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巨人  作者: ドライサーの小説の翻訳作品です
19/62

第19章 「地獄に怒りなし……」


リタは別に死んではいなかった……ひどい打撲とひっかき傷を負い、窒息させられただけだった。頭皮が一か所切れていた。アイリーンはリタの頭を繰り返し床に打ちつけた。もしクーパーウッドがすぐ中に入っていなかったら、深刻な結果になっていたかもしれない。ソールバーグは一瞬……実際には、しばらく……アイリーンが本当に正気を失って突然発狂した、そしてアイリーンが言うのを聞いたあの恥知らずな非難は錯乱した頭が発したものに過ぎない、と思っていた。それでもやはり、アイリーンが言ったことが頭から離れなかった。自分もひどい状態だった……医者にかかってもおかしくなかった。唇は青く、頬には血の気がなかった。リタは隣の寝室に運び込まれて、ベッドに寝かされていた。冷水、軟膏、アルニカの瓶が出されていた。クーパーウッドが現れたときには、意識が戻り、いくらか改善していた。しかし、まだ弱ったままで心身両面で傷がうずいていた。医者は到着の際に、客のご婦人が階段で転倒したと告げられていた。クーパーウッドが入室したとき医者は傷の手当ての最中だった。


医者がいなくなるとクーパーウッドは付き添いのメイドに言った。「お湯をもってきてくれ」メイドがいなくなると、かがみ込んでリタの傷ついた唇にキスをして、警告の合図に自分の口に指をあてた。


「リタ」優しく尋ねた。「意識ははっきりしている?」


リタは弱々しくうなずいた。


「いいかい」かがみこんで、ゆっくりとした口調で言った。「よおく聞くんだ。私の話をしっかりと聞いてくれ。一言一句理解して、言ったとおりにしないといけないよ。傷は大したことない。きみはもとどおりになるよ。この件は収まる。スタジオには別の医者を行かせるよう手配した。きみのご主人は着替えをとりに行った。じきに戻って来るよ。もう少し回復したら馬車が家まで送り届けるからね。きみは心配いらないんだ。何もかもうまくいく。でもすべてを否定しなくちゃいけないよ、聞いてる? 何もかもだ! わかってるだろうけど、家内の奴は正気じゃない。ご主人には、明日、私から話す。きみにはベテランの看護婦をつける。その一方で、自分の発言や言い方には用心しないといけないよ。完全に冷静でいないとね。心配しちゃ駄目だ。ここにいれば大丈夫だし、じきに帰れるからね。これ以上家内がきみに迷惑をかけることはない。私がそう取り計らうから。本当にすまなかったね。でも愛してるよ。私はずっときみのそばにいる。こんなことでくじけちゃ駄目だ。もう家内がきみに会うことはないからね」


しかし、そうならないことはわかっていた。


リタの容態を見て安心したクーパーウッドは改めて弁解しに……できればなだめに……アイリーンの部屋に戻った。アイリーンは起き出して服をきていた。新しい考えと決意を抱いていた。ベッドに突っ伏してすすり泣き、うめき声をあげていたら、徐々に気分が変化した。夫を支配することができず、きちんと謝らせることもできないのなら、別れた方がいいと判断するようになった。リタを守りたい思いがあまりにも強く見えたので、そして自分を抑え込んだときの手荒さがあまりにも目に余ったので、夫がもう自分を愛していないのは明白だと考えた。それでもアイリーンはこれが真実だと信じたくなかった。クーパーウッドは過去、自分にとってとても素晴らしい相手だったからだ。アイリーンは夫や他の女性たちに勝つ望みを完全に捨てたわけではなかった……夫を愛し過ぎていた……しかし別れないことには、それが実現することはないだろう。そうすれば夫は正気に帰るかもしれない。アイリーンは起きて身支度をして、市内のホテルへ行くつもりだった。夫が追いかけてこなかったら、もう会うべきではなかった。さしあたってとにかく、リタ・ソールバーグと絶交したことに満足だった。アントワネット・ノバクについては後回しにするつもりだった。頭も心も痛んだ。悲しみと怒りとが満ち溢れて交互に入れ替わるものだから、もうこれ以上は泣けなかった。鏡の前に立って、震える指で化粧を済ませて、外出着を整えようとしていた。クーパーウッドはこの予想外の光景に動揺し困惑した。


「アイリーン」ようやく背後に近づいて言った。「きみも私ももうこの問題を穏やかに話し合えるんじゃないか? きみだって自分が後悔するような真似をしたくはないだろう。考え直してほしい。ごめんよ。まさか、私がきみを愛すのをやめたと思ってやしないよね? そんなことはないからね。こういうことは見かけほどひどくないんだ。二人でずっと一緒にやってきたんだから、少しくらいわかってくれたっていいだろう。こんな突拍子もないことをするにしたって、何の確たる証拠ももってないのだろう」


「あら、もってないとでも?」悲しみと辛さを味わいながら、赤みがかった金髪をとかしていた鏡に背を向けてアイリーンは叫んだ。頬は紅潮し、目は真っ赤だった。この時ばかりは、十六歳の少女が赤いマントを着てフィラデルフィアの父親の家のステップを駆け上がるのを見た何年も前の最初の日のように、クーパーウッドにはアイリーンが目を見張らずにいられない存在に見えた。このときアイリーンはとてもすばらしかった。これが彼女に対する彼の気持ちをなごませた。


「所詮あなたの知識なんてそんなものよ、この嘘つき!」アイリーンは言い放った。「あたしが何を知ってるか、どうせあなたは知らないでしょ。数週間あなたの跡をつけて何の成果も出せないような探偵は使ってませんから。こそこそしちゃって! 今度は猫かぶって近づいて、私が何を知ってるのかさぐりたいんでしょ。まあ、ちゃんとわかってる、ってことは言わせてもらうわ。リタ・ソールバーグ、アントワネット・ノバク、アパート、密会場所のことでは、もうあたしをごまかせないわよ。あなたがどういう人なのかがわかったわ、このけだもの! あれだけ愛してると言っておきながら! ふん!」


クーパーウッドがその情熱にほだされ、その実行力に感動して見ているのに、アイリーンはぷいっと背を向けて自分の仕事にかかった。アイリーンがどれほど見応えのある獣であるか……多くの点で自分にとって本当に価値あるものであるか……がわかったのはよかった。


「アイリーン」クーパーウッドは少しずつでも機嫌をとり戻したかったから優しく言った。「頼むからそうつれなくしないでほしい。きみは人生の仕組みってものを理解していないのか……思いやりってものがないのかい? きみはもっと心の広い優しい人だと思っていたのにな。私はそんなに悪くないだろう」


クーパーウッドは自分に対するアイリーンの愛情を利用して、アイリーンの気を変えたいと期待しながら、思いをこめて優しく見つめた。


「思いやりですって! 思いやり!」アイリーンは激怒して向き直った。「思いやりならいくらでも心当たりがあるでしょ! あなたがフィラデルフィアの刑務所にいたとき、あたしは散々思いやりを持って接しませんでしたっけ? あたしの方はいいことがたくさんあったんでしたっけ? 思いやりですって! ふん! シカゴまで来て、随分あなたは売春婦と仲良くなったわね……安っぽい速記係だの音楽家の奥さんだの! あなたはたっぷりあたしを思いやってくれたわけね?……その証拠が隣の部屋で寝ているあの女だわ!」


アイリーンは帽子をかぶって襟巻きを整える前に、しなやかなウエストの皺をのばして肩を揺らした。アイリーンはそのまま出かけて、持ち物はすべてファデットに取りに戻らせるつもりだった。


「アイリーン」クーパーウッドは手玉に取ってやろうと決めて言った。「きみはとても愚かだぞ。本当にそう思うよ。こんなことはあってはいけないんだ……絶対に。ここできみは声を張り上げてわめき、近所中に恥をさらし、喧嘩をして、家を出て行こうとしている。言語道断だ。私はきみにそんなことはしてほしくないんだ。きみは私のことをまだ愛しているんだろ? そうなのはわかっている。きみの言うことのすべてが本心でないことくらいわかってるよ。きみらしくもないからね。まさか、私がきみを愛するのをやめたと、本気で信じてはいないよね、アイリーン?」


「愛ですって!」アイリーンは口火を切った。「愛に詳しいのね! これまで誰彼構わず愛してきたんですものね、このけだもの! あなたの愛がどういうものなのか、あたし、知ってるわ。昔はあたしのことも愛していたと思うから。ふん! あなたがあたしをどういうふうに愛していたのかわかったわ……あなたが他の五十人の女を愛したのと同じようによ。隣の部屋のリタ・ソールバーグを愛したように……あの猫を!……あの汚いけだものをよ!……アントワネット・ノバクを愛したように!……けちな速記係をよ! ふん! あなたには、その言葉が意味するものがわかんないんだわ」そして、その声はすすり泣きへと変わり、目は涙でいっぱいになり、熱く、腹立たしく、痛くなった。クーパーウッドはそれを見て、何らかの形で利用できないか考えた。今ではすっかり後悔していた……アイリーンが改めて自分に優しい気持ちを向けてくればいいと思った。


「アイリーン」クーパーウッドは訴えた。「頼むから、そうつれなくしないでほしい。そんなに邪険にしないでくれ。私はそんなに悪くない。もっと理性的になれないか?」クーパーウッドはなだめようと手を伸ばしたが、アイリーンは飛びのいた。


「あたしにさわらないでよ、このけだもの!」アイリーンは怒って叫んだ。「あたしに手をかけないで。あなたにはそばに来てほしくないのよ。あなたと暮らす気はありません。あなたやあなたの愛人なんかと同じ家にいる気はないわ。あなたがそうしたければノースサイドへ行って愛しのリタと暮らしなさいよ。あたしは構わないから。どうせ隣の部屋であの女……けだもの……を慰めていたんでしょ! あんな女、殺しておけばよかった……ああ、神さま!」アイリーンはボタンを調整しようとして、激しい怒りのせいで喉をひっかいてしまった。


クーパーウッドは文字どおり驚いた。これほどの爆発は見たことがなかった。まさかアイリーンにそんなことができるとは考えなかった。感心せずにはいられなかった。それでも、リタと自分の乱行を攻撃した残忍なやり方には腹が立った。この気持ちが最後の不適切な言葉に出てしまった。


「私がきみだったら、愛人にあんなひどい仕打ちはしないぞ、アイリーン」クーパーウッドはねだるような調子で言ってしまった。「自分だってそうだったんだから……」


すぐに自分が重大なミスを犯していることに気がついて口ごもった。この愛人としての過去に言及したのは致命的だった。その瞬間アイリーンは背筋を伸ばした。目には辛さがあふれていた。「それがあたしに向かって言う言葉かしら?」アイリーンは尋ねた。「そんなことわかってるわよ! わかってるのよ! 因果応報よね!」


銀器、宝石箱、ブラシ、櫛が積まれた胸の高さの長い整理だんすの方を向いて両腕をつくと、その上に頭をのせて泣き出した。タガが外れてしまった。彼女の少女時代の掟破りな愛情を攻撃の材料にして投げつけてしまった。


「ああ!」アイリーンは涙にむせび、どうしようもない哀れな気持ちになって発作的に震えた。クーパーウッドはすばやく近寄った。動転し悲痛な気持ちで「そんなつもりじゃなかったんだ、アイリーン」と説明した。「そういう意味じゃないんだよ……全然。むしろきみが私に言わせたんだ。でもね、私は非難のつもりで言ったんじゃない。きみは私の愛人だった。だからといってそれを理由に、きみを愛する気持ちが小さくなることはなかった……むしろ大きくなったさ。そうだったのは知ってるね。そのことは信じてほしい。本当なんだから。他の人の問題は私にとって大したことじゃないんだ……現に……」


アイリーンが自分を避けて離れるのを仕方なく見送ったクーパーウッドは、動転し、途方に暮れ、激しく後悔した。クーパーウッドが再び部屋の中央まで来るうちに、アイリーンの感情は激変した。さらに怒りの方向にだけ動いた。これはあまりも大きかった。


「これがあたしに対するあなたの言葉なのね」アイリーンは叫んだ。「あたしは散々あなたに尽くしたというのに! あなたが二年近く刑務所にいたとき、あなたを待ち、あなたのために泣いたこのあたしに向かってこんなことを言うのね? 愛人! それがあたしの報いなのね? ああ!」


ふと宝石箱が目についた。フィラデルフィア、パリ、ローマ、ここシカゴでクーパーウッドがくれた贈り物すべてに腹が立ち、いきなり蓋を放り投げて、中身を両手でつかんで、クーパーウッドの方に投げ始めた……実際には顔面に投げつけた。クーパーウッドが愛情をこめてアイリーンに贈った安物の装飾品が、数回わしづかみにされて飛んだ。翡翠のネックレスと、白い象牙の留め具がついていて、金糸で固定してある淡いアップルグリーンのブレスレット。夕陽に照らされるとほのかな真珠色に輝く粒も色もそろった真珠のネックレス。ダイヤモンド、ルビー、オパール、アメジストなどの指輪やブローチひとつかみ分。エメラルドの犬の首輪、ダイヤモンドの髪飾り。アイリーンは興奮してそれらを床に投げ散らかして、クーパーウッドの首や顔や手を叩いた。「受け取んなさいよ! それも! それも! ほら、どうぞ! もうあなたのものなんか何もいらないわ。もうあなたと関わりがあるものは何もいらないのよ。あなたの物なんか何もいりません。ありがたいことに、自分の生活費はちゃんとありますから! あなたなんか大嫌いよ……軽蔑するわ……もうこれ以上顔も見たくない。ええと……」もっと考えようとしたが思いつかなかった。アイリーンはさっさと廊下に出て階段を駆け下りた。クーパーウッドはいっとき圧倒されて立ち尽くした。それから急いであとを追った。


「アイリーン!」と叫んだ。「アイリーン、戻って来い! 行くんじゃない、アイリーン!」しかしアイリーンは早足になっただけだった。ドアを開けて閉め、暗闇の中へ出て行った。目は濡れ、心臓は破裂しそうだった。これが、とても美しく始まったあの青春の夢の結末だった。自分は他の連中と変わらなかった……彼の愛人の一人に過ぎなかった。他の者への言い訳に、自分の過去が投げつけられるとは! 他の連中と変わらないと言われるとは! そろそろ我慢の限界だった。二度と戻らない、二度と会わないと誓って歩く間、アイリーンは喉をつまらせて、むせび泣いた。しかしアイリーンがそうしているうちに、クーパーウッドがあとを追いかけてやって来た。自分と同じ掟知らずなんだ、これですべてを終わりにすべきではない、とすぐに腹は決まった。思えば、アイリーンは自分を愛してくれたのだ。愛の祭壇に、情熱と愛情をことごとく進物に捧げたのだ。確かにこれは公平ではなかった。アイリーンには、いてもらわなければならなかった。十一月の真っ暗な木立ちのもとまで来てクーパーウッドはよくやくアイリーンに追いついた。


「アイリーン」つかまえて腰に腕をまわしながら言った。「最愛のアイリーン、これは明らかにおかしいよ。愚行だ。きみは正気じゃないんだ。行くなよ! 私をおいていかないでくれ! 愛してる! それがわからないのか? 本当にわからなくなったのか? こんな風に逃げ出さないでくれ。さあ泣かないで。愛してるんだ。きみにはわかるよね。いつだってそうだ。さあ、戻っておいで。キスしてくれ。改心するよ。本当だ。もう一度チャンスをくれないか。見ていてほしいんだ。おいで……うん? 私のお嬢さん、私のアイリーン。行こう。さあ!」


アイリーンは息を吸い込んだ。クーパーウッドは離さないまま、腕や首や顔をなでた。


「アイリーン!」と頼み込んだ。


アイリーンが引っ張るので、クーパーウッドは最終的に両腕の中に抱きかかえざるを得なくなった。アイリーンは泣きながら悩んで立っていたが、ある意味では再び幸せだった。


「でも、あたし嫌」アイリーンは抵抗した。「あなたはもうあたしを愛してないんだもの。行かせてちょうだい」


しかし、クーパーウッドはアイリーンを抱いたまま説得を続けた。ようやくアイリーンは昔のようにクーパーウッドの肩に頭を乗せて言った。「今夜は連れ戻さないで。帰りたくない。無理だわ。街へ行かせてよ。いずれ帰るかもしれないけど」


「じゃ、一緒に行くよ」クーパーウッドは愛情込めて言った。「このままじゃよくないからね。この騒ぎを鎮めるためにやることはたくさんあるんだけど、行くよ」


そして、二人は一緒に路面鉄道をさがした。




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