第18章 衝突
リタ・ソールバーグの独特な人柄は、本人が自分の行動そのもので、普通に疑いを晴らすというか、はぐらかすほどのものだった。若いくせに、不思議なゆとり、度胸、魂の均衡が備わっていて、最大の試練の場でも自分を保ち冷静さを失わなかった。不名誉極まりない立場に追い込まれたかもしれないのに、態度は常にのんきで、どこか無邪気で、普段と変わらなかった。こういうことが人の道にもとるとは全然感じなかった。この種類の関係から生じることにちっとも厄介な感情を抱かず、自分の魂だとか罪、社会的評価なども全然気にしなかった。芸術と人生に本当に関心があった……実は異教徒だった。中にはこういう図太い人もいる。それは人一倍図太いタイプの人間の最も顕著な特性である……だからといって、必ずしも最も才人とか出来た人とは限らない。彼女の魂が敗者の苦しみに単に無頓着なだけだと言ってもいいかもしれない。彼女は、どんな敗北でも驚くほど平然と受け止めただろう……もちろん、多少の不安はあるが、それほど多くはない……なぜなら、彼女の虚栄心と魅力の自覚が、もっと良いもの、あるいは同じくらい良いものが待ち受けていると彼女に期待をさせたからだ。
リタはこれまでもハロルドがいようがいまいが定期的にアイリーンを訪ねたし、クーパーウッド夫妻と一緒に頻繁にトライブしたり劇場などで同席した。リタはクーパーウッドと親しくなってから美術の勉強を再開することにした。午後や夕方に授業があるのでこれが絶好の隠れ蓑になり、リタは頻繁にすっぽかした。それにハロルドは収入が増えたので、楽しみが多くなり、女に見境がなくなりのめり込むようになった。クーパーウッドはわざわざリタにアドバイスして、後で露見したらうまく彼の手をしばれるような浮気をハロルドがするようにそそのかした。
「ハロルドに浮気をさせるんだ」クーパーウッドはリタに言った。「こっちは探偵に尾行させて証拠をつかむ。向こうはぐうの音もでないだろうよ」
「私たちはそんなことをする必要はないわよ」リタは優しく無邪気に反論した。「もうちゃんと墓穴を掘ってるから。自分から手紙をくれたわよ」(リタは「手紙」をなまって発音した)
「しかし、いざというときのためには確かな目撃者が必要だからね。また浮気したら知らせてくれればいい。あとは私の方でする」
「今だってしてると思うわ」リタは面白がってゆっくりと言った。「先日だって、路上で学生のひとり……かなりかわいい女の子……と一緒のところを見かけたもの」
クーパーウッドはよろこんだ。状況次第では、アイリーンを陥れて自分の立場を安泰にするために……まさかとはいえ……アイリーンがソールバーグに屈服することでも望まんばかりだった。でも、よくよく考えてみれば本当は望んでいなかった……もしアイリーンが自分を捨てたとしたら、一時的に深く悲しんだだろう。しかしソールバーグに対しては探偵が雇われた。尻軽な生徒との新しい情事が明るみに出されて目撃者による宣誓供述書が作成された。もしどうしても手に負えなくなったら、リタの握っている手紙と合わせて、これが音楽家に『ぐうの音も出なく』させる材料になった。だからクーパーウッドとリタの関係は安泰だった。
しかし、アントワネット・ノバクのことばかり考えているアイリーンは、好奇心と疑惑と不安とで気が気ではなかった。フィラデルフィアでつらい経験をしたのだから、どんな形であれクーパーウッドを傷つけたくなかったが、こんな形で自分を捨てるのかと思うと、激しい怒りに陥った。愛情と同じくらい虚栄心も傷ついた。疑惑を立証するか晴らすためにはどうすればいいのだろう? 自分で夫を見張るのか? アイリーンは気位が高くてあまりにも見栄っ張りだったから、街角やオフィスやホテルをこそこそ歩き回るなどできなかった。絶対に! 追加の証拠がないのに喧嘩を始めるのは愚かだった。アイリーンがいったん口に出してしまった以上、クーパーウッドは抜け目なかったからこれ以上証拠を出すはずがなかった。ただ否定するだけのことだ。十年前に一度、父親が自分に探偵をつけて尾行させ、実際にクーパーウッドとの関係と密会場所を突き止めたことを、しばらくして思い出し、胸を痛め、アイリーンはイライラしながら考えた。あの思い出はつらかった……拷問だった。今やこの状況では、この同じ手段が、とれないほどの忌まわしいものに思えなかった。前回はクーパーウッドに害はなかった、とアイリーンは自分で結論づけた……あれを発見したのに特に害はなかった。(これは事実ではなかった。)今度も問題はないだろう。(これも事実ではなかった。)しかし、ひどく傷ついた、気性の荒い情熱家が、多少の判断ミスをするのは許してあげなくてはならない。アイリーンはまず自分の愛する人が何をしているのかを確かめて、それからとるべき方針を決めようと考えた。自分が危険な場所を歩いていることを知り、起こりうる結末を案じて気後れした。あまり激しく争い過ぎたら、夫は自分のもとを去るかもしれない。先妻リリアンを扱ったように自分を扱うかもしれない。
十三年前に最初の妻を捨てたように、すでに自分に見切りをつけたというのは確かだろうか、アントワネット・ノバクのような普通の娘と本当に仲良くなれるだろうか……半分怖かったがそれでも気丈に……迷い、迷い、迷いながらアイリーンはこのところ自分のご主人様のことを興味深く観察していた。夫にどう対処すればいいのかしら? 夫がまだ自分を愛してさえいれば、すべてはうまくいくだろうが……ああ!
何週間も不安にさいなまれた末にアイリーンが最終的に依頼した興信所というものは、それが傷ついた感情や脅かされる利害関係の厄介な問題を解決する唯一の手段であるときに、多くの人が使うことを厭わない人間ならではの道具の一つだった。見るからに金持ちのアイリーンは、さっそく恥ずかしくなるほど法外な料金を吹っかけられたが、依頼内容はきちんと遂行された。数週間監視された後で、クーパーウッドは自分が疑惑を抱いていたアントワネット・ノバクだけではなく、ソールバーグ夫人とも関係している、との報告を受けてアイリーンは驚き、くやしがり、苦悩した。二つ情事が同時に進行していたとは。その瞬間、まさにアイリーンは唖然として息がつけなかった。
この時のアイリーンにとってソールバーグ夫人は、後にも先にもどんな女性よりも大きな存在だった。女性はあらゆる生き物の中で女性を最も恐れる。あらゆる女性の中でも最も賢く美しい者を恐れる。リタ・ソールバーグという人間はアイリーンの中で大きくなっていた。この一年の間に目に見えて成長を遂げていたし、そのせいか驚くほど美しくなっていた。とてもすてきな新しい軽二輪馬車に乗ったリタを通りで見かけたので、クーパーウッドに言ったところ、帰って来た答えはこうだった。「きっと親御さんが儲かっているだな。ソールバーグじゃそんなもの奥さんに買ってやれないさ」
アイリーンはハロルドの激しい気質には同情したが、クーパーウッドの言うことがもっともなのもわかっていた。
またあるときは劇場のボックス席で、ソールバーグ夫人の上品なドレスが細部に至るまで贅沢な作りなのに気がついた。淡いシルクには無数のひだがあり、針仕事は驚くほどすてきで、リボンは……数えきれないほどの量が、バラの形にしてあり、小さかった……誰かが精魂込めた印だった。
「なんて素敵なんでしょう」とまで言ったのだ。
「ええ」リタは澄まして答えた。「うちの仕立屋でもこればかりは無理だと思ったんですけどね」
全部で二百二十ドルかかったが、クーパーウッドは喜んでその請求額を支払った。
アイリーンはその時、リタのセンスと、実に上手に素材を自分の個性に調和させたものだと考えながら帰宅した。実にチャーミングだった。
しかし、自分を魅了したのと同じ魅力がクーパーウッドのことも魅了したとわかったとき、アイリーンはそれに対して腹立たしい動物的反感を覚えた。リタ・ソールバーグ! ふん! リタはやがて、クーパーウッドがアントワネット・ノバク……一介の速記係……と自分への愛情を共有していたことを知って、さぞ満足するだろう。アントワネットは……あの安っぽい成り上がりは……リタ・ソールバーグのためにアパートを借りたり、安いホテルや密会場所を使うくらい、クーパーウッドは軽い気持ちでしか自分を愛していなかったことを知って、さぞ満足するだろう。
しかし、こうしてすさんだ大喜びをしたにもかかわらず、思考は振り出しに、自分の窮地に戻ってきて、自分を苦しめ打ち砕いた。クーパーウッドの嘘つき! クーパーウッドの偽善者! クーパーウッドの卑怯者! よくもあれだけ否定できたものだと、すぐにこの男に一種の恐怖を覚えた。次に怒り……憎しみが膨らんだ。次に自分の立場が変わったことを哀れに思い知った。言うなれば、アイリーンのような女性からクーパーウッドのような男性の愛を奪うことは、魚を本来の環境から出すようなもので、陸に上がって干からびるとか、帆からすべての風を奪うようなもの……殺すも同然だった。クーパーウッドを通じて一度は得たと思った地位が、今や危うかった。フランク・アルガーノン・クーパーウッド夫人になって得た喜びも栄光も、今や色あせてしまった。この同じ日、探偵が報告書をよこした後で、アイリーンは自室で座り込んだ。目には疲労が見え、かわいい口もとには初めて見せたまとまった皺がより、頭の中では過去と未来が痛ましくぼんやり回っていた。突然立ち上がった。ドレッサーの上のクーパーウッドの写真の印象的な目が今なお自分を見つめているのを見て、それをつかんで床になげつけ、ハンサムな顔をかわいい足で踏みつけ、心の中で当り散らした。最低よ! けだもの! アイリーンの頭は、夫に抱きつくリタの白い腕と、リタに口づけする夫の唇のことでいっぱいだった。リタのふわふわのガウンや、魅惑的な装いがありありと目に浮かんだ。リタに渡してなるものか、夫に関わるものは一切渡さない。アントワネット・ノバクにしても同じことだ……哀れな成り上がり者、使用人のくせに。まさか会社の速記者にまで手を出すとは! そう思ったとたん、金輪際、女性をアシスタントにさせるものか、と決心した。あの卑怯者の夫のためにあれだけのことをしてきたのだから、自分のことを愛し、他の女性など放っておくのが義務なのだ。アイリーンの脳裏には奇妙な考えが渦巻いていた。今の彼女は正気ではなかった。この先、夫を失うと思うと居ても立っても居られず、無謀で無理な破壊的なことしか考えられなかった。大急ぎで慌ただしく身支度を終えると、馬車小屋から密閉型の馬車を出させて、ニューアーツビルに向かうよう言いつけた。向こうがクーパーウッドを誘惑して連れ去ろうがどうしようが、アイリーンは、このバラ色の猫みたいな女、この笑顔の無礼者、この毒婦に思い知らせるつもりだった。アイリーンは馬車の中で考え込んだ。かつてクーパーウッド夫人が自分にされたように、座して奪われるのを待つつもりはなかった。絶対に! クーパーウッドにはそんな扱いはできないのだ。その前に死んでやる! リタ・ソールバーグ、アントワネット・ノバク、クーパーウッドを殺して自殺するつもりだった。夫の愛を失うくらいなら、いっそそうやって死んだ方がましだ。それにこしたことはない! 幸い、リタ・ソールバーグはニューアーツビルにはおらず、ソールバーグも不在だった。パーティーに出かけていた。リタとクーパーウッドが時々密会していると探偵から報告を受けたジェイコブス名義のノースサイドのアパートにもいなかった。アイリーンは待つのは無駄だと思いながら、しばらくぐずぐずして、それから御者に命じて夫の事務所へ向かわせた。時刻はもうじき五時になろうとしていた。アントワネットもクーパーウッドも外出中だったが、アイリーンは知らなかった。しかし事務所に着く前に気が変わった……まず会いたいのはリタ・ソールバーグだった……御者にソールバーグ・スタジオへ戻るように命じた。しかし、まだ戻ってきてはいなかった。どうすれば最初にリタ・ソールバーグ独りに会えるかを考えながらやり場のない怒りをかかえて帰宅した。やがて相手の方から自分のところへのこのこやってきたものだからアイリーンは残忍に喜んだ。ソールバーグ夫妻は六時にミシガン・アベニューの外れのどこかのパーティーから帰宅する途中、ハロルドの希望でクーパーウッド夫人と時間を過ごそうとただ立ち寄っただけだった。リタは、淡いブルーとラベンダーを組み合わせたものに、銀のモールをあちこちにあしらった絶妙な衣装を着ていた。手袋と靴は現実離れした世界の刺激的な小物で、帽子は優美なラインをいくつも持つすばらしいものだった。まだ玄関ホールにいて自分でドアを開けたアイリーンはリタを見て逆上し、まさしく喉をつかんで殴りかかりたいところだったが、自分を抑えて「どうぞ」と言うにとどめた。怒りを抑えてドアを閉めるだけの分別と自制心がまだ残っていた。妻の横にはハロルドが無礼なほど気取って立っていた。おしゃれなフロックコートを着て流行のシルクハットをかぶっているのに様にならなかった。抑制効果はまだ続いていた。ハロルドは会釈して微笑んでいた。
この「おお」という音は「おお」でも「ああ」でもなくデンマークなまりの「おう」のようなもので、いつもなら耳ざわりではなかった。「改めて、ご機嫌いかがですか、クーパーウッドさん? 再びお目にかかれて嬉しい限りです」
「お二方とも、応接室にいらっしゃいません」ほとんどかすれた声でアイリーンは言った。「あたしもすぐに行きますから。何かほしいですものね」そしてあとから思いついたようにとても優しく声をかけた。「そうだわ、ソールバーグさん、ちょっとあたしの部屋まで来てくれませんか? あなたにお見せしたいものがあるのよ」
リタはすぐに反応した。リタはいつもアイリーンにとても親切に接することが自分の義務だと感じた。
「ほんの少ししかいられませんけど」お茶目に優しく答えて廊下に出た。「行きますわ」
アイリーンはリタが先に行くのを見とどけから、素早くしっかりと後を追って上の階にあがり、リタのあとから中に入ってドアを閉めた。純粋に動物的な絶望から生まれた勇気と怒りまかせに、振り返って鍵をかけ、それから素早く向き直った。目は荒々しい炎でぎらつき、頬は青ざめていたがやがて真っ赤に染まり、手と指は無意識に異様な動きをしていた。
「ねえ」リタを見て、素早く猛然と迫りながら言った。「あなたはあたしの夫を盗む気なんでしょ? 秘密のアパートで暮らすつもりよね? 笑顔であたしに嘘をつきにここへ来るのよね? このけだもの! 泥棒猫! 売春婦! もう化けの皮ははげたわ! あなたは亜麻色の髪をしたけだものよ! もう正体はわかったんだから! はっきりと思い知らせてやるわ! ほら、ほら、ほら!」
アイリーンは言ったそばから旋風と化し、獣ののように、殴るは、ひっかくは、首をしめるは、客の帽子を頭からむしり取るは、首のモールをもぎとるは、顔面を叩くは、髪や喉を激しくつかむはで、できることなら窒息させて美貌を台無しにしようとした。一瞬、怒りで本当におかしくなった。
この突然の猛攻に、リタ・ソールバーグは完全に後手を取らされた。迅速な凄まじい襲来だったので、嵐の前に何が起きていたのかほとんど気づいていなかった。議論も弁解も何をする暇もなかった。怖いやら、面目ないやら、困惑するやら、リタはこの電光石火の攻撃を受けてぐったりしてしまった。アイリーンが殴り始めたとき、リタは身を守ろうとしたが効果がなく、同時に家中に聞こえるほどの鋭い悲鳴を上げた。野生の瀕死の動物のような、異様な金切り声だった。瞬時に、品と教養を備えたすべての態度がリタから消え去った。歓待ムードの甘さと上品さから……丁寧で穏やかな物言い、気取った態度、思えばとても魅力的で、彼女の中で相手を惹きつけてやまない口の動き……が瞬時に剥げ落ちて、恐怖の中でその姿を見せる野生の獣状態になった。目には追い詰められた恐怖が宿り、唇と頬は青ざめて引きつった。リタはよろめきながら無様に後退した。怒って勢いづいたアイリーンがしっかり押さえつける中で悲鳴をあげながら、体をよじって、もだえた。
クーパーウッドが下の階の廊下に来たのは、悲鳴があがる直前だった。クーパーウッドはソールバーグ夫妻の直後に事務所から戻ってきた。たまたま応接室をちらっと見たところ、ソールバーグは、にこにこと、ご機嫌で、自己満足にひたって、社交と芸術に長けたへつらい屋のとらえどころのない雰囲気を醸し出していて、ボタンのかかった長い黒のフロックコートをさらりと着こなし、手にはまだシルクハットをもっていた。
「これはこれは、クーパーウッドさん、ご機嫌いかがですか」ソールバーグはカールした髪の頭を親しげに振りながら挨拶を始めた。「またお目にかかれて何よりです」すると、その時……しかしながら、恐怖の悲鳴を真似られる者はいるだろうか? これだけの恐怖と苦悶の音ともなると、きちんと表せる言葉も記号もありはしない。廊下、書斎、応接室、遠くのキッチン、地下室にさえ、凄まじい恐怖が響き渡った。
クーパーウッドは常に、神経質に考えるのとは対照的な行動の人だったので、一瞬で張り詰めたワイヤーのようにピンとなった。一体何事だろう? 何という絶叫だ! 芸術家のソールバーグは人生のさまざまな感情の色にカメレオンのように反応しながら、呼吸を荒らげ、青ざめ、自分を制御できなくなり始めた。
「何てことだ!」ソールバーグは両手をかざして叫んだ。「あれはリタだ! 二階の奥さまのお部屋にいるんです! 何かあったにちがいない。ああ……」とたんに我を忘れ、恐怖に震え上がり、ほとんど役に立たなかった。クーパーウッドはそれとは反対に、一瞬のためらいもなくコートを床に放り投げ、階段を駆けのぼった。ソールバーグは後に続いた。何事だろう? アイリーンはどこにいるんだ? 二階に駆けつける途中で、はっきりとした何か不吉な予感がした。気持ちが悪くなる恐ろしいものだった。立て続けに悲鳴がして、物音がした。「お願いよ! 殺さないで! 助けて! 助けて!」悲鳴があがった……この最後の一声は長くておぞましい耳をつんざく叫びだった。
ソールバーグは心臓発作でも起こして倒れんばかりだった。それほど怖がっていた。顔面が灰のように白かった。クーパーウッドは思いっきりドアノブを握って、施錠されているのに気づくと、ゆすって、ガタガタいわせて、ドアを叩いた。
「アイリーン!」と大声で叫んだ。「アイリーン! そこで何があったんだ? このドアを開けてくれ、アイリーン!」
「お願いよ! 助けて! 助けてってば! ああ、お願いしますー! ああ!」リタのうめき声だった。
「思い知らせてやる、この性悪女!」クーパーウッドはアイリーンが叫ぶのを聞いた。「教えてやるわ、このけだもの! 泥棒猫、売春婦! これでもか! これでもか! これでもか!」
「アイリーン!」クーパーウッドは声をからして叫んだ。「アイリーン!」何の反応もなく悲鳴が続くので、クーパーウッドは怒って振り返った。
「下がってくれ!」おろおろしてうめいているだけのソールバーグに叫んだ。「椅子をくれ、テーブルでも……何でもいいから持ってこい」執事が言いつけに従い駆け出したが、戻ってこないうちにクーパーウッドは道具を見つけていた。「これでいい!」階段の降り口にあった重厚な彫刻と重厚な鍛造の細長いオーク材の椅子をつかんで言った。大きく頭上にふりかざして、叩きつけた! 中の悲鳴よりも大きな音がした。
さらに一撃! 椅子はきしんで壊れかけたが、ドアはびくともしなかった。
もう一撃! 椅子が壊れてドアが開いた。クーパーウッドは鍵をぶち壊してアイリーンに飛びかかった。アイリーンは床の上のリタに馬乗りになって首をしめたり殴ったりして、リタを意識不明に追い込んでいた。クーパーウッドは猛然と組み付いた。
「アイリーン」クーパーウッドはしゃがれた耳障りな喉声で絶叫した。「こら! この馬鹿者……放すんだ! 一体どうしたんだ? どうするつもりなんだ? 正気を失ったのか?……きみは変だぞ、馬鹿!」
クーパーウッドはアイリーンの力強い手をつかんで引き離した。ひねったかと思えば、投げるようにして膝にのせあげて、つかんだ手を放させ、引きずるようにして後退した。アイリーンは正気とは思えない怒りようで、なおももがいて叫んでいた。「やっつけてやるんだから! やっつけてやる! 思い知らせてやる! あたしに抱きつくんじゃないわよ、このろくでなし! あなたにも思い知らせてやるんだから、このけだもの……ああ……」
「そっちの女を起こして」クーパーウッドはソールバーグと入ってきた執事にきっぱり言いつけた。「早いとこ連れ出すんだ! 家内がおかしくなった。さっさと連れ出すんだ、さあ! 家内の奴、自分のやってることがわかってないんだ。そっちは連れ出して医者にみせろ。まったく、この修羅場は何事だい?」
「ああ」ずたずたにされ、あまりの恐怖で意識がもうろうとして気を失いかけながら、リタはうめいた。
「あの女、殺してやる!」アイリーンは叫んだ。「あの女を殺す! あなたもよ、このろくでなし! ああ」……アイリーンは夫を叩き始めた……「他の女と浮気するとどうなるか教えてあげるわよ、このろくでなし! このけだもの!」
クーパーウッドはただアイリーンの手をつかんで、激しく力いっぱい揺さぶるだけだった。
「一体全体、どうしちゃったんだ、え、馬鹿なまねをして?」二人がリタを運び出すと、クーパーウッドはきつく言った。「何をする気だって……まったく、殺すだと? きみはここに警察を入れたいのか? わめきちらすのをやめておとなしくしろ、さもないとその口にハンカチを押し込むぞ! やめろって言ってんだ! やめろ! 聞いてるのか? いい加減にしろ、この馬鹿!」クーパーウッドはアイリーンの口に手を当て、強く押し付け、抵抗するアイリーンを力で抑え込んだ。怒って乱暴に揺さぶった。クーパーウッドはとても強かった。「さあ、自分からやめるか」クーパーウッドは言い放った。「それとも首をしめておとなしくさせられたいか? やめないのならやるからな。きみはどうかしているぞ。やめろって言ってるだろ! 自分の思いどおりにならないと、こんなやり方をするのか?」アイリーンは泣きじゃくり、もがき、うめき、半狂乱ですっかり自分を見失っていた。
「気の狂った馬鹿だな!」クーパーウッドは振り向かせて、顔を覆って口に詰め込んだハンカチを苦労して取り出しながら言った。「ほら」ほっとしたように言った。「さあ、おとなしくするかい?」鉄のようにしっかり抱え込んだまま、必要とあらば息をできなくする覚悟で、もがくまま振り向かせた。
制圧してしまうと今度は、相手をしっかりと抱きしめたまま、その横に片膝をついてかがみ込み、耳をすませて考え込んだ。確かに凄まじい情熱だ。クーパーウッドはいくつかの観点からアイリーンを責めることができなかった。怒りが大きいのはそれだけ愛情が大きいからだ。クーパーウッドはアイリーンの性格をよく知っていたので、この種のことを予期していた。それでも、この恐るべき事態の悲惨さ、不名誉、スキャンダルを思えば、いつものように落ち着いていられなかった。まさかこんな暴挙に出る者がいるとは! まさかアイリーンがこんなことをするとは! リタがこんなひどい目に遭わされるとは! リタが重傷を負い、命にかかわるほどで……殺される可能性さえ、無きにしもあらずだった。それを思うと身の毛がよだつ! 世間の怒りの嵐は避けられない! 裁判だ! 悲しみと怒りと死が一つ大爆発を起こしただけで一生が台無しだ! 神様のやることときたら!
クーパーウッドは、リタを連れ出して急いで戻って来た執事を、うなずいて呼び寄せた。
「どんな具合だ?」必死に尋ねた。「重傷か?」
「めっそうもありません、旦那様。ただ気絶しているだけだと思います。じきに回復なさるでしょう。何かお手伝いできることはございますか、旦那様?」
いつもならクーパーウッドはこういう場面で微笑んでいただろう。今は冷静で真剣だった。
「今はいい」しっかりとアイリーンを抱いたまま、安堵のため息をついて答えた。「ここはいいからドアを閉めてくれ。医者を呼ぶんだ。廊下で待機して医者が来次第、声をかけてくれ」
リタに手当てが施され同情まで向けられているのに気づくと、アイリーンは起き上がって再び叫ぼうとしたが、できなかった。夫がなりふり構わず離さなかった。ドアが閉められると、クーパーウッドは再び言った。「さあ、アイリーン、おとなしくするかい? 起きて話をさせてくれないか、それとも我々は一晩中ここでこうしていないといけないのかな? きみは今夜限りで永遠に別れを告げられたいのかい? この件についてはすべてわかっているんだ。私はもう事態を掌握したし、掌握し続けるよ。きみは正気に帰って道理をわきまえるんだ、さもないと、ここにいるのと同じくらい確実に、明日お別れだからな」その声は説得力を持って響いた。「さあ、二人できちんと話し合うかい、それとも自分の醜態をさらして、私にまで恥をかかせて、家を汚し、自分共々私のことまで、使用人や、近所や、街中の笑いものにする気かい? 今日は大した見せ物を披露してくれたね。ご苦労さん! 実にいい見せ物だったよ! この家の中で取っ組み合いの喧嘩とはね! 私はね、きみにはもっと分別……もっと自尊心があると思ってたよ……まったく。きみはこのシカゴでの私の将来を本当に危険にさらしてしまったんだよ。一人の女性に重大な傷を負わせて殺しかねなかったんだ。それできみは絞首刑にされたかもしれなかったんだぞ。聞いてるのか?」
「じゃ、絞首刑にすればいい」アイリーンは苦悶の声をあげた。「あたし、死にたい」
クーパーウッドは口から手をどけて、両腕をつかんでいた手をゆるめて、立ち上がらせた。アイリーンは相変わらず猛然と、衝動的に、クーパーウッドを責めようとしていた。しかし、いったん立ってしまうと、無表情な目で、冷たく威圧的に自分を見つめる相手と対峙した。クーパーウッドは今、アイリーンが見たことがない表情を顔に浮かべていた……険しく、冷徹な、燃え盛る炎で、それは商売敵以外は誰も、その連中だってそういう機会がなければ目にしないものだった。
「もうよせ」クーパーウッドは叫んだ。「それ以上言うな! 一言もだ! 聞いてるのか?」
アイリーンは動揺し、くじけ、あきらめた。風がやめば海が静かになるように、荒れに荒れた魂の激しい興奮はすべて収まった。アイリーンはもう一度叫ぶ言葉を、胸に秘め、口に含んでいた。「このひとでなし! この野蛮人!」その他にあまたの無益な罵詈雑言があったのに、どういうわけか、クーパーウッドの目力と心の冷たさに押しつぶされて、口まで出た言葉が消えてしまった。アイリーンはしばらく夫を自信なげに見た。それから振り返って近くのベッドに身を投げ、頬と口と目を押さえて、悲しみにもだえて前後に揺れながら、すすり泣きを始めた。
「お願いよ! 神さま! こんなおもいをするなんて! こんな人生なんて! 死んでしまいたい! 死にたい!」
その場に立ってアイリーンを見ているうちに、アイリーンの魂が傷つき、心が傷ついたのが急にひしひしと伝わってきて、クーパーウッドは揺らいだ。
「アイリーン」少ししてから、近づいて、とても優しく触れながら声をかけた。「アイリーン! そう泣くなよ。まだ見捨てていないだろ。きみの人生は全然台無しになってないんだから。泣かないで。ひどいことになってしまったが、別に手立てがないわけじゃない。さあ、しっかりするんだ、アイリーン!」
答える代わりにアイリーンはただ動揺してうめき声をあげた。どうにもならないし、どうすることもできなかった。
もう一方の状況が心配になって、クーパーウッドはその場をあとにして廊下に出た。医者と使用人の手前を何とか取り繕わねばならなかった。リタの世話をして、ソールバーグにも何かそれなりの説明をしないといけなかった。
「おい」クーパーウッドは通りかかった使用人に声をかけた。「そのドアを閉めて見張っているんだ。もしクーパーウッド夫人が出てきたら、すぐ私に知らせるんだ」




