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巨人  作者: ドライサーの小説の翻訳作品です
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第16章 運命の幕あい


クーパーウッドは大喜びだった。もくろんだ関係を熱心に続けたところ、期待どおりの相手だとわかった。リタはこれまで知り合った誰よりも優しく、華やかで、つかみどころがなかった。さっそく手配して、機会があれば朝、晩、午後となく時々過ごしたノースサイドのすてきなアパートで、最も厳しい目でリタを観察してほぼ完璧だとわかった。若さとある種の無頓着な態度がもたらすあの無限の価値があった。うれしいことに、リタの性格には全然憂いがなく、生来の余裕のようなものがあって、取り越し苦労はしないし嫌なことは振り返らなかった。リタは美しいものが大好きだったが浪費家ではなかった。クーパーウッドに興味を抱かせ感心させたのは、どう巧みに気前よく金を使わせようとしてもそう仕向けられないことだった。リタは自分がほしいものを知っていて、慎重にお金を使い、上手な買い物をして、クーパーウッド好みのやり方で花がするように自分を飾った。いっそ破壊したい……自分の中の衝動を抑えてその力を静めたい……と願うほど、そう言ってもいいかもしれないほど、リタに対する感情が時々大きくなった。しかしそれは無駄だった。リタの魅力にはかなわなかった。クーパーウッドには自分の影響が、明らかにリタを再生させて、これまで以上にかわいらしく、優雅にし、手で乱れた髪を整えさせたり、グラスに写った自分にかわいらしく口を尖らせたり、一度にたくさんの関係ないことを面白おかしく考えさせたりしているように思えた。


「先日画材店で見たあの絵を覚えてるかしら、アルガーノン?」セカンドネームで呼んでゆっくりと言った。自分と一緒にいるときの彼の雰囲気に合っていて、その方が楽しかったから、そう呼ぶことにしていた。クーパーウッドは嫌がったがリタは押し通した。「老人が羽織っているものの美しい青を覚えているかしら?」(それは『聖マギの崇拝』だった。)「ああいうのをうっつくしーっていうんじゃない?」


リタはとても甘ったるい間延びした話し方をして、口をキスせざるを得ないような妙な形にした。「まるでクローバーの花だね」クーパーウッドはリタに近づいて腕をつかみながら言った。「ひと枝の桜の花だ。ドレスデン磁器を思わせるね」


「やっときれいにまとまったのに、さっそく髪をくしゃくしゃにする気?」


その声は無防備で明るく純真だった……目もそうだった。


「そうだよ、お転婆さん」


「了解、でも私を窒息させちゃ駄目よ。ほんと、あなたって人はその口で私をひどい目にあわせるんだから。優しくしようっていう気はないのかしら?」


「あるってば。でも、いたぶってもみたいのさ」


「まあ、どうしてもっていうんならね」


しかし、彼がすっかり魅了されていたとはいえその魅力は健在だった。野バラの生け垣の上をヒラヒラと舞う、黄色と白、青と金色の蝶のようだと思った。


この関係を続けてすぐにクーパーウッドは知るようになったのだが、ソールバーグ夫人は脇に追いやられている人たちの一人に過ぎないのに社交界の動向や傾向に随分精通していた。夫人はいっぺんで、彼の社会的視点や芸術的野心、自分を向上させるものを何でも夢見ることをはっきりと理解した。ソールバーグ夫人は、クーパーウッドがまだ自覚していなかったこと、彼女はそうかもしれないが、アイリーンは彼にふさわしい女性ではないとはっきりわかっているようだった。しばらくするとソールバーグ夫人は、寛容な態度で自分の夫のこと……夫の短所、欠点、弱さ……を話した。夫人は心が通わなくなったのではなく、愛情も才能も見識もまともにつり合わない状態がただ嫌になっただけなのだ、と考えクーパーウッドは提案した。ソールバーグ夫人が自分とハロルド用のもっと大きなスタジオを持って、二人の障害だった貧乏暮らしから脱却できるようにする……夫人の実家からの援助が増えたことを理由にしてすべてを説明すればいい。最初、夫人は反対した。しかしクーパーウッドは気を利かせて、結局やってしまった。もう少ししたらヨーロッパに行くようにハロルドを説得するべきだ、と改めて提案した。表向きの理由は同じでいい……夫人の実家からの追加支援だ。ソールバーグ夫人はこうして、けしかけられ、かわいがられ、作り変えられ、保証され、ついには彼の開放的なルール……服従……を受け入れ、猫のように満ち足りたものになった。ソールバーグ夫人は用心しながらもその気前のいい施しを受け入れて、最大限に賢く利用した。かれこれ一年以上もの間、ソールバーグもアイリーンも突然始まった二人の関係に気づかなかった。簡単に騙されたソールバーグはデンマークに戻ってからドイツへ留学した。翌年ソールバーグ夫人はクーパーウッドの後を追ってヨーロッパへ行った。エクスレバン、ビアリッツ、パリ、ロンドンでさえ、背後に余計な者が一人いたのにアイリーンはわからなかった。クーパーウッドはソールバーグ夫人に教えられて見識にさらに磨きがかけられた。音楽、書物、諸々の事実でさえ知識が深まった。ソールバーグ夫人は、古い巨匠の代表作を集める考えを奨励し、近代的な作品の選定は慎重に行うよう求めた。クーパーウッドは自分が楽しい立場にいるのを実感した。


まるで個人が性をむさぼる航海に乗り出すようなこの状況で問題になるのは、誤った自信と、女性の特性に関する私たちが築き上げた倫理観が、嵐となって跳ね返るかもしれないことである。クーパーウッドは自分が自分の法律であり、自分の考える力が足らなかったせいで自分に課せらることがない限り法律など知ったことではなかったから、紛糾、怒り、激情、苦悩が生じる可能性があっても特に踏みとどまらなかった。こういうことは起きると決まっているわけではなかった。普通の男性ならこういう関係は一つ築くのでも難しいと思うかもしれないのに、承知のとおり、以前クーパーウッドはほぼ同時にこういう情事をいくつもかかえていた。そして今もまた別のにとりかかっていた。この最新の情事は気持ちも意気込みも一段と大きかった。今までの情事は、せいぜい感情的なその場だけのものだった……暇つぶしの遊び程度のもので、そこには深い思い入れや感情は関係しなかった。ソールバーグ夫人の場合はすべてが違った。少なくとも当分は実際に夫人は彼のすべてだった。しかし、女性への愛と、女性の美しさに対する芸術性とまでは言わないが感情的な従順さと、女性の個性の神秘とに関係するこの気質は、これから先もクーパーウッドに情事をさせた。そしてこの最新の情事は結果があまり幸運ではなかった。


アントワネット・ノバクは、ウエストサイドのハイスクールとシカゴのビジネスカレッジを出たばかりで、クーパーウッドの専属秘書と速記係を兼務して雇われていた。外国人を両親にもつアメリカの子供たちにありがちなように、この娘は何か普通とは違うものに開花していた。きれいでしなかやな体をして、服装のセンスがよく、速記と簿記の技術を持ち、実務の細部にまで詳しい彼女が、貧しいポーランド人の娘であるとはにわかに信じがたいだろう。父親は最初シカゴ南西部の製鋼所で働き、ボーランド人居住区で五等級のタバコ、新聞、文房具の店をやっていた。トランプと遊べる手軽なゲーム用の奥の部屋を商売にしたのが、店が存在する主な理由だった。アントワネットは、ファースト・ネームがアントワネットではなくミンカだった。(アントワネットはシカゴの日曜新聞の記事から借用したものだった。)優秀で暗い思い悩む娘だが野心家で希望を抱いていた。新たな職についた十日後にはクーパーウッドに憧れていて、興奮も同然の興味を持って、彼の大胆な一挙手一投足を追い続けた。こんな男性の妻になれたら……愛情はもとより、気を引くことさえできたら、すばらしいに違いないとアントワネットは考えた。自分が知っていた退屈な世界……クーパーウッドを通じて垣間見始めた上流の高尚な世界に比べると退屈に見えたもの……と、最初に働いた不動産会社の普通の男性たち、を見た後だったので、いい服を着て、近づきがたい雰囲気で、厳しくない命令的な態度のクーパーウッドは、アントワネットの最も野心的な感情に影響した。ある日、アイリーンが馬車から降りるのを見た。暖かい茶色の毛皮をまとい、すてきなピカピカのブーツをはき、うね織りの茶色いウールの外出着を着て、短剣だか羽根ペンのように跳ね上がった長くて暗い赤の羽根飾りのせいで尖った感じに強調された毛皮のトーク帽をかぶっていた。アントワネットはアイリーンが嫌いだった。自分の方がまし、少なくとも同じだという自信があった。どうして人生はこうも不公平なのだろう? いずれにせよ、クーパーウッドとは一体どんな男性なのだろう? シカゴに周旋業の事務所を開いた直後に、本人が口述した控えめだが正直な経歴を清書して、本人に代わってシカゴの新聞社に届けた後のある夜のこと、アントワネットは帰宅してから、クーパーウッドが語ったことを夢に見た。もちろん夢の中では変わっていた。頭の中で、クーパーウッドがラサール・ストリートのすてきな私室で自分の傍らに立って尋ねた。


「アントワネット、きみは私のことをどう思う?」アントワネットは困惑したが大胆だった。夢の中で、自分が彼に強い関心を抱いていることに気がついた。


「ああ、どう考えていいのか、わかりませんわ。申し訳ありません」と返事をした。そして、相手が自分に、それも頬に手をあてたところで目が覚めた。こんな男性が刑務所にいたなんて、お気の毒、残念よね、と考え始めた。とてもハンサムだわ。結婚は二度。おそらく、最初の奥さんがかなり不器量だったか、とても意地悪だったのね。こんなことを考えて、翌日は考え事をしながら仕事に出かけた。自分の計画で頭がいっぱいだったクーパーウッドはこの時彼女のことを考えていなかった。懸案のガス戦争の次の手を考えていた。そしてアイリーンはある時アントワネットを見たが、下っ端としか考えなかった。仕事をもつ女性が出始めていたとはいえ、まだまだ社会的な地位は低かった。アイリーンはアントワネットのことを何とも思っていなかった。


クーパーウッドがソールバーグ夫人と親密になってかれこれ一年が過ぎると、アントワネット・ノバクとのかなり本格的な仕事の関係がより親密になった。これについては何と言えばいいのだろう……クーパーウッドはすでにソールバーグ夫人に飽きてしまったのだろうか? そんなことはない。どうしようもなく好きだった。あるいは、こうしてひどい騙し方を続けているアイリーンを馬鹿にしてのことだろうか? しない。クーパーウッドにとってアイリーンはこれまでと同じように時には魅力的だった……アイリーンが自分で思い描く権利がこうして無造作に踏みにじられ続けていたのだからなおさらだったかもしれない。クーパーウッドはアイリーンにはすまないと思っていた。しかし他の女性関係は……おそらくソールバーグ夫人を除いて……ずっと続くわけではないという理由で自分を正当化しがちだった。もしソールバーグ夫人とできたなら結婚したかもしれない。この先アイリーンが自分と別れようなことがあるだろうかと時々考えることがあった。しかしこれは多分考えるだけ無駄だった。こうして簡単にだませるとわかって、むしろ自分たちは二人の日々を一緒に過ごせそうだと想像した。しかしアントワネット・ノバクのような娘に関していうなら、彼女は世界で通用する幾何学的な美しい形をきちんと作る、ただの性的魅力が織りなすあの調和の中に現れた。アントワネットは暗いなりに魅力的で美しく、鬱憤の炎が燃える目をしていた。クーパーウッドは最初の感動こそ微々たるものだったが、アメリカの空気が持つ驚くべき変化の力に目を見張りながら、徐々に彼女に興味を持つようになった。


「きみのご両親はイギリス人かい、アントワネット?」ある朝のことクーパーウッドは、部下や知性の低い者みんなに対してとる、あの優しいひとなつっこい態度で……彼だと不快感がなく普通は褒め言葉として受けとめられる雰囲気で……彼女に尋ねた。


アントワネットは清楚でういういしく、白いブラウスを着て、黒の歩きやすいスカートをはき、黒いビロードのリボンを首に巻き、長い黒髪を厚手に編んで目深に額にかかるようにして、白いセルロイドの櫛でとめ、喜びと感謝の眼差しでクーパーウッドを見つめた。彼女が慣れていたのは違うタイプの男性だった……幼い頃は、真面目で、気性が荒く、興奮しがちで、時には酔っぱらって悪態をついている男たちが、いつもストライキやデモをして、カトリック教会で祈っていた。その次は、お金に目がなく、シカゴとその一瞬の可能性についての多少のこと以外は何もわかっていない実業界の男たちだった。アントワネットはクーパーウッドのオフィスで、手紙を受け取ったり、彼がラフリン老人やシッペンスや他の人たちを相手にてきぱきと穏やかな態度で話すのを聞いたりしていて、これまでに自分が夢で見たものよりも人生にはもっと多くのものが存在することを学んだ。クーパーウッドは開放された大きな窓のようで、アントワネットはそこから無限に広がる風景を見ているようなものだった。


「いいえ、ちがいますわ」黒の鉛筆を持つ細くしっかりした白い手を休めてノートの上に落とし、彼女は答えた。嬉しさのあまり、実にあどけなく微笑んだ。


「そうではないと思ったよ」クーパーウッドは言った。「だってすっかりアメリカ人だからね」


「どこまでそうなのかは私にはわかりませんけど」アントワネットは大真面目に言った。「私には私と同じようなアメリカ人の兄がいます。私たちはどちらも両親に似てませんね」


「お兄さんは何をしてるんですか?」淡々と尋ねた。


「アーニール商会で計量士をしています。いずれは管理者になろうと心がけています」と微笑んだ。


クーパーウッドが思わせぶりに見ると、アントワネットはちらっと見返してから目を伏せた。本人にはどうしようもない、はっきりとした赤が顔にゆっくりと浮かんで茶色の頬をおおった。クーパーウッドが見ると、アントワネットはいつもそうなった。


「この手紙をヴァン・シックル将軍に届けてください」このとき実にいいタイミングでクーパーウッドが切り出した。アントワネットはすぐにもとに戻った。しかし、アントワネットは自分の意思とは関係ない感情にかき乱されずに、一度に長い時間クーパーウッドのそばにいられなかった。クーパーウッドはアントワネットを惑わせて、鈍い炎を行き渡らせた。これほど非凡な人が自分のような娘に興味を持つことがあるかしらと時々思うことがあった。


この重大関心事の行き着く先はもちろんアントワネットが最終的にその座に就くことだった。彼女が座って口述筆記をし、指示を受け、見るからに落ち着いて、てきぱきと、一心不乱に商売に徹して、事務仕事を処理する中で、日常の些末な問題がなくなっていくのを人は目にするかもしれない。しかしそんなことをしても何にもならないのだ。実際には、自分の仕事の精密度や正確さには全然影響を与えずに、いつも奥の事務所にいる男性のことばかり考えていた……得体の知れない上司はこの時は部下に会っていた。そして合間に、どうやら、大物とか商人とかあらゆる世界の人が来て、名刺を出し、時にはほとんど休む間もなく話をして帰って行った。しかし、思えば、クーパーウッドを相手に長話をする珍しい人で、それがさらに興味をかきたてた。彼女への指示はいつもいたって簡潔だった。多くを補う天賦の知性を頼りにして余計なことはほとんど言わなかった。


「わかりますよね?」がクーパーウッドの決まり文句だった。


「はい」とアントワネットは返事をした。


ここにいる自分はこれまでの人生の五十倍重要になったように感じた。


オフィスは清潔で、頑丈で、明るくて、クーパーウッド本人のようだった。淡い緑のローラーカーテンにさえぎられて東の正面の硬質ガラスから差し込む朝日は、アントワネットにとってロマンチックな雰囲気をもつようになった。クーパーウッドのプライベートオフィスは、フィラデルフィア時代と同じ、丈夫な桜材の部屋で、遮蔽も防音も完璧だった。ドアが閉ざされるとそこは神聖不可侵だった。口述しているときや時にはそうでないときさえ、わかった上でいつもできるだけドアを開けたままにしておいた。クーパーウッドとミス・ノバクが一番近づいたのは、こういう三十分の口述の時間だった……クーパーウッドはあまりプライバシーを気にしなかったのでいつもドアは開けたままだった。何か月も過ぎていたし、クーパーウッドが自分の全く知らない他の噂の女性と忙しかったので、アントワネットは時には息苦しさ、時には乙女の恥らいを感じて中に入るようになった。自分がクーパーウッドに愛してもらいたがっていることを素直に認めることなろうとは思いもしなかった。簡単に屈服する自分を考えたら怖くなっただろう。しかし今や彼女の脳裏に焼き付いていない、彼という人の細部は存在しなかった。軽い、ふさふさの、いつもなめらかに分けた髪や、大きくて澄みきった何を考えているのかわからない目や、入念に手入れの行き届いた手や、充実して引き締まった体や、繊細で複雑な模様の真新しい服……こういうものがどれだけアントワネットを魅了したことか! 何かをしている瞬間以外はいつも遠い存在に思えたのに、このときは不思議なことに、ものすごく親密な近い存在に思えた。


ある日、何度も視線を交わした後で、しかもその都度いつもアントワネットはぱっと手紙の真ん中に視線をおとしていたところ……クーパーウッドが立ち上がって半開きだったドアを閉めた。アントワネットはこれをいつものように大したことだとは考えなかった……これまでにもあったことだった……しかし今日は、彼が放った優しくもなく微笑んでもいない含みのある視線のせいで、何かいつもと違うことが起きそうな予感がした。自分の体が、首や手が、熱くなったり冷たくなったりを繰り返していた。アントワネットは自分が思っているよりもきれいな体で、手足も胴体も形がよかった。頭部は古いギリシャ硬貨ように多少尖った感じで、髪は古代の石像のように編んであった。それがクーパーウッドの目に留まった。戻って来ると、席に座るでもなく、アントワネットに覆いかぶさるように身をかがめて、親しげに手をつかんだ。


「アントワネット」と言って優しく上を向かせた。


アントワネットは顔をあげて立ち上がった……クーパーウッドがゆっくりと引き寄せたからだ……息を切らし血の気がなくなり、持ち前の優れた実用性の大半は完全に失われた。力が抜けて動けない気がした。かすかに手を引いて視線をあげると、彼のあの険しい貪欲な凝視につかまった。頭がくらくらした……目は隠しきれない混乱でいっぱいだった。


「アントワネット!」


「はい」アントワネットは小声で言った。


「きみは私を愛しているね?」


アントワネットは気を取り直して、生まれつきの堅物な魂を態度に注入しようとした……決して自分を見捨てることがないといつも想像していたあの堅物は消えてしまった。代わりに自分が生まれた遥か彼方のブルーアイランド・アベニューの近所、低い茶色の小屋、それからこのしゃれた頑丈なオフィスとこの強い男性のイメージが浮かんだ。この男性は明らかにこういうすばらしい世界から現れたのだ。アントワネットの血は妙に泡立っているようだった。我を忘れるほど楽しく、何も考えられなくなって、幸せな気分だった。


「アントワネット!」


「ああ、私、何を考えたらいいのかわからないわ」アントワネットはあえいだ。「そうだわ……しっかりしなくちゃ」


「きみの名前、好きだよ」クーパーウッドは、ぽつりと言った。「アントワネット」それから相手を自分の方へ引き寄せると腰に腕をまわした。


アントワネットはおびえて、何も考えられなくなり、それから急に恥ずかしいというよりショックで目に涙があふれた。アントワネットは背を向け、手を机につき、頭をたれて、すすり泣いた。


「おや、アントワネット」クーパーウッドは相手におおいかぶさるようにかがんで優しく尋ねた。「きみはあまり世間ずれしていないんだね? てっきり私を愛してると言ったんだと思ったよ。今のはすべて忘れてこれまでどおりに振る舞った方がいいかい? きみがよければ、もちろん、私だってそうするよ」


クーパーウッドは、相手が自分を愛し、求めているのを知っていた。


アントワネットは震えながらちゃんと話を聞いた。


「そうするかい?」立ち直る時間を与えて、しばらくしてから言った。


「泣かせてください!」声を荒らげて言えるほどアントワネットは落ち着いた。「どうして泣いているのか自分でもわからないんです。緊張してしまったせいだと思います。どうかもう構わないでください」


「アントワネット」クーパーウッドは繰り返した。「こっちを見るんだ! やめるのかい?」


「ええ、今はだめ。目がひどくって」


「アントワネット! さあ、ごらん!」クーパーウッドは手を彼女の顎の下に添えた。「ほら、そんなに怖くないだろう」


「でも」再び目が合うと、アントワネットは言った。「私……」そしてクーパーウッドが手をなでて抱き寄せると、アントワネットは折り曲げた両腕を相手の胸にあてた。


「私はそんなにひどくはないだろ、アントワネット。きみだって私と同じ気持ちだろう。やっぱり、私を愛しているよね?」


「え、ええ……はい!」


「じゃ、いいよね?」


「ええ。何ぶんにも不案内なものですから」顔は隠れていた。


「じゃ、キスして」


アントワネットは唇を上に向けて両腕で抱きついた。クーパーウッドは抱き寄せた。


もしアイリーンとリタが知ったらどう思うだろうと同時に考えながら、クーパーウッドはからかうようにしてなぜ泣いたのかを言わせようとした。最初は言おうとしなかったが後になって罪悪感だと認めた。不思議と、アントワネットもアイリーンのことと、彼女が出入りするのを、時折、自分がどんなふうに見ていたかを考えた。今、アントワネットは彼の愛情のすばらしさを、彼女(とてもうぬぼれ屋で、傲慢な、威勢のいいクーパーウッド夫人)と分かち合っていた。変に思えるかもしれないが、今はそれがむしろ名誉に思えた。アントワネットは自分自身の判断で生きることと力についての自分の感じ方に反旗を翻したのだった。愛と情熱を多少知ったので、これでこれまでよりも多少は人生のことがわかった。未来は約束されて震えているようだった。そんなことを考えながらしばらくしてアントワネットは自分の機械のところへ戻った。すべてはどうなってしまうのかしらと激しく悩んだ。目を見ても、泣いていたことはわからなくなっていた。その代わりに、茶色の頬の豊かな輝きが、彼女の美しさを際立たせてくれた。アイリーンに対する不安がこれに入り込む余地はなかった。アントワネットは倫理や道徳に密かに疑問を抱き始めていた新しい秩序の信奉者だった。自分には自分の人生と、それが導くところへ進む権利があった。それが自分にもたらしてくれるものへの権利も。クーパーウッドの唇の感触がまだ生々しく残っていた。未来はこれから自分に何を見せてくれるのかしら? 一体? 



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