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『薫’84』  作者: 秋月あめ
1/1

~風薫る春の日に~


1.風薫る春の日に


 その年は桜の開花が遅く、1984年4月6日の入学式後、10日になっても西高第一グラウンドを取り囲むようにしている桜の木々は、ピンク色の花弁を抱き続け、浦和市木崎の皇山の台地は桜色の息吹の中にあった。何やら、甘い香りでもしてきそうな雰囲気で、あたしはその甘いピンク色に噎せ返りそうになった。

 突然、松田聖子のRockn' Rougeが大音量で流れ始めた。あたし達1年生全員は、訳も分からず校庭の校長などが普段訓示に使用する演台へ向かって前進させられ、クラスごとに整列させられた。

 あたしは松田聖子が嫌いである。中学校3年時の卒業直前にあたしを捨て去ったあいつが、松田聖子の大ファンだったからである。でも桜の舞い散る中キャッチーなこの曲を聴いていると、華やいだ気持ちになるのも確かである。

 なんて感傷的になっていると、1年生の集団の後ろに上級生が集まりだした。へらへらしたちゃらい感じの男子の先輩が目に止まった。なんだか嫌な感じだ。女の先輩は私服の学校だと言うのに制服を着た人が多い。多分、毎朝私服を選んで着るよりも、制服の方が楽なんだろうと推測した。あの女の先輩が着ているのは、浦和市立のセーラー服だ。あそこの制服は可愛いと評判だからだ。

 あたしが西高に入学したのは、あいつが西高志望だと知って、猛勉強した結果である。成績が悪くとても西高合格は望めなかったあたしは睡眠時間を削って猛勉強し、やっと晴れてあいつと同じ西高生になったというのに、心は厳冬の寒さの中にあった。あたしは中学校の卒業式の直前に、あいつに振られてしまったのだった。卒業式直前のある朝学校に来て、缶の筆箱を空けると『僕は君のことが好きじゃない。僕のことは諦めてください。戸田』と書いた紙きれが入っていたのだ。あたしはあの時衝撃的なショックを受けた。あたしとあいつは中学校の3年間同じクラスだった。そして殆どの学期を通して隣の席だった。あたしが裏で糸を引いて席替えの度にくじを友達と取り替えて貰って、あいつの隣の席を確保していたのだ。クラス全体の雰囲気だって、徐々にあいつとあたしはカップルだって認め始めていたのに。中学3年間努力して、沢山のクラスメートに協力をしてもらって、あいつの外堀を埋めて行ったというのに、卒業式直前になってあいつはあたしを捨てやがった。もう同じ西高に進学するのが決まっていたというのに。しかも西高に入ってみれば再度同じクラスの1年6組であった。これから少なくとも1年間は、毎日あいつの顔を見なければならない。あいつの顔を見る度にあたしの心は血を流す。

 あたしは西高の入学式の日に心に誓った。“あいつに復讐してやろう”と。あたしは綺麗に、カワイク、素敵になってやるんだ。そしてあたしを振ったことを、あいつにいつか後悔させてやるんだ。

 そんな怨念のようなことを考えているうちに、上級生のお姉さんがあたしの胸に花のブローチをつけてくれた。そう今日は新入生歓迎会だったのだ。

 生徒会主催のイベントと言うこともありそんなに堅苦しさもなく寛いだ気持ちになったところで、あいつが視界に入ってきた。何が悲しくて振られた相手に毎日会わなきゃいけないんだろうと暗澹たる気持ちに包まれ、あたしは目を逸らした。西高には母校の中学校から、あいつとあたしの二人しか入学していない。

あたしは入学式後のオリエンテーションで仲良くなった、中浦香織という女の子と話し出した。

「ねえ薫、今夜はクラスで新入生打ち上げコンパやるんだって」

「香織ちゃん、先輩も来るの?」

「ううん、新入生だけで大宮の南銀の“酔い処”っていう居酒屋でやるんだって」

「制服じゃ不味いわよね」

「一度家に帰って私服に着替えてから、大宮駅の豆の木に7時に集合だって」

「ふ~ん、お酒飲むのかな?」

「当り前じゃない!西高生の醍醐味よ。ところでさ、同じクラスの戸田君ってちょっと可愛いいじゃない?薫、同じ中学校だったんでしょう?わたしに紹介してくれないかなあ?」

「同じ中学校だったと言っても、あんまり仲良くなかったの。中学校3年間同じクラスで、席もずっと隣だったけど。だから今夜の新入生歓迎コンパの時、自力で頑張って」あたしは心の中で失敗しろと呪いながら答えた。

「何だ、残念。ところで薫も戸田君も東川口出身でしょう?」

「そうよ」

「今日3人で一緒に帰らない?わたし浦和なの」

「別に構わないけど、戸田君がなんて言うかしら?」

「わたしの方から後で誘ってみるわ」香織ちゃんは言って、あたしの腕を引っ張って体育館の方へ向かった。「上級生とのご対面の後は、体育館で劇とかライブがあるのよ」

 上級生の演劇やライブはなかなかレベルの高いものだった。あたしは思わずのめり込んで、演劇では大きな拍手を、ライブではヘッドバンキングをしていた。見世物の最後に、3年生有志で当時社会現象を起こしていたマイケル・ジャクソンのThrillerが本物さながらに踊られた。高校生っていうのは、レベルが高いなあとそれを見てあたしは感嘆した。

 新入生歓迎会の後はホームルームに戻り席決めがあった。くじを引くと、なんと裏で糸も引いてなければ、協力者もいないのに、あいつの隣の席に決まった。あたしは暗澹たる気持ちになった。あいつは「よお」とか言って「また隣の席だな」とか言って笑っているけど、目が笑っていないような気がした。その手で、あたしを捨てるための手紙を書いて、中学の卒業式直前に、あたしの心臓が張裂けるような爆弾を、筆箱に忍ばせたのだ。同じ西高で同じクラスになり、しかも席が隣になったので、あいつは多少なりともの融和を持ちかけているようだったが、あたしの恨みは根深い。あたしはプイっと横を向いてあいつを無視した。あいつの当惑した様子が伝わって来て「ざまあ見ろ、今頃あたしを捨てたことを後悔したってもう遅いんだよ」と心の中で詰った。

 席が決まった頃になって、担任の国語を教える柴崎先生がやってきて言った。

「席は決まったようだな。次は早速だが今年の夏休みに行く志賀高原の林間学校実行委員を決めてもらいたい」

「先生、東川口出身で同じ中学だった円山さんと戸田君は、座席も3年間殆ど隣だったそうです。だから息も合うと思うので推薦します」香織ちゃんが余計なことを提案した。

「おおそうか。じゃあ戸田と円山に頼むかな。みんな、依存はないか?」

「ありません」どうでもよさそうな声が男子数名から上がった。

「じゃあ決定だな」柴崎先生は満足そうに決定を下した。

「先生、ちょっと強引じゃありませんか?」あたしは憮然とした。

「みんなの推薦があるんだから、頼むからやってくれ。戸田も頼むから。戸田には依存はないよな?」

「はい、ありません」戸田君は意外にもあっさり了承した。あたしを捨てたことさえ忘れてしまったのだろうかと悲しくなった。戸田君にとって、そんなにどうでもいい女だったのだろうか。


  ○


「香織ちゃん、酷いじゃないのよ!」あたしは戸田君と自分を林間学校実行委員に推薦した香織ちゃんを非難した。

「え?わたし何か悪いことでも言った?」事情を全く知らない香織ちゃんは無邪気に返事を返してきた。

「悪いも何も、あたしを林間学校の実行委員に推薦したじゃないのよ!」

「だって戸田君とは仲いいんでしょう?ずっと同じクラスだったんだし、席も隣だったんだし。普通ツーカーになるんじゃない?」罪のない言い方で香織ちゃんが返してきた。

「仲いいとは一言も言っていないわ。逆よ。戸田君とはのっぴきならない事情があるの」あたしは彼にぼろ雑巾のように捨てられたことを匂わせた。

「どんな事情?」香織ちゃんは呑気に訊いた。

「そんな簡単には説明できない事情よ。今夜の飲み会で話すわ」香織ちゃんにはきちんと理由を説明しておかないと、今後も何か困ったことをやらされかねないと思い、戸田君に振られたことを話しておこうと思った。

「わかったわ。でも林間学校実行委員の件はもう決定事項よ。ちゃんと全うしなさいね」何も知らない香織ちゃんが鬼のように思えた。

「分かっているわよ。でも香織ちゃんと友達づき合いしていく上で、話しとかなきゃいけないことだと思うの」このままでは友達のままではいられないと思った。

「分かったわ、今夜薫の話聞く」香織ちゃんは未だ屈託のない顔をして答えた。

 ホームルームおよびオリエンテーションが終わると、1年6組の生徒の中で私服を着ていないものは、急いで家に着替えに帰った。あたしと香織ちゃんもその中に入っていた。もちろんあいつも。

「もう、前日には告知しておいて欲しいものだわ」あたしは愚痴った。

「今日急に決まったらしいわよ」香織ちゃんは説明した。

「そうなんだ。困ったものね」どんな服を着て行こうと迷いながら、あたしは答えた。

 香織ちゃんがうっかり戸田君を一緒に帰ろうと誘ったため、西高での生活を説明する上級生によるオリエンテーション後、あたし、香織ちゃん、戸田君の3人で家路に着いた。あたしは気不味く思い、戸田君と何を話したら良いかも分からず、黙って西高通りを与野駅へ向かって歩いた。香織ちゃんもあたしがさわりだけを簡単に説明したため、気不味そうである。あたしを捨てた筈の戸田君だけは、上機嫌な顔をして歩いている。いったいどういうことだろう?

「円山は、西高で何部に入るんだ?」

「まだ決めていないわ。中学の頃みたく、帰宅部かもしれない」

「新規一転、何かやったほうがいいんじゃないか?」

「考えてみる」

「中浦さんは、何かやらないの?」

「わたしも決めてないわ」

「何だ二人とも寂しいなあ。せっかく西高に入ったんだから、何か新しいこと始めればいいのに」

「急にそんなこと言われても困るわ」香織ちゃんは当惑した。

「俺はまたハンドボール部に入るんだよ。というかもう春休み中から西高ハンドボール部の練習に参加しているけどな。西高ハンドボール部のレベルはすごく高いよ、期待通り。いや予想していた以上のものがあるよ。入る前は1年生で即レギュラーかと思っていたんだけど、レギュラーへの道のりは遠そうだ」

「今日は随分雄弁ね」あたしは皮肉った。「喋りが苦手な戸田君が、こんなに話すのを久しぶりに聞いたわよ」

「そうか?俺そんなに喋らなかったか?」

「そうよ。中学の時は何時もボーっとしていて、何を考えているんだかさっぱり分からなかったわ」

「はは、そんな風に見えていたのか」

「今でもそうよ」

「俺はものすごく単純だよ」

「どう単純なの?」分かり切ったことだがあたしは一応訊いてみた。

「ハンドボール馬鹿」

「それは中学の時からあたし、知っていたけど」

「それが分かっているのなら、俺のことをちゃんと理解していると思っていいよ」

「戸田君ってそんな風なんだ」香織ちゃんがその単純さに呆れて口を挟んだ。

 何だか気不味くなると思っていたのに、話しが結構弾んだ。中学の時の思い出話や、戸田君の西高に対する憧れなどを交えて話していると、あっという間に東川口駅に着いた。駅からも一緒に話しながら歩いた。時間が流れるのが早く直ぐにあたしの家に着いた。あたしをぼろ雑巾のようにたった一枚の紙きれで捨てたはずの戸田君は、後ろ暗さもなく「じゃあ、後で大宮駅の豆の木で会おう」と言い残し、あたしの家を後にした。狐につままれたような気がした。

 自宅の2階の玄関から中に入り、3階の自室に戻り、急いで春服を選び、一番お気に入りの紺の水玉のワンピースにベージュのカーディガンを羽織り、軽くヒールの着いた麻のサンダルを履き、ちょっと迷ったけどオードトワレをつけて、大宮駅へ向かった。

「わあ、円山さんお洒落。それになんか良い匂いがする」香織ちゃんが鼻をクンクンさせて言った。

「シャンプーよ」

「家でシャンプーしてきたの?」

「朝のシャンプーの残り香よ」

「だって今日学校で、こんなに良い匂いしなかったわよ」

「これはオードトワレをつけてき来たでしょう?」鹿島未央子という同じクラスの、入学早々美術部に入ったという、眼鏡をかけた良く見ると可愛い女子が鼻をクンクンさせながら訊いてきた。

「さては円山さん、男子どもを誘惑するつもりだな」香織ちゃんがあたしをからかった。

「そんなつもりはないわよ。ちょっとしたお洒落のつもりでつけてきただけよ」

「高一の何も知らない男子にそんな香り、嗅がせたら、みんないちころよ」普段は目立たない印象だが、実はちょっとませた感じの鹿島さんはほくそ笑んだ。

 男子もそろそろ集まり始めた。

「なんかいい匂いがするぞ」軽音楽部の田村君が言い「誰だ、誰だ」と探し始めた。そしてあたしを見つけ「あ、円山さん香水つけている!」と大きな声で叫んだ。

「もう高校生だもの、香水ぐらいつけるわよ」香織ちゃんがフォローしてくれた。「それよりも男子たちはさっきから鼻をクンクンさせて、ちょっとみっともないわよ」そしてあたりを見まわし「みんな集まったようね。遅れる人達には開催場所を言ってあるから、そろそろ“酔い処”に行きましょうか」と言い、みんなの先頭に立ってずんずん歩き始めた。

 私服を着ているとは言え、この明らかに高校生だと分かる集団を、果たして店側は快く迎え入れてくれた。大きめの宴会場に通されたのだが、45人近い参加者のため、部屋は熱気ムンムンであった。

 直ぐに安そうな宴会用の料理が運ばれてきて、クラスのみんなは色とりどりで、様々な味のチューハイを注文し始めた。

「あたし、お酒飲むのって初めて」西高生になったなあという実感を込めて言った。

「わたしもよ、なんだかワクワクしちゃう」香織ちゃんが答えた。恐らくクラスのみんなもお酒を飲むのは初めてだったと思う。

「1年6組にカンパイ!」誰かが叫んだ。その叫び声とともにみんなが一気に酒を飲み始めた。そして料理に箸をつけ始めた。

 あたしが頼んだのはオレンジ杯だったんだけど、なんだかジュースのような味がして、言われなければお酒が入っているとは気づかないぐらい、ジュースそのままの味がした。それからグレープ杯、カルピス杯とあたしはどんどん飲んで行った。なんだか目の前がくらくらして、あけっぴろげな気持ちになって行くのが分かった。

 香織ちゃんは控えめに1杯目のジンジャーエール杯を、ちびりちびりと飲んでいた。

「もっと飲みなさいよ。あたしなんてもう3杯目よ」

「なんだかわたし、ちょっと飲んだだけで頭がくらくらしちゃって」

「そんなもん、もっと飲めば治るわよ」あたしは適当な酔いざまし方を述べた。

「そうかしら?」香織ちゃんは懐疑的だった。

 ふと目を転じると戸田君が女の子と楽しそうに話している。あたしは嫉妬と妬みと恨みの感情が沸々と湧いてきた。

「ねえ、香織ちゃん、あたしの話聞く準備ある?」

「あるわよ」香織ちゃんは2杯目のジンジャーエール杯を注文しながら答えた。香織ちゃんはお酒に弱いらしく1杯で既に酔っているようだった。

 あたしは中学3年間いかにあいつを懐柔するために策を練ったか、隣の席を確保するためにどれだけの友達に協力してもらったかを話した。もちろんあいつへの強烈な恋心も。そして筆箱に入れられた紙切れ1枚で簡単に捨てられてしまったことも。

「酷い話ね」香織ちゃんは感想を述べ「でもそれって本当に戸田君が書いたものなのかしら?その筆箱の中のお手紙」やや疑問に思いつつも香織ちゃんは「分かった。わたし復讐に協力してあげる」と答えた。しかし復讐と言っても具体的な策があるわけではなかった。

「う~ん、閃いた!わたし薫を思いっきり綺麗にしてあげる。今でも十分過ぎるぐらい綺麗だけど。超ナイスバディだし。でももっともっと綺麗に、道行く男の誰しもが振り返るぐらいにしてあげる」

「まずは、敵を知らなくてはいけないわね」と思案顔で香織ちゃんは呟き「わたしちょっと戸田君の隣へ行って探ってくる」と言い残し立ち去ってしまった。

 残されたあたしは、亀井君というこれまたハンドボール部に入部したという男の子と喋り始めた。

「西高のハンドボール部ってそんなに強いの?」

「ああ、県下でもベスト4に入るぐらいだから、インターハイを狙える位置にあるよ」

「戸田君って上手なの?」

「う~ん、中学校からのハンドボール経験者が俺と戸田の二人しかいないからね。貴重な戦力ではあるね」

「戸田君ってゴールキーパーなんでしょう?」

「いや、今はフィールドプレーヤーだよ。ポストのポジションをやろうとしている」

「そう」あたしが亀井君に答えたところで、香織ちゃんが戻ってきた。

「ちょっと、戸田君ってすごく可愛いじゃない?目がまん丸でくりくりしていて母性本能くすぐられるわ。今日一緒に帰った時もちょっと思ったんだけど」

「ちょっとミイラ取りがミイラになってどうすんのよ」

「えへへ、わたしハンドボール部のマネージャーになろうかしら」香織ちゃんは笑顔になり「マネージャーって楽しいかしら?」とあたしに訊いて来た。

「詰らないに決まっているでしょう!多分、飲み物作ったり、洗濯したり、裏方の仕事ばかりだと思うわ」

「そっかあ、いい情報収集になればと思ったんだけどなあ」

「嘘吐き。ただ戸田君にほだされただけでしょう?」

「へへへ」

「それで、情報は何かとれたの?」

「ただ戸田君の隣でポーっとしながらお酒を飲んでいたの。楽しかったわあ」

「駄目じゃん、何の役にも立っていないわ」

「戸田君のまわり、女の子が取り囲んでいたわよ。戸田君既にして人気者ね。わたしもファンになっちゃったかも」

「洗脳されているんじゃないわよ。目を覚まして」

「分かったわ。でも薫が大好物になるのも分かるような気がしたわ」


  ○


 1次会は2時間ほどで終わり、クラスのみんなは2次会へと流れて行った。

「円山と中浦も行くだろう?」亀井君に声をかけられた。

「ええ、もちろん行くわ」あたしはさも当たり前だと言う顔をして答えた。

 2次会の席はなんと戸田君の隣になってしまった。店が狭く、後から来たクラスメート達に押されているうちに、早めに店に入っていたあたしと香織ちゃんと戸田君は偶然そういう席の並びになってしまったのであった。あたしの正面に香織ちゃんが座る格好になった。ドギマギして何にも喋ることができなかった。今でもあたしを捨てた戸田君のことが大好きなのだということが、この時ひしひしと再認識させられた。

「戸田君、ハンドボールって楽しい?」香織ちゃんが天真爛漫に声をかけた。

「楽しいって言うか、俺の人生の目標だからね。今日一緒に帰った時も、ちょっと話したけど。今日の帰り道では言わなかったけど、インターハイに出るのが俺の夢なんだ」

「なんだか格好イイ」香織ちゃんが戸田君への憧憬の目を持って言った。

「西高もハンドボールが強いから選んだ学校なんだ」あたしはこの情報は中学の頃から掴んでいた。だからあたしは相当無理して、西高に入ったのだった。

「戸田と円山は同じ中学なんだろう?クラスも3年間一緒だったらしいじゃないか」無理やり香織ちゃんの隣に席を占めた亀井君が不躾に訊いてきた。

「ああ、そうだよ」戸田君が答えた。「席もずっと隣だった」

「それにしてはあんまり仲良さそうじゃないな」こちらも何にも知らない亀井君が訊いてきた。

「話す機会があんまりなかったから」あたしは嘘を吐いた。

「これで4年間連続同じクラスだな」亀井君が感心した。

「円山、飲んでいるか?」いきなり戸田君があたしに声をかけてきた。

「の、飲んでいるわよ。もう4杯目よ」

「円山は、何部に入るんだ?」

「まだ決めてないわよ。今日の帰り道、言ったでしょ?忘れたの?酔っているの?」

「ちょっと酔っているかもな。そう言えばそう言っていたね」

「だけど戸田君に今日言われて、何か新しいことを始めてもいいかなって、ちょっと思い始めたわ」

「うん、それがいい」

 あたしは5杯目のチューハイを注文した。酔って来て、よろよろしていると、加藤と言う胸の大きな可愛い女の子が、あたしの反対側から狭い店内を無理やりかき分けてやってきて、戸田君にひっつき、何か語りかけ始めた。なんだかむかつく。あたしが敵意丸出しの視線でその子を睨むと、その子も同じぐらいの敵意であたしを睨み返して来た。

 あたしは小声で香織ちゃんに話しかけた。

「戸田君の隣にいる女の子、何なのかしら?」

「きっと戸田君のことが気に入ったのよ」香織ちゃんはこともなげに答え「あなたのことをライバルだと思っているのよ」とつけ加えた。

 それを聞いてあたしは泣けてきた。ライバルどころか、あたしは戸田君に既に振られているのだ。決着はもうついている。

 加藤さんは戸田君の腕に自分の胸を押しつけるようにして、しなだれかかっていた。戸田君も悪い気はしていないように見えた。ちっ、勝手にカップルにでも何にでもなればいい。あたしは苛々し、ちょっと悪そうな男の子が持っていたマルボロメンソールライトを1本貰い、火を点け、ゲフンゲフンしながら吸った。

 その夜は慣れないお酒と煙草のせいもあり、あたしはかなり悪酔いをした。仕舞には女子トイレを占領して戻してしまった。散々な状態になりつつも、なんとか京浜東北線の武蔵野線に接続する最終電車に乗ることができた。気づくと加藤さんはいなくなっており、再びあたしと香織ちゃんと戸田君の3人だけになっていた。あたしはお酒で朦朧とした意識の中でも、気不味いと思った。香織ちゃんが浦和駅で降りた後は、戸田君と二人きりになってしまった。今日の昼東川口へ一旦戻る時は、戸田君が思いの外雄弁で、時間を忘れることができたのに。

「円山、大丈夫か?飲み過ぎだぞ」

「大きなお世話よ」あたしはつんとして答えた。「加藤さんて言う女の子とイイ感じだったじゃないのよ?」

「別にあれは向こうが勝手にひっついて来ただけだよ」

「なかなか可愛い子だったじゃないの?」

「あんまり好みじゃないな」

「随分と理想が高いのね」

「別に。俺は兎に角ハンドボール頑張んなきゃいけないから、女の子どころじゃないんだよ」

「レギュラーになれそうなの?」

「レベルの高い先輩たちが沢山いるからね、3年生ぐらいにならなきゃ無理だろうな」

「中学の時のハンドボール部じゃ、あんなに威張り散らしていたのに、随分と弱気になったものね」

「また繰り返しになるけど、西高は兎に角レベルが高いんだよ」

「あら、亀井君はまだ練習試合とかだけど、1年生から試合に出ているって言っていたわよ」

「出ているって言ったって、格下相手の勝っている練習試合だし、あいつは中学時代、県で優勝を争うような強いチームにいたからな」

「情けないわね。しっかりしなさいよ」とその瞬間、あたしはまた嘔吐しそうになった。「戸田君、駄目あたし、南浦和駅の女子トイレに寄る。戻しそう」

「戻すって言ったって、この電車最終電車だよ。女子トイレに籠っていたら、帰れなくなっちゃうよ」

「大丈夫。何処かのファミレスで朝まで時間潰すから」

「女の子が一人で?危ないよ。それに明日も学校あるんだよ?」

「ファミレスで寝るから大丈夫よ」

「そんなこと言ったって」

 あたしと戸田君は、東川口駅なので、武蔵野線を使わなきゃいけない。南浦和駅のトイレに立て籠もって、あたしが便器とお友達になっている間に、最終の武蔵野線は出発してしまうだろうことは明白だった。

「俺もつき合うよ」

「いいわよ。戸田君は帰って」

「一応、中学の時は3年間同じクラスだったし、ずっと席も隣だったからな。見捨てる訳には行かないよ」あたしを捨てた癖にと心の中で反論した。

 南浦和駅を降りると、あたしは女子トイレに駆け込んだ。吐くものを吐いても、吐き気は止まらず、あたしは胃液を吐き続けた。胃が捩れるように収縮し、あたしは最悪の状態になった。

 終電が全て発車し、駅が閉鎖されようとしているのに、あたしが女子トイレから出て来ないものだから、戸田君は心配し、駅員さんを連れて女子トイレに入って来た。

「円山、大丈夫か?」

「あともう少し待って。もうすぐ良くなると思うから」

「お客さん、困るなあ。もう駅閉めなきゃいけないんですよ」

「すいません」戸田君は平謝りだった。

 それから30分程してようやくあたしが出て来ると、戸田君は吃驚した。「大丈夫か、円山?顔が真っ青だぞ」

「大丈夫よ。それより何か飲むものでもない?」

「そんな呑気なこと言っていられる状況じゃないよ。駅をもう閉鎖するって言って、駅員さんカンカンに怒っているんだから」

「ごめんなさい。分かったわ、駅出ましょう」

「おいお前、ふらふらだぞ。俺が肩を貸してやるよ」

 あたしは戸田君の肩を借りて、何とか駅を出て、歩いて10分程のところにあるすかいらーくに辿り着くことができた。

「いらっしゃいませ、お二人様ですね。あちらの席へどうぞ」

「コーヒー」まだ全然回復していないあたしが、絞り出すように注文した。

「すいません、ホットコーヒー二つ下さい」戸田君がフォローしてくれた。

「戸田君、帰ってよかったのに」

「中学3年間のクラスメート、現クラスメートとして、放っておける訳がないだろう」

「お水とおしぼりをお持ちいたしました」ウエイトレスがやってきた。

 あたしは水を一気飲みして「お水お代り」と再注文した。しばらくしてウエイトレスがコーヒーとお水のお代わりを持って来たので、あたしはまた水を一気飲みして、水のお代わりをまた頼んだ。

「おい円山大丈夫か?水沢山飲めよ」戸田君は何故か妙に優しかった。捨てた女に対する態度とは思えなかった。

「ぼろ雑巾のように捨てた女に対して、随分と優しくするのね」あたしは皮肉交じりで核心をついた。

「捨てたって何のこと?さっぱり分からない。俺は何にもしていないよ」戸田君は訳が分からないという表情をして答えた。酔っ払って、あたしを捨てたことすら忘れてしまったのだろうかと、再度悲しく思った?あたしはそんなにどうでもいい存在だったのだろうか?

「卒業式間近あたしの筆箱に手紙入れたでしょう?」

「はあ?そんなことした覚え全くないけど?」

「え!?それどういう意味?」今までのあたしの怨念の前提が崩れさる音をあたしはがらがらと聞いた。

「こっちが訊きたいよ」

「なんだかあたし頭が混乱して来た」コーヒーをごくりと飲み「じゃあ、誰があの手紙を入れたのかしら?」と呟いた。

「どんな手紙が筆箱の中に入っていたの?」

「内緒よ」

「気になるなあ」戸田君もコーヒーを啜り「そう言えばお前と中学時、ずっと隣の席だったよな」と思いだすように言った。「席替え何度してもいつも隣だったな。不思議だ」

 あたしは3年間連続同じクラスだったのは偶然だけど、ずっと席が隣だったのは裏で糸を引いていたからよと心の中で呟いた。

「おい、もう午前2時だぞ。少し眠らなくていいのか?」

「戸田君こそ」あたしは自分の戸田君への声色が、怒りから恋情へ変っているのに気づき、吃驚した。

「俺は短い睡眠でもやって行ける」

「あたしも高校受験の時、2~3時間睡眠で頑張ったから大丈夫」そして戸田君と同じ高校になりたかったからねと声を出さずに呟いた。「でも普段は8時間以上は眠るけどね」

「お前よくあの成績で西高受かったよな」

「うん、並外れて頑張ったから」

「何で西高を志望したんだ?」

「私服の学校で、リベラルなところに憧れたの」戸田君に憧憬していたのよと心の声が叫んだ。

「そうかあ、俺はハンドボール部が強いところに憧れたんだけどな」

「昨日から何回も聞いているわそれ。戸田君も酔いがまだ冷めないようね。でもあたし達って、よっぽど縁があるのね。西高でも同じクラスになるなんて。しかもまた隣の席」あたしの気持ちに、気づかないのかしらこのぼけナスがとあたしは咎めた。

「全くな」

「ねえ、戸田君って好きな人いるの?」

「いたけどもう諦めた」

「なんで諦めたの?」あたしは吃驚して訊いた。中学時代、友達を使って戸田君情報を丹念に集めていたのに、この話は初耳だ。あたしは、その戸田君が好きだったという人に猛烈な焼き餅を焼き始めた。

「俺のこと、見ていないってことが分かったからね」

「同じ中学の人?」

「そう」

「あたしの知っている人?」

「多分ね」

 戸田君は、中学時代、誰ともつきあったことはないはずだ。これはあたしが中学のハンドボール部の工作員から得た情報だから、確かな情報だ。あたしは、ハンドボール部、同じクラス、戸田君の交友関係それぞれに工作員を忍ばせておいたのだ。そして戸田君情報をいつも微に入り細に入るまで収集していたのだ。だがその情報網の細かい網の目を通り抜けて、戸田君は好きな人を作っていたのだ。今まで戸田君に近づく女あらば、工作員を使って妨害し、クラスの世論もあたしと戸田君がカップルとなるように操作し、戸田君を籠絡すべく万全の体勢を取ってきたのだ。それなのに、あの紙切れ一枚の筆箱に忍ばされた手紙のために、あたしの中学3年間の想いと努力は木っ端微塵に砕かれたのであった。あたしは筆箱の中の手紙を発見したその夜、家に帰っていつまでもいつまでも大泣きした。大粒の涙だった。本当に傷ついた。それはあたしの夢が砕かれた瞬間であり、これからの西高での暗澹たる3年間の始まりでもあったのだ。

 そのあたしの胸を切り裂いた手紙を忍ばせたことを、戸田君はあっさりと否定した。ではいったい誰が書いたのだろう?戸田君を好きだったあたし以外の女の子?男子達の悪質な悪戯?

 そんなことを考えつつボーっとしていると、戸田君が「おい、何考えているんだよ?」と話しかけて来た。

「何でもないわよ。明日もハンドボール部の練習あるの?」

「ああ、朝練からあるよ」

「朝練って何時から?」

「朝8時から」

「早いわね」

「中学の時も朝練はあったから」

 ファミレスの窓の外は白々と明るくなってきていた。

「もう朝ね」

「ああ」

「悪かったわね、あたしにつき合わせちゃって。練習着とかは持っているの?」

「部室に行けば何か着るものくらいはあるよ。シューズも卒業した先輩が残していったのがたくさんあるし。ちょっと臭いけど」

「そう、なら大丈夫ね。臭いのは困るけど」あたしは安堵した。これ以上戸田君に迷惑はかけられない。「あたしお酒なんか飲んだのって初めてだったから、飲み方分からなくてあんなになっちゃったと思うの」

「俺もお酒飲んだの初めてだったよ」

「きっとあたし達酒臭いわ。先生に見つかったら不味いでしょう?」

「ああ、ハンドボール部顧問の松浦先生は厳しいから、お酒飲んだの見つかったら部を辞めさせられちゃうだろうな」

「入部早々、部をクビになるっていうこと?」

「そう」

「それじゃあ、インターハイへの夢もへったくれもないじゃないの!不味いわね。戸田君もお水たくさん飲んで、お酒の臭い消さなくちゃ駄目だわ」あたしはウエイトレスを呼んで水を2つ持ってきてもらった。

「さあ、飲みなさいよ」

「うん、ありがとう」

「オードトワレでも付ける?酒の臭い消しに?」

「オードトワレって何?」

「香水の一種よ」

「香水なんかつけたら、女の子と一緒にいたことがばれちゃうだろ。もっと不味いよ」

「どうなっちゃうの?」

「やっぱりクビになる」

「えっ!男女交際禁止なの?」

「そうだよ」あたしは目眩がした。あの手紙を書いたのが戸田君じゃないと分かって、あたしにも可能性が出てきたと思ったのに、ハンドボール部は男女交際禁止なんてむご過ぎる。

「内緒でつき合っちゃえばいいのよ」

「まあ実際、彼女のいる先輩もいるんだけどな」

「そう」あたしは安堵のため息を吐いた。そして一転し、優しい気持ちになった。「朝ご飯食べなきゃいけないでしょう?」

「うん、このファミレスで、朝食でも食べようか?」

「そうね」とあたしは返し、メニューを戸田君に渡した。

「俺は目玉焼きハンバーグセットを食べる」

「えっ!朝から?」

「食べないと、練習について行けないからな」

「あたしはトーストとサラダでいいわ」と言い、ウエイトレスを呼び、二人分の朝食を注文した。

「もうお腹は大丈夫なのか?」

「うん、大丈夫みたい。というかお腹が空いてきたわ」

「ははは、昨夜は大変だったんだから。本当に心配もしたし。全然女子トイレから出て来ないんだもん。誰もいないって分かっていたって、女子トイレに入るのは緊張したよ」

「大変申し訳ない」あたしが言った矢先、注文の朝ご飯が運ばれてきた。「ここのファミレスは随分と注文してから出て来る時間が速いのね。残り物でも出しているのかしら?」と訝しく思った。

しかしあたしは戸田君の食欲につられて、トースト2枚とハムエッグとサラダをあっという間に平らげてしまった。戸田君はハンバーグをモリモリ食べ、ご飯を二皿もお代わりした。

「戸田君たくさん食べるわね」

「お前こそ」

「今日はよく喋ったわね」

「中学の時も喋っていたろ」

「中学の時は、あたしが一方的に喋っていた感じだったじゃない。戸田君、相手にしてくれないんだもん」

「部活で疲れていたんだよ」

「6時半よ。そろそろ学校へ行く?」

「ああ、今日は色々と見つかっちゃ不味いものがあるから、早めに行くか。お前はここでゆっくり寝ていていいんだぞ」

「もう6時間以上、このファミレスにいるのよ。いい加減出たいわ」

「こんな朝早く学校行って、何すんだよ?」

「教室で寝ているわ」

「分かった、一緒に出よう。それよりお前、家に連絡しなくてもいいのか?」

「あっ、そうだ、忘れていた。ちょっとあの公衆電話で連絡してくる」あたしはファミレスの公衆電話で家に連絡を入れ、終電が間に合わなかったので、同じクラスの中浦香織さんの家に泊まらせてもらったと嘘を吐いた。お母さんにとても叱られた。お父さんも怒り心頭だったそうである。これは家に帰るのが怖い。

「うちの両親とても怒っているわ」

「大丈夫なの?」

「まあ、あたし一人娘だから、両親もなんやかんや言ってあたしに甘いし、帰ってちょっとは気不味いかもしれないけど、すぐ許してくれると思うわ」

「それならいいけど」

「話は変わるけど、戸田君って家帰ったら何しているの?」

「家帰ったら、飯食って風呂入って寝るだけ」

「戸田君って、中学の時から何時勉強しているのか、分からなかったわよね。なのに成績は何時も学年トップで。不思議だったわ。浦高だって行けたんでしょう?」

「まあね。でも浦高にはハンドボール部がないから」

「だから西高にしたの?」

「そうだよ」

「もったいない話ね。浦高だったらいい大学行けるじゃないの」

「西高だって、結構頭の良い高校じゃん。それに大学受験だって、気合いで受かって見せるさ。気合いだよ、気合い。何事もそれで乗り切れる」

「ハンドボール部で、試合にも出られない癖に?」

「それを言われると辛いな」

「戸田君は家に連絡入れなくてもいいの?」

「いいの、いいの。うちは放任主義だから」

「ふ~ん」

「さっ、そろそろ勘定済ませて出ようぜ」

「あっ、ここはあたしが払う。昨夜はすごく迷惑かけちゃったし、一晩中つき合わせちゃったし」

「女の子に払わせるのは、いい気持ちがしないよ。割り勘にしようぜ」

「いいの、ここはあたしが払う」

「いいのか?」

「もちろん」

「1800円になります」あたしはファミレスのレジでそう言われ、財布を探った。1500円しかなかった。奢ると言った手前、どうしようかと途方にくれた。

「なんだお金足りないのか?」

「ごめん!300円だけ貸して」

「それじゃあ、お前、すっからかんになっちゃうだろう。今日の昼飯とかどうするんだ?」

「香織ちゃんにでもお金を借りるわよ」

「友達の間でのお金の貸し借りは止めといた方がいいよ。ちょっとしたトラブルで友情が壊れるから」

「そうかなあ?」

「やはり割り勘にしておこう。すいません、900円ずつ払うので、お釣りくれますか?」

「はいお客様。了解いたしました」ウエイトレスが言った。

 あたし達はそれぞれの支払いを済ませ、ファミレスを後にした。午前6時45分だった。午前6時56分南浦和駅発の下りの京浜東北線に乗り、与野駅に着くと午前7時4分だった。まだ戸田君の朝練までは、1時間近くもあった。

「ねえ、気持ちいい朝ね。あたし朝から食べ過ぎちゃった。ちょっと遠回りして学校に行かない?景色の良い通りがあるのよ」大食漢のあたしはまだ空腹なのを隠し、戸田君を西高通りより少し左に逸れた道へ誘い込んだ。道は少し曲がりくねっているが、だいたい西高通りと並行して続いている。西高生言う所の所謂“アベック通り”である。

「ね、気分のいい道でしょう?あっ、あそこに神社がある。ちょっとお参りして行こうよ」

「何を?」

「戸田君がインターハイに出られますようにって」あたしは嘘を吐いた。本当は“あたし達がカップルになれますように”だった。あたしは戸田君とのファミレスでの会話ですっかり“復讐してやる”という誓いは忘れ、中学校時代のように戸田君をひたすら追いかける気持ちに変わっていたのである。

 何を祈るにせよ、あたし達はお参りをし、アベック通りを仲良く歩いた。結局西高に着くまで25分ぐらいかかった。あたしは少しの間だけだったけど幸せだった。昨夜から今朝までずっと戸田君と一緒にいられて嬉しかった。一緒にアベック通りを歩いている時は、腕組んじゃおうかしらと思ったぐらいだった。

「じゃあ、俺部室行くから」と言って、西高に着くと、戸田君はプール下の部室へ消えて行った。あたしは学校の正面玄関を2階に登って下駄箱に行き、上履きに履き替え、同じく2階にある1年6組の教室へ向かった。荷物を置いてからトイレへ行き、顔を良く洗い、髪を手櫛でとかし、服の乱れを整えた。そして教室に戻り、眠ろうかとも思ったが、戸田君がどんな練習をしているのか覗いてみたくなったので、屋上にあがった。

 戸田君達ハンドボール部員は、校舎の目の前の第一グラウンドのサッカーコートの左端に、ハンドボールコートの白線を引き、ハンドボールゴールを運び出し、コートを作ってシュート練習をしていた。戸田君は寝ていないのに元気いっぱいだった。でも戸田君はミスが多く、その度に顧問の松浦先生から「ちっ、だらしねえ」とか「お前なんか使えねえよ」とか「足切っちゃえ」とか罵声を浴びていた。戸田君はそれにもめげず、果敢にシュートを打ち込んでいた。でもあたしは戸田君がそんな風に罵声を浴びている姿に堪えられず、すぐに屋上を後にした。松浦め、戸田君に代わって、いつか仕返しをしてやるとその時心に誓いを立てた。


  ○


 教室に戻って自分の席に着き、うつらうつらしていると、香織ちゃんに目を覚まされた。

「おはよ、随分早いのね。それに昨夜と同じ格好じゃないのよ。どうしたの?」

「それがね、あれから・・・」あたしは昨夜のことの顛末を香織ちゃんに語って聞かせた。

「えっ!じゃあ戸田君と一晩中一緒だったの?」

「そうよ。それからね」そしてあの筆箱の手紙が戸田君の手によるものではないことを話した。

「ええ!なんということ?じゃあ薫の失恋話は嘘だったのね!これから可能性が出てきたじゃないのよ」

「そうなのよ。今朝なんかあたし、戸田君とアベック通りを歩いちゃった」

「ええ?急展開!」

「だけどうぶな戸田君はアベック通りの存在なんて知らないの。だからあたしちょっとずるしちゃった」

「でもいい記念になるわよ」

「記念で終わらせたくないの」

「そりゃそうよね」

「それでね、あたし香織ちゃんにお願いがあるの」

「なあに?何でも言って。わたし協力するわ」

「香織ちゃんには、やはりハンドボール部のマネージャーになって欲しいの。昨夜『マネージャーになっちゃおうかな?』なんて言っていたじゃない」

「どうして?」香織ちゃんは府に落ちないという顔をした。「わたしハンドボール部で何をしたらいいの?」

「戸田君の動向を探って、逐一あたしに報告して欲しいの。そして誰か他の女が戸田君に近づきそうになったら、邪魔をして欲しいの」

「つまりはわたしに工作員みたいなことをやれって言うの?」

「そう正に工作員よ。香織ちゃんも戸田君のことを結構気に入ったみたいだけど、亀井君ともいい感じだったじゃない?あたしの眼は誤魔化せないわよ」

「ははは」香織ちゃんは曖昧にはぐらかした。

「戸田君と亀井君といつも一緒にいられるのよ。戸田君はあたしのものにするつもりだけど。一挙両得じゃないのよ」

「まあそうだけど、だったら薫もハンドボール部のマネージャーになればいいじゃないのよ」

「それじゃ駄目なの。近過ぎちゃって、まわりが見えなくなっちゃうから。あたしには他にやることがあるの」あたしの頭の回転は急速に速くなり、たった数時間のうちに様々な策を練り始めていた。

「薫は何をするの?」

「あたしは生徒会に入るわ」昨日まで帰宅部でいるつもりだった筈が自分でも驚いたことに、自分に一番縁の無さそうな生徒会などに入ろうとしていた。それぐらいあたしは超音速で策略を立案し始めていたのだ。

「薫が何を考えているんだか、全然分からない」

「今度じっくり説明してあげるから、兎に角、今日の放課後体育教官室に行って、ハンドボール部顧問の松浦先生に『マネージャーをやりたいです』って言うのよ」

「う~む。確かにわたしこのままじゃ帰宅部だし、何かやること探していたから、取り敢えずはハンドボール部のマネージャーになってもいいわ。今一腑に落ちないけれども」


(つづく)

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