた。人生を気に入っていた……たとえそのとても困難な局面でも……おそらくはその難局が一番好きだった。自然は美しく、時には優しかった。しかし、争い、計画、陰謀、解明したり円滑にしようとする画策……これらは存在価値を高めるものだった。
「さて、クーパーウッドさん」ようやく涼しくて気持ちがいい書斎に入ったところでマッケンティは切り出した。「ご用件をうかがいましょうか?」
「マッケンティさん」クーパーウッドは言葉を選んで、自分の気質の最も優れた資質を働かせながら言った。「大したことではないのですが、それでも大事なことなんです。私はシカゴの市議会の運営権がほしいのです。もしよろしければ私に協力してください。直接、議長のところへ行けとおっしゃるかもしれませんが、それをするにしても、他にも問題がありましてね……あなたのもとへ駆け込む連中がいるかもしれませんので。私は常々あなたをシカゴの政治的な問題の調停役だと理解しております、と言ってもあなたはお気を悪くなさらないでしょう」
マッケンティ氏は微笑んだ。「身に余るお言葉ですな」そっけなく答えた。
「私はシカゴに来てまだ日が浅いのです」クーパーウッドは穏やかに続けた。「ここに来てまだ一、二年しかたっていません。出身はフィラデルフィアです。もしかしたら最近の新聞でご覧になったことがあるかもしれませんが、レイクビューやハイドパークなどの市外に設立されたいくつかのガス会社の財務担当者とか投資家として注目されました。あれに投資した資金の全額、もしくはかなりの額の提供者という意味では、私はあれのオーナーではありません。ごく一般的な意味を除けば、経営者でさえありません。プロモーターとか後見人と呼ばれた方がいいのかもしれません。あくまで他のメンバーと自分としてはですがね」
マッケンティ氏はうなずいた。
「マッケンティさん、レイクビューとハイドパークで仕事をするための運営権を取得しようと活動を開始してそれほど時間が経っていないのに、気づいてみれば、既存の三つのガス会社を支配する利害関係者たちが私の前に立ちはだかっていたのです。ご想像いただけるでしょうが、我々が実際に向こうまで押し掛けていたわけでもないのに、向こうは我々がクック郡に入ることに猛反対したのです。それ以来、向こうは訴訟、禁止命令、贈収賄、陰謀の容疑で私と戦いを続けています」
「まあ」マッケンティ氏は割り込んだ。「その話は聞いてる」
「そうでしたか」クーパーウッドは答えた。「向こうが反対するので、私は向こうに既存の三社と新会社の三社を一つにして、新たな定款を設け、都市に均等にガスの供給をしようと提案しました。なのに応じようとしません……大きな理由は、私がよそ者だからでしょう。その後で別の人間、シュライハートさんが」……マッケンティはうなずいた……「この地のガス事業とは無縁であった人が、飛び込んできて合併を申し出たのです。彼の計画こそ、正に私がやりたかったことなんです。いったん既存の三社を合併してしまったら、この先の彼の提案は、我々のこの新しいガスの領域に進入して締め上げるか、こうした郊外で対抗する運営権を取得して、私たちが身売りせざるを得なくするだけです。ご存知のように、これらの郊外の会社をシカゴと合併する話があります。そうすると、この都心部の事業が我々の事業と互いにかぶってしまいます。そうなったら我々は、いつくかの手段の一つをとらなければなりません。おわかりでしょうが……今現在とれる最大の条件で身売りする、何の反撃も企てずかなりの費用をかけて戦い続ける、市議会に乗り込んで都心部の運営権……既存の会社と一緒になってシカゴでガスを販売できる包括的な運営権……を申請するかです。うちの役員の言いぐさじゃないですが、あくまで自衛のためですがね」クーパーウッドはユーモアをこめて付け加えた。
マッケンティは再び微笑んだ。「それにしても」マッケンティは言った。「新たな運営権をお求めとは、随分と大きな注文じゃありませんか、クーパーウッドさん? 市にもう一つガス会社が必要だという意見に一般市民が賛同すると思いますか? 既存の会社が気前良すぎるってわけじゃなかったのは事実です。うちのガスも最高ではありませんよ」マッケンティは漠然と微笑んでその先を聞こうと身構えた。
「マッケンティさん、あなたが現実的な人間であることは承知しています」話の中断を無視してクーパーウッドは続けた。「私もそうですから。私は自分が抱えている問題を漫然と語って同情してもらいに来たのではありません。合理的な提案をもってシカゴ市議会に乗り込むのが一つの手段であることは理解しています。それを市議会で可決させて承認させるのは、また別の問題です。私には助言と援助が必要ですが、それをお願いしているのではありません。先ほど言ったような包括的な運営権を取得できたら、それこそ私はものすごい大金を得たも同然です。それがあれば、完全に健全で需要のあるこの新しい会社を畳んで現金化するのに役立ちますし、既存の会社が私を食い尽くすのを防ぐ役にも立つんです。現実問題として、利益を守って継続的な勝機を得るには、この運営権は欠かせません。今のところ、我々の利益のために動いてくれる人が政界にも財界にもいないのです。もしこの運営権を獲得できて、この新会社と既存の会社を合併させるという私の計画がうまくいけば、私個人がそこから得ている儲けの総額が四分の一から二分の一になるんです……そうですね、三十から四十万ドルというところです」(ここで再びクーパーウッドはすべてを明かしはしなかったが請け合った。)「言うまでもありませんが、私は十分な資金を調達できます。この運営権が確立すればそうなります。早い話が、あなたがこの問題で私を政治的に支援して、私が提案する条件で私と一緒にやる気があるかどうかを知りたいのです。あなたにはメンバーの顔ぶれを事前に包み隠さず明かしましょう。あなたが自分で確認できるように、すべての資料と詳細を目の前のテーブルに出しましょう。もし私があなたに間違った情報を提示したとわかったら、もちろん、いつでも自由に手を引いていただいて構いません。先ほども申しましたが」クーパーウッドは締めくくった。「私はお願いしているのではありません。私は何かの事実を隠蔽したり、この我々の財産について誤解させるかもしれない材料を隠しにここに来ているのではありません。あなたには事実を知っていただきたい。あなたが公平で公正だと考える条件で私を支援していただきたいのです。この状況で私が本当に苦労しているのは、私が上流社会の人間でないことだけです。もしも私が一員だったら、このガス紛争はとっくに片付いていたでしょう。シュライハートさんを通しての再編を願う方々は、私がシカゴで……割りと……よそ者で、自分たちの階級の一員ではないから猛反対しているんです。もしも私が一員だったら」……わずかに手を動かした……「今夜ここにあなたの力を借りに来たとは思いません。別にここに来るのが嬉しくないとか、こういう形であなたと一緒に仕事をしたくなかったというのではありません。これまではいろいろな事情であなたのところに来なかっただけです」
クーパーウッドが話す間、その目はしっかりと、無邪気にマッケンティから動かなかった。マッケンティは相手の話をはっきりと聞きながらずっと、自分は、見知らぬ、有能で、計り知れない、とても力のある男の話に耳を傾けていると感じた。回りくどくない、小心な臆病者ではない、それでいて絶妙な鋭さがあった……マッケンティはそういうのが好きだった。自分を締め出している上流階級にさり気なく言及したのはおかしかったが、それがかえって好感度をあげた。要点も意図も理解した。クーパーウッドはマッケンティにとって新しくてかなり好ましいタイプの資本家だった。熱心に売り込んだメンバーを信じられるとしたら、明らかにクーパーウッドは有能な仲間と活動を共にしていた。クーパーウッドはよくわかっていたが、マッケンティ個人は既存の会社に何の関心もなかった……本人が言ったわけではないが……特に同情してもいなかった。マッケンティにとって彼らは、要求があると政治的な貢ぎ物をし、見返りに政治的な便宜を期待するだけの関係が薄い金儲けをする会社に過ぎなかった。このところ二、三週間ごとに議会で、ガスの本管の認可(特定の通りでの特権)を次々と申請し、好条件の(もっと儲かる)照明請負契約を申請し、河川へのドック設置特権や、軽減税率などをどんどん申請していた。マッケンティ個人はこれらにあまり注目していなかった。議会には部下がいた。とても有能な腹心で、名前はパトリック・ダウリング、肉付きのいい威勢のいいアイルランド人で、幹部の汚職を見張る番犬であり、市長、市財務官、市税徴収官……事実上、現政権の全官僚と行動を共にし、こういう細かい問題が持ち上がることがないよう確認するのが役目だった。マッケンティは〈サウスサイド・ガス社〉の役員の二、三名に会ったことがあるだけだった。それも偶発的なのもで、あまり相手のことは好きではなかった。真相はというと、マッケンティやダウリングのような政治家をとてもたちの悪い連中と考える者が既存の会社の幹部だった。会社が彼らに金を払い、他の不正をしたとすれば、そうすることを強いられたからだった。
「ふーん」マッケンティは考え込むようにして、細い金色の懐中時計の鎖をいじりながら答えた。「面白い計画をお持ちだ。もちろん、既存の会社はあなたが競合する会社の運営権を申請するのを嫌がるだろう。しかし、いったん取得してしまえば、ろくな反対はできなくなるわけだな?」と微笑んだ。マッケンティ氏はアイルランド訛りをまったく感じさせすに話をした。「見ようによっては、阿漕なやり方ととられるかもしれないが、必ずしもそうとは言えない。彼ら自身が取り立てて市民を大切にしてきたわけじゃないから、きっと悲鳴を上げるだろうな。もしあなたが彼らとの合弁を申し出たとしても、私は何も反対しない。あなたに歩があるように、長い目で見れば彼らにだって歩があるのは確かなんだ。これは、あなたにより質の高いサービスを許可するだけでしかない」
「そのとおりです」クーパーウッドは言った。
「彼らが従わないなら、市内にくまなく本管を敷設して、本業で勝負する手段を持つというわけですな?」
「手段はあるんですよ」クーパーウッドは言った。「なくても手に入れられます」
マッケンティ氏は大真面目な顔でクーパーウッドを見た。二人の間には一種の互いに認め合う共感、理解、感嘆があったが、依然として私利私欲の厚いベールがかかっていた。マッケンティ氏からするとクーパーウッドは興味深かった。自分と交渉するときに、まどろっこしくなく、独善的でなく、偽善的でさえない、自分が出会った数少ない実業家の一人だったからだ。
「では、こうしましょう、クーパーウッドさん」マッケンティは最後に言った。「全てを検討してみます。とにかく月曜日まで考えさせてほしい。包括的なガス条例を導入するならもう少し後にするより今の方が口実がある……と私は思うんだ。あなたが考えている事業案を私に見せてもらえないだろうか? そうすれば、他の市議会の紳士たちの意見も探り出せるかもしれない」
クーパーウッドは「紳士」という言葉に失笑した。
「それならすでにできています」と切り出した。「これです」
仕事に慣れているこの証拠に驚き、喜んで、マッケンティはそれを受け取った。こういう凄腕の策略家が好きだった……自分がそうでなかっただけになおさらだった……それに自分が知っているそういう連中のほとんどは血の気のない小心者だった。
「これを預からせてもらいますよ」マッケンティは言った。「よろしければ次の月曜日にまた会いましょう。月曜日に来てください」
クーパーウッドは立ち上がった。「うかがって直接お話ししたいと思っていたんです、マッケンティさん」クーパーウッドは言った。「来てよかった。手間を惜しまずこの問題を調べれば、私の言う通りであることがわかるでしょう。成果が出るには少し時間がかかりますが、いずれにしてもこれはかなりの大金ですからね」
マッケンティ氏は要点がわかった。「ああ」と穏やかに言った。「確かにそうですね」
二人は握手をしながら互いに目を見つめ合った。
「何とも言えないが、ここでは大した名案が出ませんでしたね」マッケンティは同情して締めくくった。「大した名案はね。来週の月曜日か、その頃にまたいらしてください。私の考えを披露します。また何かあったらいつでも来てください。いつでも喜んでお会いしますよ。いい夜ですね?」ドアに近づくと二人は外を眺めながら付け加えた。「きれいな月が出ている!」さらに付け加えた。空には三日月があった。「おやすみ」
第十三章
賽は投げられた
この訪問の成果がはっきり出るまでに時間はかからなかった。トップともなると、大きな問題ともなると、人生は何とも不可解な人同士のもつれ合いに突入する。この問題が関心事となったマッケンティ氏は、すべての側面から……議論に出たシュライハート側と取り引きする方が得策ではないだろうか、など……このガスの問題を知りたくなった。しかし、彼の最終的な結論は、クーパーウッドが概説した計画が最も政治的に利用しやすいというものだった。主な理由は、現時点で市議会に何かを要求する必要のない立場のシュライハート派は、市役所の強欲な勢力に一切の働きかけをし忘れるほど鈍感だった。
クーパーウッドが次に自宅を訪問したとき、マッケンティは歓迎気分だった。「さて」なごやかな前置きの言葉を少し述べてからマッケンティは言った。「私なりに状況を検討してみました。あなたの提案は実にいいものだ。会社を作って条件のとおりに計画を直してください。それから、あなたが決めたことを議会に提出して、何ができるかを見極めましょう」両者は、今後の株式分割方法や、既存の会社との最終提携か新合併会社との合意条件が満たされるまで、株式がマッケンティ氏寄りの銀行に預託される条件や、その類の詳細に関して、長々と突っ込んだ話し合いに入った。それはかなり複雑な取り決めで、クーパーウッドの思い通りの満足とはならなかったが、勝てるという点では満足だった。しばらくは、ヴァン・シックル将軍、ヘンリー・デ・ソト・シッペンス、ケント・バロウズ・マッキベン、ダウリング市会議員が一致団結して仕事に取り組んでもらう必要があった。しかし最後には反転攻勢の準備が整った。
市議会の規則でこの種の条例は木曜日に提出されねばならないが、この議案はその翌週の月曜日の夜に公然と提出され、ほんの少ししか時間をさかずに、速やかに市議会で審議されて成立した。実は公開討論の時間がなかった。もちろん、これこそが、クーパーウッドとマッケンティが避けようとしていたことだった。この条例が確実に成立するように議会に提出された木曜日の翌日に、シュライハートは新聞社に駆け込み、弁護団と個々の既存のガス会社の役員を通じて、これは明らかな強盗だと非難した。しかしどうすればよかったのだろう? 扇動する余裕などなかった。この大物資本家の影響力に従順な新聞社は「既存の会社へ公平な対応を」とか、一社で十分事は足りている地域に対立する大企業が二社あるのは無駄だと言い始めた。それでも市民は、マッケンティの運動員に反対のことを言われたり、吹き込まれたりして、それを信じようとしなかった。既存の会社の肩を持って抗議をするほど市民はあまり恩恵を受けてはいなかった。
法案が最終的に成立した月曜日の夕方、靴ブラシのような頬髯の小柄でひょろっとした〈サウスサイド・ガス社〉社長のサミュエル・ブラックマン氏は、市議会の入口に立ち、強い口調で宣言した。
「これは悪党の所業だ。法案に署名するならば、市長は弾劾されるべきですね。今夜、買収されなかった票はありません……一票もです。これはシカゴに山賊が現れた立派な証拠です。何年も働いて事業を築き上げたみなさんも、安泰といえませんからね!」
「一言一句にいたるまで、真実です」卵を縦に置いたような頭に、ほんの一房の髪、険しい青い目をした、背の低い、がっしりした男、〈ノースサイド社〉社長のヨルダン・ジュールズ氏は不満を述べた。背が高くて、のんびり歩調の〈西シカゴ社〉社長のハドソン・ベーカー氏と一緒だった。三人とも抗議に来ていた。
「フィラデルフィアから来た悪党の仕業だ。我々のトラブルのすべての根源がそいつです。シカゴのまともなビジネスマンは、自分たちがどういう相手と取引しなくてはいけないかを認識してもいい頃だ。あいつはここから追放されるべきです。フィラデルフィアでの経歴をご覧なさい。向こうは奴を刑務所送りにしました。ここでもそうするべきです」
つい最近シュライハートに招かれ、その手先となったベイカー氏も、当然悔しがった。「あの男はくわせ者だ」とブラックマンに抗議した。「やり方がフェアじゃない。まともな社会の人間じゃないことは明らかだ」
しかし、この努力の甲斐もなく条例は成立した。これは、ノーマン・シュライハート氏、ノリエ・シムズ氏、そして不幸にも巻き込まれてしまった全員にとって苦い教訓になった。既存の三社で構成された委員会が市長を訪ねた。しかしマッケンティの道具に過ぎない市長は、敵の手に将来を託してしまい、署名をした。クーパーウッドは運営権を取得したのだ。それに不満かもしれないが、こうなった以上は、近頃の言葉で言うと「上に行ってボスに会う」必要があった。シュライハートだけは、クーパーウッドとの決着はついてないと密かに感じた。いずれどこか別の土俵で彼と対戦するつもりだった。次回は相手と同じ手段で戦うつもりだった。しかし、抜け目ない男だったので、今回は妥協する覚悟を決めた。
それから悔しさをひた隠しにして、彼が会員になっている両方のクラブでクーパーウッドを探しつづけた。しかしクーパーウッドはこの騒ぎの間、どちらも避けていた。結局マホメットの方が山に出向いて行かねばならなくなった。それで、ある眠たくなるような六月の午後、シュライハート氏はクーパーウッドの事務所に立ち寄った。明るく真新しい鉄灰色のスーツを着て、麦わら帽子をかぶっていた。当時の流行で、ポケットからはきちんと青い縁取りのシルクのハンカチが出ていて、足もとは新品でぴかぴかのオクスフォードの紐靴を完璧にはきこなしていた。
「数日後にヨーロッパに向けて出向するんですよ、クーパーウッドさん」シュライハートは穏やかに言った。「あなたと私がこのガスの問題で何か合意できないかと思って確認しに来たんです。既存の会社の役員たちは当然、業界に競争相手はいらないと考えているし、あなただって誰の得にもならない無益な値引き合戦をやろうと考えてはいないはずだ。以前あなたが五分五分で妥協する気だったことを思い出したんです。今でもその考えに変わりはないかと思いましてね」
「まあ、どうぞ、おかけください、シュライハートさん」クーパーウッドは新しい来客を椅子へうながしながら愛想よく言った。「再びお目にかかれて何よりです。まったく、私だってあなたと同様、値引き合戦など望んではいませんよ。本当は、避けたいところなんですが、このとおり、あなたにお会いしてから、どういうわけか事情が変わってしまいましてね。この新しい都市ガス会社を作って、自分のお金を投資した紳士たちは、すっかりその気で……実はかなり熱心で……このまま本格的な事業化を進めたがっています。自分たちならできるとみんなが自信満々でしてね。私も同じ意見です。既存の会社と新会社の間で妥協は成立するかもしれないが、前回の落としどころでは無理ですね。その後、新会社が設立され、株式が発行されて、莫大な出費がありました」(これは事実ではなかった)「その株式は新しい合意に加算されねばなりません。私はすべての会社がみんな一つにまとまるのが望ましいと思います。しかし、一株にせよ二株、三株、四株にせよ……どう決まるにしても……関係するすべての株式の額面でしなければなりません」
シュライハート氏は浮かぬ顔をした。「それは随分と法外じゃないですか?」シュライハートは厳しい顔で言った。
「そんなことはないですよ!」クーパーウッドは答えた。「この新たな出費は好き好んでしたわけじゃないのはご存知でしょう」(この皮肉はシュライハートに向けたものだったが、相手は何も言わなかった。)
「それは認めますが、そちらの株式は現在事実上、無価値なんですから、その分が額面で受け入れられたら、あなたの方はさぞかし満足でしょうね?」
「どういうことか、わかりませんね」クーパーウッドは答えた。「我々の前途は洋々ですよ。ここで公平な調整を行うか、何もしないかです。私は知りたいのですが、昔からの株主全員に行き渡らせた後で、この新会社の活動に備えて確保するつもりの自己株式はどのくらいなんですか?」
「まあ、以前は総発行量の三十から四十パーセントと考えました」シュライハートは未だに有益な調整を期待しながら答えた。「その基準でなら活動できると思いますが」
「で、それを手にするのは?」
「まあ、設立した者ですな」シュライハートは言葉を濁した。「あなたか、あるいは私だ」
「どうやって分けるつもりですか? 五分五分ですか、以前のように?」
「それが公平というものでしょう」
「それでは足らない」クーパーウッドは厳しく答えた。「私は最後にあなたと話してから、その時は予想もしなかった債務を背負ったり、契約をせざるを得なくなったんですよ。今だと四分の三で手を打つのが精一杯ですね」
シュライハートは断固反対を表明して背筋を伸ばした。これは横暴だ、話にならない! ずうずうしいにも程がある!
「それは絶対に無理ですよ、クーパーウッドさん」シュライハートは力強く答えた。「どうせあなたは、この会社を使って価値のない株を大量に処分しようとしてるんでしょ。ご存知のように、既存の会社の株式は今も一ドル五十セントから二ドル十セントで売っています。あなたの株式には何の価値もない。これであなたが一対二か三の割り当てと、金庫の残りの四分の三がもらえたら、私は取り引きするものが何もないじゃないですか。あなたは会社を支配することになるだろうが、それではどうせ行き詰りますよ。何もしないで何かを得ようというのですか! 私が既存の会社の株主に提案するにしてもせいぜい五分五分です。別に信じなくてもいいですが、あなたには率直に言いましょう。あなたに主導権を与えるような計画に、既存の会社は参加しませんよ。みなさん、怒り心頭ですから。感情が高ぶり過ぎているんです。つまり、長く高くつく戦いになるでしょうね。向こうは絶対に妥協しませんよ。もしあなたに何か本当に合理的な提案があるのなら、よろこんで聞きましょう。そうしないと、この交渉はどうにもならないと思いますよ」
「均等配分して、残りの四分の三です」クーパーウッドは険しい面持ちで繰り返した。「私は経営したいわけじゃない。彼らがお金を集めて、私が売りたい基準で買収したいかどうかなんです。私は自分がした投資にちゃんとした利益が欲しいんです。そしてそれを手に入れるつもりです。私の背後にいる他の人たちのことは言えませんが、私を通じて取引をする以上、彼らが期待するのはそれなんです」
シュライハート氏は怒って立ち去った。並み大抵の怒り方ではなかった。クーパーウッドが今した提案は贔屓目に見ても強奪行為だった。シュライハートは、必要とあらば自分は既存の会社陣営から撤退し、持ち株を処分して、既存の会社の好きなようにクーパーウッドと取り引きさせようと腹を決めた。自分が関係している限りは、クーパーウッドがガス問題を掌握することはない。相手の提案に応じて資金を調達し、法外な金額でもいいから買収した方がいい。そうすれば既存のガス会社は、自分たちの昔からのやり方で、わずらわされずに商売を続けられる。この欲張り者め! 成上り者め! なんと狡猾で、すばしっこい、強力な手をうったのだ! これはシュライハート氏をひどく苛立たせた。
この結果は、クーパーウッドが、新しい一般株式の余剰分の二分の一と、新会社が準備した株式の一株につき二株を受け入れて、同時に既存の会社に売り払う……完全に清算する……という妥協案になった。大儲けだった。マッケンティとアディソンだけでなく、他の関係者全員に大盤振る舞いができた。マッケンティとアディソンが請け合ったように華麗な大勝利だった。これだけの大仕事をやりとげたとあって、その目は征服すべき他の分野に向き始めた。
しかし、一方で勝ってももう一方ではそれ相応の敗北を喫していた。クーパーウッドとアイリーンの社交界進出は今や大きな危機に瀕していた。社交界に影響力があるシュライハートは、クーパーウッドのせいで敗北し、今や彼と激しく対立していた。ノリエ・シムズは当然、古くからいる仲間と共に味方した。しかし、最悪の痛手はアンソン・メリル夫人からもたらされた。新築祝いの直後、ガスの議論と共謀容疑が盛り上がっていた頃、夫人はニューヨークにいて、そこでたまたまフィラデルフィアの古い知人のマーティン・ウォーカー夫人に出くわした。その昔クーパーウッドが入会しようとむなしい野心を抱いたサークルのメンバーだった。メリル夫人は、クーパーウッド夫妻がシムズ夫人たちに関心を持たれていたのを知っていたので、何か明確な情報を知るチャンスだと歓迎した。
「ところで、フィラデルフィアのフランク・アルガーノン・クーパーウッドという方か、その奥さんについて聞いたことがございますか?」夫人はウォーカー夫人に尋ねた。
「まあ、ネリーったら」メリル夫人のような立派な女性が話題にしたことに、友人はひどく困惑して答えた。「あの人たち、シガゴに落ち着いたんですか? フィラデルフィアでの経歴は、控え目に言っても見せ物でしたわ。その人は、五十万ドルを盗んだ市の財務官とつながりがあって、両方とも刑務所に行ったのよ。それが最悪で終わらなかったんですから! ある娘と親密になったの……ミス・バトラーっていうオーエン・バトラーの妹よ、地元の有力者なんですけどね……」夫人はただ目をつり上げるだけだった。「男が刑務所にいる間に、娘の父親は死に、家庭は崩壊よ。老紳士が自殺したという噂まで聞いたわ」(アイリーンの父親のエドワード・マリア・バトラーのことを言っていた)「刑務所から出るとクーパーウッドは行方をくらまし、西へ行って、奥さんと離婚して再婚したって誰かが言ったのを聞いたわね。最初の奥さんは、二人のお子さんと一緒にまだフィラデルフィアのどこかに住んでいるわよ」
メリル夫人は確かに驚いたが、そんな素振りは見せなかった。「実に興味深いお話ね?」クーパーウッド夫妻の立場を左右するのはいともたやすいことだと思い、そんな人たちに自分は何の関心も示したことがなかったと悦に入りながら、冷ややかに言った。「それでご覧になったんですか……その新しい奥さんのことは?」
「ええ、でも場所は忘れましたけど。確かフィラデルフィアでよく馬や馬車を乗り回していたわね」
「髪は赤毛かしら?」
「そうね。とても印象的なブロンドよ」
「じゃ、きっとその人だわ。最近シカゴでも新聞に載りましたもの。確かめたかったんです」
メリル夫人はこれから発せられる気の利いた文句を考えていた。
「今度はシカゴの社交界に入り込もうとしているんでしょ?」ウォーカー夫人は慇懃無礼に微笑んだ……クーパーウッド夫妻とシカゴの社交界に矛先は向いていた。
「東部ならそういうことを試みれば成功するのかもしれませんね……確かなことは存じませんけど」中傷に憤慨したメリル夫人は痛烈にやり返した。「でもシカゴでは試みることと、達成することは別の話ですから」
その答えで十分だった。話は終わった。次にシムズ夫人が軽はずみに、クーパーウッド夫妻、とりわけクーパーウッド氏に限った評判を話題にしたときに、夫人に向ける将来の意見がはっきりと決まった。
「差し出がましいことを言うようですが」メリル夫人はようやく言うときが来た。「こういう方々とのおつき合いはお控えになった方がよろしいわ。私はあの人たちのことをすべて知っているんです。奥さまは最初からお見通しだったかもしれませんけど。到底受け入れられる方々じゃありませんわ」
メリル夫人はあえて理由を説明しなかったが、シムズ夫人はじきに夫が全てを調べあげるだろうと思った。そして当然のことながら憤慨し、おびえるほどだった。こういうのは誰のせいかしら? 夫人は考えた。誰の紹介だったかしら? そうだ、アディソン夫妻だ。しかし、全能ではないにせよ、アディソン夫妻は社交界では盤石だ。それが最大に利用されたに違いない。しかし、クーパーウッド夫妻はすぐにでも夫人と夫人の友人のリストから除外する気ならできてしまうわけであり、即刻そうなった。クーパーウッド夫妻の社交力は突然陰りを見せた。しかしそれほど急速ではなく、しばらくは見ていてもよくわからなかった。
アイリーンの目に映った最初の変化の兆しは、このところ大量に届いていたパーティーなどの挨拶状や招待状が激減し始めたことと、まだ早いと思ったが思い切って始めた水曜日の午後の集いのゲストがほんのひと握りになってしまったことだった。自宅での催し物が明らかに成功を収めた直後に、自分の地元での重要性が著しく低下するとは信じたくなかったので、最初はこれを理解できなかった。新築祝い後三週間しかたっていないのに、訪問したり挨拶状を置いていった七十五から五十人のうちで返事をくれたのはたったの二十人だった。一週間後にそれが十人にまで減り、結局、五週間で訪問する人はほとんどいなくなった。確かに、大物ではないごく少数の人たち……アイリーンの影響力を期待した人たちと、クーパーウッドに仕事の恩がある保身に徹したテイラー・ロードとケント・マッキベン……はずっと義理堅かったが、これは皆無よりもかえって悪かった。アイリーンは、失望、反発、悔しさ、恥ずかしさ、で我を忘れた。サイのように待つ者、鉄の魂を待つ者、最終的な勝利に望みを託してどんなにはねつけられても平気な人、面の皮が厚過ぎてほとんど悩まない人は大勢いたが、アイリーンはその一人ではなかった。すでに世間体や先妻の権利に対しては独創的な大胆ぶりを発揮していたのに、自分の将来や、自分の過去が自分にどう跳ね返ってくるかという問題には敏感だった。本当はアイリーンの基本的な行動は、自分の若さゆえの情熱とクーパーウッドの強力な男性的魅力のせいなのかもしれない。もっと幸運な状況だったら、彼女は無事に結婚しその後のスキャンダルに見舞われることはなかっただろう。こうなっては、自分自身と彼の正当性を示すためにも、ここでの自分の社会的な未来が、満足いく形で終わる必要があると考えた。
「サンドイッチはアイスボックスに入れればいいわ」最初の頃はホームパーティーが失敗に終わると、過剰に用意したピンクや青のリボンのお菓子のことで、アイリーンは執事のルイスに言った。食べられなくても物がのっていると立派なセーヴル焼きは引き立った。「花は病院にでも送って。クラレットやレモネードは使用人が飲めばいいし、ケーキはディナーで食べるから新鮮に保存しておいてね」
執事はお辞儀をして「かしこまりました、奥さま」と言った。それから、彼なりに状況を収めたくてつけ加えた。「今日は大変な一日でございました。何とかなるものでございます」
アイリーンは一瞬で真っ赤になった。「自分の仕事をしてればいいのよ」と叫びそうになったが考えを改めた。「ええ、そうよね」と答えて自分の部屋にさがった。独りぼっちのわびしいホームパーティーが使用人に心配されるようになったら、もうおしまいだ。これは天気のせいなのか、世間の感じ方が本当に変わったのかを見極めるためにアイリーンは次の週まで待った。状況は前の週よりも一層悪化した。雇った歌手は、歌いに来たのに歌わないまま帰らされるはめになった。ケント・マッキベンとテイラー・ロードは今飛び交っている噂をよく知っていても来てくれるが、よそよそしくて困った様子だった。アイリーンにもそれがわかった。この二人とウェブスター・イズラエルス夫人とヘンリー・ハドルストン夫人しか来る人がいないなんて、何か悪いことの悲しい徴候だった。病気を言い訳にして中止にするしかなかった。三週目は前回よりひどい事態を恐れてアイリーンは病気を装った。どのくらいの挨拶状が残ったか、確かめてみた。たった三通しかなかった。終わりだった。ホームパーティーは大失敗だと認めた。
同じくクーパーウッドも現在広がっている不信と断交を食らわずにはいられなかった。
ことの重大さに最初に思い当たったのは、アイリーンがまだ確信をもてずにいた頃、かなり前に受けた招待をもとに不幸にして出席してしまった晩餐会でのことだった。これはもともとサンダーランド・スレッド夫妻が催したものだった。夫妻はあまり社交的ではなかったので、この出来事の時点では拡散しつつある醜いゴシップや、少なくともクーパーウッド夫妻に対する社交界の新しい態度にまだ気づいていなかった。この時はほぼ全員……シムズ夫妻、カンダ夫妻、コットン夫妻、キングズランド夫妻……に、大きなミスがあったことと、クーパーウッド夫妻は絶対に受け入れられないことが知られていた。
この晩餐会の席にはかなりの人数が招待されていて、クーパーウッドもそれを知っていた。クーパーウッド夫妻が来ることを知ったり思い出したりすると、全員が全員、土壇場になって「誠に申し訳ない」と断り状を送った。スレッド邸の外にはクーパーウッド夫妻が特に面識のない他のメンバー……スタニスラウ・ホエクセマ夫妻……しかいなかった。退屈なひとときだった。アイリーンは頭痛を訴え、二人は帰宅した。
その直後、かなり前に招待されていた隣人のハートシュタット夫妻のパーティーでは、主催者本人はまだ十分に友好的だったが、クーパーウッド夫妻は明らかに避けられていた。まったく新しい局面だった。それまでは、見知らぬ著名人でもこの種の催しに出席すると喜んでクーパーウッド夫妻のもとに連れて行かれた。夫妻はアイリーンの美貌のおかげでいつも目立っていた。この日はアイリーンにもクーパーウッドにも理由は明かされずに(二人とも勘づいてはいたが)ほぼ一様に紹介を拒まれた。夫妻を知っている人や、何げなく話しかける人は何人もいたが、全体の傾向としては二人を避けていた。クーパーウッドはすぐに異変を察知した。「早く帰った方がいいと思うな」少ししてからアイリーンに告げた。「ここにいてもあまり面白くないだろ」
二人は自宅へ戻った。クーパーウッドは議論を避けるためにダウンタウンに出かけた。このことについての自分の考えをまだ言いたくなかった。
最初の本格的な一撃がクーパーウッド本人を直撃したのは、ユニオン・リーグのパーティーの前の、遠回しなものだった。ある朝、レイク・ナショナル銀行で話をしているときに、アディソンがごく内々に不意を突く形で言った。
「話したいことがあるんだ、クーパーウッド。シカゴの社交界のことなんだが、あなたはもう知ってますね。始めて会ったときに話してくれたあなたの過去についての私の立ち位置も知っているはずだ。そのすべてが関わるあなたにまつわる話が今たくさん出回っている。あなたと私が所属している二つのクラブだって、新聞の陰謀論に踊らされた二つの顔を裏表で使い分ける偽善者でいっぱいなんです。メンバーに既存の会社の株主が四、五人いて、あなたを追い出そうとしているんです。あなたが私にしてくれた話を調べて、双方の運営委員会に書面で訴えると息巻いています。まあ、両方ともどうにもなりませんがね……向こうが私にそう言ってきましたから。でも、次のパーティーのときは、どうすべきかおわかりでしょ。主催者側はあなたに招待状を出さねばならないが、本音は違うんです」(クーパーウッドは理解した)「私の判断では、こんなことはきっと収まります。しかるべき手段をとれば大丈夫です、でも今のところは……」
アディソンは親しみを込めてクーパーウッドを見つめた。
クーパーウッドは微笑んで、「実を云うと、こうなるんじゃないかと思っていたんですよ、ユダ」とあっさり言った。「ずっと予期していましたから、私のことは心配いりません。これに関してはすべて承知しています。風向きを見てきましたから、帆の張り方はわかっています」
アディソンは手を伸ばして握手を交わした。「しかし、何をするにせよやめちゃ駄目ですよ」と念のために言った。「そんなことしたら弱さをさらけ出すようなものだし、向こうだってそこまでは期待しちゃいない。私もあなたにそんなことはしてほしくない。踏ん張りどころです。これはすべて収まります。どうせ妬みですから」
「そんなことしませんよ」クーパーウッドは答えた。「正式に私を告発するものは何もありませんからね。十分な時間があれば、すべてが落ち着くとわかっています」とは言いながらも、誰かとこんな会話をしなければならないのかと思うと悔しかった。
他の点でも同じように「社会」……なるものはその命令でも決定でも強制できてしまうのだ。
かなり後になって知ったことだが、クーパーウッドが最も憤慨したのは、ノリエ・シムズ邸の玄関先でアイリーンがじかに食らった冷たい仕打ちだった。他の人たちの馬車が往来にあったのに、アイリーンが訪れたときにシムズ夫人は不在だと告げられたのだ。その数日後アイリーンは本当に病気になった。クーパーウッドは大層悲しんで驚いた……そのときは原因を知らなかった。
ガスの主導権争いで……敵を完全に敗走させ……クーパーウッドの投資が最終的にすべての反対を制して成功していなかったら、この問題は手の施しようがなくなっていただろう。実のところ、アイリーンはひどく苦しんだ。この軽蔑は主に自分に向けられたものであり勢いはこのまま続くだろうと感じた。自宅でひっそりしていると、見た目はきらびやかで力強そうだったのに、二人の砂上の楼閣は崩れ落ちた、と最後は互いに認めざるを得なかった。とても親密に結ばれた人同士でも心を通わせるのは、本当はすべての中でも一番大変だった。人間の魂は絶えず互いを探し求めているが、めったに見つからなかった。
「いいかい」思いがけずに部屋に入ったところ、アイリーンが涙ぐんでベッドで病に伏しているのを見かけ、その日はメイドをさがらせてあったので、ようやくクーパーウッドは言った。「こうなることはわかっていたんだ。実を言うとね、アイリーン、これはむしろ予想してたんだよ。私たちは事を急ぎ過ぎていたんだ。私もきみもね。この問題を強引にやり過ぎてしまったんだよ。さあ、きみのこんな姿は見たくないな、アイリーン。この勝負は負けちゃいないからね。ねえ、私はきみがもっと勇敢だと思ってたんだけどな。どうやら忘れてしまったようだから、言っておこう。これはすべていずれお金が解決するんだ。私は今のところこの戦いで勝っている。他の戦いでだって勝つさ。戦いの方がやってくるんだ。ねえ、アイリーン、絶望しちゃ駄目だ。きみはまだ若いんだ。私は絶対に絶望しないよ。きみだってこれから勝つんだからね。こんな問題はシカゴでどうとでもなるんだ。そうなれば同時に多くの問題が帳消しになるんだ。私たちは裕福なんだよ。もっと裕福になるからね。それで解決するのさ。さあ、おめかしして楽しそうにしてごらん。この世界には社交界の他にも生きがいはたくさんあるからね。さあ、起きて服を着なさい。ドライブしてダウンタウンでディナーにしよう。きみにはまだ私がいるんだ。それじゃ不足かい?」
「そうね」アイリーンは深くため息をついたが、また沈み込んだ。アイリーンは夫の首に抱きついて泣いた。夫がくれた慰めに対する喜びは自分が失ったものに匹敵するほど大きかった。「あなただってあたしと同じくらい大変だったでしょ」アイリーンはため息をついた。
「私は承知の上だからね」クーパーウッドはなだめた。「だけどもう心配しないことだ。きみだってうまくいくよ。私たち二人ともね。さあ、起きて」それでも、アイリーンが気弱にへたばるのを見ると悲しかった。見ていられなかった。この問題に関してはいずれ社会ときっちり決着をつけようと思った。その一方で、アイリーンは元気を回復しかけていた。夫の力強い向き合い方を見て、アイリーンは自分の弱さが恥ずかしくなった。
「ああ、フランク」アイリーンはようやく叫んだ。「あなたはいつだってとてもすてきよ。そういうすてきな人なのね」
「気にしないことだ」クーパーウッドは陽気に言った。「シカゴでこの勝負に勝てなければ、よそでやればいいんだから」
クーパーウッドは既存のガス会社とシュライハートとの問題を調整した鮮やかなやり方を考えていた。そしてその時が来たら他の問題も徹底的にやるつもりだった。
第十四章
底流
社交ができない中で残りの日々を過ごすとはどういうことか、少なくともどんなに退屈であるにせよ、自分の娯楽の源を、自分が最高だとも最重要だとも見なされない事実を常に思い起こさせるグループや人たちに限定するとはどういうことか、をクーパーウッドが痛感したのは、二人が社交できなくなった翌年からその次と次の年にかけてだった。最初にアイリーンを社交界に進出させようとしたとき、いったん認められてしまえば、最初はどれだけつまらないと思うことがあるかもしれないが、自分たちならそれをとても面白くも華麗にさえもできる、というのがクーパーウッドの考えだった。しかし、付き合いを拒絶されてからというものは、もし何か社交を楽しみたかったら、知り合いをかき集めることができるいろいろな格下のグループに頼らないと駄目なことに気がついた……通りすがりの俳優や女優には時々ディナーを振る舞うことができた。芸術家や歌手は紹介してもらって自宅に招待することができた。もちろん、ハートシュタット夫妻、ホエクセマ夫妻、ビーデラ夫妻、ベイリー夫妻たちみたいな社交界で重要ではないメンバーは結構いて、今でも友好的で、気兼ねなく進んで来てくれた。クーパーウッドは時々、仕事上の友人や絵の好きな人や若い芸術家を自宅のディナーや夜会に招くのも面白いと思った。こういう場にはいつもアイリーンがいた。アディソン夫妻は来てくれたし時々招待してくれることもあった。しかし、つまらないといったらなかった。こうして完全な敗北ぶりがはっきりすればするほど余計につまらなかった。
クーパーウッドは思うのだが、この敗北は本当は全然自分の落ち度ではなかった。自分は十分にうまくやってきた。もしアイリーンがもう少し違うタイプの女性だったらよかったのに! それでも、クーパーウッドにはアイリーンを見捨てたり非難する気は全然なかった。ひどい獄中生活を送る間も自分から離れずにいてくれたのだ。自分が励ましを必要としたときにアイリーンは励ましてくれた。クーパーウッドはアイリーンのそばにいて、もう少ししたら何ができるか確かめるつもりだった。しかしこの仲間はずれは、わびしくてやりきれなかった。それどころか、自分だけなら男性にも女性にもますます興味を持たれているように見えた。自分が築いた友人たち……アディソン、ベイリー、ビーデラ、マッキベンなど……とは付き合いが続いていた。社交界にはアイリーンを失って嘆く女性はいなくても、彼を失って嘆く女性は大勢いた。時折、アイリーン抜きでクーパーウッドだけ招待されることがあった。最初のうちはいつも断っていたが、やがて、時々アイリーンに内緒で独りで晩餐会に行くようになった。
この空白の期間にクーパーウッドは初めて自分とアイリーンの間には知性と精神の面で顕著な差が存在すると考え始めた。自分はアイリーンと多くの点で……感情面や物欲や楽しくやるのが好きな……一致点があったかもしれないが、それでも自分だけにできて、アイリーンにできないことがたくさんあった。アイリーンには到底ついて行けない高みでも自分はたどり着くことができた。シカゴの社交界など無視すればいいのかもしれない。しかしクーパーウッドは今や、旧世界が女性像として掲げねばならない最高のものとアイリーンを鋭く対比させるようになった。シカゴで社交界を追放され大儲けをした後、再び海外に行く決心をした。ローマでは(裕福なので紹介された)日本やブラジルの大使館や、新しくできたイタリアの宮廷で、魅力的な社交界のかなりの大物……イタリアの伯爵夫人、イギリスの貴婦人、とても優雅で社交上手なアメリカの才女…………に距離を置いて遭遇した。相手は一様にすばやくクーパーウッドの態度の魅力や、思考の切れ味と理解力を認めて、その魂の優れた個性の価値をすべて評価した。しかしアイリーンがあまり受け入れられていないことはクーパーウッドにもいつもわかった。アイリーンは身の回りのものが豪華すぎ、派手すぎだった。その輝くような健康と美貌は、自分に魅力がない大勢の人たちの、見劣りする、昇華させざるを得ない魂を傷つける類のものだった。
「あなた、ああいうのが典型的なアメリカ人ってわけではありませんよね」クーパーウッドは、とても多くの人が自由に参加できる大々的なごく一般的な宮廷レセプションの一つで、ある女性が発言するのを聞いた。そこへはアイリーンも行くと決まっていた。クーパーウッドはわきに立っていて、知り合った相手……グランドホテルに滞在中の英語を話すギリシャの銀行家……と話をしていた。アイリーンはその銀行家の奥さんと散歩していた。発言したのはイギリス人の女性だった。「派手だし、自意識過剰だし、世間知らもいいところね!」
クーパーウッドは振り向いて見た。アイリーンのことだった。話している女性は紛れもなく育ちが良く、思慮分別があり、容姿端麗だった。女性の言い分はもっともだと認めざるを得なかったが、では、いったいアイリーンのような女性はどう評価すればいいのだろう? どんな形であれ非難にはあたらなかった……生きることが大好きで輝いているただの血気盛んな動物だった。アイリーンはクーパーウッドにとっては魅力的だった。明らかに保守系の人たちが、盛んにアイリーンに反発するのが残念でならなかった。自分にわかるものがなぜ彼らにわからないのだろう……豪華さや見栄えの良さに子供のように夢中になるのは、おそらく幼い頃アイリーンが必要とし憧れていたのに、上流らしい生活を楽しんでこなかったからなのだ。クーパーウッドはアイリーンを気の毒だと思った。それと同時に、今は別のタイプの女性の方が、自分の社交にとっては好ましいと感じるようになった。もっとしっかりしたタイプ、もっと芸術をよくわかって、正当な社交の仕方というか態度を好む人が相手だったら、自分はどれだけ助かるだろう! イタリアで入手したペルジーノを一点と、ルイーニ、プレビターリ、ピントゥリッキオ(この最後はチェーザレ・ボルジアの肖像)の素晴らしい作品を数点、さらにカイロで見つけた特大の赤いアフリカの花瓶の二点は言うまでもなく、ローマで見つけた高い金色のルイ十五世時代の彫刻を施した木の燭台、ベニスからは壁用の華麗な枝付き燭台を二点、ナポリからは書斎の片隅を飾るイタリア製の燭台一対などを自宅に持ち帰った。こうして徐々にアートコレクションが充実していった。
同時に、女性や性の問題に関しても、クーパーウッドの判断や見方は大きく変わり始めたと言わなければならない。アイリーンと初めて会った頃、クーパーウッドは人生やセックスについて多くの鋭い直感を持っていて、何にしても、自分の好きなようにやる権利があるという明確な信念を持っていた。出所後に再び上昇気流にのっているときにも、自分にちらほら向けられる視線はたくさんあった。自分は女性にとって魅力的なのだとはっきり実感させられたことが多かった。アイリーンを正式に手に入れたのはつい最近だったが、過去何年も愛人として自分のものだった。最初は心を奪われていた……ずっと奪われ続けていたといってもよかった……熱はさめた。クーパーウッドがアイリーンを愛したのは、美しいからだけでなく誠心誠意の熱意があるからだった。しかし、他の人たちが自分の中に一時的な興味や情熱さえも呼び起こす力は、あえてわかろうとも、説明しようとも、正そうともしなかった。それが現実で、彼はそういう人間だった。こうやって自分の衝動がみだりに他人に向かってしまうのをアイリーンに知らせて気持ちを傷つけたくはなかった。しかしそれが事実だった。
ヨーロッパ旅行から帰って間もないある日の午後、ネクタイを買いにステート・ストリートの高級服の店に立ち寄った。入店すると、ひとりの女性がカウンターからカウンターへと目の前の通路を横切った……好みのタイプの女性だった。しかしかなり離れたところから、その世界で人があちこち移動するのを見ていた。基本的にこざっぱりしていて見た目がしゃれた派手なタイプで、均整の取れた姿、黒い髪と目、オリーブ色の肌、小さな口、古風な鼻をしていた……どれも実に当時のシカゴらしい特徴だった。さらに、目には新しいことを知りたがる表情があって、生意気で横柄な雰囲気がクーパーウッドの征服感と支配欲を刺激した。女がほんの一瞬放った挑発と反抗の視線を受けて、クーパーウッドは好奇の目でライオンさながらににらみかえして女に冷水を浴びせた。それは険しい視線ではなく、ただ執拗でたっぷり含みのあるものだった。女は、仕事と自分のことしか頭にない裕福な弁護士のきまぐれな妻だった。女は最初に一瞥した後しばらく無関心を装ったが、何かレースの服でも調べるかのように少し離れたところで立ち止まった。クーパーウッドは目で女を追い、二度目になるほんの一瞬の魅惑の視線をとらえた。破りたくない予定をいくつかかかえていたので、手帳を取り出し、ホテル名と「二階のラウンジ、火曜日午後一時」と紙に書いて、女が立っているところを通り過ぎるときに、それを横におろしている手袋をした手に押し込んだ。指がそれを自動的に握りしめた。女はクーパーウッドの動作に気づいていた。クーパーウッドは名前を記さなかったが、女は指定した日時にその場にいた。この関係はクーパーウッドにとっては楽しかったが、長続きはしなかった。興味深い女だったが、あまりにも変わり者すぎた。
同じように、ある晩、最初に住んでいたミシガン・アベニューの家の近所の住人のヘンリー・ハドルストン邸での小さなディナーパーティーで、二十三歳の娘に出会った……一時的に夢中になった。娘の名前はあまり魅力的ではなかった……あとで知ったところではエラ・F・ハビィだった……本人はまんざらでもなかった。一番の魅力は、笑いが絶えないお転婆な顔つきと、おちゃめな目で、サウス・ウォーター・ストリートの裕福な仲買人の娘だった。娘の方でクーパーウッドのことが気になって関心が呼び覚まされるというのは十分に自然だった。若く、愚かで、影響されやすく、評判の華やかさに簡単に参ってしまった。ハドルストン夫人はクーパーウッド夫妻と、彼が手がけている、あるいは手がけるつもりの大きな仕事を高く評価していた。エラはクーパーウッドを見て、彼がまだ若く見え、目には美への愛情が宿り、自分が決して苦手ではない存在感があるのを知って、魅了された。アイリーンが見ていないと、エラの視線は、親しみと憧れの笑みを浮かべながら、絶えず彼の視線をさぐっていた。応接間に移動する時に、いつか事務所の近所に来たら立ち寄ってください、とクーパーウッドがエラに告げたのも、ごく自然なことだった。クーパーウッドがエラに向けた視線は鋭く物を言って、熱く興奮している同じ種類の視線の返礼をもたらした。エラは現れ、かなり短期間の関係が始まった。面白かったが、すばらしくはなかった。この娘は、漫然と相手を知る期間を超えてまで一緒にいたいと思うほどの気質を持っていなかった。
短い間だが、知り合った女性はもう一人いた。ジョセフィーン・レドウェル夫人という粋な未亡人で、最初は商品取引所に投機をしに来たのだが、紹介されるとすぐにクーパーウッドとの浮気の魅力に目が向いた。アイリーンにタイプが似てなくもなかった。少し年上で、あまり器量はよくなかったが、もっとしっかりしていて商才に長けたタイプだった。小粋で、自立していて、慎重だったので、クーパーウッドはかなりその気になった。関係を結ぼうと盛んに誘惑してついにやりとげ、ノースサイドにある未亡人のアパートがこの関係の拠点になり、およそ六週間続いた。クーパーウッドはその間ずっと未亡人のことがあまり好きではないと納得尽くだった。彼と付き合う者は、最初の妻が持っていた独特な魅力はもちろんアイリーンの現在の魅力と戦わねばならなかった。それはそう簡単なことではなかった。
クーパーウッドがついに人生に鮮烈な印象を残す運命の女性に出会ったのは、最初の妻との最初の数年間と必ずしも同じではなかったがどこか似ている、社交が芳しくないこの時期のことだった。すぐには忘れられない女性だった。名前はリタ・ソールバーグ。当時シカゴ在住のとても若いデンマーク人のバイオリニスト、ハロルド・ソールバーグの妻だった。しかし彼女はデンマーク人ではなかったし、夫はまぎれもなく音楽家だったが決して優れたバイオリニストではなかった。
おそらくみなさんはあらゆる分野で、志願者、本物に近い者、なりすまし……要するに、面白い人たち……が、ある意味で狂ったように熱中して、自分のやりたいことに打ち込む姿を見たことがあるかもしれない。彼らはそれなりに本職が受け継いできたものの外見と特徴をすべて見せて、金管楽器を吹いたり打楽器を鳴らしたりしている。彼がこのレベルの芸術家であることを認識するために、ほんの少しだけハロルド・ソールバーグを知ってもらわねばならない。彼は野性的で険しい寒々とした目をしていて、こめかみから上にすき上げたこげ茶色のざんばらで豊富な髪が、ひと房はぐれてナポレオンのように目の方にたれていた。頬はまるで赤ん坊のような色で、唇は厚すぎで赤くなまめかしく、鼻は立派で大きくふらんでいるがわずかに鷲鼻で、眉と口髭は彼の気まぐれで愚かな魂のように何だか燃え上がるようだった。二十五歳まで全然うだつがあがらず、何の関係もない女性と絶えず恋に落ちてばかりいたので、デンマーク(コペンハーゲン)を追い出された。母親に月四十ドル仕送りしてもらって、このシカゴで教師をやり数名の生徒をかかえていた。羽振りがよかったり空腹をかかえたりを交互に繰り返す不規則な生活をおくりながら、何とか面白い見せ場を作って生き抜いてきた。カンザス州ウィチタのリタ・グリーノーに出会ったのはまだ二十八歳のときだった。クーパーウッドに出会ったとき、ハロルドは三十四歳、リタは二十七歳だった。
リタはシカゴのアートスクールの学生だった。いろいろな学校行事でハロルドに会ったのは、彼の演奏が神がかっているように思えたとき、人生がロマンスと芸術で一色のときだった。季節は春、湖に日射しが降り注ぎ、船の白い帆が映える、街が金色のもやの中に包まれた物悲しい昼下がりに、少し散歩をして、話をして、なるようになった。土曜日の午後に突然結婚して、ミルウォーキーへ駆け出したかと思えば、今度は二人のために準備されたアトリエへ舞い戻り、愛が満たされるか、安らぐまで、キス三昧だった。
しかし決まりきったことをするだけでは生活が成り立たず、徐々に問題が表に出始めた。幸い、リタは金に困窮していなかった。リタは貧しくなかった。父親はウィチタで小さいが、実入りのいい穀物倉庫を経営していた。高尚な芸術だの音楽だのはどう考えてもこの父親には縁のないかけ離れた得体の知れないものだったが、娘の電撃結婚の後も仕送りを続けることにした。やせて几帳面で温和なこの男は、小さな取引のチャンスを大事にし、ウィチタのあまりぱっとしない社会の暮らしが性に合っていた。ハロルドが爆弾並の変わり者だとわかると、腫れ物をさわるように扱うことにした。しかし単純でも、徐々にとても人間らしくなっていったので、それがとても誇らしくなった……ウィチタでリタと芸術家の夫のことを自慢し、夏の間に隣人たちを仰天させようと二人を自宅に招いた。秋には農民も同然の妻が二人に会いに行って、旅行や観光、スタジオでお茶を楽しんだ。どう見てもそれは、面白くて、いかにもアメリカ的で、素朴で、めったにないものだった。
リタ・ソールバーグは幾分粘液質で、優しく、血気盛んで、四十歳になると太りそうな体をしているが、今は見惚れるほど魅力的だった。柔らかくてすべすべの明るい埃色の薄茶の髪で、潤いのある青灰色の目、白い肌、歯並びのいい白い歯をしているものだから、自分の魅力を自覚していい気になっていた。多くの多感な男性を興奮させたことに気づいていないふりをするために明るい無邪気な態度をとっていたが、自分が何をしているのか、それをどういうふうにやっているのか、楽しんでやっている、ということをちゃんとわかっていた。滑らかで柔らかい腕と首のすばらしさといい、肉体のふくよかさと色気といい、着こなしの優雅さと完璧さといい、リタは少なくともそういう効果を出す個性とセンスを意識していた。古い麦わら帽子、リボン、羽、バラを手にすれば、生まれつきの美意識を駆使して、どういうわけかそれを自分を引き立てるちょっとした被り物に変えることができた。何となく自分の魂を感じさせる白と青、ピンクと白、茶色と淡い黄色といった素朴な組合せを選んで、そういうものがウエストに巻いた艶のある茶色(あるいは赤)の大きなベルトや、柔らかいツバの顔を覆うほど大きな帽子の上の方に来るようにした。上品に踊ることができ、少し歌えて、感情を込めて……時には華麗に……演奏することができて、絵を描くことができた。しかしリタの技量はその場しのぎでしかなかった。彼女は芸術家ではなかった。リタの本質は自分の気分と思考に過ぎず、しかも、曖昧で、思いつきで、無秩序だった。リタ・ソールバーグは従来の見方に立てば危険な人物だったが、この時の本人の見方からすれば、まったくそんなことはなかった……ただの空想家で楽しんでいるだけだった。
リタの状態が少し変わったのは、ソールバーグがリタを……かなり……失望させ始めたからだった。実を言うと、ソールバーグは、すべての病気の中で最も恐ろしいものにかかっていた。心が不安定になり、本当に自分を見失って苦しんでいた。ソールバーグは時々、自分には偉大なバイオリニストや偉大な作曲家の素質があるのか、それとも最後まで本当は認めたくなかったがただの立派な教師に過ぎないのか、自信がなくなった。「私は芸術家なんだぞ」とよく言っていた。「ああ、この気質が悩ましいな!」それからまた「この犬めが! この牛めが! この豚めが!」と他人とこき下ろした。たとえ時々ある種の繊細さ、優しさ、覚醒、多少の注目を集める魅力の域に達することがあったとしても、演奏の質は極めて不安定だった。しかし、それはだいたい彼自身の思考の混沌ぶりを反映していた。ソールバーグは自分の技術を制御できなくなるほど乱暴で情熱的な動きを交えて、激しく熱狂的に演奏した。
「ああ、ハロルド!」リタは最初のうちはうっとりして叫んでいたが、やがてあまり自信が持てなくなった。
称賛される者になるためには人生も人格もどこかへたどり着かなければならない。なのにハロルドは、実際に本当に、どこへもたどり着いていないようだった。教えては当たり散らし、夢を追っては泣いた。リタは気づいたが、それでも一日に三度食事はとっていた。他の女性に夢中になることも時々あった。誰か一人の男性の人生で最も大切なものになることは、リタが自分という人間の価値だと思う、あるいはどうしても譲れないとする一線だった。だから歳月が経過して、ハロルドが最初は気持ちが動き、夢中になり、やがて行動に移して不貞を働くようになると、リタの気持ちは殺伐としてきた。人数を数えた……音楽を習う生徒、次が美術を学ぶ学生、そしてハロルドがパーティーで演奏した家の銀行家の妻。それからリタはいつになく機嫌を損ねて実家に帰り、ハロルドの方はひれ伏して悔い改め、泣くは、荒れるは、感情の赴くままによりを戻すが、やがてまた同じことが繰り返された。みなさんなら、どうだろうか?
リタはもうハロルドに嫉妬しなかった。音楽家としての才能を信じなくなっていた。夫が他の女に見向きもしなくなくなるほど自分の魅力が十分ではなかったことにがっかりした。こればかりは面白くなかった。これは自分の美しさへの冒涜だ。自分はまだ美しいのだ。リタはふるいつきたくなるような豊満な肉体だった。アイリーンほど背は高くなく、実際に大きくもないが、リタの方が丸みを帯びたふっくらとした体つきで、もち肌で魅惑的だった。体格はあまり良くはなく、元気いっぱいというわけではなかったが、目や口、考えが定まらないところが不思議と魅力的だった。リタは精神面でアイリーンよりもずっと意識が高くて、美術、音楽、文学、時事問題などの知識ははるかに正確だった。恋愛にかけてはもっとずっと曖昧で相手の気を引いたりしていた。花、宝石、昆虫、鳥、小説の登場人物についての知識は豊富で、詩は散文も韻文もひととおり知っていた。
クーパーウッド夫妻が初めて会った時、ソールバーグ夫妻はまだニューアーツビルにスタジオを構えていた。すべては五月の朝のように澄み切っているように見えたが、ハロルドだけはあまり順調にいっていなかった。地に足がついていなかった。出会いは、クーパーウッド夫妻がずっと親しくしているハートシュタット夫妻が催し、ハロルドが演奏したティーパーティーだった。孤独だったアイリーンは、自分の人生を少しでも明るくするチャンスだと思い、平均よりはやや上にいそうなソールバーグ夫妻を自宅に招いて音楽の夕べを開催した。夫妻は現れた。
このときクーパーウッドはソールバーグを一目見て正確に相手を評価した。「安定性を欠いた感情的な気質」だと思った。「おそらく一貫性と応用力がないため自分の居場所が定まらない」しかし一応は相手を気に入った。ソールバーグは芸術家のタイプというか人物としては面白かった……日本の版画に出て来そうだった。愛想よく挨拶した。
「そして、ソールバーグ夫人ですね」相手のリズム、余裕、あどけなさを素早く察知して、気持ちを込めながら言った。リタは簡素な白と青の衣装だった……レースのひだ飾りの上の素肌に小さな青いリボンをいくつかつけていた。腕と喉が、いかにも柔らかそうで、あらわになっているのがたまらなかった。目ざといのに、優しくて、赤ん坊のような、かわいい目だった。
「実は」口を異様に丸めてリタは言った。これは話すときの特徴だった……かわいらしく口を尖らせた。「ここまでたどり着けないかと思いました。火事があったんですよ」……リタは『かぁじ』と発音した……「十二丁目で」(『じゅうに』は口では『じぁうに』だった)「消防車がそこらじゅうにいましたわ。一面、火の粉と煙だらけ! 窓という窓から炎が出てました! 炎といってもどす黒い赤……オレンジと黒といっていいくらいでした。それはそれできれいなんですけどね……そう思いません?」
クーパーウッドは魅惑された。「同感ですね」場面に応じて簡単に見せられる、偉そうでありながら同調的な態度で、和やかに言った。ソールバーグ夫人は自分にとって魅力的な娘なのかもしれないと感じた……やたらとベタベタするくせに、はにかみやなのだ……それでいて、はっきりしていて個性的だとわかった。腕も顔もすてきだとクーパーウッドは密かに思った。ソールバーグ夫人は、目の前の、しゃれた、冷たい感じの、几帳面な男を見ただけだった……かなり有能だと思った……きらめく鋭い目をしていた。大物に……有名にさえ……なることはないハロルドとは大違いだと思った。
「バイオリンをお持ちくださってありがとうございます」アイリーンはもう片方の隅にいたハロルドに言った。「あたしたちのために演奏しに来てくださるのを楽しみにしてました」
「きっとお楽しみいただけますよ」ソールバーグは感じのいい気取った口調で答えた。「ここはすてきなところですね……すてきな本、翡翠、ガラスだらけだ」
やたら丁寧で迎合しがちだがそこが魅力的だとアイリーンは思った。こういう人には強くてお金持ちの女性がついて面倒をみてあげるべきなのだ。乱暴で不安定な子供も同然なのだから。
軽食が振る舞われた後、ソールバーグは演奏した。クーパーウッドはその立ち姿、目や髪に興味を持ったが、それ以上にソールバーグ夫人のことが気になって、ずっと目が離せなかった。鍵盤の上の手、指、肘のえくぼを見つめた。何てかわいい口なんだ、何て軽いふわふわの髪なんだ、と思った。しかしそれだけにとどまらず、全体に影響を及ぼす雰囲気があった……ほんのささいな心の綾が、クーパーウッドにも届き、心を通じ合わせ、彼女に対する熱い思いを抱かせさえた。ソールバーグ夫人は彼が好きになるタイプの女性だった。六年前のアイリーンにどこか似ていた。(アイリーンは今三十三歳で、ソールバーグ夫人は二十七歳である。)ただアイリーンの方がいつもたくましく、活発であり、漠然としたところが少なかった。ソールバーグ夫人は南洋の牡蠣の殻の華美な色合いの内側のようだった……暖かみがあって、色鮮やかで、繊細だった。(クーパーウッドは最後に自分でそう思った。)しかしそこにはしっかりした部分もあった。社交界の中でも彼女のような人は見たことがなかった。魅力たっぷりで、官能的で、美しかった。自分が見ていることにようやく相手が気づくまでクーパーウッドは相手から目を離さなかった。すると夫人は口を色っぽく結んで茶目っ気のある笑顔を浮かべて見返した。クーパーウッドは虜になった。彼女は無防備なのだろうかとクーパーウッドは思った。このかすかな微笑に、ただの社交辞令以上の意味があるだろうか? おそらくはないだろう。しかし自分の気質でこの豊かで満ち足りた気質を覚醒させることはできないだろうか? 夫人が演奏を終えたタイミングでクーパーウッドは「ギャラリーを歩いてみたくありませんか? 絵はお好きですか?」と言って腕を差し出した。
「実はね」ソールバーグ夫人は言った。とてもかわいらしかったので、奥ゆかしく、とても魅力的だとクーパーウッドは思った。「これでも一度は一流の画家になろうって思ったんですよ。おかしいでしょ! 『恩人に』と銘打って作品の一つを父に贈ったんです。それがどんなにおかしいかをわかっていただくには実物を見ていただかなくてはなりませんけど」
夫人はやさしく笑った。
人生に新たな関心を抱いてクーパーウッドは応えた。彼女の笑いはクーパーウッドにとって夏の風のようにありがたかった。「ほら」二人がガス灯の柔らかい光に照らされた部屋に入るとクーパーウッドは穏やかに言った。「これは昨年の冬に購入したルイーニです」それは『聖カタリナの神秘の結婚』だった。夫人がやせ細った聖者のうっとりした表情に見入る間は話すのをやめた。「そしてここにあるのが」と話をつづけた。「今のところ最高の掘り出し物です」二人は、ピントゥリッキオが描いたチョーザレ・ボルジアの狡猾な表情の前にいた。
「何て変な顔なんでしょう!」ソールバーグ夫人は無邪気に言った。「彼を描いた者がいたとは知りませんでした。彼自身が何だか芸術家に見えません?」夫人はこの男に関する複雑で実に悪魔じみた歴史を読んだことがなく、彼の犯罪と陰謀の噂を知るだけだった。
「彼は彼なりにそうでしたよ」クーパーウッドは微笑んだ。彼の人生についてはざっと知っていたし、父親の教皇アレクサンデル六世の分は購入した時に教わった。チョーザレ・ボルジアに関心を持ち始めたのはつい最近だった。ソールバーグ夫人にはその含みのあるユーモアがよくわからなかった。
「まあ、これはクーパーウッド夫人ね」ヴァン・ビアーズの作品の方を向きながらソールバーグ夫人は言った。「色調が濃いですね?」高慢な物言いだったがクーパーウッドの好きな無邪気な高慢さだった。彼は女性の中の元気がいいのと多少ずうずうしいところが好きだった。「なんて鮮やかな色づかいなんでしょう! 庭と雲の感じがいいですね」
夫人は後ろにさがった。クーパーウッドは夫人にしか興味がなかったので背中のラインと横顔をながめた。体の線も色も完璧に調和している!
「あらゆる動きがうまく形をつくってうきうきしているでしょ」と言ってもよかったが、代わりにこう言った。「場所はブリュッセルです。雲はあとで思いついたものです、壁の花瓶もね」
「とてもいいと思います」ソールバーグ夫人は感想を言ってさがった。
「このイズラエルスはいかがですか?」クーパーウッドは尋ねた。それは『質素な食事』という絵だった。
「好きですわ」夫人は言った。「バスチャン・ルパージュなんかもね」と『鉄工所』に言及した。「でも往年の巨匠の方がずっと面白いと思います。もっとたくさん手に入れたら、ひと部屋にまとめるべきよ。そう思いません? でも、あなたのジェロームはあまり好きじゃないんです」夫人はかわいらしくゆっくりと言った。クーパーウッドはそれを限りなく魅力的だと思った。
「どうしてですか?」クーパーウッドは尋ねた。
「だって、いかにも工夫しました感じなんですもの。そう思いません? 色は好きなんですが、女性の体が完璧すぎると言えばいいかしら。とてもすてきなんですけどね」
クーパーウッドは芸術の対象としての価値以外に、女性の能力をろくに信じなかった。しかし、時々、女性はこうしてすてきな洞察力を発揮して自分の洞察力を研ぎ澄ますことがあった。アイリーンではこういう発言はできないと思った。今のアイリーンはこの女性ほど美しくなかった……純真さ、素朴さ、味わい深さも魅力を失い、それでいて賢くなかった。ソールバーグ夫人は一種の馬鹿を夫に持ったとクーパーウッドはちゃかり見ていた。果たして、この自分、フランク・クーパーウッドに関心をもつだろうか? こういう女性は離婚と結婚以外の理由で降伏するだろうか? クーパーウッドは考えた。ソールバーグ夫人の方では、クーパーウッドは何て強烈な男性だろう、随分と自分の近くにいついたままでいる、と考えていた。自分に気があるのだと感じた。他の男性でもよく見た症状だったし、それが何を意味するかは知っていた。夫人は自分の美しさの魅力を心得ていた。それをできるだけ芸術的に高める一方で、この人のためなら違うことをする価値がある相手に会ったことがないと感じながら、距離をとってもいた。しかし、クーパーウッド……この人にはアイリーンよりももっと多感な相手が必要だ、と夫人は考えた。
第十五章
新たな愛情
クーパーウッドとリタ・ソールバーグの関係の進展は、アイリーンによってまったく偶然に育まれたものだった。アイリーンはハロルドに対して本当に何の根拠もない馬鹿げた感傷的な関心を抱いた。アイリーンがソールバーグを気に入ったのは、女性……かわいらしい愛い女性……が関係する場面だと彼がこの上なく丁重で、おだて上手で、情にもろい男性だったからだ。自分がソールバーグのところへ生徒を送り込んであげればいいと考えた。とにかくそれがスタジオに行くいい口実だった。アイリーンの社交はそれほど退屈だった。だから出かけて行った。クーパーウッドもソールバーグ夫人を目当てにして出向いた。クーパーウッドは壊れてもおかしくないくらい抜け目なくアイリーンをあおって関心がそっちに向かうようにした。夫妻をディナーに招待しょうとか、ソールバーグが演奏できて報酬が支払われるようなミュージカルを主催しようとアイリーンに提案した。劇場のボックス席をとったり、コンサートのチケットを送ったり、日曜日や他の日にドライブに招待した。
こういう状況の手にかかると、人生はがらりと変わってしまうものらしい。クーパーウッドがリタのことを盛んに全力で考えるようになると、リタも同じように相手のことを考えるようになった。時間を追うごとに彼の魅力が増して、未知の気になる男性になった。彼の雰囲気に包まれて、リタは自分の良心と共に悪魔の時間を過ごしていた。まだ何も言われていなかったが、クーパーウッドはリタを包囲して、徐々に追い詰め、次々に退路をふさいでいる様子だった。ある木曜日の午後、アイリーンもクーパーウッドもソールバーグ夫妻のお茶の席に出席できなかったときに、ソールバーグ夫人はジャクミノのバラの見事な花束を受けとった。「あなたの隅々に捧ぐ」とカードにあった。その贈り主も、それがどれだけの価値があるものかも、よくわかっていた。全部で五十ドルはしようというバラだ。それは夫人に自分の知らなかったお金の世界の息吹を届けた。毎日、新聞で彼の銀行や証券会社の名前が広告されるのを見た。一度、正午にメリルの店で会ったときにランチにさそってくれたが、断るしかないと感じた。いつも彼はまっすぐな生き生きした目で自分のことを見た。自分の美貌がそうさせた、いやさせているのだ! 心は知らないうちに、ひょっとしたらこの熱心で魅力的な男性が、ハロルドでは夢にも思わない方法で、自分を支配している未来へ進んでいた。しかし、練習、買い物、電話、読書を続け、ハロルドの非力を考え込んでは、時々ふと立ち止まって考えた……クーパーウッドの洗練された手が自分をつかむのを。あの力強い手……何てすてきなのかしら……そしてあの大きな、優しくもあり険しくもある鋭い目。(シカゴでの芸術家生活のせいで時々修正された現状の)ウィチタの清教徒気質が……この男に見られるような……時代の巧みな人心操作と激しい戦いを繰り広げていた。
「あなたは、かわすのがとてもお上手だ」ある晩、劇場の幕あいの時間、後ろの席に座ったときにクーパーウッドはソールバーグ夫人に話しかけた。ハロルドとアイリーンは席を外してロビーを歩いていた。何が言われようと会話のさわがしさが音をかき消した。ソールバーグ夫人のレースのイヴニングドレス姿は一段とすてきだった。
「そんなことありません」相手が注目することに気を良くして、間近にいることを強く意識しながら、面白がって答えた。相手の一言一言にわくわくしながら、徐々に相手の雰囲気に身を任せていった。「自分がとても安定しているからそう見えるんでしょうね」夫人は続けた。「私はちゃんと充実していますから」
ソールバーグ夫人は膝の上のふくよかで滑らかな腕を見た。
クーパーウッドは、夫人が充実ぶりを装ったのと、さらにはアイリーンよりもはるかに豊かなその気質のすばらしさを感じて、深く感動した。言葉には決して(もしくはほとんど)出ない小さなはやる気持ちが、彼女から彼に伝わってきた……彼女の心の中の感情、気持ち、空想が、かすかなそよ風のように流れ出てクーパーウッドを魅了した。獣性はアイリーンに似ていたが、もっと品があって、それでいて甘美で、繊細で、精神面がはるかに豊かだった。それとももうアイリーンに飽きただけだろうか、と時々自問しては、いや、いや、そんなはずはない、と自答した。リタ・ソールバーグはこれまで知り合った中で好感度最高の女性だった。
「そうですね、だけどやはりはぐらかしますね」リタの方に身を乗り出しながら続けた。「あなたは言葉では言い表せないものを連想させるんです……色というか、香りというか、音の調子というか……瞬間的なものをです。最近私はあなたのことばかり考えています。芸術についてのあなたの知識に興味がわきましてね。あなたの演奏が好きなんですよ……いかにもあなたらしくて。自分の生活の日常とはまったく関係のない楽しいことを考えさせてくれるのでね。わかりますか?」
「それはよかったわ、私がお役に立ててれば」そう言ってリタは穏やかにこれ見よがしに息を吸い込んだ。「あなたのせいでうぬぼれてしまいますわ」(口がきれいなまん丸になった。)「買いかぶり過ぎなんですよ」一気に感情が爆発して、上気し、紅潮し、胸がいっぱいになった。
「あなたはすてきですよ」クーパーウッドは執拗に続けた。「あなたはいつも私をそういう気分にさせるんです。お気づきだろうけど」椅子に身を乗り出して付け加えた。「あなたは生きてこなかったんだと時々私は考えてしまいます。あなたを完璧なものに仕上げるものはたくさんあるんです。あなたを海外に送り出したい、あるいは連れて行きたい……とにかく、行くべきですよ。あなたは私にとってかけがえがない人だ。私があなたに思いを抱いていることに気づいてますか?」
「ええ、でも」……リタは口ごもった……「私、こういうことや、あなたのことが心配なんです」口が最初にクーパーウッドを魅了したあの同じすてきな形をしていた。「こういう話はしない方がいいと思うんですけど、あなたはどうなんですか? ハロルドはとても嫉妬深いし、嫉妬するでしょうね。クーパーウッド夫人はどう思うと、あなたはお考えなんですか?」
「それはよくわかりますが、今立ち止まってそれを考える必要はないでしょ? 私に話をさせてもらったところで家内に害は及びません。人生は人と人との間にあるんです、リタ。あなたと私には共通点がとてもたくさんあります。それがわかりませんか? あなたは私がこれまでに知り合った中で最高に興味深い女性なんです。全然知らなかったことを教えてくれるんですからね。それがわかりませんか? あなたには本当のことを語ってほしいですね。私を見てください。今のあなたは幸せではありませんよね? 必ずしも幸せではないでしょ?」
「そうね」リタは指で扇子をなでた。
「あなたは幸せですか?」
「かつてはそうだと思ってました。でも今はもう違うと思います」
「理由はとてもはっきりしていますね」クーパーウッドは言った。「今の場所じゃ能力が発揮しきれないほどあなたはずっと素晴らしいですよ。あなたは一人の人間であって、他人の香炉を振る付き人ではありません。ソールバーグさんは確かに面白いですが、あれであなたが幸せなはずはない。それがあなたにわからなかったことが驚きですよ」
「ええ」リタは少し疲れた感じをにじませて叫んだ。「でも多分わかっていたんですわ」
クーパーウッドが鋭い目で見ると、リタはぞくっとした。「ここでそういう話をしない方がいいと思います」リタは答えた。「あなたでしたら……」
クーパーウッドはリタの椅子の背もたれのもう少しで肩に触れそうなところに手を置いた。
「リタ」再び名前を呼んで言った。「あなたは素晴らしい女性だ!」
「ああ!」リタは息を吸い込んだ。
ある日の午後、アイリーンが最初にソールバーグ夫妻のところに立ち寄って新型二輪馬車で迎えに来たとき、クーパーウッドは一週間以上も……正確には十日……ソールバーグ夫人に再会しなかった。ハロルドはアイリーンと前に乗り、アイリーンはクーパーウッドとリタに後部座席を譲った。夫がどれだけ興味を抱いているか、アイリーンはこれっぽっちも疑わなかった……夫の態度にすっかり欺かれていた。アイリーンは、この二人でなら自分の方がいい女だ、容姿も服装もいい、だから魅力も上であると思った。この女性の気質がクーパーウッドにとってどんな魅力をもつのか、アイリーンには想像できなかった。夫はとても活発で、活動的であり、見たところロマンチックではなさそうだが、同時にその性格に(とても力強い外見の下に)奥い潜在性のロマンスと炎の成分を隠していた。
「すばらしいですね」リタの横に体を沈めながら、クーパーウッドは言った。「何てすばらしい夜なんだ! そして、バラのついたすてきな麦わら帽子といい、すてきなリネンのドレスといい。いいもんだな!」バラは赤く、ドレスは白で、ところどころに細い緑色のリボンが通してあった。リタはクーパーウッドが張り切る理由を痛感していた。クーパーウッドは、ハロルドとは大違いで、健康的で、アウトドア派で、とても有能だった。この日、ハロルドは自分が運命や人生や成功に恵まれないことで癇癪をおこしていた。
「ああ、私があなただったら文句ばかり言わないのにな」リタは手厳しく言ってやった。「もっと一生懸命働いて、当り散らすのはやめた方がいいわ」
これがもとで修羅場となり、リタは逃げ出して散歩に出ていた。リタが戻ったのとほぼ同時にアイリーンが現れた。おかげでことは収まった。
リタは気を取り直し、服を着て仲直りした。ソールバーグもそうした。見た目は笑顔で幸せそうに、ドライブが始まった。クーパーウッドが話すと、リタは満足そうにまわりを見回した。「私は素敵だし」リタは思った。「彼は私を愛している。私たちが踏み出せば、さぞかしすばらしいことになるでしょうね」しかしリタは声に出して言ったのはこうだった。「私ったら、あまりすてきじゃないわね。せっかくの日なのに……そう思いません? 服装は単純だし、おまけに今夜はあまり幸せじゃないわ」
「どうしたんですか?」クーパーウッドが元気づけるように言った。交通の騒音がみんなの声を伝わらなくしていた。クーパーウッドは、リタが直面する問題なら何でも解決したいと強く思い、親切に接して誘惑しようとその気満々で身を乗り出した。「私にできることが何かありませんか? これからジャクソンパークのパビリオンまで遠乗りして、それからディナーを済ませ、月明かりを浴びながら帰って来るんですよ。それじゃお気に召しませんか? 今は笑っていないといけないはずなんですけどね、あなたらしく……幸せそうに。私が知る限りでは、そうでない理由などないでしょう。あなたのためにあなたがしてほしいこと……できることでしたら、何でもしますよ。私にできることであなたの要望があれば何でもかないますからね。さあ何でしょう? 私がどれほどあなたのことを気にかけているかはご存知でしょ。私に任せてもらえればどんな悩みもなくなるんです」
「でも、あなたにできることではないんです……今はともかく。だって自分の問題ですもの! ええ、そうなんです。それが何だって言われても。どれもつまらないことばかりなのよ」
リタには自分にさえ距離を置けるあの味わい深い雰囲気があった。クーパーウッドはうっとりした。
「ですがリタ、あなたは私にとってつまらない人じゃありません」クーパーウッドは優しく言った。「あなたの問題だってそうですよ。それは私にとってとても大きな問題なんです。あなたは私にとって大事な人ですからね。前にも言ったでしょ。それがどのくらい本当なのかわかりませんか? あなたは不思議で複雑なんです……すばらしいんですよ。私はあなたに夢中なんです。最後にあなたに会ってから、ずっと考えてばかりいるんです。もし悩みがあるのなら、私にも分けてください。あなたは私にとってとても大きな存在なんです……私の唯一の悩みですよ。私ならあなたの人生を万全にできます。私と人生を共にしましょう。私にはあなたが必要だし、あなたには私が必要なんです」
「ええ」リタは言った。「わかってます」それから口ごもった。「全然大したことじゃないんです」リタは続けた……「ただの喧嘩です」
「原因は?」
「実は私なんです」口がすてきだった。「あなたが言うように、ずっと香炉振りなんてやっていられません」クーパーウッドの考えが刺さったのだ。「でも、もう大丈夫よ。すてきな日じゃないですか、さ・い・こ・う・よ!」
クーパーウッドはリタを見て首を振った。リタは宝物のようなものだった……それ自体は大したものではなかった。アイリーンは馬車を操るのとおしゃべりで忙しく、わき見や、聞き耳を立てるどころではなかった。関心はソールバーグに向いていて、ミシガン・アベニューを南下してひしめき合う車両が注意力を削いでいた。芽の出かかった木々や、手入れされた芝生、できたての花壇、開いた窓……春の魅惑が全開の世界……をすばやく通り過ぎる間、クーパーウッドは人生がもう一度新たなスタートを切った気分だった。もし魅力が見えたなら、光り輝くオーラのようにクーパーウッドを包んでいただろう。今夜はすばらしい夜になりそうだとソールバーグ夫人は感じた。
ディナーは公園であった。チキン・アラ・メリーランドを屋外でいただこうというもので、ワッフルとシャンパンが添えられていた。アイリーンは自分の魅力に溺れたソールバーグの陽気さに気をよくして、冗談を言ったり、乾杯したり、笑ったり、芝生を散歩したりして楽しい時間を過ごしていた。ソールバーグは多くの男性と同じように、愚かで話にもならない方法でアイリーンに言い寄っていた。しかしアイリーンは「馬鹿な子」とか「しっ」と言って楽しそうに追い払っていた。アイリーンは自分にやましいところがなかったので、後でクーパーウッドに、彼がいかに感情的だったか、自分がどうやって彼を笑い飛ばさなくてはならなかったか、を隠さず話した。クーパーウッドはアイリーンが誠実なのを確信していたので、すべてを目くじら立てずに受け止めた。ソールバーグは愚か者であり、手近なおめでたい便利屋だった。「悪い奴じゃない」クーパーウッドは言った。「むしろ気に入っている。だが、大したバイオリニストではないと思う」
ディナーが済んでから、湖畔に沿って、木々に閉ざされた大草原のひらけた一画を抜けて馬車を走らせた。月が澄んだ空で輝き、銀の光で野を埋めて湖をおおった。ソールバーグ夫人はクーパーウッドというウィルスを植え付けられ、致命的な効果が出始めていた。ひとたび感情が揺さぶられると、どんなに無気力に見えようが、活気づくのが夫人の気質の傾向だった。本質的には活動的、情熱的だった。クーパーウッドは夫人の心の中で、彼という力として大きくなり始めていた。こういう男性に愛されたらすばらしいだろう。二人の間には熱く求め合う生き生きとした人生がうまれるだろう。それは暗がりで燃え盛るランプのように、夫人を怖がらせもすれば、引き寄せもした。夫人は自分を抑えようとして、芸術や人、パリやイタリアの話をした。そしてクーパーウッドは同じように緊張して受け応えた。しかしその間中、夫人の手をなで、一度などは木陰で髪に手をあてて振り向かせて、頬にそっと口づけした。この未知の嵐の中で、夫人は赤くなり、震え、青ざめたが、自分を取り戻した。すばらしかった……まさに天国だった。古い人生が明らかにこなごなになりそうだった。
「いいかい」クーパーウッドは用心深く言った。「明日の三時にラッシュ・ストリートの橋を渡ったところで会ってくれませんか? すぐにひろいます。これっぽっちも待ったりしませんよ」
考え込み、夢にひたり、相手の未知の空想の世界に催眠術でもかけられたかのように、リタは黙り込んだ。
「いいでしょ?」クーパーウッドはしきりに尋ねた。
「待って」リタは穏やかに言った。「考えさせて。私にできるかしら?」
リタは黙り込んだ。
「いいわ」しばらくして深呼吸しながらリタは言った。「いいわ」……まるで気持ちを整理したかのようだった。
「私のいとしい人」月明かりの中で相手の横顔を見ながら、腕に手をあてて、クーパーウッドはささやいた。
「でも、私、すごいことしているのね」リタは少し息を切らし、少し青くなって、穏やかに答えた。
第十六章
運命の幕あい
クーパーウッドは大喜びだった。もくろんだ関係を熱心に続けたところ、期待どおりの相手だとわかった。リタはこれまで知り合った誰よりも優しく、華やかで、つかみどころがなかった。さっそく手配して、機会があれば朝、晩、午後となく時々過ごしたノースサイドのすてきなアパートで、最も厳しい目でリタを観察してほぼ完璧だとわかった。若さとある種の無頓着な態度がもたらすあの無限の価値があった。うれしいことに、リタの性格には全然憂いがなく、生来の余裕のようなものがあって、取り越し苦労はしないし嫌なことは振り返らなかった。リタは美しいものが大好きだったが浪費家ではなかった。クーパーウッドに興味を抱かせ感心させたのは、どう巧みに気前よく金を使わせようとしてもそう仕向けられないことだった。リタは自分がほしいものを知っていて、慎重にお金を使い、上手な買い物をして、クーパーウッド好みのやり方で花がするように自分を飾った。いっそ破壊したい……自分の中の衝動を抑えてその力を静めたい……と願うほど、そう言ってもいいかもしれないほど、リタに対する感情が時々大きくなった。しかしそれは無駄だった。リタの魅力にはかなわなかった。クーパーウッドには自分の影響が、明らかにリタを再生させて、これまで以上にかわいらしく、優雅にし、手で乱れた髪を整えさせたり、グラスに写った自分にかわいらしく口を尖らせたり、一度にたくさんの関係ないことを面白おかしく考えさせたりしているように思えた。
「先日画材店で見たあの絵を覚えてるかしら、アルガーノン?」セカンドネームで呼んでゆっくりと言った。自分と一緒にいるときの彼の雰囲気に合っていて、その方が楽しかったから、そう呼ぶことにしていた。クーパーウッドは嫌がったがリタは押し通した。「老人が羽織っているものの美しい青を覚えているかしら?」(それは『聖マギの崇拝』だった。)「ああいうのをうっつくしーっていうんじゃない?」
リタはとても甘ったるい間延びした話し方をして、口をキスせざるを得ないような妙な形にした。「まるでクローバーの花だね」クーパーウッドはリタに近づいて腕をつかみながら言った。「ひと枝の桜の花だ。ドレスデン磁器を思わせるね」
「やっときれいにまとまったのに、さっそく髪をくしゃくしゃにする気?」
その声は無防備で明るく純真だった……目もそうだった。
「そうだよ、お転婆さん」
「了解、でも私を窒息させちゃ駄目よ。ほんと、あなたって人はその口で私をひどい目にあわせるんだから。優しくしようっていう気はないのかしら?」
「あるってば。でも、いたぶってもみたいのさ」
「まあ、どうしてもっていうんならね」
しかし、彼がすっかり魅了されていたとはいえその魅力は健在だった。野バラの生け垣の上をヒラヒラと舞う、黄色と白、青と金色の蝶のようだと思った。
この関係を続けてすぐにクーパーウッドは知るようになったのだが、ソールバーグ夫人は脇に追いやられている人たちの一人に過ぎないのに社交界の動向や傾向に随分精通していた。夫人はいっぺんで、彼の社会的視点や芸術的野心、自分を向上させるものを何でも夢見ることをはっきりと理解した。ソールバーグ夫人は、クーパーウッドがまだ自覚していなかったこと、彼女はそうかもしれないが、アイリーンは彼にふさわしい女性ではないとはっきりわかっているようだった。しばらくするとソールバーグ夫人は、寛容な態度で自分の夫のこと……夫の短所、欠点、弱さ……を話した。夫人は心が通わなくなったのではなく、愛情も才能も見識もまともにつり合わない状態がただ嫌になっただけなのだ、と考えクーパーウッドは提案した。ソールバーグ夫人が自分とハロルド用のもっと大きなスタジオを持って、二人の障害だった貧乏暮らしから脱却できるようにする……夫人の実家からの援助が増えたことを理由にしてすべてを説明すればいい。最初、夫人は反対した。しかしクーパーウッドは気を利かせて、結局やってしまった。もう少ししたらヨーロッパに行くようにハロルドを説得するべきだ、と改めて提案した。表向きの理由は同じでいい……夫人の実家からの追加支援だ。ソールバーグ夫人はこうして、けしかけられ、かわいがられ、作り変えられ、保証され、ついには彼の開放的なルール……服従……を受け入れ、猫のように満ち足りたものになった。ソールバーグ夫人は用心しながらもその気前のいい施しを受け入れて、最大限に賢く利用した。かれこれ一年以上もの間、ソールバーグもアイリーンも突然始まった二人の関係に気づかなかった。簡単に騙されたソールバーグはデンマークに戻ってからドイツへ留学した。翌年ソールバーグ夫人はクーパーウッドの後を追ってヨーロッパへ行った。エクスレバン、ビアリッツ、パリ、ロンドンでさえ、背後に余計な者が一人いたのにアイリーンはわからなかった。クーパーウッドはソールバーグ夫人に教えられて見識にさらに磨きがかけられた。音楽、書物、諸々の事実でさえ知識が深まった。ソールバーグ夫人は、古い巨匠の代表作を集める考えを奨励し、近代的な作品の選定は慎重に行うよう求めた。クーパーウッドは自分が楽しい立場にいるのを実感した。
まるで個人が性をむさぼる航海に乗り出すようなこの状況で問題になるのは、誤った自信と、女性の特性に関する私たちが築き上げた倫理観が、嵐となって跳ね返るかもしれないことである。クーパーウッドは自分が自分の法律であり、自分の考える力が足らなかったせいで自分に課せらることがない限り法律など知ったことではなかったから、紛糾、怒り、激情、苦悩が生じる可能性があっても特に踏みとどまらなかった。こういうことは起きると決まっているわけではなかった。普通の男性ならこういう関係は一つ築くのでも難しいと思うかもしれないのに、承知のとおり、以前クーパーウッドはほぼ同時にこういう情事をいくつもかかえていた。そして今もまた別のにとりかかっていた。この最新の情事は気持ちも意気込みも一段と大きかった。今までの情事は、せいぜい感情的なその場だけのものだった……暇つぶしの遊び程度のもので、そこには深い思い入れや感情は関係しなかった。ソールバーグ夫人の場合はすべてが違った。少なくとも当分は実際に夫人は彼のすべてだった。しかし、女性への愛と、女性の美しさに対する芸術性とまでは言わないが感情的な従順さと、女性の個性の神秘とに関係するこの気質は、これから先もクーパーウッドに情事をさせた。そしてこの最新の情事は結果があまり幸運ではなかった。
アントワネット・ノバクは、ウエストサイドのハイスクールとシカゴのビジネスカレッジを出たばかりで、クーパーウッドの専属秘書と速記係を兼務して雇われていた。外国人を両親にもつアメリカの子供たちにありがちなように、この娘は何か普通とは違うものに開花していた。きれいでしなかやな体をして、服装のセンスがよく、速記と簿記の技術を持ち、実務の細部にまで詳しい彼女が、貧しいポーランド人の娘であるとはにわかに信じがたいだろう。父親は最初シカゴ南西部の製鋼所で働き、ボーランド人居住区で五等級のタバコ、新聞、文房具の店をやっていた。トランプと遊べる手軽なゲーム用の奥の部屋を商売にしたのが、店が存在する主な理由だった。アントワネットは、ファースト・ネームがアントワネットではなくミンカだった。(アントワネットはシカゴの日曜新聞の記事から借用したものだった。)優秀で暗い思い悩む娘だが野心家で希望を抱いていた。新たな職についた十日後にはクーパーウッドに憧れていて、興奮も同然の興味を持って、彼の大胆な一挙手一投足を追い続けた。こんな男性の妻になれたら……愛情はもとより、気を引くことさえできたら、すばらしいに違いないとアントワネットは考えた。自分が知っていた退屈な世界……クーパーウッドを通じて垣間見始めた上流の高尚な世界に比べると退屈に見えたもの……と、最初に働いた不動産会社の普通の男性たち、を見た後だったので、いい服を着て、近づきがたい雰囲気で、厳しくない命令的な態度のクーパーウッドは、アントワネットの最も野心的な感情に影響した。ある日、アイリーンが馬車から降りるのを見た。暖かい茶色の毛皮をまとい、すてきなピカピカのブーツをはき、うね織りの茶色いウールの外出着を着て、短剣だか羽根ペンのように跳ね上がった長くて暗い赤の羽根飾りのせいで尖った感じに強調された毛皮のトーク帽をかぶっていた。アントワネットはアイリーンが嫌いだった。自分の方がまし、少なくとも同じだという自信があった。どうして人生はこうも不公平なのだろう? いずれにせよ、クーパーウッドとは一体どんな男性なのだろう? シカゴに周旋業の事務所を開いた直後に、本人が口述した控えめだが正直な経歴を清書して、本人に代わってシカゴの新聞社に届けた後のある夜のこと、アントワネットは帰宅してから、クーパーウッドが語ったことを夢に見た。もちろん夢の中では変わっていた。頭の中で、クーパーウッドがラサール・ストリートのすてきな私室で自分の傍らに立って尋ねた。
「アントワネット、きみは私のことをどう思う?」アントワネットは困惑したが大胆だった。夢の中で、自分が彼に強い関心を抱いていることに気がついた。
「ああ、どう考えていいのか、わかりませんわ。申し訳ありません」と返事をした。そして、相手が自分に、それも頬に手をあてたところで目が覚めた。こんな男性が刑務所にいたなんて、お気の毒、残念よね、と考え始めた。とてもハンサムだわ。結婚は二度。おそらく、最初の奥さんがかなり不器量だったか、とても意地悪だったのね。こんなことを考えて、翌日は考え事をしながら仕事に出かけた。自分の計画で頭がいっぱいだったクーパーウッドはこの時彼女のことを考えていなかった。懸案のガス戦争の次の手を考えていた。そしてアイリーンはある時アントワネットを見たが、下っ端としか考えなかった。仕事をもつ女性が出始めていたとはいえ、まだまだ社会的な地位は低かった。アイリーンはアントワネットのことを何とも思っていなかった。
クーパーウッドがソールバーグ夫人と親密になってかれこれ一年が過ぎると、アントワネット・ノバクとのかなり本格的な仕事の関係がより親密になった。これについては何と言えばいいのだろう……クーパーウッドはすでにソールバーグ夫人に飽きてしまったのだろうか? そんなことはない。どうしようもなく好きだった。あるいは、こうしてひどい騙し方を続けているアイリーンを馬鹿にしてのことだろうか? そんなことはない。クーパーウッドにとってアイリーンはこれまでと同じように時には魅力的だった……アイリーンが自分で思い描く権利がこうして無造作に踏みにじられ続けていたのだからなおさらだったかもしれない。クーパーウッドはアイリーンにはすまないと思っていた。しかし他の女性関係は……おそらくソールバーグ夫人を除いて……ずっと続くわけではないという理由で自分を正当化しがちだった。もしソールバーグ夫人とできたなら結婚したかもしれない。この先アイリーンが自分と別れようなことがあるだろうかと時々考えることがあった。しかしこれは多分考えるだけ無駄だった。こうして簡単にだませるとわかって、むしろ自分たちは二人の日々を一緒に過ごせそうだと想像した。しかしアントワネット・ノバクのような娘に関していうなら、彼女は世界で通用する幾何学的な美しい形をきちんと作る、ただの性的魅力が織りなすあの調和の中に現れた。アントワネットは暗いなりに魅力的で美しく、鬱憤の炎が燃える目をしていた。クーパーウッドは最初の感動こそ微々たるものだったが、アメリカの空気が持つ驚くべき変化の力に目を見張りながら、徐々に彼女に興味を持つようになった。
「きみのご両親はイギリス人かい、アントワネット?」ある朝のことクーパーウッドは、部下や知性の低い者みんなに対してとる、あの優しいひとなつっこい態度で……彼だと不快感がなく普通は褒め言葉として受けとめられる雰囲気で……彼女に尋ねた。
アントワネットは清楚でういういしく、白いブラウスを着て、黒の歩きやすいスカートをはき、黒いビロードのリボンを首に巻き、長い黒髪を厚手に編んで目深に額にかかるようにして、白いセルロイドの櫛でとめ、喜びと感謝の眼差しでクーパーウッドを見つめた。彼女が慣れていたのは違うタイプの男性だった……幼い頃は、真面目で、気性が荒く、興奮しがちで、時には酔っぱらって悪態をついている男たちが、いつもストライキやデモをして、カトリック教会で祈っていた。その次は、お金に目がなく、シカゴとその一瞬の可能性についての多少のこと以外は何もわかっていない実業界の男たちだった。アントワネットはクーパーウッドのオフィスで、手紙を受け取ったり、彼がラフリン老人やシッペンスや他の人たちを相手にてきぱきと穏やかな態度で話すのを聞いたりしていて、これまでに自分が夢で見たものよりも人生にはもっと多くのものが存在することを学んだ。クーパーウッドは開放された大きな窓のようで、アントワネットはそこから無限に広がる風景を見ているようなものだった。
「いいえ、ちがいますわ」黒の鉛筆を持つ細くしっかりした白い手を休めてノートの上に落とし、彼女は答えた。嬉しさのあまり、実にあどけなく微笑んだ。
「そうではないと思ったよ」クーパーウッドは言った。「だってすっかりアメリカ人だからね」
「どこまでそうなのかは私にはわかりませんけど」アントワネットは大真面目に言った。「私には私と同じようなアメリカ人の兄がいます。私たちはどちらも両親に似てませんね」
「お兄さんは何をしてるんですか?」淡々と尋ねた。
「アーニール商会で計量士をしています。いずれは管理者になろうと心がけています」と微笑んだ。
クーパーウッドが思わせぶりに見ると、アントワネットはちらっと見返してから目を伏せた。本人にはどうしようもない、はっきりとした赤が顔にゆっくりと浮かんで茶色の頬をおおった。クーパーウッドが見ると、アントワネットはいつもそうなった。
「この手紙をヴァン・シックル将軍に届けてください」このとき実にいいタイミングでクーパーウッドが切り出した。アントワネットはすぐにもとに戻った。しかし、アントワネットは自分の意思とは関係ない感情にかき乱されずに、一度に長い時間クーパーウッドのそばにいられなかった。クーパーウッドはアントワネットを惑わせて、鈍い炎を行き渡らせた。これほど非凡な人が自分のような娘に興味を持つことがあるかしらと時々思うことがあった。
この重大関心事の行き着く先はもちろんアントワネットが最終的にその座に就くことだった。彼女が座って口述筆記をし、指示を受け、見るからに落ち着いて、てきぱきと、一心不乱に商売に徹して、事務仕事を処理する中で、日常の些末な問題がなくなっていくのを人は目にするかもしれない。しかしそんなことをしても何にもならないのだ。実際には、自分の仕事の精密度や正確さには全然影響を与えずに、いつも奥の事務所にいる男性のことばかり考えていた……得体の知れない上司はこの時は部下に会っていた。そして合間に、どうやら、大物とか商人とかあらゆる世界の人が来て、名刺を出し、時にはほとんど休む間もなく話をして帰って行った。しかし、思えば、クーパーウッドを相手に長話をする珍しい人で、それがさらに興味をかきたてた。彼女への指示はいつもいたって簡潔だった。多くを補う天賦の知性を頼りにして余計なことはほとんど言わなかった。
「わかりますよね?」がクーパーウッドの決まり文句だった。
「はい」とアントワネットは返事をした。
ここにいる自分はこれまでの人生の五十倍重要になったように感じた。
オフィスは清潔で、頑丈で、明るくて、クーパーウッド本人のようだった。淡い緑のローラーカーテンにさえぎられて東の正面の硬質ガラスから差し込む朝日は、アントワネットにとってロマンチックな雰囲気をもつようになった。クーパーウッドのプライベートオフィスは、フィラデルフィア時代と同じ、丈夫な桜材の部屋で、遮蔽も防音も完璧だった。ドアが閉ざされるとそこは神聖不可侵だった。口述しているときや時にはそうでないときさえ、わかった上でいつもできるだけドアを開けたままにしておいた。クーパーウッドとミス・ノバクが一番近づいたのは、こういう三十分の口述の時間だった……クーパーウッドはあまりプライバシーを気にしなかったのでいつもドアは開けたままだった。何か月も過ぎていたし、クーパーウッドが自分の全く知らない他の噂の女性と忙しかったので、アントワネットは時には息苦しさ、時には乙女の恥らいを感じて中に入るようになった。自分がクーパーウッドに愛してもらいたがっていることを素直に認めることなろうとは思いもしなかった。簡単に屈服する自分を考えたら怖くなっただろう。しかし今や彼女の脳裏に焼き付いていない、彼という人の細部は存在しなかった。軽い、ふさふさの、いつもなめらかに分けた髪や、大きくて澄みきった何を考えているのかわからない目や、入念に手入れの行き届いた手や、充実して引き締まった体や、繊細で複雑な模様の真新しい服……こういうものがどれだけアントワネットを魅了したことか! 何かをしている瞬間以外はいつも遠い存在に思えたのに、このときは不思議なことに、ものすごく親密な近い存在に思えた。
ある日、何度も視線を交わした後で、しかもその都度いつもアントワネットはぱっと手紙の真ん中に視線をおとしていたところ……クーパーウッドが立ち上がって半開きだったドアを閉めた。アントワネットはこれをいつものように大したことだとは考えなかった……これまでにもあったことだった……しかし今日は、彼が放った優しくもなく微笑んでもいない含みのある視線のせいで、何かいつもと違うことが起きそうな予感がした。自分の体が、首や手が、熱くなったり冷たくなったりを繰り返していた。アントワネットは自分が思っているよりもきれいな体で、手足も胴体も形がよかった。頭部は古いギリシャ硬貨ように多少尖った感じで、髪は古代の石像のように編んであった。それがクーパーウッドの目に留まった。戻って来ると、席に座るでもなく、アントワネットに覆いかぶさるように身をかがめて、親しげに手をつかんだ。
「アントワネット」と言って優しく上を向かせた。
アントワネットは顔をあげて立ち上がった……クーパーウッドがゆっくりと引き寄せたからだ……息を切らし血の気がなくなり、持ち前の優れた実用性の大半は完全に失われた。力が抜けて動けない気がした。かすかに手を引いて視線をあげると、彼のあの険しい貪欲な凝視につかまった。頭がくらくらした……目は隠しきれない混乱でいっぱいだった。
「アントワネット!」
「はい」アントワネットは小声で言った。
「きみは私を愛しているね?」
アントワネットは気を取り直して、生まれつきの堅物な魂を態度に注入しようとした……決して自分を見捨てることがないといつも想像していたあの堅物は消えてしまった。代わりに自分が生まれた遥か彼方のブルーアイランド・アベニューの近所、低い茶色の小屋、それからこのしゃれた頑丈なオフィスとこの強い男性のイメージが浮かんだ。この男性は明らかにこういうすばらしい世界から現れたのだ。アントワネットの血は妙に泡立っているようだった。我を忘れるほど楽しく、何も考えられなくなって、幸せな気分だった。
「アントワネット!」
「ああ、私、何を考えたらいいのかわからないわ」アントワネットはあえいだ。「そうだわ……しっかりしなくちゃ」
「きみの名前、好きだよ」クーパーウッドは、ぽつりと言った。「アントワネット」それから相手を自分の方へ引き寄せると腰に腕をまわした。
アントワネットはおびえて、何も考えられなくなり、それから急に恥ずかしいというよりショックで目に涙があふれた。アントワネットは背を向け、手を机につき、頭をたれて、すすり泣いた。
「おや、アントワネット」クーパーウッドは相手におおいかぶさるようにかがんで優しく尋ねた。「きみはあまり世間ずれしていないんだね? てっきり私を愛してると言ったんだと思ったよ。今のはすべて忘れてこれまでどおりに振る舞った方がいいかい? きみがよければ、もちろん、私だってそうするよ」
クーパーウッドは、相手が自分を愛し、求めているのを知っていた。
アントワネットは震えながらちゃんと話を聞いた。
「そうするかい?」立ち直る時間を与えて、しばらくしてから言った。
「泣かせてください!」声を荒らげて言えるほどアントワネットは落ち着いた。「どうして泣いているのか自分でもわからないんです。緊張してしまったせいだと思います。どうかもう構わないでください」
「アントワネット」クーパーウッドは繰り返した。「こっちを見るんだ! やめるのかい?」
「ええ、今はだめ。目がひどくって」
「アントワネット! さあ、ごらん!」クーパーウッドは手を彼女の顎の下に添えた。「ほら、そんなに怖くないだろう」
「でも」再び目が合うと、アントワネットは言った。「私……」そしてクーパーウッドが手をなでて抱き寄せると、アントワネットは折り曲げた両腕を相手の胸にあてた。
「私はそんなにひどくはないだろ、アントワネット。きみだって私と同じ気持ちだろう。やっぱり、私を愛しているよね?」
「え、ええ……はい!」
「じゃ、いいよね?」
「ええ。何ぶんにも不案内なものですから」顔は隠れていた。
「じゃ、キスして」
アントワネットは唇を上に向けて両腕で抱きついた。クーパーウッドは抱き寄せた。
もしアイリーンとリタが知ったらどう思うだろうと同時に考えながら、クーパーウッドはからかうようにしてなぜ泣いたのかを言わせようとした。最初は言おうとしなかったが後になって罪悪感だと認めた。不思議と、アントワネットもアイリーンのことと、彼女が出入りするのを、時折、自分がどんなふうに見ていたかを考えた。今、アントワネットは彼の愛情のすばらしさを、彼女(とてもうぬぼれ屋で、傲慢な、威勢のいいクーパーウッド夫人)と分かち合っていた。変に思えるかもしれないが、今はそれがむしろ名誉に思えた。アントワネットは自分自身の判断で生きることと力についての自分の感じ方に反旗を翻したのだった。愛と情熱を多少知ったので、これでこれまでよりも多少は人生のことがわかった。未来は約束されて震えているようだった。そんなことを考えながらしばらくしてアントワネットは自分の機械のところへ戻った。すべてはどうなってしまうのかしらと激しく悩んだ。目を見ても、泣いていたことはわからなくなっていた。その代わりに、茶色の頬の豊かな輝きが、彼女の美しさを際立たせてくれた。アイリーンに対する不安がこれに入り込む余地はなかった。アントワネットは倫理や道徳に密かに疑問を抱き始めていた新しい秩序の信奉者だった。自分には自分の人生と、それが導くところへ進む権利があった。それが自分にもたらしてくれるものへの権利も。クーパーウッドの唇の感触がまだ生々しく残っていた。未来はこれから自分に何を見せてくれるのかしら? 一体?
第十七章
対立への序曲
この合意の結果は、アントワネットにとっては重大であっても、クーパーウッドには大したことではなかった。気持ちが定まらない中、ここでクーパーウッドは気をゆるめた。激しく情熱的だが彼の場合は救い難く崇拝せんばかりだった。どんなに悲しい思いをさせられてもアントワネットが彼個人の幸福に仇なすことはないことをクーパーウッドはその後知った。それでもアントワネットは無意識のうちに、最初にアイリーンの疑惑の水門を開いてしまった。それによってクーパーウッドが性懲りもない浮気者である事実を妻の心に定着させた。
こうなったきっかけの出来事は割りとささいなことだった……最初はただ、他の社員が出払ったある日の午後、事務所でクーパーウッドとミス・ノバクが仲良く会話しているのを見たことと、アイリーンが現れたことでノバクが少しバツ悪そうに見えたくらいだった。その後発見があった……アイリーンはこれに絶対の自信はなかったが……市外にいるはずだった十一月の嵐のある午後、クーパーウッドとアントワネットがステート・ストリートで密閉型の馬車に乗っていた。アイリーンはメリルの店から出て来た折に、路肩近くを走行して通り過ぎるその車両にたまたまちらっと目が行った。自信がないとはいえ、大きなショックを受けた。夫が町を離れていなかった可能性はあるかしら? アイリーンはアントワネットが同じ時間に外出していたかどうかを実際に確認するために、ラフリン老人の犬のジェニーに自分が見つけたかわいい首輪をあげるという口実で事務所に行った。クーパーウッドが自分の速記者に目をつけたなんてことがあり得るだろうか、アイリーンは自分に問い続けた。クーパーウッドは町にいない、アントワネットは不在、と事務所が思い込んでいた事実は、アイリーンを唖然とさせた。ノバクさんなら、ある書類を作成するために図書館に行ったと思う、とラフリンは無邪気に教えてくれた。アイリーンの疑念は晴れないままだった。
アイリーンはどう考えただろう? アイリーンの機嫌や願いは、クーパーウッドの愛と成功に密接に関連していたので、夫を失うと少しでも思うとついカッとならずにいられなかった。クーパーウッド自身、網の目のような不倫の道を進みながら、自分の裏切り行為を知ったアイリーンはどうするだろうと考えることがあった。現に、キトリッジ夫人やレドウェル夫人や他の人たちとふざけていたとき、きつくはないがそれとなく言うちょっとした口論は時々あった。想像できるかもしれないが、家を空けることが時々あった。簡単な説明があった短期間の重要でないもの、そう簡単に説明されなかった情熱的で淡々としたもの、などがあった。しかし本当はそのどれにも愛情はこもっていなかったので、何とかことを丸く収めてきた。
自分が夫と一緒でなかった旅行や不在日に、別の連れがいたかもしれないとアイリーンが言い出すと「何でそんなことを言うのか?」とクーパーウッドは問い返した。「いなかったことは知ってるはずだ。私がそういうことをやりだしたら、きみならすぐにピンと来るだろう。たとえそんなことをしたとしても、心はきみを裏切っていないんだ」
「へえ、いないの?」アイリーンは憤慨しながらも多少動揺して叫んだ。「じゃ、心は誠実でいてくださるのね。あたしは、どんな甘い考えにも甘んじませんからね」
アイリーンが笑うとクーパーウッドまでも笑った。相手の言うとおりなのはわかっていたし、すまないと感じていた。同時に、棘のあるユーモアが愉快だった。自分が本気で裏切っていると本当にアイリーンが疑っているわけでないことは知っていた。クーパーウッドは明らかにアイリーンのことが大好きだった。しかし、クーパーウッドがもともと女性にとって魅力的であることや、彼に道を踏み外させて彼女の人生に負担を増やしたがる遊び人タイプが存在することもアイリーンは承知していた。また、クーパーウッドが進んで犠牲者になりかねないことも知っていた。
性欲とその実現は、結婚やその他の肉体関係に欠かせない要素である。天気に左右される人、たとえば船乗りが気圧計を調べるように、平均的な女性にはそれに関係する周期的な兆候を調べる傾向がある。これに関してアイリーンは例外ではなかった。アイリーンはとても美しくて、クーパーウッドに対して肉体的に多大な影響があったので、自分の不変の魅力の証として、夫の肉体的感動の繰り返されるほとばしりを受け入れながら、最大の関心をもって、夫の気持ちの中の同じような証を追い求めた。しかし時がたつにつれて……ソールバーグ夫人や他の誰かが現れるずっと前に……最初の情熱の炎は、気をもむほど目立ちはしなかったが、一応下火になっていた。アイリーンは随分考えたが、はっきりさせなかった。実は社交でしくじり、自分の立場が安定しないため、そうするのが怖かった。
ポプリの材料にソールバーグ夫人とアントワネット・ノバクが加わって、状況は一段と難しくなった。クーパーウッドは人間的にアイリーンのことが好きで、自分の失態もあったし相手の愛情に応えるためにも優しくしたいと思っていたが、それでもしばらくはすっかり距離ができてしまった。しかし金融業務を決しておろそかにせず、秘密の情事がだらだら続くというか燃え上がるにつれて、気持ちは離れた。アイリーンはそれに気づいた。不安になった。アイリーンはかなりうぬぼれ屋だったから、クーパーウッドがいつまでも無関心でいられるとは到底信じられなかった。ソールバーグの将来に対する感傷的な関心と、魂の不幸とがしばらく彼女の判断力を鈍らせたが、ついに事態の推移を感じ始めた。これが哀れなのは、それがさっさと不満、常態化、偽りの親密さの領域に落ち込んでしまうことだった。アイリーンはすぐに気づいた。不満をぶちまけてみた。「前はそんな風にキスしなかったわ」そしてすぐ後で「丸四日まともにあたしを見てないじゃない。どうしちゃったの?」
「さあ、知らんよ」クーパーウッドはそっけなく答えた。「きみのことなら今までと同じくらい大事だと思ってるし、私の方は変わったところが見当たらないんだけどね」クーパーウッドはアイリーンを抱きしめて、かわいがって、愛撫したが、アイリーンは疑惑が晴れず神経質になっていた。
こういういさかいや、心が引き裂かれる状態に直面したとき、人間という動物の心理は、いわゆる理性や論理がほとんど通じなくなる。情熱や愛情とか人生の転換点に直面すると、自分が指針にするやり方や理論が、全て瓦解するのだから驚きである。ここにいるアイリーンは自分がリリアン・クーパーウッド夫人の縄張りを荒らした時に、「あたしのフランク」が自分の求めるものや、好みや、能力に合った女性を見つけるのは必然だ、と勇ましく語っていた。しかし同じかもっと彼にふさわしい別の女性の影が沖合いにぼんやり現れ始めた今……それが誰なのかはわからなかったが……同じような結論を出すことはできなかった。そういえば、あたしの雄牛はその傷を脛に持っていたではないか。あたしをほしがった以上に、ほしいと思える相手を見つけることができたら、あの人はどうする気かしら? ああ、そうなったら大変だわ! どうしよう? アイリーンはじっくりと自分に問いかけた。ある日の午後、すっかり落ち込んでしまった……ほとんど泣きそうだった……自分でも理由がわからなかった。またある時などは、自分がやろうとしている恐ろしいことや、自分の縄張りを荒らした他の女をどれだけひどい目にあわせるかを考えた。しかしはっきりしなかった。もし相手を発見したら宣戦布告でもするのだろうか? 最後にはそうなるのがわかっていた。しかし、もしそんなことをして、クーパーウッドを怒らせてしまい、完全にそっぽを向かれたら、元も子もないこともわかっていた。それではたまったものではないが、夫を取り戻すために、自分に何ができるだろう? それが問題だった。しかしアイリーンに探りを入れられて、すぐに警戒したクーパーウッドは、これまで以上に機械的に気を遣った。クーパーウッドは全力で自分の心変わり……ソールバーグ夫人への執心、アントワネット・ノバクへの関心……を隠した。これは何とか功を奏した。
しかし、ようやく目に見える変化があった。ヨーロッパから帰国して一年近くたってアイリーンは初めてそれに気がついた。この時はまだソールバーグに関心をもっていたが、他愛もないいちゃつきのようなものだった。ソールバーグは体はいいかもしれないが、果たしてクーパーウッドのように楽しい相手だろうか? 絶対にそんなことはない! クーパーウッド本人が変わりつつあるのを感じ取ったとき、アイリーンはすぐに身を引き締めた。アントワネットが現れたとき……馬車の一件のとき、ソールバーグはよく言ってもその不安定な魅力を失った。アイリーンは社会的な地位を確立しそこなかったことを踏まえながら、クーパーウッドを失ったらどんなひどいことになるかを考え始めた。もしかしたら、それが夫の心変わりに関係しているのかもしれない。そうに違いなかった。向こうはフィラデルフィアであれだけ愛情を公言したのだから、また、こっちはあの没落と服役の暗い日々にあれだけ献身的に尽くしたのだから、クーパーウッドが本当に自分に背を向けるとは信じられなかった。いや、いっとき迷うことはあるかもしれないが、自分がちゃんと言い聞かせて、一悶着おこせば、妻を傷つけることが平気ではなくなるだろう……思い出して、再び愛して献身的になってくれるだろう。夫が馬車に乗っているのを見た、あるいは見たと思った後、最初は問いただそうと思ったが、後になってもっとじっくり観察して様子をみることに決めた。おそらく、夫は他の女性たちと浮気をしていた。大勢いる……のがアイリーンにはわかった。心もプライドも傷ついたが壊れはしなかった。