第2話 筋肉、両親との別れっ!
異世界に生まれ落ちて3ヶ月が過ぎた。
私の父と母は当初、男の子だったら『マックス』、女の子だったら『マリー』と名付けるつもりであったようだが、赤子としては規格外の筋肉量を持つ私の肉体を見て急きょ『マッスル』と変更することにしたそうだ。
マッスル・ジョー・アームストロング。
それがこの世界で授かった私の名である。
なんとも素晴らしい名ではないか。
前世で私がファンだったアメリカ合衆国のロックバンドのボーカルと、だいたい三分の二ぐらい名前が被っている。
懐かしい。前世での私は、よく彼の歌声を聴きながら、アームをストロングしたものだ。
なればこそ、こう思うのだ。
『この名に恥じぬよう日々トレーニングを重ね、筋肉を鍛え上げねばなるまい』と。
そう決意した私が、睡眠と授乳以外の時間を全てトレーニングに費やすのは当然のことである。
手始めに揺りかごの手すりに手をかけディップスを行い大胸筋を鍛え、 手すりからぶら下がりチンニングをし広背筋を鍛える。
無論、これだけではない。
倒立した状態からハンドスタンドプッシュアップ。
上腕二頭筋に負荷をかけるナロープッシュアップやリバースプッシュアップ。
腹筋を痛めつけるストレートレッグクランチをはじめとしたシットアップやハンギングレッグレイズなど、数え上げればきりがない。
最初のころはトレーニングを始めようとするたびに慌てた顔をした乳母が止めに入ってきていたものだが、私はその手を振り払いトレーニングに没頭した。
マッスルの名に、恥じぬ男子となるために。
異世界に生を受け、ひと月ほど経ったころのことだ。
私の面倒をみていた乳母が、とつぜん父と母に仕事を辞めさせてくれるよう泣きながら申し出ていた。
なんでも、「もうこれ以上私の面倒をみてられない」という理由から辞めたいのだそうだ。
考えてみれば当然のことである。
母殿の胎内にいる時から鍛え続けていた尿道括約筋と肛門括約筋のおかげで、私は決して粗相をすることがなかったし、尿意や便意を催した時にも揺りかごからネックスプリングの要領で飛び降り、誰の手も借りずにこっそりと庭先で用を済ましてきた。
もちろん、夜泣きなど一度たりともしたことがない。
そんな私を見た乳母が、
『マッスルの面倒をみるのに己の手を必要としていない』
と感じるのも当然のことである。
こうして生後一か月の私は、去って行く乳母を両親と共に見送ったのだった。
それからの私は、授乳の時以外は誰の助けも借りることなく、ただ黙々とトレーニングに励むことができるようになったのだ。
そして生後3ヶ月目の今日、父と母はそろそろ首が据わってきた私を小高い丘がある高原へと連れてきていた。
いまさらではあるが、母の名はナンシー。
父の名はシド・ビー・シャッス・アームストロングという。
ふたりともハリウッドムービーに出てくるような美形であり、そのふたりの子として生まれた私はどちらかというと父似であるらしかった。『らしかった』というのは、私が自分の顔を一度も見たことがないからだ。
父シドが敷物を拡げれば、その上に母ナンシーがお手製の弁当を広げていく。
そう。今日はピクニックなのだ。
近くでは、父の愛馬が嬉しそうに草を食んでいるのが見える。
転生したこの世界の名は『オリンビア』というそうだ。
異世界オリンビア。それが、いま私が生きている世界の名であった。
前世でボディビル大会のオリンビアを目指していた私にとっては、なんとも不思議な巡りあわせというほかない。
オリンビアの文明レベルはネット小説界隈でおなじみのいわゆる中世ヨーロッパ程度であり、移動手段といえば馬が主流であるようだった。
今日は愛馬に跨った父の後ろに私を抱いた( かなり重そうではあった)母が跨り、この場所までやってきたのだ。
遥か遠くには森があり、そこから見える川がこちらの方まで続いている。
どうやらここは父と母のお気に入りの場所でもあるらしい。
見れば、父と母は楽しそうに談笑をしているかと思えば、だんだんといちゃつき始めたではないか。
子の前でなんとはしたない、などとは思うまい。
夫婦が仲睦まじいのは良いことではないか。
そんなのは当たり前のことである。
いちゃこらちゅっちゅしている両親から目を逸らした私は、かわりに空へと視線を投げた。
澄み切った青空を鷹のような大きな鳥が風に乗って飛んでいるのが見える。
私はボディビルに出会わなければ、きっと鷹匠を目指していたことだろう。
私は生き物のなかで筋肉の次に鷹が好きなのだ。
鋭い眼光を放つ鷹を自分の肩に乗せる。
その勇ましい姿を想像しただけで、私の僧帽筋が打ち震えてきてしまうほどに。
それぐらい私は鷹が好きなのだった。
鷹は賢く、そして強い生き物である。
突如として空から襲いかかっては、鋭い爪でもって自身の倍以上もある獲物を掴み、天高く舞い上がることもできる空の狩人なのだ。
であるからして、いつの間にやら背後から襲いかかってきた鷹が私の両肩を掴み、そのまま私を空高く連れ去ってしまうのも当然のことである。
父と母が私から目を離しているこの好機を逃すほど鷹は愚かではない。
そんなのは当たり前のことである。
眼下には、連れ去られる私にいまだに気づかずいちゃつき続けている両親の姿があった。