第15章 新たな愛情
クーパーウッドとリタ・ソールバーグの関係の進展は、アイリーンによってまったく偶然に育まれたものだった。アイリーンはハロルドに対して本当に何の根拠もない馬鹿げた感傷的な関心を抱いた。アイリーンがソールバーグを気に入ったのは、女性……かわいらしい愛い女性……が関係する場面だと彼がこの上なく丁重で、おだて上手で、情にもろい男性だったからだ。自分がソールバーグのところへ生徒を送り込んであげればいいと考えた。とにかくそれがスタジオに行くいい口実だった。アイリーンの社交はそれほど退屈だった。だから出かけて行った。クーパーウッドもソールバーグ夫人を目当てにして出向いた。クーパーウッドは壊れてもおかしくないくらい抜け目なくアイリーンをあおって関心がそっちに向かうようにした。夫妻をディナーに招待しょうとか、ソールバーグが演奏できて報酬が支払われるようなミュージカルを主催しようとアイリーンに提案した。劇場のボックス席をとったり、コンサートのチケットを送ったり、日曜日や他の日にドライブに招待した。
こういう状況の手にかかると、人生はがらりと変わってしまうものらしい。クーパーウッドがリタのことを盛んに全力で考えるようになると、リタも同じように相手のことを考えるようになった。時間を追うごとに彼の魅力が増して、未知の気になる男性になった。彼の雰囲気に包まれて、リタは自分の良心と共に悪魔の時間を過ごしていた。まだ何も言われていなかったが、クーパーウッドはリタを包囲して、徐々に追い詰め、次々に退路をふさいでいる様子だった。ある木曜日の午後、アイリーンもクーパーウッドもソールバーグ夫妻のお茶の席に出席できなかったときに、ソールバーグ夫人はジャクミノのバラの見事な花束を受けとった。「あなたの隅々に捧ぐ」とカードにあった。その贈り主も、それがどれだけの価値があるものかも、よくわかっていた。全部で五十ドルはしようというバラだ。それは夫人に自分の知らなかったお金の世界の息吹を届けた。毎日、新聞で彼の銀行や証券会社の名前が広告されるのを見た。一度、正午にメリルの店で会ったときにランチにさそってくれたが、断るしかないと感じた。いつも彼はまっすぐな生き生きした目で自分のことを見た。自分の美貌がそうさせた、いやさせているのだ! 心は知らないうちに、ひょっとしたらこの熱心で魅力的な男性が、ハロルドでは夢にも思わない方法で、自分を支配している未来へ進んでいた。しかし、練習、買い物、電話、読書を続け、ハロルドの非力を考え込んでは、時々ふと立ち止まって考えた……クーパーウッドの洗練された手が自分をつかむのを。あの力強い手……何てすてきなのかしら……そしてあの大きな、優しくもあり険しくもある鋭い目。(シカゴでの芸術家生活のせいで時々修正された現状の)ウィチタの清教徒気質が……この男に見られるような……時代の巧みな人心操作と激しい戦いを繰り広げていた。
「あなたは、かわすのがとてもお上手だ」ある晩、劇場の幕あいの時間、後ろの席に座ったときにクーパーウッドはソールバーグ夫人に話しかけた。ハロルドとアイリーンは席を外してロビーを歩いていた。何が言われようと会話のさわがしさが音をかき消した。ソールバーグ夫人のレースのイヴニングドレス姿は一段とすてきだった。
「そんなことありません」相手が注目することに気を良くして、間近にいることを強く意識しながら、面白がって答えた。相手の一言一言にわくわくしながら、徐々に相手の雰囲気に身を任せていった。「自分がとても安定しているからそう見えるんでしょうね」夫人は続けた。「私はちゃんと充実していますから」
ソールバーグ夫人は膝の上のふくよかで滑らかな腕を見た。
クーパーウッドは、夫人が充実ぶりを装ったのと、さらにはアイリーンよりもはるかに豊かなその気質のすばらしさを感じて、深く感動した。言葉には決して(もしくはほとんど)出ない小さなはやる気持ちが、彼女から彼に伝わってきた……彼女の心の中の感情、気持ち、空想が、かすかなそよ風のように流れ出てクーパーウッドを魅了した。獣性はアイリーンに似ていたが、もっと品があって、それでいて甘美で、繊細で、精神面がはるかに豊かだった。それとももうアイリーンに飽きただけだろうか、と時々自問しては、いや、いや、そんなはずはない、と自答した。リタ・ソールバーグはこれまで知り合った中で好感度最高の女性だった。
「そうですね、だけどやはりはぐらかしますね」リタの方に身を乗り出しながら続けた。「あなたは言葉では言い表せないものを連想させるんです……色というか、香りというか、音の調子というか……瞬間的なものをです。最近私はあなたのことばかり考えています。芸術についてのあなたの知識に興味がわきましてね。あなたの演奏が好きなんですよ……いかにもあなたらしくて。自分の生活の日常とはまったく関係のない楽しいことを考えさせてくれるのでね。わかりますか?」
「それはよかったわ、私がお役に立ててれば」そう言ってリタは穏やかにこれ見よがしに息を吸い込んだ。「あなたのせいでうぬぼれてしまいますわ」(口がきれいなまん丸になった。)「買いかぶり過ぎなんですよ」一気に感情が爆発して、上気し、紅潮し、胸がいっぱいになった。
「あなたはすてきですよ」クーパーウッドは執拗に続けた。「あなたはいつも私をそういう気分にさせるんです。お気づきだろうけど」椅子に身を乗り出して付け加えた。「あなたは生きてこなかったんだと時々私は考えてしまいます。あなたを完璧なものに仕上げるものはたくさんあるんです。あなたを海外に送り出したい、あるいは連れて行きたい……とにかく、行くべきですよ。あなたは私にとってかけがえがない人だ。私があなたに思いを抱いていることに気づいてますか?」
「ええ、でも」……リタは口ごもった……「私、こういうことや、あなたのことが心配なんです」口が最初にクーパーウッドを魅了したあの同じすてきな形をしていた。「こういう話はしない方がいいと思うんですけど、あなたはどうなんですか? ハロルドはとても嫉妬深いし、嫉妬するでしょうね。クーパーウッド夫人はどう思うと、あなたはお考えなんですか?」
「それはよくわかりますが、今立ち止まってそれを考える必要はないでしょ? 私に話をさせてもらったところで家内に害は及びません。人生は人と人との間にあるんです、リタ。あなたと私には共通点がとてもたくさんあります。それがわかりませんか? あなたは私がこれまでに知り合った中で最高に興味深い女性なんです。全然知らなかったことを教えてくれるんですからね。それがわかりませんか? あなたには本当のことを語ってほしいですね。私を見てください。今のあなたは幸せではありませんよね? 必ずしも幸せではないでしょ?」
「そうね」リタは指で扇子をなでた。
「あなたは幸せですか?」
「かつてはそうだと思ってました。でも今はもう違うと思います」
「理由はとてもはっきりしていますね」クーパーウッドは言った。「今の場所じゃ能力が発揮しきれないほどあなたはずっと素晴らしいですよ。あなたは一人の人間であって、他人の香炉を振る付き人ではありません。ソールバーグさんは確かに面白いですが、あれであなたが幸せなはずはない。それがあなたにわからなかったことが驚きですよ」
「ええ」リタは少し疲れた感じをにじませて叫んだ。「でも多分わかっていたんですわ」
クーパーウッドが鋭い目で見ると、リタはぞくっとした。「ここでそういう話をしない方がいいと思います」リタは答えた。「あなたでしたら……」
クーパーウッドはリタの椅子の背もたれのもう少しで肩に触れそうなところに手を置いた。
「リタ」再び名前を呼んで言った。「あなたは素晴らしい女性だ!」
「ああ!」リタは息を吸い込んだ。
ある日の午後、アイリーンが最初にソールバーグ夫妻のところに立ち寄って新型二輪馬車で迎えに来たとき、クーパーウッドは一週間以上も……正確には十日……ソールバーグ夫人に再会しなかった。ハロルドはアイリーンと前に乗り、アイリーンはクーパーウッドとリタに後部座席を譲った。夫がどれだけ興味を抱いているか、アイリーンはこれっぽっちも疑わなかった……夫の態度にすっかり欺かれていた。アイリーンは、この二人でなら自分の方がいい女だ、容姿も服装もいい、だから魅力も上であると思った。この女性の気質がクーパーウッドにとってどんな魅力をもつのか、アイリーンには想像できなかった。夫はとても活発で、活動的であり、見たところロマンチックではなさそうだが、同時にその性格に(とても力強い外見の下に)奥い潜在性のロマンスと炎の成分を隠していた。
「すばらしいですね」リタの横に体を沈めながら、クーパーウッドは言った。「何てすばらしい夜なんだ! そして、バラのついたすてきな麦わら帽子といい、すてきなリネンのドレスといい。いいもんだな!」バラは赤く、ドレスは白で、ところどころに細い緑色のリボンが通してあった。リタはクーパーウッドが張り切る理由を痛感していた。クーパーウッドは、ハロルドとは大違いで、健康的で、アウトドア派で、とても有能だった。この日、ハロルドは自分が運命や人生や成功に恵まれないことで癇癪をおこしていた。
「ああ、私があなただったら文句ばかり言わないのにな」リタは手厳しく言ってやった。「もっと一生懸命働いて、当り散らすのはやめた方がいいわ」
これがもとで修羅場となり、リタは逃げ出して散歩に出ていた。リタが戻ったのとほぼ同時にアイリーンが現れた。おかげでことは収まった。
リタは気を取り直し、服を着て仲直りした。ソールバーグもそうした。見た目は笑顔で幸せそうに、ドライブが始まった。クーパーウッドが話すと、リタは満足そうにまわりを見回した。「私は素敵だし」リタは思った。「彼は私を愛している。私たちが踏み出せば、さぞかしすばらしいことになるでしょうね」しかしリタは声に出して言ったのはこうだった。「私ったら、あまりすてきじゃないわね。せっかくの日なのに……そう思いません? 服装は単純だし、おまけに今夜はあまり幸せじゃないわ」
「どうしたんですか?」クーパーウッドが元気づけるように言った。交通の騒音がみんなの声を伝わらなくしていた。クーパーウッドは、リタが直面する問題なら何でも解決したいと強く思い、親切に接して誘惑しようとその気満々で身を乗り出した。「私にできることが何かありませんか? これからジャクソンパークのパビリオンまで遠乗りして、それからディナーを済ませ、月明かりを浴びながら帰って来るんですよ。それじゃお気に召しませんか? 今は笑っていないといけないはずなんですけどね、あなたらしく……幸せそうに。私が知る限りでは、そうでない理由などないでしょう。あなたのためにあなたがしてほしいこと……できることでしたら、何でもしますよ。私にできることであなたの要望があれば何でもかないますからね。さあ何でしょう? 私がどれほどあなたのことを気にかけているかはご存知でしょ。私に任せてもらえればどんな悩みもなくなるんです」
「でも、あなたにできることではないんです……今はともかく。だって自分の問題ですもの! ええ、そうなんです。それが何だって言われても。どれもつまらないことばかりなのよ」
リタには自分にさえ距離を置けるあの味わい深い雰囲気があった。クーパーウッドはうっとりした。
「ですがリタ、あなたは私にとってつまらない人じゃありません」クーパーウッドは優しく言った。「あなたの問題だってそうですよ。それは私にとってとても大きな問題なんです。あなたは私にとって大事な人ですからね。前にも言ったでしょ。それがどのくらい本当なのかわかりませんか? あなたは不思議で複雑なんです……すばらしいんですよ。私はあなたに夢中なんです。最後にあなたに会ってから、ずっと考えてばかりいるんです。もし悩みがあるのなら、私にも分けてください。あなたは私にとってとても大きな存在なんです……私の唯一の悩みですよ。私ならあなたの人生を万全にできます。私と人生を共にしましょう。私にはあなたが必要だし、あなたには私が必要なんです」
「ええ」リタは言った。「わかってます」それから口ごもった。「全然大したことじゃないんです」リタは続けた……「ただの喧嘩です」
「原因は?」
「実は私なんです」口がすてきだった。「あなたが言うように、ずっと香炉振りなんてやっていられません」クーパーウッドの考えが刺さったのだ。「でも、もう大丈夫よ。すてきな日じゃないですか、さ・い・こ・う・よ!」
クーパーウッドはリタを見て首を振った。リタは宝物のようなものだった……それ自体は大したものではなかった。アイリーンは馬車を操るのとおしゃべりで忙しく、わき見や、聞き耳を立てるどころではなかった。関心はソールバーグに向いていて、ミシガン・アベニューを南下してひしめき合う車両が注意力を削いでいた。芽の出かかった木々や、手入れされた芝生、できたての花壇、開いた窓……春の魅惑が全開の世界……をすばやく通り過ぎる間、クーパーウッドは人生がもう一度新たなスタートを切った気分だった。もし魅力が見えたなら、光り輝くオーラのようにクーパーウッドを包んでいただろう。今夜はすばらしい夜になりそうだとソールバーグ夫人は感じた。
ディナーは公園であった。チキン・アラ・メリーランドを屋外でいただこうというもので、ワッフルとシャンパンが添えられていた。アイリーンは自分の魅力に溺れたソールバーグの陽気さに気をよくして、冗談を言ったり、乾杯したり、笑ったり、芝生を散歩したりして楽しい時間を過ごしていた。ソールバーグは多くの男性と同じように、愚かで話にもならない方法でアイリーンに言い寄っていた。しかしアイリーンは「馬鹿な子」とか「しっ」と言って楽しそうに追い払っていた。アイリーンは自分にやましいところがなかったので、後でクーパーウッドに、彼がいかに感情的だったか、自分がどうやって彼を笑い飛ばさなくてはならなかったか、を隠さず話した。クーパーウッドはアイリーンが誠実なのを確信していたので、すべてを目くじら立てずに受け止めた。ソールバーグは愚か者であり、手近なおめでたい便利屋だった。「悪い奴じゃない」クーパーウッドは言った。「むしろ気に入っている。だが、大したバイオリニストではないと思う」
ディナーが済んでから、湖畔に沿って、木々に閉ざされた大草原のひらけた一画を抜けて馬車を走らせた。月が澄んだ空で輝き、銀の光で野を埋めて湖をおおった。ソールバーグ夫人はクーパーウッドというウィルスを植え付けられ、致命的な効果が出始めていた。ひとたび感情が揺さぶられると、どんなに無気力に見えようが、活気づくのが夫人の気質の傾向だった。本質的には活動的、情熱的だった。クーパーウッドは夫人の心の中で、彼という力として大きくなり始めていた。こういう男性に愛されたらすばらしいだろう。二人の間には熱く求め合う生き生きとした人生がうまれるだろう。それは暗がりで燃え盛るランプのように、夫人を怖がらせもすれば、引き寄せもした。夫人は自分を抑えようとして、芸術や人、パリやイタリアの話をした。そしてクーパーウッドは同じように緊張して受け応えた。しかしその間中、夫人の手をなで、一度などは木陰で髪に手をあてて振り向かせて、頬にそっと口づけした。この未知の嵐の中で、夫人は赤くなり、震え、青ざめたが、自分を取り戻した。すばらしかった……まさに天国だった。古い人生が明らかにこなごなになりそうだった。
「いいかい」クーパーウッドは用心深く言った。「明日の三時にラッシュ・ストリートの橋を渡ったところで会ってくれませんか? すぐにひろいます。これっぽっちも待ったりしませんよ」
考え込み、夢にひたり、相手の未知の空想の世界に催眠術でもかけられたかのように、リタは黙り込んだ。
「いいでしょ?」クーパーウッドはしきりに尋ねた。
「待って」リタは穏やかに言った。「考えさせて。私にできるかしら?」
リタは黙り込んだ。
「いいわ」しばらくして深呼吸しながらリタは言った。「いいわ」……まるで気持ちを整理したかのようだった。
「私のいとしい人」月明かりの中で相手の横顔を見ながら、腕に手をあてて、クーパーウッドはささやいた。
「でも、私、すごいことしているのね」リタは少し息を切らし、少し青くなって、穏やかに答えた。




